とある働き人の聖書のお話 -10ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

今日は敬老の日ですね。

すべてのおじいちゃんおばあちゃん、という言い方は失礼かもしれませんが、がこれからも元気でありますように…

神様の祝福をお祈りいたします。

 

そんな敬老の日に一つのことばを。

 

「あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」

 

これはイザヤという預言者を通して神様が語られた言葉。

神様があなたを白髪になっても、いやまあ髪がなくてもですが…あなたを背負ってこれからも進んでくださる。年を取ったから、とかそんなことは関係なく、また若くても関係なく、神様が生まれる前から生まれ、そして今に至るまで、またこれからもあなたを背負って進まれる。

あなたのためなら御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様があなたを背負われ、今日も進んでくださる。

 

安心してください。

神様がいます( ;∀;)

 

 

 

ある時、小学生が数人がやがや話しながら学校から帰ってきました。話題が父親の自慢になっていきました。

 

「僕のお父さんは偉いんだぞ。下に5人いるんだ。」

 

「僕のお父さんはスーパーの社長だ。下に40人もいるぞ。」

 

3人目がモジモジしていたが、突然、ぱっと顔が輝いた。

「僕のお父さんの下には何千人もいるぞ。」

 

「へえ。そんな大会社の社長なのか。」

 

「どこの会社なの?」

 

「共同墓地の管理人なんだ。」

 

 

この会話、なるほど、と思わされる点がいくつかあると思いますね。

 

・能力自慢は人数、成功数じゃない。
 
・目に見えた地位がすべてではない。むしろ立場はさほど出なくても、仕える人の方が素晴らしく、そこから喜びの実を結ぶ。

 

でももっと大事なことがあります。

神様は、ご自身の下に何兆人(人類始まって以来何人いるんだろう?)と人がいる中で、決して高ぶるのではなく、かえって仕えるもとなられました。人となって生まれてこられ、最も身近な場所に住まわれ、私たちを召使いではなく友と呼んでくださります。部下ではなく、我が子と呼んでくださるのです。家族として迎えてくださるのです。

 

そのためならいのちだって惜しまず与えてくださり、身代わりに十字架にかかられ死なれた、それほどに愛されているのです。このイエス様にあって私たちは神様の子とされます。神様は私たちのお父さんとなってくださったのです。

 

もっとこの神様に信頼してみません?自慢になりませんか?あなたはこの神様の子と、もしイエス様の救いを受け入れるなら呼ばれます。この恩恵の内に私たちは生きる。社長の息子どころじゃない、神様の子として。不安?大丈夫、父なる神様が御子イエス様のいのちにあってあなたを守ってくださり、導いてくださるのです。こんな暗い時代にあって真の世の光として。

 

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める。人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する。反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。」

箴言18章14-19節

 

心、これは目には見えないけど確かにある。人は心がないロボットのような存在、物ではなく、心があって、愛する心、憐憫・寄り添う心、そうしたものが与えられてます。そうした心と心で繋がって生きているんですよね。心配、ということばも、心を配る、といいますし、この心の果たす役割は本当に大きい、そのような心を神様は私たちに与えてくださっているわけですね。その心をもって互いに愛し合う、その中に愛なる神様、完全な愛を持ち合わせる神様の愛が働かれるところに大きな力が働く。神様の愛は完全です。どうにも耐え難い状態にあるわたしたちを見捨てる事はなく、寄り添われ、また私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛し抜かれる。最後の最後までイエス様は私たち人間を見捨てず十字架で死に従われることを選ばれた。それは私たちへの愛の心ゆえ。このイエス様の愛の心が私たちに注がれ、繋がれている。私たちはこの方に頼っていいんです。どんなに打ちひしがれるようなことがあっても、癒し主なるイエス様が今日あなたと共におられるから。イエス様の惜しみない愛の贈り物、御心、これに生かされ今日も歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言・知恵のことば、いのちのことばで、これを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちをどうでもいい存在と思ってはおらず、わが子と呼んで下さり、その親の愛と言いますか、天の父なる神様の我が子への愛ゆえにそのお心を注がれ、良いものを現そうとしてくださっている、何と感謝なことでしょう。心と心の通い合った関係へと神様は招いて下さっているわけですね。その神様の愛からくる知恵・御心で私たちを満たしたい、着飾らせたい、その思いがいつも注がれている、決して見捨てることなく。だからこの神様のくださっているよいものを捨てないで、そしてこの尽きることのない愛の初めなる神様の御もとに招かれているわけですね。

 

そんな神様はソロモンに向け、またその彼を通して私たちに向けてさらに「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」と語られ示され、ソロモン自身もこれをこうして書き残します。これはどういうことなのかと言いますと、ストレートに見ますと、病気とか怪我、傷とか、そうした外的な痛みに対してはまあ人の心がしっかりしていれば耐えられるけど、その心が砕かれてしまうと耐えられない、そんなところでしょうか。もちろん病気やケガで心がしなえてしまう、ひしがれてしまうこともあると言えばありますが。それを支える何か、誰かがいればそこから立ち直ることもできる。そういう意味で心がいかに大切なのかも見えてきますね。人の心に土足でずかずか上がり込んでくるような人もいますが(クリスチャンや牧師さんでも、ね)、本人も無意識のうちにか自覚していることもある。これが自分なんだ、という人もいますがそれってどうなのでしょう。

 

そもそも人は誰かとの関係の中に生きるようにつくられたんですよね。神様が天地万物を創られたプロセスの中で、全ての動植物もいて、誰かいると言えばいる、神様もいる、でも神様は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と仰られたのでした。神様がいるから大丈夫でしょう、とアダムひとりに人をするのではなく、神様が彼に相応しい助け手を与えられ、エヴァを与えられた。そしてエヴァも一人ではない、2人が家族となって互いに愛し合う、そのような関係に生きていくようにされた。もちろんそこから子供が与えられ、コミュニティは広がっていっても、そのベースにある互いに助け合う、愛し合う、という原点は変わらないのです。神様がその関係の中心におられ、そこから愛の川をあふれ流し満たして下さる、それをその関係の中で分かち合う、そうして神様の喜びが、いのちが広がり、癒しが起こるわけですね。

 

イエス様はある時、律法学者(ようするに宗教の専門家)から最も大切な教えは何か、と尋ねられた時、「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」と答えられました。神様、自分、人、その三角形のような関係の中に神様の完全な愛が働かれるわけですね。ただどうも神様を心から愛する、神様の命令に従う事とイエス様も仰られるのですが、友を心から愛する、心を尽くして愛する、ということが人は抜けてしまう。神様の愛よりも、御心よりも、誰かが癒される事よりも、自分の計画が成るようにその関係の中で押し通そうとする。そうすると、色んなものが壊れてしまうわけですよね。相手の心に寄り添わない、思いに寄り添わない、相手を見ない…この2つ以上の命令はない、という肝心な部分が抜けて表面上に良い行動をするふりをする。でもそこには神様の愛は現れない。

 

イエス様の12弟子の一人、ヨハネはイエス様とその歩みをしながら、イエス様の惜しみない愛、心から友を、人を愛するその姿を見て、聞いて、何よりイエス様が愛のない自分を愛され、罪人である自分のために十字架上で命を投げ出してでも救われたその愛を体験してか、「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。…私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」と手紙で各地に書き送りました。神様の愛を知る、神様の愛の中にいる時、その中に神様もおられ、神様の完全な愛が現わされるんだ、と。後半はなかなか厳しいですよね。神様を愛すると言っていながら兄弟を憎む人は偽りで、神様を愛することはできないって。神様を愛するなら、神様の愛を求めるはずでしょう?ということ。

 

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」。確かにその通り。いや病気や怪我でも心がしなえていればしのぶことはできない。あの人なら大丈夫だろう、とかそういう話ではなく、イエス様も信仰がない、と言うのではなく寄り添い、その愛を示し、その中で癒されたように、寄り添う、あのひとは~をしたから自業自得、因果応報だ、というのではなく、神様の愛が、癒しがここに現れることを願い祈り、寄り添う、その中に神様の愛が、癒しが、栄光が現わされるのではないでしょうか。その人の心が立ち直ることができるのではないだろうか。神様が新しくしてくださるそのいのちを、神様の愛が満ち溢れる命を、喜びを見出す事ができるのではないでしょうか。

 

「悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める」。私たちは神様の完全なる愛をどれだけ知っているだろうか、どれだけ求めているだろうか。私たちを救い癒すためなら、神様は御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そこまでしてでも神様は私たちの内に愛を現そうとされたのです。どんなに罵られ、裏切られても、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのか分からないのです」といのちがけで赦しを懇願された。そうして罪の世界、関係、のろいから私たちを解き放ち、神様の愛の中に生きる、神様の愛の溢れる御国に招かれたではありませんか。イエス様が十字架上で悔い改めた強盗に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と仰られたように、私たちもこのイエス様の愛によって新しくされるパラダイスに招かれている。死んでからではない、今も私たちがこの神様の愛の内に留まるなら、そこに神様の愛が溢れるパラダイスが広がるのです。その前味が。

 

かのダビデ王は「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」と詩に残しました。どうにもならない絶体絶命の時、気が狂ったようにふるまうしかなかった時、彼は知ったのです。心が打ち砕かれたこのものの傍に神様がおられ、救い出された、救い出される方が傍にいるんだ、この方が骨も心も砕かれることがないよう守ってくださるんだ、と。神様の愛が現れるところに神様の完全が現れる。逆に古い痛み、悲しみ、それらを砕き、癒すことができるのです。

 

「人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く」。あなたが誰かのために心を配る、贈る、何より神様の愛を届ける、贈るところに神様がその人に向け道を開いて下さる。あなたにも神様はその道を開いて下さっている。あなたを助ける誰かを遣わして下さっているかもしれない、神様ご自身がその御手を伸ばされ救わんとその道を開き、いのちの道に導こうとされている。神様が、御子イエス様のいのちを贈ってくださったことによって和解されたいのちの道が開かれた、この内に現される神様の完全な愛を私たちは求めよう。そこに神様の知恵・御心が確かに現される、神様が御子イエス様のいのちをあなたに送ってくださった、その先に贈って終わりではない神様のご計画、愛、癒し…そのすべてがあなたに開け放たれるのです。

 

私たちはこの神様を諦めてはいけません。どうせ、とか、あの人は、とか、自分なんて、とかそんなことを思う必要はありません。神様があなたを救うために与えてくださった贈りもの、イエス様は今日も生きておられるのです。この生きたイエス様の愛が、完全な愛があなたに向けて、あなたの悩む関係に向けて、あなたの友に向けて開かれている。もし心砕かれた人がいるなら、この神様のくださった愛のプレゼントを届けに行こう。そこに展開される神様の愛に大いに期待して。イエス様は「心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」のですから。イエス様は困った私たちに手を閉ざすのではなく、開かれ、招いて下さったのですから。あの十字架上で、全ての人に向けて、ここにおいで、と。あなたにもこの愛を受け取ってほしい、パラダイスを得てほしい、と。

 

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」とあるように、最初はわからないかもしれない。でもイエス様の正しさを私たちは見出す日が来る、この確信に立って、私たちが神様の愛を求める、この神様の愛に生き、神様の愛が溢れることを祈り、また愛を現すものでありたいものです。くじ引きではない、確かな神様の御心が確かにそこに現されるから。もう神様に反抗して閂をかける、友を神様の愛から離すような歩みではなく、その閂を抜いて、神様の愛の中に友と共に生きよう、神様の愛が溢れることを信じ。

 

人の贈り物は道を開く

家族、私たちはここで育まれ育っていくわけですが、

この家族は神様が伴侶と出会わせ始まり、そこに子どもが与えられ…と、

そのように神様が定めてくださった。

そんな家族、色んなことが今の時代ありますが、

そもそものすべての創り主なる神様、私たちにいのちを与えてくださった神様、

この方だからすべてを良いものへ整えてくださる。

 

御子イエス様のいのちにあって神様の家族としてくださったこの神様が、

私たちを導こうとしているその家庭。もしくは自分の属している所にも考えることができるかもしれない。この神様の愛。私たちはこの父なる神様の働きをどれだけ求めていますか?信頼していますか?

 

という事で今日は日曜日ですので礼拝メッセージのシェアをします。先週いつも動画をシェアさせていただいていますしろくま先生の教会で特別集会が持たれ、メッセージをしてくださった福澤満雄先生のメッセージ、家族ってなに?という事を考えさせられるこのメッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

コロサイ人への手紙3章12-21節

「キリストにある家族」

 

 

先日、ずっと探していたものが見つかりました。

1か月くらい?

仕事のネームプレート、これずっと探していたんです。

外勤で使う車数台全部調べたのですが見当たらず(車体が高かったりするので乗る時によくボタンが外れたりするので、そういう感じで落ちたのかな?と)、家でも見つからず、おかしいな、と思って捜していたのですが、

先日あるセットを搬送するために移動していたら、そこに落ちてました(;^_^A

以前そこで同じような搬送をした際に落としたのだな、と(;^_^A

 

と、それはそうと、ある友人のお母さんが

 

「探しものをするとき、見つけるコツはね、祈ってから始める事だよ」

と言っていた。

え?本当??と疑いたくなるところですが、実際祈って冷静な心を与えられると見つかるものなんですよね。今回はあまり祈らず諦めてたからな(;^_^A

 

実は神様は探しものを見つける名人なんですよ?知ってました?聖書にこんな話があります。

 

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
 
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 

たった一人、一匹、それさえ失うことを悲しまれる。自分を犠牲にしてでも探すのがイエス様なのです。あなたの悲しみを喜びに変えるため、あなたの悲しみを悲しみ、喜びをともに喜ぶため。探されるんです。あなたの失った大切な何かを。一部でも書けるのも悲しんで。かけてはいけない大切な1枚を捜して下さるんです。何よりあなたの失われたいのちを悲しまれ、取り戻し、神様の子としてもう一度迎え入れるために、私たちの思い煩いも痛みも、欠けてしまったもの、何より罪一切を身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれた。そこまでしてでもあなたを取り戻そうとされたのがイエス様。復活と共に神様の恵みの内に一つとするために。

 

神様が探すと言ったら探す。どこまでも見つけてくださる。

あなたのどうしてこうなってしまったんだろう、という痛みの回復の手段でも何でも。

 

 

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

捜して終わりではなく回復される神様、命をかけてでも取り戻して下さる神様。

あなたはこの神様に祈って大切なものを探していますか?

 

「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。」

箴言18章9-13節

 

土台というのは何においても必要ですね。その土台に重心をしっかりおいて。その土台さえしっかりしていればどんな嵐が来ても倒れることはありません。私たちの人生における土台はどうでしょう?確固たる土台、信念なりを置いていますか?そもそも完璧な土台などどこにあるのか?確かにあるんです。そう、神様です。そもそも私たちは神様の創られた世界、治めておられる世界、その神様という土台の上に住まわせていただいていて、今ここに生きているのです。この神様が私たちにいのちを与え、愛するわが子、私たちを父なる神様は日々様々なものをもって養ってくださっている、神様の愛からくる知恵・御心によって支えてくださっている。私たちはこの神様に頼っていい、委ねて良いんです。神様はあなたを今日も守り、その良いもので満ち咲触れさせてくださるから。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりに惜しまず与えられた、この方の愛が今日も注がれ、またあなたを支えておられるから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された箴言・知恵のことばといいますかいのちのことば、そしてこれを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はご自身の愛からくる知恵・御心で私たちを支えて下さろうとしているんですよね。私たちが倒れることがない様に。これを蔑んで我が子なる私たちがか神様のくださる最高の恵みを失うことがないように。この神様の知恵・御心が私たちを支えるんだ、だからこれを聞いてほしい、そう訴えられているわけですね。

 

そんな神様はソロモンに向けて、そして彼を通して私たちに向けてさらに「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である」と語られ示され、これをソロモンも書き残します。仕事をなまけない、これはある意味で当たり前と言えば当たり前。滅び、というと大げさに聞こえるかもしれませんけど、例えば仕事中怠けている人がいると、一生懸命頑張っている人から見てあまりいい気はしないし、場合によってはやる気も落ちてしまう。そうなっていくとあまりうまくいかなくなりますよね。人間関係も、そしてそこから仕事自体も。

 

まあずっと一生懸命気を休めることなく働き続ける、頑張り続ける、そういう意味ではないですよ?ちなみに仕事について、神様は十戒の中で「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない…それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」と語られている通り、6日間働いて1日は休もう、と勧めています。逆にその仕事をする間は「すべての仕事をしなければならない」と忠実に働くことを勧めています。安息日、神様が聖なる日と定めてくださったその聖なるものを受け、その祝福を6日間の仕事・職場に溢れ流れるように。

 

神様の祝福は一日だけではなくとこしえのもの。神様は仕事、ではありませんが、そのお働きをなまける方ではなく、私たちのことを心配していつも働かれている。私たちに良いものを注ごうと、良いものを現そうと、私たちのいる場所に、あなたの働きの内に良いもので満ち溢れさせたい、と。

 

ちなみに、仕事ということばは「CALLING」=「召し」という意味のことばから来ています。そう、神様から召し出されたもの、あなたにこの働きをしてほしい、そういう願いで導かれたものです。そういう意味では仕事と神様は別、ではなく私たちが神様にその祝福を求める、私たちがへりくだり、仕える、その働きの中で神様の祝福が溢れ流れるわけです。ある意味で先ほどの仕事をなまける時に起こる事の逆をまさに神様がなして下さるわけです。そして神様の祝福がその職場に関わる人、また周りへと溢れ流れていったらその地域も何もかも素晴らしいものになるのではないでしょうか。

 

いや、仕事だけではないですよ?すべての人が仕事をしているわけでもないですし。あなたの役割、あなたに与えられている役割、あなたが置かれている場所におけるあなたの態度を通して神様がもたらされるものは私たちの想像をはるかに超える、いや計り知れないものがあります。私たちが怠けてはいけないのは、まさにこの神様から与えられた命、日々、役割、そのものです。そこに忠実である中に神様は大きなことを働かれ成し遂げてくださるのです。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」とイエス様が仰られたように、より大きなものに神様が変えてくださるのです。その大きなことを任せていただけるのです。

 

パウロも「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」と勧めます。

 

良い人にだけいい態度でいるのではなく、また脅したりするのでもなく、差別したりするのでもなく、神の御子イエス様が仕えられたように、私たちも仕える、その中に神様が良い報いをもたらして下さる。それは難しい日々もある、関係もある、でも神様の大能の力によって強められる、だから神様に委ねよう、そう勧めるわけです。誰との関係においても互いに遜り仕え合う、相手を自分よりも優れていると考え、何より誰よりも優れた愛を持っているイエス様の働き、これにへりくだる、主を恐れるその初めからすべては始まるのです。

 

さらに神様はソロモンに、また私たちに、「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である」と語られ示されましたが、みなさんにとってのこの堅固なやぐらなる「主の名」は何ですか?残念ながらソロモンはこれだけの知恵を神様から示されながら、主の名を忘れてしまった。色んな外国の神々、と言っても存在もしない偽の神ですが、それらを諸外国と外交を結びながら見ていきながら、ああこのことはあの国の習慣、その神に任せればいい、この事はあの神に任せればいいとしていった結果、全能の神様の名前を、いやその存在を忘れてしまった。より頼むべき、この世界を創られすべ治めておられる神様、天地創造の前から今に至りこれからも支えておられる神様を忘れてしまった。その結果、国は衰えていき、彼の息子の代で分裂し、最後は捕囚されていく。一体なんとむなしいことだろう。日本でもそうですよね。あの神社はこれが得意分野、この分野はあの神社が得意分野、と言ってあれこれ神の名を探し求めていく。でも神様に得意不得意がある?神様は全ての主です。

 

神様のお名前に「全能の神」とご自身を紹介されたことがありますが、まさに全能の神様なのです。すべてを創られた方、そこに全てがある、そこに確かにおられる方なのです。ちなみに全能というのは「母の乳房」という意味を持っているそうで、お母さんの乳房に赤ちゃんの生きるすべてがある、そこに確かにいるという心臓の鼓動を感じる、まさに私たちの養い主、父なる神様がそこに働かれている。そこに全てがありその全ての思いをもって、赤ちゃんを両親が育てるように私たちをも養ってくださる。その神様はただおひとりです。他にはいません。その確固たる愛、意志をもって私たちのやぐら、土台、支えとなってくださっている神様がおられるのです。その神様がご自身のもとに招いて下さっているのです。

 

イエス様は「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」と仰られましたが、その名前を知っている、知識がある、というだけでは意味がない。この方に立ち返り、この方の知恵・御言葉、御心に生きる、これに信頼し、これを土台として生きる人を神様は決して倒れないようにしてくださる、いや、支えてくださっているのです。私たちは誰の名を呼んでいますか?

 

かつて自分のいのちを付け狙う嫉妬に燃える王に命を狙われていたダビデは神様によりすがり、救い出されたその日、「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」と歌いました。まさに神様はどんな時も働かれ、呼び求めるなら救われる。神様の力は、あなたの手を、あなたのいのちを支えているその御手は何ものにも負かされることはありません。

 

何よりあなたを救うため、あなたが思い煩いや痛み、傷、悲しみ、何より罪のどん底に沈んでいる、その中から救い出すために神様は御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた。それほどまでに愛され救わんとされる神様の働きをどうして疑うことなどできましょう。この神様が引き上げて下さろうとその御手を伸ばされている、なまけるどころか命をかけて必死に働かれている。そんな神様の救いを、現そうとされている栄光・素晴らしさを受け取らずにどうしましょう。この神様との関係をなまけている場合ではありませんよ?3日目によみがえられたイエス様が今もあなたと共におられ働かれているんですよ?こんな素晴らしいことはないじゃないですか。滅びにいたる働きではなく救わんとされている、その働きに私たちは身を委ねようではありませんか。

 

「富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」。私たちはこの神様の富に富むものであおる。神様の堅固な城、そそり立つ本物の城、その関係に生きよう。神様の御前に高慢になるのではなく、神様のことばに高慢になって人に高慢になるのではなく神様の御前に謙遜となり、神様の誉れが現わされることを信じ願い。神様の御業を待ち望む前に別なものに心を委ね返事をするのではなく、ただ神様の呼びかけにはい、と良い返事をし、神様の良い返答、素晴らしい御業を待ち望もうではありませんか。主は今日も働かれている。あなたは?

 

灯台と「主の名は堅固なやぐら」の聖書引用

祈りって無駄ではないんですよ?
きいてくださり、実現される方がいるんです。
聴いてくださる方を知らなければむなしく感じるかもしれませんが。
 
本来神様に祈りを聞いてもらうなどおこがましい話かもしれない、でも御子イエスさまが私たちの罪を身代わりに背負い罰せられ、死なれたのです。しかし死で終わらず3日目によみがえられたことで、信じるすべての人を神様と和解させてくださった、この十字架ゆえに祈りは聞かれるのです。そのイエスさまがこのように祈るように教えてくださった主の祈り(画像の)。その解説、よければ^_^
 

 

「天にまします」とは言えません。
私が地上のことだけに気をとられて、天に宝を積んでいなくては。
 
「我らの」とは言えません。
水も漏らさないような霊の密室に閉じこもっていたのでは。
「父よ」とは言えません。
日常の生活の中で親子のようなつながりを持っていなくては。
 
「み名をあがめさせたまえ」とは言えません。
力を尽くしてそのために労していなければ。
 
「天になるごとく地にも」とは言えません。
奉仕のために自分を献げる備えができていなければ。
 
「み心をなさせたまえ」とは言えません。
み心を疑ったり、反発したり、従わずにいるのでは。
 
「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」とは言えません。
過去の経験によって生きていたり、いい加減な生き方をしていては。
 
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」とは言えません。誰かを恨んでいるのでは。
 
「我らを試みにあわせず」とは言えません。
自分から試みの中に入って行こうとしているのでは。
 
「悪より救いだしたまえ」とは言えません。
祈りによって霊の世界の戦いに参加する備えができていなくては。
 
「国は汝のものなればなり」とは言えません。
忠実な民として「王」と同じ心を持っていなくては。
 
「力は汝のものなればなり」とは言えません。
人の行動を心配したり、隣り人がどのように考えるかを恐れているのでは。
 
「栄えは汝のものなればなり」とは言えません。
人々の称賛を自分が求めているのでは。
 
「限りなく」とは言えません。
もし私が時の流れの中だけに、目を向けているのでは。
 
「荒野の泉Ⅱ」 カウマン夫人 より
 


 

 

今日、この世の出て行くとき、

あなたは自分の価値を誰にも証明する必要はありません。

神様はあなたの心を知っておられる。

それが一番大事なことなのです。

ー小川政宏氏(元ワーナー・ブラザース制作室長)ー

 

私たちはあれこれによって着飾りすぎていることがあります。

でも、神様の御心を求めていく時、私たちは何も着飾る必要はありません。

神様があなたの行くところにおいてご自身の栄光を現してくださるから。

私が素晴らしい、と言われる必要はありません。

神様のみこころがいつもなることを願いましょう。

それは必ず神様にとってのあなたへの、あなたの遣わされている場所へのベストとなるから…

 

 

「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た。ふたりがそこに長く滞在していたので、フェストはパウロの一件を王に持ち出してこう言った。『ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。そのとき私は、【被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない】と答えておきました。そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に【エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか】と尋ねたところが、パウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと願い出たので、彼をカイザルのもとに送る時まで守っておくように、命じておきました。』すると、アグリッパがフェストに、『私も、その男の話を聞きたいものです』と言ったので、フェストは、『では、明日お聞きください』と言った。こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂に入った。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた。そこで、フェストはこう言った。『アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。』」

使徒の働き25章13-27節

 

私たちは生まれてきた時は親元で両親の惜しみない愛情によって育ちます。子どもの頃は分からない、両親が子どものために自身を犠牲にしてでも注がれている愛は半端ない。でもいつかは親元を離れ自立していく。これまで親・家族の中で生きていた中から外に出た時、違う風景を見る。でも決して変わらないものがあるのです。それは神様からの愛。あなたにいのちを与えてくださった父なる神様は生まれる前から、母の胎内にいる時からすでにその愛を注ぎあなたを組み立て、生まれて後もその愛を惜しみなく注がれている。親元を離れても神様の愛は変わらない。神様の愛が私たちを覆って、刺し貫かれ、守られている。あなたを救うためになら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほど愛されている神様の愛が。私たちはこの方が展開されようとしている御心、ご計画に信頼しようではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩い、痛み、罪一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主聖霊様が降られ、教会が誕生した後のこと。このイエス様の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。

 

旅の途中、苦難困難がありながらも、そこに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきます。それでもパウロはこのイエス様の福音、救いを、罪人であった自分をも赦されたイエス様の愛を訴えます。それでもなおパウロを認めず殺害する動きは止まらず、2年間牢獄に投獄されたこともありましたが、聖霊様の助けによってある程度の自由が与えられ、彼の友が助けに来たり、この間イエス様の救い、また各教会を励ますべく、手紙を書く地に書き送りました。

 

そして↑の前、ローマの総督ペリクスとフェストが交代になり、カイザリヤで2年間放置されていたパウロの裁判が再開されるのでした。パウロは、パウロを訴えるユダヤ人が言うような神様が定めた律法を破ってはいないし神殿も汚してはいない。まあユダヤ人や大祭司は自分勝手に捻じ曲げて帰って彼らの方が破っていたのですが彼らはそれに気づいていない、気づいていて指摘してくるパウロが気にくわないのか訴えてきますが彼は無罪、カイザル(皇帝ネロ)に対しても何の罪を犯していない、ローマ転覆のために騒動を起こしていない、と伝えます。そしてカイザル・ネロに上訴することを決めました。神様に委ねることを。

 

どうしたものか悩んでいたフェスト、そして↑、数日たってアグリッパ王(2世)とその妻ベルニケがフェストに挨拶をすべくカイザリヤに来て滞在します。フェストはこの自称ユダヤ教徒のアグリッパならユダヤ人のことにも精通しているだろう、と彼にパウロの裁判について相談を持ち掛けます。アグリッパも彼の先祖たちが関心を持っていたイエスキリストなるものについて興味を持っていたし、これを了承します。まさに今、アグリッパにとっても、フェストにとっても神様の憐れみを受ける時、救いの時となっていたのです。この裁判の裏で確かに神様が働かれていたのでした。

 

アグリッパは↑を見ると、「大いに威儀を整えて到着し、千人隊長や町の主だった人々といっしょに貴賓席に入」ります。威儀というのは元々のことばはファンタスティック、飾り付け、ディスプレー、虚飾の事です。ここでは服装とか、従えた家来の数とか、そうしたものを示したかったのでしょう。自分はこれだけ偉いんだ、と権威を示すべく。しかしそれは所詮ファンタジー夢や幻でしかない、実質をもたない。自分が正しと思う快楽を求め、虚飾に生きる、虚しく哀れな、裸の王様。ユダヤ人たちも表面上だけで味方だと思ったことは一度もない。

 

一方フェストの命令で連れ出されたパウロ。囚人服で虚飾の一つもない、裸の存在。何の価値もないように人々からは見えたかもしれない。しかしその背後には永遠の重い栄光・神様の輝き、素晴らしさがそこに確かにあった。夢や幻・ファンタジーではない、神様の確かに愛が彼を覆っていた。そして次の章でこの2人の立場が逆転するのです。裁いているつもりの彼らがパウロを通して神様に裁かれることとなるのです。神様はファンタジーの中に、虚飾の中に私たちに生きてほしいのではない、自分が正しいと思って人を裁くように生きるのではない、むしろ神様の御前にへりくだり、確かに存在する、この天地万物を創られすべ治めておられる、私たちにいのちを与え、その愛を刺し貫かれ導かれる本物の神様の恵みに生きてほしいと訴えるわけです。

 

この人を見よ、と連れ出されたパウロ、そのパウロを含め私たちに本物の神様の愛を示すために、愛の衣で覆うために裁判に、十字架に連れ出されたイエス様を思い返そう。フェストが何の罪も見いだせないというパウロ以上に、何の罪もない神の御子イエス様を神様は私たちを救うために、そのままにし、裁判を受けさせ、十字架に架かられたイエス様を。本来裁かれなければいけない私たちの罪を身代わりにイエス様が背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれた。そこまでしてでも、私たちが着ている罪の衣、ファンタジーを追い求め神様を否定するこの衣を脱がせていただき、イエス様の赦し、神様の子としての衣を着せていただいたのです。私たちはこの何の罪もないイエス様を十字架に架けた。それでも私たちを神様は赦したいとイエス様を裁判にかけ、十字架に架けられたのです。そこまでされた神様があなたを覆う愛は、ファンタジーじゃない、確かな愛です。このイエス様のいのちをかけてでも愛されたこの神様の全てが私たちを貫き、覆い、導かれるのです。ありえないパウロの裁判の先に神様の用意されている計画が展開されていく、神様の勝利が。

 

私たちはこのイエス様を見て、なお神様あなたは間違っている、と神様を裁いていませんか?自分の虚飾、ファンタジーに生きようとしていませんか?あなたを苦しめるものも、偽物も、全ては逆転する日が来る。私たちは確かに生きておられ、愛し抜かれた、今日もあなたを愛し、すべ治めてくださっているこの神様の御業に期待、信頼しよう。この逆転の時、救いの時を逃してはいけない。神様が着せて下さる衣、いのちがもたらす本物に私たちは生きようではありませんか。

 

 

私は、あなたは神様のイメージに似せて造られたのだから美しい。それは大げさな話ではない、むしろ感謝なこと。(意訳)

 

*でも実はそれだけでは終わらないんです。

あなたを神様は、御子イエス様の十字架と復活による贖いによって、あなたを神様の子とされたのです。新しく日々似せて下さるのです。作り変えて下さるのです。だからこそよけいにあなたは美しい!高価で尊い!

これほど感謝なことはないのではありません。ここに十分な恵みがあるのです。

あなたは神様がどれだけ愛を注がれている存在なのか、その確信はありますか?