「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。」
箴言18章9-13節
土台というのは何においても必要ですね。その土台に重心をしっかりおいて。その土台さえしっかりしていればどんな嵐が来ても倒れることはありません。私たちの人生における土台はどうでしょう?確固たる土台、信念なりを置いていますか?そもそも完璧な土台などどこにあるのか?確かにあるんです。そう、神様です。そもそも私たちは神様の創られた世界、治めておられる世界、その神様という土台の上に住まわせていただいていて、今ここに生きているのです。この神様が私たちにいのちを与え、愛するわが子、私たちを父なる神様は日々様々なものをもって養ってくださっている、神様の愛からくる知恵・御心によって支えてくださっている。私たちはこの神様に頼っていい、委ねて良いんです。神様はあなたを今日も守り、その良いもので満ち咲触れさせてくださるから。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりに惜しまず与えられた、この方の愛が今日も注がれ、またあなたを支えておられるから。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された箴言・知恵のことばといいますかいのちのことば、そしてこれを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はご自身の愛からくる知恵・御心で私たちを支えて下さろうとしているんですよね。私たちが倒れることがない様に。これを蔑んで我が子なる私たちがか神様のくださる最高の恵みを失うことがないように。この神様の知恵・御心が私たちを支えるんだ、だからこれを聞いてほしい、そう訴えられているわけですね。
そんな神様はソロモンに向けて、そして彼を通して私たちに向けてさらに「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である」と語られ示され、これをソロモンも書き残します。仕事をなまけない、これはある意味で当たり前と言えば当たり前。滅び、というと大げさに聞こえるかもしれませんけど、例えば仕事中怠けている人がいると、一生懸命頑張っている人から見てあまりいい気はしないし、場合によってはやる気も落ちてしまう。そうなっていくとあまりうまくいかなくなりますよね。人間関係も、そしてそこから仕事自体も。
まあずっと一生懸命気を休めることなく働き続ける、頑張り続ける、そういう意味ではないですよ?ちなみに仕事について、神様は十戒の中で「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない…それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」と語られている通り、6日間働いて1日は休もう、と勧めています。逆にその仕事をする間は「すべての仕事をしなければならない」と忠実に働くことを勧めています。安息日、神様が聖なる日と定めてくださったその聖なるものを受け、その祝福を6日間の仕事・職場に溢れ流れるように。
神様の祝福は一日だけではなくとこしえのもの。神様は仕事、ではありませんが、そのお働きをなまける方ではなく、私たちのことを心配していつも働かれている。私たちに良いものを注ごうと、良いものを現そうと、私たちのいる場所に、あなたの働きの内に良いもので満ち溢れさせたい、と。
ちなみに、仕事ということばは「CALLING」=「召し」という意味のことばから来ています。そう、神様から召し出されたもの、あなたにこの働きをしてほしい、そういう願いで導かれたものです。そういう意味では仕事と神様は別、ではなく私たちが神様にその祝福を求める、私たちがへりくだり、仕える、その働きの中で神様の祝福が溢れ流れるわけです。ある意味で先ほどの仕事をなまける時に起こる事の逆をまさに神様がなして下さるわけです。そして神様の祝福がその職場に関わる人、また周りへと溢れ流れていったらその地域も何もかも素晴らしいものになるのではないでしょうか。
いや、仕事だけではないですよ?すべての人が仕事をしているわけでもないですし。あなたの役割、あなたに与えられている役割、あなたが置かれている場所におけるあなたの態度を通して神様がもたらされるものは私たちの想像をはるかに超える、いや計り知れないものがあります。私たちが怠けてはいけないのは、まさにこの神様から与えられた命、日々、役割、そのものです。そこに忠実である中に神様は大きなことを働かれ成し遂げてくださるのです。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」とイエス様が仰られたように、より大きなものに神様が変えてくださるのです。その大きなことを任せていただけるのです。
パウロも「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」と勧めます。
良い人にだけいい態度でいるのではなく、また脅したりするのでもなく、差別したりするのでもなく、神の御子イエス様が仕えられたように、私たちも仕える、その中に神様が良い報いをもたらして下さる。それは難しい日々もある、関係もある、でも神様の大能の力によって強められる、だから神様に委ねよう、そう勧めるわけです。誰との関係においても互いに遜り仕え合う、相手を自分よりも優れていると考え、何より誰よりも優れた愛を持っているイエス様の働き、これにへりくだる、主を恐れるその初めからすべては始まるのです。
さらに神様はソロモンに、また私たちに、「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である」と語られ示されましたが、みなさんにとってのこの堅固なやぐらなる「主の名」は何ですか?残念ながらソロモンはこれだけの知恵を神様から示されながら、主の名を忘れてしまった。色んな外国の神々、と言っても存在もしない偽の神ですが、それらを諸外国と外交を結びながら見ていきながら、ああこのことはあの国の習慣、その神に任せればいい、この事はあの神に任せればいいとしていった結果、全能の神様の名前を、いやその存在を忘れてしまった。より頼むべき、この世界を創られすべ治めておられる神様、天地創造の前から今に至りこれからも支えておられる神様を忘れてしまった。その結果、国は衰えていき、彼の息子の代で分裂し、最後は捕囚されていく。一体なんとむなしいことだろう。日本でもそうですよね。あの神社はこれが得意分野、この分野はあの神社が得意分野、と言ってあれこれ神の名を探し求めていく。でも神様に得意不得意がある?神様は全ての主です。
神様のお名前に「全能の神」とご自身を紹介されたことがありますが、まさに全能の神様なのです。すべてを創られた方、そこに全てがある、そこに確かにおられる方なのです。ちなみに全能というのは「母の乳房」という意味を持っているそうで、お母さんの乳房に赤ちゃんの生きるすべてがある、そこに確かにいるという心臓の鼓動を感じる、まさに私たちの養い主、父なる神様がそこに働かれている。そこに全てがありその全ての思いをもって、赤ちゃんを両親が育てるように私たちをも養ってくださる。その神様はただおひとりです。他にはいません。その確固たる愛、意志をもって私たちのやぐら、土台、支えとなってくださっている神様がおられるのです。その神様がご自身のもとに招いて下さっているのです。
イエス様は「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」と仰られましたが、その名前を知っている、知識がある、というだけでは意味がない。この方に立ち返り、この方の知恵・御言葉、御心に生きる、これに信頼し、これを土台として生きる人を神様は決して倒れないようにしてくださる、いや、支えてくださっているのです。私たちは誰の名を呼んでいますか?
かつて自分のいのちを付け狙う嫉妬に燃える王に命を狙われていたダビデは神様によりすがり、救い出されたその日、「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」と歌いました。まさに神様はどんな時も働かれ、呼び求めるなら救われる。神様の力は、あなたの手を、あなたのいのちを支えているその御手は何ものにも負かされることはありません。
何よりあなたを救うため、あなたが思い煩いや痛み、傷、悲しみ、何より罪のどん底に沈んでいる、その中から救い出すために神様は御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた。それほどまでに愛され救わんとされる神様の働きをどうして疑うことなどできましょう。この神様が引き上げて下さろうとその御手を伸ばされている、なまけるどころか命をかけて必死に働かれている。そんな神様の救いを、現そうとされている栄光・素晴らしさを受け取らずにどうしましょう。この神様との関係をなまけている場合ではありませんよ?3日目によみがえられたイエス様が今もあなたと共におられ働かれているんですよ?こんな素晴らしいことはないじゃないですか。滅びにいたる働きではなく救わんとされている、その働きに私たちは身を委ねようではありませんか。
「富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」。私たちはこの神様の富に富むものであおる。神様の堅固な城、そそり立つ本物の城、その関係に生きよう。神様の御前に高慢になるのではなく、神様のことばに高慢になって人に高慢になるのではなく神様の御前に謙遜となり、神様の誉れが現わされることを信じ願い。神様の御業を待ち望む前に別なものに心を委ね返事をするのではなく、ただ神様の呼びかけにはい、と良い返事をし、神様の良い返答、素晴らしい御業を待ち望もうではありませんか。主は今日も働かれている。あなたは?
