とある働き人の聖書のお話 -9ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

 

人生で最もハッピーな時間の一つはね、

自分では変えられないものを、

えいやっと手放す勇気を持てた時なんだ。

~スヌーピー~

 

One of the happiest moments in life is when you find the courage to let go of what you can’t change. (Snoopy)

 

*私たちにはいかんともしがたいことが今の時代たくさんありますよね。

だから、自分でなんとかしないと、と思うのではなく、神様がいかんともしがたいことを最善へと変えてくださるのです。私達の心に喜びを与えてくださるのです。

握りしめて苦しむよりも、手放して委ね、私達の内側まで神様の愛で、目組で満たしていただこうではありませんか。

 

 

愛はわたしを招き入れたが、私の魂はためらった。
 

ちりと罪に汚れていたから。愛はすぐに気づき、ためらう私を見ていた。
戸口を入ったその時から私に近づき、優しく尋ねた。何をためらっているのかと。

 

『ここにふさわしくない客ですから』私は答えた。
愛は言った。
『お前は十分相応しい』
 

『私が?冷淡で、恩知らずな私が?ああ私にはあなたを見上げる事ができません』
愛は私の手を取り、微笑みながら言った。『わたしが、その目を造ったのでは?』
『その通りです、主よ。しかし、私はそれを汚しました。どうか私の恥が受けるにふさわしい報いを与えてください』
 

『お前は知らないのか』と愛は言う。『誰がその恥を担ったのか』
『わが主よ、それではあなたに仕えさせてください』
『まず座りなさ』と愛は言う。
『味わうのです、わたしの肉を』
そこで、わたしは座って、食べた。

 

ージョージ・ハーバードー

 

 

この「愛」はイエス様です。

神様はまず愛することを選ばれ、イエス様を上であられるのに人となってまで生まれさせ、私達の間に生きさせ、その恵みを与えてくださりました。

どんなに罵られ、嘲られても、裏切られても。

まず、この恵みを味わってほしい、とあなたを招かれました。まず愛を示されました

その恵みを今日、十字架から伸ばされています。あなたがこれを受け取るとき、あなたは神様の子とされ、その特権、恵みのうちに生きられるのです。あなたはこの愛をいただきますか?

 

「すると、アグリッパがパウロに、『あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい』と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。『アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。そして今、神が私たちの父祖たちに約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。【サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。】…』」

使徒の働き26章1-14節

 

私たちは自分が思う道を進もうとします。これが正しいのかな?これでいいのかな?と手探りで進もうとするときもあれば、これぞ絶対、と言わんばかりに誰の声を聞かずぐいぐい進む。まあどちらのやり方が正しいのか、それは人それぞれの考え方の違いがあるかもしれませんが、それが間違っていたら大変。というよりも誰も何が正しいのかなんて分からない。ただ忘れてはいけないのは、確かに私たちの道を照らし、良い道へ、良いいのちへと導こうとしてくださっている方がいること、語りかけておられる方がいるという事。そう、神様。神様はご自分の御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにしてでも滅び、死から救い出された、この方が導き出し、今日も導いておられる、その道を照らし、語り、その手を取って導かれているのです。私たちはこの方に今日信頼し歩もう。確かにそこには神様の最高が備えられている。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩い、痛み、罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後のことです。このイエス様の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。

 

旅の途中で様々な苦難困難がありながらも、そこに確かに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきます。その中で不当な訴えや、2年間の監禁などがありながらも、聖霊様の助けのもと守られてきました。神様がローマに導こうとしておられる、そこでキリストの証がされる、その勝利の日を信じパウロも過ごします。そしてローマの総督がフェストが交代になり、裁判が再開され、総督フェストのもと、アグリッパ2世が話を聞こう、と申し出、今パウロは今彼の前に呼び出されます。そこから↑が始まります。

 

あの残忍なアグリッパ2世、自分の父親は自分の名声・民に気に入られるために使徒ヤコブを殺害するし、バプテスマのヨハネを殺害したり、2歳以下の赤子を皆殺しにするなどとんでもない一家、その中にあって聞こうとする、まさにここに聖霊様が働かれていること、導かれていることが見えてきますね。そして今彼はパウロに自分の言い分をのべることを許可します。

 

パウロはアグリッパ2世を恐れるのではなく敬意を表し挨拶をします。それと同時に、今彼に真剣に語ろうとしていることをも示している。↑を見てわかる通り、これから語るのは自分の自己弁明ではなく、「罪人である私たちのためにイエスキリストが十字架に身代わりにかかられ、罰せられ、『神が死者をよみがえらせるということ』による救い」、これについてです。これを今、アグリッパ2世に受け取って、「彼自身も自分のこととして、ただの興味本位ではなく、本当の幸いを得てほしい」その思いがここににじみ出ています。聖霊様も彼の恐れの心を取り除きながら語るべき言葉を彼に示されます。

 

私たちはここで考えたいのですが、私たちは相手の事を思って言っているんだ、と自分の意見を相手に敬意を払わずただ語る事がありますが、それはあまり勧められない。むしろ神様の愛、幸せがここに現わされることを祈り、聖霊様の語られる導きに委ねる、その先に聖霊様の働きの中で人にはなせない神様の御業が現わされる、これを私たちは忘れてはいけません。相手を恐れて言うべきことを引っ込めるのでもなく、聖霊様のとりなし、語りかけに自分の口、心を委ねる、これが大事ですね。

 

話を戻し、アグリッパ王は民に気に入られるためにユダヤ教徒になっている、その知識は一応ありましたが、神様の本当の仰りたいことを彼は知りません。そこでパウロは自分自身のことから証し始めます。彼自身もかつてはパリサイ人という宗教家の中で、特に厳格な派の中にいたこと、これに生きていた、ある意味では将来有望のものだった、これに従って生きてきた事、何より先祖に与えられていた希望、救い主メシヤの到来とその死と復活による救いを待ち望んでいたことを語ります。ただパウロを訴えていた人たちも待ち望んでいたメシアの到来と救いを語ったのに自分は訴えられているんだ、と語るのです。それは同時に今、アグリッパ王、あなたはどうですか?と問いかけられてるわけですね。パウロを裁くという以上に今、このイエス様の救いの話を信じて受け入れるか。まさにいのち、救い、幸せを得る機会を神様は彼に示されるのです。

 

さらにパウロは、そのイエス様の十字架を見ながらこれを迫害する者だったことを語ります。自分はそんなメシア・イエス様を迫害し、それを信じる者を徹底的に迫害するものであったと正直に告白するのです。

 

彼はそれが正しいことと信じていました。救い主の誕生については預言を聞いているし知っている、知識はある。でも、イエスキリストは安息日を犯し(厳密には犯してはいない)、神殿を否定し(きよめた)、自分を神の子と呼び、神様をお父さんと呼びつけていた(それが本当の神様と御子イエス様の関係)、それが赦し難い、そんなものが救い主のはずがない、その思いでこのイエス様を排除しようとしていた。自分の考えと違う、知識と違う、とイエス様が成された救いを排除し、否定しようとしたのです。

 

しかし、そんな彼の前に復活のイエス様が現れたのです。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」と訴え。イエス様は裁くために来られるのではなく、今彼を悔い改めに導こうとされるのです。痛い、死の道ではなくいのちの道に導くのです。

 

ちなみに「とげのついた棒」ですが、牛を仕事に追いやる時に使ったとげのあるむちのことで、農夫は牛に鋤を付け畑を耕す際、牛のうしろから左手で操縦して歩かせます。その際に右手には、2,3メートルもあるこのとげのついた棒を持ちました。そして牛が立ち止まったり脱線したりするとこの棒で叩いたのです。このまま神様の救いから脱線していったらあなたは傷つくどころか滅びに向かっていってしまう、と訴えるのです。しかしそのあなたを救うために御子イエス様がその棒、罰を受け、死なれたことで、そして3日目によみがえられたことによって救いの道を示された、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され神様の子として引き上げてくださる、呪われたものではなく神様の子としてくださるんだ、と訴えたのです。

 

神様は私たちが死人のままでいるのではなく、死から解き放たれいのち、救いを得てほしい、と御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださった。「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか」と今訴えかけているのです。あなたはどうですか?信じ受け取りますか?神様の幸いを得ますか?と。あなたは死者のままでとどまり死に向かうか、このイエス様の救いを受け取り幸いを得るか、自分の知識に留まって神様が自分と違うことを言えば排除するそんな歩みに留まるのか、それとも神様の照らすまことの光の内にいのちを見出すか。あなたはどちらですか?あなたのために御子イエス様を身代わりに死なせてでもあなたを取り戻し幸せにしようとされているイエス様の呼びかけ、あなたの名前を呼んで、導こうとしているイエス様の愛を今日受け取っていますか?世の知識、死から解き放たれたいのち、罪から解き放たれ、神様の永遠のいのち、恵みに今日も生きよう。

 

パウロの弁明「とげのついた棒をけるのは痛い」

傷がつき、治療し、かさぶたとなり、新しい皮膚となっていく、

そんなプロセスは誰もが知っているでしょう。

 

でも、痛い時は痛い、でもそれが新しくなる日が来ます。

どんなに辛い、傷ついたときであっても、罪、暗闇の中にあっても、イエス様が命がけであなたを光の下、命の源に連れ戻されます。

 

イエス様があなたのリアルな絆創膏となり、あなたを新しく、新しく、癒やし、満たし、作り変えて下さるのです。その時私達は夜が明け、その栄光を仰ぎ見る日が来るのです。神様が下さる、最高の夜明け、大いに期待しようではありませんか。

 

サミュエル・ラザフォード氏は語る。

 

主イエスが絆創膏をくださるなら、傷があろうとも不満はない。病を患う者は幸いだ。麗しいキリストの御手が近づき、主が聖いその御手で、優しく、私の荒れて汚れた肌に触れてくださるから。病に伏すことは主からの恵みだ。キリストを寝床のそばに引き寄せてくれるから。『気分はどうだ』と聞いてくださる主の御声に、痛みに耐えた全ての夜が報われる。

 

なんだかんだで、人は何処か完全ななにかを求めます。

もしくは完璧にしたい、と願います。

 

でも・・・

 

誰も完全な人などいない。いまだかつて完全だったのはただ一人であり、十字架に架けられた方、イエス様だけ。
ーロレッタ・リーンー

 

イエス様が完璧だから、私たちが完璧である必要はないんです。完全なる神様が、私たちが祈り求めるとき、完全なるものに変えてくださるのです。私たちが計画する以上に。

 

「人は心に計画を持つ。主(神様)はその舌に答えを下さる」

 

のです。

 

自分が完璧ではないことを嘆く必要はだからないんです。むしろ神様の御心が完全に現される事を祈りましょう。そこには命が湧きあがるから。イエス様は今日もあなたを心配されています。

もっとご自身の御心を現したい、とあなたが帰ってくるのを待っている。

 

 

「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。」

箴言19章1-4節

 

私たちは貧しい時もあれば豊かな時もある。これ、金銭的な話だけではなく、心の状態だったり、うまくいっている・いっていないとか、何か友だったり家族だったりに「恵まれている」とかそういう時もありますよね。そう、「恵まれている」と感じる時。私たちはそもそもの話が神様によってこのいのちを創られた、与えられたんですよね。神様は、私たちを神様のイメージ、ご自身に似せてつくられた、しかもそれを見た神様は非常によかった、と仰ってくださるほどに最高のものを与えてくださっている。そして創られた後、誕生した後は放置、ではなく、両親が我が子のために最高のよいものをいつも与え、育てるように、それこそいのちがけで育てるように、神様は私たちにいつもその御手を伸ばされ、働かれ、養われ、「恵んでくださっている」のです。世の中的に先に挙げたような貧しい、と感じる中で、神様は全ての良いものを与えてくださっているのです。愛するわが子のために、御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも。それほどに熱心に私たちを愛してくださっている方がいる。だから私たちもこの方を熱心に求めよう。この方が貧しい私たちを豊かだといわせてくださる、恵んでくださっているから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに対して示された箴言・知恵のことば、いのちのことばで、これを受けたソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は神様の知恵、愛からくる御心によって私たちを豊かにしてくださる、着飾らせてくださるんですよね。無駄なことは一つもない、神様のわが子を思う愛ゆえにその最高のもので。私たちは神様を信じて何になる、とその関係を切ろうとするけど、私たちはこの神様から与えられている恵み、愛によって今日生かされていることを忘れてはいけませんね。

 

そんな神様はソロモンに向けて、そしてその彼を通して私たちに向けてさらに「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」と語られ、またソロモンもこれを書き残します。

 

これはなかなか悩ましい所で、貧しくて貧しくてつらい、明日を生きるのも精いっぱいだ、という人からしたら厳しく聞こえるかもしれない。でも、これはそれを我慢しなさい、とかそういうことを言いたいわけではない、そう感じます。逆にどんなに富んでいるように見えても、その人が本当の幸せを持っているかと言われたら必ずしもそうではない。

 

そうなってくるとまず考えたいのは、そもそも私たちは自分で何もかも得て生きているように考えますが、そうではなく誰かから与えられ、養われて生きている、という事です。誰も自分一人の力で生まれてくることはできないし、生まれてただ一人で何の支えも助けもなく生きることなどできません。じゃあそのいのちはどこから来たのか?両親…じゃないですよ?両親はいのちを与えること、たましいを与えることはできません。人はたましいを与えることはできない。身体だって両親の意思で組み立てることはできない。神様が私たちにからだを組み立ててくださり、たましいを吹き込んでくださって、このいのちを与えてくださったんです。そして昨日の分かち合出も見ましたが、神様が神様の霊を吹き込んで「生きたもの」にしてくださった。私たちは神様の最高傑作なのです。そして神様が食べるのに良いものをエデンの園に生えさせ、養ってくださっていた。

 

そう、神様が私たちのいのちの中に良いものを吹き込み、養ってくださっているんです。アダムとエヴァはエデンの園で、神様の所には何もいいものが無いじゃないか、とサタンの声に負けて離れていってしまいましたが、神様はそれでも彼らを見捨てず養い続けて下さりました。それは私たちに対しても同じなのです。この神様が私たちを養ってくださっているから今、私たちはここにいる、生きている。神様が種を蒔き、実を実らせ、これを私たちはいただいているのです。この事を私たちは忘れてはいけません。

 

イエス様は「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」と教えられました。

 

種蒔きも、刈り入れもせず、倉にも納めない、そんな鳥、また私たちの代わりに神様がそもそも種を蒔いてくださって実を実らせてくださっている。雨、太陽、土壌などすべてを神様が整えて、まあすべての土地は神様が創られたわけで、そこを私たちが借りているわけですが、私たちを養ってくださっている。こんな鳥さえ養ってくださっている神様が私たちをどうして見捨てたり養わずにいられようか、とその思いを訴えるわけです。この箴言を語られているソロモンさえ、野の草・花ほどに着飾っていなかった。でも神様が私たちを着飾らせてくださる、その神様が私たちのいのちを心配せず、ご自身の愛で着飾らせないはずがあるだろうか、と。信仰が弱い、だから何もあなたには与えない、ではなく、そんな私たちをさえ、神様から離れて好き勝手に生きて、良い種を蒔くわけでもなく、罪を蒔いたり、悲しみを蒔いたり、そんな私たちを見捨てず、神様がそのいのちを良いもので満たして、回復させて下さろうとしているのです。私たちのいのちを神様が支え、引き延ばし、その恵みで満たして下さるのです。このような神様がいるなんて、何という幸い。こんな私たちを心配してくださっているなんて。

 

イエス様はこれらの話の語り初めに「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と語られました。心の貧しいものが幸いなんておかしいのでは?と思われるかもしれませんが、むしろだからこそ神様を求める。神様を求める心に富む者は、たとえ、どんなに貧しかろうと、辛い状態に、元気が無かったりしても、神様が今語られていたようにその種を蒔き、良いものを収穫させてくださる、神様が天の御国のようにその素晴らしさをあなたの内に展開してくださるのです。展開してくださる方がいる。この方に祈っていい、求めていいのです。

 

↑の最初に帰りますが、「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」。どんなにうまくいかない、貧しく感じるようなことがあっても、それでも神様に誠実である、神様を求める時、誠実なる神様は答えてくださる。あきらめて、その道を曲げるのではなく、それでも神様に信頼し続ける、その中に神様の富が溢れる、神様の愛が、神様の知恵・御心が溢れるのです。この世の限界あるものではない、いつかは失われる見せかけの富ではない、この天地万物を創られ、今も養い続け保持し続けて下さっている神様の御手があなたを、あなたのいのちを支え、あなたの蔵を神様の愛で、神様の良いものでいっぱいにしてくださるのです。その時私たちは涙と共に蒔いたこの種も、喜び抱えながら刈り取る日を迎えさせてくださるのです。

 

パウロは「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と語ります。彼は宗教家としては将来有望、でも神様を知っているつもりでいて、知らなかった。しかし、神様が御子イエス様に彼の、私たちの罪も思い煩いも一切身代わりに背負わせ十字架に架かられ罰せられ、死なれたことを知って、彼はこのイエス様のいのち、愛に満たされたこのいのちの方が良い、と感じたのです。世の富ではない、神様の富に溢れる命の方が幸いなんだ、と。世の富というか成功を知っている彼はそれを知った。イエス様が神であられるのに人となって貧しくなって降られ、その身を私たちのために捧げられた、そのことによって、私たちに永遠のいのち、神様との和解によって与えられる最高の恵みにとませていただけるようになるんだ、と。この世的には貧しく彼はなる、でもこれまで知っているようで知らなかった神様の養い、支えを知り、これに生きる道に神様の幸いが広がっていることを知ったのです。神様の道から曲がって歩み、神様の富も恵みも失い死に向かう命から、神様に向かう、神様と共に歩む、神様の恵みが広がる命に招かれた喜びに勝るものはない、と。

 

私たちは神様の道を疑って曲げていませんか?「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく」と語られているように、熱心になるものを間違えて、自分と神様は合わない、と自分の知識、考える富を追い求めて、躓くなんてもったいない。タイムイズマネーだといって止まることをもったいない、無駄だ、と考えずに、一度神様の広げてくださっている恵みに目を留めよう。間違った方向に熱心に、急いで進んでもそこで何を得るのだろう。おかしい、もっとうまくいくはずだ、と自分の考えを推し進め、もしくは誰かに押し付けて、無理やり自分の成功を得ようとして神様と御心、富を失う者であってはいけない。むしろ神様があなたのために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでもあなたを救い出され、招かれたこのいのちの道、神様の御心の道に帰ろう。そしてこれに歩もう。そこには神様の熱心が、あなたへの熱心な愛が確かに溢れている。この神様の熱心な愛があなたを養い、また命の道へと導いて下さるのだから。

 

「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」、そんな残念なことになってはいけない。神様はあなたが滅びることを望まない、あなたに生きてほしいからまずその愛を示された、御子イエス様のいのちをあなたに与えて富ませようとしてくださったんですよ?自分の思う通りに行かないから、と神様に起こっている場合ではありません。神様のいのちの道を求めてみませんか?

 

「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」。確かに富や財産のように見えるものによってくる友のような者もいるけど、それはいつかは失われてしまう。その財産がなくなればどうなる?しかし神様は最高の財産、御子イエス様をあなたに与えることによって、よるべのない私たちを引き寄せてくださった。そこに神様が溢れさせてくださる富をどこまでも私たちは求めよう。そしてこの寄るべのないかたにこの希望を届けようではありませんか。そこに神様の本物の財産、富が広がることを願い。イエス様という最高の財産をもって引き寄せられた最高の関係、これを私たちの最高の財産としながら。

 

線路を歩く男性、箴言19:1

あるデパートが開店以来、ちょうど100万人目を迎え、その小さな体のおばあちゃんを、美しいデパートガールたちが取り囲みました。バンドの演奏が始まり、恰幅の良い重役らしい人がおばあちゃんの胸に蘭の花をつけてくれました。

 

その上、手の切れるような一万円札を10枚手渡しました。

 

テレビカメラがおばあちゃんを囲み、インタビューが始まりました。

 

「おばあちゃん、おめでとう。今日は何の買い物ですか?」

 

おばあちゃんはちょっとためらってから、こう答えました。

 

「あのう、苦情係のところへ行こうと思って…」

 

おばあちゃんはどんな気持ちだったのかな?定かではないけど、私たちは何かと苦情を思います。

 

でも、神様は100万人目であろうと、1人目であろうと、最後のひとりまでその愛を注ぎたい、100万円どころか、神様の最高の御心を渡したい、歓迎したい、と待っています。神様はイエス様のいのちと共に、最高の恵みを与えたい、と待っているのです。

今まで持っていた思いは、悩みはこのイエス様にあって打ち勝ち、最高の恵みへと変えられます。

 

さて、あなたはインタビュアー・神様から、神様のところに何を求めてきたのか、何と答えますか?

 

スティーヴン・コ―ヴィーさんという著名な作家の体験した実話。

 

彼はある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄に乗っていました。空いている電車内は、静寂そのものでした。ところが、ある駅に到着すると、一人の中年の男性と、数人の子供が乗り込んできて、車内の雰囲気が一変しました。子供は大きな声で叫んだり、物を投げたり、走り回ったりしました。

 

しかし、スティーヴン氏の隣に座った父親は、目をつぶったまま、何も言いませんでした。スティーブン氏をはじめ、電車に乗っている人々はみな、子供に対しても、その行儀の悪さを容認する父親に対しても、イライラが募るばかりです。

 

とうとうたまりかねたスティーヴン氏は父親に言いました。「お宅の子供たちは、みんなに迷惑をかけていますよ。もう少し、おとなしくするように叱ってもらえませんか。」

 

すると隣に座っていた父親は、重い口を開きました。

「おっしゃるとおりです。何とかしなければならないと、私も思っていますが、どうしたらいいかわかりません。ほんの一時間前に、私の妻、あの子たちの母親が病院で死んでしまいました。私もどうしたらいいかわからないし、子供たちも同じでしょう。」

 

一瞬にして、スティーヴン氏の父親に対する考え方が変わりました。そこで、父親を批判することをやめ、むしろ彼に同情し、彼を慰めようとしたということです。

 

聖書にこうあります。

 

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」
(マタイによる福音書7章1-3節)

 

今の時代、どうしても目の前の人たちの状況を知らずに私たちはこのように冷たい目を向けやすいです。でも冷たい目よりも温かい目を向ける方がずっといい。その人の状況は↑ほどではないのかもしれない。

でも、苦しんでいる人をよけいに苦しめてどうなります?一緒に乗り越える、これ方がずっといい。同じ仲間。彼らもあなたも神様の大切な作品です。高価で尊い存在です。互いに愛し合おう。そこに神様の平安が広がる。

 

聖書のほかの個所にはこうあります。

 

「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイによる福音書18章18-20節)

 

あなたが神様とつながりその愛を現す中で、神様はその御心を現されます。共におられます。変わります。神様の御こころが天でも地でもなりますように…

 

「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える。滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。」

箴言18章20-24節

 

何かの歌で、「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」、でしたっけ?そんなのがありましたね。まあ一理あり、かな。ただ、私たちが歩んでいる中で、その関係の中で、幸せを自分がもたらすのではなく、神様が私たちの内に働いて幸せを、良いものをもたらして下さる。神様が種を蒔いて下さってそこに良い収穫をもたらして下さる。だから私たちはこの神様に信頼していい、むしろこの神様の良いものがここに満たされるよう祈る、その時そこは幸せな場所になる。神様は私たちを親しい友となってくださる、その友の幸せを願ってくださっている。その友のために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに。ご自身がつくってくださった私たちが離れ、苦しんでいる、幸せを失った私たちを見捨てられず、父なる神様は私たちを見捨てず愛を注がれ続けているのです。今日、私たちはこの神様のくださる幸せを求めよう。ここにいのちの花が咲くことを信じて。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が示された箴言・知恵のことば、といいますかいのちのことばで、またこれを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はあらゆるところに、それこそ私たちがこんなところに何が得られるんだ、と希望を失ってしまうような場所にさえその御手を伸ばされ、愛からくる知恵・御心を働かせてくださって、幸せにしようとしてくださっている。何という幸いなことだろう。この神様の所に来て良いんだよ、と招いて下さっている、このすべての初めなる神様を私たちは蔑むことなく得てほしい、その思いが伝わってくる神様からの訴えですね。

 

そんな神様はソロモンに向け、またその彼を通して私たちに向けてさらに「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」と語られ示され、ソロモン自身もこれをこうして書き残します。ここでことばについて触れられていますが、この箴言の分かち合いの中で何度もことばの力についてみてきましたが、ことばは良くも悪くも影響を与えます。昨日の分かち合いの中で、神様は人を関係の中に生きるようにつくられた、ということを見ましたが、関係の中で大きな影響を持つのが言葉です。どんな言葉を語りかけ、どんな思いをその言葉に込めるか、それによって結ぶ実が変わってくるわけです。

 

ただ、この箴言のことばを見て気づくと思いますが、本来口といいますか、ことばは人を「死」ではなく「生」かす、互いに励まし合う、その為に与えられたものなのでしょう。神様は人をご自身に似せてつくられ、ことばを話す口を与えられた。神様が愛を語るように、互いに愛し合う、そのような言葉を用いてほしい、と。ちなみに、アダムとエヴァが出会い、アダムが初めて「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」という相手をほめたたえるものでした。罪が入ってくる前ですね。しかしエヴァの内にサタンが誘惑してきて、神様が食べてはいけない、「死」ぬといけないから、と言われていた実を食べた結果、罪が入ってきた後、彼女はアダムにこれを食べさせるという誘惑をし、さらには神様に指摘された時には互いに罪を擦り付け合うということをしてしまった。なんと悲しいことだろう。

 

もちろんこの件にサタンの問題があることは言うまでもありませんが、それを拒否することも人にはできたはず、ただそれをしなかった。これ、アダムとエヴァのせいにしている場合ではないんですよ?私たちだって何か誘惑があればそれに飲み込まれてしまうことだって多々あります。

 

そうすると見えてくるのは、私たちの心の状態が何に満たされているか、それが重要になってきます。イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」と教えられました。私たちの心に満ちているものを人は話す、これ、みなさんその通りと感じませんか?ことばは心の状態を反映するって。これ、以前にもブログや他の箇所でも分かち合いましたが、もしどうしても癖のように悪いことば、罵る、見くだすような言葉、呼びかけなどが出てくるときは、自分の心の状態をチェックした方が良いです。何か怒りやいかんともしがたい過去の傷など影響している場合があります。高慢になっていたり、逆に自分を卑下しすぎていて自信が無かったり。そしてそのことばが↑の箴言でも言っている通り、良い実か悪い実かどちらかを結ばせ、私たち自身、また相手にも影響を与えてしまうわけです。

 

しかし、↑で「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」と語られていますが、神様としては私たちが「死」ぬ、「死」に支配されることを望まない。私たちに「生」きてほしい、「生」に支配されるというか、満ち溢れてほしい、それこそが神様の願いなのです。先程のアダムとエヴァの話の中で、サタンのことばが彼らを支配した時、受け入れた時、彼らに死が入ってきました、その語る言葉が変わったことを見ましたが、その前は違ったのです。神様は人をつくられた時、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」というのです。神様の息・霊が私たちを支配する、満たすとき私たちは生きたものとなるのです。そしてアダムの内には相手を褒める、愛する心が与えられたのです。そこには生きた関係があったのです。

 

神様はこの時「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と仰りましたが、神様の与えるところに全ての良いものがある、どんな時でもここから取って食べていいんだよ、この神様のくださるものを食べて、受けて、生きる、生きてほしい。あなたに死んでほしくないからこそ、この神様のくださるものを選び取ってほしい、そう訴えたわけです。

 

イエス様は「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」とも仰られます。もちろん食べ物で悪いものを食べればお腹を壊したりします。しかし神様から与えられた知恵を選び取る、食べる、それは私たちを聖め生かして下さるのです。その時、口から出るものが汚すのではなく、人を生かすものに変えられる。神様の霊・みことばを受け、これを食べる時そこは生きたものへと変えられていくのです。「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる」と↑で神様がソロモンに示されたように、まさに私たちは神様の霊が蒔いて下さった種によって収穫を得るのです。私たちが蒔いた種から得るものとはわけが違う。生きてほしいと願われている神様が蒔かれた種から得る収穫はいかばかりか。

 

むしろ私たちはこの神様が蒔こうとしている種を拒否したり、それをわたしの人生に蒔かないで、関わらないで、ここの畑は私の領分だから、と拒否していませんか?こんな土地に、関係にあなたの種を蒔いたって時代が違う、季節が違う、といって拒否していませんか?しかしどんな荒れ地であっても、荒野に道を、砂漠に川を流される神様がそこに「生」をもたらされるのです。何という希望。「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」。あなたはどちらを愛していますか?神様を愛するといって神様のくださっているものを自分には、時代的に合わない、と言って拒否していませんか?私たちは神様のくださる「生」をいただこう。「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく」とありますが、それは夫婦関係にも幸せをもたらすし、夫婦関係以外でも良い助け手を見出す、聖霊様を見出し、私たちはその中に幸せを見つけさせていただき、神様からの恵みをいただくのです。神様という最高の父、父なる神様から。

 

「貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える。滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる」。私たちは心貧しく、しかし神様を求める心をもとう。その神様への哀願、訴えは恥ずかしいことではない、むしろ自分は富んでいるから神様などいらない、といって荒々しく答えて神様の恵みを失うのではなく、神様の恵みに神様は富ませてくださる。あなたという友を滅びにいたらせないために、こんな神様から離れ、荒々しい態度をとる私たちを友とそれでも呼び、この友のために御子イエス様のいのちを身代わりに神様は去れたのです。私たちが背負っている思い煩いや痛み、死、罪、これら一切を神様は私たちが滅びないように、兄弟よりも親密なものとして招くために、御子イエス様に全てを身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎えてくださるのです。神様の愛で、霊で富むものとされるのです。この神様の富が口からある意味で入る、イエス様こそ救い主です、と告白する中で私たちは生きる、このイエス様の救いを告白するその言葉が周りに希望を与え、神様の驚くべき収穫、いのち、生をもたらすのです。

 

イエス様は神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さない点を除いて完全に人となって生まれてこられた、貧しくなられた。でもこの貧しくなられて、私たちを救うために十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と懇願され、いのちを身代わりにされた、この懇願が私たちに今日命をもたらして下さっているという事を私たちは忘れてはいけません。このイエス様にあって私たちに生きてほしい、この願い、あなたはどう今日受け取るだろうか。今日、イエス様のいのちにあって神様と最も親しい親密なものとしてくださっているんですよ?なんてすばらしいこと。何をしたらいいのか、何をしているのか分からないで様々なものに支配されていた命から解き放ち、自由にしてくださる、ここに神様の素晴らしい収穫、恵み、幸せを私たちは知る、見る、得させていただけるのです。もう滅びに進んではいけない、私たちはこの神様と親しい歩みを日々しよう。そしてここに神様の素晴らしさが満ち溢れ、全てが生きる事を祈り願おうではありませんか。今日、私たちはこのイエス様にある希望を語り、またこの愛をもって仕えるものであろうではありませんか。

 

「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく」。良い妻どころか、私たちのためにいのちをかけられた御子イエス様をあなたは今日見ていますか?この方のくださった、くださる幸せ、恵みをどこまでも慕い求め歩もうではありませんか。

 

箴言18章20-21節、口から出る実

今日は敬老の日ですね。

すべてのおじいちゃんおばあちゃん、という言い方は失礼かもしれませんが、がこれからも元気でありますように…

神様の祝福をお祈りいたします。

 

そんな敬老の日に一つのことばを。

 

「あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」

 

これはイザヤという預言者を通して神様が語られた言葉。

神様があなたを白髪になっても、いやまあ髪がなくてもですが…あなたを背負ってこれからも進んでくださる。年を取ったから、とかそんなことは関係なく、また若くても関係なく、神様が生まれる前から生まれ、そして今に至るまで、またこれからもあなたを背負って進まれる。

あなたのためなら御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様があなたを背負われ、今日も進んでくださる。

 

安心してください。

神様がいます( ;∀;)