「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。」
箴言19章1-4節
私たちは貧しい時もあれば豊かな時もある。これ、金銭的な話だけではなく、心の状態だったり、うまくいっている・いっていないとか、何か友だったり家族だったりに「恵まれている」とかそういう時もありますよね。そう、「恵まれている」と感じる時。私たちはそもそもの話が神様によってこのいのちを創られた、与えられたんですよね。神様は、私たちを神様のイメージ、ご自身に似せてつくられた、しかもそれを見た神様は非常によかった、と仰ってくださるほどに最高のものを与えてくださっている。そして創られた後、誕生した後は放置、ではなく、両親が我が子のために最高のよいものをいつも与え、育てるように、それこそいのちがけで育てるように、神様は私たちにいつもその御手を伸ばされ、働かれ、養われ、「恵んでくださっている」のです。世の中的に先に挙げたような貧しい、と感じる中で、神様は全ての良いものを与えてくださっているのです。愛するわが子のために、御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも。それほどに熱心に私たちを愛してくださっている方がいる。だから私たちもこの方を熱心に求めよう。この方が貧しい私たちを豊かだといわせてくださる、恵んでくださっているから。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに対して示された箴言・知恵のことば、いのちのことばで、これを受けたソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は神様の知恵、愛からくる御心によって私たちを豊かにしてくださる、着飾らせてくださるんですよね。無駄なことは一つもない、神様のわが子を思う愛ゆえにその最高のもので。私たちは神様を信じて何になる、とその関係を切ろうとするけど、私たちはこの神様から与えられている恵み、愛によって今日生かされていることを忘れてはいけませんね。
そんな神様はソロモンに向けて、そしてその彼を通して私たちに向けてさらに「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」と語られ、またソロモンもこれを書き残します。
これはなかなか悩ましい所で、貧しくて貧しくてつらい、明日を生きるのも精いっぱいだ、という人からしたら厳しく聞こえるかもしれない。でも、これはそれを我慢しなさい、とかそういうことを言いたいわけではない、そう感じます。逆にどんなに富んでいるように見えても、その人が本当の幸せを持っているかと言われたら必ずしもそうではない。
そうなってくるとまず考えたいのは、そもそも私たちは自分で何もかも得て生きているように考えますが、そうではなく誰かから与えられ、養われて生きている、という事です。誰も自分一人の力で生まれてくることはできないし、生まれてただ一人で何の支えも助けもなく生きることなどできません。じゃあそのいのちはどこから来たのか?両親…じゃないですよ?両親はいのちを与えること、たましいを与えることはできません。人はたましいを与えることはできない。身体だって両親の意思で組み立てることはできない。神様が私たちにからだを組み立ててくださり、たましいを吹き込んでくださって、このいのちを与えてくださったんです。そして昨日の分かち合出も見ましたが、神様が神様の霊を吹き込んで「生きたもの」にしてくださった。私たちは神様の最高傑作なのです。そして神様が食べるのに良いものをエデンの園に生えさせ、養ってくださっていた。
そう、神様が私たちのいのちの中に良いものを吹き込み、養ってくださっているんです。アダムとエヴァはエデンの園で、神様の所には何もいいものが無いじゃないか、とサタンの声に負けて離れていってしまいましたが、神様はそれでも彼らを見捨てず養い続けて下さりました。それは私たちに対しても同じなのです。この神様が私たちを養ってくださっているから今、私たちはここにいる、生きている。神様が種を蒔き、実を実らせ、これを私たちはいただいているのです。この事を私たちは忘れてはいけません。
イエス様は「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」と教えられました。
種蒔きも、刈り入れもせず、倉にも納めない、そんな鳥、また私たちの代わりに神様がそもそも種を蒔いてくださって実を実らせてくださっている。雨、太陽、土壌などすべてを神様が整えて、まあすべての土地は神様が創られたわけで、そこを私たちが借りているわけですが、私たちを養ってくださっている。こんな鳥さえ養ってくださっている神様が私たちをどうして見捨てたり養わずにいられようか、とその思いを訴えるわけです。この箴言を語られているソロモンさえ、野の草・花ほどに着飾っていなかった。でも神様が私たちを着飾らせてくださる、その神様が私たちのいのちを心配せず、ご自身の愛で着飾らせないはずがあるだろうか、と。信仰が弱い、だから何もあなたには与えない、ではなく、そんな私たちをさえ、神様から離れて好き勝手に生きて、良い種を蒔くわけでもなく、罪を蒔いたり、悲しみを蒔いたり、そんな私たちを見捨てず、神様がそのいのちを良いもので満たして、回復させて下さろうとしているのです。私たちのいのちを神様が支え、引き延ばし、その恵みで満たして下さるのです。このような神様がいるなんて、何という幸い。こんな私たちを心配してくださっているなんて。
イエス様はこれらの話の語り初めに「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と語られました。心の貧しいものが幸いなんておかしいのでは?と思われるかもしれませんが、むしろだからこそ神様を求める。神様を求める心に富む者は、たとえ、どんなに貧しかろうと、辛い状態に、元気が無かったりしても、神様が今語られていたようにその種を蒔き、良いものを収穫させてくださる、神様が天の御国のようにその素晴らしさをあなたの内に展開してくださるのです。展開してくださる方がいる。この方に祈っていい、求めていいのです。
↑の最初に帰りますが、「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」。どんなにうまくいかない、貧しく感じるようなことがあっても、それでも神様に誠実である、神様を求める時、誠実なる神様は答えてくださる。あきらめて、その道を曲げるのではなく、それでも神様に信頼し続ける、その中に神様の富が溢れる、神様の愛が、神様の知恵・御心が溢れるのです。この世の限界あるものではない、いつかは失われる見せかけの富ではない、この天地万物を創られ、今も養い続け保持し続けて下さっている神様の御手があなたを、あなたのいのちを支え、あなたの蔵を神様の愛で、神様の良いものでいっぱいにしてくださるのです。その時私たちは涙と共に蒔いたこの種も、喜び抱えながら刈り取る日を迎えさせてくださるのです。
パウロは「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と語ります。彼は宗教家としては将来有望、でも神様を知っているつもりでいて、知らなかった。しかし、神様が御子イエス様に彼の、私たちの罪も思い煩いも一切身代わりに背負わせ十字架に架かられ罰せられ、死なれたことを知って、彼はこのイエス様のいのち、愛に満たされたこのいのちの方が良い、と感じたのです。世の富ではない、神様の富に溢れる命の方が幸いなんだ、と。世の富というか成功を知っている彼はそれを知った。イエス様が神であられるのに人となって貧しくなって降られ、その身を私たちのために捧げられた、そのことによって、私たちに永遠のいのち、神様との和解によって与えられる最高の恵みにとませていただけるようになるんだ、と。この世的には貧しく彼はなる、でもこれまで知っているようで知らなかった神様の養い、支えを知り、これに生きる道に神様の幸いが広がっていることを知ったのです。神様の道から曲がって歩み、神様の富も恵みも失い死に向かう命から、神様に向かう、神様と共に歩む、神様の恵みが広がる命に招かれた喜びに勝るものはない、と。
私たちは神様の道を疑って曲げていませんか?「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく」と語られているように、熱心になるものを間違えて、自分と神様は合わない、と自分の知識、考える富を追い求めて、躓くなんてもったいない。タイムイズマネーだといって止まることをもったいない、無駄だ、と考えずに、一度神様の広げてくださっている恵みに目を留めよう。間違った方向に熱心に、急いで進んでもそこで何を得るのだろう。おかしい、もっとうまくいくはずだ、と自分の考えを推し進め、もしくは誰かに押し付けて、無理やり自分の成功を得ようとして神様と御心、富を失う者であってはいけない。むしろ神様があなたのために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでもあなたを救い出され、招かれたこのいのちの道、神様の御心の道に帰ろう。そしてこれに歩もう。そこには神様の熱心が、あなたへの熱心な愛が確かに溢れている。この神様の熱心な愛があなたを養い、また命の道へと導いて下さるのだから。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」、そんな残念なことになってはいけない。神様はあなたが滅びることを望まない、あなたに生きてほしいからまずその愛を示された、御子イエス様のいのちをあなたに与えて富ませようとしてくださったんですよ?自分の思う通りに行かないから、と神様に起こっている場合ではありません。神様のいのちの道を求めてみませんか?
「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」。確かに富や財産のように見えるものによってくる友のような者もいるけど、それはいつかは失われてしまう。その財産がなくなればどうなる?しかし神様は最高の財産、御子イエス様をあなたに与えることによって、よるべのない私たちを引き寄せてくださった。そこに神様が溢れさせてくださる富をどこまでも私たちは求めよう。そしてこの寄るべのないかたにこの希望を届けようではありませんか。そこに神様の本物の財産、富が広がることを願い。イエス様という最高の財産をもって引き寄せられた最高の関係、これを私たちの最高の財産としながら。
