「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない。自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」
箴言17章22-28節
笑顔というのは副交感神経がどうも働くのか元気になる、そんな力があるそうです。そういえば誰かが、あなたの笑顔にはチロルチョコ100万個分の力があるんだよ?という話を聞いたことがあります。あなたの向ける笑顔は人を励ますことができる、すごいですね。陽気な心は、愛からくる心配りは、他の人を元気にする。本当にすごいですね。とはいえ、元気をもらいたい人がいるように、やっぱりいつでも人が元気でいるなんてことはできない。根性論とか精神論で乗り切るとかそういう問題じゃない。それができるなら人はどれだけ楽に生きられるだろう。それができずに苦しむ人が今も多い。でも、その心の源は、心を与えてくださった神様ならあなたの心を元気にすることができる、満たすことができる。神様の愛はあなたを覆っているのです。愛するわが子へ、父なる神様はその惜しみない愛で覆う、元気・平安で満たすため、苦しみも何もかもとり除くために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたに喜びを与えてくださった。私たちのこの救い主イエス様は今日も生きている。このイエス様と共に私たちは歩もう。イエス様の導かれるこの道をただ歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言といいますか知恵・いのちのことば、またその彼がこれを書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを霊肉共に、心身ともに健康にしようとご自身の知恵、愛からくる御心を現し、これで覆おうとされてるんですよね。神様の願うところはあなたが幸せになること。思い煩いや罪によって支配されるのではなく、あなたが神様の恵みに満たされ幸せになってほしい、その思いがまさに注がれているわけですね。このいのちの関係に神様は招かれている、あなたを捨てるのではなく、生きてほしいと。だからこの恵みを蔑ろにしてほしくない、と。
そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」と語られ示され、またこれをソロモンは書き残します。これはまたなかなかインパクトのある言葉ですね。でも、確かに心の在り様ってからだといいますか健康に影響を与えます。骨を枯らすかどうかは分かりませんが、ただメンタル的な面が心身に与える影響については近年はっきり見えてきていますね。骨を枯らすと言いますか、自分を支えるのもつらくなってきたり。
とはいえ人それぞれ性格的なものや、状況によっていつも陽気でいられるわけではない。簡単なようでなかなか難しい所。だから陽気でいられない、つらい、そんな状況にいる人もいる中で、黙っているのはちょっと違うことがこれまでの箴言からも見えてきますよね。例えば、昨日の分かち合いの中で見ましたが、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」。そんな友を愛する。否定的なことや貶めるようなことを言うのではなく、一緒に苦しみを分かち合う中で、話を聞いて、一緒に進んで。何より神様に一緒に祈りながら苦しみを分かち合うと言いますか、時間を共有しながら神様の愛を受け取る。話を聞くよ、という人もいるのですが、一瞬とか、自分の都合のいい時だけ聴く、聞いたポーズをとるだけで、自分の意見ばかり言う人もいるけど、傾聴的に聞いて、神様に傾聴して神様の愛を聞く、一緒に取り組んでいくという事が抜けることがありますよね。もちろんそれぞれ時間もありますし、それは理想的に聞こえるかもしれませんが、骨が枯れて立ち上がれない人の支えがなければどうにもなりません。それは聞き手も同じ。本当に支えとなる神様に寄りかかり委ねる、神様の支えを求めるのです。一緒にいられない、聞けない時でも本物の支えなるイエス様に依存する。イエス様はいのちをかけてでも私たちが倒れ死なないようにされた、そんな方がいるのだから。
ちなみに、陽気な心ってどんな心だろうか、と思って調べてみると、「前向きな心、感謝する心、周りを励ます心、平安のある心」だそうです。その根拠は、私たちの支え、救い主なるイエス様がいるから、この方が一緒にいるから、今も生きておられ働かれておられるから、私たちのためにいのちを投げ出してでも、身代わりに私たちの痛みも悲しみも全部背負われた、罪も一切身代わりに背負われ十字架に架かられ、死なれ、復活とともに勝利された、この方が私たちの手を取って、後ろではなく前に進ませてくださるから、前向きでいていい、それをイエス様が保証してくださるから、平安な心が得られる。だからこの方に感謝しつつ、この方の愛に生きる中で、周りにもこの愛が溢れ流れていくわけですね。イエス様が私たちの骨を枯らせず死なせず、むしろイエス様のいのちにあって新しくしてくださる。この方の支えがある、支えてくださっている。これ以上の私たちの心の支え、いのちの支えはないのではないでしょうか。
「Keep On The Suuny Side(陽気に行こう)」という曲があります。私はこの箇所を読んだときにこの歌を思い出しました。「喜びの朝もある、涙の夜もある、長い人生なら、さぁ陽気に行こう。陽気に行こう、どんな時でも、陽気に行こう。苦しい事は解ってるのさ。さぁ陽気に行こう。嵐吹き荒れても、望み奪われても、悲しみは通り過ぎて行く、陽も輝くだろう。…君を信じよう、僕を信じておくれ。救い主は生きている。さぁ陽気に行こう。…美しい朝には声をかけておくれ。僕も歌いながら、あいさつしよう。…」というような歌詞(…は陽気に行こう、どんな時でも…の部分)。まさに陽気な心そのもの。陽気でいられないこともあるけど、救い主イエス様が陽を輝かせてくださる。救い主イエス様が生きている、だから、君を信じるし、僕も信じてほしいけど、それ以上にイエス様を信じてほしい、ある意味ではこの「僕」はイエス様から見た言葉なのかもしれませんね。イエス様が僕のことを信頼してほしい、信じてほしいって。美しい朝を迎えさせてくださる、復活の朝を、あなたに声をかけに行って新しい歩みをイエス様とさせていただける。死んだ一日ではなく復活の一日、日々を。陽気な日々を。
この曲名をストレートに訳すなら、陽の当たる場所を守れ、と言ったところですが、このイエス様が陽を当ててくださるから、ここを何ものにも奪わせてはいけない、ここに私たちも行こう、陽の当たる場所、イエス様が照らして下さる場所へ。日陰に隠れている必要はないんだよ、と招かれている感じがしますね。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。もし骨を枯らして立ち上がれない人がいるなら、一緒に行きましょう。そしてイエス様のくださる本物の元気をいただこうではありませんか。そこに広がる喜び、陽気な日々に期待して。十字架から照らされた光が私たちの枯れた骨、いのちをよみがえらせ、立ち上がらせてくださる。この方の光が今日も輝いているから。
なお↑で「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ」と語られていますね。賄賂、この17章の途中でも出てきましたが、その本質的な意味は「生活や関係を円滑にするための贈り物」であることを話しましたね。生活やいろんな問題で困っている人への贈り物、助けはある意味で大きな役割があります。ただ袖の下に入れる、そんな賄賂、それによって裁きを捻じ曲げるのはダメです。聖書の中で厳しくこのことについて「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。…わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる」と言われています。
呪いは祝福の逆です。神様の祝福ではない、恵みを失いサタンの手にとらわれる、最悪の状態です。しかし神様はこうも仰ります。「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである」と。神様は正義を曲げない。神様の愛を存分に現される。たとえ在留異国人(イスラエルの民から見たらそれ以外の民、今の時代なら罪人、苦手な人など)であっても神様は惜しむことなくその愛を実行され現される。どうしてこんな目に合わなければならないんだ、と思う中に神様は働かれている。
見えてきましたね。先程の陽気な心の話と合わせるなら、神様はそのように世の中が裁きを曲げ、理不尽なことをしてこようとも、神様の光が照らされ、全てをまっすぐにされる。そのようなものをキチンと裁いて下さる。見捨てられたように思える中にあって神様は確かに陽を照らし、私たちに必要なものを与え、働かれ、元気にしてくださる。私たちはその祝福の陽の下に招かれているんだ、そのことを覚えますね。だからこの方に顔を向けよう、と。
そういえば、神様は「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」と祝福するようにかつてアロンという人に命じられたのですが、まさに神様の陽の光、呪いではなく祝福が私たちを守り、神様が御顔を私たちに向けて照らし、恵まれ、平安を与えてくださる、その約束をどうか忘れないでくれ、そうこの命令に込められていたわけです。この神様の約束は今日も変わらず、見捨てられそうな私たちをさえ、あの十字架上であらわされたイエス様の命がけの救いによって照らされているのです、あなたにも。
「愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない」。それでも父なる神様は私たちを憂い、心配され、心を痛められ、あなたを救うために御子イエス様のいのちを身代わりにされた。正しい人にいのちという罰金を身代わりに支払わせ、高貴なイエス様に鞭を打つ、どちらもよくないことをしてでも。そうして私たちの憂いも痛みも罪も取り除き、愚かな子ではなく、神様の子として迎え入れてくださった。全ての痛みを負ってでも。何という深い愛、この愛が今日も照らされているとは。
「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」。私たちはこの神様の約束、愛を押しのけて、どうせ、とか諦めるのではなく、その言葉をいったん控えて、このイエス様に心を向けよう。陽気な心を与えてくださる方、イエス様の英知・知恵が、私達の閉ざされた、陽の当らない場所に陽を照らし、新しい日を迎えさせてくださるから。この神様の富に富む、いのち溢れる日をただ私たちは祈り、待ち望もう。救い主は今日も生きている。さあ陽気に行こう。