下田歌子賞2008年 最優秀賞
「おいしくて、おいしくて、胸がいっぱい」「こんどの金曜日は遠足だったな、お弁当はどうする?」プラモデルを作っていると父がドアを半開きにして私の部屋をのぞき込んだ。「のり巻きがいい」そう答えると、「そうか、、、」という声とともにドアが静かに閉まった。母が亡くなってから遠足や運動会のお弁当は父が買ってくるのり巻きだった。本当は皆と同じ手作りのお弁当を持っていきたかったが父を困らせたくなかった。友だちはみんなお母さんが腕を振るったお弁当を持って来る。色とりどりのお弁当の中で、私のお弁当だけがいつも真黒だった。それが恥ずかしくて私は誰よりも早く食べ終えてしまうのだった。遠足の朝、はだけた掛け布団をかけなおす気配に目を開くと父の顔があった。「そろそろ起きろ。弁当はリョックの中に入れておいたからな」父はそういうと会社に出かけていった。誰もいない台所に降りて行くと、キッチンテーブルの上に朝食が用意してある。冷たくなったおみそ汁とおにぎり。父が作ってくれるいつもの朝食だ。用心のために一人の時はなるべく火を使わないようにしていた。戸締まりを確認してから玄関に置いてあるリュックを背おって家を出ると目が痛くなるような秋晴れだった。木々に覆われたハイキングコースがどこまでも続いている。登り切ると一気に眺望が開け高原に出た。「それではここで昼食にします。あまり遠くに行かないように」先生の合図で皆いっせいに散らばる。私と友達は日差しをよけて、木陰に陣取った。友達はもうお弁当箱を取り出している。きれいなナプキンで包まれているお弁当がまぶしかった。さっさと食べてしまおう。リュックを開けて私はハッとした。折り詰めがない。頭の中が真っ白になった。友達が心配そうに見ている。父は入れ忘れたのだろうか。顔をつっ込んで中をまさぐっていると新聞紙に包まれた四角い物がこつんと手に当った。なんだろう。新聞紙を開けると懐かしいお弁当箱が出て来た。母が生きていた頃使っていたお弁当箱だった。ふたを開けて息をのんだ。それはすごいお弁当だった。なかなか手をつけることができずにしばらく眺めていると友だちがのぞき込んでオーと声をあげた。タコのように足を広げたウィンナー。チューリップの形に半切りされたゆで卵。まんまるの肉団子。お星さまの形をしたニンジン等々。いつもならさっさと食べ終えてしまうのだが、その日はひとつひとつ噛みしめるように味わった。こんなおいしいお弁当は何年ぶりだろう。空を見上げると白い雲がゆっくり流れている。ひょっとしてお母さんが、と思いすぐに打ち消した。それにしてもお父さんは誰に作ってもらったのだろう。いろいろ考えてみたがどうしても心当たりがない。それから家に帰るまでお弁当のことが頭から離れなかった。自分を待っている人がいるような気がして家まで駆け足で帰った。ドアを開けて「ただいま!」と言ってみる。私の声はしんとした部屋の中に吸い込まれていった。それでも急いで台所に行ってみる。いつもと変わらないがらんとした台所だった。しばらく冷たい床にぽつんと立っていた。冷蔵庫を開けると父の作った晩のおかずが置いてある。今夜も仕事で遅くなるのだろう。缶ジュースを取り出し流しのコップに手を伸ばすと食器棚の片隅に見慣れない本が立てかけてある。手に取ると付せんがいくつも付いていた。カラフルな表紙に大きな字で「楽しいお弁当」。そうだったのか、私が寝ている間に父が作ってくれたのか、、、、その夜、布団に入ってもなかなか寝つかれなかった。夜遅くなって玄関の開く音が聞こえた。チェーンロックをそっとかける。お父さんだ。忍び足が私の部屋の前を通り過ぎようとした。布団の中から「おかえり!」と叫ぶと「なんだ、まだ起きていたのか早く寝ろ」という声がドア越しに返ってきた。「お弁当おいしかったよ」少し間を置いて「そうか、、、」という声が遠ざかっていった。あれから五十年。秋晴れの空を見ると今も思い出すのです。木漏れ日の中できらきらしていたあのお弁当を。