「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか。友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。心の曲がった者は幸いを見つけない。偽りを口にする者はわざわいに陥る。愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない。」
箴言17章16-21節
私たちは一人では生きてはいけない。シンプルに考えて生まれて来た時、もし両親がいなかったら、捨てられてしまったら…ちょっと想像するのも嫌になる話ですが、それが起こってしまっている現状もまた悲しく、また悩むその親を支える体制があるにはあっても行き届いていないのも残念な話。話が別な方向に行きかけているので戻しますが、私たちは生まれたときは両親や家族に支えられ、その後周りの家族、地域の人たち、学校に行けば同級生や先輩、先生、そして社会に出れば…と色んな人に囲まれ、支えられ、学び、そうして生きる。一人で生きているわけではないんですよね。でも原点に返ると、私たちにいのちを与えてくださったのは神様、この神様が支えてくださり、父なる神様として私たち子を養ってくださり、導いて下さり、様々な友などに出会わせて下さり、そうしてそうした関係の中にも働かれながら私たちを導いて下さっている。だから私たちはこの神様に期待していいんです。すべての主なる神様がご自身の恵みの内に招いて下さっているのだから。御子イエス様のいのちさえ惜しまず私たちを救うために与えてくださった方が今日も。今日、この方の愛を求めよう、この方の愛が溢れ流れることを祈りつつ。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた箴言・知恵のことばといいますかいのちのことば、そしてそのソロモンがこれを書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様の与えてくださる知恵、知識って形だけのものではなく、神様から出てくるもの、神様の愛から私たちに与えられるものなんですよね。どこか夢のような話ではなく、その知恵の中に神様の御心がある、注がれる、だからこの神様の知恵の前にひれ伏そう、そう訴えてこられたわけですね。ただの机上の空論とかそういうものではなく、この最高の知恵・愛・御心をあなたに現したい、と。
そんな神様はソロモンに向けて、またその彼を通して私たちに向けてさらに「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか」と語ります。
これ、以前使徒の働きの分かち合いの中で見た話しを覚えているでしょうかね。イエス様が十字架に架かられ、死なれ、3日目によみがえられた後、天に昇られ、新しい助け主なる聖霊様が降られてしばらくして教会が誕生したのですが、パウロ(この時はサウロ)の迫害によって、人々が散らされていった、その中にあってもみことばを伝えていったわけですが、その中でピリポという人がいました。彼はイエス様の十字架と復活による救いを伝えながら困っている人にも手を当て祈っていたのでしょう。その中で「汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風(分かりやすく言うと脳卒中)の者や足のなえた者は直った」という出来事がありました。この出来事に多くの人が大喜び。
これを見ていた魔術師のシモンという人がいたのですが、彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していました。まあ彼の魔術、まあどちらかというと今の時代で見ればわかるようなトリックを使ったものだったのでしょう。もしくは悪霊・サタンが彼の内に働いて見せていたか。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていたというのです。そうして魔術師シモンは自分に関心を寄せさせていたのです。しかしこのピリポを見て、同じ力が欲しい、と願い、イエス様を救い主として信じると言って洗礼を受けたのでした。
ところがその後イエス様の12弟子の一人だった使徒ペテロが彼らに手を当て聖霊を受けるように祈ると、彼らに聖霊が降った、その様子を見ていたシモンはこの不思議な力が欲しい、とお金をもってきて「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言ってその力を買おうとした、そんなことがあったのです。
しかしその魔術師シモンにペテロは「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています」と語りました。シモンは最後ペテロに「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください」と答えたのですが、残念ながら彼は悔い改め立ち返ることなく、キリスト教徒と徹底的に対立していくグノーシス主義(この世界は欠陥品で、救いは特別な“知識(グノーシス)”によって得られるというもの)の中心となっていき、ローマでは人々に崇拝され、ついにはシモン神とまで言われるようになったとか。ただ、最後は自分の神性を証明するために空中に浮かび上がろうとしましたが、ペテロとパウロの祈りによって落ちて死んだ、とか。
↑の最初のことばを理解するうえでペテロのことばは非常に重要な役割を果たします。神様の賜物というのは、愛というのは、恵みというのは、救いというのは、神様の全てはお金で得られるものではない。神様は私たちをはじめに愛してくださって、その全てを与えようとしてくださっているのです。ただ私たちが神様から離れ歩んでいる中で、本来その受けられるはずの恵みを失ってしまった、与ることなど赦されないはずのものだったのです。しかし、私たちが悔い改め立ち返る、これ、方向転換という意味もあるのですが、心の方向転換、歩みの方向転換し、神様に立ち返る、その中で私達は神様と素晴らしい関係が結ばれる、回復されるのです。何せまず神様が私たちを救うべく、私たちのこの罪も痛みも一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせた、そのイエス様のいのちを身代わりにこの罪の代価として支払われたわけですから。私たちがこのイエス様の十字架にあって悔い改める時、私たちはこの神様の恵みに与る、私たちがお金で買おうとする必要も何もない、いや何にも代えがたい神様の恵みに与らせていただけるのです。
シモンはこの機会を口先だけ祈ってくださいと言いながらも方向転換せず、神様の恵みを失ってしまいましたが、神様は本来そうなってほしくないからこそ、ペテロを通してシモンに悔い改めの機会、生きる機会を示されたわけです。私達も同じ。神様は私達に本当の意味で生きるものとなってほしい、とまずその愛を示された、その愛からくる知恵・御心を惜しむことなく与えたい、不義の絆じゃない、イエス様の十字架にあって結ばれた義の絆、この中に招いて下さっているのです。何と感謝な事。
「愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどういったことか」と思う神様はその代金を御子イエス様のいのちによって支払ってあなたに本物のいのちを、神様の恵みを与えてくださった。愚かなものどころか、神様の子として。何と感謝なことでしょう。神様の思慮が、神様の知恵・御心が私たちの内に働いているなんて、いや働かせてくださっているなんて。私たちが孤独でどうにもならなくならないよう、今も確かに助け主なる聖霊様が共にいて働かれているなんて。何か不確定な存在でも力でもない、聖霊なる神様が確かにあなたの傍にいて助けてくださっている。こんな素晴らしい歩みなんてないじゃないですか。
あれがどうにもならない、どうしたらいい、とどこかの神社だの、パワースポットだの、啓発系だの、そんなところにお金をもって並ぶ必要なんてない。1円もいらない。むしろイエス様のいのちというどうやっても払いきれないほどの代価が支払われてあなたに与えられる、神様の御心が、知恵がそこに働かれるのだから。私たちはただ悔い改める、方向転換するだけでいい。ここから虚しい歩み、愚かな歩みではない、いのちの、喜びの、恵みの歩み、日々、いのちへと変えられるのですから。
「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と↑でさらに語られていますね。そういえばドイツのことわざにも「ふたりというものはいいものだ。楽しい時は2倍楽しめる。そして苦しい時は半分で済む」というものがありますが、恐らくこの聖書のみことばを読んで知ってのことかな。本当にどこでも通じる話です。友を愛する、でも仲がいい友達だけではありませんよ?聖書で言う友は苦手な人もです、そんな友と苦しい時も元気な時も愛する、喜ぶものとともに喜び、悲しむものと共に悲しむ、そうして分かち合い、「共に祈りある」、その中に神様の愛が働かれ、癒される。いかんともしがたい苦しみも悲しみも。それこそ先程まで見てきた神様の驚くべき知恵、力、愛が私たちを覆うのです。
何よりイエス様は罪人であった私たちを友と呼び、その友の苦しみ、痛み、罪というのろい、それら一切をご自身で背負ってくださった。分け合うどころかすべて。そして十字架に架かって身代わりに死なれることであなたへの愛を示されたのでした。罪人を友と呼び、その友のためにいのちを捨てたのです。私たちのこの苦しみを取り除き、癒し、新しくするために。その神様の愛が私たちを覆っている。この愛を友と分かち合う時、そこもまた変えられていくのではないでしょうか。
「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。心の曲がった者は幸いを見つけない。偽りを口にする者はわざわいに陥る。愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない」。別に保証人になってはいけない、というわけではありませんよ?困っている人を黙って見ているのが正しいとは言えないし、今見た友をどんな時も愛する、苦しみを分かち合う、と話が合わなくそれではなります。しかし自分なら何でもできるから、と安請け合いするのではなく、そこに神様の知恵を求めるのです。何をこの人に語ったらいいのか、どんな風に助けたらいいのか。神さまには無理だ、と諦め、下手をしたら神様と喧嘩をして、神様が導こうとしている道とは別な方向に行って破滅に向かうのではなく、たとえ狭く見えてもイエス様の門を通る、その中に私たちは幸いを見つけるのです。
もう私たちは友としてくださった神様への心を曲げてはいけない。ただ私たちはこの神様に真っ直ぐに心を向け、神様のくださる幸いを、お金では買えない、御子イエス様のいのちという代価でいただいた、頂ける幸いの道をまっすぐ歩ませていただこうではありませんか。世の偽りの声に耳を傾けるのではなく、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様の働かれる御心、御力、そこに現される幸いに信頼し。悲しみではなく喜びを生み出されるこの方に信頼して。今日も主はあなたが滅びることを悲しまれ、その愛を惜しみなく注がれ、喜びへと導こうとその御手を伸ばされている。あなたはこの手を取りますか。