堀直竒は、上杉景勝の会津移封と越後一揆によって荒廃した魚沼の村落を立て直すため、他村からの移住を奨励し、肝煎差配のもと、荒れ地の開拓など旧村復興と新田開発を進めた。慶長期に堀直竒の魚沼支配に見られたこの政策は、それ以後も引き継がれ、近世初期の魚沼郡村々における開発に繋げられた


江戸時代初頭の村では草分けと呼ばれる家が他村からの移住家であった例は少なくない。近世初頭に塩沢の大肝煎となった井口(井ノ口)氏は、他村からの流入であることを家柄として伝えている。佐渡鉱山で培った技術は堀直竒の目にとまり、三国街道の開削から新田開発まで農村立て直し政策に活躍した家である。
また、ある古文書では、土豪として井ノ口氏が塩沢に中世から土着していたとも伝える。他村から流入を取り立てることは、もともと居住していた者達の反発を招くため、堀直竒は、在地の有力者を取り立てたとも言われる。

現在の小千谷市域では、他村からの移住によって村の草分けと呼ばれる肝煎になったと伝える家が多い。名家、武士の末裔が流れついた由緒を伝える家が多いが、実際は、農民や商人が移住して荒廃した村落を立て直す。または、請地を得て新田開発した例が少なくない。

〔改訂『小千谷市史』〕
小千谷村の中町氏は、近世初頭に肝煎となったが、分家により他村から流入したもので、商いが活発であった。草分けではなく財力によって村役となったものと思われる。
小千谷村河戸の草分けは西巻氏である。『小千谷市史』では武士の流れをくむ中町氏が近世初頭に小千谷河戸を仕切っていたと読み取れる記述をしている。が、西巻氏が川端通り屋敷にて河戸管理の実務を行っていた記述もある。
『小千谷市史』の記述では肝煎の経歴がない西巻傳右衛門が、小千谷河戸に中町氏より大きな屋敷を構えていた古文書が残されている。

小千谷五智院海龍は、越後一揆に参加して山寺?(薭生?)の古城跡に立て籠もり堀氏に抵抗したと伝える。小千谷は戦場となり荒廃し、堀直竒の政策により立て直された村落であった可能性は高い。
『小千谷市史』の中町氏については、土地集積を行い、草分けあるいは有力者であるための体裁を整えようとしている記述であり検証不足である。
『小千谷市史』所収の絵図。川端通りには、中町清兵衛屋敷ではなく西巻傳右衛門屋敷が見られる。
『小千谷市史』史料集の天和二年小千谷村検地帳の一部。傳右衛門は間口弐拾九間半で、奥行きも拾六間半と他家に比べ抜きに出ている。清兵衛は間口弐間と三間の弐筆。屋敷藤左衛門は、川端の無役屋敷にて大肝煎の役目を務めた平沢藤左衛門。喜左衛門は藤左衛門伯父にあたる平沢氏である。
『小千谷市史』は、近世初頭の小千谷村の成り立ちについて、天保年間の『独覧聞書』を中町氏と東氏が伝える慶長から寛永年間の古文書解釈の裏付けとして記述しているが、その検証を行っていない。『小千谷市史』が記述している「寛永の町割は、高台に新しく町割を行い、町が移動した」を裏づける記録や根拠はない。

天和検地では川端通りに、御旅屋家鋪、御米蔵屋鋪、蝋御蔵屋鋪、御番所屋鋪が並んでいた。これは、高田藩支配時の小千谷村河戸の拠点を示すものである。『小千谷市史』の記述では洪水で川岸が流され不便な場所とさてれいるが、大肝煎平沢藤左衛門や西巻傳右衛門が屋敷を構えている。それは小千谷河戸の中心が古来より川端にあった証しと考えられる。「川端通りから高台に町が広がり、」その中心となったのが東氏と中町氏であることから、町通りの中央に大屋敷を構えたのではないかと読み取れる。中町氏の存在は、由緒や家柄がある者が必ずしも町通り中央に屋敷を構えたのではないことを表してる。
そして、旧来からの有力者である西巻傳右衛門が、町通りの最も川端通りに近い地に東氏や中町氏に劣らない屋敷地を構えていたのは「川端通りが重要な地」であったことの裏付けである。
天和検地で川端通りに屋敷を持つ藤左衛門、治郎右衛門、清兵衛、傳右衛門、万助、喜左衛門、茂兵衛、市左衛門は、小千谷における中古以来からの河戸の屋敷地を受け継ぐ家で、町通りは新しい者の地、商いを行う地であったと考えられる。
中世以来、小千谷は河戸として重きを置かれた土地の筈である。上杉謙信は、反抗する長尾政景に対し出陣する旨を平子氏に伝えた時、中継地を整備し準備せよと命じている(武州文書)。政景支配地の上田庄への道筋は、小千谷近辺で信濃川を渡る。小千谷対岸の薭生を支配する平子氏は、越後守護上杉家の被官として信濃川通船を監視した重臣であり、謙信期には薭生へ渡る差配の役目を担ったのである。
小千谷の要害は「慎知ヶはば」にあり、その城下は河戸である。
小千谷の中心地は、『小千谷市史』記述の「小千谷村は下タ町に所在し高台に移った」のではない。下タ町に五智院とその門前町が所在したのは記録に残るところであるが、川岸とは異なる。『小千谷市史』は中世以来の村の成り立ちを無視した記述を行っている。
日吉の山王様(日吉神社)は、小千谷村発祥の鎮守と伝承される。

〔芋坂の新田開発〕
魚沼郡真人村の芋坂は、中世名主の冬井大渕家から分家した弥次右衛門家が、真人村肝煎大久保弥右衛門の許可を得た請地として新田開発した枝村である。堀直竒の農村政策が、その後に生かされた記録である。大渕市右衛門家の次男与治兵衛は、寛永十五年から芋坂の開墾を始めた。正保二年には芋坂へ移住し、後に家名を弥次右衛門と称した。
芋坂の新田開発について、『小千谷市史』では誤った記述を行った。これに関わった学者は間違いを認めず、『小千谷市史』の誤った記述を「本文から削除する」という訂正処置を行った。歴史を学問として扱うことより、名誉やプライドを重んじるのが歴史学者の姿であった。(実際は国文学者でしかない)
(このことについは、『小千谷文化』における目崎徳衛氏(後に聖心女子大学名誉教授)の発言が顕著なものである。)
はぐらかされた 学問の視点 論点
識者俵山喜秋と学者目崎徳衛

[史実として検証された内容]
〇古文書表紙には右に地高、左に宇木高とあった。
〇本文には「正保二年与次兵衛芋坂新田に引越し」とあり、卯ノ木に関する記述は一切ない。
〇地高帳は、芋坂弥次右衛門家が本家の冬井大渕市右衛門家の古文書を写本したものが現存する。
〇地高帳の市右衛門家原本は、市史編纂委員会が紛失した「十九半名之覚」が記述された古文書と同一である。
※この内容は、渡辺三省氏調査により目崎徳衛氏も認め市史の訂正が行われた事実である。

[渡辺三省氏の調査と目崎徳衛氏の言葉]
〇調査担当者が「宇木高」を「宇ノ木の地高帳」と思い込んだ。
〇当時は浮高の意味も理解されておらず……「卯ノ木孫左衛門家より分家した云々」の記述となった。
〇目崎徳衛氏は市史編纂事業全体の責任者であったと自身が記述している。
〇目崎徳衛氏は「市史は不動のものではない。おかすべからざる権威でもない。それは出発点である。たたき台である。」と述べている。
果たして渡辺三省氏の調査が真実なのだろうか?
宇木高を卯ノ木集落と思い込みで誤読したとするのは苦しい見解である。しかも調査者の判断によるものとする。「正保二年与次兵衛芋坂新田に引越し」を解読出来なかったことになる。
執筆者はどのような意図で記述したかの調査はない。
冬井市右衛門家は、十九半名の筆頭とも考えられる家柄である。『小千谷市史』に大渕一族が川井城主と深く関わりがあったであろう記述もない。近世初頭の郷土史を記述する中で、十九半名の名主と開発は、歴史学の観点から、特徴的な事例であることは間違いない。それが除外されたということは、意図的に記述から外す思惑があったのであろう。

『小千谷市史』上巻 昭和四十四年小千谷市発行。削除訂正は昭和四十九年である。
昭和五十六年国書刊行会発行の『小千谷市史』では削除ではなく、本文を書き換える処置がとられている。この意味するところは何であろうか?


次に『小千谷市史』のなかで目崎徳衛氏が解読をすり替え、意図的に歴史を作り上げようとした根拠を挙げる。

近世初頭の開発例として、地誌によって歴史を証明できるものもある。魚沼郡時水村の請地は目崎氏によって開拓されたことが見られる。集落名は現在「宇計地」と記載されるが、もとは「請地」と書かれ、肝煎から開発が許された請地を示している。肝煎は甚左衛門家で目崎氏は草分けではない。本村下村、北屋敷と市ノ坪の間が本来の請地の集落である。「請地」はもともと「げんねん」のもう一つの屋号として発生した。「宇計地」は現代の集落名で、戦後に市ノ坪と「げんねん」の請地が合併して出来た。

目崎氏は源右衛門、源次郎を称し「げんねん」と呼ばれたことから、小千谷薭生の目崎氏から分家したと考えられる。「薭生目崎氏」は時水目崎氏より古い家柄で、源右衛門、源次郎を称している。時水村勝覚寺の開基をした村松勝覚寺の僧が、薭生目崎家に草鞋をぬぎ、禅寺が荒廃した時水を紹介したと伝えている。
時水目崎氏の屋敷地は時水の本村ではなく、本村前田の隅っこに構えた。他村から流入で、のちに財をなし、没落する甚右衛門家に代わり代々庄屋となった。「げんねん」は「遅くに入ってきて早くに絶えた」と当地では伝えている。
「請地」は上杉移封と上杉遺民一揆によって荒れ地が広がった地であり、近世初頭に開拓した地域である。北屋敷、関屋敷から上杉氏の被官が去り、残された荒れ地に入ったのが目崎氏である。
また、「げんねん」の孫分家として享保年間に隠居した徳兵衛が、幕末にかくま谷の沢を開墾し成功を収めた。その末裔が目崎徳衛である。

甚右衛門家は、時水城の家老と伝える家であり、時水村本村の枝村岡田の名主であった。肝煎どん惣兵衛と呼ばれ、近世初期に甚左衛門家と並び時水村の庄屋を務めた。
肝煎り甚左衛門家は、秀吉の時代に時水新田を開発した功績で、時水村だけでなく時水新田村の代々庄屋も務めた。また、薮川村の荒れ地の新田開発により万治年間に独立した薮川新田村の親村として万治検地帳を代々保管した。
『小千谷市史』史料集の解読文では庄屋甚右衛門とする。また、古文書に記載される「当所城山之主曽根五郎左衛門之末孫と申傳ひ」の部分は史料集で欠落している。『小千谷市史』上巻の時水城に関する記述も謎が多い。その編さんに携わったのは目崎徳衛であり、全てにおいてしっていたのである。しかも、全体の責任者でもあった。これが当時の国文学者のレベルであり、学者が識者でなかったことの現れである。
『小千谷市史』史料集「寺院書上帳」

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