1945年3月7日午後4時過ぎ、トンネル内のシェラーは、ティマーマンのA中隊が渡橋したのを確認し、ブラトゲに反撃を開始する突撃部隊の編成を訓令したが、既にトンネル内の軍規は失われ、士気は落ち、その混乱のなかから秩序を回復することはもはや難しかった。
午後4時20分頃、この時点で橋梁地区と第67軍団司令部を結ぶ有線はおろか無線も妨害・故障などにより遮断されていたため、シェラーは何とかトンネルを抜け出し、直に第67軍団司令部のあるクルトシャイトに向かい“爆破失敗”の報告をする外ないと判断した。
午後5時前後頃、トンネルの入り口からはもはや脱出は難しく、トンネル奥の換気用シャフト(縦坑)を出て岩山の急斜面づたいの裏道を這うようにして脱出したとされている。
戦後、シェラーがクルトシャイトの司令部に現れた際の様子についてヒッツフェルトは「彼が司令部に現れたのは、あの日(7日)の夜遅くであった。彼は泥まみれで、疲れ果てていた。彼は自転車を使って、混沌とした山道を抜けて司令部に辿り着いたのだ」と述べているように、自転車を何とか調達し…悪路に車輪をとられ、何度も転倒しながら…時には…いや、ほとんどかもしないが…押して…
シェラーの軍団司令部への到着もしくは報告が受理された時刻に関する言及はないが、おそらく午後11時過ぎ頃だったのではないかと思われる。
シェラー自身、この日の未明から午前中にかけて這う這うの体でやっとのことで辿り着いた道程を、また引き返しているわけで…。
退却・増援部隊の混在による交通渋滞や燃料切れの車輛の放置、砲撃による幾多の道路寸断で“交通の飽和”状態と化した山道を車は勿論、ましてや徒歩で戻るよりも、この時点で最速で司令部へ向かう“最善の手段”として自転車を選んだのであろう。
因みに、Googleマップによれば、東岸トンネル付近からクルトシャイトまでは…車で約30㎞の道程を40分程、徒歩ならば約23∼24㎞の道程に5時間半~6時間程を要し、自転車ならば約32∼34㎞の道程に2時間20分程の行程とされるが、これはあくまでも現在の整った道路状況下における概算である。
ヒッツフェルトは、このシェラーの一連の行動を高く評価し、「君は最善を尽くした、今は休め」と、司令部内での休息を促してまでいる。
●Standgericht von Remagen (レマゲン軍法会議)
だが、この“爆破失敗”の報は、これよりはるか以前にB軍集団司令部に伝わり、ベルリン…さらにヒトラーの知るところとなっていた。
9日、総統命令(Führerbefehl)により、政治(ナチス党)色の強いとされるルドルフ・ヒューブナー陸軍中将に「(※)飛行裁判(Fliegendes Standgericht)による非常軍法会議(Standgericht)の即時設置」が下達され、急ぎベルリンに出向くよう命じられた。(※“飛行”は「(空を飛ぶが如く)機動的に移動=即時に設置される」という意味)
そして、同日付で騎士鉄十字章も授与するという何とも厚待遇な人事だったのである。
10日付で…“特別全権将校”である西部飛行軍法会議司令官(Kommandeur des Fliegenden Standgerichts West)に任官したヒューブナーは、ヒトラーに謁見。
おそらくは、前日付けで受章した騎士鉄十字章も、総統直々に授与されたのではないだろうか…
11日夕方にB軍集団の司令部が置かれていたリムバッハ(Rimbach)の“リンデ亭(Gasthaus Zur Linde(※“菩提樹”の意))”に到着…と同時に、アントン・エルンスペルガー陸軍中佐、パウル・ペント予備役陸軍中佐ら二名の陪席裁判官とともに、先ずは被告人の選定および起訴理由の検討に着手した。
そして、白羽の矢が立てられたシェラーら関係将校に出頭を命じた。
但し、いずれも法学的資格および経験を有してはいなかったが、この“ヒトラーの法廷”は、裁判機関としては特異なものであり、法学的無知者による編組など問題ではなかった。
ただモーデルは、法律上の諸問題解決のためのサポート役として、B軍集団司令部附法務官(Justizoffizier beim Stab der Heeresgruppe B)のフェリックス・ヤナート陸軍大佐の陪席を要求した。
ヤナートは、法的根拠に基づいた軍事裁判規則および軍事犯罪手続に関する戦時規則の適用を提案したが、「“総統の命令だけが特別軍事会議の絶対的指針”であり、当軍法会議は軍事犯罪手続に関する戦時規則によって少しの制限も受けることはない」として却下された。
また、起訴された者に対して弁護人を提供すべきという提案も一蹴された。
しかも、この法廷は独自の死刑執行分隊を持っており、これらはワンセットで“飛行”した。
13日午前11時、ビルンバッハ(Birnbach)の地元住民が営むガストホフ(Gasthof:宿屋兼レストラン)の広間で軍法会議が開廷した。
そして、まず米軍の捕虜となっていたため欠席裁判となったブラトゲの訴訟事実の審理に入った。
ブラトゲは橋の責任ある戦闘指揮官であったにもかかわらず、フリーゼンハーンの再三の要請にもかかわらず、適時に爆破命令を与えず、故意に下達を遅らしめた廉で起訴された。
さらに、敵の渡橋に対して、出来る限り激しく抗戦すべきであり、それはできたはずなのに、それをせず、トンネル内に撤退し、その後も逆襲はおろか、抵抗もせずに降伏させた廉でも起訴された。
これらの起訴は迅速に処理され、軍法会議は、法律顧問のヤナートの意見にもかかわらず、ブラトゲ不在のまま死刑に処すべきことを多数決で結審した。
ヤナートは、ブラトゲが自身の弁護も出来ない状態で死刑を宣告することは合法ではないと言う意見を注意深く表明したが、他の判事たちはこの議論を無視した。
ヤナートも、死刑が宣告されたとしても実施する事は実質的に不可能であり、これ以上の議論は無駄てあるとして不問に付した。
そして、このブラトゲへの“死刑宣告”は、レマゲン事件の事の重大さに関し、深く印象付けるためのプロパガンダ的な判決であるということを改めて認識した。
続いて、ヒューブナーはシェラーを入廷させた。
そして、テーブルの上の書類には目もくれず、シェラーに対し非難の罵声を浴びせた。
訴訟事実としては、ブラトゲと差して変わりはない…というより、変わりようはないが、被告を目の前にし、ヒューブナーの罵声に、益々どぎまぎして弱々しく早口で喋りだすシェラーを見て、短気なヒューブナーの痛罵は益々激しさを増した。
シェラーの印象をさらに悪くしたのは、連絡手段のないなかで…“指揮官としての報告義務、もしくは援助(増援)を求めるために、やむを得ず司令部に向った”点は、ヒューブナーの目には不注意かつ卑怯な“指揮権を放棄しての敵前逃亡”としか映らなかった。
レマゲンへの派遣に際しても、混乱のなか何の基礎的指導もなく、また橋に到着してから僅か数時間の任期であり、指揮系統および橋の爆破に関する技術的なことを含めた一切に関し把握できていなかったこと、そして何より橋を奪還するに足る兵力が全く無かったことに関してのシェラーの弁明は、これら諸点のどれ一つとして三人の判事たちの印象に残らなかった。
ヤナートは、シェラーのレマゲンにおける役割は漠然としており、確かに明白な事柄のいくつかを疎かにしてはいるが、課せられた任務をこなせる状況下にあったとは言い難く、過失は犯したものの、死刑を宣告するには不十分であるとしたが、法廷の方向性は当初から明白であり、何の効果も与えられず、ヒューブナーはシェラーに死刑宣告を言い渡した。
ヒューブナーは間髪を入れず、ペータースの入廷を命じた。
三人の裁判官にとり、ペータースの訴訟事実は一層決まりきったものであり、審理に大した時間を潰すものではないと思っていた。
独空軍(LW)の“秘密兵器運用”における一般規定では、これらを「敵に捕獲されてはならない」、そして「退避不可の場合は退却時に破壊する」旨が厳命されていた。
ペータースは、この運用規定に抵触しているとする“秘密保持義務違反”…“秘密の対空兵器”を放置(破壊の不履行)し、むざむざ敵の手に渡たしてしまったという罪状が付加されている。
因みに、米軍側の資料などから、東岸側で鹵獲された“使用可能な状態のフェーン”の数は「(固定型)4基」とされており、西岸側での鹵獲は記録されていない。
米軍接近の報を受け、ペータースは「(発射機は)コブレンツへ移動せよ」との命令を受けたとして対岸(東岸側)への移動を命じ…
シェラーに移動完了までの間、橋爆破の猶予を申し出たとの話もある。
このことから、西岸側にあった“可動型2基”を含めた“可動型全4基”は、おそらくコブレンツへそのまま送られたものと推定できる。
但し、残り“固定型10基”に関しては、エルペラー・レイをめぐる米軍による激しい攻撃に晒され…6基は破壊もしくは使用不可な状態になったものの、敷板にビス留めされた“固定型”は移動させることができず、結局は放置せざるを得なかったものと思われる。
ペータースは、もし万一可能ならば、これら貴重な兵器は一基でも多く残したいとの思いもあり、「運搬できない場合に限り破壊せよ」との命令を下達するのが遅れた。
しかも、混乱のなかで明確に破壊が完了したのかを確認をせぬまま、結局はコブレンツに後退してしまった。
ペータースには、もはやこの事柄を説明したり、弁明する機会は与えられず、ヒューブナーに「臆病のために反逆罪を犯し、それは銃殺刑に価する」と厳しく弾糾され、「はい」と答える他なかった。
小刻みに震えるペータースは、口も利けず、腕を支えられながら、よろよろと出口の方に歩いていった。
後年、陪席裁判官のペントによれば、この裁判はほんの2,3分とかからなかったと語っており、この日の裁判は午前11時45分には全員への判決…“死刑”言い渡しが完了し終了している。
シェラーとペータースは裁判終了後、ガストホフ近くの一般家庭に連行され、家族たちに手紙を書くための30分程の猶予が与えられた。
だが、実際にその手紙が家族の元に届くことはなく、そのあとすぐに焼却されたとされている。
その後、後ろ手に手錠を掛けられた状態で、700m程離れた処刑場所まで憲兵らに挟まれて徒歩で連行され、そこに掘られた浅い穴の前に目隠しをされ立たされた二人は、銃殺隊の一斉掃射により絶命した。
その最後の時間に際し、従軍牧師(Kriegspfarrer)による礼拝すら与えられず、その遺体も軍人としての礼遇も受けることなく、そのまま穴に投げ込まれ、土を僅かに被せただけだったとのことである。
二人の処刑執行は午後1時過ぎには完了…裁判開始から判決、連行、そして銃殺完了まで僅か2時間以内に完結されるという異常な速さの流れとなっている。
処刑場所は、ビルンバッハからキルヒ通り(Kirchstraße)を抜け、ケルナー通り(Kölnerstraße:連邦道路B8号線)を北西に進むと、右にリンバッハへと続くL277号線との分岐点があり、それを更に200m程進んだ少し先を左に入った森の入り口付近…当時は砂利採取場(Kiesgrube)の窪地があった場所とされている。
現在は木々も伐採されていて、見通しの良い草地(耕作地)のようになっているようだが、嘗ては“ラウシェンシュタイナー・ヴァルト(Rauschensteiner Wald)”と呼ばれた深い森に包まれていた。
明日(14日)の司令部への出頭を控え、シュトローベルとクラフトは3月13日の午後8時過ぎ頃から同村内(リムバッハ)の農夫(ハインリッヒ・シュミット)宅の一室に軟禁されている。
その夜、二人は家の主人らと数時間程歓談をし、夫人の供応する珈琲と食事を楽しんだとのことである。
この時点では、二人とも…まさか自分たちが極刑に処されようとは思ってもいなかった。
2日目のタイムテーブルに関する詳細はほとんどなく、あくまでも推測ではあるが…おそらく、この日はリムバッハのB軍集団司令部が置かれていたリンデ亭の一室で、午前9時頃から裁判は開廷したものと考える。
シュトローベルが入廷がするや否や、ヒューブナーは怒号を浴びせるように叱責したとのことである。
ヒューブナーは「7日の夜になってもなぜ指揮所に留まり、橋に出向かなかったのか?」「橋を爆破するための逆襲を開始しようとしたのならば、どうしてそれが成功しなかったのか?」「なぜ翌日にもっと断固たる逆襲に打って出なかったのか?」などの詰問をシュトローベルに投げかけた。
実際、コブレンツにいたシュトローベルが初めて橋が占領されたことを知ったのは、既に7日の午後9時頃となっていたのである。
この遅延は、橋梁地区からの電話線及び無線通信の寸断に加え、レマゲンからの伝令数名が途中で殺害されたことにある。
結局、レマゲンからの情報の入手は一般市民もしくは何とか逃げ延びることのできた敗走兵からの聞き伝に頼る外なかったのが実情である。
シュトローベルはクラフトに連絡を取り、クラフトもまた反攻および橋の爆破が急務であることには同意したが、手許には20名程の兵しかおらず、増援も期待できなかった。
7日夜~8日未明には、危険を冒し、夜陰に乗じて橋梁破壊工作も試みたが失敗し、米軍により捕縛されている。
その後も組織的反攻を試みようにも、作戦を成功させ得るに足る必用最低限の兵力すらなく、成す術はなかった。
この弁明に対しヒューブナーら三人は冷笑と嘲りで対応した。
シュトローベルはもはや何を言っても無駄であることを悟り、諦めて運命に従った。
後年、ゲルハルト・フォン・シュヴェリーン(元)陸軍装甲兵科大将は、この時のシュトローベルの対応に関する裁判と科せられた宣告の状況を調査し、コブレンツの裁判所に対して以下のような意見書を提出している。
「シュトローベル少佐が自ら橋へ行かなかったということを責めるとはできない。3月7日夜、彼とその幕僚は、部隊を集結し、逆襲を開始するという非常に差し迫った任務があった。3月8日の午前中、彼の時間は非常に混乱した状況の中で矛盾し、ある場合には全く実行できない命令に対して自分を守る努力によって塞がれてしまった。シュトローベル少佐は工兵指揮官であり、敵軍の猛追劇中の面前で全軍をライン川を渡河させる作戦に責任があった。彼がここで達成せねばならなかった任務の方に、彼が橋にいなければならなかった必要条件よりも、確かにもっと重要性が付与されていたに違いない。橋においては、事実上、彼はどのみち情勢を変えることはできなかったのである。概して、彼は満足のいくほど積極的ではなかったという可能性はある。しかしながら、このことは彼に死刑の宣告を科すること、そして即座に形を執行したことを正当化するものではなかったはずだ。死刑の刑罰に値する犯罪は、もしシュトローベル少佐が犯罪の企図を持って彼の使用できた部隊を引き止めたか、あるいは命令の実行を拒絶したことが明白だった場合だけだろう。これらの二つの状況は何れも存在しなかったのだ。」
最後に入廷を命じられたクラフトは、物静かで慎み深く、愚直なくらい何事にも誠実に向き合い、また部下たちの誤りも彼自らが責任を取るような人物だったと言われており、ヒューブナーらによる起訴内容に関し、おそらく自身の忠誠に対する重大なる侮辱と捉えたのであろう…
また、自身に対する有効な弁明など、この裁判において到底でき得るものではないと悟り、自身の行動を正当化することなどは殆ど試みず、それらに対し一切答弁しなかった。
クラフトが執った行動は、ただ一つ…
米軍の捕虜となっていた…部下のフリーゼンハーンに対する嘆願だけであった。
このクラフトの陳述は、フリーゼンハーン“無罪”の大きな一助となった。
クラフトの口から有罪であることを認めさせ、裁判を早々に終わらせたいヒューブナーらの意図は明らかだったが、ヒューブナーが大声で怒鳴れば怒鳴る程、クラフトは益々無口になっていったものの、最後に自身の口から“有罪”を認める、その時まで…クラフトは終始、自身の威厳を保ち続けた。
シュトローベルとクラフトも、裁判が終了すると直ちに、前日同様に銃殺刑が執行されている。
処刑場所に関しては、“オーバーイルゼン近郊(北側?)の森”という漠然とした記録しかないが、前日の行動様式を踏まえると上の地図に示した辺りではないかと想像する。
その後、二組四人の遺体は、不憫に思った各地元住民たちにより、キリスト教のしきたりに則り仮埋葬が為されていた。
戦後、正式な埋葬が行われることが許可され、住民たちの証言によって四名の遺骸は取り違えられることなく、ビルンバッハ墓地(Friedhof Birnbach:戦没者区画)に改葬されており、“レマゲンの将校たちの墓”として地元でも知られているとのことである。
石造りの十字架には、(主に)1945年3月以降の戦闘や空襲で亡くなった兵士や民間人など計52名の名前と日付が刻まれ、この地に埋葬されている。

同墓地内には、ルーデンドルフ橋の破片から作られた「四将校の追悼碑」も設置されている。
1987年年10月31日、オーバーイルゼンにも追悼碑が建立されている。

つまるところ、この裁判はヒトラーの怒りを如何にすれば収められるかが大前提であり、処罰の対象として最も見合った人物に罪を負わせるだけの、あくまでも形式的な、結果(死刑)ありきの“見せしめの即決裁判”であり、四人の将校たちは、この何とも陳腐な茶番の血祭りとされたのである。
ヨハネス・シェラー陸軍少佐(享年31歳)
カール・ハインツ・ペータース空軍中尉(享年29歳)
ヘルベルト・シュトローベル陸軍少佐(年齢不明)
アウグスト・クラフト陸軍少佐(享年53歳)
この不当と言っても過言ではない判決は、戦後も法的に見直されることなく放置されていたが、リゼル・シェラーは夫の処刑から22年後に再審を申し立て、1967年2月2日にバイエルン州ランツフート地方裁判所(Landgericht Landshut)は、シェラーに対する死刑判決を正式に取り消し、遺族への扶助金支給も認めた。
この件に限らず、第三帝国末期に各戦域で行われた飛行裁判全体を見渡しても、戦後司法による再評価として公式に確認できる唯一の例である。
ライン川を難攻不落の“天然の防壁”と信じ、敵にその西の境界(Westgrenze)を越えさせなければ、まだ勝機はあるという希望的観測…幻想を抱いていた独軍首脳部…殊にヒトラーにとって、(ほぼ)無傷で橋を失陥されたという事実は、軍内部は勿論、国民に対しても、不信感と混乱をさらに加速させ得る由々しき事態だった。
とはいうものの、第二次世界大戦終盤の一局地戦に過ぎなかった…それも単なる鉄橋をめぐる攻防など、多くの局地的戦闘と同様に歴史の渦の中に埋もれてしまってもおかしくはなかった。
それを一躍、歴史的戦史へと押し上げ…さらには、その橋の名を深く印象付けさせ得たのが、1969年公開の映画『レマゲン鉄橋』である。
史実の再現性という点では、こうした戦争スペクタクル(娯楽)映画ではありがちな脚色がだいぶ加えられてはいるものの…コアな戦争映画ファンやミリタリーファンなどから今尚高い評価を受ける知る人ぞ知る佳作的戦争映画といえる。
『レマゲン鉄橋(原題:The Bridge at Remagen)』(1969年)
作家にしてアメリカ合衆国下院議員でもあったケン・ヘクラー著の…多々フィクションは満載ではあるが…ノンフィクション小説『The Bridge at Remagen(邦題:レイマーゲン鉄橋―ライン河渡橋作戦)』(1957年刊)を基に…
以前に『エースをねらえ!『至高の青』編』でも紹介させていただいた『The Blue Max (ブルー・マックス)』 (1966年) や、ヒット作となった『タワーリング・インフェルノ (The Towering Inferno)』(1974年)、『ナイル殺人事件 (Death on the Nile)』(1978年)、また『キングコング (King Kong)』(1976年)、『キングコング2 (King Kong Lives)』(1986年)などでもメガフォンを取ったイギリスの映画監督・脚本家・プロデューサーのジョン・ギラーミンが監督を務めている。
第二次世界大戦末期の1945年3月、敗走するドイツ軍を追い詰める連合軍。
75,000人のドイツ軍将兵がライン川を渡河して撤退するために唯一残されているのは、もはや“レマゲン鉄橋”のみ!
アメリカ軍は、この橋を無傷で確保しようと進軍し…ドイツ軍は、ギリギリまで何とか橋を保持しつつ、敵の目前での爆破を試みる。
戦況が刻々と変化するなか、両軍の指揮官たちの葛藤と兵士たちの運命が交錯し、橋をめぐって熾烈な攻防が展開される。
この映画は、米軍側の視点を軸に物語が進行・展開していくということもあり、中心的に描かれているのは…当然、米軍側のフィル・ハートマン中尉を演じる主演のジョージ・シーガルはじめ、アンジェロ軍曹役のベン・ギャザラ、バーンズ少佐役のブラッドフォード・ディルマン、シンナー准将役のE・G・マーシャルあたりなのであろうが…
当方が独軍贔屓ということを差し引いても、対峙する独軍側の…特に、この映画の重要な役どころを担い、好敵手として『バルジ大作戦』のへスラー大佐と同様に主役を喰うかたちで魅力的に描かれているのが、Ray-Ban(レイバン)の“アビエーター”と思しきティアドロップ型のサングラスを愛用する、ニヒルな二枚目の…パウル・クリューガー少佐を演じるロバート・ヴォーンである!
このクリューガー少佐は、ハンス・シェラー陸軍少佐をモデルとしていることは、改めて言うまでもない。
フォン・ブロック上級大将役はペーター・ファン・アイクが演じている。
私の友人は、酒宴の際…程よく酔いが回り…
話題のなかにこの映画の話が出るたびに、冒頭シーンの一場面を、“アテレコ俳優”の声色、口調を真似て諳んじていた…(^ ^;
かつてTBS系列で放送されていた『月曜ロードショー』(1969年10月6日~1987年9月21日)で、この映画の吹き替え版が放送された際のフォン・ブロック将軍役の藤岡重慶を真似るのであるが、それが何度聞いても面白かった。
藤岡といえば、声優というより…勿論れっきとした俳優であり、数多くのテレビ、映画などに出演されているのだが…
やはり、テレビアニメ版『あしたのジョー』 のなかでの「立て~!立つんだジョー!」という有名な台詞でお馴染みの、あの特徴的な声と台詞回しの丹下段平役の印象の方が強かったりもする。
勿論、その友人も…「55,000の将兵が、ライン川の対岸に残されることになりますぞ」というフォン・ブロック将軍の台詞を…かなり丹下段平に寄せた藤岡節で、毎回楽しませてくれたのである。
因みに、Blu-ray盤には1974年10月7日放送のTBS系『月曜ロードショー』版と、1981年12月1日放送の東京12チャンネル(現:テレビ東京)『火曜特別ロードショー』版の二通りの吹き替え音声が収録されており、それぞれ違ったアテレコ俳優さんたちの懐かしい音声、そして所々台詞も変えられているので、字幕版で見るのとはまた違った楽しみ方ができるものと思う。
このシーンのアテレコ俳優に限っていえば…
『月曜ロードショー』版がフォン・ブロック将軍:藤岡重慶、フォン・スターマー元帥:寺島幹夫
『火曜特別ロードショー』版がフォン・ブロック将軍:池田 勝、フォン・スターマー元帥:宮川洋一
私が子供の頃は、BSはおろか、ネットでの配信などなかったが、吹き替え版の洋画やTV番組が毎日のように、地上波のどこかのチャンネルで放送されていた。
だから、そこで聞き慣れていたアテレコ俳優たちの“声”が当たり前のように脳裏に刷り込まれ…後年になって字幕版でご本人の地声を聞いても、逆にしっくりこないことがほとんどだった。
例えば、有名どころのアテレコ俳優といえば…
ショーン・コネリーなら若山弦蔵、クリント・イーストウッドなら山田康雄、スティーブ・マックイーンなら宮部昭夫、チャールズ・ブロンソンなら内海賢二、ピーター・フォークなら小池朝雄、デヴィッド・スーシェなら熊倉一雄、そしてロバート・ボーンならば…私的には幼い頃に見ていた『0011ナポレオン・ソロ』で聞き慣れていた矢島正明と…いきたいところだったのだが、この映画では矢島に次いでボーンの声を担当する機会の多かった西沢利明が『月曜』版、そして川津祐介が『火曜』版でそれぞれクリューガー少佐役の“声”を演じている。
※劇中の台詞にある“75,000”や“55,000”といった数字は、史実に基づいたものではない。
1945年3月時点でライン以西に展開していた全独軍兵数(兵“力”ではない)は、25万〜30万名程と推定される。
そのうち、レマゲン鉄橋を渡って東岸に逃れ得る位置にいた兵数は、最大でも1万〜1万5千名程度であったと考えられる。
したがって、“対岸”をレマゲン鉄橋周辺の限定的戦区と解釈するのであれば、“55,000”や“75,000”という数字は誇張と言わざるを得ないものの、“ライン以西の全独軍”という広い意味での解釈ならば、これはむしろ控えめ目な数字ということにもなる。
クリューガー少佐の片腕となる役どころのカール・シュミット大尉役は、『史上最大の作戦(原題:The Longest Day)』(1962年)、『バルジ大作戦(原題:Battle of the Bulge)』(1965年)にも出演しているハンス・クリスチャン・ブレヒが好演している。
軍人になる以前は地元の学校の教諭だったという設定であり、また軍装的にも歩兵科の将校であり、ヴィリー・ブラトゲ陸軍大尉をモデルとしているものと思われるが、風防的にはベテラン将校であるフリーゼンハーンのイメージと掛け合わせて造り出されたキャラクターともいえる。
冒頭のシーンにほんの少し登場するだけではあるが、その軍服姿が如何にも将官然として“様”になっているリヒャルト・ミュンヒ演じるフォン・スターマー元帥は、当方的には結構お気に入りだったりもする。
アテレコ俳優に関していうと、『火曜特別ロードショー』版では、宮川洋一がシュミット大尉と、このスターマーを兼役している。
スターマーは、特に特定の人物をモデルとしたというクレジットはないが…“元帥”ということであれば、上々部組織…B軍集団司令官であるモーデル陸軍元帥あたりに相当するものとも思われるが…
ミュンヒの大柄で、如何にもといったその風格的な印象からは、エルンスト・ブッシュ陸軍元帥と言われた方が当方的にはしっくりとくるのだが…
ヨアヒム・ハンセン演じるオットー・バウマン大尉は、工兵部隊の指揮官という役どころ的にはカール・フリーゼンハーン陸軍大尉を正にモデルにしているが、実際のフリーゼンハーンに関しては、既記の如く、レマゲン当時は既に50歳となっており、見た目的にはバウマン大尉の方がブラトゲ大尉といってもおかしくはない感じなのである。
劇中、クリューガー少佐が、着任直後に守備状況を視察する際のほんの数十秒ほどのシーンに登場する、この無名俳優が演じている高射砲(Flak:Fliegerabwehrkanone)陣地の指揮官(空軍少尉)は、カール・ハインツ・ペータース空軍中尉をはじめ、レマゲンの東西に展開していた高射砲部隊の指揮官を一つに凝縮させた形となっている。
クリューガー少佐の最期のシーンは…
銃殺刑のため、司令部の庭先に引き出されたクリューガーは、煙草を一服吸いながら…
ふっと、彼方から聞こえてきた編隊を組んだ機影のプロペラ音に耳を澄まし、その方角を見上げる。
そして、「味方か?」と、銃殺隊指揮官のSS中尉に話しかける。
指揮官は「敵機です」と返答した。
クリューガーは「誰が敵なんだ」と言い放つ。
そして銃声が轟き、クリューガーは崩れ落ちる。
クリューガー少佐が最後に戦わなければならなかったのは、敵(米軍)ではなく、紛れもなく味方だった。
ある意味、映画本編以上に強く印象に残るのが、映画音楽…とりわけ“メインテーマ”と言っても過言ではない。
最近は、有名アーティストによる主題歌…ヴォーカル曲とのコラボレーションが主流となり、物語(ストーリー)に即した作品として提供されている分、当然その歌詞の内容も込みで聴くこととなる。
かつてのような純粋な“インストゥルメンタルのメインテーマ”は、歌詞の無い分、その“余白”が、かえって映画そのものの記憶を感覚的に深く印象付ける一助となってくれていたようにも思われる。
だが、’80年代頃からだろうか…“メインテーマ”としては、あまり使われなくなっているようにも思う。
そのイントロ…このフレーズ…それらを聴くと、あの映画が思い起こされる!と言った“ インストゥルメンタルのメインテーマ”というものが以前はたくさんあった。
私のなかでの、まさにその一曲が、エルマー・バーンスタインが映画『レマゲン鉄橋』のために書き下ろしたこのメインテーマである。
戦争映画としての重厚で勇壮なマーチ感を基調としながらも、どこか物悲しくも美しい旋律が、ふとした瞬間に脳裏をよぎり、アタマのなかでリフレインするのである。
『大脱走』や『荒野の七人』なども手掛けたバーンスタインの産み出すフレーズは、その全編までは思い出せなくとも、深く脳裏に…ココロに…強く残っている。
バーンスタインは、そんな“忘れられないフレーズ”を生み出すのに長けた作曲家であった。
レマゲンの橋自体が、崩落後に再架橋とはならかったので…勿論、撮影のロケ地としては使えず…
候補地を選定していくなかで、チェコスロバキア(当時)のヴルタヴァ川(または、独語読みのモルダウ川)に架かるダヴレ(Davle)の古い橋がレマゲン鉄橋に雰囲気が似ていたため、政府機関の全面協力のもと、この地での大規模なロケが行われた。
当時のチェコスロバキアは、“プラハの春”と呼ばれた自由改革路線が推進されていた。
撮影が既に2/3程進んでいた1968年8月20日午後11時。
そうした急速な自由化の波を危惧し…改革の阻止・鎮圧するため、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍による、作戦名「ドナウ作戦(Операция «Дунай»)」と名付けられたチェコスロヴァキアへの軍事侵攻が開始された。
翌朝、ジョージ・シーガルやロバート・ヴォーンら俳優陣、そしてスタッフたちが目を覚ますと、宿泊先となっていたプラハのホテル周辺は既にソ連軍の戦車に包囲されている状況だった。
情報が錯綜するなか、撮影のために持ち込まれていた軍装、装備、そしてアメリカ製戦車などを見たソ連軍は“アメリカ軍がチェコを支援するために送り込んだ実戦部隊ではないか”と本気で疑い、スパイの嫌疑までかけられる事態となっていた。
状況を重く見た制作陣は、即座に撮影を中止。
スタッフとキャスト約80名は、28台のタクシーに分乗し、ソ連軍の検問をかいくぐり、オーストリアのウィーンへと映画さながらの脱出劇をしている。
この際、約100万ドル相当の機材や、未現像のフィルム、さらには撮影用の戦車8輛までもが現地に置き去りにされた。
その後、イタリアのカステル・ガンドルフォに橋の半分サイズのレプリカを建設し撮影を再開。
西ドイツ(当時)のハンブルクやオーストリアなどでも撮影が行われ、なんとか完成にこぎつけている。
本編に漂う、どこか殺伐とした“戦争の虚無感”は、こうした本当の軍事侵攻に直面した制作現場の緊張感が少なからず反映されたことによる功罪と言えなくもない。







































































































