☆ワシの終活☆ -32ページ目

終活のブログ

ブログ18年目

途中、パソコンの故障や病症の発症などで、中断した期間は6年

アメブロに登録したのは17年前の2008年の3月

あるタレントの日記を読むために登録しただけで、自分がここに記事を書くなど微塵も思っていませんでした

そして、実際、記事を書き始めたのが、16年前の2009年1月

その前の1年間は、ペタを受けるだけでした(今はペタ機能はない)

当時、ペタは不規則ですがいつも一人の人から来てました

そのうち、そのペタが2人になり、3人になり、多くなっていったのです(今はペタ機能は無い)

しばらくブログのプロフィールは何もなく、記事なぞ何も無かったにもかかわらずです

その後、なんとなく書き始めた記事

ただ、他のブログ(楽天とauです。楽天だけちょっと)では、すでに2008年から記事は書いていました

ただ、そこのブログよりアメブロが面白そうだから、乗り換えたと言った方がいいでしょう

2016年の5月、PCが壊れ、途切れました

その後、PC修復後も再度破損し、ようやく、10月に新しいPCを購入したときは、ブログを書く気力がありませんでした

一度、放置された書き込みは、なかなか元に戻らない

見に行くことはあっても、コメントも残せない

そんなものだろうなあ

でも、個人の日記には記事を書いていました

それをアメブロに記載する気力が無かった…

病気もいろいろ発症していました

自分のブログの最後の記事への「いいね」はまだ続いていたようだ

ただし、人のブログは読んでいたので、こちらからの一方的な「いいね」(足跡)は残していた

ブログの訪問も、最近は、一日中から、午前中に限られている

一文のブログをぼちぼちやっていて、ようやく、去年(2024年)に本格的にブログを再開した

これは、被爆二世として一種の終活と言う名のブログだろう

推しキャラ(その1)黒影豹馬・ブラックジャガー 「風雲ライオン丸」<135>(妄想版)

黒影豹馬・ブラックジャガー(black jaguar)

「風雲ライオン丸(1973年)」

 

「風雲ライオン丸」<135>(妄想版)

 

「風雲ライオン丸」<134>(妄想版)の続き

 

 

「風雲ライオン丸」<136>(妄想版)へ続く

 

サンケイ新聞に連載された「風雲ライオン丸(後編)作:うしおそうじ、まんが:若林不二吾」のストーリーを題材にして、一峰大二の風雲ライオン丸の内容の漫画の画像を使って作ってみた

自分は漫画家でもイラストレーターでもないので、素人の切った張った程度

 

マントルの本拠地に乗り込んだ一行だったが、志乃が相手の罠にかかる

一難去ってまた一難

さあどうする

そこに勘助が現れるが……

しかし、ブラックジャガーは手首を切られても、元気なんだよなあ……。

 

(参考資料)

怪傑ライオン丸 第2巻 光ノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

推しキャラ(その1)黒影豹馬・ブラックジャガー 「風雲ライオン丸」<134>(妄想版)

黒影豹馬・ブラックジャガー(black jaguar)

「風雲ライオン丸(1973年)」

 

「風雲ライオン丸」<134>(妄想版)

 

「風雲ライオン丸」<133>(妄想版)の続き

 

「風雲ライオン丸」<135>(妄想版)へ続く

 

サンケイ新聞に連載された「風雲ライオン丸(後編)作:うしおそうじ、まんが:若林不二吾」のストーリーを題材にして、一峰大二の風雲ライオン丸の内容の漫画の画像を使って作ってみた

自分は漫画家でもイラストレーターでもないので、素人の切った張った程度

 

ブラックジャガーの手当てを志乃がして、手負いながらもライオン丸と三吉が六能陣車にのってマントル本拠地に乗り込む!

タイガージョージュニア、志乃の後にブラックジャガーが続いている(吹き出しの下に足を入れた)

しかし、手を斬られても生きていられるとはさすがブラックジャガーは不死身の獣人だ!

 

(参考資料)

怪傑ライオン丸 第2巻 光ノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

 

推しキャラ(その1)黒影豹馬・ブラックジャガー 「風雲ライオン丸」<133>(妄想版)

黒影豹馬・ブラックジャガー(black jaguar)

「風雲ライオン丸(1973年)」

 

「風雲ライオン丸」<133>(妄想版)

 

「風雲ライオン丸」<132>(妄想版)の続き

「風雲ライオン丸」<134>(妄想版)へ続く

 

サンケイ新聞に連載された「風雲ライオン丸(後編)作:うしおそうじ、まんが:若林不二吾」のストーリーを題材にして、一峰大二の風雲ライオン丸の内容の漫画の画像を使って作ってみた

自分は漫画家でもイラストレーターでもないので、素人の切った張った程度

 

ライオン丸とブラックジャガーのピンチを救ったのは、タイガージョージュニアでした?

いや、三吉のシトシト爆弾でした!

つまり、三吉が一番強い!!

アグダーまで倒してしまいました

このへんは、テレビ版の「風雲ライオン丸」の打ち切りが決まったからだろうか?話の展開が早い!!

もっと、いろいろな展開を見たかった

 

(参考資料)

怪傑ライオン丸 第2巻 光ノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

核兵器と作った人々

15年前(2010年)にNHKで放送された番組「核兵器と作った人々」を見て手記を残していましたので、その記事をもう一度

 

全世界に核兵器が存在すると言うことは、核兵器を作った製造工場そして労働者が存在し、今も働いている人がいるということです。

この番組は、1947年から核兵器の起爆装置(プルトニウムの固まり)を大量生産していたロッキーフラッツという会社の工場の解体作業について報道していました。

1947年から1974年の間稼働していたこの工場は、老朽化し、解体作業に入ったようなのですが、通常の建物の解体作業とはいかなかったようです。

当たり前でしょう、放射性物質があちこちにへばりついていたのですから…

そして、そこで働いていた人は、やっぱり、被曝してました

今では予想できることです。

現在も、白血病や癌が発症して苦しんでいるアメリカ人労働者がたくさんいるということです。(現在は、日本の被爆者と同じように、多数の方がお亡くなりになっているかもしれません。)

当然、工場が稼働中は国家機密であり、守秘義務のため、そんなことは話すこともできませんでした。

彼らは、会社が無くなった今、保険補償がなくなり、国に補償を請求しています。

(今も続いているのかどうかはわかりません。)

でも、国は、彼らが本当に働いていたかを、疑っているのです。

証拠を出そうにも、彼らが働いていた会社に彼らのデータは何もないからなのです。

(証拠隠滅でしょうか?)

そして、工場跡は、多くの放射性物質をそのままにして埋め立てられました。

その周りを立ち入り禁止にして…(狭い日本では考えられません)

核兵器を作れば作るほど、こんな場所が増えて行くのでしょう

(原発も同じような気がします)

そして、埋め立てただけと言うことは、時間が経てば放射性物質が洩れだして行くかもしれません

人間が生きて行けない不毛の場所がどんどん広がっていくのでしょうね

核兵器を作った、ロシア、中国、インド、フランス、イギリス、パキスタンも同じでしょう

核を持つと言うことは、このような弊害をもたらすのです

政治家・軍人は、核兵器をおもちゃのように考えていますが、被害に遭うのはいつも民間人です

核を持つなら、政治家や軍人が直接作り、直接自分で保管保持して下さい

 

この手記を今一度読み直し、それが原発についても同じ事が言えるのではないかと感じました

核と原発では、放射性物質の分量は違います

しかし、同じ放射性物質を扱っている以上、人間への影響はあるはずです

今後、福島第一原発の廃炉が困難の伴うのは予想もできます

さらに、耐用年数を過ぎた原発の廃炉も、福島第一原発までは行かずとも、やっぱり同じ苦労があることが予想できると思います

もうこれ以上、原発を、日本はもちろんのこと世界に作らないでほしい

もちろん、核兵器も…

 

2010年のあるアンケート

「日本の核武装 「議論だけでも行うべき」が96%(毎日新聞より、2010年12月)」

「日本は核武装すべきか」については「賛成」が85%。「公の場で議論だけでも行うべきか」については96%が「そう思う」と答えました

また、「有事の際にアメリカは日本を守るか」との問いには、78%が「そう思わない」と回答したようです

これも現実です

今、同じアンケートを行った場合、どのような結果がでるでしょうか?

台湾有事、ロシアの北海道への侵略

まったく、可能性が無いとは言えない

その時、日本はどうする?アメリカはどのように動く?

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

戦争のにおい

8年前(2017年)の記事をもう一度

「沖縄戦、壕のにおい再現 汗や血…体験者の証言もとに 「悲惨さ、より確かに伝える」(朝日新聞デジタルより、2014年12月)」

沖縄戦で数多くの負傷者がかつぎこまれ、「ひめゆり学徒」たちも看護にあたった沖縄県南風原(はえばる)町の丘陵に掘られた壕(ごう)内の病院の「におい」が再現されたそうです

汗や血、汚物などが混ざった強烈な「におい」だそうです

壕を管理する同町立南風原文化センターが「戦争の悲惨さを、より確かに伝えたい」と、当時、壕にいた人たちの証言をもとにつくったそうです

2015年から壕の見学者にかいでもらっているようですが、どうでしょうか?

(現在、どのようになっているか、わかりません)

戦争を語り継ぐ

これは容易なことではありません

語り部は高齢になり、その継承も難しくなってきています

戦争の写真、遺品、遺跡など、目で見えるものはあっても、そこから想像できるものは限られています

今回、つくられた「戦争のにおい」は、そんな戦争の証拠品などと一緒に体験することによって、強烈な印象が付けられると思います

戦争に香ばしいにおいなどあるわけではありません

死臭が漂うのが戦争

たぶん吐き気を催すのが普通ではないかと思います

だからこそ、そんな状態にしてはならないと肝に銘ずるために、そのにおいを経験することも必要ではないでしょうか?

沖縄県南城市で暮らす戦争経験者は、1945年4月ごろ、米軍の攻撃を避けるため、姉や妹らと病院壕に逃げ込んだそうです

入り口近くにたたずんだ彼等の耳に、暗い壕の奥から負傷兵の声にもならない声が聞こえたそうです

しかし、何より強烈に記憶に残っているのが、においだったそうです

「ブタやネコの死体が腐ったようなにおいに、いろいろ混ざった感じ」

彼等は、病院壕の見学者に、現在の病院と病院壕内の病院を比較してもらいたいと考えたそうです

明るく、広く、清潔な今の病院

しかし、当時の壕内の病院は暗く、不衛生で、悪臭がこもっていたそうです

「なぜ、悪臭がするのか。それは戦争のため。病院もこのようになってしまうということを理解してもらいたい」

原爆投下当時の広島・長崎のにおいはどうだったのでしょうか?

東京大空襲の時の燃えさかる町のにおいはどうだったのでしょうか?

そんなにおいも戦争知らない世代が今こそ知らねばならないかもしれません

まさに、現在、ウクライナやガザ地区で、戦争のにおいが発生していることだと思います

Youtubeなどで画像が世界に配信されていても、においは届きません

画像とともに、においが届けられたら、人々はどう思うでしょうか?

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

原爆孤児たちの訴え(6)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市舟入高等学校一年生 K・K

学校にいき始める喜びに、始めてランドセルを背負って叔母と一緒に学校の門をくぐった昭和二十年四月

当時戦争の激しい恐怖に被われていた、ぼくたち叔母、兄姉四人は広島郊外の可部町の親戚に疎開していた

(中略)

ぼくたち兄姉一生忘れることのできない八月六日

その朝丁度学校で朝会を行っていた

するとどうでしょう

眼を開くこともできないほどまぶしい光が輝いたと同時に大爆音もろとも、はるか山の向こうから真黒い雲がもくもくと立ち昇りはじめたではありませんか

その雲はみるみるうちに空一面を被ってしまいました

ぼくはなにがなんだか全然検討がつきませんでした

無我夢中で家に走り帰りました

夕方頃から種々な人々が続々と負傷して帰ってくるではありませんか

世にも恐ろしい原子爆弾が投下されたのでありました

ぼくは瞬間的に広島に居残っていられる父母弟妹のことが気掛かりました

兄は二日目に親戚の人たちと一緒に広島に急行されました

兄が左官町に在った家の場所にいかれますとどうでしょう、家は無くなり、母、弟、妹は並んだまま白骨となっていました

三日目の朝、父がぼくたちのいる可部町の家に帰ってこられましたが、その日の夕方には、もうむなしく亡くなられてしまいました

父は身体全体が火傷で被われて、所々に大きく負傷までしておられ、ほんとうに元の父とは思えないほどの状態だったのです

一家楽しく愉快に暮らした元の家庭も父母弟妹四人を失いぼくたち兄姉は呆然自失してしまいました

その後ぼくは兄姉と別れて瀬戸内の島の祖父の家で暮らすことになりました

(中略)

ぼくもいまは高校一年生です

いままでのことを振り返ってみると、原爆が投下されて早や九年の歳月が夢のように流れていきました

あの、恐るべき原子爆弾が、世にも恐ろしい戦争に使用されたことについて、ぼくたちは真剣に考えるべき多くの問題をもっています

罪のない多くの人々を死なしたあの恐るべき原子爆弾、ましてや原爆以上の威力をもった水素爆弾などは、一日も早く地球上からなくしてしまわなくてはいけません

それなのに、世界の文明国とほこる大国の間には、水爆を作る競争をし、すでにどしどし実験だといって爆発をさせ世界の人々を苦しめています

またしてもこんなものが戦争に使われるようになったら、九年前のあの悲惨、いや今度はそれ以上の想像も及ばぬ悲劇をおこることは目前にみえています

われわれ青少年は原爆、水爆の使用について絶対に無関心でいるわけにはいきません

われわれ広島の市民が中心となり、原爆、水爆使用禁止の声を、全世界の人々に訴えなければなりません

昭和二十九年九月十五日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

原爆孤児たちの訴え(5)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 M・K

原爆の落とされる前、僕等一家五人は幸福な日々を送っていました

父は警察教習所の教官をし、母はいつも僕等兄弟三人のヘリにいて、良くめんどうをみてくれていました

あの恐ろしい原爆の落とされる前の年、僕等一家とおじさんおばさん等と安佐郡の祇園町に疎開しました

父は警察の方で一人が水主町にのこっていました

(中略)

母はあの八月六日、父にいわれて、父の妹にあたる一枝おばさんと水主町へ出て行きました

水主町へ行く途中、寺町の辺で原爆にあって帰ってきました

一枝おばさんは体中大やけどをしておられるのに、おかあさんは頬の辺に少しやけどをしておられるだけで元気でした

一枝おばさんは八月二十九日とうとう死なれました

母はその葬式もすませ、元気でしたが、二、三日した頃から体中に斑点が出たといって、あまり元気がありませんでした

頭の髪も抜け、熱が四十度以上もあり、井戸水で頭を冷やした程です

父もとうとう帰ってきませんでした

父母が死んだ後僕等は今年の6月まで祖母と暮らしていましたが、祖母もとうとう今年の6月死んでしまいました

生前祖母はよく夜人の足音を聞くと「お父ちゃんが帰ったのではないか」といっていました

原爆のためにどれだけの人が苦しんでいるのか、「あの原爆さえなかったら」とゆう人が、何百人いることでしょう

原爆のため、あれだけの人を犠牲にしたのにもこりず世界の有力国は原爆より恐ろしい水爆を作る競争をしているようです

そのため、何の罪もない久保山さんまで水爆実験の犠牲にして了ったではありませんか

武力によらないと世界に平和は呼び求められないでしょうか

僕はその反対だと思います

もう少し世界の国々が信頼しあったら武力等必要なく、世界には平和が訪れることと思います

ぼくらの時代になっても世界の人々は武力で戦っているでしょうか

否、どうしても、ぼくらの時代には、平和な世界を、ぼくらの手でつくらねばいけません

少しも早く、武力を必要としない平和な世界がくることを、みんなまちのぞんでいるのですから

昭和二十九年九月二十四日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

おみくじ

奇想天外な経験ができる

 

 

奇想天外な体験ができるとはどういうことだろう?

目の前にある本ってなんだろう?

本は無いけど

後ろにあるのは「ニュートン別冊病気がわかる健康診断の読み取り方」と「防ぐ、治す 胆のう・胆管の病気」だけど

今年は、災害と戦争が無いことを祈るだけ

でも、備えは絶対必要

災害と戦争が絶対はないとは言えない!!

 

 

 

 

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原爆孤児たちの訴え(4)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 T・M

今から九年前、私がまだ七歳の時のこと、思えば一瞬の物語だったあの時が、どうしても私の頭からは、いや身体から逃れてはくれない

「忘れよう忘れよう」といく度か心で誓い、二度とあんなこののないようにと祈りつつ…

でも忘れかけた時にはまた思い出し、あの時のことが瞼に浮かぶ、恐ろしかったあの時ばかりを…

あのために、原爆のために、母を失い、また、多くの人達が犠牲になり、何のために誰のためにそんな悲しい運命にならねばならぬのかと泣いても泣ききれない、このくやしさ情けなさ!

「おかあさんおかあさん」といくど呼べども帰ってこないおかあさんはもうあの世の人となってしまったのだ

おかあさんが死んだのなら私もおかあさんと一緒にあの世へ行けばよかったと思うことも少なくなかった

でも、私は母の顔すらはっきりは知らない

まだ私が幼かったため、父の顔も私は全然知らない

父は戦死 母は原爆で

戦争さえなかったならば…

今は両親とともに、いくら貧しくても幸福に暮らせているのに

原爆のために、死んだ多くの人達も可愛そうで、こうしてペンを走らす時も眼には涙が浮かぶ

でも過ぎ去ったことはもう仕方のないことだ、だからこれからの日本を、いや、世界を、改めなければならないのだ

広島の人は、原爆に遇っても、とても無関心な人が多い

そんなことではいけない

今問題となっている原水爆も早く、一刻も早く、何とかしてもらいたい

世界を平和にするために

いつになったら仲の良い平和な世界が来るのか

早く平和な世界の来るようにと私は祈る

昭和二十九年九月二十五日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?