S A L O N

以前にも記した…週刊少年マガジン(講談社)にて連載されていた松本零士氏の『男おいどん』(1971年~1973年)、週刊少年サンデー(小学館)に連載されていた村上もとか氏の『赤いペガサス』(1977年~1979年)…そして、石井いさみ氏の『750ライダー』(975年~1985年)、鴨川つばめ氏の『マカロニほうれん荘』(1977年~1979年)、山上たつひこ氏の『がきデカ』(1974年~1980年)といった週刊少年チャンピオン(秋田書店)に連載の漫画を…誌上ということであれば…愛読をしていたこともあり…
縁の薄かった週刊少年ジャンプ(集英社)にて、1984年51号(11月20日刊)から連載がスタートした鳥山 明氏の大々ヒット作である『ドラゴンボール』ではあるが…その頃既に大学生になっていたこともあり…1986年2月26日からフジテレビ系列で毎週水曜日(19:00~19:30)に放映がスタートしたテレビアニメ版の『ドラゴンボール』…その後の続編となるテレビ、映画、ゲームなども、ごく初期の一時期以降はほとんど見た記憶はない。
ただ、鳥山氏のもう一つの代表作である『Dr.スランプ』…1981年4月8日から1986年2月19日にかけてフジテレビ系列で水曜日(19:00~19:30)に放映されていたテレビアニメ版『Dr.スランプ アラレちゃん』(1980年~1984年)は、毎週欠かさずと言っていいくらい見ていて、その作風の虜となっていた。
これらを読み、見ていた中高生の時期…
陸上部に所属していた中学時から一変…
高校では美術部に所属していたこともあり…
あの時期は、余白があれば、“アラレちゃん”をはじめ、上記に登場するキャラクターたちを走り描きしていたものである。

 

因みに↑は、毎年、中高合同で行われる学内クロスカントリー大会の冊子の表紙を頼まれた際に、アラレちゃんをメインに鳥山氏風に描いた拙作であるが、高1当時の自分が、如何にアラレちゃんに入れ込んでいたかがうかがえる。

 


そうそう、同時期(1977年10月3日~1980年10月6日)に日本テレビ系列で月曜日(19:00~19:30)に放映されていたテレビアニメ版『ルパン三世(TV第2シリーズ)』は、モンキー・パンチ氏の漫画、そしてテレビアニメ化第1シリーズの劇画チックなタッチから、イラスト・チックな洗練されたタッチに変わり、これもよく描いていたが…
鳥山氏のタッチを初めて目にした時も、“漫画”というよりも“イラスト”のような、その洗練されたタッチに衝撃を受けたことを今でも覚えている。

 


スケールモデル(プラモデル)党を自負する鳥山氏。
そして“やっぱりミリタリー”とおっしゃるように、ミリタリー物への造詣も深く…氏の描く車輛等は、デフォルメはされているものの、細部に至るまでリアルに描き込まれている。

その鳥山氏が、この3月1日、急性硬膜下血腫のため亡くなりになってしまった。(享年68歳)



タッチは全く違うが…
5年前に、乳癌のためお亡くなりになられたさくら ももこ氏が生み出された“まるちゃん”こと“さくら ももこ”というキャラクターを、34年にわたり吹き替え続けたTARAKOさんも、この3月4日に急逝された。(享年63歳)

いい年になっても、たまに見るアニメといえば…『ちびまる子ちゃん』か『クレヨンしんちゃん』くらい…
『ちびまる子ちゃん』で、まる子の姉の(初代)さきこの声を吹き替えていた水谷優子さん(享年51歳)も、やはり7年前に乳癌のためお亡くなりになったが、私は、水谷さんの声のさきこというキャラクターが好きだった。

アニメは、そのキャラクターの作画のみならず、もしかするとそれ以上に、その“声”の方に思い入れが強くなると言っても過言ではないかもしれない。

相次ぐ訃報に接し、あらためて、唯一無二の存在である…鳥山 明氏、TARAKOさんの死が惜しまれてならない。
お二人のご冥福を心よりお祈りいたします。

先日、交差点で信号待ちをしていると、目の前の横断歩道を小学生の男の子が渡っていった。

その男の子は、 何の気なしに…“横断歩道は手を上げて“という交通安全標語をしっかり実践しているだけなのは勿論のことなのだが…右手を斜め45度前方にピンと突き出したその様は、お手本にしたくなるような“ナチス式敬礼”の如きであり…まるでドイツ少国民団(Deutsche Jungvolk:DJ)の少年かと見紛うばかりであった。

 

 

ナチスは、その国家(国民)社会主義の精神や世界観を植え付け、教え込み易い幼少期から党関連の国家組織である団体に参加させ、教育していくことで、各家庭、学校などより、より肉体的、精神・道徳的に盲信的な次世代育成を推し進めることが可能になるとして、10歳から18歳の少年・少女の加入を義務付けた。

 

今回は、そうした組織への入団を目前に控えた…“ヒトラーの申し子”ともいうべき男の子たちの二作品を紹介させていただく。

 

The Boy in the Striped Pyjamas(縞模様のパジャマの少年)』(2008年)

 

『縞模様のパジャマの少年』は、2006年に発表されベストセラーとなったジョン・ボインの同名小説を基に、マーク・ハーマン監督・脚本で製作されたナチス占領下のポーランドを舞台にした2008年の英米合作映画。

 

 

この映画は、『子供時代は分別という暗い世界を知る前に、音と匂いと自分の目で事物を確かめる時代である』というジョン・ベチェマンの引用句から始まる。

 

 

父親であるSS(親衛隊)将校ラルフの昇進・栄転を機に、親友たちとの思い出の詰まったベルリンから遠く離れたポーランドの片田舎(小説ではアウシュビッツ)に引っ越すこととなり、一人寂しく引き籠りがちになっていた探検好きのブルーノが、ある日、自室の高窓から見える、森の向こうにある“農場”をみつけたことから物語は展開してゆく。

 


そこには、いつも縞模様のパジャマを着た大人たち、そして子供たちの姿も見受けられ、ブルーノは、母エルサからきつく禁じられていた裏庭から森の先の“農場”への探検をついに決行する。
“農場”に辿り着くと、そこは有刺鉄線の張られた柵で囲まれた、パジャマを着た坊主頭の人しかいない…家畜のいない…“農場”とはちょっと違う場所。

 


その柵越しにうずくまる…シュムールという何とも初めて聞く名前の、自分と同じ年(8歳)の少年と出会い…ブルーノとシュムールは、次第に心惹かれ友達になっていく。
…と、まぁ、ストーリーに関してはこのあたりにして…

 


DVDのクレジットにも書かれている「衝撃のラストにあなたは何を感じるか」というように、そのラストに向け目の離せない展開となっていく。

 


衝撃のラストは、是非ご自身の目でご確認いただきたい…そんな、お薦めの一本です。

 

ブルーノを演じたエイサ・バターフィールド
撮影時は10歳~11歳だとは思うが、8歳の多感な少年役を見事に演じている。
何と言っても、その瞳の…目力に引き込まれてしまう。
この映画の二年後(2011年)に公開される『ヒューゴの不思議な発明(原題:Hugo)』でも主人公のヒューゴ・キャブレットを好演し、その子役ぶりを遺憾なく発揮している。

 

シュムールを演じたジャック・スキャンロン
スキャンロンは、当時のスタッフによれば、物静かで、どこか物悲しい雰囲気も醸し出す子役で…そしてスキャンロンもまたそのクリっとした目が特徴的で…ブルーノとは真逆の境遇のなかにいるユダヤ人の子供役を好演している。

 

主人公のブルーノの父であり、強制収容所の所長であるラルフSS中佐を好演したデヴィッド・シューリス

実は『ハリー・ポッター』シリーズは、これまで一作も観たことがなかったので存じ上げなかったが、重要な役どころとして出演をされている俳優のようである。

他にも、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』、『キングダム・オブ・ヘブン』などにも出演している。

 

ヴェラ・ファーミガが、夫に、社会に、時代に苦悩する母エルサ役を好演している。
2019年公開の米国版ゴジラ映画『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』では、エマ・ラッセル博士(日本語版吹き替え:木村佳乃)役を演じている。

 


ラルフの副官のクルト・コトラーSS中尉は、ルパード・フレンドが演じている。
軍服姿も様になり、まさに若き青年親衛隊将校といった観がある。
 

この映画では、主要登場人物の衣装(軍装)以外にも、エキストラとして端々に登場している人物たちの衣装もなかなかに良い雰囲気で、リエナクター諸氏にも興味深く観ることの出来る作品なのではないだろうか。

 

事実、軍装の考証にも拘ったようで、ポーランド人の専門家がそれに当たったとのことであるが…やはり、気になる点も若干あることにはある。

ただ今作は、登場人物自体が架空の設定であり、いつもの如く“重箱の隅”を突いてみても詮無いことなので、軍装関連に関しては、ココが違う・ソコが違うということではなく…あくまでも、参考程度にお読みいただければと思う。

 

大学で文学の教鞭を執っていたコトラーの父は、反体制の思想を持ち、既に国外(スイス)に逃れていたが、コトラーはそのことを申告出来ずにおり、反面教師的に現体制により忠実であろうとしてきたが、ラルフに上司への報告義務を怠った責を問われ前線に異動となる。

ブルーノは気付かなかったが…これが別れのシーンとなる。

この際の、革のロングコート姿もまた親衛隊将校然としていて何とも格好いい。

劇中、着用される衣装で…ラルフ役のシューリスは勿論、このコトラー役のフレンドの上衣のグリーンカラーの襟元…襟幅が細めで、特に襟先の形状がなかなかに良い仕立てになっている。

映画の衣装(軍装)で…特に詰襟で、なかなかしっくりとくる襟元のプロップを着用させている映画は、実はあまりない。
また、肩章もスリップオン式でごまかすのではなくではなく、埋め込み式にしている点も評価できる。

 

その肩章であるが…ラルフ、コトラーは強制収容所警備部隊であるSS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände:SS-VT)所属であるため、肩章の兵科色(Waffenfarbe)を示す台布色は“ライトブラウン(Hellbraun)”ということになっている。

 

“ダッハウ(駐屯地)指揮官(SK-D:Standortkommantandur Dachau)”の肩章…その兵科色である“ライトブラウン”の色味は“赤茶色”に近い。

 

曖昧な表現だが、ドイツ軍の場合…特に将校クラスともなると、出身部隊であったり、嗜好性であったり、何らかの理由で必ずしも規格通りの装用・着用がされないことも多々あるため、このような表現にとどめるが…

両人の台布色を見る限りでは、ライトブラウンというにはかなり薄目(トーンとしては明る目)の…多々ドイツ軍の将兵だと一色単に…歩兵・擲弾兵科などの“白(Weiß)”にされがちなのではあるが…その“白”という訳でもなく“明るい灰色(Hellgrau)”…分かり易いイメージとして、アイボリーに近い感じになっており、これは武装SSの将官の兵科色に近い感じともいえる。

 

ホロコースト関連映画の代表的作品として知られるスティーヴン・スピルバーグ監督・製作の『シンドラーのリスト(英題:Schindler's List)』(1993年)で、オスカー・シンドラー役のリーアム・ニーソン以上に印象に残っているという方もおられるのでは…とも思える、強制収容所の所長アーモン・ゲート(SS少尉~大尉)を演じたレイフ・ファインズの衣装では…映画の本編が白黒映像なので、肩章の台布(兵科色)を何色で再現しているのかまでは解りかねるが、この画像におけるトーンの感じから…“白”ではなさそうなので…こちらは規定に倣って、考証通りに“ライトブラウン(Hellbraun)”の物にしているのかもしれない。


 

実際のアーモン・ゲートSS大尉(上左)は、1943年2月11日付で…SS少尉クラスとしては異例の、クラクフ(独:クラーカウ)地区のプワシュフ(Płaszów)強制労働収容所の所長に任官し、この写真は、そのSS少尉当時…おそらく所長任官前に撮られたものかと思われるが…襟章はまだ“SSルーン”である。

 

ゲートの後年の所長任官中の写真では、ファインズの衣装の如く、髑髏の襟章が装用されている。

この画像からは髑髏の向きまでは特定はできないが、ゲートはSS-TV出身ではないが、髑髏の向きは、収容所用としての規定である“右向”ではなく、“左向”を装用しているのようにも見える。

 

こちらは、マウトハウゼン強制収容所の所長であったフランツ・ツィライスSS中佐(当時)と司令部員たちの集合写真であるが、各人の右側襟章に関して見てみると…ツィライスも“水平左向”の髑髏章を装用しており、また他の者は、“垂直右向”、“水平左向”の髑髏章、“SSルーン”などが混在している。(※“SSルーン”の将校は医療班かもしれない)

 

ツィライスに関して更にいえば、1941年4月にハインリヒ・ヒムラ―がマウトハウゼンを訪問した際の写真(SS少佐当時)では、1937年7月から導入の、“Konzentrationslager(収容所)”の頭文字である“k”が入った“垂直右向”の髑髏章も装用している。

 

それ以前は“k”のみがデザインされた襟章を右襟に装用していた。

1933年以降、収容所の運営・監督・警備にあたっていたSS警備部隊(SS-Wachverbände)は、1936年3月29日付でSS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände:SS-TV)として編成され、各強制収容所に振り分けられた。

戦争勃発とともに、意のままになる武装部隊を欲したヒムラーは、SS-TVの武装強化を図り、警務部隊としてではなく、戦闘部隊とすべく、1939年10月16日付でSS-TVを中核としてSS師団“トーテンコプフ(Totenkopf:髑髏)”を編成したため、その穴を埋めるため、別枠的範疇として収容所の監督・警備にあたる収容所部隊となるSS髑髏大隊(SS-Totenkopf-Sturmbann)を新たに編成させている。

襟章の髑髏のデザインとしては、おそらく、収容所部隊の“右向”と区別するため、武装SSの師団の髑髏章のデザインを“左向”のデザインに一本化する意図もあったのではないかと思われるが、武装SSにおいても、元々の“右向”は装用し続けられている。

 

当初、髑髏の襟章が“垂直型”だった理由としては、親衛隊の制服の上衣(黒服およびアースグレー)の“開襟服”着用時を想定していたためと思われる。

 

国防軍においては、コートの襟に襟章を装用するということは、おそらくなかったものと思われるが、親衛隊においては、一般SS・武装SSともに、このように襟章を装用することは珍しくなかった。

コートも勿論、襟元のフックを留めて“閉襟”での着用もあるが、“開襟”状態での着用も多かったため、デザイン的な“SSルーン”の襟章とは違い、図柄の“髑髏章”に関しては、このように垂直型の方が様になる。

 

SSにおける陸軍同様の“詰襟”タイプの制服導入後も、1940年5月以前は“詰襟”着用時においても、この“垂直型”の襟章を横向きにして装用された。

その後、正面からの視認性を考慮して“水平型”の襟章が導入されたが、既記の如く、着用規定は必ずしも厳密に守られることはなく、“垂直型”をそのまま着用し続ける者もいた。

 

ある意味、“髑髏”の襟章に関していえば、規定はあって無きが如くと言っても過言ではない。

因みに、上の写真は、“水平右向”の髑髏章を装用する武装SSのフリッツ・クリステンSS上等兵(当時)であるが、そのクリステンの部隊は、1941年9月24日、ロシアのノヴゴロド州Luzhnoの北に展開していたが、ソ連軍の攻撃により壊滅的な打撃を被る。
だが、クリステンはただ一人その場に留まり、その後の72時間で敵戦車16輛を無力化し、約100名にもおよぶ死傷者を敵に負わせるという驚くべき戦果をあげ、ソ連軍をLuzhnoから退けた。
この戦功により、その前年に志願兵として入隊したばかりの20歳の若者に、武装SS最年少となる、騎士鉄十字章が1941年10月20日付で授与された。

 

“髑髏”の襟章に関して更なる規定外にもご興味のある方は当方別ブログ『S A L O N / Hauptraum』の項も合わせてご覧いただければと…

 

そこで、劇中における…ファインズ…シューリス、フレンドの右襟の襟章に注目して各人の衣装をあらためて見てみると…三人とも“水平左向”の髑髏章を装用している。

上記の如く、ゲート、ツィライスの例もあるので、これはこれで間違えではないが、ゲートという実在の人物役のファインズは別にして、収容所勤務者ということをより明確にするため、せめてシューリス、フレンドの衣装では、スタンダードな装用例である“水平右向”の髑髏章としてみた方がよかったかもしれない。

 

 

もう一点、ラルフ、コトラーの左袖に装用されている“髑髏”の図柄のカフタイトル(Ärmelband、Ärmelstreifen)に関してもふれておく。

これまでも既記した如く、“制服の帝国”における制服・記章の着用・装用は必ずしも規定通りに為されてはいなかったが、こと記章類に関しては、ファッション性で身に着けているのではなく、原隊へのオマージュ、プライドから、廃止された後にも着け続けていたということもある。
SS-TV(SS髑髏部隊)として、大隊…その後、連隊規模の編成で各収容所の管理・警備にあたったなかで、第1SS髑髏連隊“Oberbayern(オーバーバイエルン)”は、大隊当初からダッハウ強制収容所が任地であった。
最初のカフタイトルは、1936年5月から採用された『Oberbyern』とゴシック体で刺繍されたものだったが、1938年9月に“髑髏”の図柄に変更され、SS師団“トーテンコプフ”として再編成された時点で廃止となった。
武装SSに移行してからの“トーテンコプフ”は、基本的には『Totenkopf』の文字のみのカフタイトルを装用したが、第1SS髑髏連隊“オーバーバイエルン”の出身者のなかには“髑髏”図柄のカフタイトルを着用し続ける者も多かった。

つまり言うなれば、その出身者限定であり、第3SS装甲師団“トーテンコプフ”に所属しているから…ましてや、親衛隊員だから誰彼構わず装用してよいというものではなく、考証的にはそう単純なものではないということを一応明記しておく。


因みに、ラルフが制服(開襟勤務服)姿で登場する昇進・栄転祝いのパーティーの場面では、右襟の襟章は“SSルーン”で、カフタイトルは“Der Führer”のものを着用している。

 

親衛隊(SS)=“髑髏”という一般的認識は…まぁ、帽章からして“髑髏”でもあり致し方の無いことではあるのだが…
また、アイキャッチ的にもインパクトがあり、今作での意図としては、おそらく、原隊から収容所部隊へ配属が変わったことを“見た目”的にもよりわかりやすくするために、カフタイトルも“Der Führer”から“髑髏”の図柄に…単純に変えたのではないかとも思われるのだが…そもそも史実に基づいた話ではないので、重箱の隅をつついても致し方なく…ただ、軍装オタク的な見方からすると少々気になるところなのである。

 

今回は、重箱の隅は突かないと言っておきながら、やはり突いてしまうようで恐縮なのだが…

前回の『ヒトラーのための蛮行会議』同様に、今作も肩章の揃え方には間違いが多々見受けられる。
シューリスは、先に掲載したラルフ役の紹介画像を含め、劇中では4パターンの上衣(3パターン目はコート)を衣装として着用しているが、その全てで片側の肩章の選択を間違えている。
まず紹介画像では、右肩用のものを左肩にもつけてしまっており…
他も、同側用のものを赤い矢印側にも同様につけてしまっているという痛恨のミスを繰り返している。

この手の間違えがプロップ作成の段階において頻発しているということは、そもそも佐官以上の肩章に“前後左右”の向きがあるということを知らないがために、左右ペアで保管するという考えがなく…おそらく、同じ向きの編み方の物同士ををわざわざ選別して保管しているため、着ける際に同側ばかりなってしまうという事態になっているとしか考えられない。

たまたま左右ペアで保管している場合も…この認識が薄いため、前後を間違えてしまっていても、当然、それにすら気付かない。

ここ最近、この手の間違えが妙に気になりはじめ、注視するようになったのということもあるのだが、これまでに紹介した映画を見返してみると、主役級のプロップでも、この手の着け間違えなどが多々見受けられ…

まぁ、言ってしまえば、映画の本筋である物語・ストーリーには影響のない…注視しなくてもよい部分でもあり…ましてや、気にするのも私のような軍装オタクだけな訳なので…このような取るに足らないような問題は、映画界では軽視されがちなのだということを再認識した次第である。

 

 

劇中の画像だけでなく、あらためて先に掲載のツィライスSS大佐(当時)の写真も注視していると…なんと、両肩とも前後を逆に装用してしまっているではないか!

他の彼の写真では正しく装着がされているようなので、おそらくはわざとということではなく、単に間違えてしまっただけかと思われる。

本人も、あまり気にしていなかったからこそ記念撮影にまで臨んでいるわけで…

そのあたりのことには無頓着だったのかもしれないが、実際でもこうした凡ミスはあったということを、これを機に注視して見てみたお陰で気がつくことが出来たのは、棚から牡丹餅的感覚である。
 

 

 

Jojo Rabbit(ジョジョ・ラビット)』(2019年)

 

クリスティーン・ローレンス著の『Caging Skies』を基に…その世界観は大分違いがあるようだが、タイカ・ワイティティが、監督・脚本を手掛け、製作された2019年の米国映画。

 

第92回アカデミー賞における6部門(作品、助演女優、脚色、編集、美術、衣装デザイン)にノミネートされ、アカデミー脚色賞(脚本におくられる賞)を受賞している。

 

この作品では、ワイティティ自身が、主人公ジョジョのイマジナリーフレンドであるアドルフ・ヒトラー役をも好演するなど、そのマルチプレーヤーぶりを遺憾なく発揮している。

この“ココロの友”的キャラクターは原作には登場しないとのことであるが…結果論ではあるが、このキャラクターを登場させるか否かでは、おそらく、この映画の面白味が大分違ってきたものと思うと、やはり、脚本を手掛けたワイティティの才能はさすがである。

 

 

父(ベン・デイヴィス)、母(カミーユ・グリフィン)、祖父(マイク・デイヴィス)ともに映画に携わる一家に生まれたローマン・グリフィン・デイヴィスが、映画初出演にして主役のジョジョ(ヨハネス・ベッツラー)を好演している。
 

題名の『Jojo Rabit』…“Jojo”というのは、ヨハネス(Johannes)の短縮形の一つで、つまり愛称である。

他にも、Johann、 Jan、Jonnyなども、この愛称で呼ばれるということであるが…“J”で始まる名前だけかと思いきや…

聖書に登場する使徒ヨハネなどの流れを汲む…“Johannes”などの“H”から始まるHans、Hannesなどにもつけられる愛称なのだそうだ。

もう一つのワードである“ラビット”は、勿論、「兎(ウサギ)」のことではあるが…英語圏では、「Rabbit」には“臆病者”や“怖がり”、“弱虫”といった意味合いを指すことがあるそうだ。
同じような意味合いで使われる…“チキン”。
ラビットは、そのチキンほど一般的ではなく、チキンの方がよりスラング的で、侮辱的なニュアンスが強いのだとか。
どちらも弱い動物という意味合い故のようである。
今作では、ジョジョがウサギを殺せなかったことで、周りから“臆病者”としてからかわれ…タイトルともなっている「ジョジョ・ラビット(臆病者のジョジョ)」と揶揄される。
ウサギは、一般的には「臆病で、ともすると鈍感で…犬や猫に比し、頭が悪い動物」と思われがちだが、実はとても賢い生き物」という深い意味合いも込められているのかもしれない。

 

この映画において、重要なモチーフの一つとして描かれているのが、各場面に印象的に描かれている…“靴”。

 

靴紐を結べるか否かということは様々な象徴的な意味合いもあるとのことだが、例えば、ジョジョが10歳にしてまだ母親に靴を結んでもらうシーンがあるが、この時点では、まだジョジョが“普通”の子供より幼く、自立心や責任感を持つには至らない…母離れが出来ていないことを表現している。

監督のタイカ・ワイティティは、靴について「人生を歩むためのもの」と語っているが、さり気なく…ただ“靴”をフォーカスすることで、ジョジョのココロの内や、成長における分岐点ともいえるシーンをより印象的に表現しているように思う。

 

「Wir haben das deutsche Volk betrogen (私たちはドイツ国民を裏切りました)」として、街頭に晒された公開処刑を初めて目にしたジョジョは、母親に「何をしたの?」と尋ね…母は「できることをしたのよ」と答えるこのシーンでも…その残酷なシーンをそのまま見せ続けるのではなく、“靴”にズームアップすることで、より印象的に訴えかけている。

因みに、男性の足元に「Befreit Deutschland...Bekämpft die Partei (ドイツを解放せよ...(ナチ)党と戦え)」のスローガンの貼り紙が此れ見よがし的に貼られているが(下の画像の足元にも)…当時、このような反抗的なスローガンを放置することはなかったはずなので、後世ならではの演出である。

 

狂気の時代のみならず、恐ろしいのは“暴力”以上に“無関心”であり…ジョジョと、“できることをした”母との最後のシーンとしても、この“靴”が効果的に使われている。

 

この映画は、単に悲劇的な時代の物語を悲惨に、哀しく描くのではなく、悲劇を喜劇に変えた喜劇王チャップリンがそうしたように…悲しみの肯定から笑いが始まり、その笑いが悲しみを変えるという趣旨のもとに制作されたコメディ(喜劇)タッチの映画となっており、『縞模様のパジャマの少年)』とは扱う題材は同様にして、描き方は表裏を成す。
また内容もさることながら、画面構成が効果的・印象的、かつ映像(彩色)もキレイで…こと戦争関連映画はドキュメンタリー・タッチであれと思っていた私にとっては“目から鱗”的に楽しめた、なかなかに良い作品であり、是非ご覧になっていただきたい映画でもある!

 

 

ジョジョの母親…ロージー・ベッツラーは、 スカーレット・ヨハンソンが演じている。

この映画では、徐々に成長していくジョジョが主人公であることは勿論だが、“ちびライオン”ジョジョに対するあたたかく、深い母の愛情と、厳しい状況下においても信念を持って強く生き、笑顔を絶やさずユーモアもあるジョジョの母親ロージーという女性を見事に演じたスカーレットが、この映画をより魅力的にしている。
その演技は高く評価され、第92回アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされている。
 

スカーレットは、ポーランドとベラルーシのユダヤ人の子孫である母親と、デンマーク人の父親との間に生まれているが、彼女が13歳の時に両親は離婚。
その後、母親のもとで、改革派と言われるユダヤ教の教えに従って育ち、ヘブライ語学校にも通っていた。
彼女自身も二番目の夫であったロマン・ドーリアックとの間に一女(ローズ)をもうけているが(2014年)、ドーリアックとも2019年に正式離婚し、今作の撮影中は母親同様…そして役のロージー同様にシングルマザーとなり、色々な意味で、ロージー役への思い入れが深かったのではないかと思う。
インタビューにも、「この役を演じるにあたり、自分の人生経験からインスピレーションを得た。私はシングルマザーで、私の娘はジョジョと同じような幼い年齢。私は自分の母親との関係を思い出した。私はユダヤ人の家庭に育ったこともあり、この物語に深く関わっている。」と語っていいる。
現在は、2020年10月に三番目の夫となるコリン・ジョストと再婚し、翌年、一男(コスモ)を授かったとのことである。
 


因みに、私事で恐縮だが…アメコミの『the SPIRIT』を原作にした同名映画『ザ・スピリット』(2008年)で、SSの黒服を模した衣装で登場するシルケン・フロス役の彼女のフィギュアを、香港の玩具メーカー「ホットトイズ」が製作(2009年8月発売)するにあたり、プロトタイプの衣装の原型制作を担当させていただいた経緯もあり、彼女には勝手にアフィニティを感じてしまっている。

 

 

ジョジョの棲む家の隠し部屋に匿まわれる、今作のヒロイン…ユダヤ人少女のエルサ・コールは…母親が女優のミランダ・ハーコート、母方の祖母もニュージーランドでは有名な女優のケイト・ハーコート、(因みに、その夫の祖父ピーター・ハーコートも俳優、放送作家、司会者として母国では有名なのだとか)、そして6歳下の妹ダビダ・マッケンジーもまた女優というサラブレット的ファミリーに育ったニュージーランド出身のトーマシン・マッケンジーが演じている。

 

亡くなった姉のインゲにどことなく似たエルサ。

 

そのエルサへの感情は、いつしか淡い恋心のような思い(お腹のなかを蝶が飛び回る感じ?)へと…ジョジョが少し成長したというひとつの証。

 

 

通称“キャプテンK ”こと、クレンツェンドルフ大尉は、名バイプレイヤーのサム・ロックウェルが演じている。

このクレンツェンドルフというキャラクターも原作には登場しないらしいが、この作品では物語が進むなかで重要な役割を果たしていく。
クセはあるものの、魅力的な人物として描かれている。

 

この他にも、アーチー・イェーツが演じる、ジョジョの親友ヨーキー、アルフィー・アレンが演じる、クレンツェンドルフの副官にして恋人?のフィンケル伍長、ステファン・マーチャントが演じる、ゲシュタポ(Geheime Staatspolizei:秘密国家警察局)要員のディエルツなど、まだまだクセのあるキャラクターが登場し、面白味を増している。

 

 

この映画のラストは、デヴィッド・ボウイが、まだドイツが東西に隔てられていた1977年に発表したドイツ語版の『Helden(Heroes)』にのせて…自由になった証…でもあるダンスを二人で踊るシーンとなる。

 


そして暗転し、エンディングロールに繋がる、その前に…こちらは、『すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない』というライナー・マリア・リルケの引用句で締めくくられる。

 

 

こと、この映画に関しては、衣装(制服)がどうだのこうだのと御託を並べてみても詮無いのだが…

当時のドイツは、毎度のことで恐縮だが…“制服の帝国”とも言われるように、軍服以外にも、党関係者、様々な職業従事者、そして少年少女たちにおける“制服”などが山のようにあり、そのそれぞれに、服装自体は勿論…それに付随して、また山のような記章類が存在する。
軍服関連だけでも、それらを把握することはかなり難しいうえに、門外漢ともなると、全く解らないと言っても過言ではなく、少年少女たちの制服に関しても、これまで目にしてきたことはあっても、なかなか詳細までを調べるには至らなかった。

そこで、これを機に、劇中に登場する少年少女たちの制服に関して、とりあえず気になったところだけを調べてみたので、そのあたりを簡単に紹介させていただこうと思う。

 

先ずは、この映画のオープニングシーンで登場するジョジョの制服の左袖上腕部(上段)に装用されている三角袖章(Armdreiecken)といわれる記章。

これは、それぞれの団員が所属する分団の地域が表記されている。

ジョジョは、“ファルケンハイム市(Stadt Falkenheim)”という架空の都市に住んでいるという設定なので、「Ost Falkenheim」と表記されている。

 

三角袖章は、ヒトラーユーゲント(Hitlerjugend:HJ)およびドイツ少国民団(Deutsche Jungvolk:DJ)の男子版がゴールドイエローの糸で…そして、ドイツ女子同盟(Bund Deutscher Mädel:BDM)と、10​​歳から14歳の少女を対象とした少女同盟(Jungmädelbund:JM)の女子版がシルバーグレーの糸で機械織りされている。

 

この画像は、左上が「Ost Sudetenland(東部地域:ズデーテンラント)」、右上が「Süd Württemberg(南部地域:ヴュルテンベルク)」、左下が「Ost Sudetenland(東部地域:ズデーテンラント)」、右下が「Südost Wien(南東地域:ウィーン)」の男女版それぞれの三角袖章である。

二段からなる文字列の上段部分は、Ost(東部地域)の他、Nord(北部地域)、West(西部地域)、Süd(南部地域)、Südwest(南西地域)、Mitte(中央地域)、Südost(南東地域)、Nordost(北東地域)といった所属地域を示し、下段が都市名となり、独特のフラクトゥール (Fraktur)…いわゆるドイツ文字で表記される。

「Falkenheim(ファルケンハイム)」という架空の都市は、どうやら“Ost(東部地域)”のどこかにあるらしい。
映画を見る大抵の人が、おそらくは気付かないような、こうしたウィットに富んだプロップをわざわざ作成するという監督の拘りが感じられる。

 

三角袖章の下には、「勝利」を象徴する“ジークルーン(Sigrune)”の袖章が装用されている。

ヒトラーユーゲント(HJ)は、ドイツ国内および国外におけるライヒスドイチェ(ドイツ国人)、フォルクスドイチェ(民族ドイツ人)、ゲルマン人、その他の青年・女子・少年・少女たちに、ナチズムの思想、忠誠心や服従心、団結心などを植え付ける役割を担う組織・機関として、政治的な区分けとは別な“Oberbann(上級地区)”という区分けによって、より密接な教導・教育活動を行うべく…時期により変動もあるが…42から47に細分化されていた。

 

各地区には、その所属地域の歴史や伝統を象徴するシンボルカラーがあり、それに該当する配色パターンの袖章が各々の地区で着用されていたようである。

代表的な地区として、Oberbann 1のベルリン、Oberbann 2のハンブルク、Oberbann 3のミュンヘン、Oberbann 4のケルン、Oberbann 5のフランクフルト、Oberbann 6のドレスデンなどにより、上のような配色パターンの袖章は着用されていた。

因みに、国家政治教育学校(Nationalpolitische Erziehungsanstalt:NPEA/NaPola)の生徒も「白地に黒字のジークルーン」の袖章を着用していたとのことである。

 

ジークルーンの袖章は、これら以外の別パターン(紫、ピンクなど)も含め、10パターン程の物が確認されているが、HJの規模の拡大、地区の見直し、指導者層の強化と統制力を高めることを目的とした再編が1936年4月に為され、その際に、バラバラだったジークルーンの袖章も、上級少年分隊長(Oberjungenschaftsführer)以下の者は、皆一律…配色パターンでいえば、“Oberbann 1”配色の「赤地に白字のジークルーン」の袖章のみのを装用することとされた。

ジョジョも、これに倣って規定通りにコレが装用されている。

 

肩章には「443」という、おそらくはコレも架空の番号かもしれないが、所属分団の番号が刺繍されている。
因みに、この肩章に表記される数字は、同地域で編成されていた陸軍(歩兵)連隊の連隊番号と同数字にされることがよくあったということである。

ただ下に示すように、この番号的に近い第447分団が実際に存在していることや、ドイツ国防軍に第443歩兵連隊も実在することを考え合わせると…「443」は、あながち架空の番号とは言い切れない。

 

上段が、HJ第447分団(Bann 447)の随行隊長(Gefolgschaftsführer)の肩章で、中段が、同じく第447分団のヒトラー青年団員の肩章となる。
下段は、ジョジョも装用している少年団員(Jungen)の肩章で、これは第87少年分団のものとなる。

 

こちらも中々にクセがあり、印象深いキャラクターのラーム女史を演じたレベル・ウィルソンの衣装から、ドイツ女子同盟(Bund Deutscher Mädel:BDM)の制服に関しても少しだけ…

 

 

BDMの班長(左)と地区指導者(右)の胸章。
指導者クラスは、このような両翼を広げた鷲のデザインのエンブレムを左胸に装用した。

 


鷲の色を金地、銀地…更に縁取りの側線の本数によりそのランクを表していたようである。
また、台布の色は、各季節の服地の色に合わせ、夏服用の白と冬服用の黒が用意されていた。

1941年7月31日付で、国家元帥ヘルマン・ゲーリングからユダヤ人問題の望ましい“最終的解決”策を実施するための組織的、現実的、物理的な措置の具体案を急ぎ詰めるようにラインハルト・ハイドリヒ親衛隊(SS)大将に命令が下され…ハイドリヒは、自身の率いる国家保安本部(RSHA:Reichssicherheitshauptamt der SS)が、そのユダヤ人問題の“最終的解決”に関する運用上の諸問題に関して主導的立場を執るべく、各関係機関の協力を取りつけるため、各省庁・部署の次官級の高官たちをベルリン郊外の(大)ヴァン湖畔に建つ瀟洒な別荘に招集した。

これが“ヴァンゼー会議”と称される会議である。

※Wannsee(ヴァンゼー):Wann(ヴァン)+See(湖)

 

【ゲーリングがハイドリヒに宛てた上意下達の書面】

「ベルリンの治安警察ならびにSD(保安情報部)本部長 SS中将(当時) ハイドリヒへ

1939年1月24日の布告により既に与えられた任務に加え、現状を考慮し、移住または疎開によるドイツの欧州勢力圏におけるユダヤ人問題を可能な限り有益な解決策に導くために、組織的、現実的かつ物理的な観点から必要な解決策を講じるようここに指示する。

他の中央当局の権限に影響がおよぶ場合は、それらと協議する必要がある。

そのうえで、近日中に、ユダヤ人問題の最終的な解決策を実施するための組織的、現実的、および物理的な予備措置に関する包括的な草案を私に提出するように貴官に指示する。 (署名)ゲーリング」

 

当初、会議は1941年12月9日の12時から、ベルリン郊外の“国際刑事警察委員会事務所(住所:大ヴァン湖 56-58)”にて行う旨の出席依頼が送られていたが、その前日の12月8日に起きた大日本帝國海軍による真珠湾攻撃、およびそれに伴う米国の参戦等の諸問題への対応に追われることとなり急遽中止となった。

そこで、あらためて1942年1月20日の12時から、同地にて執り行われることとなった。

 

 

“ゲシュタポ・ミュラー”の異名を持つハインリヒ・ミュラーSS中将を局長とする国家保安本部・第4局…そのB部の…ユダヤ人問題を担当する4課の課長であるアドルフ・アイヒマンSS少佐が、ハイドリヒの手となり足となり、この会議の幹事役を務めた。

 

1952年以降、この別荘は“ホステル”として使用されていたが、ヴァンゼー会議から50年目に当たる1992年に、展示室を常設した教育施設…ヴァンゼー会議記念館(Haus der Wannsee-Konferenz)として一般公開もされている。

当時、食堂として使用されていたこの広間が、当日の会議場となった。

 

正午頃に始まった会議は、1時間半弱(約85分)程で終了したとのことである。

 

出席者に当日配られた書類は即日のうちに全て破棄され、この日の会議の速記記録はアイヒマンにより全15ページの議事録として編集され、30部が作成されて当該関係者に配られた。
1947年、外務省の「ユダヤ人問題最終解決」文書ファイルの中から、1942年2月26日付のハイドリヒの署名が入った外務省次官補マルティン・ルター宛ての書簡(1942年3月6日午前10:30からベルリンのクーアフュルステン街116番地で行う予定の担当者会議への出席依頼)とともに、この1月20日の(現存する唯一の)議事録…“ヴァンゼー文章”が発見された。


今回は、そのアイヒマンが作成した議事録を基に制作された“ヴァンゼー会議”を描いた新旧作品について。

各作ともに、扱うテーマ故に、興行を主目的に製作される映画とは違う、TV放送用の映画…いわゆるドキュドラとして、淡々と会議の模様を描いた…全編のほとんどのシーンが別荘の一室(会議室)で繰り広げられる密室劇となっている。

 

Conspiracy(邦題:謀議)』(2001年)

TV映画『Conspiracy(邦題::謀議)』は、2001年に米国のHBO(Home Box Office)により米英共同で制作された。

(台詞:英語、本編:96分)

 

 

ハイドリヒ役には、アカデミー賞、英国アカデミー(BAFTA)映画賞、エミー賞、ゴールデングローブ賞など数多くの映画賞にノミネートされ、また主演男優賞を受賞するなど実力派で…シェイクスピア俳優としても名を馳せるケネス・ブラナーを英国からむかえてのキャスティングとなっている。

ブラナーは、この作品で第53回エミー賞(2001年11月16日開催)のテレビ映画部門における男優賞を受賞している。
※この作品からは、他に同賞の作品賞と…アイヒマン役のスタンリー・トゥッチとヴィルヘルム・シュトゥッカート役のコリン・ファースの両名が助演男優賞、そして脚本賞の三部門にもノミネートされおり、劇作家・脚本家のローリング・マンデルも脚本賞を受章している。

 

国家保安本部・第6局(SD外国局)長ヴァルター・シェレンベルクSS少将による人物評によれば、ハイドリヒは「大男である割には声が高く、話し方は神経質で、ぽつりぽつりと断続的であった」としており、ヴァンゼー会議を扱った作品で描かれるような…時にウイットとユーモアを交えた雄弁なハイドリヒ像だったのかに関しては少々懐疑的である。

(※ハイドリヒの肉声)
やはりシェレンベルクによる別の評では…「良心の咎めを感じることなどなく、氷のように冷たい知性の助けを借りて極端に残酷なやり方で不正行為をしていた」とあるように、その冷徹さの滲み出る威圧感で、言葉巧みにというのではなく、逆に言葉少なく、その存在感自体で有無を言わさず会議を進行していたったのかもしれない。
まぁ、主人公が“ぽつりぽつりと断続的”にしゃべるようなキャラクターでは面白味には欠けるので、ブラナーのような台詞回しの匠がハマる役処にしているのだろうが…

 

重箱の隅的なことをいうと、当作におけるブラナーの衣装は、服装規定外の…襟にアルミモール製撚り紐のパイピングを施した上衣を着用している。
このタイプは、おそらくは保護領副総督としてライヒ(中央政府)官僚級および外交的な立場の際の服装であると思われ、この会議にこの服装だったかは分かりかねるが、襟章は同年4月から変更される以前の初期型、肩章の台布色も警察緑色とされ考証的には問題はない。

 

(左)1929年型(初期型)および(右)1942年型(後期型)の“SS大将”襟章着用時のハイドリヒ。(※肩章は共に国防軍型)

 

因みに、ブラナーはトム・クルーズ主演の『ワルキューレ(Valkyrie)』ではヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将役としても出演している。

 

アドルフ・アイヒマンSS中佐は、スタンリー・トゥッチが演じている。
トゥッチは、この作品で第59回ゴールデングローブ賞(2002月1日開催)のミニシリーズ/テレビ映画部門における助演男優賞を受賞している。
※この作品からは、他に同賞の作品賞と、ケネス・ブラナーが男優賞の二部門にもノミネートされていたが、この賞に関しては、ブラナーは惜しくも受賞を逃している。
因みに、同部門の作品賞は『バンド・オブ・ブラザース(Band of Brothers)』が受賞している。

 

内務省次官のヴィルヘルム・シュトゥッカートは、コリン・ファースが演じている。
既記の如く、ファースはこの作品で、第53回エミー賞のテレビ映画部門における助演男優賞にノミネートされている。
ノミネートされた助演男優6名のうち2名が『謀議』から選出されるという高い評価を得た。

 

首相官房局長のフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガーは、英国で舞台、映画、テレビなどで俳優および監督として活躍している博識のバイプレーヤー…デヴィッド・スレルフォールが演じている。

ご本人とのイメージとも遠からずといった観で、劇中でも中々の存在感を示している。

 

 

Die Wannseekonferenz(邦題:ヒトラーのための虐殺会議)』 (2022年)

TV映画『Die Wannseekonferen(邦題:ヒトラーのための虐殺会議)』は、ドイツのZDF(第2ドイツテレビ)により制作され、2022年1月24日に初放映されている。

※Die Wannseekonferen=ヴァンゼー会議

(台詞:ドイツ語、本編:112分)

112分の上映時間のなか…エンドロールが終わるまで、全くBGMが無く、淡々と流れていく。
『謀議』では、シューベルトが最晩年の1828年夏に作曲したという「弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956」の第4楽章“アダージョ(Adagio)”をエンドロールに繋ぎ…ある意味、能動的に“哀惜の念”を抱かせるような観もあったが…こちらは、あえて一切の効果音をカットして、淡々と進行した会議の実態のみを伝えようとしたものと思う。

 

※先頃までの上映期間中…東京都内ですら有楽町、新宿、恵比寿、立川の四館にての細々とした公開で…現在、関東圏では千葉県(柏市)のキネマ旬報シアターのみで、それも本日(4/14)で終了してしまうようなので、あとはDVD化を期待して待つしかない。

 

活動の場所が、ドイツ、オーストリアの舞台演劇、TV、映画ということで、おそらく日本ではほとんど知られていない俳優かとは思われるが、今作ではそのフィリップ・ホフマイヤーが主演のハイドリヒ役を好演している。

 

因みに、ホフマイヤーの衣装に関しても重箱の隅的なことを言わせていただくと…
こちらは、『謀議』のブラナーの衣装のような…襟にパイピングが施された上衣ではなく…どちらかといえば、こちらの方が無難であると思われる…通常タイプの勤務服を着用させており、襟章もちゃんと1929年型(初期型)の“SS大将”用を装用…また、右袖のアルテケンプファー章(Ehrenwinkel für Altekampfer)、および左袖のSS本部長級プリオンカフ(Ärmelstreifen)の装用も、『謀議』同様に、実際のハイドリヒに倣ったカタチとはなっている。
肩章の台布色が警察緑色ではなく、SS幕僚部将官が着用する“暗い灰色”となってしまっている点も残念ところではあるが…それ以上に残念なのは本体(編み紐)部分である!

 


肩章は、各々肩側用でその編み方がシンメトリーとなっているのであるが、ホフマイヤーの衣装では右肩用の肩章を左肩にも装用させてしまっている(○枠内)。
ホフマイヤーだけではなく、ミュラー役のヤーコブ・ディール以外は、軒並みこの手の間違いが見られることから、ディールの衣装がたまたま正解になってしまっただけなのかもしれない。
衣装部が、軍装品の仕入れ先からこの手の品物を仕入れるにしても、通常はペアとして…左右一組になっているものと思われるので…
その左右を着け間違えて装着してしまうということは、この手のドキュドラなどでもよく見られることではあるにせよ…同側同士を装用してしまうというミスは…特に主役の衣装なだけにいただけない!
考証担当者がいるのならば、どこかの時点で指摘し、直すことは出来なかったのであろうか…

 

アイヒマンを演じたヨハネス・アルマイヤーもまた、ドイツでの映画、舞台演劇などで活躍している俳優ということもあり、やはり日本ではほとんど知られていないものと思われるが、『謀議』のトゥッチ版よりは、当方的には、当作のアルマイヤー版の方がアイヒマンのイメージに近い。

 

シュトゥッカートを演じたゴーデハルト・ギーゼもまた、ドイツでのTV、映画、舞台演劇が活躍の場ということで、日本ではほとんど知られてはいないが、当作のキーパーソン的役処をファースに負けず劣らず好演している。

 

クリツィンガーを演じたトーマス・ロイブルも、主にドイツでの舞台演劇、そして映画やTVで活躍する俳優で、日本ではほとんど知られていない。

『謀議』でのスレルフォール演じるクリツィンガーは、SS(ハイドリヒ)にとって厄介で、侮れない影響力を持つ人物として、シュトゥッカートに並ぶキーパーソン的に描けれているが、当作では、そうした印象とは多少腰の低い感じのクリツィンガーとしてはいるものの、それはそれで中々に良い味を出しているように思う。

『ヒトラーのための虐殺会議』では、その冒頭のシーンにもあるように、出席者の席次というものにも力点を置いているように思われる。
下の図は、この映画のスチール画像をもとに…映画パンフレットでは、出席者紹介として用いられていたものを引用させていただいた。

ご覧のように、上座と下座に分けた“コの字”に机を配置するという席次設定にしている。

 

こうして出席者(出演者)を各ブロックに分けることで、下図の如き配置をとる『謀議』にあるような…どうしても避けられない…画面手前の者の後ろ姿の映り込み(被り)を出来る限り少なくするべく、舞台演劇の如く見せるという“コの字”配置にすることで、カメラワーク的にも…何より各出演者の表情を適宜効果的に見せられるという意味では、観る側の見易さという点においても、確かにこちらの方に分があると言えなくもない。

 

楕円形の長テーブル中央の議長(ハイドリヒ①)を囲む席次となっている『謀議』の配置図。

 

実際のヴァンゼー会議における席次に言及した資料は見つけられなかったが、会議室の様子を再現したという下の画像から、『謀議』では、このような楕円形の長テーブルを囲んでの当日の様子に倣った忠実性に力点を置いた再現が為されている。


 

実際の会議の出席者がどのような顔ぶれだったのかは、その席番号に当てはめて、以下からご覧いただければと思う。

 

 

ここで、一連の“ヴァンゼー会議”作品のなかでキーパーソン的に描かれる⑫ヴィルヘルム・シュトゥッカートという人物について少し触れておく。
シュトゥッカートは、1902年11月16日にヘッセン州の南西部に位置する州都ヴィースバーデンに生まれ、同地のレアルギムナジウムを卒業後、ミュンヘン大学とフランクフルト・アム・マイン大学で法律を学び、バイエルン州、ヘッセン人民州(当時)の両州における法務試験を高成績で合格している。
1926年にヴィースバーデンのナチス党の法律顧問となり、1928年には博士号を取得し、1930年からは地方判事、1932年から1933年3月までポメラニアのSA(突撃隊)の顧問弁護士および法務官を務めている。 
1933年4月から一ヶ月程、ポーランドのシュチェチン(Szczecin)で一時的に市長代理を務めた後 、同年5月15日付でプロイセン文化省の次官に就任し、更に、同年7月7日付で新たに設立された帝国科学・教育・文化省(大臣:ベルンハルト・ルスト)でも次官に就任しているが、上司であるルストとの対立から、翌1934年11月13日付で“一時的”に解任となり、その後、ローランド・フライスラーの執り成しにより、次官の肩書のままダルムシュタットの高等地方裁判所(所長)への出向(左遷)という体になっているが、これは劇中でも見られる…「秩序ある状態(Geordnete Verhältnisse)」に拘る観のあるシュトゥッカート故の出来事だったともいえる。
その後、帝国内務省に転省したシュトゥッカートは、1935年3月11日付で帝国内務大臣ヴィルヘルム・フリックを首班とした省内のユダヤ人問題における“憲法と立法”に関するプロジェクトの責任者に任命され、いわゆる「ニュルンベルク(人種)法」の作成に携わることとなる。
1938年3月19日付で帝国内務省の次官に就任し、このヴァンゼー会議には内務省を代表して出席をしている。
因みに、各作品の劇中では、殊更、親衛隊に対峙する親衛隊外部の者かの如く描かれているが…
シュトゥッカートはこの会議の時点で、SS(親衛隊)少将の階級を持ち、最終的には1944年1月にSS大将にまで昇進している。

…ということもあり、本人紹介の画像⑫は、あえて親衛隊の勤務服姿(SS少将当時)のものを選択した。
1943年にハインリヒ・ヒムラーが帝国内務大臣を兼務した後も次官として職務し、ヒトラー亡き後の“フレンスブルク政府”の内閣(首相代行兼外相:ルートヴィヒ・フォン・クロージク)では、大統領となったカール・デーニッツにより、ヒトラーの遺書で後任指名されていたパウル・ギースラーではなく、帝国内務大臣兼文化・教育大臣に任命されている。
1945年5月23日、シュトゥッカートはフレンスブルク郊外のミュルヴィクにおいてデーニッツ政府の要人として拘束され、1945年8月にニュルンベルクに移送されるまで、バート・モンドルフ(ルクセンブルク)の第32収容所“Ashcan”に収容されている。
ニュルンベルク裁判により懲役3年10カ月の判決を受け、1949年に証拠不十分で釈放されるまで4年近く刑務所に収監された後、ヘルムシュテットで財務管理関連の仕事に就いていたが、51歳の誕生日の前日の1953年11月15日にハノーファー近郊のエーゲストルフで自動車事故により死亡している。(享年50歳) 
この“事故”には、通称「モサド」と呼ばれるイスラエル諜報特務庁の関与があるとの憶測が広まっているが、モサドやその他の同類の組織はその関与に関して公には認めてはいない。


 

“ヴァンゼー会議”を題材とする映画では、やはりハイドリヒ、アイヒマンの二人が最も注目されるところではあるが…

ハイドリヒに関しては以前にも紹介をさせていただいたこともあり…

また、アイヒマンに関しては、トーマス・クレッチマンがアイヒマンを演じている…アイヒマンを扱った映画『ヒトラーの審判 アイヒマン、最期の告白(原題:Eichmann)』あたりを紹介させていただいた時に改めて…ということで、今回は省略させていただき…

ここでは、当方的にどうしても注目してしまう“ゲシュタポ・ミュラー”とも呼ばれた…ハインリヒ・ミュラーSS中将に少し触れておく。

ユダヤ人問題に関する“長”は確かにハイドリであり、実際の実務に移していったのはアイヒマンであったが、その管理・運営の指揮を執ったのはミュラーである。

 

『謀議』では、ブレンダン・コイルが、そのミュラーを演じている。
後述のヤーコブ・ディールが、ある意味ベタなイメージとしてのSS将校(将官)を具現化したようなキャラクターなのに対し…
あくまでも私見ではあるが、コイル版はリアルな感じでのソレを具現化した観がある。

 


劇中で、“ハイドリヒにユダヤの血が混じっているのでは?”…との疑念を打ち明けるイアン・マクニース演じる党官房法務局長のゲルハルト・クロップファーに対し…狡猾な一面を覗かせるところなどは、ゲシュタポ局長たる人物像をより際立たせようという演出といえる。
因みに、『ヒトラーのための虐殺会議』でのファビアン・ブッシュ演じる…遠からずといった観のある…実際のクロップファーとは、当作のマクニース版は真逆ともいえるキャスティングとなっている。
そういえば、ブッシュは『ヒトラー最期の12日間』では、ゲルト・シュテーアSS中佐という架空の人物役で出演をしていた。

 

既記したように、『ヒトラーのための虐殺会議』では、ヤーコブ・ディールがミュラーを演じている。
ディールは、ドイツで…主にミュージシャン、作曲家として活動しているようで、2003年頃から映画やTV、舞台演劇・音楽劇などに俳優としても出演するようになったのだとか…
このナチス・スタイルともいわれる髪型もさることながら、この鋭い眼差し、冷徹さ・狡猾さをも感じさせるような表情は、まさにイメージ通りの“ゲシュタポ”といっても過言ではなく…これがまたハイドリヒ役のホフマイヤーのソフトな感じと対照して、ハイドリヒの底の見えない、不気味な人物像をより際立たせる一助となっているようにも思える。

 

ミュラーに対する人物評では、そのほとんどに共通して“冷”という言葉が使われている。
鋭い灰色がかった青い目と薄い唇を持つ小柄な男性で、政治的、主義的なイデオロギーといったものには実は興味がなく、単に己の上昇志向と警察業務に邁進するような人物だったようである。

 

ミュラーは、ヒトラーが自殺した直後の1945年5月1日の目撃証言を最後に、その消息を絶っている。
潜伏先や生死などに関してはいくつかの憶測が為されてきたが、現在も確実なことは解っていない。

 


1967年には、パナマでフランシス・ウィリアム・キースという米国人男性がミュラーではないかという嫌疑で拘束され、西ドイツ政府は、そのキースなる人物を裁判にかけるために引き渡すようパナマ政府に圧力をかけた。
西ドイツの検察は、ミュラーの妻ソフィー・ミュラーにキースの写真を見せたところ、夫であると特定したとしたが、結局、キースの指紋がミュラーと一致せず、釈放された。

 

 

『ヒトラーのための虐殺会議』…原題の『Die Wannseekonferen』と同タイトルの…やはりTV映画が、この作品が制作される38年前の1984年にも、ORF(Österreichischer Rundfunk:オーストリア放送)とBR(Bayerischer Rundfunk:バイエルン放送)により(西)独墺で共同制作されている。

(台詞:ドイツ語、本編:85分)

残念ながら、日本では未公開、DVD化もされていないようである。

 

Die Wannseekonferenz』(1984年)

 

当作では、出席者15名のうち…ハイドリヒ役のディートリッヒ・ マットタウシュ、アイヒマン役のゲルト・ベックマン、ミュラー役のフリードリッヒ・G・ベックハウス、オットー・ホフマンSS中将役のローベルト・アッツォルン、カール・エバーハルト・シェーンガルトSS准将役のゲルト・リガオアー、ルドルフ・ランゲSS少佐役のマルティン・リュトケに加え、ぺーター・フリッツ演じるヴィルヘルム・シュトゥッカート、そしてマルク・シュペルレ演じるゲルハルト・クロップファーの8名に親衛隊の勤務服を着用させている。
シュトゥッカートは既記の如く、またクロップファーも、親衛隊名誉指導者としての階級(SS准将)を持っていたということもあるからなのだとは思うが…内務省からの人選ではあるが、親衛隊の勤務服組となっている。

更に、褐色制服組の人選も先の二作品と若干違っており、アルフレート・マイヤー役のハラルト・ディートルに関しては三作共通ではあるものの、ゲオルク・ライプブラント役のハラルト・ブッセは、マイヤー同様に東部占領地域省(RMfdbO)からの人選ということからなのだろう…当作では褐色制服組になっている。

当作における席次は、まさに親衛隊勤務服組と、それ以外をテーブルを隔てて分けるというスタイルをとっている。

シュトゥッカートの役どころが若干先の二作と違うものの、シュトゥッカートに関してはハイドリヒの斜交えに座らせ、他の親衛隊勤務服組と…クリツィンガーはお一人様席とする席次によって他の14人と…の各々色分けを図っている。

 

 

先の二作品でピックアップした6名の登場人物を、当作の出演者でも紹介しておくと…

ハイドリヒは、ディートリッヒ・ マットタウシュがを演じているが、三作のなかでは、このマットタウシュ版のハイドリヒが…とりあえずはヴァンゼー会議の映画のなかのハイドリヒとしては、当方的にはお薦めといえる。

因みに、三作のうちで、当作のみがハイドリヒの制服を開襟タイプの上衣にしているのだが、実際も、当日が国家保安本部(RSHA)長官としての立場の色濃いこの会議の席故に、開襟タイプでの出席だった可能性は高いかもしれない。
ただ重箱の隅的になるが、劇中のハイドリヒとミュラーの襟章が、他の将官級が初期(1929年)型となっているのに対し、数ヵ月後の4月から導入される後期(1942年)型に…肩章の台布色も警察緑色ではなく、武装および一般SSの将官が着用する“明るい灰色”となってしまっている点は残念ところである。

 

アイヒマンは、ゲルト・ベックマンが演じているが、雰囲気的には…三作のなかでは、このベックマン版が一番それらしく見える。

…と、言っておきながら、アイヒマンに関しても重箱の隅的なことを言わせていただくと…右襟の襟章がゲシュタポの場合、SD(SS保安情報部)と共通の…ブランクのタイプになるところが、SSルーンになってしまっており、また肩章も兵科色/台布が緑/黒ではなく白/黒になってしまっている。

 

シュトゥッカートは、ぺーター・フリッツ演じているが、上記したように…シュトゥッカートが先の二作品に見られるような背広組ではなく、親衛隊勤務服組とされている点は興味深い。
因みに、シュトゥッカートの劇中の階級は…SS少将ではなくSS大佐となってしまっている。

 

クリツィンガーを演じているのは、フランツ・ルードニックであるが、落としどころは三作とも同様の観はあるものの、描き方・人選は三作三様で、中々に面白い。

 

ミュラーは、フリードリッヒ・G・ベックハウス(左)が演じているが…

ローベルト・アトツォルン(右)が演じるオットー・ホフマンが、いかにもSS将官然としていて中々に恰好良く…
ベックハウスとアトツォルンの役柄を入れ替えた方が、見た目的にはシックリくるのではないか…などと思ってしまうのは私だけだろうか…

 

ゲルハルト・クロップファーは、当作ではマルク・シュペルレが演じているが、こちらも上記したように…先の二作品に見られるような褐色制服組にせずに、親衛隊勤務服組としている点は興味深い。

 

2月13日、松本零士氏が“星の海”に旅立っていかれたとのことである。(享年85歳)
氏の代表作といえば、勿論…『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』があげられ…『宇宙海賊キャプテンハーロック』なども当方的には好きな作品ではあるが…
私のなかのイチオシは…漫画からというよりも、大学時代にアニメ化されたものを見てからの読み返しではあったが…『ザ・コクピット』などの“戦場まんが”…
そして何より…全巻揃え、読んだ、氏の“漫画”としては『男おいどん』は、あの何とも言えぬ世界観が、当時中学生の私にドはまりした作品の一つであった。

 

作中、主人公の大山昇太が好んで…というより、それくらいが彼の出来得る贅沢でもあった“ラーメンライス”が妙に美味しそうで…
母によくこの取り合わせをお願いし…苦笑されたものである。

久しぶりに、氏の“漫画”を読んでみたくなった。

 

氏とのコンタクト…と言えるかどうかは疑問ではあるが…

2009年5月1日に、西武池袋線の練馬駅で電車の出発を待っていると、ホームに何処かで見かけたことのある男性が…

それが、松本零士氏であった。

 

何でもその日、“銀河鉄道999デザイン電車”の運行にあたり、運行初日のその日に、豊島線豊島園駅にてお披露目式が開催されたとのことで、その式典およびその後の催しに参加された氏は、当日はこの様な西武線の駅長服姿の出で立ちだったようである。
本当の駅長さんと思われる方と、関係者?数名で…電車を見送るでもなく…何とは無しに、ポツンと立っておられたお姿を…ドアの閉まる寸前に撮らせていただいた…というだけのコンタクトである。

 

謹んでご冥福をお祈り致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Der Untergang (英題:Downfall / 邦題:ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2005年)

 

ヒトラーのその最期の日に至る…地下壕での“失意”の12日間をリアルに描いた2005年公開のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作が『DER UNTERGANG(英題:Downfall)/ヒトラー ~最期の12日間~』である。

原作はヨアヒム・フェスト著書の『Inside Hitler's Bunker: The Last Days of the Third Reich (総統官邸地下壕での第三帝国の最後の日々)』。
そして、ヒトラーの最期を目の当りにした秘書ゲルトラウト“トラウドゥル”・ユンゲが自身の最晩年に回顧録として出版した『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』などをもとに脚本が書かれている。



 

1943年以降になると歳よりも老けて見えはじめ…地下壕に閉じ篭った頃ともなると“まるで廃人”のようだったと表現する証言者もいるくらい外見的にも判る程に精神的にも荒廃していたヒトラー。
ただそうした状態のもとにあってもなお人々を引き付け、その威光が完全に失われたわけではなかったヒトラー役をブルーノ・ガンツが迫真の演技で演じている。


ヒトラーとその取り巻き連中の描き方については賛否両論あるかとも思うが、私的にはかなり当時を知る者達の証言事項などが細部にわたり織り込まれおり、また市街戦などのシーンもかなり迫真に迫っていて、なかなかに見応えのある映画になっているのではないかと思う。

 

この映画では、恐怖と欺瞞と退廃に満ちた息の詰まるような地下壕での時間を、アレクサンドラ・マリア・ララが演じる主人公のトラウドゥル・ユンゲの目を通して描くのとは別に…その外…ソ連軍が迫り、激しさを増す攻撃・砲撃のなか…恐怖と怯懦と狂信の錯綜する荒廃してゆくベルリン市街での時間をドネヴァン・グニア演じるペーター・クランツ少年の目を通しても描いている。

 

 

1945年3月20日、二級鉄十字章を受章したヒトラーユーゲント(HJ:Hitlerjugend)の少年たちへの総統直々の授与式が(旧)総統官邸の中庭で行われた。
 

16歳のヴィルヘルム・ヒュプナーに続いて、19名のHJに混じってドイツ少国民団(DJ:Deutsche Jungvolk/HJの下部組織)の少年小隊長として最年少受章者となった12歳のアルフレッド・チェコがヒトラーから祝福の言葉を掛けられているシーンは、翌々日(22日)のニュース映画(Nr. 755)でも公開された。
因みに、この時の模様がヒトラー生前最後の映像となった。
 

この映画では、この時の模様をなぞらえてペーターがヒトラーと出会う場面としている。


エンディングではそのペーターとユンゲが手を取り、共に明日へと歩き出すという…ある意味、象徴的なシーンでこの映画を締め括っている。

 


 

ただ映画の内容に関しては、今更書き連ねるよりも、是非ご自身でご覧になっていただければとも思うで、ここではこの映画の劇中に登場する地下壕の住人たちのなかで私がで気になった人物と実際との対比程度にとどめ…主に最期の日々の“後”あたりに触れていこうと思う。

 

先ずは、アレクサンドラ・マリア・ララが演じた主人公のトラウドゥル・ユンゲ嬢から…

本名はゲルトラウト・ユンゲであるが、“トラウデル(Traudl)”の愛称で呼ばれていた。

そのユンゲは、劇中でも触れられているように結構なスモーカーであったようで、後(1943年6月19日)に結婚をすることとなる総統警護隊(FBK:Führerbegleitkommando)の隊員であった下士官当時のハンス=ヘルマン・ユンゲSS中尉とのツーショットでもタバコを吹かしている。


夫のハンスは、1943年7月14日付で第12SS装甲師団“Hitlerjugend”に異動となり、1944年8月13日にノルマンディー地方ドルーにおける対空戦闘中に敵戦闘機による機銃掃射により戦死亡している。(享年30歳)


劇中のシーンにもあるように、5月1日夜半、官庁街防衛地区司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将が中心となり、六つの脱出グループを編成し、午後9時に最初の一団が出発した後、順次、総統官邸地下壕からの脱出を開始することとなった。

ユンゲはモーンケ率いる最初のグループと共に総統官邸地下壕を離れた。 

このグループには、ヒトラー専属副官オットー・ギュンシェSS少佐、親衛隊軍医エルンスト・ギュンター・シェンクSS軍医中佐、ヒトラー専属帝国政府飛行隊長ハンス・バウアSS中将、国家保安局長ヨハン・ラッテンフーバーSS中将、総統官邸附海軍連絡将校のハンス=エーリヒ・フォス海軍中将、外務省総統官邸駐在官のヴァルター・ヘーヴェル、総統個人秘書の同僚であるゲルダ・クリスティアンとボルマンの個人秘書のエルゼ・クリューガー、ヒトラー専属料理人・栄養士のコンスタンツェ・マンツィアーリーなども含まれていた。 

ユンゲ、ゲルダ、エルゼクリューガーは、モーンケよりグループから離れ、報告書を大統領カール・デーニッツ大提督に届けるよう依頼され、エルベ川周辺までは辿り着いたものの、対岸の米軍占領地区に行くことは無理と判断し、再びベルリンに戻りかけたとろで連合国軍に拘束されている。
ただ、彼女たちが何者なのかなどの取り調べもほとんどなく解放されたようである。

 

戦後しばらくして、ミュンヘンのフランツ・ヨーゼフ通りの一画にあるゾフィー・ショルを追悼する銘板の前を通り過ぎた彼女は、ショルが自分と同じ年に生まれ、ヒトラーの秘書となった年に処刑されていたことを知る。
その瞬間、ナチスによる蛮行については、自分が若かったからということが言い訳にはならず、知らなかったというよりも知ろうとしなかったということに気付いたのだという。
2002年2月10日、癌により亡くなった彼女は、ミュンヘンのノルトフリートホーフ墓地に永眠っている。(享年81歳)

ユンゲ(未亡人)とともに官邸地下壕に残った総統個人秘書のゲルダ・クリスティアン(夫人)は、ビルジット・ミニヒマイアが演じている。
ゲルダは、総統本部附空軍司令部長であったエックハルト・クリスティアン空軍中佐(当時:のち空軍少将)と1943年2月2日に結婚をするにあたり長期休暇を取っていて、その抜けた穴を埋める人員として、その前年の11月に新たな秘書として採用されたのがミュンヘン出身のトラウデル(当時は旧姓のフンプス)・ユンゲで…この映画の冒頭のシーンにもなっている。

1943年夏に職務に復帰したゲルダとユンゲは、その後随時行動を共にした。
戦後間もなくエックハルトと離婚(旧姓のダラノフスキーに戻る)したゲルダはデュッセルドルフに移り、そこでホテルに勤務し、1997年4月14日、癌のため同地で亡くなっている。(享年83歳)

 

エヴァ・ヒトラー(ブラウン)は、ユリアーネ・ケーラーが演じているのだが…個人的嗜好を言わせて頂くとケーラーよりも『モレク神(Moloch/Молох)』のエレーナ・ルファーノヴァの方が雰囲気的にはエヴァに近いように思える。

 

『モレク神(Moloch/原題:Молох)』は、アレクサンドル・ソクーロフ監督の1999年製作のロシア映画で、日本公開は2001年3月31日ということなので、もうずいぶんと前のことで記憶も不確かなのですが、おそらく…当時、近隣ではラピュタ阿佐ヶ谷という小さな劇場での単館上映で、そこで観たと記憶している。
1942年春、ベルヒテスガーデン近郊の人里離れた丘陵にあるベルクホーフの山荘での、ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンとの静かな生活を抒情的に…淡々と描いていた作品だったという印象しか残っておらず、機会があればもう一度ゆっくりと見返してみたい映画でもある。

 

 

4月29日未明、ついに“愛人”という立場に終止符を打ち、エヴァ・ブラウンはヒトラーと結婚した。
午前1時から2時間程の簡易なその式事は、総統地下壕地下二階の小会議地図室で執り行われた。
ゲッペルスはこの結婚に際し、必要な資格を持つ者を付近から探してくるように親衛隊に命じ、国民突撃隊“Gauleitung”大隊に所属していた弁護士のヴァルター・ワグナーなる人物に公証人として儀式を司らせ、ゲッペルスとボルマンが立会人として参列した。
シルクの青いドレスを身に纏ったエヴァは、結婚証明書の署名欄に“Eva B”と書きかけたが、すぐに気付き、訂正線を引いて“Eva Hitler”と書き直した。
この式の後、ある給仕がエヴァに「奥様(gnädige Frau)!」と呼び掛けると…「ヒトラー夫人(Frau Hitler)と呼んでいいのよ」と自慢気に言ったというエピソードが残っている。
そんな結婚式から僅か1日半後の翌30日午後1時頃、ヒトラーは最後の食事を済ますと、妻エヴァを呼び、ユンゲ、クリスチャン、クリューガーの三人の秘書、ボルマン、ゲッペルス、クレブス、ブルクドルフ、ラッテンフーバー、フォス、ヘーヴェル、そして国民啓蒙・宣伝省次官(当時)のヴェルナー・ナウマンなどの極側近の者たちに別れを告げ、エヴァとともに自室に消えていった。
午後3時20分頃、一発の銃声が響き、そのまま静まりかえった。
二発目の銃声は無かった。
数分待ち、ヒトラーの執事でもあったハインツ・リンゲSS中佐がオットー・ギュンシェSS少佐を伴い書斎に入ると、シアン化物のカプセルを噛んだ直後、6.35mm口径のピストルで右側のこめかみを撃ち抜き拳銃自殺を図ったヒトラーとシアン化物による服毒自殺を図ったエヴァが、正面のソファのそれぞれ右端、左端に…二人とも腰かけた状態で発見された。

毛布に包まれた二人の遺体には、遺言に従い大量(ほうぼう駆けまわりやっと調達できた約180リットル)のガソリンが撒かれ、ギュンシェ、リンゲらにより総統官邸の中庭において焼却が為された。
エヴァ・ヒトラー(享年33歳)、アドルフ・ヒトラー(享年56歳)



ヒトラー専属副官オットー・ギュンシェSS少佐は、ゲッツ・オットーが演じている。
4月30日、自殺したヒトラーとその妻となって共に亡くなったエヴァの遺体の焼却を確認した後、5月1日の真夜中過ぎ…既記の如く、ヴィルヘルム・モーンケSS少将らのグループは地下壕を脱出し…翌2日、クロイツベルク地区(ベルリン)のシュルトハイス・ビール醸造所に潜伏しているところをソ連軍に包囲され、捕虜となった。
1956年5月までバウツェン収容所で服役し、その後、西ドイツ側へ脱出、ボン近郊に移り住んでいる。
この映画が公開となる少し前(2003年10月2日)までご存命であったが、最後まで自身の体験について公に語ることは無く、沈黙を守り通して亡くなった。(享年86歳)

ギュンシェは、“骨一本も残さず完全に燃やし尽くした”との主張を曲げなかったが、ガソリンによる焼却では完全に遺体を燃やし尽くすことは到底不可能であったため、結局は遺言通りにはならず、遺骨は戦後、ソ連によって回収され、2000年4月にヒトラーのものとされる頭蓋骨の一部と歯が公開されている。


ヒトラー役のブルーノ・ガンツと並んでなかなかに近しい雰囲気を出していたように思えるのがハイノ・フレヒが演じたアルベルト・シュペーア

ヒトラーの夢の大都市構想の推進のために、当初はお気に入りだったものの、如何にヒトラーであってもなかなか専門的な意見のし難い建築家の大家であるパウル・ルートヴィヒ・トローストよりも、才能豊かでかつ自らの意見に沿い奔走する若いシュペーアを、ヒトラーは登用するようになっていく。
シュペーアは、帝国首都建設総監としての建築部門のみならず、門外漢であった軍需部門においても…その政策原案の殆んどが前任の軍需大臣であったフリッツ・トートSA大将兼空軍少将による考えの焼き直しだったにせよ、目に見える形で実現化せしめた彼の功績は大きく、今作の台詞にもあるように、ヒトラーにして“本物の天才”と言わしめた。
戦後は、日和見的に“善きナチス”としての立ち位置を通した。
BBCに出演するために渡英していた1981年9月1日、愛人宅において心臓発作で倒れ、ロンドンのセント・メリー病院に搬送されるも、そのまま帰らぬ人となった。(享年76歳)


ヴェルナー・ハーゼSS軍医中佐は、マティアス・ハビッヒ演じている。


ゾルトブーフ(俸給手帳)用の写真(左)と拘束直後に撮られた本人確認用写真。

 

1945年4月のベルリンの戦いでの最後の日々を、ハーゼはシェンクとともに、フォス通りに面した新総統官邸(病棟)の公共掩蔽豪に設けられた緊急医療施設において負傷兵、民間人の負傷者の命を救うために奔走している。
外科的処置を必要とする患者が次々と運ばれてくるなか、外科系のハーゼは、持病の結核の病状が思わしくなく、シェンクに口頭で指示を与えながら横になることが多かったということである。

4月29日、総統地下壕に呼び出されたハーゼは、シアン化物(青酸カリ)の有効性と捕らえられた場合にカプセルを飲み込んでから死に至るまでにどれくらいの時間がかかるのかを親衛隊軍医のルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーSS軍医中佐とともに検証せよとの命を受けた。
その背景には、それらの薬物の製造がヒムラーの管理下にあった研究所によって製造され、総統官邸にも納入されていたことから、連合国側と秘密裏に交渉を行おうとしていたヒムラ―に対するヒトラーの疑心暗鬼からくるものでもあった。
ヒトラーは、自決用として渡されている同カプセルを愛犬ブロンディで試すように命じた。
ブロンディは飲み込むことを激しく拒み、その眼差しはずっと主人であるヒトラーに向けられていたという。
いたたまれなくなったヒトラーが退室した後も、目線はその後姿を見据えていたが、ついに息絶えた。
4匹の仔犬も同様に毒殺された。

ハーゼは翌30日の午後にヒトラーが自殺するまで総統地下壕に留まり、その後、ハーゼは病棟掩蔽豪に戻っている。
シェンクがハーゼの元に来てから7日間で二人は約370件の手術を行ったという。
ハーゼは、ゲッベルスの子供たちの殺害に関与したとされる親衛隊歯科軍医のヘルムート・クンツSS軍医少佐エルナ・フレーゲルとリーゼロッテ・チェルヴィンスカの2人の看護師らとともに官邸を脱出したが、5月2日にソ連軍の捕虜となった。

収監中に結核の病状が悪化したハーゼは、1950年11月30日に、モスクワのブティルスカヤ刑務所内の療養施設で亡くなっている。(享年50歳)

 


ハーゼとともに掩蔽豪において負傷者の手当に追われることとなったエルンスト・ギュンター・シェンクSS軍医中佐は、クリスチャン・ベルケルが演じている。

因みに、ベルケルの父親は元軍医とのことであるが、母親がユダヤ人だったこともあり、戦時中は迫害を逃れてフランス、アルゼンチンなどに亡命していた。
ベルケルはこの後も、『ブラックブック』『ワルキューレ』などでもドイツ将校・将官役を演じている。

 

戦時中に撮られた写真(左)と晩年の画像(右)。


シェンクは栄養学などに素養があったことなどから、戦地における武装親衛隊の兵士たちのビタミン剤やプロテイン・ソーセージといったレーション開発・製造などに携わり、1943~1944年にはSS経済管理本部員としてマウトハウゼン強制収容所において栄養実験の責任者を務め、その後、国防軍の栄養検査官および上級医師に昇級している。
1945年5月2日、シェンクはソ連軍に投降、収監され、1949年12月21日に死刑判決を宣告を受けるも、刑は25年の禁固刑に減刑されている。
 結局、1955年に釈放され、帰国後はグリューネンタール(Grünenthal GmbH)などのドイツの製薬会社に勤務。
また帰還者協会の飢餓被害の補償問題に関する専門家として活動し、1998年12月21日にアーヘンで亡くなっている。(享年94歳)
今作では、実際の人物像よりも好意的に描かれているとの指摘もある。



以前の記事(シネマ“感傷”)の際も紹介させていただいたウルリッヒ・マテスがヨーゼフ・ゲッベルスを演じており…マテスという役者とのファーストコンタクトがこの映画であった。
ゲッベルス自体も、猿顔チックな少々特徴的な顔立ちではあるが、それ以上にインパクトのある…というか、猟奇的にも見えてしまう特徴ある顔立ちのマテスのため、当初はミスキャストにも思えてしまった程である。

 


私見だが、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ(原題: Valkyrie)』でゲッベルスを演じたハーヴェイ・フリードマンの方が若干それらしくは見えるかもしれないが、マテスという実力ある役者の演技をあらためて見返してみれば、マテスのゲッベルスも、なかなかに味があってよいのかもしれない。

 

コリンナ・ハルフォーフは、この映画のキャストの女性陣として、ユンゲ、エヴァに次ぐ重要な役所ともなる…ゲッベルスの妻にして、陰鬱とした地下壕のなかにあって、愛らしい6人の子供たちの母親でもあるマクダ・ゲッベルスを演じている。

 

ゲッペルス夫妻の6人の子供達の最期に関して、総統官邸附歯科医師のヘルムート・クンツSS軍医少佐のソ連軍への供述証言によると…
ほぼ劇中の如くではあるが、ただ若干違うのは…劇中では嫌がるヘルガに無理やり飲ませたことになっているが、注射によりモルヒネ(傾眠効果あり)0.5ccを…「マクダは、子供達に「いつもよその子供や兵隊さん達もしているやつよ」と言い終えると部屋から出て行きました。
私は長女のヘルガ、次女ヘルデ、次男ヘルムート、三女ホルデ、四女へータ、五女ハイデの順で処置していきました。
それが済んだのが午後8時40分…10分ほど経ってマクダと子供達の寝室に戻り、更に5分程待って一人一人の口に青酸カリ(1.5cc)のアンプルを砕いて含ませました。」…ということのようである。

子供たちの処置が済むと、ゲッベルスとマクダは総統地下壕地下一階の自室を出て、ナウマンとゲッベルス専属警護隊所属で副官のギュンター・シュヴァ―ガーマンSS大尉と簡単な挨拶を交わし、中庭への階段を登って行った。
因みに、シュヴァ―ガーマンの証言によると「焼却用のガソリンを用意している時に銃声が聞こえ、庭に行ってみるとゲッベルスとマクダの死体を発見する。マグダは毒(青酸カリ)を飲んで既に死亡していたが、ゲッベルスは自分ではどうしても急所を撃つことが出来なかったようだったので私は部下(伝令兵)の一人に命じて止めをささせました。これは当初からゲッベルス本人に頼まれていたことでもあり、彼が撃ったあと念を入れて私がもう一度撃ち、それから死体を火葬に付すことになっていました。ただ、私にはどうしても撃てなかったのです。」
時刻は5月1日午後8時15分頃だったという。
上記二人の証言では時間的に誤差が生じてはいるが、あのような状況下では記憶の不確かさは否めないかもしれない。

例えば、クンツの“午後8時40分”という認識が1時間ほど誤っていたとして、実際には“7時40分”だったならば、その後の時間的経緯も合点がいくのだが…
その後、シュヴェーガーマン、ゲッベルスの運転手ラッハ、伝令兵らによりゲッベルス夫妻の遺体にガソリンが撒かれ、総統官邸の中庭において焼却が為されているが、ガソリンの量が少なく焦げた程度であった。
ヨーゼフ・ゲッベルス(享年47歳)、マクダ・ゲッベルス(享年43歳)

 

プロパガンダの天才であるゲッベルスは、ドイツの良き家庭のお手本とすべく、子だくさんの自身の家族を、そのプロパガンダにも利用した。
マクダと6人の子供たちを度々ドイツ週間ニュースにも登場させて、その“良き家族”ぶりを披露した。

 

1942年9月23日、北アフリカから一時帰国したロンメルが、ベルリン滞在中にゲッベルスの邸宅に招かれた際に子供達と遊ぶ様子を撮した映像である。
おそらく、10月3日に宣伝省を訪れた後にゲッベルス宅に招待されたものと思われる。

 

戦後、ソ連軍によるヨーゼフ・ゲッベルス、マクダと子供たちの死体見分の様子。
衝撃的な映像が含まれていますので視聴にはご注意ください

 

ヘルマン・フェーゲラインSS中将は、『戦場のピアニスト』など独軍将校役として、当方のブログでは既にお馴染みのトーマス・クレッチマンが演じている。

因みに重箱の隅的にはなるが、クレッチマンの衣装の階級章はSS少将となっているが、この時点では既にSS中将に昇進している。

 


1945年4月27日、地下壕の住人達の証言から…フェーゲラインが部下二名を伴って、酔っぱらった状態で総統官邸を抜け出したことが発覚した。 
国家保安局(RSD:Reichssicherheitsdienst)のペーター・ヘーグルSS中佐が捜索に派遣され、29日未明、フェーゲラインはシャルロッテンブルク(ベルリン)の私邸のベットで私服姿で横たわっているところを拘束されている。
発見当時、泥酔状態であり、また国外逃亡を見据えた多額の外貨、宝飾品を所持していたともいわれている。
フェーゲラインはその場で妻グレートルの姉エヴァ・ブラウンに直接電話をかけ、彼女に懇願するも無駄だったということである。
官邸地下壕に連れ戻された彼は、ハインリヒ・ミュラーSS中将(ゲスターポ局長)を裁判長、RSD局長ヨハン・ラッテンフーバーSS中将、ヴィルヘルム・モーンケSS少将、ハンス・クレープス陸軍歩兵科大将、ヴィルヘルム・ブルクドルフ陸軍歩兵科大将らを判事として、敵前逃亡罪およびソ連軍側に総統の身柄を引き渡すことを画策していたのではないかとの嫌疑により臨時軍事法廷に掛けられた。
その最中もひどい泥酔状態で、自身では立っていることも出来ず、床に座り込み、嘔吐、放尿までしてしまう有様のフェーゲラインには、“軍法会議中は被告が健全な心身であることが義務付けられている”とする軍法による裁判の継続できないというモーンケの主張により法廷は短時間で閉廷し、フェーゲラインの身柄はラッテンフーバーに引き渡され、その処遇はヘーグルに一任された。
フェーゲラインの処遇に関してヨーゼフ・ゲッベルスとマルティン・ボルマンに相談したヒトラーは、その後、彼を自身の前に連行させ、激しく罵倒し、階級を剥奪はしたようではあるが、身柄の拘束・監禁命令以上の命令は下してはいなかったが、29日深夜、ヘーグルの独断により総統官邸近くの外務省の敷地内において銃殺刑が執行されている。
このフェーゲラインに対する“銃殺”という決着の背景にはヘルマン・ゲーリングの背信的行為以上に精神的打撃を与えるに至ったハインリヒ・ヒムラーの裏切り行為に起因するところが大きかったものと思われる。
あの“忠臣ハインリヒ”が勝手に和平交渉を申し出たこともさることながら、総統である自分の身柄を引き渡す約束をしたともされ、“裏切り行為”に対する怒りは頂点に達し、ある意味、ヒムラーの身代り的な処断ともいえ、信奉する総統ヒトラーに対するヘーグルの忖度が働いた故であろう。(享年38歳)

 


SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、ウルリッヒ・ネーテンが演じている。

ヒムラ―は、ソ連を除いた米英との講和に向け水面下で工作を始めるも、ヒムラーの西部戦線降伏に関する提案は、「部分的降伏は有り得ず」とした米国大統領ハリー・S・トルーマンにより正式に拒絶され、1945年4月28日のBBCのラジオ放送によりヒムラーからの「降伏の申し出があった」旨が伝えれたことで、その裏切り行為がヒトラーの知るところとなった。
戦後は、野戦憲兵のハインリヒ・ヒッツィンガー陸軍曹長として、髭を剃り、眼帯を装着して、ルドルフ・ブラント、カール・ゲプハルトなどの側近たちとともにホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡していたが、5月22日、ブレーマーフェルデとハンブルクの間にあるバルンシュテット村のはずれで英国軍に拘束され、捕虜としてリューネブルクの捕虜収容所に送られた。
一兵卒の捕虜としての対応に業を煮やしたヒムラ―は、自らにまだその権威があると疑わず、収容所所長に対してハインリヒ・ヒムラーであると名乗り出たうえで、連合国側の上層部との政治的交渉を求め、その旨を取り計らうことを要求したが、勿論、その要求は拒否された。

 


5月23日、午後11時4分…自らの末路を悟り、シアン化物による服毒自殺で、ひっそりと息を引き取った。
その遺体は丸一日放置され…その後、軍葬も、宗教儀式もなく、3日後の26日の朝、英軍少佐以下4名によりリューネブルク近郊の森の中に埋葬されたが、その場所は明らかにされることはなかった。
奇しくも、ヒムラーは生前に…「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」と、語っていたのだとか…
正に、それを地で行くようなハインリヒ・ヒムラーという男の質素な最期であった。(享年44歳)

 

ヴィルヘルム・ブルクドルフ陸軍歩兵科大将は、ユストゥス・フォン・ドホナーニが演じている。
ブルクドルフは、陸軍人事局長およびヒトラーの主任副官という立場にあり、『映画のなかの“狐”たち』でも触れたが、彼はロンメルの自決に大きく関わった人物である。
“人事の人間”という偏見的なイメージもあったのかもしれないが、軍人間ではあまり評価は良くなかったようである。
既記の如く、脱出グループに加わることなく地下壕に残ったブルクドルフとクレブスは、2日早朝、ともに頭部を撃ち抜き拳銃自殺を図った。(享年50歳)

 

ハンス・クレブス歩兵科大将は、ロルフ・カニースが演じている。

戦争の最末期(1945年4月1日~5月1日)にOKH(陸軍総司令部)最後の陸軍参謀総長に任官したハンス・クレブス陸軍歩兵科大将は、かつてモスクワで大使館付武官の経験をもちロシア語も堪能であったこともあり、5月1日にヴァイトリングの参謀長であるテオドール・フォン・ダフィング陸軍大佐を伴い、白旗を掲げ、第8親衛軍の司令官ワシーリー・チュイコフ大将のもとにゲッベルスの“条件付き”降伏書簡を持って交渉に当たったが、他の連合国と合意が為されているように、ソ連も無条件降伏以外を受け入れることは出来ないとし交渉は決裂した。
その日の午後8時30分頃にゲッベルスが自殺したことで“条件付き”という障害が取り除かれたが、クレブスが再び交渉に赴くことはなかった。
脱出グループに加わることなく地下壕に残ったクレブスとブルクドルフは、2日早朝、ともに頭部を撃ち抜き拳銃自殺を図った。(享年47歳)
 

降伏交渉は、ベルリン防衛軍司令官であるヘルムート・ヴァイトリング陸軍砲兵科大将に委ねられることとなった。

 


ベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング砲兵科大将は、ミヒャエル・メンドルが演じている。
実際の雰囲気とは若干違うものの、劇中ではなかなかに魅力的に描かれているように思う。

 

1945年1月20日、ソ連軍は東プロイセンに侵攻し、遂にドイツ領内へ進撃した。
ベルリン防衛の強化を担い、2月2日付でベルリン防衛軍司令官に任官したブルーノ・フォン・ハオエンシルト陸軍中将だったが、2月中旬に重度のインフルエンザに罹患したため、3月6日付でヘルムート・ライマン陸軍中将が引き継ぐこととなった。

 

4月16日…モスクワ時間の午前5時…ベルリン時間の午前3時、暁の闇をついてソ連軍の砲門がいっせいに火を噴き、ベルリンの戦いは始まった。

10倍近い圧倒的な兵力差に苦戦を強いられるなか、ゲッペルス、ブルクドルフらと折り合いが悪かったライマンは、敗北主義的であり、防衛軍司令官として不適格であるとヒトラーに吹聴され4月22日付で解任された。

 


ヒトラーは、エルンスト・ケーター陸軍少将を陸軍中将に即時昇進させ、その後任に任命したが、結局、後任に就くことはなく(昇進も取り消し)、ヒトラー自身がエーリッヒ・ベーレンフェンガー陸軍中佐を陸軍少将に即時昇進させ、その“副司令官”とすることで一時的に引き継いでいる。

 


一方、ベルリン東部の防衛を担当していたヴァイトリングは、戦況悪化に伴う適宜対応としての後退が抗命罪に当たるとされ、銃殺刑を宣告されたが、劇中にもあるように、総統地下壕へ出頭し、ヒトラーに直接現状を訴えると、一転して銃殺刑は撤回され、23日付でベルリン防衛軍司令官に任命された。

 

24日までに、東と北から西進するゲオルギー・ジューコフ元帥率いる第1ベラルーシ戦線(第47軍、第2親衛戦車軍、第3突撃軍、第5突撃軍、第8親衛軍・第1親衛戦車軍、第3軍、第69軍)と、南から北上するイワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ戦線(第4親衛戦車軍、第28軍、第3親衛軍)により、ベルリン市の包囲は完了した。

25日、ヴァイトリングは、5個師団及び武装親衛隊の兵力4万5,000名、さらに補充要員として4万名からなる兵員を、ベルリン市街を“A”から“H”の8区画に分けて配備した。
総統官邸を含むベルリン官庁街地区には9個大隊(約2,000名)から為るヴィルヘルム モーンケSS少将を指揮官とするモーンケ戦闘団、グスタフ・クルッケンベルクSS少将を指揮官とする第33SS所属武装擲弾兵師団“Charlemagne”と第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の残存混成部隊を市の南東の防衛区(ヘルマンプラッツ地区)、ヴェルナー・ムンメルト陸軍少将を指揮官とするミュンヘベルク装甲師団をシュプレー川以西の市の南東とテンペルホーフ空港付近の防衛区、ハリー・ヘルマン空軍大佐を指揮官とする第9降下猟兵師団のベルリン内兵力を市の北側となるフンボルトハイン高射砲塔~シェーンハウザー・アレー地区、ヨーゼフ・ラオホ陸軍少将を指揮官とする予備の第18装甲擲弾兵師団をグルーネヴァルト付近に各々配備した。
但し、補充要員の4万名の多くはベルリン警察官、ヒトラーユーゲントなどの少年兵、および退役軍人などから為る国民突撃隊民兵といった、そのほとんどが実戦経験が皆無の寄せ集めの俄か部隊にすぎなかった。

 

だが、ベルリン市内での攻防戦は、ソ連軍側が思った以上に難航した。
その一助となったのが、第33SS所属武装擲弾兵師団“Charlemagne”に所属のフランス人、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”に所属のオランダ人、スウェーデン人、デンマーク人、ノルウェー人、第15SS所属武装擲弾兵師団(レットラント(=ラトビア)第1)に所属のラトビア人など、自国を敵に回して戦ってきた者たちの戻る場所のない必死必勝の捨て身の反攻によるところが大であった。

 

ソ連軍の両戦線はほぼ同時にベルリン市内に突入したが、29日の襲撃は失敗したものの、30日の夕方にはジューコフの部隊が帝国議事堂を先に占拠したため二人のベルリン争奪戦は事実上決着し、ジューコフは“勝利の将軍”の名声を得ることとなった。

 

ヴァイトリングは参謀長のフォン・ダフヴィングにチュイコフとの会談を手配させ、5月2日にチュイコフと第1ウクライナ戦線の参謀長ヴァシーリー・ソコロフスキー上級大将の命令に従い…午前8時23分、降伏文書に署名し、その後、戦闘を続ける各部隊に対して即時戦闘の中止を下達する旨の以下のような内容を街宣放送を行うと同時に各所に文書として配布し、午後3時をもって戦闘は終了した。

 

1945年4月30日、総統は自決なさり、忠誠を誓った我々を残したまま逝かれた。兵士諸君は総統命令に従い抵抗を続けてきたが、武器弾薬も尽きた今、これ以上の抵抗は無益である。即時、戦闘中止を命令する。戦闘を続けてもベルリン市民と負傷兵の苦しみを長引かせるだけである。ソ連軍最高司令部との合意に基づき、ここに命令する。即時、戦闘を中止せよ。 ヴァイトリング 元ベルリン防衛軍司令官

 

ヴァイトリングは、懲役25年の刑期中の1955年11月17日にウラジーミルの収容所にて動脈硬化により亡くなっている。(享年64歳)


ベルリン官庁街防衛地区司令官のヴィルヘルム・モーンケSS少将は、アンドレ・ヘンニッケが演じている。

 

 

ソ連軍に投降後、モーンケ、シェンクおよびモーンケ戦闘団の上級将校らは、チュイコフの許可を得て、第8親衛軍の参謀長による晩餐会に招待された。
午後10時30分、別室に案内され、そのまま幽閉され、翌3日の夜、モーンケらはNKVD(内務人民委員部)に引き渡され、尋問などを受けた後、ポーランドのルビャンカ刑務所に移送された。
6年間の監禁の後、モーンケはヴォイコヴォの将校捕虜収容所に移送され、1955年10月10日に釈放されている。
その後、バルスビュッテル(当時は西ドイツ)に移住し、小型トラックやトレーラーのディーラーとして従事、2001年8月6日に同地で亡くなっている。(享年90歳)

 

因みに、この写真はソ連軍に拘束された直後に撮られたものであるが、どう見てもまだ34歳の若者とは思えないような、その窶れ方、風貌からもベルリンを巡る攻防戦の苛烈さが窺い知れるのと同時に、どこか安堵感というものも垣間見られるようにも思える。



国防軍最高司令部(OKW)作戦本部長のアルフレート・ヨードル陸軍上級大将は、クリスチャン・レドルが演じている。

ニュルンベルク収監中に行われた知能テストでも127点という高得点であったヨードルは、俊秀の集まる参謀本部にあって主流を歩んできた有能な戦術家ではあったのだろうが、ヒトラーには逆らえず、結局はその戦術眼を活かすことは出来なかった。



フレンスブルク政府の大統領となったカール・デーニッツ大提督の命を受け、フランスでの降伏交渉に赴いたヨードル(中央)であったが、連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥の対応は厳しく、やむなく1945年5月7日午前2時38分に降伏文書に署名を行った。
※同席したハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将(右)とヨードルの副官ヴィルヘルム・オクセニウス陸軍参謀少佐(左)
 


5月23日にフレンスブルク近郊で英国軍に逮捕され、翌1946年10月1日のニュルンベルク裁判での判決において、四つの訴因全てで有罪となり、減刑を嘆願するも叶わず、10月16日午前1時10分から…自殺したゲーリングを除く主要戦犯10名の絞首刑が順次執行され、ヨードルは9番目の執行であった。
最期の言葉は「Ich grüße Dich, mein ewiges Deutschland(さらば、我が不滅なるドイツよ)」であった。(享年56歳)

 

総統秘書官兼副官のマルティン・ボルマンは、トーマス・ティーメが演じている。
ボルマンは、N.S.D.A.P.(ナチス)党官房長官であり、党の金庫番として大きな影響力を得るに至り、また総統秘書官兼副官としてヒトラーの影の如く、最側近で公私に渉り密接に関わり、ついにヒトラーに次ぐ権力者となっていた。
4月30日、ヒトラーは自らの死にあたり、遺言でボルマンを帝国党大臣(Reichsparteiminister)に任命し、その遺言の執行人に指名している。
ボルマンは5月1日23時、シュトゥンプフエッガーSS軍医中佐、全国青少年指導者アルトゥール・アクスマンらとともに第2グループとして総統官邸地下壕を脱出している。
シュプレー川に架かるヴァイデンダム橋を何とか渡り、ボルマンとシュトゥンプフェッガーらは線路に沿ってレアター駅方面へ向かうことにし、アクスマンとその副官らは別方向に向かううこととなり、そこで別れたという。
因みにアクスマンは、ベルリンからの脱出に成功し、“エーリヒ・ズィーヴェルト”の偽名で地下活動を行っていたが、米陸軍の防諜作戦によって発見され、リューベックで逮捕された。
1949年5月、ニュルンベルク裁判で3年3か月の懲役刑を宣告されている。(戦争犯罪に関しては無罪となった。)
釈放された後、アクスマンはビジネスマンとして成功し、1976年にベルリンに戻り、1996年10月24日に亡くなっている。(享年83歳)

話をボルマンに戻し…1963年、アルベルト・クルムノウと同僚のヴァーゲンプフォールの二人の元郵便局員が、1945年5月8日頃、レーアター駅(現在のベルリン中央駅)近くの鉄道橋の近くで見つかった二遺体を埋葬するようにとソ連軍に命じられたと語った。
一人はドイツ国防軍の制服を着ており、もう一人は下着だけを着ていて、その遺体がSS軍医のゾルトブーフ(俸給手帳)を所持していたころから、シュトゥンプフェッガーSS軍医中佐の遺体と推定された。(享年34歳)
その後、アクスマンや元郵便局員らの証言を基にした場所からの発掘調査では遺体は発見されず、永らくボルマンの海外逃亡説が信じられ、西ドイツ政府も1971年にボルマンの捜索を断念した。
ところが、1972年12月7日、クルムノウが埋葬したと主張した場所からわずか12m程のレーアター駅近くの建設現場で作業員がニ体の人骨を発見した。
剖検の結果、それらがボルマンおよびシュトゥンプフェッガーのものであると確認された。
また、両名の顎の骨格部分にガラス片が検出されたことから、もはや逃げ切れないと覚悟した両名がシアン化物のアンプルを嚙み砕いて自決に至ったものと断定されている。
1998年にドイツ当局によるDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが確定した。
ボルマンの遺灰は、1999年8月16日にバルト海に散骨されている。(享年44歳)

 

この映画には、実在した人物という…ある意味、絶対的な存在感をもつ登場人物たちの多いなか…登場するシーン、セリフこそ少ないが、ペーターと市街戦を共にする…三つ編みのブロンド少女…インゲ・ドンブロフスキ役のエレーナ・ツェレンスカヤ嬢の凛とした美しさが強く印象に残っているという方も少なくないのでは…

 

ベルリン脱出劇

ディートリヒ・ホリンダーボイマー演じるローベルト・リッター・フォン・グライム空軍上級大将(のち空軍元帥)とともに市街戦真っ只中の…総統官邸地下壕のヒトラーを訪ねるべくべルリンに向け飛んで来たハンナ・ライチュ女史はアナ・タールバッハが演じている。

 

 

 

ヒトラーへの背信行為を厳しく糾弾され、その逆鱗に触れたヘルマン・ゲーリングは、1945年4月23日付であらゆる職務・権限を剥奪された。
ヒトラーは、その後任に第6航空艦隊司令官のフォン・グライム空軍上級大将を25日付で空軍元帥に昇進させるとともにドイツ空軍最高司令官に任命した。


当初、グライムはジャイロプレーンでベルリンに向かうはずだったようだが、最後の1機となったジャイロも故障していたため、やむなく、その2日前にもアルベルト・シュペーア(軍需・軍事生産大臣)をベルリンに送り届けたという経験を持つ空軍曹長にパイロットを依頼した。
グライムの友人でもあり、専属パイロットでもあったライチュも強く同行を懇願。
結局、機種は操縦席の後に予備席のある“Fw190(フォッケウルフ)”が選ばれ、ライチュは非常ハッチから機体尾部に潜り込むかたちで搭乗し、26日未明にレヒリン=レルツ飛行場を飛び立った。
機は40機程の護衛をつけて、その時点で唯一独側の手にあったガート飛行場(到着と同時に空襲を受けるが…)まで何とか辿り着いた。
ガートからは“Fi156シュトルヒ(フィーゼラー)”に乗り換え、徒歩で地下壕まで歩ける地点に着陸することになった。
ブランデンブルク門上空にさしかかった時、グライムは右足に被弾し重傷を負う。
ライチュは肩越しから操縦桿を握り、何とか幹線道路に機を着陸させた。
着陸地点には重砲、軽火器の弾が降り注ぎ…その中を負傷したグライムに肩を貸しながらただひたすらに走った。
通りかかった車に飛び乗り、地下壕に命からがら辿り着いたのは午後6時を回っていたという。
ライチュによると“30日午後1時30分”…地下壕でヒトラーと運命を共にしたいと申し出た二人に対し、エルベ川東岸に布陣するヴァルター・ヴェンク陸軍装甲兵科大将率いる第12軍の進軍を、ドイツ空軍の全戦力をあげて援護せよ!という総統命令を伝えるため地下壕からの脱出を言い渡される。
ブランデンブルク門付近に隠されていた“アラド96型”(ベルリンに残された最後の1機だったとライチュは主張…)で門から続く幅の広い道路を滑走路代わりにして、機は砲弾の降り注ぐなか北に進路を取りレヒリンに向かった。
レヒリンでも砲撃は受けたものの、二人は何とか無事に帰着することが出来たのである。
(※レヒリン=レルツ飛行場には、ドイツ空軍の実験試験施設…空軍実験センターがあり、当時、同様の施設はドイツ国内に4ヶ所あり、レヒリンにはその本部が置かれていた。)

 

ベルリンから脱出した後、グライムとライチュは、オーストリア/チロル州の都市であるキッツビューエルにおいて5月8日に米軍に逮捕されている。
グライムは、移送されたザルツブルクの刑務所に収監中の5月24日、隠し持っていたシアン化物(地下壕にてヒトラーから貰った物)により自殺している。(享年52歳)

ライチュは、15ヶ月間の拘留の末に釈放され、戦後も飛行家としてぶれることなく精力的に活動している。
ライチュの家族には悲しいエピソードも伝わっている。
ソ連軍の侵攻に先立ち、ポーランド南西部の下シレジア地方の都市であるヒルシュベルク(Hirschberg=イェレニャ・グラ(Jelenia Góra))からザルツブルクに避難したライチュの家族は、ドイツの降伏後は、ソ連占領地域に連れ戻され過酷な難民生活を強いられるとの噂を聞き、1945年5月3日の夜、ライチュの父親は、母親と妹…妹の3人の子供たちを射殺してから自殺している。
生涯独身を貫いたライチュは、心臓発作により1979年8月24日にフランクフルトで亡くなっている。(享年67歳)