歴史学者ではなく国文学者あることの誤魔化しは地域史を滅ぼす。小千谷市の国文学者によって失われた地域史を見直し、取り戻す責務が行政幹部職員・教育委員会にはある。
市政は物語を歴史として子供たちに語る
物語を歴史として地域住民に拡散する市政
冷静に見直す国文学者目崎徳衛の姿】

2018年10月、『近代小学校の設立と小千谷小学校』と題してブログを掲載した。小千谷小学校の史料の根拠に基づかない主観による「歴史学風」な記述を根拠とする教育のあり方について疑問を投げかけた。

小千谷小学校では、2017年(平成29年)、10月1日に創立150周年を向えるにあたり記念事業が行われた。この事業では、『小千谷小学校のあゆみ』を改訂することも含まれている。しかし、小千谷小学校史を学術的に見直し、調査した痕跡はみられず、主観的歴史観の記述が一人歩きしている。また、記念事業における記述には、「日本で最初の」「日本一」という言葉が随所に掲載され、事業に関わった者たちの知識不足・勉強不足や学問から逸脱し物語・伝説が歴史であると認識する概念が見える。歴史学の専門家ではない保護者や関係者にどう歴史学を捉えるかの指導が大塚市長以下市幹部職員・教育委員会は地域住民に示せなかった。そして実行委員会の組織には、良識ある人材が欠落していたと捉えられる。
偽りの日本一に意味はあるのか、
150年の歴史に影を落す論考の意味は?
創学の心は歴史学的に研究されていない。
創学の心をなぜ語れるのか?
以下リンクの「小千谷市立小千谷小学校ホームページ」には歴史風物語の記述と記念事業の記録が掲載されている。当時の米山知事祝辞には「日本最初の」発言がある…子供たちにその真意は判断できないが、知事の言葉を信用するのが一般的である。知事の立場として歴史認識の勉強不足による無責任な発言も深刻である。

150周年記念事業を負の遺産に位置付け本来の姿を子供たちにそして間違って教えられてきた地域住民に伝えることが望まれる。

【国文学者目崎徳衛の存在とは?】

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以下小千谷小学校のホームページより

小千谷小学校の歴史

 日本で最初の公立小学校


 江戸時代が終わり明治元年,日本の国は,二つの考えに分かれて戦いをしていました。一つは,265年間続いてきた江戸幕府を中心とした政治をやる方が良いという考えでした。もう一つは,天皇を中心とした新しい政治をやった方が良いという考えでした。この戦いを戊辰(ぼしん)戦争といいました。

 小千谷でも,新政府と会津軍,長岡軍との間に,はげしい戦いが,一ヶ月も続いたのです。長岡藩の家老,河井継之助は,新政府軍の大将,岩村精一郎と話し合いをし,戦いを避(さ)けようと考え,寺町の慈眼寺で会いました。しかし,この話し合いは,失敗に終わり,戦いになりました。小千谷の町は,火で焼かれることはありませんでしたが,約一ヶ月の間,新政府の宿に使われたり,食べものを用意させられたり,人夫(にんぷ)として武器(ぶき)を運ばされたり,傷(きず)ついた兵隊(へいたい)の手あてをさせられたりしました。

 こうした不安と苦しみの中で,新しい日本に役立つ人間を育てるには,だれもが入れる公(おおやけ)の学校をつくって教育することだと叫んだ人が山本比呂伎(やまもとひろき)でした。明治5年(1872)に,全国に学校をつくろうというきまりが出た5年前のことでした。


山本比呂伎(やまもとひろき)


小千谷小学校編「谷小百年のあゆみ」より

 「小千谷小学校が,公立学校として,日本一古い歴史を持つ学校であることは,諸調査より厳然たる事実である。それは,まさに光栄ある歴史である。世界最高の就学率を誇る日本の小学校教育の出発点は,わが小千谷市にあったのだ。しかし,歴史は,その古さを喜ぶだけでいいというものではない。そういう古い歴史に対して,はずかしくない未来をつくることは,現在生きているものの責任である。美しい自然と温かい人に恵まれた小千谷の人々は,必ずやこの期待に応えてくれるに違いない」
昭和42年10月

 文部省教科書調査官 目崎 徳衛氏


ホームページ内小千谷小学校のあゆみより

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以上は小千谷市、小千谷小学校、記念事業実行委員会の三者が「日本一古い公立小学校」とする唯一の根拠として見える。

【自称歴史学者の専門は日本文化史】

目崎文部省教科書調査官の専門は日本文化史そして平安文学であった。小千谷市政は、なぜ、歴史学者ではない目崎氏に拘るのかの謎に対し、理論的に根拠を示していない。
小千谷小学校は、学問的裏付けとして採用するなら目崎氏の主観的感想文でなく根拠がある論が必要である。「目崎徳衛の言葉が学問的根拠」となる学術的な理論は存在しない。小千谷小学校の歴史に携わってきた歴代の学校長他責任ある立場の職員、市長・市の幹部職員、教育委員会が歴史に目を背けていたと解すことができる。

かつて目崎徳衛氏は、『小千谷文化』において、俵山喜秋氏の問いかけに次の様に答えている。
「俵山喜秋氏に答える 目崎徳衛」
"市史は不動のものではない。おかすべからざる権威でもない。それは出発点である。たたき台である。"
(『小千谷文化』第64号 昭和五十年六月、『小千谷文化』第194・195合冊 平成二一年三月)
目崎氏自身が『小千谷市史』は不完全で有ることを述べている。それだけでなく「たたき台」であることは学問として未熟であることを認めている。
小千谷小学校の創学の歴史における創始者とされる「山本比呂伎」の位置付けや実務、言動においても歴史学的根拠を基に記述されているのか再調査が必要である。小千谷小学校、小千谷市政の安易な引用も学術的根拠が無いことを市の幹部職員は理解し周知させる責任がある。

『紀貫之』目崎徳衛~昭和36年
経歴は国文学者。平安文化史(古代日本文化史)専門。
"自称「歴史学者」"はここから始まった。

『貴族社会と古典文化』目崎徳衛
この雑纂にもし小さな存在意義を記すことを許されるなら、それは現在の学界ではほとんど見捨てられている不辛な諾史料を活用しようと、一貫して試みたことであろうか。時の権力者による隠蔽や曲筆を含む六国史・『吾妻鏡」などの典籍、国文学の領域に属するとして天から除外されている勅撰・私撰の歌集群、虚構・捏造を疑われる物語・説話・系図の類を、私は年来好んで利用した。極度に史料の乏しい時代の社会・文化を扱うには、こうした代物をも史料批判によって生かすことが必要かつ有益ではないかという方法意識による。(あとがきの一部より)
歴史学そして歴史地理学が解せない目崎徳衛氏の論を示す主観的意見であり、学問的に国文学・歴史学・民俗学などの多分野で感情・主観論は別として理論的に認められる論であるかは疑問である。歴史学者として通用しなかった意味、そして国文学者でしか認められなかった意味と誤魔化しが、このあとがきに集約されていると解すことが正常な論である。
目崎徳衛氏は史料批判に集約するが、言葉を知っているだけで行う術を知らない。それは自身が小千谷市において行ってきた足跡を根拠に示させる論考であり、晩年も小千谷の地域史を見直さなかった見直せなかった事実と、小千谷市行政幹部が未だに目崎徳衛氏が見直せなかった時代遅れの『小千谷市史』や『小千谷小学校史』でしか地域住民に地域史を示せない力量不足にも繋がっている。今もなお亡霊となって小千谷市長以下の行政幹部職員に意識づいているのは正常ではない。

小千谷市図書館は現在国文学者目崎徳衛としているがこの認識に変えたのは最近のことである。
小千谷市は目崎徳衛氏を歴史学者と勝手にした。そしてその間違いに気付かず理解もしていなかった。平成21年5月には「ふるさとに輝く小千谷の先人展」で"目崎徳衛 歴史学者・俳人"として取り上げる。担当部署社会教育課が気付かないのは異常である。この時の幹部職員は市民に広めたのだから責任がある。

自称「歴史学者」のはじまりと根拠
『紀貫之』目崎徳衛 はしがき より




「百五十周年記念誌」は負の遺産として
ふるさとの小学校史を見直す必要が有る
小千谷小学校 記念事業報告書より

自身が解せず論じた「偽りの歴史学論」を「歴史地理学風論」として誤魔化した根拠の記述
目崎徳衛著 『貴族社会と古典文化』あとがき より