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新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

面白い動画を見つけました。

 

まずは聴いてみてください。

 

 

これは指板を深くえぐることでギターの弦を抑える時の音のたわみを出せるものだそうで、いわゆる”イングウェイ”加工されたギターのようです。楽器の解説はこちらのBlogにあります。

 

 

私はつくづく最近の日本のギター少年たちは上手だなと思うのです。私の世代からしたら、みんながプロみたいです。メソッドがいいのか、楽器がよくなったからかはわかりません。少年たちだけではないですね。女の子も昔の弦の抑え方さえ頼りない”オンナ弾き”ではない、しっかりとしたサウンドを出す人が多いです。

 

しかし、一方で面白いギターを弾く人はあまり見かけません。60年代はチョーキングひとつにしても動画もなければメソッドもない。耳で聞いた音をなんとかかんとか再現してやろうと試行錯誤をしていました。

 

その結果、そのギタリストでしか出せない音が完成したものです。新津章夫はジャズでもクラシックギターでもブルースでもなんでも弾きましたが、プロになったきっかけは「ちょっと聴けば新津章夫だとわかる」と言われた、圧倒的な個性にありました。

 

上記のベトナム人のギター弾きに驚く若い人たちを見るにつけ、素直に上手くなるのも大切だが、自分にしか出せない奏法やフレーズ、音作りにもっともっと挑戦してもらいたいなと思います。

 

 

これは新津章夫が20歳くらいの時に作ったデモテープです。ギターは今でいうビザールといえる全音モラレスのセミアコ(335のようなボディは空洞のもの)。これのチューニングを落とし、ブリッジ付近にプラスチックの下敷きを切ったものを挟みシタールのような共鳴音が出るようにして演奏しています。ベトナムのギター少年のような音を出すための実験を50年前にやっていたのです。

 

「少年よ大志を抱け」ならぬ「ギター少年よ、実験を忘れるな」です。

 

新津章夫とはぜんぜん関係ない話です。

 

ずっと気になっているベーシストがいます。武部秀明さんという方ですがGSブームではアダムスというバンドにいらしたようで、そのギターが水谷公生さんだったそうです。

 

武部秀明さんはアダムス後はスタジオミュージシャンだったそうですが、代表的な曲がキャンディーズの「その気にさせないで」。ちょっと聞いてみましょう。

 

 

 

 

どんなプレイヤーかこれを聞いただけでも想像できますがソウル系の音がお好きな感じですね。サビのところで3連で入るなんて歌謡曲とは思いにくい。新津章夫も数は少ないけど70年代の歌謡曲でちょっとカッコいいリフなどをやろうとしても難しかったんです。歌謡曲の歌手は自分のバンドのボーカルではないから何度も何度もリハを重ねて磨き上げていくという感じではないので、歌が入りにくいとか歌手が吊られてしまう付点のリズムは基本的にご法度。それでも、このバックは細野晴臣さんが務めたスリーディグリーズの「ミッドナイトトレイン」にも引けを取らないソウルフルなノリですよね・

 

もうひとつ聞いてみましょう。岩崎宏美の「キャンパス・ガール」。こちらは1976年の「ファンタジー」のアルバムの中に収められた曲ですが、2021年にリミックスが出ている世なので、せっかくだから、それを。

 

 

どうですか、野暮な言い方ですが、和製ジェームス・ジェマーソンとも言うべきベースの歌いっぷり。岩崎宏美の歌唱力も相まって素晴らしいソウルになってます。最後なんてドラムの方もノリノリでトップシンバルをオフ打ちですものね。

 

武部さんのプレイに興味を持たれたからは、以下のリンクから探ってYOUTUBEを探してみてください。

 

https://www.discogs.com/ja/artist/596936-Hideaki-Takebe?superFilter=Credits

 

なお、武部秀明さんは新津章夫と同じ2002年に亡くなられていらっしゃいます。ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


まずはこのサウンドを聞いてください。

 

 

ハンガリーのインストバンドらしいけど詳細不明。しかし、スプートニクス、シャドウズなど、いわゆるヨーロピアン・エレキ・サウンド、そのまんま。見た目にも年季が入ってますから、もしかしたら70年代からずっと続けているのかも? ピュアなまでの本物感は素晴らしいですね。


1952年生まれの新津章夫もごたぶんにもれずベンチャーズに代表されるエレキサウンドの影響をモロに受けておりまして、2枚目のアルバム「Petstep」のB面1曲目ではT・ボーンズの名曲「真っ赤な太陽」をカバーしてます。美空ひばり&ブルーコメッツではないですよ。

 

Side B 19:58 真赤な太陽 (The Red Sun)
 

裏話をすれば、なぜ新津章夫がこの曲を選んだかといえば、当時、日本の某女性ミュージシャンが「真っ赤な太陽」をパクッテいたのを聴き、「こんなのアリかよ。若い人たちはオリジナルを知らないのか?」となかばプロテストのような気持ちでとりあげたのでした。


新津章夫がギター一本のインストを始めた第一歩はエレキサウンドにあった、というお話でした。なお、今でもスプートニクスやベンチャーズ、そして寺内タケシのシングル版やアルバムは我が家のレコード棚に並んでおります。

 

このハンガリーのお爺さんたちのサウンド、新津章夫が生きていたら真っ先に教えてあげたかったです。

 

 

皆様、大変ご無沙汰しております。

 

新津章夫Blogを運営しております実弟の新津隆夫はイタリアに住んでおります。最後の更新となっていた2019年の翌年早々にご存じのようにイタリアはコロナで大きな被害を受けました。

 

我が家は幸いなことに家族も誰も感染はしませんでしが、私も妻もフリーランスということもあり仕事は壊滅的な被害を受けました。娘も高校の後半の2年間はほとんどオンライン授業。約3か月にも及ぶロックダウンも辛かったです。

 

今年になってようやく経済も心の健康も回復し、夏は3年ぶりに帰国もできました。とはいえ、イタリアに戻る直前に私がコロナに感染したり(被害の大きかったイタリアでは無事だったのに…)とただじゃあ済まされない帰国となりましたが…。

 

この完全にスポイルされた3年間(足掛け4年)でいろいろなことが変わりました。

 

一番驚かされるのは新津章夫の「I・O」のアナログ盤にプレミアが付いて取引されていることです。しかも日本に限ったことではありません。

 

 

これはイタリアの通販サイトebayです。アメリカやイギリスのサイトでは日本から発送となっていますね。どういうことなのでしょうか。謎です。

 

なにかの吉兆だといいなと思ってます。

 

2023年12月15日 新津隆夫

またまた1年以上も間を空けてしまいました。ほとんど忘れられてますよね。まぁ、書いてる本人が忘れてるんですからどうにもなりません。

 

2019年は本当にいろいろな出来事がありました。新津章夫に関するものは、なにもありませんw 死んだ人は、新しい行動はとらないからです。当然ですが。

 

まず、3月に我々の母親が亡くなりました。来年の東京五輪を見ることを楽しみとしていただけに残念です。彼女にとっては、1964年に続く2度目の東京五輪。

 

実は新津章夫は千代田区の中学生の1500メートルだったかな? 最高記録保持者でした。1964年、思春期を迎えていた新津章夫は、東京五輪でマラソンのアベベの金メダルに触発されて長距離の選手を志したのでした。その頃、千葉の田舎に住んでいたことがあって、暇さえあれば近くの森や林をひた走り。東京の中学に通うために駅まで毎日走り…。まぁ、それで役に立ったことといえば、修学旅行の日に寝坊して、学校を出た最後尾のバスに走って飛び乗った時(走り寄ってくる学生がいたので運転手さんが気がついて乗せてくれたそうですが・・・)くらいでしょうかね。

 

というわけで、母親はスポーツ観戦が大好きだったのでした(なにが、というわけでかわかりませんが)。

 

その2は、イタリアで器械体操をやっている私の娘(16歳)が膝の故障で現役引退となったこと。新津章夫の姪です。新津章夫が亡くなった時、あまりのつらさから逃れるために製造をいたしました。当初は、AKIYOと名づけようと思ったほどで、さすがにそれは妻から「あなたの気持ちはわかるが別人格である」と諭されました。

 

娘は新津章夫の魂を受けついたのか、なかなかのスポーツウーマンで11歳のときにイタリアのCSENという大会で、全国大会優勝したこともあります。その時は、これはすごいことになるのかな??? と夢膨らんだものですが、夢以上に大きくなったのが彼女の身長で現在173センチ。器械体操の選手としてはこの数年は、どんどん落ちるばかりで、去年のフェデレーションカップのシルバーという二部カテゴリーの全国大会9位が体操選手としての最高位となりました。昨年から練習中に膝の痛みを訴えるようになり、チームのフィジカルドクター、及び医者から、これ以上続けると日常生活にも支障が出ると言われて現役引退を決意。もう先はなかったとはいえ、残念です。

 

夏には私の妻に乳がんが見つかり緊急手術。さらに転移も見つかり再手術。幸い命の別状はない良性の細胞だそうですが、抗がん剤治療をしています。

 

そして、つい最近、義母が倒れて・・・。

 

これだけ悪いことが続くのって、なかなかないんじゃあないですかね。ま、これも運命と思ってLet it beでいるしかないですわ。

 

私の大好きな映画「ホテル・ニューハンプシャー」のラストシーンの言葉(ロブ・ロウのモノローグ)。

 

「人生は夢の中で作られる。しかし、夢は儚く消えてしまう。その後は、つらい現実ばかり(映画の主人公ロブ・ロウの亡くなった家族の回想の言葉が続く)。それでもなんとか生きていかなければならないのだ」。

 

まさにそんな感じです。それでもなんとかやっていくしかありません。

 

2020年が皆さんにとっても、より良い年になりますようにお祈りしております。

 

新津章夫・実弟、新津隆夫拝

新津章夫「ホワイト・クリスマス」(ウィンターワンダーランドより)

 

 

 

 

 

前に住んでいたアパートの大家である友人がアパートを売却したので大掃除を手伝った。彼は僕より一歳上で世代も一緒だし、音楽の趣味も似ている。

 

もうアメリカでグリーンカードを取得して、家族もアメリカ人だからイタリアには帰ってこない。というわけで、いろいろと不用品をくれたのだけど、その中にトーレンス(Thorens)のアナログ・レコード・プレイヤーがあった。

 

1970年代のオーディオブームでは名器と呼ばれたスイスのメーカーで、頂いたのはTD166というベルトドライブのモデル。イタリアのヤフオクでは200~300ユーロくらいで今も取引されている。

 

ついでにLPレコードも20枚くらいもらったのだけど、その中に「スイッチト・オン・バッハ」があった。

 

新津章夫のバッハ信仰は、もちろん「平均律クラビア曲集」から始まったものだけど、自分でもレコーディングしようとしたきっかけは、この「スイッチト・オン・バッハ」だった。

 

制作者のウェンディ・カルロスについては、Wikipeにも詳しく紹介されているのでここでは書かないけれど、改めてレコードを聴き直してみると、「G線上のアリア」とか「Invention」などはモロにその影響が感じられて懐かしい。

 

このあたりは「SCIENCE CLASSICS」(http://bridge-inc.net/?pid=1755714)に収められてますので、ぜひ聴き比べてみてください。

 

 

カンのベーシストであるホルガー・シューカイが逝去。享年79歳

http://nme-jp.com/news/42934/

 

1年ぶりの更新です。

 

1981年に発売されたアルバム「スネークマンショー/死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」が手元に届いた時、僕は雷に打たれたくらいの衝撃を受けたものだった。ま、実際に雷に打たれたことはないけど…。

 

そのアルバムには、ホルガー・シューカイという聞いたことがないミュージシャンの「ペルシアン・ラブ」という曲が収録されていた。

 

当時の僕はまだ音楽ライターでもなかったし、どちらかといえばジャズとかフュージョン系の音楽ばかり聞いていたのでCANの存在は知らなかった。

 

「ペルシアン・ラブ」にぶったまげたのは、たぶん、このBlogを読んでくださっている方はわかると思うけど、新津章夫と同じ倍速ギターのテクニックを用いていたからである。

 

もちろん、それまでにも多くのミュージシャンが、アナログの録音機の回転速度を半分に落としてギターを録音し、それを通常速度で再生されることで、音が2倍の高さになるギミックを試してはいた。

 

有名なところでは、KC&サンシャインバンドの「Get Down Tonight」のイントロや、ジミヘンもところどころでこの技術を使っている。新津章夫はこれを「倍速いギター」と呼んでいた

 

しかし、いずれも計算されたフレーズというよりは偶然性の産物に過ぎないものだった。

 

ところが「ペルシアン・ラブ」は違った。「倍速ギター」のレコーディングの難しい点は、音が2倍の高さになるユニークさではなく、弦のピッキングの強さ、音の減衰の長さなどをもきちんと計算に入れていないと、音色の滑稽さばかりが目立ってしまい、独特の音質の美しさ、通常ではありえない速度ゆえかもしだされるメロディーは活かされない。

 

まぁ、今となってはあんな苦労なくとも、倍速ギターの録音などいともかんたんなことになってしまったが、一方で革新的なエンジニアリングを用いた音楽も生まれなくなった。新津章夫は生きていれば今年65歳になっていたけど、ホルガー・シューカイって14歳も上だったのね…。アンドレアス・ドーラウ、ホルガー・シューカイ。ドイツが好きだった新津章夫は、やっぱりドイツに縁がありますね。

 

 

 

 

 

相変わらず放置で申し訳ないです。愚兄も怒っているかもしれませんが…。

今日は訃報がありました。作曲家、編曲家で日本のシンセサイザーの第一人者であった冨田勲さんが亡くなりました。

このBlogでも紹介しましたが、1979年に新津章夫は雑誌「FMレコパル」の企画で冨田さんと対談をさせていただきました。

冨田勲との対談(1979年) 


http://ameblo.jp/petstep/entry-10132421621.html


http://ameblo.jp/petstep/entry-10132628390.html


http://ameblo.jp/petstep/entry-10132630880.html


http://ameblo.jp/petstep/entry-10132633670.html

構成は音楽ライターであり新津章夫のレコードデビューのきっかけを作ってくださった岩田由紀夫さん。

冨田さんとの対談後、家に戻った新津章夫がいつになく饒舌だったことを覚えております。なにを話したかは覚えていませんが…。

冨田さんのご冥福をお祈りします。

貴重な時間を頂きありがとうございました。
皆さん、すみません。完全放置です。

偶然気づいたのですが、今日、9月16日は10年前にこのBlogを解説した日だったのですね。あれからBlogを通じて様々な方々と知り合いに慣れました。ありがとうございました。

今日は、記念すべき第一回の記事を再録しようかと思います。Blogってなかなかさかのぼっては読みませんからね。僕も久々に10年前にどんなこと書いたのか気になりますし。

まやかし音楽?
http://ameblo.jp/petstep/entry-10004337794.html

 新津章夫(にいつあきお)は、1970年末から80年代初めにかけて、ほんの一握りのマニアにだけ愛された音楽家です。しかし、そのファンは本当に彼に心酔していて、彼が音楽家としての活動を休止してから半世紀が過ぎた今も、その短かったミュージシャン生命についてネット上で語られています。数は少ないけれども、その声は賛美の限りを尽くしたもので、その声援に応えるために、私は実弟として知っている限りの新津章夫の秘密を語っていこうと思っています。
 ネット上で彼について語ってくれている人々はミュージシャンだったり、クリエーターだったり、いかにも新津章夫の音楽が玄人好みであるように映ります。卓越したギターテクニック、神秘に満ちた音作りとレコーディング技術。たしかに、製作サイドのことを知っていれば、より深く理解でき、驚かされることも多いことは確かです。しかし、けして気後れはしないでください。
 新津章夫の音楽は、愉快な音楽です。子供番組のBGMのような音楽です。
 エッシャーのだまし絵、クラインの坪やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率…。視覚や論理、言葉など、あらゆるものの中に、平気な顔をして混じり込んでいる座敷童子(ざしきわらし)のような「不思議」が大好きでした。そんな、新津章夫の音楽は、可能性と挑戦、そして、実験に満ちた音の科学式のようなもの、なのかもしれません。もっとも本人は「まやかし音楽」と呼んでいましたが、異常なまでの照れ屋であるがゆえの照れ隠し的表現に他ありません。
 歌とドラムはありません。現代の音楽と呼ばれる「商品」が、いかに歌とドラムに頼って成り立っているのか、彼のもっとも嫌うところでした。まぁ、それでも歌謡曲のアレンジやロックバンドのプロデュースもしていましたから、気難しい人ではありますが、けして悪い人ではありません。
 これまで聞いたこともない音楽を、という好奇心あふれる方は、ぜひ一度、新津章夫の音の迷宮へようこそ。