S A L O N

1945年3月7日午後4時過ぎ、トンネル内のシェラーは、ティマーマンのA中隊が渡橋したのを確認し、ブラトゲに反撃を開始する突撃部隊の編成を訓令したが、既にトンネル内の軍規は失われ、士気は落ち、その混乱のなかから秩序を回復することはもはや難しかった。
午後4時20分頃、この時点で橋梁地区と第67軍団司令部を結ぶ有線はおろか無線も妨害・故障などにより遮断されていたため、シェラーは何とかトンネルを抜け出し、直に第67軍団司令部のあるクルトシャイトに向かい“爆破失敗”の報告をする外ないと判断した。
午後5時前後頃、トンネルの入り口からはもはや脱出は難しく、トンネル奥の換気用シャフト(縦坑)を出て岩山の急斜面づたいの裏道を這うようにして脱出したとされている。
戦後、シェラーがクルトシャイトの司令部に現れた際の様子についてヒッツフェルトは「彼が司令部に現れたのは、あの日(7日)の夜遅くであった。彼は泥まみれで、疲れ果てていた。彼は自転車を使って、混沌とした山道を抜けて司令部に辿り着いたのだ」と述べているように、自転車を何とか調達し…悪路に車輪をとられ、何度も転倒しながら…時には…いや、ほとんどかもしないが…押して…
シェラーの軍団司令部への到着もしくは報告が受理された時刻に関する言及はないが、おそらく午後11時過ぎ頃だったのではないかと思われる。
シェラー自身、この日の未明から午前中にかけて這う這うの体でやっとのことで辿り着いた道程を、また引き返しているわけで…。
退却・増援部隊の混在による交通渋滞や燃料切れの車輛の放置、砲撃による幾多の道路寸断で“交通の飽和”状態と化した山道を車は勿論、ましてや徒歩で戻るよりも、この時点で最速で司令部へ向かう“最善の手段”として自転車を選んだのであろう。
因みに、Googleマップによれば、東岸トンネル付近からクルトシャイトまでは…車で約30㎞の道程を40分程、徒歩ならば約23∼24㎞の道程に5時間半~6時間程を要し、自転車ならば約32∼34㎞の道程に2時間20分程の行程とされるが、これはあくまでも現在の整った道路状況下における概算である。

ヒッツフェルトは、このシェラーの一連の行動を高く評価し、「君は最善を尽くした、今は休め」と、司令部内での休息を促してまでいる。

 

 

Standgericht von Remagen (レマゲン軍法会議) 


だが、この“爆破失敗”の報は、これよりはるか以前にB軍集団司令部に伝わり、ベルリン…さらにヒトラーの知るところとなっていた。

9日、総統命令(Führerbefehl)により、政治(ナチス党)色の強いとされるルドルフ・ヒューブナー陸軍中将に「(※)飛行裁判(Fliegendes Standgericht)による非常軍法会議(Standgericht)の即時設置」が下達され、急ぎベルリンに出向くよう命じられた。(※“飛行”は「(空を飛ぶが如く)機動的に移動=即時に設置される」という意味)

そして、同日付で騎士鉄十字章も授与するという何とも厚待遇な人事だったのである。

10日付で…“特別全権将校”である西部飛行軍法会議司令官(Kommandeur des Fliegenden Standgerichts West)に任官したヒューブナーは、ヒトラーに謁見。

おそらくは、前日付けで受章した騎士鉄十字章も、総統直々に授与されたのではないだろうか…

11日夕方にB軍集団の司令部が置かれていたリムバッハ(Rimbach)の“リンデ亭(Gasthaus Zur Linde(※“菩提樹”の意))”に到着…と同時に、アントン・エルンスペルガー陸軍中佐、パウル・ペント予備役陸軍中佐ら二名の陪席裁判官とともに、先ずは被告人の選定および起訴理由の検討に着手した。
そして、白羽の矢が立てられたシェラーら関係将校に出頭を命じた。

但し、いずれも法学的資格および経験を有してはいなかったが、この“ヒトラーの法廷”は、裁判機関としては特異なものであり、法学的無知者による編組など問題ではなかった。
ただモーデルは、法律上の諸問題解決のためのサポート役として、B軍集団司令部附法務官(Justizoffizier beim Stab der Heeresgruppe B)のフェリックス・ヤナート陸軍大佐の陪席を要求した。
ヤナートは、法的根拠に基づいた軍事裁判規則および軍事犯罪手続に関する戦時規則の適用を提案したが、「“総統の命令だけが特別軍事会議の絶対的指針”であり、当軍法会議は軍事犯罪手続に関する戦時規則によって少しの制限も受けることはない」として却下された。
また、起訴された者に対して弁護人を提供すべきという提案も一蹴された。
しかも、この法廷は独自の死刑執行分隊を持っており、これらはワンセットで“飛行”した。

 

13日午前11時、ビルンバッハ(Birnbach)の地元住民が営むガストホフ(Gasthof:宿屋兼レストラン)の広間で軍法会議が開廷した。
そして、まず米軍の捕虜となっていたため欠席裁判となったブラトゲの訴訟事実の審理に入った。
ブラトゲは橋の責任ある戦闘指揮官であったにもかかわらず、フリーゼンハーンの再三の要請にもかかわらず、適時に爆破命令を与えず、故意に下達を遅らしめた廉で起訴された。
さらに、敵の渡橋に対して、出来る限り激しく抗戦すべきであり、それはできたはずなのに、それをせず、トンネル内に撤退し、その後も逆襲はおろか、抵抗もせずに降伏させた廉でも起訴された。
これらの起訴は迅速に処理され、軍法会議は、法律顧問のヤナートの意見にもかかわらず、ブラトゲ不在のまま死刑に処すべきことを多数決で結審した。
ヤナートは、ブラトゲが自身の弁護も出来ない状態で死刑を宣告することは合法ではないと言う意見を注意深く表明したが、他の判事たちはこの議論を無視した。
ヤナートも、死刑が宣告されたとしても実施する事は実質的に不可能であり、これ以上の議論は無駄てあるとして不問に付した。
そして、このブラトゲへの“死刑宣告”は、レマゲン事件の事の重大さに関し、深く印象付けるためのプロパガンダ的な判決であるということを改めて認識した。

続いて、ヒューブナーはシェラーを入廷させた。
そして、テーブルの上の書類には目もくれず、シェラーに対し非難の罵声を浴びせた。
訴訟事実としては、ブラトゲと差して変わりはない…というより、変わりようはないが、被告を目の前にし、ヒューブナーの罵声に、益々どぎまぎして弱々しく早口で喋りだすシェラーを見て、短気なヒューブナーの痛罵は益々激しさを増した。
シェラーの印象をさらに悪くしたのは、連絡手段のないなかで…“指揮官としての報告義務、もしくは援助(増援)を求めるために、やむを得ず司令部に向った”点は、ヒューブナーの目には不注意かつ卑怯な“指揮権を放棄しての敵前逃亡”としか映らなかった。
レマゲンへの派遣に際しても、混乱のなか何の基礎的指導もなく、また橋に到着してから僅か数時間の任期であり、指揮系統および橋の爆破に関する技術的なことを含めた一切に関し把握できていなかったこと、そして何より橋を奪還するに足る兵力が全く無かったことに関してのシェラーの弁明は、これら諸点のどれ一つとして三人の判事たちの印象に残らなかった。
ヤナートは、シェラーのレマゲンにおける役割は漠然としており、確かに明白な事柄のいくつかを疎かにしてはいるが、課せられた任務をこなせる状況下にあったとは言い難く、過失は犯したものの、死刑を宣告するには不十分であるとしたが、法廷の方向性は当初から明白であり、何の効果も与えられず、ヒューブナーはシェラーに死刑宣告を言い渡した。

 

ヒューブナーは間髪を入れず、ペータースの入廷を命じた。

三人の裁判官にとり、ペータースの訴訟事実は一層決まりきったものであり、審理に大した時間を潰すものではないと思っていた。
独空軍(LW)の“秘密兵器運用”における一般規定では、これらを「敵に捕獲されてはならない」、そして「退避不可の場合は退却時に破壊する」旨が厳命されていた。
ペータースは、この運用規定に抵触しているとする“秘密保持義務違反”…“秘密の対空兵器”を放置(破壊の不履行)し、むざむざ敵の手に渡たしてしまったという罪状が付加されている。

因みに、米軍側の資料などから、東岸側で鹵獲された“使用可能な状態のフェーン”の数は「(固定型)4基」とされており、西岸側での鹵獲は記録されていない。
米軍接近の報を受け、ペータースは「(発射機は)コブレンツへ移動せよ」との命令を受けたとして対岸(東岸側)への移動を命じ…
シェラーに移動完了までの間、橋爆破の猶予を申し出たとの話もある。
このことから、西岸側にあった“可動型2基”を含めた“可動型全4基”は、おそらくコブレンツへそのまま送られたものと推定できる。
但し、残り“固定型10基”に関しては、エルペラー・レイをめぐる米軍による激しい攻撃に晒され…6基は破壊もしくは使用不可な状態になったものの、敷板にビス留めされた“固定型”は移動させることができず、結局は放置せざるを得なかったものと思われる。

ペータースは、もし万一可能ならば、これら貴重な兵器は一基でも多く残したいとの思いもあり、「運搬できない場合に限り破壊せよ」との命令を下達するのが遅れた。

しかも、混乱のなかで明確に破壊が完了したのかを確認をせぬまま、結局はコブレンツに後退してしまった。

ペータースには、もはやこの事柄を説明したり、弁明する機会は与えられず、ヒューブナーに「臆病のために反逆罪を犯し、それは銃殺刑に価する」と厳しく弾糾され、「はい」と答える他なかった。

小刻みに震えるペータースは、口も利けず、腕を支えられながら、よろよろと出口の方に歩いていった。

後年、陪席裁判官のペントによれば、この裁判はほんの2,3分とかからなかったと語っており、この日の裁判は午前11時45分には全員への判決…“死刑”言い渡しが完了し終了している。

 

シェラーとペータースは裁判終了後、ガストホフ近くの一般家庭に連行され、家族たちに手紙を書くための30分程の猶予が与えられた。

だが、実際にその手紙が家族の元に届くことはなく、そのあとすぐに焼却されたとされている。

 

その後、後ろ手に手錠を掛けられた状態で、700m程離れた処刑場所まで憲兵らに挟まれて徒歩で連行され、そこに掘られた浅い穴の前に目隠しをされ立たされた二人は、銃殺隊の一斉掃射により絶命した。

その最後の時間に際し、従軍牧師(Kriegspfarrer)による礼拝すら与えられず、その遺体も軍人としての礼遇も受けることなく、そのまま穴に投げ込まれ、土を僅かに被せただけだったとのことである。
二人の処刑執行は午後1時過ぎには完了…裁判開始から判決、連行、そして銃殺完了まで僅か2時間以内に完結されるという異常な速さの流れとなっている。

 

処刑場所は、ビルンバッハからキルヒ通り(Kirchstraße)を抜け、ケルナー通り(Kölnerstraße:連邦道路B8号線)を北西に進むと、右にリンバッハへと続くL277号線との分岐点があり、それを更に200m程進んだ少し先を左に入った森の入り口付近…当時は砂利採取場(Kiesgrube)の窪地があった場所とされている。
現在は木々も伐採されていて、見通しの良い草地(耕作地)のようになっているようだが、嘗ては“ラウシェンシュタイナー・ヴァルト(Rauschensteiner Wald)”と呼ばれた深い森に包まれていた。

 

 

明日(14日)の司令部への出頭を控え、シュトローベルとクラフトは3月13日の午後8時過ぎ頃から同村内(リムバッハ)の農夫(ハインリッヒ・シュミット)宅の一室に軟禁されている。
その夜、二人は家の主人らと数時間程歓談をし、夫人の供応する珈琲と食事を楽しんだとのことである。

この時点では、二人とも…まさか自分たちが極刑に処されようとは思ってもいなかった。


2日目のタイムテーブルに関する詳細はほとんどなく、あくまでも推測ではあるが…おそらく、この日はリムバッハのB軍集団司令部が置かれていたリンデ亭の一室で、午前9時頃から裁判は開廷したものと考える。


シュトローベルが入廷がするや否や、ヒューブナーは怒号を浴びせるように叱責したとのことである。
ヒューブナーは「7日の夜になってもなぜ指揮所に留まり、橋に出向かなかったのか?」「橋を爆破するための逆襲を開始しようとしたのならば、どうしてそれが成功しなかったのか?」「なぜ翌日にもっと断固たる逆襲に打って出なかったのか?」などの詰問をシュトローベルに投げかけた。
実際、コブレンツにいたシュトローベルが初めて橋が占領されたことを知ったのは、既に7日の午後9時頃となっていたのである。

この遅延は、橋梁地区からの電話線及び無線通信の寸断に加え、レマゲンからの伝令数名が途中で殺害されたことにある。

結局、レマゲンからの情報の入手は一般市民もしくは何とか逃げ延びることのできた敗走兵からの聞き伝に頼る外なかったのが実情である。

シュトローベルはクラフトに連絡を取り、クラフトもまた反攻および橋の爆破が急務であることには同意したが、手許には20名程の兵しかおらず、増援も期待できなかった。

7日夜~8日未明には、危険を冒し、夜陰に乗じて橋梁破壊工作も試みたが失敗し、米軍により捕縛されている。

その後も組織的反攻を試みようにも、作戦を成功させ得るに足る必用最低限の兵力すらなく、成す術はなかった。
この弁明に対しヒューブナーら三人は冷笑と嘲りで対応した。
シュトローベルはもはや何を言っても無駄であることを悟り、諦めて運命に従った。


後年、ゲルハルト・フォン・シュヴェリーン(元)陸軍装甲兵科大将は、この時のシュトローベルの対応に関する裁判と科せられた宣告の状況を調査し、コブレンツの裁判所に対して以下のような意見書を提出している。
「シュトローベル少佐が自ら橋へ行かなかったということを責めるとはできない。3月7日夜、彼とその幕僚は、部隊を集結し、逆襲を開始するという非常に差し迫った任務があった。3月8日の午前中、彼の時間は非常に混乱した状況の中で矛盾し、ある場合には全く実行できない命令に対して自分を守る努力によって塞がれてしまった。シュトローベル少佐は工兵指揮官であり、敵軍の猛追劇中の面前で全軍をライン川を渡河させる作戦に責任があった。彼がここで達成せねばならなかった任務の方に、彼が橋にいなければならなかった必要条件よりも、確かにもっと重要性が付与されていたに違いない。橋においては、事実上、彼はどのみち情勢を変えることはできなかったのである。概して、彼は満足のいくほど積極的ではなかったという可能性はある。しかしながら、このことは彼に死刑の宣告を科すること、そして即座に形を執行したことを正当化するものではなかったはずだ。死刑の刑罰に値する犯罪は、もしシュトローベル少佐が犯罪の企図を持って彼の使用できた部隊を引き止めたか、あるいは命令の実行を拒絶したことが明白だった場合だけだろう。これらの二つの状況は何れも存在しなかったのだ。」

 

最後に入廷を命じられたクラフトは、物静かで慎み深く、愚直なくらい何事にも誠実に向き合い、また部下たちの誤りも彼自らが責任を取るような人物だったと言われており、ヒューブナーらによる起訴内容に関し、おそらく自身の忠誠に対する重大なる侮辱と捉えたのであろう…
また、自身に対する有効な弁明など、この裁判において到底でき得るものではないと悟り、自身の行動を正当化することなどは殆ど試みず、それらに対し一切答弁しなかった。
クラフトが執った行動は、ただ一つ…
米軍の捕虜となっていた…部下のフリーゼンハーンに対する嘆願だけであった。

このクラフトの陳述は、フリーゼンハーン“無罪”の大きな一助となった。
クラフトの口から有罪であることを認めさせ、裁判を早々に終わらせたいヒューブナーらの意図は明らかだったが、ヒューブナーが大声で怒鳴れば怒鳴る程、クラフトは益々無口になっていったものの、最後に自身の口から“有罪”を認める、その時まで…クラフトは終始、自身の威厳を保ち続けた。

 

シュトローベルとクラフトも、裁判が終了すると直ちに、前日同様に銃殺刑が執行されている。
処刑場所に関しては、“オーバーイルゼン近郊(北側?)の森”という漠然とした記録しかないが、前日の行動様式を踏まえると上の地図に示した辺りではないかと想像する。

 

その後、二組四人の遺体は、不憫に思った各地元住民たちにより、キリスト教のしきたりに則り仮埋葬が為されていた。

戦後、正式な埋葬が行われることが許可され、住民たちの証言によって四名の遺骸は取り違えられることなく、ビルンバッハ墓地(Friedhof Birnbach:戦没者区画)に改葬されており、“レマゲンの将校たちの墓”として地元でも知られているとのことである。

 

石造りの十字架には、(主に)1945年3月以降の戦闘や空襲で亡くなった兵士や民間人など計52名の名前と日付が刻まれ、この地に埋葬されている。




同墓地内には、ルーデンドルフ橋の破片から作られた「四将校の追悼碑」も設置されている。

 

 

1987年年10月31日、オーバーイルゼンにも追悼碑が建立されている。

 

 

つまるところ、この裁判はヒトラーの怒りを如何にすれば収められるかが大前提であり、処罰の対象として最も見合った人物に罪を負わせるだけの、あくまでも形式的な、結果(死刑)ありきの“見せしめの即決裁判”であり、四人の将校たちは、この何とも陳腐な茶番の血祭りとされたのである。


ヨハネス・シェラー陸軍少佐(享年31歳)

カール・ハインツ・ペータース空軍中尉(享年29歳)

ヘルベルト・シュトローベル陸軍少佐(年齢不明)

アウグスト・クラフト陸軍少佐(享年53歳)


この不当と言っても過言ではない判決は、戦後も法的に見直されることなく放置されていたが、リゼル・シェラーは夫の処刑から22年後に再審を申し立て、1967年2月2日にバイエルン州ランツフート地方裁判所(Landgericht Landshut)は、シェラーに対する死刑判決を正式に取り消し、遺族への扶助金支給も認めた。
この件に限らず、第三帝国末期に各戦域で行われた飛行裁判全体を見渡しても、戦後司法による再評価として公式に確認できる唯一の例である。

 

 

ライン川を難攻不落の“天然の防壁”と信じ、敵にその西の境界(Westgrenze)を越えさせなければ、まだ勝機はあるという希望的観測…幻想を抱いていた独軍首脳部…殊にヒトラーにとって、(ほぼ)無傷で橋を失陥されたという事実は、軍内部は勿論、国民に対しても、不信感と混乱をさらに加速させ得る由々しき事態だった。
とはいうものの、第二次世界大戦終盤の一局地戦に過ぎなかった…それも単なる鉄橋をめぐる攻防など、多くの局地的戦闘と同様に歴史の渦の中に埋もれてしまってもおかしくはなかった。
それを一躍、歴史的戦史へと押し上げ…さらには、その橋の名を深く印象付けさせ得たのが、1969年公開の映画『レマゲン鉄橋』である。
史実の再現性という点では、こうした戦争スペクタクル(娯楽)映画ではありがちな脚色がだいぶ加えられてはいるものの…コアな戦争映画ファンやミリタリーファンなどから今尚高い評価を受ける知る人ぞ知る佳作的戦争映画といえる。

 

レマゲン鉄橋(原題:The Bridge at Remagen)』(1969年)

 

作家にしてアメリカ合衆国下院議員でもあったケン・ヘクラー著の…多々フィクションは満載ではあるが…ノンフィクション小説『The Bridge at Remagen(邦題:レイマーゲン鉄橋―ライン河渡橋作戦)』(1957年刊)を基に…
以前に『エースをねらえ!『至高の青』編』でも紹介させていただいた『The Blue Max (ブルー・マックス)』 (1966年) や、ヒット作となった『タワーリング・インフェルノ (The Towering Inferno)』(1974年)、『ナイル殺人事件 (Death on the Nile)』(1978年)、また『キングコング (King Kong)』(1976年)、『キングコング2 (King Kong Lives)』(1986年)などでもメガフォンを取ったイギリスの映画監督・脚本家・プロデューサーのジョン・ギラーミンが監督を務めている。

 

 

第二次世界大戦末期の1945年3月、敗走するドイツ軍を追い詰める連合軍。
75,000人のドイツ軍将兵がライン川を渡河して撤退するために唯一残されているのは、もはや“レマゲン鉄橋”のみ!
アメリカ軍は、この橋を無傷で確保しようと進軍し…ドイツ軍は、ギリギリまで何とか橋を保持しつつ、敵の目前での爆破を試みる。
戦況が刻々と変化するなか、両軍の指揮官たちの葛藤と兵士たちの運命が交錯し、橋をめぐって熾烈な攻防が展開される。

 


この映画は、米軍側の視点を軸に物語が進行・展開していくということもあり、中心的に描かれているのは…当然、米軍側のフィル・ハートマン中尉を演じる主演のジョージ・シーガルはじめ、アンジェロ軍曹役のベン・ギャザラ、バーンズ少佐役のブラッドフォード・ディルマン、シンナー准将役のE・G・マーシャルあたりなのであろうが…

 

当方が独軍贔屓ということを差し引いても、対峙する独軍側の…特に、この映画の重要な役どころを担い、好敵手として『バルジ大作戦』のへスラー大佐と同様に主役を喰うかたちで魅力的に描かれているのが、Ray-Ban(レイバン)の“アビエーター”と思しきティアドロップ型のサングラスを愛用する、ニヒルな二枚目の…パウル・クリューガー少佐を演じるロバート・ヴォーンである!
このクリューガー少佐は、ハンス・シェラー陸軍少佐をモデルとしていることは、改めて言うまでもない。

 

 

フォン・ブロック上級大将役はペーター・ファン・アイクが演じている。

私の友人は、酒宴の際…程よく酔いが回り…
話題のなかにこの映画の話が出るたびに、冒頭シーンの一場面を、“アテレコ俳優”の声色、口調を真似て諳んじていた…(^ ^;

かつてTBS系列で放送されていた『月曜ロードショー』(1969年10月6日~1987年9月21日)で、この映画の吹き替え版が放送された際のフォン・ブロック将軍役の藤岡重慶を真似るのであるが、それが何度聞いても面白かった。
藤岡といえば、声優というより…勿論れっきとした俳優であり、数多くのテレビ、映画などに出演されているのだが…
やはり、テレビアニメ版『あしたのジョー』 のなかでの「立て~!立つんだジョー!」という有名な台詞でお馴染みの、あの特徴的な声と台詞回しの丹下段平役の印象の方が強かったりもする。
勿論、その友人も…「55,000の将兵が、ライン川の対岸に残されることになりますぞ」というフォン・ブロック将軍の台詞を…かなり丹下段平に寄せた藤岡節で、毎回楽しませてくれたのである。

因みに、Blu-ray盤には1974年10月7日放送のTBS系『月曜ロードショー』版と、1981年12月1日放送の東京12チャンネル(現:テレビ東京)『火曜特別ロードショー』版の二通りの吹き替え音声が収録されており、それぞれ違ったアテレコ俳優さんたちの懐かしい音声、そして所々台詞も変えられているので、字幕版で見るのとはまた違った楽しみ方ができるものと思う。

 


このシーンのアテレコ俳優に限っていえば…
『月曜ロードショー』版がフォン・ブロック将軍:藤岡重慶、フォン・スターマー元帥:寺島幹夫
『火曜特別ロードショー』版がフォン・ブロック将軍:池田 勝、フォン・スターマー元帥:宮川洋一

 

私が子供の頃は、BSはおろか、ネットでの配信などなかったが、吹き替え版の洋画やTV番組が毎日のように、地上波のどこかのチャンネルで放送されていた。
だから、そこで聞き慣れていたアテレコ俳優たちの“声”が当たり前のように脳裏に刷り込まれ…後年になって字幕版でご本人の地声を聞いても、逆にしっくりこないことがほとんどだった。
例えば、有名どころのアテレコ俳優といえば…
ショーン・コネリーなら若山弦蔵、クリント・イーストウッドなら山田康雄、スティーブ・マックイーンなら宮部昭夫、チャールズ・ブロンソンなら内海賢二、ピーター・フォークなら小池朝雄、デヴィッド・スーシェなら熊倉一雄、そしてロバート・ボーンならば…私的には幼い頃に見ていた『0011ナポレオン・ソロ』で聞き慣れていた矢島正明と…いきたいところだったのだが、この映画では矢島に次いでボーンの声を担当する機会の多かった西沢利明が『月曜』版、そして川津祐介が『火曜』版でそれぞれクリューガー少佐役の“声”を演じている。

 

※劇中の台詞にある“75,000”や“55,000”といった数字は、史実に基づいたものではない。
1945年3月時点でライン以西に展開していた全独軍兵数(兵“力”ではない)は、25万〜30万名程と推定される。
そのうち、レマゲン鉄橋を渡って東岸に逃れ得る位置にいた兵数は、最大でも1万〜1万5千名程度であったと考えられる。
したがって、“対岸”をレマゲン鉄橋周辺の限定的戦区と解釈するのであれば、“55,000”や“75,000”という数字は誇張と言わざるを得ないものの、“ライン以西の全独軍”という広い意味での解釈ならば、これはむしろ控えめ目な数字ということにもなる。

 

 

クリューガー少佐の片腕となる役どころのカール・シュミット大尉役は、『史上最大の作戦(原題:The Longest Day)』(1962年)、『バルジ大作戦(原題:Battle of the Bulge)』(1965年)にも出演しているハンス・クリスチャン・ブレヒが好演している。

軍人になる以前は地元の学校の教諭だったという設定であり、また軍装的にも歩兵科の将校であり、ヴィリー・ブラトゲ陸軍大尉をモデルとしているものと思われるが、風防的にはベテラン将校であるフリーゼンハーンのイメージと掛け合わせて造り出されたキャラクターともいえる。

 


冒頭のシーンにほんの少し登場するだけではあるが、その軍服姿が如何にも将官然として“様”になっているリヒャルト・ミュンヒ演じるフォン・スターマー元帥は、当方的には結構お気に入りだったりもする。

アテレコ俳優に関していうと、『火曜特別ロードショー』版では、宮川洋一がシュミット大尉と、このスターマーを兼役している。

 

 

スターマーは、特に特定の人物をモデルとしたというクレジットはないが…“元帥”ということであれば、上々部組織…B軍集団司令官であるモーデル陸軍元帥あたりに相当するものとも思われるが…
ミュンヒの大柄で、如何にもといったその風格的な印象からは、エルンスト・ブッシュ陸軍元帥と言われた方が当方的にはしっくりとくるのだが…

 

ヨアヒム・ハンセン演じるオットー・バウマン大尉は、工兵部隊の指揮官という役どころ的にはカール・フリーゼンハーン陸軍大尉を正にモデルにしているが、実際のフリーゼンハーンに関しては、既記の如く、レマゲン当時は既に50歳となっており、見た目的にはバウマン大尉の方がブラトゲ大尉といってもおかしくはない感じなのである。

 

劇中、クリューガー少佐が、着任直後に守備状況を視察する際のほんの数十秒ほどのシーンに登場する、この無名俳優が演じている高射砲(Flak:Fliegerabwehrkanone)陣地の指揮官(空軍少尉)は、カール・ハインツ・ペータース空軍中尉をはじめ、レマゲンの東西に展開していた高射砲部隊の指揮官を一つに凝縮させた形となっている。

 

 

クリューガー少佐の最期のシーンは…
銃殺刑のため、司令部の庭先に引き出されたクリューガーは、煙草を一服吸いながら…
ふっと、彼方から聞こえてきた編隊を組んだ機影のプロペラ音に耳を澄まし、その方角を見上げる。
そして、「味方か?」と、銃殺隊指揮官のSS中尉に話しかける。
指揮官は「敵機です」と返答した。
クリューガーは「誰が敵なんだ」と言い放つ。
そして銃声が轟き、クリューガーは崩れ落ちる。
クリューガー少佐が最後に戦わなければならなかったのは、敵(米軍)ではなく、紛れもなく味方だった。

 

 

 

ある意味、映画本編以上に強く印象に残るのが、映画音楽…とりわけ“メインテーマ”と言っても過言ではない。
最近は、有名アーティストによる主題歌…ヴォーカル曲とのコラボレーションが主流となり、物語(ストーリー)に即した作品として提供されている分、当然その歌詞の内容も込みで聴くこととなる。
かつてのような純粋な“インストゥルメンタルのメインテーマ”は、歌詞の無い分、その“余白”が、かえって映画そのものの記憶を感覚的に深く印象付ける一助となってくれていたようにも思われる。
だが、’80年代頃からだろうか…“メインテーマ”としては、あまり使われなくなっているようにも思う。
そのイントロ…このフレーズ…それらを聴くと、あの映画が思い起こされる!と言った“ インストゥルメンタルのメインテーマ”というものが以前はたくさんあった。
私のなかでの、まさにその一曲が、エルマー・バーンスタインが映画『レマゲン鉄橋』のために書き下ろしたこのメインテーマである。
戦争映画としての重厚で勇壮なマーチ感を基調としながらも、どこか物悲しくも美しい旋律が、ふとした瞬間に脳裏をよぎり、アタマのなかでリフレインするのである。
『大脱走』や『荒野の七人』なども手掛けたバーンスタインの産み出すフレーズは、その全編までは思い出せなくとも、深く脳裏に…ココロに…強く残っている。

バーンスタインは、そんな“忘れられないフレーズ”を生み出すのに長けた作曲家であった。

 

 

 

レマゲンの橋自体が、崩落後に再架橋とはならかったので…勿論、撮影のロケ地としては使えず…

候補地を選定していくなかで、チェコスロバキア(当時)のヴルタヴァ川(または、独語読みのモルダウ川)に架かるダヴレ(Davle)の古い橋がレマゲン鉄橋に雰囲気が似ていたため、政府機関の全面協力のもと、この地での大規模なロケが行われた。 

当時のチェコスロバキアは、“プラハの春”と呼ばれた自由改革路線が推進されていた。

撮影が既に2/3程進んでいた1968年8月20日午後11時。

そうした急速な自由化の波を危惧し…改革の阻止・鎮圧するため、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍による、作戦名「ドナウ作戦(Операция «Дунай»)」と名付けられたチェコスロヴァキアへの軍事侵攻が開始された。
翌朝、ジョージ・シーガルやロバート・ヴォーンら俳優陣、そしてスタッフたちが目を覚ますと、宿泊先となっていたプラハのホテル周辺は既にソ連軍の戦車に包囲されている状況だった。
情報が錯綜するなか、撮影のために持ち込まれていた軍装、装備、そしてアメリカ製戦車などを見たソ連軍は“アメリカ軍がチェコを支援するために送り込んだ実戦部隊ではないか”と本気で疑い、スパイの嫌疑までかけられる事態となっていた。
状況を重く見た制作陣は、即座に撮影を中止。
スタッフとキャスト約80名は、28台のタクシーに分乗し、ソ連軍の検問をかいくぐり、オーストリアのウィーンへと映画さながらの脱出劇をしている。 
この際、約100万ドル相当の機材や、未現像のフィルム、さらには撮影用の戦車8輛までもが現地に置き去りにされた。 
その後、イタリアのカステル・ガンドルフォに橋の半分サイズのレプリカを建設し撮影を再開。
西ドイツ(当時)のハンブルクやオーストリアなどでも撮影が行われ、なんとか完成にこぎつけている。 
本編に漂う、どこか殺伐とした“戦争の虚無感”は、こうした本当の軍事侵攻に直面した制作現場の緊張感が少なからず反映されたことによる功罪と言えなくもない。

嘗て、ドイツ西南部の旧プロイセン領ライン地方(現:ラインラント=プファルツ州北部)には、ライン川を跨いで西岸のレマーゲン(Remagen)と東岸のエルペル(Erpel)を結ぶ、堅牢な軍用鉄道橋があった。
全長325m、幅員約12m、複線構造に加え、両側には細いながらも歩道を備えたその橋は、“通り抜けアーチ橋”と呼ばれる形式を採り、後に「レマゲン鉄橋」として知られることとなる。

 

米軍と独軍との間で繰り広げられたこの“レマゲン鉄橋”をめぐる攻防の末、その責任を問われた四人の独軍将校は、見せしめのための特別軍法会議で死刑を宣告され、二人はその日のうち、もう二人も翌日には…森のなかに轟く銃声とともに露と消えた。
ちょうど81年前…1945年3月13日のことである。

第一次世界大戦中の1916年、東側(ジーク線・ラーン渓谷線・ギーセン経由の東西幹線)から右岸幹線に流れ込む膨大な物資・軍需品および人員(兵士)を、最短距離で西部戦線へ送るために、エルペル—レマゲン間に橋を架け、アール渓谷鉄道へ直結する軍事輸送限定の“ショートカット”を新設する機運が高まった。

この橋の設計はカール・ヴィンナーが担当し、建設計画を強く推進したエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵科大将(当時)の名を冠し、1918年5月1日に「ルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke)」と正式に命名された。


同年8月15日に竣工式が行われたが、エルペラー・レイ(Erpeler Ley)を貫通させるトンネル建設や、エルペル側の切通し開削工事が難航したため工事は遅れ、線路の敷設が完了したのは、あろうことか第一次世界大戦が終結してから約8か月も経った1919年半ばのことだった。
橋は1919年7月23日にケルン鉄道管理局(Eisenbahndirektion Köln)の管轄となり、同年鉄道橋として正式に供用が開始された。

 

 

1945年1月末、連合軍の戦略に対する英国側の懸念を和らげるため、連合国遠征軍最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワー米陸軍元帥は帝国参謀総長のアラン・F・ブルック英陸軍元帥に対し、ライン川北部での渡河作戦は、川の西側全域からドイツ軍を排除し終えるまで待つ必要はないと保証したうえで、2月20日付の書簡でもアイゼンハワーは、バーナード・L・モントゴメリー英陸軍元帥率いる英第21軍集団が、ルール地方北方からライン川を突破する主攻撃を行うことを再確認し、その間にジェイコブ・L・デヴァース米陸軍中将(当時)率いる米第6軍集団とオマール・N・ブラッドレー米陸軍中将(当時)率いる米第12軍集団が西岸の掃討作戦を完了し、後に補助的な渡河作戦を行う予定だとしていた。

 

3月初旬の時点でライン川に架かる橋のうち、ケルンのホーエンツォレルン橋(Hohenzollernbrücke※1945年3月6日に爆破)、ボンの(旧)ライン橋(Rheinbrücke=”Klaus-Clemens-Brücke”※1945年3月8日に爆破)、ウルミッツ鉄道橋(“ヴィルヘルム皇太子橋”:Urmitzer Eisenbahnbrücke※1945年3月9日に爆破)、そしてこのルーデンドルフ橋の4本が、なんとか利用可能な状態で残されていた。
 

アイゼンハワーは、ドイツ深部への進撃ルートとしてルール地方北方とフランクフルト=カッセル回廊の二つを指定したが、具体的な渡河地点の選定は各軍集団司令官に委ねた。

第12軍集団の作戦幕僚は、後のコートニー・H・ホッジス米陸軍中将率いる米第1軍の作戦区域において、ライン川の渓谷が比較的広く展開する二つの渡河候補地として…一つは北部のケルンとボンの間、もう一つはアンダーナッハ(Andernach)とコブレンツ(Koblenz)の間を妥当な渡河地点として挙げた。

いずれもルール=フランクフルト間のアウトバーンやラーン(Lahn )川流域を経て、フランクフルト=カッセル回廊へと迅速にアクセスできる位置にあったが、道路網は極端に限られ、また両地点ともヴェスターヴァルト(Westerwald)と呼ばれる、樹木が生い茂った丘陵地帯と、急峻な地形を有する険しい森林丘陵地帯に通じており、そのなかでも最も厄介なのがレマゲンであった。

ホッジス率いる第1軍がライン川に接近するなか、ブラッドレーは、米第3軍のジョージ・S・パットン米陸軍中将(当時)と同様、第1軍の今後の作戦における役割を、即時の渡河よりも、先ずはライン川沿いの防衛線を維持し、残存する抵抗勢力の拠点を掃討したうえで、想定される2つの渡河地点のうち、最も南に位置するアンダーナッハとコブレンツ間の地点まで部隊を展開する準備を整えるべきと考え、その旨をホッジズにも下達した。

 

 

連合軍がライン川に迫るなか、衰亡間近の独軍の指揮系統は混迷のなかにあった。

複雑化の要因として、独軍の地上部隊は、野戦軍(Feldheer)と補充軍(Ersatzheer)とに明確に分けられていたことにある。

補充軍は国内の兵站および兵員補充・訓練・再編を一手に担い、また軍管区(Wehrkreis)内における防衛責任も担っていた。
ベルリンの陸軍兵器局長兼補充軍司令官(Chef der Heeresrüstung und Befehlshaber des Ersatzheeres)により統括され、各“軍管区司令官(Wehrkreis-Kommandeur)”は、その指揮下に配置されており、フリードリヒ・フロム陸軍大将が永らくそのポストに就いてきたが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後…陸軍に不信感を抱いたヒトラーは、陸軍の影響力を削ぐため、補充軍司令官に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーを任命した。
これは政治的措置であり、実務の大部分は依然、陸軍内部の高官たちが就く軍管区司令官が担っていたが、1945年3月初頭、戦線がルール川からライン川へと後退するにつれ、防衛責任は軍管区から軍集団・軍へと移行するはずだった。
だが、実際には軍管区司令官たちは覇権を手放そうとせず、陸軍内部における混乱を招き、その影響は、結局は末端での指揮系統の混乱に拍車をかけた。

 

 

 

レマゲン南端の鉄道橋周辺の防衛における小さな戦区でも、その指揮系統は…ある意味、複雑であった。

 

ヘルベルト・シュトローベル陸軍少佐の所属に関しては、一次資料的な物がなかなか無いなか(年齢すら不明)、これまで“第51自動車化工兵連隊幕僚”とする実しやかな部隊名を挙げている文献が多いが、そもそも“特別任務配備”のために編成された「Pionier‑Regimentsstab z.b.V.」自体に『51』という番号がふられた“組織”は存在しない。
因みに、「z.b.V.」は、“特別任務配備”の意味となる「zur besonderen Verwendung」の略であるが…
「Pionier‑Regimentsstab z.b.V.」の場合の、特別任務のために組織された“stab(幕僚)”は、配下に戦闘部隊を持たず、必要に応じ派遣先工兵連隊の幕僚部として編入される。
但し、特別任務の指定を受ける“組織”は…“stab(幕僚)”だけではなく、大隊(Abteilung)、師団(Division)、さらには軍団(Korps)規模の実戦部隊として組織される場合もあり、その場合も通常は既存の師団や軍団に属さず、適宜、各戦線へ臨時投入される。
話を戻し、“第51自動車化工兵連隊”に限ってみても、『51』の番号付をされた“自動車化”は勿論、連隊規模の工兵部隊は存在しない。
強いて挙げるならば、間違えてもおかしくないくらいによく似た“第51自動車化工兵大隊(Pionier-Bataillon(mot.) 51)”という工兵部隊があるが、連隊規模でなく大隊規模であり、1945年3月時点において第23装甲師団に所属しており、ハンガリー北部〜スロバキア南部のフロン川(Hron)周辺から、その後はモラヴィア(ブルノ方面)に後退中で、しかも1942年5月21日付で既に第51装甲工兵大隊(Panzer-Pionier-Bataillon 51)と改称されており、勿論全くの無関係である。
当方の見解では、補充拠点となる軍管区の第12軍管区(管区司令官:ヘルベルト・オスターカンプ陸軍砲兵科大将)に編成された“特別任務工兵連隊幕僚”である第519特別任務工兵連隊幕僚(Pionier‑Regimentsstab z.b.V. 519)がシュトローベルの所属先と考えている。
おそらくは、どこかの段階で…この「519」の「9」が抜けてしまい、「51」のみが一人歩きをしてその後は当たり前の如く伝わってしまったものと考えられる。

そしてシュトローベルの“特別任務工兵連隊幕僚”は同軍管区に編成された第12地方工兵補充・訓練連隊(Landespionier-Ersatz-und Ausbildungs-Regiment 12)の幕僚部として編入され、幕僚本部をレマゲンから45㎞程下流のコブレンツ(Koblenz)に置き、シュトローベルがそのトップとして、橋梁の爆破準備に関する技術・戦術および兵站に関しても統括した。

 

アウグスト・クラフト陸軍少佐は、第12地方工兵補充・訓練連隊の第3大隊指揮官で、その司令部はレマゲンから南東に35㎞程のベンドルフ=ザイン(Bendorf-Sayn)に置かれ、主な任務はライン川のレマゲンからコブレンツ間の上下流に架かる5つの橋梁と多数の渡り船を警備・運用・管理することにあった。
クラフト配下の諸部隊は、担当地区内の諸橋梁に分散されており、その一つの担当橋梁がルーデンドルフ橋…レマゲン鉄橋であり、第12中隊が、この橋における爆破作業の担当部隊となっていた。
つまり、クラフトには各橋梁における戦闘・戦術的な面での指揮権はなかった。

 

1945年2月時点で、(西岸側)第954軽高射砲大隊(leichte Flak-Abteilung 954)、(東岸側)第962軽高射砲大隊(leichte Flak-Abteilung 962)、鉄道貨車搭載型の高射砲部隊である第514鉄道高射砲大隊(Eisenbahn-Flak-Abteilung 514 ※3/7以前に配置換え済)、そして(東岸側)エルペラー・レイの高台にはボン防空地区(Luftgaukommando VI)所属の重高射砲中隊(schwere Flak-Batterie)からの分遣隊による10.5cm重高射砲など、レマゲンとその近傍にはいくつかの中隊規模(実情は定数割れ)から為る対空射撃部隊が配備されていた。
そして、コードネームを“フェーン(Föhn)”とする…44年型7.3cm対空ロケット発射機(7.3cm Flakraketenwerfer 44)の試験的運用配備のための特殊部隊も東西両岸に配置されていた。
それが、カール・ハインツ・ペータース空軍中尉が指揮する第900対空砲教導試験大隊(Flak‑Lehr‑ und Versuchs‑Abteilung 900)の第3中隊で、レマゲンには1945年2月初旬に派遣されている。
この中隊は3個小隊からなり、当初の編成(定数)では“固定型12基:可動型12基”の計24基という潤沢なる発射機24基を有し、兵員も120名で構成されるという…この時期にして破格の扱いであったが…
蓋を開けてみれば、想定数の約半分程となる…“固定型10基:可動型4基”の計14基(推定)、兵員も(多くても)70名前後であった可能性が高い。
主力は東岸側で、エルペラー・レイの各所に固定型10基、可動型2基、そして西岸側はヴィクトリアベルク(Viktoriaberg)の丘上に可動型を2基を配備したものと思われる。
勿論、この“派遣分遣隊”は…陸軍にも武装SSにも属さず空軍の指揮下にあった。

 

“フェーン(Föhn)”は、7.3cm無誘導ロケット弾35発を一斉射撃可能な移動式ランチャーで、“極秘兵器(Geheime Kommandosache)”ではないが“高度に制限された特殊兵器(Sondergerät)”として扱われ、運用にあたっては、情報公開・運用部隊および配置場所など当時はまだ厳しく制限されていた。

 

 

 

橋における爆破装置の敷設を含む現場での実務を実質的に指揮していたのが、第12地方工兵補充・訓練連隊/第3大隊所属の第12中隊指揮官として橋梁指揮官(Brückenkommandant)に任官していたカール・フリーゼンハーン陸軍大尉であった。
フリーゼンハーンは、1914年8月にドイツ帝国陸軍に入隊し、第一次大戦中は工兵大隊に所属し、三度の負傷を経て、陸軍軍曹まで進級している。

戦後は除隊して故郷のコブレンツに戻り、義兄の経営するビール醸造所で働いていた。

第二次大戦開戦時には既に40代半ばであったが、1939年に施行された動員計画に基づいて編成された「地方工兵補充・訓練連隊」における占領地の維持、後方の橋梁・インフラの保守管理という後方支援任務のために、一次大戦経験のある者が必要とされ充員召集を受けており、その工兵部門の知識と経験を買われ、地雷探知専門家として非戦闘部隊に配属されている。

その後、ドレスデン工兵学校の工兵科将校候補生講習を受け、1940年に陸軍(工兵)少尉に任官し、1942年には陸軍大尉に昇進している。

1944年6月8日、第80補充訓練大隊(Grenadier-Ersatz-Ausbildungs-Bataillon 80)から編成された傷病兵を含む1個中隊…いわゆる“回復兵中隊(Genesenden-Kompanie)”からの300名の増援を受けた第12中隊の指揮官として、フリーゼンハーンはルーデンドルフ橋の防衛任務に就いているが、主としてこの中隊の構成員は戦傷快方期にある歩兵たちで、対岸のライン河畔のリンツにあった陸軍病院での治療を受けながら一時的に任務に従事しており、回復してしまうと原隊復帰のため送還されてしまい、秋までには300名からその3分の1にまで減じていた。

因みに、この経験豊富なベテラン中隊長がレマゲンに赴任した時、既に彼は49歳となっていた。

 

ヴィリー・ブラトゲ陸軍大尉が生まれた…嘗てドイツ帝国領であったエルビング(Elbing ※波語読み:エルブロンク(Elbląg))は、第一次世界大戦後の ヴェルサイユ条約によって、東プロイセン(ヴァイマル共和国領)に加わり続けたことで、ポーランド回廊によって本国から切り離されるかたちとなっていた。
1924年に師範学校(Lehrerseminar)を卒業し教師の職を探すも、その前年末にはハイパーインフレが崩壊、経済は混乱の最中にあり、雇用も悪化の一途を辿り、なかなか仕事は見つからなかった。
こうした環境、時代背景のなか育った若者たちの心の中に…「いつの日にか郷里(“失われた領土(Verlorene Gebiete)”)をポーランドから奪い返そう」という強い意識が芽生え、ブラトゲのみならず、強烈な民族意識・復讐心・愛国主義を抱く者は少なくなかった。
そして、信念と…何より俸給の面を考えるにつけ、軍人となることは、学校教師になることよりも至極当然の選択であった。
エルビングにも駐屯地のあった第3プロイセン歩兵連隊(3. (Preußisches) Infanterie-Regiment)に入隊後、数学、物理学、自然科学に堪能な上に、その授業能力の才を認められたブラトゲは、夜間クラスの教官に抜擢されている。
1927年に陸軍を辞めて教育の仕事に戻っているが、軍事演習には参加し続け、1937年に予備役に編入。
1939年8月、秘かにポーランド侵攻の準備を進めるなか、ブラトゲは召集され、第21歩兵師団(21. Infanterie-Division)所属の第24歩兵連隊(Infanterie‑Regiment 24)に予備役少尉として再任官している。
(※1934年10月1日付でエルビングに“エルビング司令部(Kommandant von Elbing)”という国防軍拡大期における隠蔽工作的な…実質的には軍事部隊が編成され、1935年10月15日付で、正式に第21歩兵師団(21. Infanterie-Division)と改称されている。)
1940年7月、陸軍中尉に昇進。
西方戦役(フランス侵攻)終結後まもなく、教官としてバルテンシュタイン(Bartenstein)の陸軍下士官学校(UOS:Unteroffiziersschule)、さらにボルドーの駐屯軍である第529野戦司令部(Feldkommandantur(FK)529)に転属。
独ソ戦が泥沼化するなか前線勤務を希望したブラトゲは、1943年春に陸軍大尉に昇進し、第223歩兵師団/第344擲弾兵連隊/第2大隊の中隊指揮官に任官。
1943年のソ連軍による南方軍集団への攻勢後、師団とともに短期間ハリコフ地区へ転戦し、激しい防衛戦に参加…この間、師団は戦闘集団の戦力まで縮小されている。(第1大隊は1943/44年冬に解散)
第168歩兵師団所属の第417擲弾兵連隊は、再編のため自連隊の第2大隊と第344擲弾兵連隊の第2大隊から、新たに第1および第2大隊を編成。
1944年夏、ソ連第1ウクライナ方面軍の大攻勢(Lvov–Sandomierz Operation)により独軍は壊滅的打撃を受け、ブラトゲの所属する第417擲弾兵連隊の第2大隊も、8月には連隊単位での防衛戦 → 後退 → 包囲回避戦を繰り返し、ウクライナのカルパチア山脈北麓に位置するドロホブィチ(Дрогóбич)まで追い詰められた。
この戦闘の最中に受傷し本国に後送され、療養後も前線への復帰は無理と判断され、1944年11月1日付で橋梁地区警戒部隊における隊附先任将校としてレマゲンに補職されている。
同格の大尉であるブラトゲとフリーゼンハーンとの関係は上手くいっていたとはいえ、年長でより経験のある工兵将校が自分よりも若い先任指揮官に従うという、ある意味での二重構造は“指揮系統上の不安定要因”ともなり、これを“上”も認識し、同年12月中旬になってレマゲン戦闘指揮官(Kampfkommandant von Remagen)という新たなポストを設け、ブラトゲの地位を格上げしている。
これは両者に明確な指揮権の上下を付けることで関係性を図ったとみられる。
そして、その戦闘指揮所はライン川沿いのプロムナードに面したレストラン兼宿泊施設の“ホテル錨(Hotel Anker)”(※現在も同地(Rheinpromenade 40, 53424 Remagen)にて営業中)に置かれた。
但し、この“レマゲン戦闘指揮官”という役職は、あくまでも名目上のものであり、それぞれに指揮系統を有する対空砲部隊、国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)、国家勤労奉仕団(RAD:Reichsarbeitsdienst)、地方防護警察(Schutzpolizei der Gemeinden)など橋周辺の全組織に対する指揮権を実際に有するものではなく、その権限が発動できるのは緊急時のみという限定的なものだった。

 

 

更なる直近の指揮系統の変更は、より事態を複雑にした。

2月1日、第6軍管区(管区司令官:フランツ・マッテンクロット陸軍歩兵科大将)が、レマゲンの管轄を第12軍管区に移管し、3月1日、米第9軍による「グレネード作戦(ローアー(Roer)の戦い)」の最中に第5装甲軍(司令官:ハッソ・フォン・マントイフェル陸軍装甲兵科大将)と第15軍(司令官:グスタフ・アドルフ・フォン・ツァンゲン陸軍歩兵科大将)の担当区域が入れ替えられた。

その数日後、独軍がルール川から撤退するなか、ボン方面に展開していたカール・ピュヒラー陸軍歩兵科大将率いる第74軍団が、ボンおよびレマゲン周辺の橋頭堡の指揮も執るものと思われていたが、モーデルは、ラインブロール(Rheinbrohl)まで撤退していた第18国民擲弾兵師団の指揮官にヴァルター・フーゴ・ボッシュ陸軍中将を任命し、同師団をレマゲン地区の防衛に充てた。

これは、ツァンゲン率いる第15軍の南側面に位置するボッシュの第18国民擲弾兵師団が、直接的な隷属関係にはないものの、同軍の作戦区域において南翼防衛の戦術的一翼も担う形となったことを意味していた。

 

ボッシュは、戦況の把握に努めるなかで、上官であるツァンゲンとモーデルという二人の将軍の見解の違いに真正面からぶつかることになる。

モーデルは米軍の主攻がボンに向かうと考えていたのに対し、ツァンゲンは“漏斗の注ぎ口”にあたるレマゲンを突破口として進撃してくると見ていたのである。

どちらの可能性にも備えるため、ボッシュは司令部をボンとレマゲンの中間地点に置きたいと考えたが、モーデルはあくまでもボン、あるいはその近郊に置くよう強く命じた。

ところがボンに赴いたボッシュは、同地区の防衛司令官リヒャルト・フォン・ボートマー陸軍少将と、ボンにおける指揮権の所在をめぐって折り合えず、調整は難航した。

ボッシュは、この複雑に入り組んだ指揮系統をめぐる調整に…3月初旬の数日間を、第15軍とB軍集団の司令部、そしてボンとレマゲンの間を疲労と苛立ちのなか奔走することとなる。

3月6日早朝、アール川沿いを第15軍司令部へ向かう途中、ボッシュはライン川へ向けて潰走する部隊や消耗しきった兵士たちの姿を目の当たりにし、戦線の崩壊が現実のものとなりつつあることを肌で感じた。

このような現場感覚は、レマゲンでの防衛にとって大きな助けとなったかもしれないが、ボッシュにはそれを活かす機会が与えられなかった。

というのも、6日午後、第53軍団司令官エドウィン・ロートキルヒ騎兵科大将が、エーフェル地方(ビトブルク北東、ダウン周辺)で米軍に捕らえられたため、モーデルはその後任として、ボッシュを第53軍団の司令官に任命したのである。

その日の午後5時には、ボッシュは新たな任務地…第53軍団が駐屯するトリール(Trier)に赴くため、後任者への引き継ぎの時間すらなくラインブロールを出発している。

ボッシュの異動を知ったツァンゲンは、第67軍団司令官のオットー・ヒッツフェルト歩兵科中将に、レマゲン地区の防衛状況を直接確認するための適任者を派遣するよう命じた。

その数時間後の翌7日午前1時、ツァンゲンは第67軍団に対し、レマゲンの“漏斗の注ぎ口”における防衛準備を命じるとともに、レマゲン橋頭堡の全防衛責任を同軍団に移管した。

第67軍団司令部はクルトシャイト(Kurtscheid)に置かれており、レマゲンから20㎞程しか離れてはいなかったが、ヒッツフェルトはこの時点においてレマゲンの鉄道橋に関しては勿論、この地区における殆ど何の情報も持ち合わせてはいなかった。

この時すでに米軍はレマゲンから15㎞以内に迫っていた。

 

※第67軍団司令部は、当初はアルトヴィート(Altwied)に置かれていたが、資料によれば…夜間に激しい砲撃を受けることもあり、後にそこから北東に約13kmの“Nuscheid”への移動が記されている。 

だが、現在の地図上では該当する地名は確認できず、綴りの誤記・誤読の可能性を考慮すると、クルトシャイトがその実在地であった可能性が高い。

 

 

 

7日午前1時20分、副官のヨハネス(“ハンス”)・シェラー陸軍少佐を呼び、レマゲン地区司令官(Abschnittskommandant von Remagen)に任命するとともに、すぐさまレマゲンへ向かうよう命じた。

現地で全指揮権を引き継ぎ、可能な限り兵力を集め、小規模でも橋頭堡を築くようにという指示だった。

さらにヒッツフェルトは、橋の構造と爆破準備の状況を到着次第すぐに確認するよう、特に念を押し、「状況により、もし必要ならば、君は自分で爆破命令を下してよろしい」と付け加えた。

午前2時過ぎ、シェラーは8人の兵士と一組の無線機を携え、2台の車両に分乗し、小雨が降り霧の立ち込める司令部を出発した。

暗闇と退却中の車輛や兵士らで混雑したアイフェル丘陵の曲がりくねった夜道をレマゲンへと急いだが、シェラーの車輛は燃料が尽きかけていたため、燃料補給所のあるデーデンバッハ(Dedenbach)を経て回り路をせねばならなかった。

シェラーは、無線機を積んだもう一台には、このままレマゲンに直行するように命じ、二手に別れている。

夜が明け始め、無線機を携帯した方の車輛は、その先に既に米軍の戦車部隊が進出していることを知った。

接近を試みたが、突破は不可能と判断し、やむなく司令部へ引き返している。

これによりシェラー…つまり、レマゲン守備隊は、大切かつ唯一の通信手段を持たぬまま最後を迎えざるを得なくなったのである。

 

 

2月の段階では、一部の米軍幕僚のなかに橋の奪取を想定する空気も若干はあったものの、可能性は極めて低いとされ、むしろ橋の爆破を遅らせるための空爆を継続するよう要請していた。

3月初頭には米第9軍で一時的に希望が高まったが試みは失敗し、独軍が橋を確実に破壊するだろうという見方が強まり…

3月6日の時点で、現場の指揮官や将兵のなかに橋を無傷で奪取できるという非現実的な期待を抱く者はもはや殆どおらず、米第9機甲師団に発令されたこの日の命令でも、米第1軍の方針に従い、作戦目標は南東方向へと修正され、アール川の渡河を重視する進撃が開始され、“レマゲン鉄橋”の奪取は正式な作戦目標からは外されていた。

この日、電話での戦況を巡るやり取りのなかで、米第3軍団のジョン・ミリキン米陸軍少将が、米第9機甲師団のジョン・W・レナード米陸軍少将に「橋が取れたら名を残すぞ」と冗談交じりに語ったというが…この時、両将とも、十数時間後にそれが現実のものとなるなどとは想像すらしていなかった。

 

ラインバッハの交通要所をめぐる激しい攻防により、一時的に進撃が阻まれたものの、米第9機甲師団の戦闘司令部A(CC-A)は約16㎞以上の前進に成功し、深夜にはアール川まで残り3.2㎞程の地点に到達した。

同じく同師団の戦闘司令部B(CC-B)はシュタット・メッケンハイムに進出し、ライン川までわずか13㎞程の距離に迫った。

さらに、米第1歩兵師団の一部はボン北西でライン川から約6.5㎞以内に接近していた。

 

翌3月7日朝、J・ロートン・コリンズ米陸軍少将率いる米第7軍団が隣接するケルン周辺の抵抗を排除したことを受け、ホッジスは、ボンの掃討任務も米第7軍団に任せ、併せて米第1師団もその指揮下に置いた。

その頃、米第9歩兵師団はバート・ゴーデスベルクに迫りつつあり、米第9機甲師団のCC-Aはバート・ノイエナールでアール川を渡河した。

独軍はヒッツフェルト率いる第67軍団の退却路であるアール渓谷の幹線道路を死守しようと激しく抵抗したが、CC-Bは一部をライン川との合流点付近で渡河させ、もう一部…米第27機甲歩兵大隊と米第14戦車大隊(1個中隊欠)を基幹として、その米第14戦車大隊指揮官のレナード・E・エンゲマン米陸軍中佐を指揮官とする任務部隊(エンゲマン戦闘団)を編成し、ライン川沿いに位置する人口5,000人程の町…レマゲン方面へと進撃させた。

メッケンハイムからの道路は瓦礫で塞がれていたため、戦車ドーザによる整備を待たねばならず、出発は午前8時20分とだいぶ遅れたが、独軍はこの遅延を有効に活用することはできなかった。

 

進撃開始から約5㎞地点で軽微な砲撃と小火器による抵抗に遭遇し、さらに2㎞半程東進した後に南へ転進し、正午前にはレマゲン西方の森林地帯に突入した。

森林内では、米軍に降伏を望む独軍兵の小集団が投降する光景が見受けられた。

 

7日の夜明け直後から、橋の周辺は、圧倒的な戦力をもってアール渓谷を南下し、追走してくる米軍から敗走してきた車輛、馬車などの車列…さらに、項垂れ、疲れ果て、意気消沈した独軍の将兵、負傷兵や脱落兵たちが統制を失ったまま次々と橋へと押し寄せ…橋の上は制御不能な交通渋滞に陥り、混乱の渦のなかにあった。

もし、フリーゼンハーン以下…工兵部隊による前4日間にわたる…線路を敷板で覆う突貫の敷設作業が間に合っていなかったならば、この混雑はさらに深刻なものとなっていたことであろう。

 

戦争を始める1年程前の1938年の段階で、既にOKW(国防軍最高司部)は、この橋の綿密な爆破計画を立てていた。

手筈としては、厚い鋼管に収められたケーブルで爆薬と接続された電気信管が設置され、万一それが作動しない場合には、手動で導火線に点火し、非常用の爆薬を起爆できるようにとなっていた。

さらに1944年末には、レマゲン側の橋頭に大きな溝を掘って敵戦車の進入を遅らせ、その間に本爆破を完了させるという追加の計画も立てられていた。

 

工兵部隊の現場指揮官であるフリーゼンハーンは長くこの任にあり、爆破計画にも精通していたが、任務を複雑にする新たな命令を…前日の6日に受けることとなる。

既記の如く、6日に…ケルンの独軍守備隊により、撤退直前にホーエンツォレルン橋が…予定より早く爆破されてしまったことを受け、OKWは、米軍の前線が橋から8㎞以内に迫るまでは爆薬の設置を禁じ、さらに「爆破が避けられないと判断されるまで」信管の取り付けも行わないよう命じ…加えて、爆薬の準備命令および爆破命令のいずれも、当該地区の“戦術責任者”…つまり、第67軍団司令官であるヒッツフェルトによる書面での発令が必要とされた。

 

ボッシュは、ボンの防衛に一個師団、そしてブラトゲとの約束でもあったレマゲンへの一個連隊の増援をモーデルに要請したが、モーデルの返答は「そのような戦力はもはや存在しない」という冷ややかなものであった。
6日夜半、ブラトゲは…この件の進捗に関してボッシュの司令部に連絡を取ろうとしたが繋がらなかった。
ブラトゲは知る由もなかったが、この時、ボッシュは既記の如く新たな任務地…トリールに既に異動してしまっていた。
そのうえ、その事をブラトゲに伝えるべく、ボンのボートマーの司令部から派遣された連絡将校の車は道に迷い、あろうことか米軍の陣地に迷い込み、捕虜となっていた。


結局のところ、レマゲンに増援は一兵たりとも届くこてはなく、眼前では友軍は橋を渡って退却していく一方である。

正規に設置された情報系統というものを持たなかったブラトゲの部隊は、専ら米軍の行動に関する情報は退却中のその友軍に依存せねばならなかった。
そこから聞き及んだ多くの情報(聞き伝?)によれば、既に米機甲部隊がレマゲンから僅か8㎞程西のビルレスドルフ(Birresdorf)に迫っているとのことであり…

焦りを募らせたブラトゲは、7日の早朝にB軍集団司令部へ電話をかけて指示を仰いだが、対応したのは当直の作戦将校補佐官メイ陸軍中尉のみで…そのうえ、その当該将校は、「びくつくことはありません。それらの戦車はボン、ケルン、およびデュッセルドルフに向っているものです」と、レマゲン地区の現状に関しては、深刻な脅威に晒されているとの特段の懸念すら抱いていない有様だった。

更には、「いやしくも練達な将校たる(ブラトゲ)大尉ならば、当然、これが米軍の主力ではないことはご理解いただいているものとは思いますが…」と皮肉めいた言葉で会話を打ち切ったとのことである。

 

この時点での橋の防衛戦力としては、ブラトゲの直接指揮下にあった第80補充訓練大隊(Grenadier-Ersatz-Ausbildungs-Bataillon 80)から編成された傷病兵を含む1個中隊…いわゆる“回復兵中隊(Genesenden-Kompanie)”の36名と、フリーゼンハーン指揮下の第12中隊20名弱(※当初は120名程の中隊だが、各所での工兵作業で分散しており、当日に橋にいたのがこの人数)、そして地元住民から徴用した…装備・訓練ともに極めて不十分かつ信頼性に乏しい国民突撃隊の10〜15名、および鉄道警備兵、憲兵、通信兵などの10〜15名だったとされている。

 

業を煮やしたブラトゲは、やむなく…撤退中の第3降下猟兵師団の残兵をかき集め、アール渓谷方面からの米軍の進出を阻むべく、翌7日午前5時より、レマゲンの南西4㎞程に位置するバート・ボーデンドルフ(Bad Bodendorf)付近に防衛陣地を敷設するよう命じた。

だが、程なくその残兵たちも敗走する群衆に紛れて姿を消していた。

7日午前11時15分頃、ブラトゲが橋の交通統制点で確認作業をしていると、そこに…目は充血し、、疲労困憊の陸軍少佐…ハンス・シェラーら一行が近づいてくるのが見えた。

ブラトゲは、シェラーがヒッツフェルトの命を受け、レマゲンの全指揮を引き継いだことを確認し、指揮権を移譲した。

ブラトゲは後年、この時の様子を以下のように回想している。

「私は、状況を劇的に変えてくれるような強力な増援や、明確な権限を持った将軍が来るのを期待していた。しかし、やってきたのは、たった数人の部下を連れた疲弊しきったシェラー少佐だった。彼が持ってきたのは『命令書』だけで、我々が喉から手が出るほど欲しかった“大隊”も“通信機”も持っていなかった」

さらに、「何時間もかけて、やっとのことでレマゲンに辿り着いた直後であり、精神的・肉体的に消耗しており、到着直後は状況を把握するのに精一杯で、毅然とした指揮官という風貌ではなかく、ただ彼は現場の状況を理解するよりも先に、自分の権限を主張することに固執しているように見えた」とも述懐している。


シェラーが到着して10分程経った時、伝令が「レマゲンの西方の丘にいる部隊が米軍の戦車と歩兵によって攻撃された」と報告してきた。
二人のいる場所からも、RAD(国家労働奉仕団)のキャンプが展開していたレマゲン(西岸)側のヴィクトリアベルク丘上付近から煙が煙が立ち上り、小銃と機関銃による断続的な銃声も響いていた。

だが、この状況でもシェラーは冷静だったとブラトゲは語っており、「では、橋の視察に出かけることにしましょう」と言い、この後二人は、橋の爆破準備の進捗を確認するため現場の爆破責任者であるフリーゼンハーンのもとへと向かったという。


ルーデンドルフ橋のような鋼鉄アーチ構造と橋脚を有する堅牢な橋梁を“完全破壊”するためには、工学・建築学的には少なくとも約6,000kg以上もの爆薬が必要とされるそうであるが、戦況の逼迫と補給の困難さを踏まえ、現場責任者であるフリーゼンハーンは、たとえ少量であってもトロチル(TNT)やSprengstoff 28といった軍用規格の高性能爆薬を要所に設置すれば、橋のデッキや路面、接合部に致命的な損傷を与え、少なくとも通行不能にはできると判断し、600kgというギリギリの量を要請したものと思われる。  
しかし7日午前11時頃にようやく届いたのは、爆速がTNTより遅く、鋼鉄構造物の破壊には不向きな工業用爆薬のドナリット(Donarit)が300kg程に過ぎず、しかも一部は湿気を帯びて劣化していたため、起爆性能の低下も懸念された。  
やむなく、爆薬は塔楼や橋脚などの要所への限定的な設置作業が急ピッチで進められた。  

フリーゼンハーンは新司令官に対し、「この爆薬は土木作業用で、鋼鉄の橋を確実に落とすには威力が不十分であり、量も足りない」と強く主張した。
シェラーも、追加の爆薬や資材が届く見込みがないことを知っていたので、「今あるもので何とかするしかない」と答えるしかなく、この時点で“確実な爆破”への自信は揺らいでいく。
さらに深刻だったのは、起爆させるための“電気式点火装置”への信頼性であり、ブラトゲとフリーゼンハーンは、度重なる米軍の砲撃によって、橋に張り巡らされた電気系統の配線が切断されている可能性を危惧していた。

ブラトゲは、「米軍はすぐそこに来ているので、これほど不安定な爆薬なら、敵が来る前に余裕を持って今すぐにでも爆破作業を行うべきだ」と主張したが、シェラーは 「いや、まだ西岸に味方が残っおり、また軍団からは“可能な限り橋は維持せよ”と言われている」とし、橋の爆破命令を出すことに慎重だった。
確かに、多くの将兵と貴重な装備がまだ西岸に取り残されている現時点での橋の爆破は、彼らを見殺しにするのに等しく、また大きな損失にもつながると考えたシェラーは、ぎりぎりの判断を迫られながらも、決断を躊躇った。
シェラーは「午後4時までは爆破を待て」と指示を出しているが、“橋の爆破”に関する不安要素が多々あるなかで、さらに“時間的猶予”を削るという二重のリスクを冒すことになったのである。

 

西岸の対空砲陣地に配備された38式4連装2cm対空砲(2cm Flakvierling 38)。

 

爆撃により砲座が崩壊し使用不能となった…エルペラー・レイの高台に設置された38/39式10.5cm高射砲(10.5cm Flugabwehrkanone 38/39)。

 

 

そして午後12時56分…(米)A中隊(ティマーマン戦闘団)歩兵先遣隊である第2小隊を率いていたエメット・J・バロウズ米陸軍少尉が…森林を抜け、アポリナリスベルク(Apollinarisberg)の高地からレマゲンの町を見下ろすと、眼下には、曇天のもと、冷気に包まれ、霧がかったライン渓谷の壮麗な景観が広がり、そして何と!ライン河上にまだ破壊されずに聳える…“レマゲン鉄橋”が望見できたのである。

 

※この画像は、エルペラー・レイの高台から橋を一望したもので、上方に広がる街並みがレマゲンとなる。

 

バロウズは…この前日のメッケンハイムでの戦闘において、(前)中隊長のクライナー米陸軍大尉が戦死したことをうけ…急遽、A中隊の指揮を任された若干22歳のカール・H・ティマーマン米陸軍中尉に、ほぼ無傷の橋の発見をかなり興奮気味に伝えたという。
ティマーマンから報告を受けたエンゲマンもまた、橋を目の当たりにすると、バロウズやティマーマンらと同様に驚きと興奮を隠せなかった。
少し遅れて、CC-Bの作戦将校であるベン・コスラン米陸軍少佐も到着し…やはり興奮気味に「Oh my God!(なんてこった!) 早くオヤジ(CC-B司令官ウィリアム・M・ホーグ米陸軍准将)を呼んでこい!!」と大声で叫んだという。
ホーグは、アール渓谷方面へ向かう別動隊が主力部隊と見なされていたため、そちらに随行していたが、コスランの無線報告を受けると、すぐさまホーグもレマゲンの高台に駆け付けてきた。



眼下では、退却のため橋へと殺到する独軍の車列、人並が群を成している。
ホーグは、橋の奪取に伴う危険性を見極めつつ、破壊される前に行動すべきか否かで葛藤していた。
そんな折、CC-Bの別動隊から午後3時15分頃に届いた報告によれば、ジンツィッヒでの戦闘中、地元住民から「ドイツ軍はルーデンドルフ鉄道橋を午後4時ちょうどに爆破するつもりだ」との情報がもたらされた。
実際には、独軍側にそのような明確な時刻設定はなかったのだが、この通報はホーグに危機感を募らせ、エンゲマンに一刻も早く橋を奪取するよう命じた。

 

午後1時10分頃、シェラーは戦闘指揮所を東岸側のエルペル鉄道トンネル内に移動することを命じ、ブラトゲは機密書類などの運搬に留意しながらその移動を監督した。
またシェラーは、ヴィクトリアベルク丘上に展開するRADなどのグループを急ぎ橋まで撤退させるよう指示し、ブラトゲはこの指令を警戒部隊に電話したが、発信音は鳴っているものの、その時既に彼らは敗走した後だった。

 

午後1時40分、米軍による橋への攻撃が始まった。
米第14戦車大隊から新たに到着したM26パーシング重戦車の小隊が先頭に立ち、ティマーマン率いるA中隊がこれに続いて進撃した。

 

午後2時を少し過ぎた頃、米軍の戦車の砲撃および歩兵による銃撃は既に橋に命中し始めていた。
フリーゼンハーンは、2名の下士官と2名の志願兵を伴い、橋西岸からの車輛の通過を妨げるに足る大きさの孔を橋の取付道路に開けるべく図られた爆弾に連結された時限信管の近くに待機した。
警笛を鳴らしたジープと歩兵たちが橋から数百メートル程のところにまで迫っていた。
フリーゼンハーンは「点火!」と叫び、時限信管が効力を現す6秒間を息を吞んで待った。
砂埃と煙が立ち上り、取付道路には10m弱の漏斗孔が形成されていた。
とりあえず一安心したフリーゼンハーンたちは、背中越しに銃声が響くなか、トンネルに向け一散に駆け戻った。
何とか橋を渡りきり、フリーゼンハーンはあたりを見回したが、そこにはゲアハルト・ローテ陸軍軍曹しかいなかった。
その時、一発の戦車弾が橋上に炸裂した。
衝撃で打ち倒され、起き上がろうとしたが、軍服はひどく引き裂かれ、流血し、そのまま15分程、気を失っていたとのことである。

午後3時10分過ぎ…フリーゼンハーンと、少し遅れて…脚に大怪我を負ったローテは途中這いながらも何とかンネルまで辿り着くことができた。

レマゲン市街における散発的な独軍の抵抗を排除しつつ、午後3時12分、米軍は橋の取付道路付近に達していた。
さらに、小火器や2cm機関砲による断続的な射撃をかわしながら、部隊は前進を続けた。

 

フリーゼンハーンはブラトゲに、「橋を爆破する許可を貰ってくれ!」と怒鳴った。

そして、この命令を直ちに実行しない限り、橋の爆破失敗に対する責任は取れない旨付け加えた。

ブラトゲは大急ぎでシェラーのもとに走り、「少佐、あなたが橋の爆破命令を下さないなら、私の一存で橋を爆破させますよ!」と言い放った。

 

東岸のトンネルは、独軍兵士・国民突撃隊(DV:Deutscher Volkssturm)隊員 ・民間人・外国人労働者・少数の捕虜、そして動物までもが身を寄せ合う避難所と化していた。

フリーゼンハーンは「全員気を付け!我々は今から橋を爆破する。全員奥に退避し、うつ伏せになれ。鼓膜が破れぬように口は開けておけ」と告げた。

 

午後3時20分過ぎ、シェラーはようやく第一弾となる橋の西側部分の爆破命令を出した。

フリーゼンハーンは発破器のハンドルを回した。

薇発条(ぜんまいバネ)がしっかり巻かれた時、爆破薬は起爆することになっていた。

だが、何も起こらない。

フリーゼンハーンは、慌てて再び巻いたが、依然として何も起こらない。

分厚いパイプの中に収納された導火線は、砲弾が命中してもそう簡単には寸断されることはないと思いつつも、その振動が電気回路に少なからず影響を及ぼさないとも限らず、おそらくはそのせいで電気起爆装置は作動しないものと思われた。  

こうなっては熟達した修理工からなる非常修理班により回線の遮断部を修理させる他はないが、銃弾が降り注ぐなか、故障個所の地点までたどり着くこと自体が容易なことではないにもかかわらず、何処に故障個所があるのかを発券し、迅速に修理することなど到底無理な話である。

斯くなる上は、非常用爆破薬に直接繋げられた雷管コードを手動点火させる他なく、フリーゼンハーンは、下士官全員をトンネルの入り口付近に呼び集め、この危険な任務の志願者を募ったが、誰も名乗り出る者はいなかった。

その時、カール・ファウスト陸軍曹長が「私がやりましょう!」と申し出た。

最小限の爆薬で最大の損害を与え得るだろうと鉄道技師たちが割り出した位置…トンネルからは80m程先の橋上に雷管コードと爆破薬は設置されていた。
ファウストは、銃弾を潜り抜け、匍匐で前進していった。
だが、橋の“爆破威力の算出”の参考とした爆薬は軍用火薬によるものであり、今設置してある火薬が、果たして橋を破壊する程の威力があるのかは疑問であった。
ただ今となっては、少量であろうが、劣品であろうが…破壊とまではいかずとも、とにかく橋に致命的な打撃を与えてくれることを祈るしかなく、その鍵を握るファウストにただただ任せるしかない。
フリーゼンハーンは、居ても立っても居られず、橋の袂まで向かったが、すぐさま機関銃掃射を受け、あわてて遮蔽物に身を隠した。
そこにファウストが戻ってくるのが見えた。
午後3時40分、爆音が轟き、木材が宙を舞い、橋は崩れ落ちたかに見えたが、煙が晴れると、デッキ中央部に多少の穴が空き、周囲の鉄骨構造の一部に歪みや変形は見られたものの、アーチおよびトラスといった橋梁自体の主構造に致命的な損傷を与えるには至らず、橋は依然としてその姿を留めたままだった。

 

その光景を目の当たりにすると、すぐさま、M26パーシング戦車による弾幕射撃が開始され、それに呼応しティマーマンはA中隊に“渡橋”を命じた。

 

橋上では散発的な銃撃戦はがあったものの、独軍側の抵抗は軽微だった。

同時に、米第9機甲工兵大隊の工兵たちは橋の下部に設置された爆破装置の導線を切断、追加爆破はこれにより阻止された。

 

A中隊/第3小隊所属のアレクサンダー・A・ドラビック米陸軍軍曹の分隊が最初に東岸に突入。

続いて同小隊所属のジョセフ・A・デリジオ米陸軍二等軍曹の分隊が東岸の橋塔に突入し、 橋上での脅威となる敵火点(銃座)を掃討、橋塔を制圧し、午後3時50分頃には東岸の鉄道トンネルの入り口に到達。

午後4時頃には米兵約120名が渡橋を完了。 

 

ティマーマンは、デリジオら数名の斥候をトンネルへ派遣し、内部の爆破装置と起爆要員の確保に当たらせた。
ブラトゲ、フリーゼンハーンらトンネル内の独軍部隊は散発的な抵抗を見せたものの、斥候班により程なく制圧され、午後5時15分頃に正式に降伏。
周辺一帯も米軍の掌握下に置かれた。
(因みに、同日夜には独軍潜水兵による橋梁破壊工作も試みられたが米軍に捕縛されている。)
 

しかし、トンネル上方の高台は依然として独軍の観測・射撃位置として脅威であり、、そこからの銃撃、砲撃と地形の険しさに阻まれ、急斜面をよじ登っての制圧を試みたものの、重火器を持ち上げられない状況下では、小銃・手榴弾中心の戦闘となり、滑落や砲撃による負傷者が続出し、バロウズ率いる第2小隊の高台制圧は難航を極め苦戦した。

何とか日没までには斜面を確保したものの、頂上付近の制圧までには更に2~3時間程を要した。

因みに、この高台における戦闘を称して“Suicide Cliff(自殺の崖)”とも言われるが、これは戦後の回想であり、当時の公式呼称ではない。

もし独軍が即時に戦車と歩兵による組織的反撃を行っていたならば、橋の奪取および高台制圧は難しかった可能性が高いと分析されている。

 

路面損傷部などは、米軍工兵部隊により10時間程で補修され、同日深夜には戦車も渡河を開始した。

 

米軍により橋が奪取された後、独空軍(LW)は戦闘爆撃機に加え、ジェット機(Me262、Ar234)による航空攻撃を試みたが、制空権を失っていた状況下では、もはやレマゲン周辺にほとんど航空戦力を展開できず、また激しい対空砲火に阻まれ効果は限定的であった。
さらに砲撃やV2ロケットなどによる多様な攻撃も試みたが、橋は損傷を受けつつも、その都度の補修により、その後も10日間使用し続けられた。

 

 

だが、先の爆破未遂時における損傷や連日の被弾による損傷に加え、過負荷(兵員・車輛の通行)などによる構造疲労を齎す複合的要因が相俟って、3月17日午後3時…ついにルーデンドルフ橋は崩落した。
崩落時、橋上で対空砲を撤去する作業を行っていた米第639高射砲大隊の兵士28名が死亡、93名が負傷している。

 

 

米軍はもともと橋を無傷で奪取できるとは想定をしておらず、あらかじめポンツーン(舟橋、浮橋、浮遊橋脚橋)などの周到な渡河準備を進めていた。
故に、この橋を占拠した意義は、“戦略的”実用性というよりも、連合軍将兵にとっての強い“心理的”象徴性にこそあった。
後にアイゼンハワーは「橋の重さ分の金に値する」と評し、この出来事は“レマゲンの奇跡”として、プロパガンダ的に利用されていく。

 

 

現在も橋梁そのものは崩落したまま再建されていない。
戦後しばらくはライン川沿いの一帯が米軍占領地域に含まれていたが、1955年の占領終了とともに橋跡の管理権は独側へと返還され、レマゲン側の西岸橋塔は市の所有となり、内部は“レマゲン平和博物館(Friedensmuseum Brücke von Remagen)”として一般公開されている。
一方、エルペル側の東岸橋塔はドイツ連邦鉄道財産管理局(BEV)の管理下にあり、現在は売却対象物件となってもいるようだが、文化財指定ではないものの歴史的遺構としての扱いで利用制限があることに加え、エルペラー・レイの急斜面に近くアクセスが良いとは言えず、周囲は静かな住宅地で商業利用における収益化の見込みも薄く、何より改修には莫大な費用がかかるため、未利用のまま放置されている。

 

レマゲン鉄橋 【中編】に続く…

栗塚 旭氏が令和7年9月11日までに、京都市左京区のご自宅で死去されていたことが分かった。(享年88歳)



栗塚さんはBSフジの時代劇『三屋清左衛門残日録』に出演予定だったということだが、撮影前になっても連絡が取れず、また撮影日にも現場に現れなかったため、警察の協力のもとご自宅に入り、死亡が確認されたとのことである。
「最近お会いしたときは変わった様子はなかった」との談もあり、この突然の訃報に接し、私自身も驚きを隠せない。
謹んで心よりご冥福をお祈り致します。

司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』(1964年(昭和39年)刊行〈文藝春秋〉※週刊文春誌上にて1962年11月~1964年3月連載)に登場する新選組”鬼の副長”を具現化したかの如くの土方歳三役は…“ミスター土方”とも称された栗塚さんの代表的な役柄であることは言うまでもないが…
以前、『ひじカタナ話』でも触れさせていただいたが、私の中では“栗塚 旭”というと、やはり『俺は用心棒』、 『帰って来た用心棒』、『用心棒シリーズ 俺は用心棒』の用心棒シリーズ4部作中の3作における“野良犬(謎の浪人)”の方がドンピシャであり、シリーズを通して栗塚さんの数ある出演作のなかでも好きな作品である。



栗塚さんは、出演する番組主題歌などを歌ったレコードを何枚か出されているのだが…
この『帰って来た用心棒』(1968年~1969年、NET/東映)では、主題歌となる…A面「野良犬がいく」、B面「おとこ独り」の2曲が収録されたドーナツ盤(シングルレコード)が、番組放映中の昭和43年(1968年)にテイチクレコードより発売されている。
その両面のタイトル「“おとこ独り”“野良犬がい(逝)く”」が、“栗塚 旭”という役者(俳優)・男の死に様に妙に符合して思えてならない。

栗塚さんは生涯独身だったとのことで、京都市左京区のご自宅では独り暮らしをなさっていたものと思う。
昨年(2024年)、警察庁による「孤独死」に関する初めての集計において、独り暮らしの自宅で亡くなった人数は76,020名で、うち76.4%の58,044名が65歳以上の高齢者だったとのことである。
また、その御遺体のうち、死亡推定時点から発見までにかかった日数は「当日から1日」が最多で39.2%を占めているが、7.8%にあたる4,538名は「一ヶ月以上」経ってようやくその死が確認されたとのことである。

50代からお亡くなりになられた方の人数が増えだしていることが、この統計からも見て取れるが、私の友人二人(40代、50代)、そして叔母二人(80代、90代)といった身近な存在のなかでも…独り暮らし故に、その死後、数日しての発見となっている。
私自身も還暦を過ぎ、独り暮らしの身…“孤独死”は決して他人ごとなどではないのである。

2024年の時点で、65歳以上の高齢者の一人暮らし世帯は約855万世帯(女性:64.4%、男性:35.6%)で、単独世帯全体の約46.2%を占めており、高齢者世帯の約半数が一人暮らしという状況なのだとか。
必然的に、毎度の食事も独りで摂らざるを得ず…
農林水産省の2017年度『食育白書』によると、独りで食事をする割合が「週に4~6日」が4.3%、「ほとんど毎日」が11.0%で、これらを合計すると15.3%の方が、いわゆる「孤食」の状況にある。
斯く云う私もその一人である。

 


その「孤食」に関し、65歳以上の男女71,781名(女性:38,698名、男性:33,083名)を約3年間追跡し、孤食と死亡との関係を調べた東京医科歯科大学の平成29年(2017年)の調査によると、“独居で孤食”の人の死亡リスクは“同居者ありで共食”の人に比し1.2倍、ちなみに、同居しているにも関わらず孤食の人の死亡リスクは1.5倍との興味深い結果も出ており、“物理的に家族や同居者がいる”だけでは十分な社会的・心理的サポートが得られないということを示唆しているのかもしれないが、何れにせよ、「孤食」が死亡リスクとなる可能性は否定できない。


独り身だと、ついつい美味しいと言われるモノや少々お値段の張るモノなどをお取り寄せしてみてしまうのだが、いざ独りで頂いてみても、思った程は美味しく感じられない。
つまるところ、“何を食べるかではなく、誰と食べるか”ということを夙に思う。

用心棒シリーズを見ていると、あたりめでもしゃぶりながらぐい呑みで一献…いや、二献、三献と傾けたくなってくる。
今宵はお取り寄せしたあの御酒で、『俺は用心棒』でも見ながら栗塚 旭さんに献杯…

私が小学生の頃、給食の時間には…当番による配膳が終わるまでの間などに教室脇の学級文庫から好きな本を取ってきて読むことが出来た。
小説や童話以外に漫画(コミックス)の単行本などもあり、そのなかでも私はよく戦争漫画・戦記漫画をよく読んでいた。
この間、校内放送ではクラシックの静かな曲などがBGMとして流されていたのだが、時にその物静かな…物悲しい旋律が物語の内容とも相俟って、子供心にも感涙にむせぶことがしばしばあり、“給食”というと「何を食べた」「あれが美味しかった」ということよりも、まずそうした記憶の方が強く印象に残っているくらいである。

今年の11月で100歳となる父は戦時中(末期)、三重縣鈴鹿郡高津瀬村(現:鈴鹿市高塚町)にあった陸軍第一航空軍教育隊(中部第132部隊)で飛行兵候補生として飛行訓練を受けていたが…幸いにも、実戦(特攻作戦など)に配属されることなく終戦を迎えることができた。
戦時中のことはあまり語ることはないが、それでも一式戦闘機「隼」や…特に三式戦闘機「飛燕」は格好良かった…ということを幼少の頃より聞いていたこともあり、私のなかでの戦闘機(日本軍)の代名詞といえば…
海軍の“零戦”は勿論だが、陸軍の“隼”や“飛燕”…

 


そして、もう一機…深く印象に残り続けてきたのが旧日本海軍最後にして最高の名機といわれる紫電二一型…通称“紫電改”であり…
それはひとえに…最初は、学級文庫で出会った『紫電改のタカ』からくるものであったことに他ならない。

 


この若き紫電改パイロットの奮闘を描いた『紫電改のタカ』の作者は、代表作である『あしたのジョー』で広く知られる“ちばてつや”氏である。

 

昭和38年(1963年)7月から昭和40年(1965年)1月まで週刊少年マガジン(講談社)の誌上にて連載されていた作品なので、当然リアルタイムでは読んではいないが…

 


確か、学級文庫では何巻かが欠けていたこともあり、全巻を買い揃えて読んだ記憶がある。

 

童友社から発売された1/100スケールの「Taubasa Colleetion EX 紫電改のタカ (滝 城太郎 搭乗機)」の箱絵。
未組み立てではあるが、既にしっかりと塗装もされており、しかもマイクロモーターを使用してプロペラを回転させることも出来る。

氏が当時の担当者と、何か戦記モノを描いてみようということになり、資料のために読んだ戦闘機に関する本のなかで、“紫電改”という不遇の名機に対して、愛情を込めて書かれた本に巡り合い、有名な“零戦”ではなく、“紫電改”という素晴らしい戦闘機を軸に、何か青春群像を描いてみたいという思いで生まれたのが、この『紫電改のタカ』であったが…
平成2年(1990年)10月の談では、「日本が追い込まれるだけ追い込まれていた終戦直前の時期の話ですから、お話がすごく地味だし、とにかくだんだん暗く悲惨になってくるんです。主人公の滝城太郎も自分で描いてて嫌になるくらいクソまじめな奴だしね(笑)」としたうえで、「『紫電改のタカ』という作品そのものについては、僕は失敗作だったんじゃないかと思うんですよ(笑)。最初、思ったことが描ききれなかった、そういう悔いは残ってるんです。」と語っている。
確かに、氏による唯一の航空戦記漫画で、“紫電改”に乗機する主人公の滝城太郎が、仲間(戦友)たちとの交流を通して成長、活躍そして死に接するなかで、戦争の無意味さを悟り、苦悩する物語であるが…
色々な情報に接し、頭でっかちになってしまった現在の自分があらためてこの作品を読み返すと…
当時の漫画では当たり前の展開も…氏の葛藤を反映するように…
どこかドタバタと、またかなり突飛で、多少ご都合主義的であったり、滑稽とも思える展開もなくはないが…
ただ、小学校低学年当時の私はページをめくるたびに心振るわせたのも事実であり…『紫電改のタカ』は、今なお語り継がれる戦記漫画の代表作といっても過言ではない。

この作品の最後は…

滝たちにもついに特攻の命が下り…
悪あがきとわかっていても、祖国を一日でも、ひとりでも多くの日本国民を空襲から守るために…
滝もまた、母を…信子を…これからの社会を背負って立つ子供たちに戦争の醜さ、恐ろしさ…そして同じ轍を踏まぬよう教師となって教えていきたいという夢もかなぐり捨てて大分航空基地を飛び立って征く…
そのころ、母と信子は滝との面会を楽しみに…好物のおはぎを携え大分駅に到着するという場面で終幕となる。
あえて、滝たち特攻隊員のその最期は描かれてはいない。

 

このラストに関して 、これから特攻に征かねばならない滝たちを描いているのに、どの機も爆装されておらず、増槽すら装着されていない。 
ただ、大分基地から沖縄本島までの直線距離は約1,100km前後とされており、航続距離(約1,715km)の短い局地戦闘機である紫電改でも、帰することを想定しない特攻において…片道の燃料で十分ということからいえば、増槽なしでも理論上は到達可能な範囲内となる。
この点に触れたある方のブログを拝読し…
まさしく、『紫電改のタカ』という漫画のラストは、単に描かなかったのではなく…その“先”…戦争終焉後の平和な日常への希求…そうした“未来”を想像させるような終わり方として捉えることもできる。
また、ちば先生も…実はそうした想いも込めて…あえて“爆装”を描き加えなかったのかもしれない…はたまた、それは深読みなのか…?

同談において「戦記モノへの再チャレンジの予定は?」との質問に対し、「戦時中に目に焼き付いた情景、体験を描くことが、漫画を描く技術を持った自分に与えられた使命かもしれないと思う。」と語っていたが…はたして…

 

朝日ソノラマから昭和39年年8月に発売された『紫電改のタカ〈現代フォノマンガ3〉』の2枚組ソノシート(Flexi Disc)に収録されている“ソノシートドラマ”は、単行(連載)本の内容とは別の…スピンオフ版とでも言うべき短編の物語。

その冊子には、このようなカラーの漫画が掲載されており、ドラマ音声のナレーターは野沢那智が担当し、ドラマの他に「紫電改のマーチ」(作詞 :徳川龍彦 / 作曲:谷口又士)、「太平洋のタカ」(作詞: 黒川乙郎 / 作曲:谷口又士)の2曲が収録されている。

この物語のラストカットには、『紫電改のタカ』に込めた氏の思いが綴られている。

 

 

米軍側にコードネーム…“George”と名付けられた“紫電改”は、陸軍の四式戦闘機“疾風”と並び称される“最強”の名を背負った悲劇の名機である。

 


特に松山(愛媛)の三四三空“剣部隊”に配備された熟練・精鋭の搭乗員たちが駆る紫電改は、本土防空戦で米軍機と激しい空戦を繰りひろげ大いなる脅威となって立ちはだかった。

 

紫電改(紫電二一型)は、紫電一一型の改良型として開発され、昭和19年末に試作機が完成し、性能評価の結果「改造ノ効果顕著ナリ」として高く評価され、翌昭和20年1月に制式採用されることとなる。


性能面でいえば、九九式二十粍二号機銃四型(20mm機銃)を両翼に2門づつ計4門を配備する重武装に加え、旋回時の揚力低下による失速を抑えるため、自動的に最良のフラップ角に可変することを可能にした水銀装置(自動空戦フラップ)の採用で機動性を大幅に向上させている。
“紫電改”と…嘗て“最強”を欲しいままにした“零戦”とでは戦勢や開発のコンセプトが違うこともあり一概に比較が出来るものではないが、紫電改は米軍の“F6F”や“F4U”に対抗するため、零戦のエンジン(栄二一型)に比し、ほぼ倍近い出力を発揮する2,000馬力級の高出力エンジン(誉二一型)を搭載し、また速度面でも当時既に後発機に劣るようになり苦戦を強いられていた零戦(564.9 km/h)を上回(594km/h)った。

 

戦後、米軍は“川西5128号機”、“川西5312号機”、“川西5341号機”の3機の紫電改を接収し、調査目的のため米国本土に輸送した。
(他の紫電改は松山海軍航空基地(現:松山空港)において全機焼却処分が為されたとのことである。)
現在の上記3機は、 各々レストアされ…国立海軍航空博物館(ペンサコーラ海軍航空基地内)、国立アメリカ空軍博物館(ライト・パターソン空軍基地内)、国立航空宇宙博物館別館(スミソニアン博物館)にて展示(もしくは収蔵)されている。

 

国立海軍航空博物館に展示されている…戦時中、三四三空(戦三〇一“新選組”)所属の紫電改(川西5128号機)。

(※問い合わせたところ、現在も常設展示されているとのことである)

 

 

1978年(昭和53年)11月15日、愛媛県城辺町(現:愛南町)の久良湾(くらわん)と日土湾(ひづちわん)の境界あたりに突き出した…通称“長崎鼻”沖合200m程のところに落とした錨を探すため地元ダイバー(漁師)の久保 巧さんが海に潜ると、海底40m程の砂地に奇妙な物体…飛行機を偶然発見した。

 

調査の結果、“紫電改”と判明し、翌年の7月14日に34年ぶりに暗い海底から引き揚げられた。

 

 

当時を知る者の証言などによると…

今からちょうど80年前の昭和20年7月24日…

湾内に模範的不時着水をし、その後…機首部分から海底に沈んでいった一機の戦闘機があったことが分かった。

さらに詳しく調査をすると、その戦闘機は第三四三海軍航空隊(三四三空)所属の紫電改であった。

三四三空の資料などから、当日(24日)、呉(広島)方面を空爆後、豊後水道を南下中であった米機動部隊…第38任務部隊(Task Force 38)所属の艦載機(F6FF4USB2CTBM)約200機の編隊を迎撃するため、三四三空は戦闘可能な稼働21機をもって大村飛行場(長崎)を出撃、午前10時25分に佐多岬上空で敵機を発見し、直ちに激しい空戦が展開されている。

 

 

撃墜した敵機16機。

未帰還機は6機と記録されていた。

 

その未帰還6機に搭乗していたのは…

鴛淵 孝 海軍大尉(海兵68)/戦闘七〇一飛行隊(維新隊)隊長(25歳)

武藤金義 海軍少尉(操練32)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(29歳)

初島二郎 上等飛行兵曹(甲飛9)/戦闘七〇一飛行隊(維新隊)(22歳)

米田伸也 上等飛行兵曹(甲飛10)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(21歳)

溝口憲心 一等飛行兵曹(乙飛15)/戦闘四〇七飛行隊(天誅組)(21歳)

今井 進 二等飛行兵曹(丙飛15)/戦闘三〇一飛行隊(新選組)(20歳)

 

 

この紫電改に搭乗していた搭乗員は誰だったのか?
遺骨は勿論、遺留品すらもなく…
主翼の日の丸が薄っすらと残っているくらいで、海水に長期間晒されていたために機番号などは判別不可…搭乗員を特定する手がかりは何も残されていなかった。
機体には、後方からエンジン部にめがけて機銃弾が命中したらしき痕跡があり、おそらく搭乗員はかなりの傷を負ったものと思われるなか…不時着水の際には、瞬間的にかかる海面からの大きな圧力により、主翼が折れるケースが多いとのことであるが…当時、三四三空の搭乗員だった方の後年の回想録にも「あのせまい湾内に、山側から飛んできてあれだけみごとな形で不時着水するのは並大抵のことじゃない。相当な技倆をもった搭乗員であることだけは間違いないと思います」と語られているように、海底で永きにわたり眠っていた痕跡を残しつつも、海面に現したその姿はほぼ原形を留め、それはひとえに如何に卓越した操縦技術によって為された不時着水であったかを物語るものであった。
それを踏まえれば、先任飛行隊長であった鴛淵大尉、そして武藤飛曹長は勿論だが…三四三空には“若い搭乗員”といっても、各地で激戦をくぐり抜けてきた実戦経験豊富な搭乗員が多く、他の4名にしても、いずれも前途有為で優秀なパイロットであり、この条件から軽々に除外することは出来ない。

私見であるが、搭乗員が機内に取り残されたまま、わずかなキャノピーの開口のみで海底に沈んだのであれば、海中環境では人間の遺体は魚などによる捕食や腐敗によって比較的短期間で消失することが多く、長い年月により跡形もなくなっていたとしてもおかしくはないが、長期間残留する可能性のある衣類の繊維や金属製のハーネス・バックルなどの金属パーツその他までもがきれいさっぱり残っていないというのもおかしな話であり、またキャノピーは“わずかに開いていた”とする証言もあるが、海中から機体が引き揚げられた直後の画像を見る限りでは、人が脱出できるほどキャノピーは開いてはおらず、然るに密閉性の高い状態の保たれたコックピット内では海水は滞留し、外部との流動もさほどなかってであろうことから遺留物がわずかでも残っていた可能性は十分あるはずである。
なので、おそらくは不時着水後に何とか最後の力を振り絞って機外に脱出できたが故に機内には遺留品がなかったものとも考えてよいのかもしれない。
その後、機体は海底に没する最中、もしくは海底面に到達した衝撃などでキャノピーは前方にスライドしてほぼ閉じた状態を保ったと考える方が理に適っているようにも思える。
「不時着水の数日後、判別不能の海軍の搭乗員らしき遺体が収容された」との証言もあることから…
因みに、海に遺体が放置された場合、水温・水流・水深・季節・遺体の状態などにより違ってはくるものの、判別不能な状態に至るまでの一般的な経過としては3~5日程で指紋・顔貌・性別の判別が困難となり、1週間以上経過すると骨は露出し、身元特定にはDNA鑑定(勿論当時はない)や歯型以外では識別が困難となる。
また先にも触れたが、魚などによる捕食および岩礁などへの接触による損傷も判別困難化の要因となる。
つまり、この“判別不能の海軍の搭乗員らしき遺体”がこの機の搭乗員だったと考えて先ず間違いはないだろう。

武藤少尉、はたまた米田上飛曹の乗機ではとの憶測もあったが、この機は誰の乗機であったかを特定はせず、大空を駈け抜けた6人皆の魂を宿す“紫電改”として、発見・引き揚げ場所となった久良湾に機首を向けで現在の「紫電改展示館」にその勇姿を静かに留めている。

 

遺族らの強い要望もあり、“引揚げ当時の原形をできるだけ保ったまま後世に伝える”というコンセプトのもと、最小限の補修・補強を施しただけの状態で展示されてきたが、その展示館も建設から45年が経過した現在…老朽化が進み、来年(令和8年)度中の新たな展示館の建物完成を目指した整備計画が進められているが、移設に伴う機体の補強その他諸々の費用が思いの外かさむため、ふるさと納税を活用したクラウドファンディングにより現在、寄付を募っている。
微力ながら当方もこれに参加させていただいているが、興味のある方はぜひ!

 

紫電改の保存と展示の意義は“平和の尊さを伝える”ことに重きを置いており、様々な配慮も踏まえ、個人の特定よりも象徴性を優先する傾向が見受けられるため、現代の技術や新たな資料に基づいて機体の来歴や搭乗員を再検証および特定すること自体が、ある種タブー視されているようにも思われる。
しかし、有用と思われる情報が明確な検証を経ずに扱われているとするならば、“記憶の継承”ということに向き合う姿勢として、今一度再考の余地があるのではないか。
記憶の静謐を守ることと、記録の確かさに向き合うことは、必ずしも相反するものではない。
最先端の技術的照合の可能性も含め、事実に基づいた丁寧な再検証を進めることは、むしろ記憶の尊厳を高めることに繋がるはずである。
今回のクラウドファンディングを機に、過去と真摯に向き合う姿勢が改めて問われているようにも思われる。

 

 

日本に現存する紫電改(機体部分)というならば、もう一機…鹿児島県阿久根市の折口海岸沖合300m程の水深3m程の海底で80年の永きにわたり眠り続けている“紫電改”がある。

 

(南日本新聞デジタル版掲載画像)

既記の出撃より3ヵ月前の昭和20年4月21日午前5時40分…
海軍出水航空基地(鹿児島県出水市)を主目標としたB-29の編隊が接近中との報告が入り、これを迎え撃つため三四三空は鴛淵 孝海軍大尉(先任飛行隊長※死後特進:海軍少佐)総指揮の下、第一國分航空基地(同県霧島市)発進の第一中隊(戦闘第七〇一飛行隊(※戦七〇一)「維新隊」の11機および戦闘第四〇七飛行隊(※戦四〇七)「天誅組」の5機)および第三中隊(戦闘第三〇一飛行隊(※戦三〇一)「新選組」の9機)の25機および松山基地(愛媛県松山市)発進の第二中隊(戦四〇七の7機)の計32機の紫電改をもって出撃。
同日午前6時7分、第一中隊/第三小隊に割り当てられた戦四〇七は、第1区隊を林 喜重海軍大尉(隊長※死後特進:海軍少佐)、石井正二郎上飛曹、伊奈重瀬上飛曹の3機、第2区隊を川端 格海軍中尉(機体不調により離脱)、来本昭吉飛長の5機で出撃して征った。
因みに、この日の当初の搭乗割では、分隊士の本田 稔飛曹長(当時)は林隊長を外し、自らが第三小隊を率いる案を作成していた。
本田としては、先の4月16日における喜界島上空での戦闘で、自機のトラブルにも付随した多数の列機喪失に責任を過度に感じた…冷静さを欠く現時点での出撃は見送らせるべきとの判断からであったのだが、B-29撃墜に固執する林はこれに同意せず、隊長命令として本田と入れ替わったとのことである。


午前7時15分、林の区隊は鹿児島県姶良郡福山町(現:霧島市福山町)上空…高度6000m程で北西進する11機のB-29 を発見し、直ちに“増槽”を切り離しての激しい空戦が展開された。
(この日出撃した第313爆撃団(313BW)/第504爆撃群(504BG)のB-29総数は252機にのぼり、その爆撃目標は太刀洗、新田原、大分、笠ノ原、鹿屋、宇佐、國分、串良そして出水などであった)
だが林機の増槽は落下せず、やむなく増槽を抱えた劣勢のまま1機のB29に目標を定め反復攻撃に入ったが列機がこれについてこれず、単機分離することとなってしまっていた。
この時、同じく僚機とはぐれていた戦三〇一の清水俊信一飛曹が林機を発見し応援に駆けつけ、共同で攻撃を繰り返し、約30分におよぶ追撃戦の末、ついにそのB-29は黒煙を噴き上げ急降下していたった。
林は「B-29 1機撃墜!」と基地に報告(米軍側の記録には無し)を入れている。
機体の損傷が激しかった清水の乗機は…被弾により既に亡くなっていたのかもしれないが、そのまま高度を下げ蕨島北方海面に墜落していったとのことである。(享年20歳)
また林の機も戦闘によりエンジンに被弾し、垂直尾翼の先端も吹き飛ばされ操縦不能に陥っていたものと思われる。
巧みな操縦でなんとか折口浜の海岸までたどり着き、不時着水を試みるも…不運にも干潮時だったため直に砂浜に胴体着陸する形となった。
低空で浜の方に落下していく機影を目撃した地元民たちが人を集めて捜索に向かった時には既に潮が満ちかけてきており、機体の半分ほどが海水に浸った状態になっていた。
だが、機外に林が運び出された時には既に亡くなっていたとのことである。
林の遺体は近くの小屋に一晩安置され、その通夜に同席したという地元民によれば、林の遺体は「顔には傷もなくきれいだった」とのことであることから、頭部および顔面に外傷は見られなかったことになり、死因は…通説となっている「計器板に頭部を強打したことによる頭蓋底骨折で死亡」ではなかったものと思われる。
紫電改におけるパイロット用のハーネスは、当時の標準的な5点式または4点式拘束帯が装備されており…
また強度に関しても、確かに現代の基準と比べれば脆弱ではあっただろうが、当時の空戦環境に耐え得る設計は為されていたわけであり、例え増槽が砂にのめり込んだことにより機体に強烈な急制動が掛かり前のめりになったとしても、計器板に頭部を強打するまでの“つんのめった”態勢には至らないものと考えられる。
だが、この様な強烈な衝撃に伴なうContra-Coup(反衝損傷)により引き起こされる脳の内部損傷では、急性硬膜下血腫、くも膜下出血などで外見上の受傷がなくても重篤な結果がもたらされる。
もしくは衝撃により頚髄に損傷(特に脱臼や骨折)があった場合も、椎骨動脈の損傷によって形成された血栓が脳底動脈を塞栓し、脳幹梗塞を引き起こすことで即死に至る可能性もある。
歴史に“もしも”はないが、身体にも被弾していたとしても、不時着水を行えるほどの状態であったならば…その時、“海面に着水出来ていたら…”、少なくとも“増槽が落下していたら…”砂地であっても、もしかしたら命だけは助かっていたかもしれない。
まぁ、当時の戦局にあっては三四三空…殊に隊長という立場にあっては、“死”は遅かれ早かれ訪れるべき定めだったのかもしれないが…(享年24歳)

 

(南日本新聞デジタル版掲載画像)
折口浜を少し登った所(鹿児島県阿久根市折口2441)には『 故林少佐戦死之地 』と刻まれた慰霊碑が建てられている。

 

こちらも、引き揚げおよび保存のためのクラウドファンディングによる支援募集が始まっている。
戦後80年、鹿児島沖に沈む「幻の戦闘機」紫電改・林大尉機を引き揚げたい!


三四三空の副長でもあった中島 正海軍中佐の言を借りれば、「知将の鴛淵、仁将の林…そして猛将の菅野」と彼らを評している。

 

 

鴛淵、林、菅野の三隊長機には、敵の目を列機から自機に引き付けるための二本のストライプ(胴体帯)が描き加えられている。

※鴛淵機の胴体帯の色に関しては、模型や一部出版物で胴体帯を“赤色”と誤記されていた時期があり、これは視覚的な演出や誤解に基づくもので、明確な根拠は乏しいとされている。
現在の有力説として、『源田の剣』などの資料では、戦七〇一(鴛淵隊)の胴体帯も“白色”とされており、分隊長機は1本、隊長機は2本の斜め帯…つまり鴛淵機には2本の“白帯”が入っていたとのことである。

 


因みに、戦三〇一の菅野隊に関しては、「黄色を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ」ということで、敵機の注意を引くための“囮”的な意味合いも含め、昭和20年4月以降(松山基地から鹿屋基地へ移動する直前)の菅野隊の隊長機、分隊長機には“黄色”の胴体帯が導入されたとのことである。

 

 

『紫電改のタカ』では、“ヒゲ面のいかついオヤジだが、滝曰く「顔に似合わずやさしい人」”として登場する菅野大尉が…3人目の隊長にして、そのモデルとなった菅野 直海軍大尉(死後二階級特進:海軍中佐)である。
鴛淵が海兵68期卒、林が海兵69期卒で、菅野が海兵70期卒と判で押したような年次の…まさに兄弟の如く仲の良い三隊長であったという。
三四三空“剣部隊”の戦三〇一“新選組”の隊長として、“部下を無駄に死なせない”ということを信条とし、戦術を工夫して生還率を高めようと努めた部下思いの指揮官でもあった。
菅野は、その破天荒な操縦技術から“空戦の鬼才”とも称され、総撃墜数は個人・協同を含めて72機にものぼる撃墜王でもあり、米軍からは“イエローファイター”としても恐れられていた。
そうした豪快な人間性を併せ持つ反面、地上では酒と…石川啄木に傾倒し短歌を好む繊細な一面も持つ人間味あふれる青年でもあった。
昭和20年(1945年)8月1日、九州方面に向かうB-24の編隊を迎撃するため屋久島西方上空に向け大村基地を出撃。
因みに、この日は愛機の“A 343-15”号機ではなく“A 343-01”号機での出撃となっている。
空戦中に「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」と無線を残し、僚機の護衛を拒んで戦域に留まった後、消息を絶った。
その最期は撃墜か自爆か不明のままだが、戦死と認定された。(享年23歳)

 

 

戦三〇一“新選組”には「空戦の神様」「闘魂の塊」と称された“杉さん”こと杉田庄一上飛曹(死後二階級特進:海軍少尉)という日本海軍屈指の戦闘機搭乗員がいたことを忘れてはならない。
岩本徹三海軍特務少尉(自称202機/記録80〜141機※信憑性に議論あり)、西澤廣義兵曹長(公認87機/自称147機※“ラバウルの魔王”と称される)に次ぐ海軍第3位の撃墜数(公認70機/協同撃墜40機含め110機超)を誇る撃墜王である。
(※日本軍(陸海)ではドイツ空軍のようにガンカメラ映像、僚機の証言、地上部隊の確認などを総合して厳格な審査体制のもとで公式撃墜スコアが認定されるようなことはなく、撃墜報告は自己申告が基本(僚機や地上部隊の目撃証言があれば加味)のため正確性に欠ける。
また過大申告や混乱を避けるため、海軍では1943年以降は個人撃墜数の記録を公式には廃止している。)
 



杉田にはこんな逸話も残されている。
昭和19年(1944年)12月に同隊に教官として配属されてきた坂井三郎海軍特務少尉の嘗ての武勇を強調した昔語りに過ぎない空戦講話や、鉄拳制裁を度々振るい、おまけに若い搭乗員を“ジャク(未熟者)”扱いする言動に対し、杉田は批判的な姿勢を崩さず、隊内では両者の間に緊張が走ったとされる。 
この状況を重く見た飛行長の志賀淑雄海軍少佐は、結局、若手搭乗員たちへの実戦的な指導に尽力し、編隊空戦を重視する姿勢で多くの後進に影響を与えている杉田を残し、坂井は異動させることでこの問題を治めている。

また、「紫のマフラー」という紫電改搭乗員たちと松山の人々との心の交流を象徴する感動的なエピソードにも“杉さん”は登場する。
嘗て松山基地から徒歩10〜15分程の大街道銀天街にあった…女将の今井琴子さんが切り盛りする「食堂喜楽」には、三四三空に配属された搭乗員たちが食事や休息の場として頻繁に訪れていた。

今井さんは隊員たちの武運を祈り、紫の絹地で三十八枚のマフラーを仕立てた。 
さらに、地元の済美女學校(現:済美高等学校)の女學生たちが、そのマフラーに、杉田の空戦必勝語録である「ニッコリ笑へば必ず堕す」と共に、各隊員の名前を心を込めて刺繍して贈ったのだという。

 


現存する“紫のマフラー”は3枚で、そのうちの1枚は…元搭乗員の笠井智一氏に贈られたもので、現在は紫電改展示館に寄贈され、常設展示されている。

 

今井さんと杉田上飛曹、そして日光安治上飛曹などとのエピソードを、令和元年(年)に南海放送が制作したラジオドラマ『紫電改 君がくれた紫のマフラー』のYouTube版で見・聴きできるのでぜひ!

 


昭和20年(1945年)4月15日、午後3時頃、敵機接近の報を受けて出撃命令が発せられた。
鹿屋航空基地(鹿児島)では隊員たちが急ぎ出撃準備にかかっていたが、その最中にF6Fの急襲を受ける。
戦闘機は離陸を狙われるのが一番弱い。
そのため離陸中止命令が出され、大方は滑走を中死止したが、杉田機と宮沢豊美二飛曹の3番機が滑走中であった。
為すすべない杉田機は離陸直後に敵の猛射を浴びて火を噴き、飛行場の端に墜落炎上、戦死した。(享年20歳)
宮沢機は間一髪で発進したものの、敵の猛攻を逃げ切れず、燃料タンクを撃ち抜かれて火だるまとなったまま飛び続け、國立療養所の庭に落ち、戦死した。(享年21歳)

 

三四三空の各隊の戦死傷者などの概要は以下のようである。

戦三〇一“新選組”(紫電改) 戦死:36名/生存者または安否不明者:44名
戦四〇七“天誅組”(紫電改) 戦死:42名/生存者または安否不明者:35名
戦七〇一“維新隊”(紫電改) 戦死:33名/生存者または安否不明者:36名
戦四〇一“極天隊”(紫電) 戦死:7名/生存者または安否不明者:40名
偵察第四飛行隊“騎兵隊”(彩雲) 戦死:4名/生存者または安否不明者:21名
※戦死率は41%にのぼり、三四三空がいかに激しい損耗を被ったかが窺える。

 

既記の如く…紫電改は、その登場が遅かったがために自ずと活躍の期間も短く、また三四三空などの精鋭部隊に集中配備され、戦局が逼迫するなかで極秘裏に運用されこともあり、戦時中の新聞や雑誌などでの公表はほぼ皆無のままであった。
一方、開戦当初から「無敵の戦闘機」として宣伝されてきた、“零戦”という絶対的な存在の陰に埋もれ、戦後になってようやくその存在と性能が知られるようにはなったものの、人々の印象としては薄かった。
奇しくも、先に記した『紫電改のタカ』が初連載されたのと同年(1963年)…“紫電改”の登場する映画が公開されることとなる。
(公開は年初3日ということであり、この映画の方が『紫電改のタカ』の構想段階で何らかの影響を及ぼしたということもあるかもしれないが…)
ただ、こと映画に限っていえば…“三四三空”や“紫電改”をフィーチャーしたものはこの『太平洋の翼』以外には思いつかない。

 

太平洋の翼』(1963年)

 

【キャスト】
千田良雄大佐(司令):三船敏郎
瀧 司郎大尉(戦三〇一「新撰組」隊長):加山雄三
矢野哲平大尉(戦四〇七「天誅組」隊長):佐藤 允
安宅信夫大尉(戦七〇一「維新隊」隊長):夏木陽介
加藤少佐(副長):平田昭彦
三原少佐(潜水艦艦長):池部 良
丹下太郎一飛曹:渥美 清
稲葉喜平上飛曹:西村 晃
軍令部総長:志村 喬
軍令部次長:宮口精二
第二艦隊司令長官:藤田 進
戦艦大和艦長:河津清三郎

中村上飛曹:中谷一郎

清水中尉:船戸 順

小林一飛曹:砂塚秀夫

玉井美也子:星 由里子…他

 

 

主演は“世界のミフネ”こと三船敏郎、そして『若大将』シリーズ真っ盛りの加山雄三、夏木陽介、佐藤 充の「スリーガイズ」がその脇を固めている。

本編部分の監督は、ヒット作となる『社長』シリーズをはじめ、戦時中…海軍士官だったこともあり、今作以外にも『人間魚雷回天』(1955年)、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年)、そして『連合艦隊』(1981年)などの海軍モノの戦争映画を手掛けている松林宗恵
特撮部分は…言わずと知れた“特撮の神様”ともいわれた円谷英二が監督し、戦後初となる本格的な空中戦を描いた映画というだけあって、撮影に使用された約300機にもおよぶミニチュアの戦闘機たちが乱舞するシーンは円谷の真骨頂ともいえる。
現代の映像技術で描き出されるのとは違い、手間と人手と労力と根気は半端なかったことだろう…

 

確かに、CG、SFX、VFXなどを駆使する現代の技術で描き出される映像からすれば…円谷英二による“リアルな空中戦描写”といえども見劣りはするものの、模型だけでよくぞあそこまで描けたものかと、あらためて円谷の凄さを痛感させられる。

 

ウィキペディアによれば…大和ミュージアムに展示されている大和(1/10)の大型模型よりも少し小さい1/15スケールなのだそうだが…それでも全長17m程にもなり…実際に目の当りにしたらかなり大型で…これに自動車用の360ccのエンジンを搭載したラジコン模型が撮影に使用されたとのことである。
洋上を進むシーンは、山中湖上を走らせて…それをヘリコプターから撮影したということであるが、航跡波の立ち方から受ける印象なのか…劇中では、それでもややスケール感が十分に伝わってこいない点が少々惜しまれる。
またよく見ると、精巧さ・精密さの点でも…大和ミュージアムのあの素晴らしい大和とは比較にはならないのだが、60年以上前の制作物では致し方はないのかもしれない。

 

この映画は、三四三空の司令であった源田 實が昭和37年に刊行した『海軍航空隊始末記 戦闘篇』などを基に…というよりは、ほぼ設定のみをモチーフにした…残念なことに…史実に基づかない創作的な戦争スペクタクル、娯楽活劇となっている。
源田が選抜した実際の三人の飛行隊長には、「厳格なリーダー」「眉目秀麗な二枚目」「大柄で賑やかな三枚目」といったまるで大デュマ(アレクサンドル・デュマ)の『三銃士』の如きキャラクターづけが奇しくも当てはまるのだが、そのキャラづけを踏襲した今作でも、加山雄三演じる瀧大尉、夏木陽介演じる安宅大尉、佐藤 允演じる矢野大尉の“三隊長”が、それぞれに違った個性を持ちながらも千田のもとで一致協力して任務にあたるという“三本の矢”的な役どころを演じることで、観る者により一層訴えかけるものがある。

 

現代ならば概ね史実に基づいたストーリー展開として製作されるのだろうが、戦時中の記憶がまだ生々しく残るあの当時(戦後20年弱)のご時世故に、あえて史実を脚色し…突飛であっても娯楽的要素を優先したストーリー展開としたのかもしれない。

 

苦難を乗り越え、松山基地に集結した三飛行隊の面々を前に千田はこう訓示する。
「いいか、これからは命を大事にしろ…お前たちの命を…
近頃、やたらと爆弾を抱いて体当たりすることが流行っておるが人間は爆弾ではない!
“一億玉砕”も聞こえはいい…しかし、これほど完全な敗北はない!
日本民族の滅亡である!
立派に闘ってくれ…最後の最期まで生き抜いて闘ってくれ
指一本でも動く限り絶対に操縦桿を離すな!
体当たりもいかん!自爆もいかん!
そんなことで死ぬ奴は戦争を放棄した卑怯者とみなす!」
という特攻を否定する視点で描かれた作品でもあった。

 

フィリピンから内地(日本)に戻る途中に戦死した弟の最期はどのようなものだったのかを尋ねるために訪れた姉・玉井美也子(星 由里子)に、瀧は正直に…敵機の攻撃を受けた際に機上で戦死した者たちの遺体も、燃料を節約するために海洋に投棄したことを告げる。

それを聞いた美也子それを聞いたは、その血も涙もない瀧の非情さに打ちひしがれ、その場を立ち去る。

 

 

後日、思いを改め…非礼を詫びるため再び瀧に面会した美也子は「女の私にも弟の遺体をお捨てになったことが、やっとわかるような気がしてきたんです」と告げるのだが…

瀧は…「いや、わからない方がいい。

いつまでも僕を憎んでいてくれた方がいいんです。

僕を許そうとして、あなたの戦争への憎しみまでがぼけるのが困るんです。

心の優しい女なら僕を憎まないのは嘘です。

しかし、僕は憎まれても戦う…憎まれれば憎まれるほど闘う勇気が湧いてくるんです。

美しい日本の風土のなかに優しい女の心が生きている…

僕は、そう信じて戦いたいんだ!

その美しいものを護るために戦いたいんだ!

僕を許してはいけない…憎んでください…」と言い放つ。

美也子は「死なないで…死なないでください…」と言って走り去る…

 

今作は…全編を通して、“紅一点”の星以外には映り込む女性はエキストラのみという、あの時代の映画としてはある意味珍しい作品ともいえる。

当時既に『若大将』シリーズでヒロイン・澄子役を演じ人気を博していたが、加山の出演する映画には必ず星の姿があったという程、加山との共演作も多い。

今作の撮影時はまだ19歳という初々しい星と加山とのこの共演場面もこの映画の見所といえる。

 

軍令部から本土防衛に関して、それまでの担当区域よりも広範な範囲を任されることとなった。

そうなると勢力を分散しなければ対応が難しくなる。

そんな折、硫黄島を発進し本土に向いつつある約30機編隊のP-51への迎撃命令が下るが、九州島南方の機動部隊の動きに備え三隊のうち一隊しか出すことが出来ない。

くじ引きで今回は矢野の戦四〇七「天誅組」が当たることとなったのだが悪いことは重なる…

矢野の乗機はエンジン不調のため、丹下の機にその日は搭乗することとなり、そのじゃじゃ馬的な丹下の愛機に苦慮するなか被弾してしまう。

なんとか丹下の愛機を基地まで届けるも、矢野は絶命してしまう。

 

時間制限付きの直掩をするべく三四三空の紫電改は沖縄特攻に向かう大和のもとへと参じる。(※実際には全くそのような事実はない)
だが、大和を愁う丹下一飛曹(渥美 清)は密かに帰投せず再び大和のもとに戻る決意を固めていた。
その思いに安宅大尉(夏木陽介)、稲葉上飛曹(西村 晃)、水野二飛曹(新野 悟)らも呼応し、4機の紫電改は大和と運命を共にするべく隊列を離れ…そして散華して逝った。

 

千田は“明日の闘い”のために…残ったたった一人の隊長として…瀧に「無理を言うぞ…最後まで生き抜いて戦ってくれ」と申し渡すも…
次々と仲間たちが死に…
戦争を誰よりも激しく戦っているからこそ、戦争を誰よりも激しく憎む瀧は、為すすべのない現状に己自身への失望感が募っていく…
フッと眼下を見るとB-29の大編隊が…
千田の止めるのも聞かず…
瀧は「出てけぇ~日本の空から出てけぇ~!」と、B-29に一散に突っ込んで征く。

 

出演者も、主演の三船敏郎は勿論だが…加山雄三、夏木陽介、佐藤 充といった当時主役も張れる若手の俳優たちを配し、それを志村 喬、藤田 進、宮口精二、池部 良といったベテランの俳優陣で脇を固め…さらに言えば、後の国民的俳優となる寅さん(渥美 清)、黄門さま(西村 晃)をも配した…なかなかににくい顔ぶれが揃った作品ではあるものの…

東宝が手掛けた…『太平洋の鷲』(1953年)にはじまり…
本多猪四郎からバトンタッチして、松林がメガフォンを取った前作の『『太平洋の嵐』(1960年)に続く“太平洋”三部作の最終作として制作された今作故に…“太平洋”とはほぼほぼ縁のない“剣部隊”(三四三空)を描いた映画にもかかわらず『太平洋の…』という冠タイトルを踏襲したとされており、その前作の『太平洋の嵐』があまりに豪華な出演陣だっただけに余計に見劣り感は否めない。

 

『太平洋の…』と冠してしまったが故に半ば強引なカタチで…

ラストシーは、戦争が終わり…平和を享受する人々が見送るなか若者たちは未来に船出していくとでも言わんばかりに…多少無理くりに「“太平”洋」という言葉をぶち込んだ千田の語りで終幕としている。
「その後17年…日本の空と海には平和が続いている…尊い平和だ…
瀧、安宅、矢野…
もう二度と、この若い者たちにお前たちの苦しみを味わわすまい…
若者たちは次の時代に船出していく…
太平洋は静かだ…その名の如く…永遠に…終」

 

 

“三四三空”や“紫電改”をフィーチャーした…史実に基づいた…ある程度“ノンフィクション”的映画を期待してしまうと少々残念に思える展開の映画ではあるが…
これらを度返しし…“三四三空”や“紫電改”はあくまでも構成上の素材として捉え、それを踏まえたうえで“仮想特撮戦争映画”として見るならば…総じて、なかなかに面白く十分に楽しめる作品であると思うので、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがだろうか。

 

因みに、これは劇中…三船演じる航空参謀の源田中佐(当時)が志村演じる軍令部総長に試作段階の紫電改を紹介するという冒頭のシーンに登場する実物大模型であるが…

 

実物大の紫電改といえば…

 

今年の2月14日~23日に、大阪国際文化芸術プロジェクトの一環として、舞台演劇「FOLKER(フォーカー)」が堂島リバーフォーラムにて上演され、私の推しである大路恵美さんも出演するとあり…当然、観ないわけにはいかない!ということで、その千秋楽を観るべく前泊での大阪旅行の予定を立てた。

 


そこで、予てから行ってみたいと思っていた…“紫電改(A 343-23:(三四三空/戦三〇一)笠井智一上飛曹機仕様)”と“九七式艦上攻撃機”の実物大模型が常設展示されている兵庫県加西市鶉野町にある地域活性化拠点施設「soraかさい(鶉野ミュージアム)」の訪館も同時に行程に組み入れることとした。
まず東京から姫路まで新幹線で行ってしまえば、そこからレンタカーで鶉野までは40分程なので、地の利の不案内なところを電車やバスを乗り継いでいくよりもその方が楽である。

 


この日は、時折“青-sora”が顔大出すものの、薄曇りの…“気候の冬”ともいわれる時期だけあってまだ肌寒く…

 


鶉野ミュージアムが、嘗ての旧日本海軍の姫路海軍航空隊の訓練基地だった鶉野飛行場の滑走路北端付近にあたる位置に建てられ、長さ約1,200m、幅45m程のコンクリート舗装が現存する滑走路跡自体も貴重な戦争遺跡として保存されているだけあって、遮蔽物がない分、風の冷たさが余計に感じられた。

 


閉館の2時間程前とあって来館者も私を入れても10名程で、ゆっくりと館内を観て回ることが出来た。
これだけ間近でみると、実物大の紫電改は図面上の数値で感じるよりも大きく思える。
実物大模型を目の当たりにし、次こそは是非とも愛南町まで足を延ばし、実機の紫電改を見ねばとの思いは一入となった。

 

現在、その愛南町の紫電改展示館では…
戦後80年特別企画として「紫電改と須本壮一 原画展」が開催されているとのことである。

 


その須本壮一氏の『紫電改343』は、まだ読み始めたばかりなのだが…
迫力ある構成とリアルなタッチ…
メカなどもかなり精密に描き込まれ、読み応え十分の作品なので読み進めていくのが楽しい!
『紫電改のタカ』とはまた違った漫画の楽しみを味わえる作品である。

 

野球用のグローブ…“グラブ”といえば、やはりRawlingsという方も多いかもしれないが…
MIZUNOの公式HPを見ると…
当方が小学生当時、“ワールドウィン”の「赤カップ」が冠されたグラブを使用していたプロ野球選手は王選手をはじめ約6割にもおよんでいたということで…
当然、TVの野球中継や写真媒体等で、そのグラブをはめた選手たちの姿を見る機会も多かったことから…ある意味、サブリミナル効果的にグラブ=赤カップ(ミズノ)というイメージが刷り込まれていた観はある。

 

昭和51年(1976年)のシーズンから諸々あって第一次長島巨人の高田 繁選手がレフト(左翼手)からサード(三塁手)にコンバートされ、その際に使用したのがこの青いミズノのグラブ。(※画像はベースマン40周年記念企画として限定100個発売されたという“ワールドウィン”赤カップ 軟式用 高田繁復刻モデル)
ウェブ部分の形状がクロスタイプで、しかも人差し指用の一つ穴タイプというのが当時は堪らなく格好良く思えたものだ!

ただ、現代のようにネットで何でも購入できるといった時代ではなった当時は…ローリングス(※当時は社名すら知らなかったのだが)のような“舶来品”は勿論…
商店街のなかにあった唯一のスポーツ店でグラブなどを購入すること以外に選択肢はなかったこともあり…
おそらくヤバネの特約店だったのであろう…ミズノでもなく、私は“yabane”のグラブを買ってもらいメイングラブとして使っていた。
だがある時から、入手の経緯は全く覚えていないが…“HB”というロゴの入ったグラブを私は使うようになった。


一昨年だったか、「長島」「グローブ」で検索していると…

ローリングスの「XPG3」という型番の1960年代モデルと1970年前期モデル(※画像は“Ⓡ”マークが冠される1970年後期モデルの「XPG3-A」復刻版 軟式用)が長島さん愛用グラブとするなか、長島さんから直にグラブを譲り受けたという元巨人軍の“赤手袋”で名を馳せた柴田 勲氏の記事が目に留まった。

 


「開運! なんでも鑑定団」(2023年2月7日放送)に柴田氏が依頼人として出演した際にそのグラブを鑑定してもらうと…

柴田氏曰く…昭和49年(1974年)10月14日の引退試合の日に実使用されていたグラブだというそのグラブは、300万円とした本人評価額を大きく上回る1000万円との高額評価を鑑定士の山本清司氏から受けた。

その長島さんのグラブの画像を見ると…
なんとローリングスのグラブではなく…
見覚えのあるHBのロゴの入ったグラブではないか!


HB”とは、1856年創業のヒラリック&ブラズビー社(Hillerich & Bradsby Co.)の頭文字のこと。
1884年にルイビルスラッガー(Louisville Slugger)としてスポーツ用品ブランドを設立。
実はローリングスよりも3年程早く設立された老舗野球用品メーカーなのである。
野球用品でいえば、グラブよりもバットに力を入れており、ベーブ・ルースをはじめアメリカ野球殿堂入りの野手の80%がルイビルスラッガーのバットを使用していたのだとか…

因みに、昭和天皇と香淳皇后を後楽園球場にお迎えしての日本プロ野球初となる天覧試合が昭和34年(1959年)6月25日に行われたのだが…

 

その前夜、長島さんは使用するバットを決め倦ね、枕元に2本のルイビルスラッガーを含む5本のバットを並べて就寝。
目覚めた時にそのうちの真ん中の1本を手に取り、スイングをしてみると、その音が何とも良い!
長島さんの“勘ピューター”に適ったのがルイビルスラッガーのバットだったということである!



試合は4対4の同点で迎えた9回裏、この回の先頭打者は長島さん…

時刻は午後9時10分を回り、両陛下が御退席される予定の午後9時15分(※日本テレビの中継終了予定時刻も同時刻とされていた)が迫るなか、結果はご存じの通り、まさに“メークドラマ”や“メークミラクル”を生み出す長島さんはギリギリのところでサヨナラ本塁打を左翼スタンドに叩き込み劇的な幕切れを演出してみせた。
この大活躍が長島さんの人気を不動のものにしたとともに、プロ野球人気をも高めた重要な試合ともなったのである。

話をグラブに戻し…

既記の如く、長嶋さんが愛用したとして有名なローリングスの「XPG3」。

検索すると、その1970年前期モデル(B)が特に愛用モデルとされているようである。(素人目には“Ⓡ”マークのある無しくらいしかその違いがよくわからないのだが…)

 

硬式・軟式用の復刻版が発売されており、この画像はその1970年前期モデル(B)と後期モデル(A)に採用されている…甲側のバックスタイルに入る“ハミダシ”のデザイン(※WING TIP:一枚革で縫製)が特徴的なモデルである。

 

 

ただ、現役時代の画像を検索しても、この部分がソレとわかる画像は、実は全くといっていい程ヒットしてこないのである。

昭和46年(1971年)2月の宮崎キャンプの時点に撮られた…ローリングスのラベルがはっきりと見て取れる↓の写真でも、ハミダシンのスタイルは一般的な…「XPG3」でいえば1960年代モデル(C)である。

 

 

長島さんはローリングスのグラブも使用していたが…

初期の頃はSPALDINGのグラブなども使用していた。

 

 

スローイング、そして構え方…やはり長島さんの仕草はすべてが絵になる!

下の2枚の写真ではHBのグラブが使用されているのが見て取れる。

おそらく選手時代の晩年はHBのグラブをメインに使用していたのではないだろうか。

 

 

そして↓の如く引退試合の日もこのグラブを使用しており、この時の長島さんのグラブを見る限りでは、下ろし立てとも見紛うばかりに状態が良いにもかかわらず…

 


50年程経過したとはいえ、先に添付した柴田氏が鑑定を依頼したグラブは自宅で大切に保存していたとは思えない程の劣化ぶりである。
保存過程で環境が悪かった…あるいは結構自身でも使用してしまったのか、はたまた元からこのような使い込んだ状態のものだったのか?
 

上に添付したプロ野球カードの画像から、長島監督初陣の年となる昭和50年(1975年)の宮崎キャンプでもHBのグラブを使用していたことが見て取れるので、おそらく複数個のHBのグラブを所持していたと考えられ、先に添付の画像および↓(マジックによる「3」の書き込みもはっきりわかる!)の“構え”のポーズの際にはめているグラブの如く、譲ってくれたのは…おそらく長島さんの優しさから…使い込んだ感のある…手に馴染んだ…歴戦の友的な方だったのかもしれない?

 

 

長嶋氏から「おいっ」 譲り受けた"1000万円"の宝物…想定外だった1年前の引退撤回 | Full-Count


既記の如く、当方のHBのグラブの入手経路は分からず終いではあるが…
HBのグラブに関しては、自分がせがんで買ってもらったということはなかったのは確かであり…
また両親も野球には詳しくはなかったので…
おそらく誰かから…「息子さんに」と貰ったものだったのではないかと思う。

当時、うちに来られていたプロパーさんのツテでミズノの関係者の方から…強く印象に残っているのは高田選手のサイン入りバット、河埜和正選手のサインボールなどをいただいた記憶はあるのだが、そのツテからだとしたならばなぜミズノのグラブではなかったのか?

(申し訳ないが…子供心からすると、当時としてはその方がおそらくは嬉しかっただろう。)
もしかしたら、私が長島ファンということで、長島さんが使っているグラブのメーカーと同じ物を用意してくれたのかもしれない。
現在でもルイビルスラッガーのグラブは入手するのは簡単ではない。
それが50年前ともなれば…“舶来品”のなかでもレアな一品であり、より入手は難しかったはずである。
長島さんが使っているグラブのメーカーであるという認識すらなかった当時は、別段大切にするでもなく普通に…いや、今思えば…野球から戻れば道具箱に放り込むような…どちらかといえばぞんざいな扱い方だったかもしれない。

現在のルイビルスラッガーのグラブのラインナップを見てみると…
もう随分と前のモデルからHBのロゴは使用されていないようであるが…下の画像(加工)ように革のベルト部分が楕円にくり抜かれたなかに、オレンジ色の生地にHBのロゴが冠されていた。


ウェブ部分の形状にも色々あるが私はバスケットタイプのウェブが好きで…それは勿論、あこがれの長島さんのグラブがバスケットタイプだったからに他ならない!
そして、嘗て私が持っていたHBのグラブもバスケットタイプだった。

ただ少し違っていたのは…
最近のグラブは、少年用もアゴ部分は親指側から小指側に掛けてラウンド状に手口紐(アゴレース)により閉じられているのが一般的なようだが…
当時も大人用(高額版?硬式用?)は勿論そのような形状だったのだろうが、そのグラブは少年用(廉価版?軟式用?)だったからか、中央部から小指側だけが紐で閉じられているタイプだったように記憶している。

 

以前に、左利き用のグラブで…ウェブ部分のスタイルも当時持っていたものとは違ってはいたのだが…HBのロゴが冠されたグラブがフリマサービスに出品されていた。
ただ私のグラブも、まさに↑の楕円で囲んだ部分のような感じであった。


そのグラブも疾うの昔になくなって忘却の彼方の品となり、ただただ今は残念でならない。