☆ワシの終活☆ -31ページ目

原爆孤児たちの訴え(5)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 M・K

原爆の落とされる前、僕等一家五人は幸福な日々を送っていました

父は警察教習所の教官をし、母はいつも僕等兄弟三人のヘリにいて、良くめんどうをみてくれていました

あの恐ろしい原爆の落とされる前の年、僕等一家とおじさんおばさん等と安佐郡の祇園町に疎開しました

父は警察の方で一人が水主町にのこっていました

(中略)

母はあの八月六日、父にいわれて、父の妹にあたる一枝おばさんと水主町へ出て行きました

水主町へ行く途中、寺町の辺で原爆にあって帰ってきました

一枝おばさんは体中大やけどをしておられるのに、おかあさんは頬の辺に少しやけどをしておられるだけで元気でした

一枝おばさんは八月二十九日とうとう死なれました

母はその葬式もすませ、元気でしたが、二、三日した頃から体中に斑点が出たといって、あまり元気がありませんでした

頭の髪も抜け、熱が四十度以上もあり、井戸水で頭を冷やした程です

父もとうとう帰ってきませんでした

父母が死んだ後僕等は今年の6月まで祖母と暮らしていましたが、祖母もとうとう今年の6月死んでしまいました

生前祖母はよく夜人の足音を聞くと「お父ちゃんが帰ったのではないか」といっていました

原爆のためにどれだけの人が苦しんでいるのか、「あの原爆さえなかったら」とゆう人が、何百人いることでしょう

原爆のため、あれだけの人を犠牲にしたのにもこりず世界の有力国は原爆より恐ろしい水爆を作る競争をしているようです

そのため、何の罪もない久保山さんまで水爆実験の犠牲にして了ったではありませんか

武力によらないと世界に平和は呼び求められないでしょうか

僕はその反対だと思います

もう少し世界の国々が信頼しあったら武力等必要なく、世界には平和が訪れることと思います

ぼくらの時代になっても世界の人々は武力で戦っているでしょうか

否、どうしても、ぼくらの時代には、平和な世界を、ぼくらの手でつくらねばいけません

少しも早く、武力を必要としない平和な世界がくることを、みんなまちのぞんでいるのですから

昭和二十九年九月二十四日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

おみくじ

奇想天外な経験ができる

 

 

奇想天外な体験ができるとはどういうことだろう?

目の前にある本ってなんだろう?

本は無いけど

後ろにあるのは「ニュートン別冊病気がわかる健康診断の読み取り方」と「防ぐ、治す 胆のう・胆管の病気」だけど

今年は、災害と戦争が無いことを祈るだけ

でも、備えは絶対必要

災害と戦争が絶対はないとは言えない!!

 

 

 

 

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原爆孤児たちの訴え(4)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 T・M

今から九年前、私がまだ七歳の時のこと、思えば一瞬の物語だったあの時が、どうしても私の頭からは、いや身体から逃れてはくれない

「忘れよう忘れよう」といく度か心で誓い、二度とあんなこののないようにと祈りつつ…

でも忘れかけた時にはまた思い出し、あの時のことが瞼に浮かぶ、恐ろしかったあの時ばかりを…

あのために、原爆のために、母を失い、また、多くの人達が犠牲になり、何のために誰のためにそんな悲しい運命にならねばならぬのかと泣いても泣ききれない、このくやしさ情けなさ!

「おかあさんおかあさん」といくど呼べども帰ってこないおかあさんはもうあの世の人となってしまったのだ

おかあさんが死んだのなら私もおかあさんと一緒にあの世へ行けばよかったと思うことも少なくなかった

でも、私は母の顔すらはっきりは知らない

まだ私が幼かったため、父の顔も私は全然知らない

父は戦死 母は原爆で

戦争さえなかったならば…

今は両親とともに、いくら貧しくても幸福に暮らせているのに

原爆のために、死んだ多くの人達も可愛そうで、こうしてペンを走らす時も眼には涙が浮かぶ

でも過ぎ去ったことはもう仕方のないことだ、だからこれからの日本を、いや、世界を、改めなければならないのだ

広島の人は、原爆に遇っても、とても無関心な人が多い

そんなことではいけない

今問題となっている原水爆も早く、一刻も早く、何とかしてもらいたい

世界を平和にするために

いつになったら仲の良い平和な世界が来るのか

早く平和な世界の来るようにと私は祈る

昭和二十九年九月二十五日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

原爆孤児たちの訴え(3)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市段原中学校 T・I

八月六日はちょうど天気の良い日でした

その頃は私はなんの病気かわからない病気で寝ていました

その日おばあちゃんはガラス工場に働きにいっておられました

おかあちゃんは私にくすりをのませて家の前の庭を掃除しておられました

そして近所の人達は空が変だとか飛行機がよくとおるとか色々なことをあちこちで話しておられるのが寝ている私にもよくわかりました

ちょうどその時、おかあさんは空をみられたのでしょうか

「ああ」といって家に入られた時、四畳においてあったタンスが六畳の私が寝ているかやの上にあるではないか、私は丁度かやを吊ってねていたのでタンスがかやの上にかぶさってけが一つしなかったのだが、もしかやが無かったら死んでいたか、大けがをしていたでしょう

おかあさんはタンスの上にあがってきて私をおこして下さった

その時私は母の手をみると、母のひじのところは黒いような赤いような血が流れていました

私は余りの恐ろしさに泣きだしてしまいました

私はその時七歳でした

それから一年余り、母はいろいろな病気がもとでこの世を去っていきました

その日は四月一日でした

四月一日は私が小学校一年に入学する日でした

母も私の入学姿がみたかったでしょうのに

私はおばあちゃんに手をつないでもらって学校の門をくぐりました

そのときのさびしさ悲しさ

よその人はおとうさん、おかあさんに手をつないでもらって楽しそうに門をくぐって行くのに私は暗い悲しい気持ちで手をひかれながら…

今でもあの時の鏡やかやが残っています

蚊帳にはあの時に色々なものやガラスが突き刺さって、沢山ついてあります

鏡は上のはしが手鏡ぐらいの大きさしか残っていません

私はいつもそれを見て髪をすいています

鏡台のうしろの木の所に直径三センチメートルぐらいの穴があいています

丁度そこから何かがつきささって鏡が割れたのでしょう

近所の人達は、私が中学校卒業したらこれに鏡を入れなさいといって下さいます

「あの時の恐ろしさはもう二度と来ないように世界に伝えて下さい。」

「人類の幸福のためです」

昭和二十九年九月二十六日、日曜日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(2)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市楠那小学校 M・M

ぼくが三つの時げんばくが広島におちました

その時おかあちゃんはきんろうほうしにいっていました

おとうちゃんは会社にいっていました

おかあちゃんは、げんばくのため亡くなりました

それから間もなく、おとうちゃんも亡くなりました

でもぼくは小さかったのでかすかにしか覚えていません

何でもおかあちゃんがきんろうほうしにいく時に、ぼくはついていくといったので、福屋にいって服を買ってきてやるといって、ぼくはまたされたのでした

おかあちゃんが死んでも、まだ帰らんとおかあちゃんのことをいって待っていたそうです

(中略)

ぼくたちの大きくなったのはおとうちゃんやおかあちゃんがかげからまもっていて下さるからだとおばさんがよくいいました

ぼくは戦争が大きらいです

いつまでも平和な国であるように」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(1)

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「一面焼け野が原と化し、死体があちこちに転がっていた広島の街が9年間ですっかり都会らしく復興しました

箱庭のような美しい街を空からみていると何だかウソのような気がします

でも両親に抱かれて一家五人が楽しく暮らしていた水主町の家はあのあたりだとわかるだけで、そのあとにはだれか知らない人が住んでいます

平和広場の慰霊祭に集まった数千人の人がまるでアリのようです

みんな僕のように親、兄弟をなくした人ばかりでしょう

平和を願う声が機上まで聞こえてくるようです       

警察学校の建物の下敷きになって焼け死に遺骨さえわからなかったおとうさん、疎開先からおとうさんに会いに行って寺町の路上でやけどを負い一ヶ月後に頭の髪が抜けて苦しがって死んでいったかわいそうなおかあさんを思い出し「おかあちゃん」と思わず叫んで涙ぐんでしまいました

空からみた原爆ドームはガイ骨のようなみにくい姿をさらけ出していました

原爆を落とした米国の飛行士は一瞬にして美しい建物が原爆ドームのように変わり果てた広島の姿をどういう気持ちでながめたことでしょう

広島城も跡形もなくいまは青々とした草にいろどられています

地上の争いことなど天上からみたらほんのささなことで、もっと大きく世界をみつめ、希望をもちましょう

でも世界はまだ平和のためにまとまらないでいます

悲しいことです

これからは広島の子供たちが中心になって世界を平和にするよう努力したいと誓いました

(国泰寺中学K君手記)」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

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核兵器廃絶の訴え

去年(2024年)、被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会にノーベル平和賞が授賞されました。

被爆二世の自分としても、年の初めにもう一度、授賞式で日本被団協の代表委員である田中熙巳さんの演説全文を読み返したいと思います

 

代表委員 田中熙巳さんの演説全文

国王ならびに王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいま紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人であります、田中熙巳でございます。

本日は受賞者「日本被団協」を代表してごあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。

生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。

一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗(あらが)い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動であります。

二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動であります。

 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。

しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。

 

 私は長崎原爆の被爆者の一人であります。

13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅において被爆しました。

1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。

その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。

目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。

その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。

しかし、ガラスが一枚も割れていなかったのはこれは私の奇跡というほかありません。

ほぼ無傷で助かりました。

 

長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の安否を尋ねるために訪れた時です。

わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。

3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。

煉瓦造りの東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されておりました。

私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでありました。

一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。

もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。

祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。

伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘にふしました。

ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなったそうです。

 

一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。

その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。

誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。

たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。

 

長崎原爆は上空600メートルで爆発し、放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。

多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。

残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

 

その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。

原爆によって被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。

 

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。

さらに日本政府からも見放されました。

被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。

 

1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」を被ばく、大きな事件になりました。

中でも第五福竜丸の乗組員23人が全員被ばくし、急性放射能症を発症し、捕獲したマグロはすべて投棄されることになりました。

 

この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が日本に始まりました。

世界でも始まりました。

燎原の火(りょうげんのひ)のように日本中に広がったのです。

3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年、第2回世界大会が長崎で開かれました。

この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されたのであります。

結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明したのであります。

「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのであります。

 

運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。

しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。

さらにもうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。

1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。

これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。

しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。

 

1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。

この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたるすべての被害を加えるというものでありました。

命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。

この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。

自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くいたしました。

 

1994年12月、この2つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。

しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。

もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。

 

これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適用されていませんでしたが、日本で被爆し、母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、このほかに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみ、それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は共同し、裁判など活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになってまいりました。

 

私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。

1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。

原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。

このころ、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。

これら集会での証言に日本被団協に対する依頼が続いたのであります。

 

1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展いたしました。

 

2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出いたしました。

その結果でもありますが、2017年7月7日に122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。これは私たちにとって大変大きな喜びでありました。

 

さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。

想像してみてください。

直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。

広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。

みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。

ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります。

 

原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。

10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。

これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。

 

一つ大きな参考になるものがあります。

それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきました、NPO法人の「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在であります。

この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してまいりました。

これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待いたします。

私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。

国内にとどまらず国際的な活動が大きく展開してくださることを強く願っています。

 

世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。

とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。

 

人類が核兵器で自滅することのないように!!

そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

ありがとうございました。

 

ストックホルム、2024年(ニュースより抜粋)

推しキャラ(その1)黒影豹馬・ブラックジャガー 「風雲ライオン丸」<132>(妄想版)

黒影豹馬・ブラックジャガー(black jaguar)

「風雲ライオン丸(1973年)」

 

「風雲ライオン丸」<132>(妄想版)

 

「風雲ライオン丸」<131>(妄想版)の続き

「風雲ライオン丸」<133>(妄想版)へ続く

 

サンケイ新聞に連載された「風雲ライオン丸(後編)作:うしおそうじ、まんが:若林不二吾」のストーリーを題材にして、一峰大二の風雲ライオン丸の内容の漫画の画像を使って作ってみた

自分は漫画家でもイラストレーターでもないので、素人の切った張った程度

 

ライオン丸とブラックジャガーの絶体絶命のピンチを救ったのは誰だ???

 

(参考資料)

怪傑ライオン丸 第2巻 光ノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

 

推しキャラ(その1)黒影豹馬・ブラックジャガー 「風雲ライオン丸」<131>(妄想版)

黒影豹馬・ブラックジャガー(black jaguar)

「風雲ライオン丸(1973年)」

 

「風雲ライオン丸」<131>(妄想版)

 

「風雲ライオン丸」<130>(妄想版)の続き

 

「風雲ライオン丸」<132>(妄想版)へ続く

 

サンケイ新聞に連載された「風雲ライオン丸(後編)作:うしおそうじ、まんが:若林不二吾」のストーリーを題材にして、一峰大二の風雲ライオン丸の内容の漫画の画像を使って作ってみた

自分は漫画家でもイラストレーターでもないので、素人の切った張った程度

 

そこで、ライオン丸に変わって、ブラックジャガーがゾリラに応戦!!

しかし、ブラックジャガーも、怪力ゾリラの前では、返り討ちにあってしまう

ライオン丸でもブラックジャガーでもダメなのか……

 

(参考資料)

怪傑ライオン丸 第2巻 光ノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画

風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画