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とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た。ふたりがそこに長く滞在していたので、フェストはパウロの一件を王に持ち出してこう言った。『ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。そのとき私は、【被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない】と答えておきました。そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に【エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか】と尋ねたところが、パウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと願い出たので、彼をカイザルのもとに送る時まで守っておくように、命じておきました。』すると、アグリッパがフェストに、『私も、その男の話を聞きたいものです』と言ったので、フェストは、『では、明日お聞きください』と言った。こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂に入った。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた。そこで、フェストはこう言った。『アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。』」

使徒の働き25章13-27節

 

私たちは生まれてきた時は親元で両親の惜しみない愛情によって育ちます。子どもの頃は分からない、両親が子どものために自身を犠牲にしてでも注がれている愛は半端ない。でもいつかは親元を離れ自立していく。これまで親・家族の中で生きていた中から外に出た時、違う風景を見る。でも決して変わらないものがあるのです。それは神様からの愛。あなたにいのちを与えてくださった父なる神様は生まれる前から、母の胎内にいる時からすでにその愛を注ぎあなたを組み立て、生まれて後もその愛を惜しみなく注がれている。親元を離れても神様の愛は変わらない。神様の愛が私たちを覆って、刺し貫かれ、守られている。あなたを救うためになら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほど愛されている神様の愛が。私たちはこの方が展開されようとしている御心、ご計画に信頼しようではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩い、痛み、罪一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主聖霊様が降られ、教会が誕生した後のこと。このイエス様の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。

 

旅の途中、苦難困難がありながらも、そこに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきます。それでもパウロはこのイエス様の福音、救いを、罪人であった自分をも赦されたイエス様の愛を訴えます。それでもなおパウロを認めず殺害する動きは止まらず、2年間牢獄に投獄されたこともありましたが、聖霊様の助けによってある程度の自由が与えられ、彼の友が助けに来たり、この間イエス様の救い、また各教会を励ますべく、手紙を書く地に書き送りました。

 

そして↑の前、ローマの総督ペリクスとフェストが交代になり、カイザリヤで2年間放置されていたパウロの裁判が再開されるのでした。パウロは、パウロを訴えるユダヤ人が言うような神様が定めた律法を破ってはいないし神殿も汚してはいない。まあユダヤ人や大祭司は自分勝手に捻じ曲げて帰って彼らの方が破っていたのですが彼らはそれに気づいていない、気づいていて指摘してくるパウロが気にくわないのか訴えてきますが彼は無罪、カイザル(皇帝ネロ)に対しても何の罪を犯していない、ローマ転覆のために騒動を起こしていない、と伝えます。そしてカイザル・ネロに上訴することを決めました。神様に委ねることを。

 

どうしたものか悩んでいたフェスト、そして↑、数日たってアグリッパ王(2世)とその妻ベルニケがフェストに挨拶をすべくカイザリヤに来て滞在します。フェストはこの自称ユダヤ教徒のアグリッパならユダヤ人のことにも精通しているだろう、と彼にパウロの裁判について相談を持ち掛けます。アグリッパも彼の先祖たちが関心を持っていたイエスキリストなるものについて興味を持っていたし、これを了承します。まさに今、アグリッパにとっても、フェストにとっても神様の憐れみを受ける時、救いの時となっていたのです。この裁判の裏で確かに神様が働かれていたのでした。

 

アグリッパは↑を見ると、「大いに威儀を整えて到着し、千人隊長や町の主だった人々といっしょに貴賓席に入」ります。威儀というのは元々のことばはファンタスティック、飾り付け、ディスプレー、虚飾の事です。ここでは服装とか、従えた家来の数とか、そうしたものを示したかったのでしょう。自分はこれだけ偉いんだ、と権威を示すべく。しかしそれは所詮ファンタジー夢や幻でしかない、実質をもたない。自分が正しと思う快楽を求め、虚飾に生きる、虚しく哀れな、裸の王様。ユダヤ人たちも表面上だけで味方だと思ったことは一度もない。

 

一方フェストの命令で連れ出されたパウロ。囚人服で虚飾の一つもない、裸の存在。何の価値もないように人々からは見えたかもしれない。しかしその背後には永遠の重い栄光・神様の輝き、素晴らしさがそこに確かにあった。夢や幻・ファンタジーではない、神様の確かに愛が彼を覆っていた。そして次の章でこの2人の立場が逆転するのです。裁いているつもりの彼らがパウロを通して神様に裁かれることとなるのです。神様はファンタジーの中に、虚飾の中に私たちに生きてほしいのではない、自分が正しいと思って人を裁くように生きるのではない、むしろ神様の御前にへりくだり、確かに存在する、この天地万物を創られすべ治めておられる、私たちにいのちを与え、その愛を刺し貫かれ導かれる本物の神様の恵みに生きてほしいと訴えるわけです。

 

この人を見よ、と連れ出されたパウロ、そのパウロを含め私たちに本物の神様の愛を示すために、愛の衣で覆うために裁判に、十字架に連れ出されたイエス様を思い返そう。フェストが何の罪も見いだせないというパウロ以上に、何の罪もない神の御子イエス様を神様は私たちを救うために、そのままにし、裁判を受けさせ、十字架に架かられたイエス様を。本来裁かれなければいけない私たちの罪を身代わりにイエス様が背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれた。そこまでしてでも、私たちが着ている罪の衣、ファンタジーを追い求め神様を否定するこの衣を脱がせていただき、イエス様の赦し、神様の子としての衣を着せていただいたのです。私たちはこの何の罪もないイエス様を十字架に架けた。それでも私たちを神様は赦したいとイエス様を裁判にかけ、十字架に架けられたのです。そこまでされた神様があなたを覆う愛は、ファンタジーじゃない、確かな愛です。このイエス様のいのちをかけてでも愛されたこの神様の全てが私たちを貫き、覆い、導かれるのです。ありえないパウロの裁判の先に神様の用意されている計画が展開されていく、神様の勝利が。

 

私たちはこのイエス様を見て、なお神様あなたは間違っている、と神様を裁いていませんか?自分の虚飾、ファンタジーに生きようとしていませんか?あなたを苦しめるものも、偽物も、全ては逆転する日が来る。私たちは確かに生きておられ、愛し抜かれた、今日もあなたを愛し、すべ治めてくださっているこの神様の御業に期待、信頼しよう。この逆転の時、救いの時を逃してはいけない。神様が着せて下さる衣、いのちがもたらす本物に私たちは生きようではありませんか。

 

 

私は、あなたは神様のイメージに似せて造られたのだから美しい。それは大げさな話ではない、むしろ感謝なこと。(意訳)

 

*でも実はそれだけでは終わらないんです。

あなたを神様は、御子イエス様の十字架と復活による贖いによって、あなたを神様の子とされたのです。新しく日々似せて下さるのです。作り変えて下さるのです。だからこそよけいにあなたは美しい!高価で尊い!

これほど感謝なことはないのではありません。ここに十分な恵みがあるのです。

あなたは神様がどれだけ愛を注がれている存在なのか、その確信はありますか?

 

 

私たちには様々な悲しみがあります。つらいことがあります。

私たちは今日までどれだけの涙を流してきただでしょう。一人で辛かったでしょう。

 

しかし、イエス様はあなたの友となり、神様となられ、世の終わりまであなたとともにいる、最高の友だということを忘れないでください。

あなたの通るすべての道において、同じ苦しみを味わったイエス様、それらに勝利されたイエス様があなたと共に進まれる、栄光へと導かれますから。

いのちをもってあなたを取り戻されたイエス様が、そのいのちをもって取り戻された新しい命を共に歩み導いて下さる、この愛があなたの内に今日溢れる、全てを変えてくださるから。

 

いのちをまでかけられたイエス様があなたに注がれるご計画、愛、恵み…これらに大いに期待しましょう。あなたの涙は必ず喜びへと変えられるkぁら。

 

チャールズ・ハッドン・スポルジョン氏はこう語ります。

 

貧しいことを悲しんでいるのですか? 主は「枕するところも」ありませんでした。愛する人の死を耐え忍んでいるのですか? イエスはラザロの墓で「涙を流された」のです。義のために中傷を受け、苦しんできましたか? 主は言われました。「そしりがわたしの心を砕いた」と。人に裏切られたのですか? 主もまた親しい友によって、奴隷のように売り飛ばされたことを忘れないで下さい。あなたを揺さぶる嵐の海は、主の小舟の回りでもうなり声を上げていたのではないですか? 逆境の谷間はこれまでにないほど暗く、深く、そこには道も見あたらないとしても、身をかがめるなら、十字架にかけられた方の足跡が見えるかもしれません。炎や川の中で、また寒い夜や、焼けつくような太陽の下で、主はこう叫ばれます。「わたしはあなたと共にいる。たじろいではならない。わたしはあなたの友、あなたの神なのだから。」

 

「人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。」

箴言18章4-9節

 

えこひいき、これは良くないことは誰もがわかっていること。でも無意識のうちにしてしまうんですよね。自分の好きな人、苦手ない人で差をつけたり。差別的な要素も?まあ区別しているんだ、という人もいるんですけど、根本的には私たちは同じ神様に作られた、愛された、愛するわが子のために父なる神様は御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださった、同じ愛、赦しを受けているんですよね。そう考えると互いに愛し合う、遜り仕え合うという事はとても大事な事なのかもしれません。互いに相手を優れたものとして考えて。そこに広がる愛はいかばかりか。えこひいきによって捻じ曲げた関係ではなく、神様の愛が、十字架であらわされた愛が流れ、私たちの内を満たすなら、それはどれだけ素晴らしいものになるだろう。神様の愛がまっすぐに流れていく、雨のように地を潤し、実を結ばせる。そんな素晴らしい季節、時期、日が来るならそれはなんと喜ばしいことか。私たちは何よりこの本物の神様を求めよう。本来神様の愛を打いけるに値しなかったはずの私たちにさえ注がれているこの神様の愛が全地に満ち溢れ、ここが神様の御国となりますように。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、知恵のことばといいますかいのちのことば、そしてこれをソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はご自身の内にある良いもの、これを私たちに注ぎ、満たしたい。私たちが神様を蔑むのに、神様は私たちを蔑まず、わが子と呼んで下さって、その良いもので満ち溢れさせようとされている。これを捨てず、蔑まず受け取ってほしい、そう訴えている、何と感謝な事。神様が注がれるいのちの川、水は私たちの内にいのちとなって潤して下さる。私たちは私たちを苦しめる水ではなく、この本物の神様の良いものを受け取りに行こう。そして神様の良いもので満たしていただきたいものですね。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ」と語られ示され、これをソロモンも書き残します。このことばを含め、↑のことばは昨日あまり触れられなかったのでもう少し深堀していこうと思うわけですが、まず、「人の口のことばは深い」これはどういうことなのか。

 

深い水というのは底が見えづらいから、簡単にはその心の内を計ることはできませんよね。こう、うま~く話されてしまうと納得してしまうこともあるのですが、その人の内側にどんな思いがあるか分からない。もしくは表面的には元気なように見えて、ことばも元気なように感じても、その内側には痛みや悲しみがあるかもしれない。そういう意味では軽々しくその人の言っていることを判断できないですよね。もっというなら、深い水はたとえ静かであっても、その力はとても大きなものがあります。川の深い流れは人を押し流す力を秘めているのです。そのことばが相手に与える影響、それは計り知れない。良くも悪くも。

 

そういう意味で、私たちの内に神様の愛が満ち溢れていて、その泉から言葉が流れ出るならその神様の力強い影響、励まし、癒し、力、そうしたものが豊かに働くのではないでしょうか。私たちの川がたとえ濁っている、厳しい、辛い、表面には見えないそうしたところも神様の聖い泉が癒して下さるのではないでしょうか。以前ブログの方に書いたかと思いますが、ことばというのは心の内にあるものが影響する。水も内側が汚れていれば飲めない(まあ飲まざるを得ない地域もありますが、それでお腹を壊して…ということもありますよね)でもその心の内が聖められる時、そのことばはきれいな水となって溢れ流れていく、その中に働かれる神様の泉を飲むなら、イエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と仰られたように、ただ一時的に癒すのではなく、そのうちに住まわれるイエス様の溢れる愛、力…そのすべてが私たちを満たすわけです。なんと力強い約束。

 

私たちはどうしても世のことば、川の流れの勢い、世間体、色んなものに流されやすく、その影響を受けやすい。ああ、これは自分にとっては良さそうだな、とか。でも、私たちは私たちの創り主なる神様、この神様が私たちを癒し、救うため、世の、サタンの流れから引き上げるため、御子イエス様のいのちを身代わりにして、死なせてでも引き上げてくださった、この深い深い愛の川の流れの中生きよう。その神様の愛の川の流れは決して失われることなく、あなたに向けて流れているから。

 

なお神様はソロモンに向けて「悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない」と語られ示されます。先ほどの言葉と合わせてみるとこの言葉の重みが見えてきますね。人はどうしてもえこひいきをしてしまいます。自分の好きな人と嫌いな人。区別だ、という人もいますが、でも心の内にあるものは?でもそのことば、深い川の流れは大きな影響を及ぼすんですよね。聖書の中にも出てきましたよ?偏愛によって兄弟がとんでもなく仲たがいし、兄弟のいのちを狙うなんてことが。イエス様の時代にもいましたよ。あの職業の人は、とか、○○人だから、とか。でもそのえこひいきのもとを見ると、私はえこひいきをする権限がある、偉い、そのような高ぶりのようなものがある気がします。あの人は自分と合わない、嫌い、それは自分が優れていると考えるからでてきること。もちろんこんなことを書いている私自身完璧ではないし、誰とでもよく接するなんてできない。

 

もちろん八方美人のようになれ、とかそういうような話をしているのではなく、私たちは神様からえこひいきなく愛されているものだという事を忘れていませんか。イエス様は○○人だから、とか、罪人だから、とかそういう区別も差別も一切されず、目の前でイエス様を罵る者たち、裏切った弟子たちを見ていながら、それでも十字架に架かることをやめず、降りて見捨てて天に帰ることもせず、最後までその愛を全うされた、その愛を受けているものなのです。もちろんこの人は気に入らない、と思うことだってあるかもしれない。まあその思いもどうなんだ?というところもありますが、その前にイエス様は全ての人にこの愛を、いのちを受けてほしい、と思ってその命をかけられたわけでしょう?その人を、同じ愛、赦しを受けている私たちが否定したり、そのイエス様の愛から引き離すようなことはしてはいけませんよね。イエス様の愛の川の流れ、いのちの川の流れをせき止める言葉かけや関係であってはいけませんよね。イエス様はあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られた、自分を愛するように、相手の人も、好きな人も苦手な人も、どんな人も愛する。

 

もちろんそれは大変なのは重々承知、私も日々それができない自分に幻滅してしまう。でも、そんな自分の心も、濁ってしまっている、何か過去にあったのかもしれないその水の内側をイエス様に聖めていただきながら、もっともっとイエス様の愛が溢れ流れるところへと変わっていく事を祈るなら、そこはどれだけ素晴らしい場所になるだろう、関係になるだろう、天の御国の前味を味合わせていただけるようなものとなっていくのではないでしょうか。

 

パウロは聖霊様に導かれ、「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです」と手紙に書き記します。彼自身もイエス様を迫害する者で、本来神様の愛を受ける資格などなかった、そんな彼をもイエス様の十字架は分け隔ててることなく悔い改める彼を赦し、神様の子として迎え入れてくださったのです。そして、神様の栄光・素晴らしさ、誉れ、平安をまさに現されるのです。

 

また、イエス様の弟ヤコブは「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」と手紙に書き残します。彼もイエス様の御側にいながらイエス様をあまりよく思っていなかった。でもそんなヤコブをもイエス様は見せかけではない本物の愛を示されたのです。神様のえこひいきのない愛は私達にも注がれているのです。純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ちている。このイエス様の愛の川がすべてを変える力をもち、癒すことができる。深い深い力強い川が問題などを押し流し、新しいいのちの泉、いのちへと変えてくださるのです。えこひいきのない神様の愛に私たちは生かされ、この方の愛がすべてを癒すのです。

 

私たちはどれだけこの神様の愛を求めているだろうか。分け隔てなく、私たちをさえ愛し抜かれた、こんな私たちを友と呼んで下さり、その友のためにいのちを捨ててくださった。この方より大きな愛が一体どこにあるのだろう。「悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない」、確かに公平に十字架上ですべての人の罪を背負われ、悔い改め立ち返る全ての人を赦された。新しいいのち、永遠のいのちを与えてくださった。こんな深い愛が流れていくならそれはどれだけ素晴らしいものとなるだろう。あなた自身の内にも流れているんですよ?この愛に生かされるなら、心が満たされるなら、へりくだるなら、いったいどれだけ素晴らしいことになるのだろう。

 

「愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」。私たちは争いや鞭打たれるような生き方、滅びに向かう歩みをするのではなく、このイエス様の愛を求める、その語られる言葉に生かされ、またこの愛をもって仕える者、争いではなくイエス様の平和、いのちが溢れるものであろう、祈る者であろう。賛美と呪いの言葉が同じ口から出ることがあってはいけない。陰口やらそんな残念なことをしても悲しいだけ。もっともっと神様のいのちの川、あいのことば、いのちが溢れ流れることを祈ろう。神様の御心・知恵で満ち溢れるように。私達も満たされるように。「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である」。この神様の愛をなまけて別な道に歩むのではなく、ただこの神様の働きの器となることを願いたいものです。祈ることをなまけず、祈り願い求め続けたいものです。神様の働きは、神様は今日も休むことなく平和、いのちの働きをなして下さっているから。

 

私たちは危険に直面した時、その危険からどう脱出するか、なんとか助けてほしい、と願います。

 

でも、本当に恐ろしいのは今向き合っている問題ではなく、神様に目が向かなくなる時です。

神様はいつでもその御手を、愛を現されています。

私たちは決してライフラインを途切れさせることのない神様にいつも目を上げ、歩みましょう。

聖書には365回恐れるな、という言葉が登場しますが、

神様は私たちの恐れを喜びに変えてくださるから

御子イエス様のいのちを持ってまであなたを取り戻された神様が、あなたを今日新しくされる。

あなたはこの神様を求めていますか?

 

危険からかくまってください、と祈るのではなく、今向き合っている危険を恐れることがないよう祈りたい(意訳)。

Let me not pray to be sheltered from dangers, but to be fearless in facing them.

 

世の中には色んな人がいて、色んなものがある。

そうしたものに囲まれて、何が正しいのか、どうしたらいいのか分からなくなることもある。

 

でも、一つ大切なことを覚えてほしいことがあります。

 

ちょうど、この時計の背後には時計製作者がいなければならなかったように、この偉大なる宇宙の複雑に入り組んだ精密さとタイミングの背後には、偉大なる創造主、または設計者がいなければならなかった!

ーロバート・A・ミリカン

そう、それらのものを創られた方、設計者、あなたをつくられた方がいる。

この方が創りっぱなしではなく今も働かれているのです。

あなたの事を愛してやまない、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与え、身代わりに死なせてでもあなたを救い出された、そこまでされる方が今日もすべての背後に働かれ、良いものに建て上げようとしてくださっている。

この神様が精密にあなたの内に働かれ、現わされる素晴らしい御業を今日も待ち望もう。

 

 

目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
イザヤ書40章26節

 

 

 

「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。悪者が来ると、侮りも来る。恥とともに、そしりも来る。人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」

箴言18章1-8節

 

人と人との関係というのは心を無視しては中々良いものとなっていかない。相手の気持ちを考えずに、相手の話を聞かずにただ自分の言いたいことだけをずかずか入ってきて言ってきて去っていく、そんな人もいますが、まあ何と身勝手な、と思うところではありますが、でもそんな身勝手な関係から良いものなんて生まれてこない。でもその心からの思いは相手に伝わる。その人に何かのきっかけを与えたり、立ち直るきっかけ、変わるきっかけになるかもしれない。そのうちにあるのは相手への思い、愛。何より神様は私達へ心を閉ざすことなく、むしろその愛を惜しいまず与えてくださった。愛するわが子への思いを閉ざすことなく、父なる神様として最高の愛を現そうと、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、その間に住まわせ愛を現され、ついには私たちを救うため御子イエス様を身代わりに十字架に架けてまで救うことを選ばれた。この神様に私たちは心を開こう。そこから光られる新しいいのちの内に神様の素晴らしさが輝くから。そこに神様の愛、お心が確かに溢れているから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言といいますか知恵・いのちのことば、そしてそのソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、初めなる神様はその良いものを閉ざすことなく私たちの内に、わが子のために惜しむことなくあふれさせてくださっている、その愛で私たちを生かそうとしてくださっているんですよね、幸せになってほしい、と。その愛からくる知恵・御心が今日も私たちに注がれ、着飾らせると言いますか、生きたものにしてくださっている、何と感謝な事。こんな素晴らしい神様を捨ててはいけないと言いますか、その扉を閉ざしてはいけませんね。

 

そんな神様はさらにソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けて「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす」と語られ、またこれをソロモンも書き残します。

 

これを言われると、なかなか自分を出せない、出しづらい人には厳しいことばに聞こえてしまいます。心を閉ざさざるを得ない状態にある人もますし。ただ実際、心を閉ざすと人間関係が希薄になったり、誤解されやすくなる、気持ちがうまく表現できなくなってそれが伝わらずストレスが増したりと、大変ですよね。その状態の時は苦しいのは分かりますが、ただなかなかそこから脱出、回復するための「すぐれた知性」が入ってこないと言いますか、働かなくなってしまうのも事実。だからまあ葛藤があり、苦しむのでしょう。私もそういうこと、多々ありましたし、あります。まあそういう状態ではなくとも自分を閉ざして好きなように生きる人もいますけどね、ここにあるように欲望のままに。他者を受け入れない、という点ではやはりそこには優れた知性が働かず、本来受けられるはずの良いものも受けられない。

 

そういう意味で、おのれを閉ざす、開く、というのは良く考えなければなりません。誰かとの関係において、この心の働きというのは大きな役割を果たしますから。そういえば、昨日分かち合わせていただいた、上の少し前にあった言葉、「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」という言葉を覚えているでしょうか。いつも陽気であることは難しい、でも誰かが励ますならその人の内に元気が湧いてくる。骨が枯れ果てるような時、支えを失った人の横に座って支えになる時、その人の心に元気を与えるわけですね。

 

でもその陽気な心、元気な心は神様から来る。心を与えてくださった神様が、神様ご自身と私たちの間に隔ての壁を立てるわけでもなく、扉を閉ざすわけでもなく、神様がその陽気な心、愛を惜しむことなく注がれ私たちを強めてくださっている。この事を忘れてはいけませんね。そしてこの愛をもってあなたの隣の人、陽気な心を失ってしまった人や、骨を枯らして支えを失っているような人にあなたが現わす愛、その愛の中に神様が働かれるわけです。この神様の働きを、優れた知性を、私たちが閉ざしたら、そこに何のいのちが湧くでしょう。良いものが湧くでしょう。こちらから神様と仲たがいする、神様あなたの言っていることは間違っている、私には合わない、時代が違う、状況が違う、と仲たがいしようとすればそこに神様の優れた御心、陽気な心を与え、骨を強くする、私たちの新進、霊肉共に、いやいのちそのものを元気にしてくださる神様の働きは失われてしまうではありませんか。神様はその愛を閉ざそうとせず開いて下さっているのに、もったいないじゃないですか。

 

神様は私たちが神様に心を閉ざし、欲望のままにと言いますか好きなように生きている、そんな姿を見て見捨てるのではなく、おのれを閉ざすのではなく、神様は愛するわが子のために良いものを注ごうとされているわけです。神様の欲、表現はあれですが、それはあなたが生きる事です。あなたが幸せになる事です。世の思い煩いやサタンの手にとらわれるのではなく、そこから自由にし、本来神様が与えてくださっている最高のものを得て、生きる事。神様があなたに幸せを現し、陽気にし、心閉ざすような状態から解放してくださるのです。

 

「愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす」とも言われていますが、まあ世の中本当に、好き勝手に言う人がいますよね。私の周りにも、牧師でさえいますよ。聖書で本当にそんなことを言っているの?と思うようなことを自分の経験の方が優れていると言わんばかりに自己主張を展開し、相手の心の状態も見なければ意見も聞かず、ただ自分の言いたいことだけを言う。そのあとどうするか?ただ去っていくだけです。本当に無責任そのもの。神様はこれにNoとはっきり言っています。私達もこれ、やりがちですから気を付けたいですね。神様の英知を喜び求める。神様の語る言葉が英知である事を忘れてはいけません。自分の意見を言ってはいけない、という事ではなく、神様の御前にへりくだり、何を言ったらいいのか、したらいいのか、好き勝手に言う前に考える、これが大事です。祈ること、これが大事です。

 

神様は愚かなことではなく善い事を展開したい。ご自身の内に留める、閉ざすのではなく、それを展開したい、注ぎたい、その思いを私たちが、いえいえあなたは間違っている、あなたの出番ではない、と閉ざすなんてあってはいけない。それであなたは責任を取れるのですか?

 

話は戻るのですが、↑の最初のことば、「おのれを閉ざす者」という言葉は、正確には「自分を人から分離させる者」という意味だそうです。それって、↑の少し前に出てきた箴言と言いますかみことば、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」を思い返しますと、そういう方のために、私たちは友となり、自分を閉ざすのではなく、その人の苦しみを分かち合う、その人を分離させないように気を付けたいですね。自分の言いたいことを好き勝手に言って分離させるのではなく、あの人はおかしいんだ、違うんだ、とかそういって神様の英知から引き離すのではなく、分離させるのではなく、むしろ神様の英知に一緒に近づく。そのことを忘れてはいけませんね。神様は私たちをご自身から分離させるのではなく、近づけるために、御子イエス様を私たちのために遣わし、ご自身に近いものとするために迎えに来させてくださった、導こうと最も近いものとなってくださり、共に導いて下さったのですから。イエス様はあの人は~だから、と閉ざすのではなく、むしろ招かれたのですから。

 

覚えていますか?イエス様が人として生まれてこられ歩まれている時、「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』」という出来事がありましたね。

 

弟子たちは自分たちの理論で子どもたちをイエス様に近づけようとしなかった。でも、イエス様はそんなことは関係なく、分離することなく、喜んで受け入れて、抱きしめて、神の国はこのような者たちのものなんだ、と仰りましたね。イエス様は神の国を、その御心を、英知を、その全てを私たちに現したいのです。私たちが何かの理屈をつけて近づかない、とか近づかせないという事があってはいけないのです。むしろ私たちが弟子たちのように傍観者になって、イエス様に近づかないでいる、なんてことになっていませんか?イエス様から自分から分離していませんか?離れていませんか?イエス様のことば、仰ることはこの場面では納得できないと言って、好き勝手に生きていませんか?優れた知性、イエス様と仲たがいしていませんか?

 

むしろ神様は私たちを、ご自身から離れていって欲望のままに生きる、そんな私たちを罪人だからと言って分離して見捨てるのではなく、仲たがいしたままになることを悲しまれ、むしろ私たちを救うべく、御子イエス様にこの私たちの閉ざした心、痛み、悲しみ、何よりこの罪一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。仲たがい、見捨てるのではなく、死から引き上げてくださり新しいいのち、永遠の関係へと招き入れてくださったのです。この内に神様の優れた知性・英知、神様の愛からくる御心が豊かに注がれているのです。「悪者が来ると、侮りも来る。恥とともに、そしりも来る」とありますが、むしろこのサタンの手から私たちを取り戻し、命を得させてくださった、神様の優れた御心、愛が現わされるのです。

 

「人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ」。私たちの口のことばは心の奥底にあるものから出てくる。そのうちに今日、神様の愛は溢れていますか?この神様の愛の川が私たちを満たし、またあなたの周り、隣人との関係、全てへと流れていく。この私たちを見捨てなかった神様のいのちの川の流れがすべてを満たし、癒して下さる。私たちは神様と今日、仲たがいしていませんか?その関係を閉ざしていませんか?今日私たちはこの神様にもう一度心の底から、魂まで満たしていただいて、この愛の川が私たち自身を、また周りへと溢れ流れ、いのちで満たされていくよう祈ろうではありませんか。心を開いて主を待ち望もう。主の英知、優れた知性が、世の身勝手を癒し、驚くべき御業がそこに溢れていく事を信じゆだね。また困っている人の内にもこの神様の愛を届けよう。この方の愛がその人に届き、魂の底にまで流れ癒されることを祈り。この方の愛が腹に降っていき、その人が生きられますように。

 

2つ前の投稿で紹介した曲です。

私達にはどうにもならないことがあります。陽気になれない。骨が枯れてしまったようになる日も。

 

この曲は1899年、エイダ・ブレンクホーンは甥の言葉に触発されて、このキリスト教賛美歌を作曲しました。

ブレンクホーンの甥は身体に障害があり、車椅子を「陽の当たる側」へ押して欲しいといつも願っていました。そして生まれたのがこの曲です。

 

 

喜びの朝もある 涙の夜もある  長い人生なら さぁ陽気に行こう  

陽気に行こう どんな時でも  陽気に行こう  苦しい事は 解ってるのさ  さぁ陽気に行こう 

 

嵐吹き荒れても 望み奪われても  悲しみは通り過ぎて行く 陽も輝くだろう  

陽気に行こう どんな時でも  陽気に行こう  苦しい事は 解ってるのさ  さぁ陽気に行こう 

 

君を信じよう 僕を信じておくれ 救い主は生きている さぁ陽気に行こう  

陽気に行こう どんな時でも  陽気に行こう  苦しい事は 解ってるのさ  さぁ陽気に行こう 

 

美しい朝には 声をかけておくれ  僕も歌いながら あいさつしよう  

陽気に行こう どんな時でも  陽気に行こう  苦しい事は 解ってるのさ  さぁ陽気に行こう 

 

恋は嬉しいもの 別れは辛いもの  人生は長いもの 君は幸せもの  

陽気に行こう どんな時でも  陽気に行こう  苦しい事は 解ってるのさ  さぁ陽気に行こう

 

 

 

「ぼくはアフリカにすむキリンといいます」などの絵本(大人も子供も一緒に楽しめます)を描かれた岩佐めぐみさんの作品の一つ。「ぼくは〜」は世界中で翻訳、受賞されるほど評価の高い作品なのですが、

「空の鳥を見なさい」という作品にフォーカスを当てたいとおもいます。

 

これは聖書のことばと、絵で構成された本なのですが、

私たちを励ます多くの神様のことばが載せられています。

 

空の鳥を見なさい、

タイトルの御言葉は

 

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」

とあります。

 

まさにそのとおり。

神様に何の利益をもたらすわけでもなく帰って離れ、悲しませる私たちを愛し、養うために御子イエス様の命をも差し出されるという究極の愛をなされた神様。この方はあなたのためにイエス様という命をあなたのうちに蒔かれたのです。そうして私たちは、本来あるべきあなた、神様がご計画されている最高のあなたへと日々作り変えて下さるのです。

神様はあなたを養いたい。あなたはこれを受け取っていますか?

 

また、興味があったらこの本をとってみてください。

岩佐さんの他の絵本シリーズも、最高です(^o^)

 

 

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない。自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」

箴言17章22-28節

 

笑顔というのは副交感神経がどうも働くのか元気になる、そんな力があるそうです。そういえば誰かが、あなたの笑顔にはチロルチョコ100万個分の力があるんだよ?という話を聞いたことがあります。あなたの向ける笑顔は人を励ますことができる、すごいですね。陽気な心は、愛からくる心配りは、他の人を元気にする。本当にすごいですね。とはいえ、元気をもらいたい人がいるように、やっぱりいつでも人が元気でいるなんてことはできない。根性論とか精神論で乗り切るとかそういう問題じゃない。それができるなら人はどれだけ楽に生きられるだろう。それができずに苦しむ人が今も多い。でも、その心の源は、心を与えてくださった神様ならあなたの心を元気にすることができる、満たすことができる。神様の愛はあなたを覆っているのです。愛するわが子へ、父なる神様はその惜しみない愛で覆う、元気・平安で満たすため、苦しみも何もかもとり除くために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたに喜びを与えてくださった。私たちのこの救い主イエス様は今日も生きている。このイエス様と共に私たちは歩もう。イエス様の導かれるこの道をただ歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言といいますか知恵・いのちのことば、またその彼がこれを書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを霊肉共に、心身ともに健康にしようとご自身の知恵、愛からくる御心を現し、これで覆おうとされてるんですよね。神様の願うところはあなたが幸せになること。思い煩いや罪によって支配されるのではなく、あなたが神様の恵みに満たされ幸せになってほしい、その思いがまさに注がれているわけですね。このいのちの関係に神様は招かれている、あなたを捨てるのではなく、生きてほしいと。だからこの恵みを蔑ろにしてほしくない、と。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」と語られ示され、またこれをソロモンは書き残します。これはまたなかなかインパクトのある言葉ですね。でも、確かに心の在り様ってからだといいますか健康に影響を与えます。骨を枯らすかどうかは分かりませんが、ただメンタル的な面が心身に与える影響については近年はっきり見えてきていますね。骨を枯らすと言いますか、自分を支えるのもつらくなってきたり。

 

とはいえ人それぞれ性格的なものや、状況によっていつも陽気でいられるわけではない。簡単なようでなかなか難しい所。だから陽気でいられない、つらい、そんな状況にいる人もいる中で、黙っているのはちょっと違うことがこれまでの箴言からも見えてきますよね。例えば、昨日の分かち合いの中で見ましたが、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」。そんな友を愛する。否定的なことや貶めるようなことを言うのではなく、一緒に苦しみを分かち合う中で、話を聞いて、一緒に進んで。何より神様に一緒に祈りながら苦しみを分かち合うと言いますか、時間を共有しながら神様の愛を受け取る。話を聞くよ、という人もいるのですが、一瞬とか、自分の都合のいい時だけ聴く、聞いたポーズをとるだけで、自分の意見ばかり言う人もいるけど、傾聴的に聞いて、神様に傾聴して神様の愛を聞く、一緒に取り組んでいくという事が抜けることがありますよね。もちろんそれぞれ時間もありますし、それは理想的に聞こえるかもしれませんが、骨が枯れて立ち上がれない人の支えがなければどうにもなりません。それは聞き手も同じ。本当に支えとなる神様に寄りかかり委ねる、神様の支えを求めるのです。一緒にいられない、聞けない時でも本物の支えなるイエス様に依存する。イエス様はいのちをかけてでも私たちが倒れ死なないようにされた、そんな方がいるのだから。

 

ちなみに、陽気な心ってどんな心だろうか、と思って調べてみると、「前向きな心、感謝する心、周りを励ます心、平安のある心」だそうです。その根拠は、私たちの支え、救い主なるイエス様がいるから、この方が一緒にいるから、今も生きておられ働かれておられるから、私たちのためにいのちを投げ出してでも、身代わりに私たちの痛みも悲しみも全部背負われた、罪も一切身代わりに背負われ十字架に架かられ、死なれ、復活とともに勝利された、この方が私たちの手を取って、後ろではなく前に進ませてくださるから、前向きでいていい、それをイエス様が保証してくださるから、平安な心が得られる。だからこの方に感謝しつつ、この方の愛に生きる中で、周りにもこの愛が溢れ流れていくわけですね。イエス様が私たちの骨を枯らせず死なせず、むしろイエス様のいのちにあって新しくしてくださる。この方の支えがある、支えてくださっている。これ以上の私たちの心の支え、いのちの支えはないのではないでしょうか。

 

「Keep On The Suuny Side(陽気に行こう)」という曲があります。私はこの箇所を読んだときにこの歌を思い出しました。「喜びの朝もある、涙の夜もある、長い人生なら、さぁ陽気に行こう。陽気に行こう、どんな時でも、陽気に行こう。苦しい事は解ってるのさ。さぁ陽気に行こう。嵐吹き荒れても、望み奪われても、悲しみは通り過ぎて行く、陽も輝くだろう。…君を信じよう、僕を信じておくれ。救い主は生きている。さぁ陽気に行こう。…美しい朝には声をかけておくれ。僕も歌いながら、あいさつしよう。…」というような歌詞(…は陽気に行こう、どんな時でも…の部分)。まさに陽気な心そのもの。陽気でいられないこともあるけど、救い主イエス様が陽を輝かせてくださる。救い主イエス様が生きている、だから、君を信じるし、僕も信じてほしいけど、それ以上にイエス様を信じてほしい、ある意味ではこの「僕」はイエス様から見た言葉なのかもしれませんね。イエス様が僕のことを信頼してほしい、信じてほしいって。美しい朝を迎えさせてくださる、復活の朝を、あなたに声をかけに行って新しい歩みをイエス様とさせていただける。死んだ一日ではなく復活の一日、日々を。陽気な日々を。

 

この曲名をストレートに訳すなら、陽の当たる場所を守れ、と言ったところですが、このイエス様が陽を当ててくださるから、ここを何ものにも奪わせてはいけない、ここに私たちも行こう、陽の当たる場所、イエス様が照らして下さる場所へ。日陰に隠れている必要はないんだよ、と招かれている感じがしますね。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」。もし骨を枯らして立ち上がれない人がいるなら、一緒に行きましょう。そしてイエス様のくださる本物の元気をいただこうではありませんか。そこに広がる喜び、陽気な日々に期待して。十字架から照らされた光が私たちの枯れた骨、いのちをよみがえらせ、立ち上がらせてくださる。この方の光が今日も輝いているから。

 

なお↑で「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ」と語られていますね。賄賂、この17章の途中でも出てきましたが、その本質的な意味は「生活や関係を円滑にするための贈り物」であることを話しましたね。生活やいろんな問題で困っている人への贈り物、助けはある意味で大きな役割がありますただ袖の下に入れる、そんな賄賂、それによって裁きを捻じ曲げるのはダメです。聖書の中で厳しくこのことについて「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。…わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる」と言われています。

 

呪いは祝福の逆です。神様の祝福ではない、恵みを失いサタンの手にとらわれる、最悪の状態です。しかし神様はこうも仰ります。「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである」と。神様は正義を曲げない。神様の愛を存分に現される。たとえ在留異国人(イスラエルの民から見たらそれ以外の民、今の時代なら罪人、苦手な人など)であっても神様は惜しむことなくその愛を実行され現される。どうしてこんな目に合わなければならないんだ、と思う中に神様は働かれている。

 

見えてきましたね。先程の陽気な心の話と合わせるなら、神様はそのように世の中が裁きを曲げ、理不尽なことをしてこようとも、神様の光が照らされ、全てをまっすぐにされる。そのようなものをキチンと裁いて下さる。見捨てられたように思える中にあって神様は確かに陽を照らし、私たちに必要なものを与え、働かれ、元気にしてくださる。私たちはその祝福の陽の下に招かれているんだ、そのことを覚えますね。だからこの方に顔を向けよう、と。

 

そういえば、神様は「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」と祝福するようにかつてアロンという人に命じられたのですが、まさに神様の陽の光、呪いではなく祝福が私たちを守り、神様が御顔を私たちに向けて照らし、恵まれ、平安を与えてくださる、その約束をどうか忘れないでくれ、そうこの命令に込められていたわけです。この神様の約束は今日も変わらず、見捨てられそうな私たちをさえ、あの十字架上であらわされたイエス様の命がけの救いによって照らされているのです、あなたにも。

 

「愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない」。それでも父なる神様は私たちを憂い、心配され、心を痛められ、あなたを救うために御子イエス様のいのちを身代わりにされた。正しい人にいのちという罰金を身代わりに支払わせ、高貴なイエス様に鞭を打つ、どちらもよくないことをしてでも。そうして私たちの憂いも痛みも罪も取り除き、愚かな子ではなく、神様の子として迎え入れてくださった。全ての痛みを負ってでも。何という深い愛、この愛が今日も照らされているとは。

 

「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」。私たちはこの神様の約束、愛を押しのけて、どうせ、とか諦めるのではなく、その言葉をいったん控えて、このイエス様に心を向けよう。陽気な心を与えてくださる方、イエス様の英知・知恵が、私達の閉ざされた、陽の当らない場所に陽を照らし、新しい日を迎えさせてくださるから。この神様の富に富む、いのち溢れる日をただ私たちは祈り、待ち望もう。救い主は今日も生きている。さあ陽気に行こう。