ハイジの退屈日記 パリ・東京 -10ページ目

2018年、美しい夏のフランス

7月半ば、ちょっと早めの夏休みをとり、

フランスに行ってきた。

 

夫の家、私の第二のホームがあるパリは

相変わらず美しい。決して裏切られない安定感がある。

夏の陽光の下、街はひと際輝いていて、感動的でさえある。

 

この↓景色を目にした時に、

 

 

 

 

「奥さん、いつ見ても綺麗だねえ」という言葉が

なぜか、咄嗟に頭に浮かんだ、自分の発想の貧しさに落ち込んだが。

 

 

 

7月半ばのパリは実に爽やかで、散歩の喜びを与えてくれる。

ラッキーなことに、ほぼ毎日カラリとした晴天に恵まれ、

街のあちこちに溢れる陽を楽しむ。

夜10時まで明るく、長い一日を楽しめる。

本当に、夏のパリというのは気分を上げてくれる。

 

休暇といえども、東京での仕事は毎日が佳境だったりするので、

メール等々でパリの午前中に仕事せざるを得なかったが、

東京の業務時間が終わったパリの午後からは自由時間、

日が沈むまで一日が長いし、時差のある場所の休暇はいいものよ。

ネットでいつでもどこでも難なく繋がれる時代のせいで、

休暇の間中も仕事から逃れられない、など

賛否両論ありますがね、私は絶対的に賛成派です。

仕事で多忙でも、「休暇」がとれるんだからいいじゃないの。

 

 

 

 

夜10時のサンジェルマン大通り↓

3階の窓の向こうにアイロンがけをしている女性の姿が見えた。

こういう都会で、生活の透けてみえるパリの風景に、

胸が締め付けられるような感慨を覚えるのは何故だろう。

 

 

 

 

さて、サッカーにはとりたてて興味のない私ですが、

2018年7月半ばのフランスといえば、ええ、

ワールドカップ決勝戦のかの日と私の滞在は重なりました。

 

欧州人にとってワールドカップ、といったら、

「サッカー」とかいう次元を超え、

最高レベルの国民の行事、しかも「決勝戦」!!

しかも、何十年ぶりだかの決勝戦。

これは歴史的に物凄い日なわけで。

 

(その昔、6年ほどドイツに住んでいた時も、

西ドイツがワールドカップを制した時と重なった。

その時の熱狂と興奮は、同じ年に起こった「東西ドイツ統一」なんかより、

ずっと凄まじかった、というのを身を持って経験してます)

 

私ら夫婦は、かのワールドカップ決勝の週末、

パリを離れて、トルービル(Trouville)という、

ノルマンディ地方のラグジュアリー避暑地ドービルの隣の町におりました。

ドービルとビーチが繋がっていてお洒落な雰囲気もありながら、

ドービルより、こじんまりとして素朴、上品で可愛い町。

 

ビーチ沿いには瀟洒なお屋敷、プティシャトーなどが並び、

マルグリット・デュラスなど文豪の別荘など伝統ある家々も。

 

 

 

 

ワールドカップの優勝に際して、

ニュースによると、決勝を制したその日のパリ、シャンゼリゼ通りあたりは

空前絶後の人出になっていたようだし、

各都市、それぞれ大いに盛り上がっていたのでしょう。

小さな町トルービルにおいても同様で、朝から気合がみなぎっていた。

 

 

 


この魚屋さんのように、トリコロールの鬘をかぶった人は

朝から何人か見かけた。

 

こんな風に↓トリコロールを掲げる家も。

 

 

 

 

ホテルでも、こんな↓さりげない愛国心の表現を発見。

滞在ホテルに3色のシャツをわざわざ持参したのだろうか。

確かに、何人かのフランス人観光客は、応援してます、

という自己主張の強いシャツなどを着て連帯感を演出してたね。

 

 

 

 

トルービルは、お隣のドービルが有名なだけに、

世界中から大勢の観光客が押し寄せる、

といった町ではまだないのでしょう。

もちろん外国人観光客も大勢いたけれど、欧米人ばかりで、

たとえば、東洋人にはほぼ出会わなかったし、

外国人率はパリなんかとは比べ物にならず、

ワールドカップ的盛り上がりもジモティー感が高かったかも。

 

 

 

 

 

町の全てのカフェ、バー、レストランといってもよかろう、

テレビ中継が行われていて、皆さん注視しています。

 

 

 

 

街中の多くの店では、多くの皆さんが地べたに座り

テレビ中継を見ていて、「ラ・マルセイエーズ」を合唱する人々も。

このような純粋な愛国心が盛り上がる時に

自然発生的に合唱する国歌の曲作り、というのは

我が国も考えても良かったのではないかね。

 

 

 

 

 

優勝が決まった時の騒ぎは、どの町もそれぞれあろう。

トルービルでも皆さん、大層な盛り上がり、シャンパンかけ合い。

そのあとも夜中までずっと、クラクションを鳴らしながら、

狭い町中をぐるぐる走り続ける車が後を絶たず。

 

何につけても、喜んでいる人たちを見るのは楽しく、

こちらまで、とても心浮き立って嬉しい気分になる。

良い時にフランスに行けたな、と思った。

やはり縁があるのかもしれない、と感じた。

 

 

 

 

 

 

風と木の詩:2人の魂に救いあれ

日本の漫画史を紐解く時に、

ぼぼ必ずといってもいいほど登場する作品、

武宮恵子作「風と木の詩」。

 

 

本作品のことは子供の頃から知ってはいたが

読んだことはなかった。

このほど、齢58の友人が、

「あの世に行く前に読むべき漫画」をいくつか貸してくれたのだが、

(「ガラスの仮面」「アラベスク」「日出処の天子」等々の昭和の名作)

私は「風と木の詩」にダントツで衝撃を受けた。

こんな優れた作品だっとは知らなかった。

 

全17巻を読了してから3カ月は経つが、

いまだに心から離れず、引き摺ってしまうほどの衝撃で、

齢53にして、このティーンエージャーを主人公とする「漫画」に、

ここまで影響を受けるとは思わなかった。

 

ああ、ジルベール、君は幸せだったの?

ああ、セルジュ、君たちはどうすれば良かったの?

答えは出ず、ぐるぐると思考が巡る。

切なくて切なくて、胸が張り裂けそうになる。

彼らの魂の救いを、願うばかりだ。

(全くのフィクション、実在の人物でもなんでもないんですが)

 

 

 

 

上野千鶴子が本作品について「BLの金字塔」とコメントしたらしいが、

「BL扱い」にするのには抵抗がある。

これは性別などを超えた、愛の物語だと思う。

 

これは男女、女女でも全く成り立つ話しであろう。

痛いほどの孤独と闇をかかえた二人の若者が、

どうしようもないほどの激しい愛と心の飢えを充たすのに、

肉体的な結びつきを通過せざるをえなかった、ということで、

そこでは、性別などはどうでもいいことのように思える。

 

物語としては、男の子同士の話しは、切なさが増すけどね。

舞台設定の当時は、宗教的・社会的に「罪」だったので。

 

 

舞台は19世紀終りのフランス。

貴族でありながら、生まれた時より母からの接触を一切受けず、

(一度だけ会った時も、毛嫌いされて、いきなり頬を打たれる)

4,5歳までは「父」も不在。

召使から最低限の世話だけされて自然児のように育ちながら

生まれながらの高貴と知性、気高さをあわせもつ、

圧倒的な美貌の少年ジルベール・コクトー。

10歳に満たない時に初めて誰かに「愛された」と感じたのは、

伯父と名乗る実の父からの性的な支配による。

「愛する父」から不本意ながら全寮制寄宿学校にいれられ

実質、娼婦(夫)のような荒んだ生活を送っている。

彼の凄まじい生い立ちと美貌は、宿命的ともいえる結末に繋がる。

 

一方、心正しく真っ直ぐなパリの子爵家の跡取りの男性と、

彼が愛したジプシー出身の高級娼婦の女性が駆け落ちし、

アルルの自然の中で生まれ育ったセルジュ・パトゥール。

高い知性と教養、人間性に恵まれた両親の元で

5歳まで愛情一杯に育ったセルジュは、

その誠実で愛情深い性格ゆえ友にも愛され、学業にも優れ、

ピアニストとしての才も将来を嘱望される程ではあるが、

「混血」で生まれたことによる社会的なハンデ、

幼い頃に父を病気で亡くし、母とも引き裂かれ、

傲慢な叔母に引き取られて孤独な幼少時代を送ったことが

感受性の強い彼を人の心の痛みに人一倍敏感な少年に育てた。

 

この二人が、フランス南部にある男子のみの寄宿学校で出会い、

運命的に惹かれあい、愛を求め合う姿が描かれる。

 

 

 

17巻に及ぶストーリーをくどくど書くつもりはないので、

以下、わかる人だけにはわかる内容となります。

(ネタバレ満載)

 

まず、きっと、読者の誰もが思うことだと思うけど、

あの二人はやむにやまれず、寄宿舎から「逃避行」したが、

どうすれば幸せな道が開けえたのか?

 

行き先は、パリではなかったろう。

それがジルベールの悲惨な最期につながった。

本当に、最後の2巻は、読むのが辛すぎる。

 

では、計画通りに、アルルの方が良かったのか?

いや、でもジルベールはどこにおいても

ただでさえ美貌と存在感で目立ちすぎるし、

田舎なんかでは、少年のカップルなど時間の問題で排斥されたろう。

また、ジルベールは田舎の生活に耐えられまい。

 

結局、あのような超特殊な育ち方をした少年ジルベールは、

田舎だろうが都会だろうが、長く生きられなかったろう。

彼の生い立ちはそれだけ壮絶で、短命が運命づけられていたか。

 

ジルベールはどの町にいようとも、

遅かれ早かれ破滅がやってきただろう。

でも、彼の15年ほどの短い人生で、

セルジュに出会えたことによる、ほんの短い間の幸せ。

彼が知った初めての真実の愛。そして現実。

それが切なくて、哀しくて、涙を流さずにはいられない。

 

 

 

 

そして、セルジュのジルベールに対する愛。

あそこまで特殊な子を、あそこまで心底勇気をもって、

すべてを引き受け、能動的に愛せるのは

やはり彼自身の性質の崇高さによるものが大きいんだろう。

一種の「理想の男性像」だと思う。

 

当時(今も?)、この作品が多くの女性に受け入れられたのは、

セルジュのような男性に愛されるジルベールを

自分に投影したのでしょう。

 

何人かの作中の登場人物は言う。

セルジュにはジルべールの闇を救えない、と。

確かにそうであろう、とは思う。

そして、最後にはパリでセルジュ自身もそれを感じた。

でも、彼は、ジルベールを完全に捨てられなかった。

彼自身を映す、分身でもあったんだろうから。

 

 

 

 

あのような二人の別れは哀しさの極みではあるけれど、

突き詰めれば、ああならざるを得ない、という結末だろう。

また、セルジュの側からみれば、

彼のような「三つ子の魂」には、

あのパリの生活は、あれで限界であり、

子爵家に戻っていく人生は必然であったとも言えるだろう。

 

ジルベールの壮絶な人生と渇愛、

それを命をかけて受け止めようとするセルジュ。

死という別れによって、

彼らの魂が永遠に結ばれた、と信じたい。

 

確かに、この作品は見方を変えれば、

許しがたい暴力やひどい残虐で胸が悪くなる部分もある。

一方、愛を求め合う人間の本性を描いているともいえる。

人間の深い洞察や、美しい愛の表現に満ちており、

文学作品として優れていると思う。

 

しかし、ジルベールほどの美貌と気高さがあるために、

この作品はドラマとして成り立っているのだが、

それにしても、私は最後、あまりにも切なくて、やりきれなかったため、

嗚呼、ジルベールの顔が「車 寅次郎」であったなら!

あんな人生、あんな最期にはならなかったのに!

と、さえ思った、が、

 

 

それでは、あの悲劇のドラマは成立しないであろう・・・。

やはり悲劇には美貌がつきものか。

 

 

 

タイのリゾートとダイバーシティ

ゴールデンウィークに、またまたタイ、サメット島に行ってきました。

バンコクからそれ程は遠くないのに、海が抜群に綺麗、

素朴な田舎なのに過不足なく、ノンビリできる空気。

 

 

 

 

たまに(いや、ちょこちょこ)会社を休んではタイに行くのは、

別居婚の夫(在パリ30年日本人)と落ち合うためなのだが、

夫婦お互いが住む場所のほぼ中間地点で、

なおかつ、二人とも好きな場所で、というと、

毎回毎回、タイの海辺になってしまう。

 

が、もちろん東南アジアで他に選択肢がないわけではない。

それなのに、他の地に挑戦する冒険をしなくなったのは、

「年をとったからだ」と御年80の母はのたまった。

ううむ、それもあるだろう。

 

 

 

 

タイの気候も食べ物も好きだから、というのは事実で、

勝手知ったるところで、楽ちんだということは大きい。

でもそれ以上に、なんとなく「水が合う」ところがあるんだろう。

さて、それは何だろう?

 

 


 

今回も、昨年の夏に泊まった、

素朴ながら、テラスからの眺めが抜群のコテージに滞在した。

 


 

 

ここは、従業員がマイペースで、緊張感などまるでない。

でも悪意があるわけでなし、ユルく、事が運ぶ。

なんらかのサービスをオーダーすると、何でもノロいが、

高級リゾートホテルのホスピタリテイなど望むらくもなし、

それも仕方ないこと、逆に、これでいいのだ、と

常に時短に血道をあげる日本人として反省する。

 

 

 

 

さらに、この素朴な島では、

そういう「ノロさ」を気にしない、だから好む、とさえ思われる

欧米人客が圧倒的に多く集まっている気がする。

休暇なんだし、たまにはいいね、このユルユルさ!

という価値観でないと当然やっていけないしね。

 

 

 

 

私は30年ほど、欧米人と様々な仕事で関わっているので、

大体彼らがどんな「クラス」の人かは、なんとなくわかるのだが、

タイの島、もちろんこの島でも、

ワイキキビーチのリゾートあたりでは簡単に見られないと想像される、

世のダイバーシティというものがほんの少し垣間見られる。

人種、性別、年齢、嗜好・・・。

 

今回泊まったリゾートにおいても、様々なカップルやファミリーが。

 

たとえば、

独特な雰囲気の凛としたクールビューティのアジア人美女と、

落ち着いた白人中高年紳士のカップル。

美女は、よくみると、元男性だろうと思えたし、

そのパートナーは、おそらく、欧州ではまあまあの企業の

管理職クラスであろうかとも想像できる佇まい。

 

また、学生時代からずっと目立つ存在であったかとも想像される、

知的でハンサムな感じのドイツ人中年男性は、

エディ・レッドメイン似、見事な赤毛、華奢でキャッピい若いドイツ人男性と

愛のホリデイを楽しんでいる様子。

 

 

 

タイというのは、怪しげでないフツーの中級のリゾート地であっても、

このような「ダイバーシティ」が当たり前に普通に受け入れられていて、

そこが居心地がよいのかもしれない、

と、思ったりする私ってのは、やはり

マイノリティ的な価値観の持ち主なのかもしれないいね。