私が小学生の頃、給食の時間には…当番による配膳が終わるまでの間などに教室脇の学級文庫から好きな本を取ってきて読むことが出来た。
小説や童話以外に漫画(コミックス)の単行本などもあり、そのなかでも私はよく戦争漫画・戦記漫画をよく読んでいた。
この間、校内放送ではクラシックの静かな曲などがBGMとして流されていたのだが、時にその物静かな…物悲しい旋律が物語の内容とも相俟って、子供心にも感涙にむせぶことがしばしばあり、“給食”というと「何を食べた」「あれが美味しかった」ということよりも、まずそうした記憶の方が強く印象に残っているくらいである。
今年の11月で100歳となる父は戦時中(末期)、三重縣鈴鹿郡高津瀬村(現:鈴鹿市高塚町)にあった陸軍第一航空軍教育隊で飛行兵候補生として飛行訓練を受けていたが…幸いにも、実戦(特攻作戦など)に配属されることなく終戦を迎えることができた。
戦時中のことはあまり語ることはないが、それでも一式戦闘機「隼」や…特に三式戦闘機「飛燕」は格好良かった…ということを幼少の頃より聞いていたこともあり、私のなかでの戦闘機(日本軍)の代名詞といえば…
海軍の“零戦”は勿論だが、陸軍の“隼”や“飛燕”…
そして、もう一機…深く印象に残り続けてきたのが旧日本海軍最後にして最高の名機といわれる紫電二一型…通称“紫電改”であり…
それはひとえに…最初は、学級文庫で出会った『紫電改のタカ』からくるものであったことに他ならない。
この若き紫電改パイロットの奮闘を描いた『紫電改のタカ』の作者は、代表作である『あしたのジョー』で広く知られる“ちばてつや”氏である。
昭和38年(1963年)7月から昭和40年(1965年)1月まで週刊少年マガジン(講談社)の誌上にて連載されていた作品なので、当然リアルタイムでは読んではいないが…
確か、学級文庫では何巻かが欠けていたこともあり、全巻を買い揃えて読んだ記憶がある。
童友社から発売された1/100スケールの「Taubasa Colleetion EX 紫電改のタカ (滝 城太郎 搭乗機)」の箱絵。
未組み立てではあるが、既にしっかりと塗装もされており、しかもマイクロモーターを使用してプロペラを回転させることも出来る。
氏が当時の担当者と、何か戦記モノを描いてみようということになり、資料のために読んだ戦闘機に関する本のなかで、“紫電改”という不遇の名機に対して、愛情を込めて書かれた本に巡り合い、有名な“零戦”ではなく、“紫電改”という素晴らしい戦闘機を軸に、何か青春群像を描いてみたいという思いで生まれたのが、この『紫電改のタカ』であったが…
平成2年(1990年)10月の談では、「日本が追い込まれるだけ追い込まれていた終戦直前の時期の話ですから、お話がすごく地味だし、とにかくだんだん暗く悲惨になってくるんです。主人公の滝城太郎も自分で描いてて嫌になるくらいクソまじめな奴だしね(笑)」としたうえで、「『紫電改のタカ』という作品そのものについては、僕は失敗作だったんじゃないかと思うんですよ(笑)。最初、思ったことが描ききれなかった、そういう悔いは残ってるんです。」と語っている。
確かに、氏による唯一の航空戦記漫画で、“紫電改”に乗機する主人公の滝城太郎が、仲間(戦友)たちとの交流を通して成長、活躍そして死に接するなかで、戦争の無意味さを悟り、苦悩する物語であるが…
色々な情報に接し、頭でっかちになってしまった現在の自分があらためてこの作品を読み返すと…
当時の漫画では当たり前の展開も…氏の葛藤を反映するように…
どこかドタバタと、またかなり突飛で、多少ご都合主義的であったり、滑稽とも思える展開もなくはないが…
ただ、小学校低学年当時の私はページをめくるたびに心振るわせたのも事実であり…『紫電改のタカ』は、今なお語り継がれる戦記漫画の代表作といっても過言ではない。
この作品の最後は…
滝たちにもついに特攻の命が下り…
悪あがきとわかっていても、祖国を一日でも、ひとりでも多くの日本国民を空襲から守るために…
滝もまた、母を…信子を…これからの社会を背負って立つ子供たちに戦争の醜さ、恐ろしさ…そして同じ轍を踏まぬよう教師となって教えていきたいという夢もかなぐり捨てて大分航空基地を飛び立って征く…
そのころ、母と信子は滝との面会を楽しみに…好物のおはぎを携え大分駅に到着するという場面で終幕となる。
あえて、滝たち特攻隊員のその最期は描かれてはいない。
このラストに関して 、これから特攻に征かねばならない滝たちを描いているのに、どの機も爆装されておらず、増槽すら装着されていない。
ただ、大分基地から沖縄本島までの直線距離は約1,100km前後とされており、航続距離(約1,715km)の短い局地戦闘機である紫電改でも、帰することを想定しない特攻において…片道の燃料で十分ということからいえば、増槽なしでも理論上は到達可能な範囲内となる。
この点に触れたある方のブログを拝読し…
まさしく、『紫電改のタカ』という漫画のラストは、単に描かなかったのではなく…その“先”…戦争終焉後の平和な日常への希求…そうした“未来”を想像させるような終わり方として捉えることもできる。
また、ちば先生も…実はそうした想いも込めて…あえて“爆装”を描き加えなかったのかもしれない…はたまた、それは深読みなのか…?
同談において「戦記モノへの再チャレンジの予定は?」との質問に対し、「戦時中に目に焼き付いた情景、体験を描くことが、漫画を描く技術を持った自分に与えられた使命かもしれないと思う。」と語っていたが…はたして…
朝日ソノラマから昭和39年年8月に発売された『紫電改のタカ〈現代フォノマンガ3〉』の2枚組ソノシート(Flexi Disc)に収録されている“ソノシートドラマ”は、単行(連載)本の内容とは別の…スピンオフ版とでも言うべき短編の物語。
その冊子には、このようなカラーの漫画が掲載されており、ドラマ音声のナレーターは野沢那智が担当し、ドラマの他に「紫電改のマーチ」(作詞 :徳川龍彦 / 作曲:谷口又士)、「太平洋のタカ」(作詞: 黒川乙郎 / 作曲:谷口又士)の2曲が収録されている。
この物語のラストカットには、『紫電改のタカ』に込めた氏の思いが綴られている。
米軍側にコードネーム…“George”と名付けられた“紫電改”は、陸軍の四式戦闘機“疾風”と並び称される“最強”の名を背負った悲劇の名機である。
特に松山(愛媛)の三四三空“剣部隊”に配備された熟練・精鋭の搭乗員たちが駆る紫電改は、本土防空戦で米軍機と激しい空戦を繰りひろげ大いなる脅威となって立ちはだかった。
紫電改(紫電二一型)は、紫電一一型の改良型として開発され、昭和19年末に試作機が完成し、性能評価の結果「改造ノ効果顕著ナリ」として高く評価され、翌昭和20年1月に制式採用されることとなる。
性能面でいえば、九九式二十粍二号機銃四型(20mm機銃)を両翼に2門づつ計4門を配備する重武装に加え、旋回時の揚力低下による失速を抑えるため、自動的に最良のフラップ角に可変することを可能にした水銀装置(自動空戦フラップ)の採用で機動性を大幅に向上させている。
“紫電改”と…嘗て“最強”を欲しいままにした“零戦”とでは戦勢や開発のコンセプトが違うこともあり一概に比較が出来るものではないが、紫電改は米軍の“F6F”や“F4U”に対抗するため、零戦のエンジン(栄二一型)に比し、ほぼ倍近い出力を発揮する2,000馬力級の高出力エンジン(誉二一型)を搭載し、また速度面でも当時既に後発機に劣るようになり苦戦を強いられていた零戦(564.9 km/h)を上回(594km/h)った。
戦後、米軍は“川西5128号機”、“川西5312号機”、“川西5341号機”の3機の紫電改を接収し、調査目的のため米国本土に輸送した。
(他の紫電改は松山海軍航空基地(現:松山空港)において全機焼却処分が為されたとのことである。)
現在の上記3機は、 各々レストアされ…国立海軍航空博物館(ペンサコーラ海軍航空基地内)、国立アメリカ空軍博物館(ライト・パターソン空軍基地内)、国立航空宇宙博物館別館(スミソニアン博物館)にて展示(もしくは収蔵)されている。
国立海軍航空博物館に展示されている…戦時中、三四三空(戦三〇一“新選組”)所属の紫電改(川西5128号機)。
(※問い合わせたところ、現在も常設展示されているとのことである)
1978年(昭和53年)11月15日、愛媛県城辺町(現:愛南町)の久良湾(くらわん)と日土湾(ひづちわん)の境界あたりに突き出した…通称“長崎鼻”沖合200m程のところに落とした錨を探すため地元の漁師が海に潜ると、海底40m程の砂地に奇妙な物体…飛行機を発見した。
調査の結果、“紫電改”と判明し、翌年の7月14日に34年ぶりに暗い海底から引き揚げられた。
当時を知る者の証言などによると…
今からちょうど80年前の昭和20年7月24日…
湾内に模範的不時着水をし、その後…機首部分から海底に沈んでいった一機の戦闘機があったことが分かった。
さらに詳しく調査をすると、その戦闘機は第三四三海軍航空隊(三四三空)所属の紫電改であった。
三四三空の資料などから、当日(24日)、呉(広島)方面を空爆後、豊後水道を南下中であった米機動部隊…第38任務部隊(Task Force 38)所属の艦載機(F6F、F4U、SB2C、TBM)約200機の編隊を迎撃するため、三四三空は戦闘可能な稼働21機をもって大村飛行場(長崎)を出撃、午前10時25分に佐多岬上空で敵機を発見し、直ちに激しい空戦が展開されている。
撃墜した敵機16機。
未帰還機は6機と記録されていた。
その未帰還6機に搭乗していたのは…
鴛淵 孝 海軍大尉(海兵68)/戦闘七〇一飛行隊(維新隊)隊長(25歳)
武藤金義 海軍少尉(操練32)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(29歳)
初島二郎 上等飛行兵曹(甲飛9)/戦闘七〇一飛行隊(維新隊)(22歳)
米田伸也 上等飛行兵曹(甲飛10)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(21歳)
溝口憲心 一等飛行兵曹(乙飛15)/戦闘四〇七飛行隊(天誅組)(21歳)
今井 進 二等飛行兵曹(丙飛15)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(20歳)
この紫電改に搭乗していた搭乗員は誰だったのか?
遺骨は勿論、遺留品すらもなく…
主翼の日の丸が薄っすらと残っているくらいで、海水に長期間晒されていたために機番号などは判別不可…搭乗員を特定する手がかりは何も残されていなかった。
機体には、後方からエンジン部にめがけて機銃弾が命中したらしき痕跡があり、おそらく搭乗員はかなりの傷を負ったものと思われるなか…不時着水の際には、瞬間的にかかる海面からの大きな圧力により、主翼が折れるケースが多いとのことであるが…当時、三四三空の搭乗員だった方の後年の回想録にも「あのせまい湾内に、山側から飛んできてあれだけみごとな形で不時着水するのは並大抵のことじゃない。相当な技倆をもった搭乗員であることだけは間違いないと思います」と語られているように、海底で永きにわたり眠っていた痕跡を残しつつも、海面に現したその姿はほぼ原形を留め、それはひとえに如何に卓越した操縦技術によって為された不時着水であったかを物語るものであった。
それを踏まえれば、先任飛行隊長であった鴛淵大尉、そして武藤飛曹長は勿論だが…三四三空には“若い搭乗員”といっても、各地で激戦をくぐり抜けてきた実戦経験豊富な搭乗員が多く、他の4名にしても、いずれも前途有為で優秀なパイロットであり、この条件から軽々に除外することは出来ない。
私見であるが、搭乗員が機内に取り残されたまま、わずかなキャノピーの開口のみで海底に沈んだのであれば、海中環境では人間の遺体は魚などによる捕食や腐敗によって比較的短期間で消失することが多く、長い年月により跡形もなくなっていたとしてもおかしくはないが、長期間残留する可能性のある衣類の繊維や金属製のハーネス・バックルなどの金属パーツその他までもがきれいさっぱり残っていないというのもおかしな話であり、またキャノピーは“わずかに開いていた”とする証言もあるが、海中から機体が引き揚げられた直後の画像を見る限りでは、人が脱出できるほどキャノピーは開いてはおらず、然るに密閉性の高い状態の保たれたコックピット内では海水は滞留し、外部との流動もさほどなかってであろうことから遺留物がわずかでも残っていた可能性は十分あるはずである。
なので、おそらくは不時着水後に何とか最後の力を振り絞って機外に脱出できたが故に機内には遺留品がなかったものとも考えてよいのかもしれない。
その後、機体は海底に没する最中、もしくは海底面に到達した衝撃などでキャノピーは前方にスライドしてほぼ閉じた状態を保ったと考える方が理に適っているようにも思える。
「不時着水の数日後、判別不能の海軍の搭乗員らしき遺体が収容された」との証言もあることから…
因みに、海に遺体が放置された場合、水温・水流・水深・季節・遺体の状態などにより違ってはくるものの、判別不能な状態に至るまでの一般的な経過としては3~5日程で指紋・顔貌・性別の判別が困難となり、1週間以上経過すると骨は露出し、身元特定にはDNA鑑定(勿論当時はない)や歯型以外では識別が困難となる。
また先にも触れたが、魚などによる捕食および岩礁などへの接触による損傷も判別困難化の要因となる。
つまり、この“判別不能の海軍の搭乗員らしき遺体”がこの機の搭乗員だったと考えて先ず間違いはないだろう。
武藤少尉、はたまた米田上飛曹の乗機ではとの憶測もあったが、この機は誰の乗機であったかを特定はせず、大空を駈け抜けた6人皆の魂を宿す“紫電改”として、発見・引き揚げ場所となった久良湾に機首を向けで現在の「紫電改展示館」にその勇姿を静かに留めている。
遺族らの強い要望もあり、“引揚げ当時の原形をできるだけ保ったまま後世に伝える”というコンセプトのもと、最小限の補修・補強を施しただけの状態で展示されてきたが、その展示館も建設から45年が経過した現在…老朽化が進み、来年(令和8年)度中の新たな展示館の建物完成を目指した整備計画が進められているが、移設に伴う機体の補強その他諸々の費用が思いの外かさむため、ふるさと納税を活用したクラウドファンディングにより現在、寄付を募っている。
微力ながら当方もこれに参加させていただいているが、興味のある方はぜひ!
紫電改の保存と展示の意義は“平和の尊さを伝える”ことに重きを置いており、様々な配慮も踏まえ、個人の特定よりも象徴性を優先する傾向が見受けられるため、現代の技術や新たな資料に基づいて機体の来歴や搭乗員を再検証および特定すること自体が、ある種タブー視されているようにも思われる。
しかし、有用と思われる情報が明確な検証を経ずに扱われているとするならば、“記憶の継承”ということに向き合う姿勢として、今一度再考の余地があるのではないか。
記憶の静謐を守ることと、記録の確かさに向き合うことは、必ずしも相反するものではない。
最先端の技術的照合の可能性も含め、事実に基づいた丁寧な再検証を進めることは、むしろ記憶の尊厳を高めることに繋がるはずである。
今回のクラウドファンディングを機に、過去と真摯に向き合う姿勢が改めて問われているようにも思われる。
日本に現存する紫電改(機体部分)というならば、もう一機…鹿児島県阿久根市の折口海岸沖合300m程の水深3m程の海底で80年の永きにわたり眠り続けている“紫電改”がある。
(南日本新聞デジタル版掲載画像)
既記の出撃より3ヵ月前の昭和20年4月21日午前5時40分…
海軍出水航空基地(鹿児島県出水市)を主目標としたB-29の編隊が接近中との報告が入り、これを迎え撃つため三四三空は鴛淵 孝海軍大尉(先任飛行隊長※死後特進:海軍少佐)総指揮の下、第一國分航空基地(同県霧島市)発進の第一中隊(戦闘第七〇一飛行隊(※戦七〇一)「維新隊」の11機および戦闘第四〇七飛行隊(※戦四〇七)「天誅組」の5機)および第三中隊(戦闘第三〇一飛行隊(※戦三〇一)「新選組」の9機)の25機および松山基地(愛媛県松山市)発進の第二中隊(戦四〇七の7機)の計32機の紫電改をもって出撃。
同日午前6時7分、第一中隊/第三小隊に割り当てられた戦四〇七は、第1区隊を林 喜重海軍大尉(隊長※死後特進:海軍少佐)、石井正二郎上飛曹、伊奈重瀬上飛曹の3機、第2区隊を川端 格海軍中尉(機体不調により離脱)、来本昭吉飛長の5機で出撃して征った。
因みに、この日の当初の搭乗割では、分隊士の本田 稔飛曹長(当時)は林隊長を外し、自らが第三小隊を率いる案を作成していた。
本田としては、先の4月16日における喜界島上空での戦闘で、自機のトラブルにも付随した多数の列機喪失に責任を過度に感じた…冷静さを欠く現時点での出撃は見送らせるべきとの判断からであったのだが、B-29撃墜に固執する林はこれに同意せず、隊長命令として本田と入れ替わったとのことである。
午前7時15分、林の区隊は鹿児島県姶良郡福山町(現:霧島市福山町)上空…高度6000m程で北西進する11機のB-29 を発見し、直ちに“増槽”を切り離しての激しい空戦が展開された。
(この日出撃した第313爆撃団(313BW)/第504爆撃群(504BG)のB-29総数は252機にのぼり、その爆撃目標は太刀洗、新田原、大分、笠ノ原、鹿屋、宇佐、國分、串良そして出水などであった)
だが林機の増槽は落下せず、やむなく増槽を抱えた劣勢のまま1機のB29に目標を定め反復攻撃に入ったが列機がこれについてこれず、単機分離することとなってしまっていた。
この時、同じく僚機とはぐれていた戦三〇一の清水俊信一飛曹が林機を発見し応援に駆けつけ、共同で攻撃を繰り返し、約30分におよぶ追撃戦の末、ついにそのB-29は黒煙を噴き上げ急降下していたった。
林は「B-29 1機撃墜!」と基地に報告(米軍側の記録には無し)を入れている。
機体の損傷が激しかった清水の乗機は…被弾により既に亡くなっていたのかもしれないが、そのまま高度を下げ蕨島北方海面に墜落していったとのことである。(享年20歳)
また林の機も戦闘によりエンジンに被弾し、垂直尾翼の先端も吹き飛ばされ操縦不能に陥っていたものと思われる。
巧みな操縦でなんとか折口浜の海岸までたどり着き、不時着水を試みるも…不運にも干潮時だったため直に砂浜に胴体着陸する形となった。
低空で浜の方に落下していく機影を目撃した地元民たちが人を集めて捜索に向かった時には既に潮が満ちかけてきており、機体の半分ほどが海水に浸った状態になっていた。
だが、機外に林が運び出された時には既に亡くなっていたとのことである。
林の遺体は近くの小屋に一晩安置され、その通夜に同席したという地元民によれば、林の遺体は「顔には傷もなくきれいだった」とのことであることから、頭部および顔面に外傷は見られなかったことになり、死因は…通説となっている「計器板に頭部を強打したことによる頭蓋底骨折で死亡」ではなかったものと思われる。
紫電改におけるパイロット用のハーネスは、当時の標準的な5点式または4点式拘束帯が装備されており…
また強度に関しても、確かに現代の基準と比べれば脆弱ではあっただろうが、当時の空戦環境に耐え得る設計は為されていたわけであり、例え増槽が砂にのめり込んだことにより機体に強烈な急制動が掛かり前のめりになったとしても、計器板に頭部を強打するまでの“つんのめった”態勢には至らないものと考えられる。
だが、この様な強烈な衝撃に伴なうContra-Coup(反衝損傷)により引き起こされる脳の内部損傷では、急性硬膜下血腫、くも膜下出血などで外見上の受傷がなくても重篤な結果がもたらされる。
もしくは衝撃により頚髄に損傷(特に脱臼や骨折)があった場合も、椎骨動脈の損傷によって形成された血栓が脳底動脈を塞栓し、脳幹梗塞を引き起こすことで即死に至る可能性もある。
歴史に“もしも”はないが、身体にも被弾していたとしても、不時着水を行えるほどの状態であったならば…その時、“海面に着水出来ていたら…”、少なくとも“増槽が落下していたら…”砂地であっても、もしかしたら命だけは助かっていたかもしれない。
まぁ、当時の戦局にあっては三四三空…殊に隊長という立場にあっては、“死”は遅かれ早かれ訪れるべき定めだったのかもしれないが…(享年24歳)
(南日本新聞デジタル版掲載画像)
折口浜を少し登った所(鹿児島県阿久根市折口2441)には『 故林少佐戦死之地 』と刻まれた慰霊碑が建てられている。
こちらも、引き揚げおよび保存のためのクラウドファンディングによる支援募集が始まっている。
『戦後80年、鹿児島沖に沈む「幻の戦闘機」紫電改・林大尉機を引き揚げたい!』
三四三空の副長でもあった中島 正海軍中佐の言を借りれば、「知将の鴛淵、仁将の林…そして猛将の菅野」と彼らを評している。
鴛淵、林、菅野の三隊長機には、敵の目を列機から自機に引き付けるための二本のストライプ(胴体帯)が描き加えられている。
※鴛淵機の胴体帯の色に関しては、模型や一部出版物で胴体帯を“赤色”と誤記されていた時期があり、これは視覚的な演出や誤解に基づくもので、明確な根拠は乏しいとされている。
現在の有力説として、『源田の剣』などの資料では、戦七〇一(鴛淵隊)の胴体帯も“白色”とされており、分隊長機は1本、隊長機は2本の斜め帯…つまり鴛淵機には2本の“白帯”が入っていたとのことである。
因みに、戦三〇一の菅野隊に関しては、「黄色を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ」ということで、敵機の注意を引くための“囮”的な意味合いも含め、昭和20年4月以降(松山基地から鹿屋基地へ移動する直前)の菅野隊の隊長機、分隊長機には“黄色”の胴体帯が導入されたとのことである。
『紫電改のタカ』では、“ヒゲ面のいかついオヤジだが、滝曰く「顔に似合わずやさしい人」”として登場する菅野大尉が…3人目の隊長にして、そのモデルとなった菅野 直海軍大尉(死後二階級特進:海軍中佐)である。
鴛淵が海兵68期卒、林が海兵69期卒で、菅野が海兵70期卒と判で押したような年次の…まさに兄弟の如く仲の良い三隊長であったという。
三四三空“剣部隊”の戦三〇一“新選組”の隊長として、“部下を無駄に死なせない”ということを信条とし、戦術を工夫して生還率を高めようと努めた部下思いの指揮官でもあった。
菅野は、その破天荒な操縦技術から“空戦の鬼才”とも称され、総撃墜数は個人・協同を含めて72機にものぼる撃墜王でもあり、米軍からは“イエローファイター”としても恐れられていた。
そうした豪快な人間性を併せ持つ反面、地上では酒と…石川啄木に傾倒し短歌を好む繊細な一面も持つ人間味あふれる青年でもあった。
昭和20年(1945年)8月1日、九州方面に向かうB-24の編隊を迎撃するため屋久島西方上空に向け大村基地を出撃。
因みに、この日は愛機の“A 343-15”号機ではなく“A 343-01”号機での出撃となっている。
空戦中に「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」と無線を残し、僚機の護衛を拒んで戦域に留まった後、消息を絶った。
その最期は撃墜か自爆か不明のままだが、戦死と認定された。(享年23歳)
戦三〇一“新選組”には「空戦の神様」「闘魂の塊」と称された“杉さん”こと杉田庄一上飛曹(死後二階級特進:海軍少尉)という日本海軍屈指の戦闘機搭乗員がいたことを忘れてはならない。
岩本徹三海軍特務少尉(自称202機/記録80〜141機※信憑性に議論あり)、西澤廣義兵曹長(公認87機/自称147機※“ラバウルの魔王”と称される)に次ぐ海軍第3位の撃墜数(公認70機/協同撃墜40機含め110機超)を誇る撃墜王である。
(※日本軍(陸海)ではドイツ空軍のようにガンカメラ映像、僚機の証言、地上部隊の確認などを総合して厳格な審査体制のもとで公式撃墜スコアが認定されるようなことはなく、撃墜報告は自己申告が基本(僚機や地上部隊の目撃証言があれば加味)のため正確性に欠ける。
また過大申告や混乱を避けるため、海軍では1943年以降は個人撃墜数の記録を公式には廃止している。)
杉田にはこんな逸話も残されている。
昭和19年(1944年)12月に同隊に教官として配属されてきた坂井三郎海軍特務少尉の嘗ての武勇を強調した昔語りに過ぎない空戦講話や、鉄拳制裁を度々振るい、おまけに若い搭乗員を“ジャク(未熟者)”扱いする言動に対し、杉田は批判的な姿勢を崩さず、隊内では両者の間に緊張が走ったとされる。
この状況を重く見た飛行長の志賀淑雄海軍少佐は、結局、若手搭乗員たちへの実戦的な指導に尽力し、編隊空戦を重視する姿勢で多くの後進に影響を与えている杉田を残し、坂井は異動させることでこの問題を治めている。
また、「紫のマフラー」という紫電改搭乗員たちと松山の人々との心の交流を象徴する感動的なエピソードにも“杉さん”は登場する。
嘗て松山基地から徒歩10〜15分程の大街道銀天街にあった…女将の今井琴子さんが切り盛りする「食堂喜楽」には、三四三空に配属された搭乗員たちが食事や休息の場として頻繁に訪れていた。
今井さんは隊員たちの武運を祈り、紫の絹地で三十八枚のマフラーを仕立てた。
さらに、地元の済美女學校(現:済美高等学校)の女學生たちが、そのマフラーに、杉田の空戦必勝語録である「ニッコリ笑へば必ず堕す」と共に、各隊員の名前を心を込めて刺繍して贈ったのだという。
現存する“紫のマフラー”は3枚で、そのうちの1枚は…元搭乗員の笠井智一氏に贈られたもので、現在は紫電改展示館に寄贈され、常設展示されている。
今井さんと杉田上飛曹、そして日光安治上飛曹などとのエピソードを、令和元年(年)に南海放送が制作したラジオドラマ『紫電改 君がくれた紫のマフラー』のYouTube版で見・聴きできるのでぜひ!
昭和20年(1945年)4月15日、午後3時頃、敵機接近の報を受けて出撃命令が発せられた。
鹿屋航空基地(鹿児島)では隊員たちが急ぎ出撃準備にかかっていたが、その最中にF6Fの急襲を受ける。
戦闘機は離陸を狙われるのが一番弱い。
そのため離陸中止命令が出され、大方は滑走を中死止したが、杉田機と宮沢豊美二飛曹の3番機が滑走中であった。
為すすべない杉田機は離陸直後に敵の猛射を浴びて火を噴き、飛行場の端に墜落炎上、戦死した。(享年20歳)
宮沢機は間一髪で発進したものの、敵の猛攻を逃げ切れず、燃料タンクを撃ち抜かれて火だるまとなったまま飛び続け、國立療養所の庭に落ち、戦死した。(享年21歳)
三四三空の各隊の戦死傷者などの概要は以下のようである。
戦三〇一“新選組”(紫電改) 戦死:36名/生存者または安否不明者:44名
戦四〇七“天誅組”(紫電改) 戦死:42名/生存者または安否不明者:35名
戦七〇一“維新隊”(紫電改) 戦死:33名/生存者または安否不明者:36名
戦四〇一“極天隊”(紫電) 戦死:7名/生存者または安否不明者:40名
偵察第四飛行隊“騎兵隊”(彩雲) 戦死:4名/生存者または安否不明者:21名
※戦死率は41%にのぼり、三四三空がいかに激しい損耗を被ったかが窺える。
既記の如く…紫電改は、その登場が遅かったがために自ずと活躍の期間も短く、また三四三空などの精鋭部隊に集中配備され、戦局が逼迫するなかで極秘裏に運用されこともあり、戦時中の新聞や雑誌などでの公表はほぼ皆無のままであった。
一方、開戦当初から「無敵の戦闘機」として宣伝されてきた、“零戦”という絶対的な存在の陰に埋もれ、戦後になってようやくその存在と性能が知られるようにはなったものの、人々の印象としては薄かった。
奇しくも、先に記した『紫電改のタカ』が初連載されたのと同年(1963年)…“紫電改”の登場する映画が公開されることとなる。
(公開は年初3日ということであり、この映画の方が『紫電改のタカ』の構想段階で何らかの影響を及ぼしたということもあるかもしれないが…)
ただ、こと映画に限っていえば…“三四三空”や“紫電改”をフィーチャーしたものはこの『太平洋の翼』以外には思いつかない。
『太平洋の翼』(1963年)
【キャスト】
千田良雄大佐(司令):三船敏郎
瀧 司郎大尉(戦三〇一「新撰組」隊長):加山雄三
矢野哲平大尉(戦四〇七「天誅組」隊長):佐藤 允
安宅信夫大尉(戦七〇一「維新隊」隊長):夏木陽介
加藤少佐(副長):平田昭彦
三原少佐(潜水艦艦長):池部 良
丹下太郎一飛曹:渥美 清
稲葉喜平上飛曹:西村 晃
軍令部総長:志村 喬
軍令部次長:宮口精二
第二艦隊司令長官:藤田 進
戦艦大和艦長:河津清三郎
中村上飛曹:中谷一郎
清水中尉:船戸 順
小林一飛曹:砂塚秀夫
玉井美也子:星 由里子…他
主演は“世界のミフネ”こと三船敏郎、そして『若大将』シリーズ真っ盛りの加山雄三、夏木陽介、佐藤 充の「スリーガイズ」がその脇を固めている。
本編部分の監督は、ヒット作となる『社長』シリーズをはじめ、戦時中…海軍士官だったこともあり、今作以外にも『人間魚雷回天』(1955年)、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年)、そして『連合艦隊』(1981年)などの海軍モノの戦争映画を手掛けている松林宗恵。
特撮部分は…言わずと知れた“特撮の神様”ともいわれた円谷英二が監督し、戦後初となる本格的な空中戦を描いた映画というだけあって、撮影に使用された約300機にもおよぶミニチュアの戦闘機たちが乱舞するシーンは円谷の真骨頂ともいえる。
現代の映像技術で描き出されるのとは違い、手間と人手と労力と根気は半端なかったことだろう…
確かに、CG、SFX、VFXなどを駆使する現代の技術で描き出される映像からすれば…円谷英二による“リアルな空中戦描写”といえども見劣りはするものの、模型だけでよくぞあそこまで描けたものかと、あらためて円谷の凄さを痛感させられる。
ウィキペディアによれば…大和ミュージアムに展示されている大和(1/10)の大型模型よりも少し小さい1/15スケールなのだそうだが…それでも全長17m程にもなり…実際に目の当りにしたらかなり大型で…これに自動車用の360ccのエンジンを搭載したラジコン模型が撮影に使用されたとのことである。
洋上を進むシーンは、山中湖上を走らせて…それをヘリコプターから撮影したということであるが、航跡波の立ち方から受ける印象なのか…劇中では、それでもややスケール感が十分に伝わってこいない点が少々惜しまれる。
またよく見ると、精巧さ・精密さの点でも…大和ミュージアムのあの素晴らしい大和とは比較にはならないのだが、60年以上前の制作物では致し方はないのかもしれない。
この映画は、三四三空の司令であった源田 實が昭和37年に刊行した『海軍航空隊始末記 戦闘篇』などを基に…というよりは、ほぼ設定のみをモチーフにした…残念なことに…史実に基づかない創作的な戦争スペクタクル、娯楽活劇となっている。
源田が選抜した実際の三人の飛行隊長には、「厳格なリーダー」「眉目秀麗な二枚目」「大柄で賑やかな三枚目」といったまるで大デュマ(アレクサンドル・デュマ)の『三銃士』の如きキャラクターづけが奇しくも当てはまるのだが、そのキャラづけを踏襲した今作でも、加山雄三演じる瀧大尉、夏木陽介演じる安宅大尉、佐藤 允演じる矢野大尉の“三隊長”が、それぞれに違った個性を持ちながらも千田のもとで一致協力して任務にあたるという“三本の矢”的な役どころを演じることで、観る者により一層訴えかけるものがある。
現代ならば概ね史実に基づいたストーリー展開として製作されるのだろうが、戦時中の記憶がまだ生々しく残るあの当時(戦後20年弱)のご時世故に、あえて史実を脚色し…突飛であっても娯楽的要素を優先したストーリー展開としたのかもしれない。
苦難を乗り越え、松山基地に集結した三飛行隊の面々を前に千田はこう訓示する。
「いいか、これからは命を大事にしろ…お前たちの命を…
近頃、やたらと爆弾を抱いて体当たりすることが流行っておるが人間は爆弾ではない!
“一億玉砕”も聞こえはいい…しかし、これほど完全な敗北はない!
日本民族の滅亡である!
立派に闘ってくれ…最後の最期まで生き抜いて闘ってくれ
指一本でも動く限り絶対に操縦桿を離すな!
体当たりもいかん!自爆もいかん!
そんなことで死ぬ奴は戦争を放棄した卑怯者とみなす!」
という特攻を否定する視点で描かれた作品でもあった。
フィリピンから内地(日本)に戻る途中に戦死した弟の最期はどのようなものだったのかを尋ねるために訪れた姉・玉井美也子(星 由里子)に、瀧は正直に…敵機の攻撃を受けた際に機上で戦死した者たちの遺体も、燃料を節約するために海洋に投棄したことを告げる。
それを聞いた美也子それを聞いたは、その血も涙もない瀧の非情さに打ちひしがれ、その場を立ち去る。
後日、思いを改め…非礼を詫びるため再び瀧に面会した美也子は「女の私にも弟の遺体をお捨てになったことが、やっとわかるような気がしてきたんです」と告げるのだが…
瀧は…「いや、わからない方がいい。
いつまでも僕を憎んでいてくれた方がいいんです。
僕を許そうとして、あなたの戦争への憎しみまでがぼけるのが困るんです。
心の優しい女なら僕を憎まないのは嘘です。
しかし、僕は憎まれても戦う…憎まれれば憎まれるほど闘う勇気が湧いてくるんです。
美しい日本の風土のなかに優しい女の心が生きている…
僕は、そう信じて戦いたいんだ!
その美しいものを護るために戦いたいんだ!
僕を許してはいけない…憎んでください…」と言い放つ。
美也子は「死なないで…死なないでください…」と言って走り去る…
今作は…全編を通して、“紅一点”の星以外には映り込む女性はエキストラのみという、あの時代の映画としてはある意味珍しい作品ともいえる。
当時既に『若大将』シリーズでヒロイン・澄子役を演じ人気を博していたが、加山の出演する映画には必ず星の姿があったという程、加山との共演作も多い。
今作の撮影時はまだ19歳という初々しい星と加山とのこの共演場面もこの映画の見所といえる。
軍令部から本土防衛に関して、それまでの担当区域よりも広範な範囲を任されることとなった。
そうなると勢力を分散しなければ対応が難しくなる。
そんな折、硫黄島を発進し本土に向いつつある約30機編隊のP-51への迎撃命令が下るが、九州島南方の機動部隊の動きに備え三隊のうち一隊しか出すことが出来ない。
くじ引きで今回は矢野の戦四〇七「天誅組」が当たることとなったのだが悪いことは重なる…
矢野の乗機はエンジン不調のため、丹下の機にその日は搭乗することとなり、そのじゃじゃ馬的な丹下の愛機に苦慮するなか被弾してしまう。
なんとか丹下の愛機を基地まで届けるも、矢野は絶命してしまう。
時間制限付きの直掩をするべく三四三空の紫電改は沖縄特攻に向かう大和のもとへと参じる。(※実際には全くそのような事実はない)
だが、大和を愁う丹下一飛曹(渥美 清)は密かに帰投せず再び大和のもとに戻る決意を固めていた。
その思いに安宅大尉(夏木陽介)、稲葉上飛曹(西村 晃)、水野二飛曹(新野 悟)らも呼応し、4機の紫電改は大和と運命を共にするべく隊列を離れ…そして散華して逝った。
千田は“明日の闘い”のために…残ったたった一人の隊長として…瀧に「無理を言うぞ…最後まで生き抜いて戦ってくれ」と申し渡すも…
次々と仲間たちが死に…
戦争を誰よりも激しく戦っているからこそ、戦争を誰よりも激しく憎む瀧は、為すすべのない現状に己自身への失望感が募っていく…
フッと眼下を見るとB-29の大編隊が…
千田の止めるのも聞かず…
瀧は「出てけぇ~日本の空から出てけぇ~!」と、B-29に一散に突っ込んで征く。
出演者も、主演の三船敏郎は勿論だが…加山雄三、夏木陽介、佐藤 充といった当時主役も張れる若手の俳優たちを配し、それを志村 喬、藤田 進、宮口精二、池部 良といったベテランの俳優陣で脇を固め…さらに言えば、後の国民的俳優となる寅さん(渥美 清)、黄門さま(西村 晃)をも配した…なかなかににくい顔ぶれが揃った作品ではあるものの…
東宝が手掛けた…『太平洋の鷲』(1953年)にはじまり…
本多猪四郎からバトンタッチして、松林がメガフォンを取った前作の『『太平洋の嵐』(1960年)に続く“太平洋”三部作の最終作として制作された今作故に…“太平洋”とはほぼほぼ縁のない“剣部隊”(三四三空)を描いた映画にもかかわらず『太平洋の…』という冠タイトルを踏襲したとされており、その前作の『太平洋の嵐』があまりに豪華な出演陣だっただけに余計に見劣り感は否めない。
『太平洋の…』と冠してしまったが故に半ば強引なカタチで…
ラストシーは、戦争が終わり…平和を享受する人々が見送るなか若者たちは未来に船出していくとでも言わんばかりに…多少無理くりに「“太平”洋」という言葉をぶち込んだ千田の語りで終幕としている。
「その後17年…日本の空と海には平和が続いている…尊い平和だ…
瀧、安宅、矢野…
もう二度と、この若い者たちにお前たちの苦しみを味わわすまい…
若者たちは次の時代に船出していく…
太平洋は静かだ…その名の如く…永遠に…終」
“三四三空”や“紫電改”をフィーチャーした…史実に基づいた…ある程度“ノンフィクション”的映画を期待してしまうと少々残念に思える展開の映画ではあるが…
これらを度返しし…“三四三空”や“紫電改”はあくまでも構成上の素材として捉え、それを踏まえたうえで“仮想特撮戦争映画”として見るならば…総じて、なかなかに面白く十分に楽しめる作品であると思うので、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがだろうか。
因みに、これは劇中…三船演じる航空参謀の源田中佐(当時)が志村演じる軍令部総長に試作段階の紫電改を紹介するという冒頭のシーンに登場する実物大模型であるが…
実物大の紫電改といえば…
今年の2月14日~23日に、大阪国際文化芸術プロジェクトの一環として、舞台演劇「FOLKER(フォーカー)」が堂島リバーフォーラムにて上演され、私の推しである大路恵美さんも出演するとあり…当然、観ないわけにはいかない!ということで、その千秋楽を観るべく前泊での大阪旅行の予定を立てた。
そこで、予てから行ってみたいと思っていた…“紫電改(A 343-23:(三四三空/戦三〇一)笠井智一上飛曹機仕様)”と“九七式艦上攻撃機”の実物大模型が常設展示されている兵庫県加西市鶉野町にある地域活性化拠点施設「soraかさい(鶉野ミュージアム)」の訪館も同時に行程に組み入れることとした。
まず東京から姫路まで新幹線で行ってしまえば、そこからレンタカーで鶉野までは40分程なので、地の利の不案内なところを電車やバスを乗り継いでいくよりもその方が楽である。
この日は、時折“青-sora”が顔大出すものの、薄曇りの…“気候の冬”ともいわれる時期だけあってまだ肌寒く…
鶉野ミュージアムが、嘗ての旧日本海軍の姫路海軍航空隊の訓練基地だった鶉野飛行場の滑走路北端付近にあたる位置に建てられ、長さ約1,200m、幅45m程のコンクリート舗装が現存する滑走路跡自体も貴重な戦争遺跡として保存されているだけあって、遮蔽物がない分、風の冷たさが余計に感じられた。
閉館の2時間程前とあって来館者も私を入れても10名程で、ゆっくりと館内を観て回ることが出来た。
これだけ間近でみると、実物大の紫電改は図面上の数値で感じるよりも大きく思える。
実物大模型を目の当たりにし、次こそは是非とも愛南町まで足を延ばし、実機の紫電改を見ねばとの思いは一入となった。
現在、その愛南町の紫電改展示館では…
戦後80年特別企画として「紫電改と須本壮一 原画展」が開催されているとのことである。
その須本壮一氏の『紫電改343』は、まだ読み始めたばかりなのだが…
迫力ある構成とリアルなタッチ…
メカなどもかなり精密に描き込まれ、読み応え十分の作品なので読み進めていくのが楽しい!
『紫電改のタカ』とはまた違った漫画の楽しみを味わえる作品である。