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とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない。自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」

箴言17章22-28節

 

笑顔というのは副交感神経がどうも働くのか元気になる、そんな力があるそうです。そういえば誰かが、あなたの笑顔にはチロルチョコ100万個分の力があるんだよ?という話を聞いたことがあります。あなたの向ける笑顔は人を励ますことができる、すごいですね。陽気な心は、愛からくる心配りは、他の人を元気にする。本当にすごいですね。とはいえ、元気をもらいたい人がいるように、やっぱりいつでも人が元気でいるなんてことはできない。根性論とか精神論で乗り切るとかそういう問題じゃない。それができるなら人はどれだけ楽に生きられるだろう。それができずに苦しむ人が今も多い。でも、その心の源は、心を与えてくださった神様ならあなたの心を元気にすることができる、満たすことができる。神様の愛はあなたを覆っているのです。愛するわが子へ、父なる神様はその惜しみない愛で覆う、元気・平安で満たすため、苦しみも何もかもとり除くために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたに喜びを与えてくださった。私たちのこの救い主イエス様は今日も生きている。このイエス様と共に私たちは歩もう。イエス様の導かれるこの道をただ歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言といいますか知恵・いのちのことば、またその彼がこれを書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを霊肉共に、心身ともに健康にしようとご自身の知恵、愛からくる御心を現し、これで覆おうとされてるんですよね。神様の願うところはあなたが幸せになること。思い煩いや罪によって支配されるのではなく、あなたが神様の恵みに満たされ幸せになってほしい、その思いがまさに注がれているわけですね。このいのちの関係に神様は招かれている、あなたを捨てるのではなく、生きてほしいと。だからこの恵みを蔑ろにしてほしくない、と。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」と語られ示され、またこれをソロモンは書き残します。これはまたなかなかインパクトのある言葉ですね。でも、確かに心の在り様ってからだといいますか健康に影響を与えます。骨を枯らすかどうかは分かりませんが、ただメンタル的な面が心身に与える影響については近年はっきり見えてきていますね。骨を枯らすと言いますか、自分を支えるのもつらくなってきたり。

 

とはいえ人それぞれ性格的なものや、状況によっていつも陽気でいられるわけではない。簡単なようでなかなか難しい所。だから陽気でいられない、つらい、そんな状況にいる人もいる中で、黙っているのはちょっと違うことがこれまでの箴言からも見えてきますよね。例えば、昨日の分かち合いの中で見ましたが、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」。そんな友を愛する。否定的なことや貶めるようなことを言うのではなく、一緒に苦しみを分かち合う中で、話を聞いて、一緒に進んで。何より神様に一緒に祈りながら苦しみを分かち合うと言いますか、時間を共有しながら神様の愛を受け取る。話を聞くよ、という人もいるのですが、一瞬とか、自分の都合のいい時だけ聴く、聞いたポーズをとるだけで、自分の意見ばかり言う人もいるけど、傾聴的に聞いて、神様に傾聴して神様の愛を聞く、一緒に取り組んでいくという事が抜けることがありますよね。もちろんそれぞれ時間もありますし、それは理想的に聞こえるかもしれませんが、骨が枯れて立ち上がれない人の支えがなければどうにもなりません。それは聞き手も同じ。本当に支えとなる神様に寄りかかり委ねる、神様の支えを求めるのです。一緒にいられない、聞けない時でも本物の支えなるイエス様に依存する。イエス様はいのちをかけてでも私たちが倒れ死なないようにされた、そんな方がいるのだから。

 

ちなみに、陽気な心ってどんな心だろうか、と思って調べてみると、「前向きな心、感謝する心、周りを励ます心、平安のある心」だそうです。その根拠は、私たちの支え、救い主なるイエス様がいるから、この方が一緒にいるから、今も生きておられ働かれておられるから、私たちのためにいのちを投げ出してでも、身代わりに私たちの痛みも悲しみも全部背負われた、罪も一切身代わりに背負われ十字架に架かられ、死なれ、復活とともに勝利された、この方が私たちの手を取って、後ろではなく前に進ませてくださるから、前向きでいていい、それをイエス様が保証してくださるから、平安な心が得られる。だからこの方に感謝しつつ、この方の愛に生きる中で、周りにもこの愛が溢れ流れていくわけですね。イエス様が私たちの骨を枯らせず死なせず、むしろイエス様のいのちにあって新しくしてくださる。この方の支えがある、支えてくださっている。これ以上の私たちの心の支え、いのちの支えはないのではないでしょうか。

 

「Keep On The Suuny Side(陽気に行こう)」という曲があります。私はこの箇所を読んだときにこの歌を思い出しました。「喜びの朝もある、涙の夜もある、長い人生なら、さぁ陽気に行こう。陽気に行こう、どんな時でも、陽気に行こう。苦しい事は解ってるのさ。さぁ陽気に行こう。嵐吹き荒れても、望み奪われても、悲しみは通り過ぎて行く、陽も輝くだろう。…君を信じよう、僕を信じておくれ。救い主は生きている。さぁ陽気に行こう。…美しい朝には声をかけておくれ。僕も歌いながら、あいさつしよう。…」というような歌詞(…は陽気に行こう、どんな時でも…の部分)。まさに陽気な心そのもの。陽気でいられないこともあるけど、救い主イエス様が陽を輝かせてくださる。救い主イエス様が生きている、だから、君を信じるし、僕も信じてほしいけど、それ以上にイエス様を信じてほしい、ある意味ではこの「僕」はイエス様から見た言葉なのかもしれませんね。イエス様が僕のことを信頼してほしい、信じてほしいって。美しい朝を迎えさせてくださる、復活の朝を、あなたに声をかけに行って新しい歩みをイエス様とさせていただける。死んだ一日ではなく復活の一日、日々を。陽気な日々を。

 

この曲名をストレートに訳すなら、陽の当たる場所を守れ、と言ったところですが、このイエス様が陽を当ててくださるから、ここを何ものにも奪わせてはいけない、ここに私たちも行こう、陽の当たる場所、イエス様が照らして下さる場所へ。日陰に隠れている必要はないんだよ、と招かれている感じがしますね。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。もし骨を枯らして立ち上がれない人がいるなら、一緒に行きましょう。そしてイエス様のくださる本物の元気をいただこうではありませんか。そこに広がる喜び、陽気な日々に期待して。十字架から照らされた光が私たちの枯れた骨、いのちをよみがえらせ、立ち上がらせてくださる。この方の光が今日も輝いているから。

 

なお↑で「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ」と語られていますね。賄賂、この17章の途中でも出てきましたが、その本質的な意味は「生活や関係を円滑にするための贈り物」であることを話しましたね。生活やいろんな問題で困っている人への贈り物、助けはある意味で大きな役割がありますただ袖の下に入れる、そんな賄賂、それによって裁きを捻じ曲げるのはダメです。聖書の中で厳しくこのことについて「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。…わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる」と言われています。

 

呪いは祝福の逆です。神様の祝福ではない、恵みを失いサタンの手にとらわれる、最悪の状態です。しかし神様はこうも仰ります。「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである」と。神様は正義を曲げない。神様の愛を存分に現される。たとえ在留異国人(イスラエルの民から見たらそれ以外の民、今の時代なら罪人、苦手な人など)であっても神様は惜しむことなくその愛を実行され現される。どうしてこんな目に合わなければならないんだ、と思う中に神様は働かれている。

 

見えてきましたね。先程の陽気な心の話と合わせるなら、神様はそのように世の中が裁きを曲げ、理不尽なことをしてこようとも、神様の光が照らされ、全てをまっすぐにされる。そのようなものをキチンと裁いて下さる。見捨てられたように思える中にあって神様は確かに陽を照らし、私たちに必要なものを与え、働かれ、元気にしてくださる。私たちはその祝福の陽の下に招かれているんだ、そのことを覚えますね。だからこの方に顔を向けよう、と。

 

そういえば、神様は「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」と祝福するようにかつてアロンという人に命じられたのですが、まさに神様の陽の光、呪いではなく祝福が私たちを守り、神様が御顔を私たちに向けて照らし、恵まれ、平安を与えてくださる、その約束をどうか忘れないでくれ、そうこの命令に込められていたわけです。この神様の約束は今日も変わらず、見捨てられそうな私たちをさえ、あの十字架上であらわされたイエス様の命がけの救いによって照らされているのです、あなたにも。

 

「愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない」。それでも父なる神様は私たちを憂い、心配され、心を痛められ、あなたを救うために御子イエス様のいのちを身代わりにされた。正しい人にいのちという罰金を身代わりに支払わせ、高貴なイエス様に鞭を打つ、どちらもよくないことをしてでも。そうして私たちの憂いも痛みも罪も取り除き、愚かな子ではなく、神様の子として迎え入れてくださった。全ての痛みを負ってでも。何という深い愛、この愛が今日も照らされているとは。

 

「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」。私たちはこの神様の約束、愛を押しのけて、どうせ、とか諦めるのではなく、その言葉をいったん控えて、このイエス様に心を向けよう。陽気な心を与えてくださる方、イエス様の英知・知恵が、私達の閉ざされた、陽の当らない場所に陽を照らし、新しい日を迎えさせてくださるから。この神様の富に富む、いのち溢れる日をただ私たちは祈り、待ち望もう。救い主は今日も生きている。さあ陽気に行こう。

 

ヨハン・カール・フリードリッヒ・ガウス。

彼はドイツの数学者、天文学者、物理学者。その研究は広範囲に及んでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。数学や磁気学の各分野に彼の名前がついた法則、手法が数多く存在します。

 

そのガウスはこのように語ります。

 

「人生の最後の時の鐘が鳴り、この世の現実の中にうっすらとしか見えなかったお方が目の前にはっきりお現れになるとき、私たちの喜びはいかばかりだろうか。」

 

彼は多くの法則を発見しました。

しかし彼はその中で神様が働いていることを知っていました。だから、どんなに名誉を得ていても、神様とお会いすることに勝るもの、喜びはない、というのです。

 

しかし、もう一つ解説を付け加えるなら、イエス様は私たちの命を救うために惜しまずその命をお与えになりました。このイエス様の救いの前にあなたが立ち返る時、古い自分の終わりの時の鐘が鳴り、新しい命の始まり、永遠のいのちの始まりの喜びの鐘が鳴り響く、天への道は始まっているのです。ガウスは、日々そこに神様がおられるのを見、その中で多くの法則を見つけ出しました。私たちはガウスではありませんが、日々、どんな時も神様がなされている恵みを仰ぎ見よう。神様はあなたから決して離れないから。

 

ことばって、心の内側にあるものが出てくる。

どうしても口から相手を否定する言葉が習慣のように出てくる人もいるし、

「こいつ」とか「このやろう」とか、何でそんな言葉を言うんだろう、という人がいる。

クリスチャンでもね。

こいつ、なんていう人はかなりやばいです。あ、かわいい声でとかではなく完全にきれた声でね。

 

でも、そんなにあなたは偉いの?完璧なの?と思いたくなるようなります。

ある人は何を言おうと自由でしょう?これが私なの、という人がいるかもしれませんが、でも相手を傷つける事は自由なの?そんな権利をだれが有しているの?

 

でも、心の中をそうした怒りや高ぶりで支配されていると疲れません?

 

相手を否定した先に何になるんだろう。徳を高めるどころかそれでは相手を壊すだけ。

相手を思って言っている、でも言った言葉には責任を持たないで言いっぱなし。

それって本当に相手を思っている?

 

まあそもそも「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません」とある通り、相手を傷つけるような言葉を、賛美するその口で言うのはあってはならないのです。

 

イエス様も、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来る」と仰りましたし。

 

もしかしたらそういう言葉が出てくる癖、

心の中に何か痛みがあってとか、何か過去に赦せない怒りがあるのか、

否定されてきたから自分を認めてもらいたいとか、そういうものが心の中にあるのかもしれない。

 

ある詩人、まあダビデ王はこのように歌います。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と。

 

神様が、私たちの心の内にある思い煩いや傷、おかしくなっている所はないか、知っておられ、見てくださり、癒し、神様の導くいのちの道へと導いて下さる。

 

私たちの心、これをイエス様に癒してもらって、その愛でいっぱいに満たしていただきましょう。神様が御子イエス様のいのちを惜しまず与え、私たちの身代わりにされてでも愛し抜かれた、その方が働きかえてくださる、あなたが思い煩う何かも変えてくださる。それに私たちも神様からこいつ、と言われて滅ぼされてもおかしくない中で愛され赦されたのに、相手をそんな風に罵るものではないですよ。何の権威、権力によって相手をそんな風に言う?同じ罪赦され神様に愛されている人、あなたはその人と何が違うの?

 

あなたの愛、ちょっといったん止まって、祈って、どんな言葉を語ったらいいのか、したらいいのか、これだけでだいぶ変わります。後はイエス様に任せましょう。神様を押しのけて自分の我や怒りに任せるのではなく、ダビデ王のうたうように、神様がとこしえの道に導いて下さる、そのとこしえの道の内に現される神様の御業に期待しようではありませんか。

 

イエス様も互いに愛し合い、仕えることを教え、またパウロも互いに相手を優れたものと思いなさい、と言っている。イエス様の愛の前に謙遜になり、この愛し合う中で働くイエス様の御業、仕え合う中に働かれる御業、これにへりくだり、また期待しよう。

 

「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか。友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。心の曲がった者は幸いを見つけない。偽りを口にする者はわざわいに陥る。愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない。」

箴言17章16-21節

 

私たちは一人では生きてはいけない。シンプルに考えて生まれて来た時、もし両親がいなかったら、捨てられてしまったら…ちょっと想像するのも嫌になる話ですが、それが起こってしまっている現状もまた悲しく、また悩むその親を支える体制があるにはあっても行き届いていないのも残念な話。話が別な方向に行きかけているので戻しますが、私たちは生まれたときは両親や家族に支えられ、その後周りの家族、地域の人たち、学校に行けば同級生や先輩、先生、そして社会に出れば…と色んな人に囲まれ、支えられ、学び、そうして生きる。一人で生きているわけではないんですよね。でも原点に返ると、私たちにいのちを与えてくださったのは神様、この神様が支えてくださり、父なる神様として私たち子を養ってくださり、導いて下さり、様々な友などに出会わせて下さり、そうしてそうした関係の中にも働かれながら私たちを導いて下さっている。だから私たちはこの神様に期待していいんです。すべての主なる神様がご自身の恵みの内に招いて下さっているのだから。御子イエス様のいのちさえ惜しまず私たちを救うために与えてくださった方が今日も。今日、この方の愛を求めよう、この方の愛が溢れ流れることを祈りつつ。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた箴言・知恵のことばといいますかいのちのことば、そしてそのソロモンがこれを書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが神様の与えてくださる知恵、知識って形だけのものではなく、神様から出てくるもの、神様の愛から私たちに与えられるものなんですよね。どこか夢のような話ではなく、その知恵の中に神様の御心がある、注がれる、だからこの神様の知恵の前にひれ伏そう、そう訴えてこられたわけですね。ただの机上の空論とかそういうものではなく、この最高の知恵・愛・御心をあなたに現したい、と。

 

そんな神様はソロモンに向けて、またその彼を通して私たちに向けてさらに「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか」と語ります。

 

これ、以前使徒の働きの分かち合いの中で見た話しを覚えているでしょうかね。イエス様が十字架に架かられ、死なれ、3日目によみがえられた後、天に昇られ、新しい助け主なる聖霊様が降られてしばらくして教会が誕生したのですが、パウロ(この時はサウロ)の迫害によって、人々が散らされていった、その中にあってもみことばを伝えていったわけですが、その中でピリポという人がいました。彼はイエス様の十字架と復活による救いを伝えながら困っている人にも手を当て祈っていたのでしょう。その中で「汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風(分かりやすく言うと脳卒中)の者や足のなえた者は直った」という出来事がありました。この出来事に多くの人が大喜び。

 

これを見ていた魔術師のシモンという人がいたのですが、彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していました。まあ彼の魔術、まあどちらかというと今の時代で見ればわかるようなトリックを使ったものだったのでしょう。もしくは悪霊・サタンが彼の内に働いて見せていたか。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていたというのです。そうして魔術師シモンは自分に関心を寄せさせていたのです。しかしこのピリポを見て、同じ力が欲しい、と願い、イエス様を救い主として信じると言って洗礼を受けたのでした。

 

ところがその後イエス様の12弟子の一人だった使徒ペテロが彼らに手を当て聖霊を受けるように祈ると、彼らに聖霊が降った、その様子を見ていたシモンはこの不思議な力が欲しい、とお金をもってきて「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言ってその力を買おうとした、そんなことがあったのです。

 

しかしその魔術師シモンにペテロは「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています」と語りました。シモンは最後ペテロに「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください」と答えたのですが、残念ながら彼は悔い改め立ち返ることなく、キリスト教徒と徹底的に対立していくグノーシス主義(この世界は欠陥品で、救いは特別な“知識(グノーシス)”によって得られるというもの)の中心となっていき、ローマでは人々に崇拝され、ついにはシモン神とまで言われるようになったとか。ただ、最後は自分の神性を証明するために空中に浮かび上がろうとしましたが、ペテロとパウロの祈りによって落ちて死んだ、とか。

 

↑の最初のことばを理解するうえでペテロのことばは非常に重要な役割を果たします。神様の賜物というのは、愛というのは、恵みというのは、救いというのは、神様の全てはお金で得られるものではない。神様は私たちをはじめに愛してくださって、その全てを与えようとしてくださっているのです。ただ私たちが神様から離れ歩んでいる中で、本来その受けられるはずの恵みを失ってしまった、与ることなど赦されないはずのものだったのです。しかし、私たちが悔い改め立ち返る、これ、方向転換という意味もあるのですが、心の方向転換、歩みの方向転換し、神様に立ち返る、その中で私達は神様と素晴らしい関係が結ばれる、回復されるのです。何せまず神様が私たちを救うべく、私たちのこの罪も痛みも一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせた、そのイエス様のいのちを身代わりにこの罪の代価として支払われたわけですから。私たちがこのイエス様の十字架にあって悔い改める時、私たちはこの神様の恵みに与る、私たちがお金で買おうとする必要も何もない、いや何にも代えがたい神様の恵みに与らせていただけるのです。

 

シモンはこの機会を口先だけ祈ってくださいと言いながらも方向転換せず、神様の恵みを失ってしまいましたが、神様は本来そうなってほしくないからこそ、ペテロを通してシモンに悔い改めの機会、生きる機会を示されたわけです。私達も同じ。神様は私達に本当の意味で生きるものとなってほしい、とまずその愛を示された、その愛からくる知恵・御心を惜しむことなく与えたい、不義の絆じゃない、イエス様の十字架にあって結ばれた義の絆、この中に招いて下さっているのです。何と感謝な事。

 

「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどういったことか」と思う神様はその代金を御子イエス様のいのちによって支払ってあなたに本物のいのちを、神様の恵みを与えてくださった。愚かなものどころか、神様の子として。何と感謝なことでしょう。神様の思慮が、神様の知恵・御心が私たちの内に働いているなんて、いや働かせてくださっているなんて。私たちが孤独でどうにもならなくならないよう、今も確かに助け主なる聖霊様が共にいて働かれているなんて。何か不確定な存在でも力でもない、聖霊なる神様が確かにあなたの傍にいて助けてくださっている。こんな素晴らしい歩みなんてないじゃないですか。

 

あれがどうにもならない、どうしたらいい、とどこかの神社だの、パワースポットだの、啓発系だの、そんなところにお金をもって並ぶ必要なんてない。1円もいらない。むしろイエス様のいのちというどうやっても払いきれないほどの代価が支払われてあなたに与えられる、神様の御心が、知恵がそこに働かれるのだから。私たちはただ悔い改める、方向転換するだけでいい。ここから虚しい歩み、愚かな歩みではない、いのちの、喜びの、恵みの歩み、日々、いのちへと変えられるのですから。

 

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と↑でさらに語られていますね。そういえばドイツのことわざにも「ふたりというものはいいものだ。楽しい時は2倍楽しめる。そして苦しい時は半分で済む」というものがありますが、恐らくこの聖書のみことばを読んで知ってのことかな。本当にどこでも通じる話です。友を愛する、でも仲がいい友達だけではありませんよ?聖書で言う友は苦手な人もです、そんな友と苦しい時も元気な時も愛する、喜ぶものとともに喜び、悲しむものと共に悲しむ、そうして分かち合い、「共に祈りある」、その中に神様の愛が働かれ、癒される。いかんともしがたい苦しみも悲しみも。それこそ先程まで見てきた神様の驚くべき知恵、力、愛が私たちを覆うのです。

 

何よりイエス様は罪人であった私たちを友と呼び、その友の苦しみ、痛み、罪というのろい、それら一切をご自身で背負ってくださった。分け合うどころかすべて。そして十字架に架かって身代わりに死なれることであなたへの愛を示されたのでした。罪人を友と呼び、その友のためにいのちを捨てたのです。私たちのこの苦しみを取り除き、癒し、新しくするために。その神様の愛が私たちを覆っている。この愛を友と分かち合う時、そこもまた変えられていくのではないでしょうか。

 

「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。心の曲がった者は幸いを見つけない。偽りを口にする者はわざわいに陥る。愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない」。別に保証人になってはいけない、というわけではありませんよ?困っている人を黙って見ているのが正しいとは言えないし、今見た友をどんな時も愛する、苦しみを分かち合う、と話が合わなくそれではなります。しかし自分なら何でもできるから、と安請け合いするのではなく、そこに神様の知恵を求めるのです。何をこの人に語ったらいいのか、どんな風に助けたらいいのか。神さまには無理だ、と諦め、下手をしたら神様と喧嘩をして、神様が導こうとしている道とは別な方向に行って破滅に向かうのではなく、たとえ狭く見えてもイエス様の門を通る、その中に私たちは幸いを見つけるのです。

 

もう私たちは友としてくださった神様への心を曲げてはいけない。ただ私たちはこの神様に真っ直ぐに心を向け、神様のくださる幸いを、お金では買えない、御子イエス様のいのちという代価でいただいた、頂ける幸いの道をまっすぐ歩ませていただこうではありませんか。世の偽りの声に耳を傾けるのではなく、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様の働かれる御心、御力、そこに現される幸いに信頼し。悲しみではなく喜びを生み出されるこの方に信頼して。今日も主はあなたが滅びることを悲しまれ、その愛を惜しみなく注がれ、喜びへと導こうとその御手を伸ばされている。あなたはこの手を取りますか。

 

 
原石も磨かれなければ使われない。
しかし磨かれることを摩耗とは言わない。
磨くことには明らかな意図があり、
摩耗には何の意図もない。
枝の間引きには意図があり、
枝が折れるのには意図がない。
人生の本質でないものを手放すことも、
人間関係の中で自分を空っぽにすることも、
あなたを壊そうとするのではなく、
あなたを磨こうとしているからだ。
その剪定ばさみの後ろで流れる主の汗の滴を見よ。
ーイ・サンジュンー

 

御子イエスさまの命をあなたの罪の身代わりに差し出すほどにあなたを愛される神様。
斬られたのはイエス様です。何の罪もない、神の御子イエス様です。
でも、それはあなたに命の実を結ばせるためではありませんか。
それほどの愛、汗が今日も神様から注がれています。
 


 

さて

あかんぼは

なぜに あん あん あん あん

なくんだろうか

ほんとにうるせいよ

あん あん あん あん

あん あん あん あん

うるさかないよ

よんでるんだよ

かみさまをよんでるんだよ

みんなもよびな

あんなにしつっこくよびな

 

この詩、前半を読みながら違和感を覚えシェアするか戸惑ったのですが。

よく赤ちゃんの仕事は泣くこと、といいますが、何を求めてでしょうね。

私たちは何を求めていますか?

 

赤ちゃんの泣き声をうるさい、という人がいます

でも、赤ちゃんは必死なんだ、生きるために。

あなたが赤ちゃんだったときはどうだったか?生きるために必死でお母ちゃんに呼び掛けたでしょう。

 

いや、本能で神様に呼び掛けているんです。

いいんです、私たちも赤ん坊のように神様に純粋に命を求めて。叫んで。

神様はお母さんが赤ん坊の泣き声にすぐに反応するように、あなたの声を神様は聴き分け、聞いて応えてくださるから。

 

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」Ⅰペテロの手紙2章1-3節

 

「フェストは州総督として着任すると、三日後にカイザリヤからエルサレムに上った。すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを訴え出て、パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。ところが、フェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし、自分はまもなく出発の予定であると答え、『だから、その男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが、私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい』と言った。フェストは、彼らのところに八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、カイザリヤへ下って行き、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。パウロが出て来ると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは、彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てたが、それを証拠立てることはできなかった。しかしパウロは弁明して、『私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません』と言った。ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、『あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか』と尋ねた。すると、パウロはこう言った。『私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。』そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。『あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。』」

使徒の働き25章1-12節

 

私たちにはどうにもならい、どうしたらいいのか分からない時があります。人間関係でも、仕事でもきっとそうでしょう。何でこううまくいかないんだろう、と悩むことも。その大小の差はあっても誰かしら、何かしらそういう何かを抱えている。そしてそれを訴え出る相手がいないで抱えるともっとつらくなる。ただ、私たちの声を確かに聴いておられ、見ておられ、最高の方向へ導こうとしてくださる方がいるんです。そう、神様。誰も見てくれない、聞いてくれない、道が分からない、そんな中にあって私たちの内に光を灯し導かれる方、あなたを救い出すためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様があなたの声を今日も聞いておられ、導きだして下さる。だから私たちはこの方に委ねてみませんか?この方の御心がここに現わされること、知恵を与えてください、と祈って見ませんか?今日主のもとに行こう。主はあなたを喜んで迎えてくださるから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩いや痛み、悲しみ、罪一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主聖霊様が降られ、教会が誕生した後の出来事です。このイエス様の究極の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わすことで、多くの人を遣わしていきます。願わくば一人として滅びる事なく永遠のいのちをもってほしいと。

 

そんな旅、まあ途中迫害や鞭打たれ、殺されそうになりながらも、そこに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが現れます。それでもパウロはイエス様を否定せずに堂々と自分が罪人でかつてはイエス様の迫害者であったこと、それでもこんな自分を神様は憐れまれ、復活のイエス様に出会わせてくださり、罪を赦し神様の子としてくださった、その究極の愛があなたにも注がれているんだよ、と伝えます。ただそれでもなおパウロを認めず殺害すべく、大祭司アナニヤを中心に総督フェリクスに訴えるのですが、彼も残忍ながらもそれなりに知識はあり、パウロが正しいことを知りつつ、ただ釈放はせずにパウロを通して集まるお金などに期待し、またパウロが語る罪の問題に対して胸が痛かったのか彼を2年間放置するのでした。

 

パウロはその間文句を言わず、ある程度の自由が与えられ、友が助けてくれたり、また祈り、神様の愛を思いながら各教会に手紙を書き送り励ましたりなどして過ごし神様の時を待ち、2年が経過して↑、総督にフェストが着任します。

 

着任から3日後、彼はカイザリヤからエルサレムに上り、ユダヤ教の祭司長や長老たちに挨拶をします。するとまたしてもパウロについての訴えがなされました。フェストは、パウロはカイザリヤに拘置、自分もまもなく出発する予定だから、パウロに対して何らかの訴えがあるのなら、カイザリヤまで下って来て告訴するよう言います。すると彼らはカイザリヤまでやって来てパウロを訴えたので、総督はパウロに出廷を求めましました。ちなみにこの間、パウロを訴え出ていた大祭司アナニヤは交代し、イシュマエルに変わっていました。しかし彼らのパウロに対する憎しや嫉みの火は消えることはなくフェストに強く訴え出るのです。証拠もない思い罪状をでっちあげて。

 

それにしても憎しみや嫉みで生きるって本当にもったいない。そんなことに追われている日々はなんとむなしいことか。感動も感謝も、明るく希望に輝く明日も失って、もうあわれとしか言いようがないじゃないですか。彼らは神様を信じているつもりで信じていなかった。自分たちの地位や名誉にしがみつき、それを脅かす人気のパウロ(パウロは人気を欲しがっていたわけではなかったが)に嫉妬して。でも彼らだってパウロの言う救い主の誕生は待ち望んでいた。でも、彼らはイエスキリスト様を救い主とは認めなかった。イエス様に対してもその人気に嫉妬していた。そのイエス様を通して与えられるはずだった救い、恵みを失い、その神様の愛を疑って何になるでしょう。その神様がイエス様を通して和解されたその愛はいかばかりか。嫉妬するどころか、神様は彼らにもその恵みを、救いを、受けてほしい、と御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださったのに、その日々を神様から離れ、神様の与えてくださる地位と言いますか、神様の子とされるその恵みを失ったその日々、それを否定して。

 

偽りの証拠をあげてでも自分の思うようにしようとして何を得られるのでしょう。むしろ神様がこの御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも与えて下さった命によって与えられる恵みはいかばかりか。彼らは偽り、そしてこの世のフェストやカイザル(ちなみに画像に残しておきますが、この時の皇帝カイザルは、ネロです)の手に自分の生涯を委ねるなんて、形づくらせるなんてもったいないじゃないですか。

 

 

しかしパウロはこんな状況にあろうともあくまでこの世のというよりも、全ての権威者は神様なんだ、と委ねます。2年間の監禁生活の中にあっても神様が様々な人を助け手として送ってくださったり、ある程度の自由が与えられるよう働きかけてくださった。神様の前に何ものも自分を縛り付けることができるものはないんだ、と。どんなに自分に襲い来るものがあろうとも神様がそこに働かれる、そこに現される恵みをただ待ち望むのでした。フェストはフェストで↑で見るようにユダヤ人に関心を買うようなことをし始めたりし始めますし。それでもパウロは彼を恐れない、カイザルに上訴する、というのです。カイザルは誰?歴史を見てもわかる通り、この時の皇帝はあの悪名高いネロです。あのローマの大火で有名な。パウロはこの独裁者をも恐れず、全ての権威者、皇帝どころか神様の御手の中に生きる、そのことを願い出たのです。危険も承知。

 

これを聞いてフェストはカイザルのもとに行くようにとパウロに告げます。このフェストの思い、考えについては↑の続きの箇所で詳しく出てくるのでその時に見ますが、私たちは本物の権威をもっておられる方、皇帝どころか神様がいることを忘れてはいけません。神様は支配者ではない、あなたを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにまであなたを愛し抜かれている方。この方があなたの声を聞いておられる、心配してくださっている。私たちはこの方に訴えかけていいのです、進み出ていいのです。神様の御手がすべてを覆い導いて下さる。あなたを取り戻して下さる。私たちはこの神様の御手に委ねようではありませんか。不安や悩み、痛み、そうしたものに支配させてはいけない。この神様の愛があなたを覆い、また形づくられる、建て上げてくださる日々を私たちは願い求めよう。パウロを訴え出たような人たちのようではなく、神様の愛の炎、情熱が今日もあなたの内に灯っているから。

 

私たちって偶然できたのではないって知ってます?偶然じゃあ人のいのちはできないんです。そのからだを与え、組み立て、いのち(魂と言ったらわかりやすいでしょうかね)を吹き込む方がいなければいけない、神様からこのいのちは与えられたんです。

 

神様が私たちに、ご自身のイメージに似せてつくられた最高のもの。

でも、私たちが神様から離れて歩んでいるうちは、この神様の最高は現されないですよね。

クリスチャンだから仕方ないから聖書を読む、祈る、でもそんなところに神様の本物の喜びは現されない。私たちがイエス様のように生きる中で神様の最高が現わされる。

 

神様は私たちにご自身のイメージ、最高の姿を取り戻させようと、御子イエス様のいのちをさえ惜しまず与えてくださった、そこまでしてでもあなたにご自身の愛、最高を注ぎたい。あなたは・・・??

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

Ⅰヨハネの手紙2章6節

「キリストのそっくりさん」

 

 

あるドクターが、

 

依存の反対の自立、それは、だれにも頼らないのではなく、

頼れる選択肢をたくさん持っている、という事なんだ、と言います。

 

ああなるほど、と思うところですが、

頼る選択肢によっては問題になってしまうこともあります。

それにいつもその人が助けてくれるとは限らない。

 

ただ、本当の意味で頼って言い方を私たちは忘れてはいけない。

あなたを救うためなら命さえ惜しまなかったイエス様があなたと共におられる。

晴れの日も、雨の日も、順境の日も、逆境の日も、

世の終わりまであなたと共にいるよ、と約束されたこの方が。

 

罪から、世の奴隷から解き放ち、このイエス様にあって自由とされた。

私たちは神様の子とされたのですから、

どんどん頼りましょう。イエス様に。

困ったあなたに助けの手を閉ざす方ではなく、開かれあなたを受け入れてくださる。

この神様の御手にあって驚くべきことがされる。

 

あなたは今日誰に信頼しますか?

 

「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる。愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ。善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」

箴言17章8-15節

 

あるホテルで働いていた時、「サービスに限界はない」と話した事があります。ここまででいいと思ったらそこまでしかできないけど、あと一歩というサービスがお客さんの必要に届くことがあるんだ、そんなような話をしたような記憶があります。もう13年以上前の話ですからあまり正確には覚えていないのですが。あるクリスチャンの人もプラス1cmの行動と言っていました。まあそれはともかく配慮や気遣い、思いやりも似ていると思います。そのちょっとの行動が誰かのかゆいところ、誰かの必要に届く。でももう一つ覚えていてください。神様の愛は惜しむことがないのです。プラス1cmどころかあなたのつらい日、悲しみの日、どん底な状況、何より罪というどうにもならない中にいる私たちを救うために御子イエス様のいのちを十字架に身代わりにかけてでも救われた。陰府にまでそこまでして降られた。その神様の届かないところ、できないことはない。私たちはこの神様の愛が溢れることを願おう。そこに驚くべき恵みが、いのちが広がることを期待して。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向けて神様が語られ示された箴言・知恵のことば、そしてその彼がこれを書き残し私たちにも示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は何か適当な知恵や知識を私たちに与える、注ごうとしているのではなく、惜しむことのない最高の愛からくる知恵・御心を現し、着飾らせたい、その思いがうかがえますね。ある一部ではない、あなたを、私たちを、いつでもどんなところにおいても、どんなに見捨てられたと思う中にあっても神様は見捨てず、私たちをつくられた父なる神様として我が子たる私たちに良いものを注いでくださっている。その初めなる方がいるとはなんという幸い。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく」と語られ示されているのですが、このことばは少々驚きですね。このことばを読むと、どう読んでも賄賂がいいもの、と感じてしまう。一体どういうことなのか?なんでそんな言葉をセレクトしたのか不思議で仕方がないと言いますか、訳した人の感性なのか、読む私たちにはなかなか理解ができない。

 

それでこの賄賂ということばについて調べてみますと、「物を贈って取り持つことや、なだめるための贈り物」という意味があるそう。もう少し見ると、「賄」は食物をまかなう、供給する、「賂」は贈り物、礼物、という意味を持っているそうで、ようするに「生活や関係を円滑にするための贈り物」というわけですね。もっというなら、その成り立ちは、国と国、部族と部族の間で、敵対を避けたり同盟を強めたりするために贈り物をするのは普通の習慣で、これは「賄賂」というより「贈答」や「進物」に近い役割でした。まあ、今の世の中にはびこる賄賂に近い役割が古代中国や中世ヨーロッパではあって、役人に贈り物をすることで自分の願いを聞いてもらいやすくする風習があったようですが。ただ残念なことに愛ではなく正義を捻じ曲げることにこれを利用する人が出てきたわけです。

 

そうすると「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく」という意味合いが理解できますね。正義を捻じ曲げるような賄賂はダメですよ?送り主の目には送ることで必ず成功する宝石に見えても必ずその蒔いた種の刈り取りをすることになりますから。送られた方も困ります。それは宝石に見えても滅びに向かわせる偽物でしかない。

 

でも、この17章の中で見て来ている困っている人へ良いものを分かち合い(愛)、この視点と合わせてみると、その人の生活、状況が円滑にする、必要が満たされるように「贈る」、食べ物でも、話を聞くでも、一緒に祈るでもいい、一緒にその人の隣に座ってあなたが贈るその何かの先に願う神様への願い、祈り、その愛の行動の内に神様が働かれ、輝かせてくださる。そのあなたを通して神様はうまくいかせてくださる。賄賂を贈る人が何でもうまくいく、というよりも、神様への信仰、思いを捻じ曲げず、正義なる神様に真っ直ぐ心を向け、その心を贈る、捧げる、その中に神様が働かれ、私たちの小さな事、決断であっても神様が大きなものに変える、神様が働かれ、大きなことを成し遂げてくださるのです。

 

そういう意味では、私たちは誰かに何か良いものを引き出すために賄賂を贈るのではなく、和を成し遂げてくださる神様に心を向ける、これが大切です。↑のようにどんなに賄賂を贈ってうまくいったように見えても、刈り取りをしなければならなくなる、でも賄賂云々の前に、すべてを賄ってくださる神様、和をなして下さる神様に私たちは心を捧げよう。これを隣人に分かち合おう。そこに神様の賄ってくださる素晴らしいものが現わされるから。神様の愛が現わされることをどこまでも求めよう。神様もどこまでもご自身の愛を現さんとあなたの内に働こうとされているのだから。

 

さらに、↑で「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」と語られていますね。これを読んで思い出すのがノアの話です。神様が裁きのために40日40夜雨を降らせ続けノアの一家以外は滅び、ノア一家は箱船で救われた。洪水の後、ノアはぶどう畑でぶどうを作っていたのですが、ある時そのぶどうで取れたぶどうでワインを作り、酔っ払い、裸になってしまっていたのですよね。彼も長い箱船作成(それだけでも100年かかっていた)だったり、罪の中にいて疲れたのかもしれない。ワイン自体が悪いわけではない。ただ、それを見た息子たち3人のうちの一人が、厳格な父がこんな痴態を晒していると笑い、性的な目で見ていた。一方で2人の息子はノアの痴態を見ないように近づき、衣でその裸を覆ったという出来事がありました。ノアはこの3人の行動を知って、笑って馬鹿にした息子には呪いを預言(神様に立ち返らなければこの呪いが及ぶと)、残りの2人には祝福の預言をしました。しかし、実はその2人の祝福のもとに呪われた一人は招かれていることも預言されていたんですよね。

 

ノアの二人の息子の、ノアへの愛の覆いはノアの痴態を隠し、さらに神様の愛がノアを覆っていることへの安心感を与え、平安をもたらし、さらには神様の愛の覆いがノア、そして2人の息子に及んでいることを知った。そして呪われたもう一人の息子にもこの覆いが広げられているから帰っておいで、と招かれたわけです。神様の愛の覆いはどこまでも広がれているわけですね。何でも愛で覆っていいよいいよ、ありのままでいいよ、ではなく神様の覆いが私たちを覆っていることを忘れてはいけません。その中に私たちは生かされていることを忘れてはいけません。神様の愛の覆いが私たちを覆って、先程の賄賂の話ではありませんが賄ってくださっているのです。だから私たちは私たちの全てを覆ってくださっている、優しく、その傷ついたからだも心も、全てを、優しく親が我が子を衣で覆うがごとく覆って温め、癒して下さるように、私たちのいのちを、全てを覆ってくださっているのです神様の愛が覆っているその愛を私たちも求めて良いんです。神様は賄賂どころか、惜しむことなくその愛を、すべてを与えてくださっているのだから。

 

「同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる」。まあそれはありますよね。何か失敗をすると、鬼の首を取ったようにあれこれ繰り返し言うことって。でも、それはその相手の人のためにもならないし、言っている自分はどうなの?となる。そんなにあなたは完璧なの?と。今度自分がやればもっと恥を見ます。そこにいいことはない。むしろ先ほどの神様の愛の衣が覆うことを追い求める。神様の愛をもって勧める、一緒に取り組む、ここに神様が働かれることを信じる、神様の衣の下に、中に一緒に入る中で私たちはそこに神様の素晴らしい業、回復を見るのではないでしょうか。

 

むしろ失敗ばかりどころか、神様を愛していると言っているのに神様の忌み嫌うことをしたり、好き勝手に生きたり、神様を神様としなかったり、そんな私たちを裁き続けるのではなく、赦しを与えるため、親しい友を離さないため、私たちのここまで見てきたような傷や痛み、また罪という恥を覆うべく、御子イエス様にこれらすべてを身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を覆い、赦し、神様の子として迎え入れてくださる、親しい友、子、家族として迎え入れてくださる。この神様が御子イエス様にあって私たちを繋げてくださったのです。嫌うのではなくあなたを愛することを選ばれたのです。

 

この神様の、イエス様にあって現わされた愛が今日も私たちを覆っていることを忘れてはいけません。神様が私たちに贈られたのは御子イエス様のいのちだった。そこにあなたが宝石のように輝くことを願い。あなたの内に神様のその愛で、その御心で覆い、導き、良いことを成し遂げようと今日もしてくださっていることを。

 

「悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる」。イエス様を一度、私たちの身代わりに罰し死なせることで、全ての人の罪を覆ってくださった。私たちはこのイエス様の十字架で罰せられた姿を見てどうして神様になお逆らって歩めるだろう。残忍な者たち、サタン、罪に追われるような歩みをすることができるだろう。むしろ神様の愛が、イエス様に現されたこの愛が私たちを追ってその恵みが私たちの生涯を覆ってくださる、何と感謝なことだろう。誰でも責めることは簡単、でも一緒に悔い改めに導いて、この神様の愛を受け取る方がもっと素晴らしいことがこの神様から現されるのではないか。十字架上であらわされた究極の愛が。

 

「愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ。善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう」。私たちはまことの愛なる神様にお会いすることが赦されている、イエス様のいのちにあってその扉は開かれた。もうこの神様の愛から離れてはいけない。争いではなく神様の愛が、赦しが、癒しが、その恵みがあの十字架から今日も噴出している。私たちはこの愛を受け取りに行こう。このイエス様にあって覆われた衣の下に入ろう。今日も主の愛があなたを覆っているから。罪人を赦し、神様の子として迎え入れてくださった深い深い愛が今日もあなたを、あなたの周りを、あなたの行く所どこにでも覆っていることを覚えて。