「宝石のような一曲」

今月はまだ一件の注文も取れていない。
不機嫌な上司の顔が浮んだ。
金融商品のパンフでふくらんだカバンが重い。
もう辞めてしまおうか、、、

ぶらぶら歩いていると、
いつのまにか私が通っていた大学のそばまで来ていた。
マロニエの並木は色づき学生たちの姿はない。
冬休みか、、、。

あの喫茶店はまだやっているだろうか。
学生時代に皆で集まって何時間もばか話をした
あの小さな山小屋風の喫茶店。
並木の先を見ると木彫りの懐かしい看板が見えた。
おー、やってる。

扉を開けるとカラーンという音が
客のいない店内に響いた。
何も変わっていない。
「いらっしゃい」
あいかわらず仏頂面をしたマスターが
カウンターの中に座っていた。

一杯のコーヒーで何時間ねばっても嫌な顔をしないかわり、
毎日通ってもいい顔ひとつしない。
そんなマスターだった。
一度も話したことはないし多分私のことなど覚えていないだろう。

「お好きな席にどうぞ」
木目が浮き出ている古い木の床は
歩く度にみしみしと音を立てる。
いつも皆で陣取っていた一番奥の席につく。

学生たちに無数の落書きを彫り込まれたテーブル。
あのとき皆で彫り込んだものもどこかにあるかもしれない。
テーブルをなでるようにして見ていると、
マスターが注文を取りに来た。

「ご注文は」
「ホットを」
小さくうなずくとそのまま無言で立ち去った。
やっぱり覚えていてくれなかった、、、

そうだあの頃、壁にも何か彫り込んだはずだ。
体をよじって壁を見つめていると
マスターがコーヒーを運んで来た。
コーヒーの香りがあたりに漂った。

外を見るとひとりぼっちのマロニエの木が立っている。
そのときレコードに針を落とす音が聞こえた。
えっ、いまどきレコードかよ。
あやうく吹き出しそうになった。

しばらく盤面を走る針の音が聞こえ、
やがてユーミンの「卒業写真」が聞こえて来た。

それは昔、この店で僕たちがいつもリクエストした曲だった。
覚えていてくれたんだ。
私は少し泣きそうになった。


わたしのエッセイ受賞作