白バラが紅く染まった日 | S A L O N

1942年6月28日に始まったスターリングラード攻防戦…
当初はなんとか攻勢に進めていた戦闘も頑強なソ連軍の抵抗に苦しめられ劣勢に転じ、ついに限界の時が迫っていた。

ヒトラーは、自身の内閣発足(1933年)からちょうど10周年目の1943年1月30日付けをもって第6軍司令官のフリードリヒ・パウルスを陸軍元帥に昇格させ、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という引き合いを出してパウルスに威圧感を与え、最悪の場合も、パウルス以下が全員戦死もしくは自決することを切望し、正規軍としての降伏という不名誉だけは断固として許さなかった。
結局パウルスは、そのヒトラーの厳命に逆らいきれず、第6軍全体の降伏というカタチではなく、あくまでも司令部としての投降という体にして、翌日(31日)にミハイル・シュミロフ中将指揮するソ連軍第64軍に降伏した。
このため、第6軍全体としては各師団単位で個々に降伏することとなり、2月2日のカール・シュトレッカー陸軍上級大将率いる第11軍団の投降により、ついにスターリングラード攻防戦は終結となった。

こうした劣勢・泥沼化した戦況にあって尚、国民を戦争にかき立てるヒトラー政権に対し、ミュンヘン大学医学部の学生であったハンス・ショルクリストフ・プロープストらが中心となり非暴力的反ナチス抵抗運動…いわゆる“白バラ(Die Weiße Rose)”が結成された。
ハンスとクリストフら学生のなかにはフランス侵攻、東部戦線に従軍しその惨状を目の当りにし、さらにスターリングラード攻防戦における大敗を直視しなければドイツ自体の破滅に繋がり兼ねないとの思いを強くし、一刻も早く戦争及び殺戮をやめねばならないと喚起を促す活動に専念する。

1942年7月以降、一旦下火になっていた活動ではあったが…
翌1943年1月に5号目となる「白バラ」ビラを作成・配布などを再開する。
この間に兄であるハンスと考えを一にした、やはりミュンヘン大学哲学科の学生であった妹のゾフィー・ショルも活動に参加している。


Hans Scholl, Sophie Scholl, and Christoph Probst_R
左から衛生兵時代のハンス、ゾフィー、クリストフ


そして運命の2月18日…
兄妹らは講義終了にあわせてミュンヘン大学構内に1000枚以上の「白バラ」6号ビラを撒いた(置いた?)との嫌疑で逮捕されることとなる。
戦後50年程を経て旧東ドイツ地区に保管されていたゲシュタポによるゾフィー達の尋問調書、関連の捜査・逮捕記録、処刑記録などが公開されるなかで、その最期をめぐる真実も明らかになった。

 

白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々(原題:Sophie Scholl / Die letzten Tage)』(2005年)


 

その尋問調書などの資料および、ハンス、ゾフィーの実姉のインゲ・ショルが著した『Die Weiße Rose(白バラ)』、ヘルマン・フィンケが著した『Das kurze Leben der Sophie Scholl(ゾフィー・ショルの短い生涯)』や、政治犯として5日間同じ監房でゾフィーから直接話を聞いたエルゼ・ゲーベルの回想などを基に、2005年にドイツで制作されたのが『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々(原題:Sophie Scholl / Die letzten Tage)』である。
逮捕からわずか5日間で取り調べ、裁判そして即日処刑執行となったゾフィーたちの様子を出来得る限り忠実に再現した映画である。


 この映画で主演のゾフィー・ショルを演じたベルリン出身のユリア・イェンチは、この作品で、ヨーロッパ映画賞、ドイツ映画賞、ベルリン国際映画祭をはじめとする多数の主演女優賞を受賞している。

 


因みに、その前年に公開された『ヒトラー 〜最期の12日間〜』では、総統アドルフ・ヒトラーの秘書候補たちが、総統大本営ヴォルフスシャンツェ“狼の巣”での深夜の最終面談に訪れるとい冒頭のシーンに…ベルリンの(旧)パンコウ(Pankow)区出身のハンナ・ポトロフスキー役として出演をしている。

 



この映画では、その取り調べのシーンにかなりの時間が費やされ…ゾフィーを取り調べるロベルト・モーア尋問官も重要な役割を果たしている。
後年公開された尋問調書でも、ゾフィーの信念を貫こうとする強い意思とその態度に深く心を動かされたモーアが、「兄を手伝っただけ」と認定してゾフィーを救うおうとしていたことが傍証されている。
また、エルゼの回想録においてもゾフィーの裁判の前日に果物、ビスケット、タバコなどを差し入れしエルゼに彼女の様子などを尋ねるなど尋問官としては数少ない親切な人物だったと語られている。


劇中では、ジェラルド・アレクサンダー・ヘルトがそのモーア役を好演しており…因みに、映画『シンドラーのリスト』では親衛隊(SS)官僚として出演もしている。

取り調べは昼夜の別なく4日間行われ…
22日にはベルリンの民族裁判所長官ローラント・フライスラーによる“正義”の裁判が開かれることとなる。
フライスラーといえば…1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の被告に対する裁判の模様をご覧になられた方もおられることと思う。
フライスラーは“死の裁判官”といわれるほど、長官就任後の締め付けは厳しく…彼の担当した裁判においては死刑あるいは終身禁固刑判決が激増した。


ローラント・フライスラーの裁判(7.20ヒトラー暗殺未遂事件公判)中の実際の映像

この映画では、アンドレ・ヘンニッケが、そのフライスラー役を迫真の演技で熱演している。
額に青筋を立て罵倒する姿はその裁判の様子などをよく研究したのではないかと思える。
因みに、ヘンニッケもヴィルヘルム・モーンケSS少将役として『ヒトラー 〜最期の12日間〜』に出演している。

また、セバスチャン・コッホ主演の『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』(2005年)では、ルドルフ・ヘス副総統役としても出演している。





午前10時に開廷した裁判は審議休廷をはさみ午後1時半ごろには判決が言い渡された。
判決は…勿論、“死刑”…
それも猶予期間も認められず…しかも即日執行というあまりに不当なものであった。
言論・思想統制に神経を尖らせていた政府、警察当局が、一学生たちの“白バラ”抵抗運動にさえ危険性・危機感を感じ、執拗に封じ込めようと躍起になっていたことが窺われる。
そしてシュターデルハイム刑務所に戻されたゾフィー、ハンス、クリストフら3人の刑は午後5時に執行された。
映画のラストシーンではゾフィーが断頭台の置かれた処刑室に入り斬首されるところで暗転…
後は音(声)のみのというところが逆にリアル感を演出している。



ゾフィーは、逮捕後の尋問の際の「こういったことを全部よくお考えになっていたら、あのような行動はとらなかったのではないですか?」という質問に…
「私はもう一度、すっかり同じ事をやるでしょう。 考え方の間違っているのは私ではなく、あなたがたの方なのですから…」と答えたという。
一貫した彼女の毅然とした姿勢、生き様を描いた映画としても…
また映画として純粋に作り手、演じ手の描き方を堪能するにおいても見応えのある作品なのではないだろうか。

 

 

シャトーブリアンからの手紙(原題:La Mer à l'aube)』(2011年)

 

ドイツ占領下のフランスで起きた青年共産党員らによるドイツ軍将校の襲撃暗殺事件。
実行犯は逃亡…その報復として、計48名の人質が銃殺された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から選ばれた人質のなかには最年少(17歳)のギィ・モケもいた。
この映画は、そのギィを中心に、事件前日から銃殺に至るまでの4日間を描いている。

 

前記事でも紹介したフォルカー・シュレンドルフの監督・脚本による2011年製作の仏独合作映画。

André Jung_Harald Schrott_Ulrich Matthes
上映時間(91分)の1/6程のパリのドイツ軍司令部執務室でのシーンでは、こうした題材を映画にする際、“ヒール”(悪役、敵役)として対比されそうなところを、シュレンドルフは当作品でも良識あるドイツ軍人として描いていてくれている。
現に、報復処刑に関して…司令官として処刑を許可したシュテュルプナーゲルは“悪玉”として、ナチスの象徴とでもするかのような表記も多いが、実際のシュテュルプナーゲルは反ナチズム的な考えを持っており、この後もヒトラー…ベルリンと度々衝突が生じ、翌年には辞任している。
 


オットー・フォン・シュテュルプナーゲル将軍役を演じたアンドレ・ユング。
軍装姿も様になっており、将官然としていてなかなかに良い!

オットーというよりは、どちらかと言えばシュテュルプナーゲルの辞任の後、1942年2月20日付でその後任となった従弟のカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将の方が雰囲気は似ている。


エルンスト・ユンガー役を演じたウルリッヒ・マテスは、その特徴のあるお顔立ちからお気づきの方もあると思うが、マテスも『ヒトラー ~最期の12日間~』にゲッベルス役として出演をしている。
シュレンドルフ作品としては、『Der neunte Tag(邦題:9日目 〜ヒトラーに捧げる祈り〜)』(2004年)にも出演している。

 


ハンス・シュパイデル大佐役を演じたハラルド・シュロット。
眼鏡をかけた感じなど、シュパイデルの雰囲気が出ている。
映画デビューは、シュレンドルフ作品の『Die Stille nach dem Schuß (邦題:リタの伝説)』(2000年)ということである。
 


駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ役を演じたトマシュ・アーノルド。
シュレンドルフ作品には、シュロットと共に出演した『リタの伝説』、また『パリよ永遠に』ではパリ爆破の現場責任者ヘッガー中尉役を演じている。




占領下の5区(サン=ジェルマン=アン=レー、アンジェ、ディジョン、ボルドー、パリ)を統括するため1940年10月16日付でフランス軍事司令部が設立、司令本部はクレベール通りに面したホテル・マジェスティックに置かれた。
(北フランス~パ=ド=カレー県に関しては、ブリュッセルのベルギー=北フランス軍事司令部が管轄。)

1940年10月25日付で、その初代司令官にオットー・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍中将(当時)が任官。(同年12月1日付で陸軍歩兵科大将に昇進)

任官中、シュテュルプナーゲルは、フランスの産業資源を適宜に運用できれば、延いては戦争活動を支援することにも繋がると確信し、産業、流通、文化面、安全保障上の問題など、独仏両国間の良好な関係を維持することは不可欠であり、そのために出来得る限りの役割を果たそうとしたようであるが、次第にベルリンとの温度差は拡がりをみせ…
そうした最中に襲撃暗殺事件など起こったことで、圧政による統治という機運の高まりは必至となっていく。

劇中、本国側の意向を伝えに来た駐仏ドイツ大使のオットー・アベッツ(親衛隊(SS)大佐の階級も持つ)は、独仏の外交問題(社会、芸術、産業、教育、そして財産)を監督・管理する立場ではあったものの、フランスにおける如何なる権限に対しても、実質的にはほぼ無力であり、また、独仏間に平和条約が締結されていなかったため、“大使”としても認定されておらず、結局は据え者に過ぎなかった。


1941年6月22日のソ連侵攻後、ボリシェヴィキ本部からの指示を受け、フランス共産党(PCF=Parti Communiste Français)による仏国内におけるレジスタンス運動が活発化し、地下組織による武装闘争へと発展していく。
8月21日、パリのバルベス・ロシュシュアール駅でのアルフォンス・モーザ海軍管理部補佐官の射殺事件に端を発し、9月3日にエルンスト・ホフマン陸軍伍長、同15日にはヴィルヘルム・シェーベンス陸軍大尉が射殺されるなど、PCFのメンバーらによる襲撃事件がフランス各地で散発。
ドイツ側は、これに対し共産主義者の処刑(各6名、10名、12名)というかたちで報復した。


ナントでは、マルセル・ブルダリアス、ジルベール・ブリュストリン、スパルタコ・ギースコら3名のPCF構成員たちにより、将校クラスに対する襲撃・暗殺が計画された。
そして、この映画のストーリーの発端ともなる1941年10月20日(月曜日)午前8時少し前…
ロワール=アトランティック県地域軍政司令部指揮官カール・フリードリヒ・ホッツ陸軍中佐は、副官のヴィルヘルム・ジーガー陸軍大尉を伴い、宿舎のホテルを出たあと、ロワ・アルベール通りからサン=ピエール広場前の司令部に向かっていた。
ブリュストリンとギーコスは二人の後をつけ、サン=ピエール広場通りに出る直前に…
ブリュストリンはホッツに向け2発…これにより、ホッツは数分後に絶命。(享年64歳)
しかしギースコの拳銃はジャミングを起こし、ジーガーは命拾いをしている。
(※PCFは1950年まで事件への関与を否定。)

襲撃直後は警戒が厳しく、3人は市内に潜伏した後、街(北)外れのアジトに移り、レンヌ道路の岐点で各々に分かれた。
ジーガーの証言と、警察への通報により、2日後にはブリュストリンとブルダリアスが特定。
見張り役のブルダリアスは、その後パリに戻り、いくつかのテロ行動に参加したが、1942年1月5日に逮捕された。
ギースコもパリに戻り、地下組織と連絡を取り、スペイン共産党のメンバーに協力したが、同年2月5日に逮捕された。
(当初、ギースコは襲撃犯とは特定されていなかったが、取り調べ中の拷問により自白)
同年4月14日、パリの“Maison de la Chimie(≒化学会館)”で開廷された軍事裁判により、ブルダリアス(享年18歳)、ギースコ(享年30歳)他の25名に対し死刑が宣告され、同年4月17日にモン・バレリアンで銃殺。

ブリュストリンもパリに戻ったが、直後にパリで行動を共にするはずだったメンバー4人が逮捕されるなど、捜査の手が迫っていた。
また、同年11月19日刊の新聞に顔写真が公開され、市中の掲示板にも手配写真が貼られるなど、仏国内での潜伏は厳しいものとなったため、英国への逃亡を計画。
なんとかスペイン国境を越え、偽の身元で逮捕(ミランダ・デ・エブロ強制収容所に収監)、身柄は英国に引き渡された後、英国に移送されている。
1942年11月に自由フランス軍(FFL=Forces Françaises Libres)に参加、パリ解放後の1944年後半にフランスに戻っている。
2009年2月25日、フランスのエーヌブレーヌで死去。(享年89歳)


(左)手前の革コート、制帽の将校がカール・ホッツ…隣を歩くのがヴィルヘルム・ジーガーかは詳細不明。
(右)カール・ホッツの墓標。※現在は、ポルニシェの軍人墓地(2区21番通路655番)に移転。
因みに、劇中でも語られているが、ホッツは土木建築技師でもあったようで、ナントに赴任後、地域のインフラ整備などにも力を入れ、地元民からの評価も悪くはなかったとのことである。
友人の話によれば、謙虚な人柄の好人物だったようである。

Karl Hotz_射殺現場
※射殺現場

この襲撃事件に激怒したヒトラーは、当初、150名の処刑をシュテュルプナーゲルに命じた。
シュテュルプナーゲルは、150名という数字は一度に処刑する人数としてはあまりに多く、そのような報復処刑に対する仏国民の反発が、今後の協力関係を危うくすることを懸念し、先ずは翌21日に50名を銃殺刑に処し、翌々日23日までに犯人が逮捕が為されなかった場合には、さらに50名を銃殺するという段階的な案を国防軍最高司令部(OKW)に提示し、了承を取り付けた。
10月21日、この事件に関する報復措置の通告と犯人逮捕に繋がる情報提供を求めるビラが市内に掲示された。


BEKANNTMACHUNG_21 Oktober 1941
【独語】
BEKANNTMACHUNG
Feige Verbrecher, die im Solde Englands und Moskaus stehen, haben am Morgen des 20. Oktober 1941 den Feldkommandanten in Nantes hinterruecks erschossen.
Die Taeter sind bisher nicht gefasst.
Zur Suehne fuer dieses Verbrechen habe ich zunaechst die Erschiessung von 50 Geiseln angeordnet.
Falls die Taeter nicht bis zum Ablauf des 23. Oktober 1941 ergriffen sind, werden im Hinblick auf die Sehwere der Tat weitere 50 Geiseln erschossen werden.
Fuer diejenigen Landeseinwohner, die zur Ermittlung der Taeter beitragen, setze ich eine Belohnung im Gesamtbetrag von 15 MILLIONEN FRANKEN aus.
Zweckdienliche Mitteilungen, die auf Wunsch vertraulich behandelt werden, nimmt jede deutsche oder franzoesische Polizeidienststelle entgegen.
Paris, den 21 Oktober 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie

【仏語】
AVIS
De lâches criminels, à la solde de l'Angleterre et de Moscou, ont tué, à coups de feu tirés dans le dos, le Feldkommandant de Nantes (Loire-Inf.), au matin du 20 Octobre 1941.
Jusqu'ici les assassins n'ont pas été arrêtés.
J'ai t arrtés.
En expiation de ce crime, j'ai ordonné préalablement de faire fusiller 50 otages.
Etant donné la gravité du crime, 50 autres otages seront fusillés au où les coupables ne seraient pas arrêtés d'ici le 23 Octobre 1941 à minuit.
j'offre une récompense d'une somme total de 15 MILLIONS DE FRANCS aux habitants du pays qui contribueraient à la découverte des coupables.
Des informations utiles pourront être deposées à chaque service de police allemande ou français.
Sar demande, ces informations seront traitées onfidentiellement.
Paris, le 21 Octobre 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie

(和訳)
通告
1941年10月20日の朝、イギリスとモスクワの手先である臆病な犯罪者がナント(ロワール=アトランティック県)で地域司令官を射殺した。
これまでのところ犯人はまだ捕まっていない。
この罪に対する償いとして、本官は先ず50名の人質の銃殺を命じた。
犯罪の重大性を考慮して、犯人が1941年10月23日深夜までに逮捕されない場合は、更に50名の人質が銃殺されるであろう。
本官は、犯人逮捕に貢献した国民に対して、合計1500万フランの報酬を提供する。
有益な情報はドイツまたはフランスの警察署に通報し、その通報は匿名でも構わない。
パリ、1941年10月21日
フランス軍事司令官 フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将

ヴィシー政府の内務大臣ピエール・ピュシューは、所轄の機関に対し人質リストの作成を指示、これにより共産主義者などの政治犯および労働組合活動家などの収監者からその多くが選別されることとなる。

そして10月22日(水曜日)、シャトーブリアンで27名、ナントで16名、モン・ヴァレリアン刑務所(パリ)で5名の計48名の人質の銃殺刑が執行された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から3㎞程にある砂利採取場に連行された27人は、9人づつ3組に分けられた。
刑の執行に際し、全員が目隠しされることを拒否した。

Châteaubriant / camp de Choisel (27名)
(1組目:午後3時50分執行)
Charles Michels(38 )
Jean Poulmarc'h(31)
Jean Pierre Timbaud(31) 
Jules Vercruysse(48) 
Désiré Granet(37) 
Maurice Gardette(49)
Jean Grandel(50) 
Jules Auffret(39) 
Pierre Gueguen(45)

(2組目:午後4時執行)
Marc Bourhis(34)
Raymond Laforge(43) 
Maximilien Bastard(21) 
Julien Le Panse(34) 
Guy Môquet(17) 
Henri Pourchasse(34) 
Victor Renelle(53) 
Maurice Tenine(34) 
Henri Barthelemy(58)

(3組目:午後4時10分執行)
Raymond Tellier(44) 
Titus Bartoli(58) 
Eugene Kerivel(59) 
Huynh Khuong An(29) 
Charles Delavacquerie(19) 
Claude Lalet(21) 
Antoine Pesque(35) 
Edmond Lefevre(38) 
Emile David(39)
(上段より、向かって左→右の柱への配列順 ※( )内は年齢)


戦後、フランスの約50都市で通りの名称が「ギィ・モケ」に改称されたり、公共施設などの名称に使われたりと、ギィを“若くしてフランスと自由のために命を捧げた悲劇の英雄”として称え、祭り上げていた。
近年、その見方も修正が為されてはいるようであるが…どうも、人の褌で戦勝国に名を連ねた国ほど戦時中の辛酸を美化する傾向にある…(苦笑)
劇中では、処刑当日の22日に釈放予定だったクロード・ラレだが、一転して処刑者として名前を呼ばれ、出迎えに来ていた妻と最期の10分間を惜しむ。
実際は、妻のウジェニー・ラレによると…内務省からの“23日釈放”の通知が届き、ショワゼル収容所に行くと、夫が前日に銃殺されたことを知ったとのことである。
しかも、最初のリストにクロードの名前はなかったようで、処刑場所となる砂利採取場に向かいかけた部隊を停止して“学生(クロード)”を追加するように命じられたようである。

Châteaubriant_La Carrière des Fusillés
銃殺刑が執行された砂利採取場(当時)跡は追悼碑などが建てられた広場となっていて、記念式典なども催されている。(※MAP)

Nantes (16名)
Maurice Allano(21)
Paul BirienIRIEN(50)
Joseph Blot(50)
Auguste Blouin(57)
René Carrel(20)
Frédéric Creuse(20)
Michel Dabat(20)
Alexandre Fourny(43)
Joseph Gil(19)
Jean-Pierre Glou(19)
Jean Grolleau(21)
Robert Grassineau(37)
Léon Jost(57)
Léon Ignasiac(22)
André Le Moal(17)
Jean Platiau(20)

Paris / Mont-Valérien (5名)
Robert Caldecott(35)
Marcel Hevin(35)
Philippe Labrousse(32)
André Ribourdouille(---)
Victor Saunier(---)

(※( )内は年齢)

ナントでの暗殺事件に埋もれがちではあるが、実はさらに、その翌日にもボルドーで暗殺事件が起きている。
(同年)10月21日(火曜日)の午後7時30分頃…
フランス軍事司令部の下部組織であるボルドーの第529地域軍政司令部人事部長のハンス・ゴットフリート・ライマース戦争管理評議員(Kv.Rat≒少佐相当)と同僚のコールマン(同役職)が事務所を出て帰宅途中…自転車に乗ったピエール・ルビエールとスペイン共産党構成員らに背後から発砲(2発)され、1発がライマースの心臓を貫通し、即死した。(享年39歳)

Lieu de l’attentat du 21 octobre 1941 contre l’Intendant Hans Reimers
襲撃現場となったジョルジュ・サンク通りとパテ通りの角。

この暗殺に対する報復として、シュテュルプナーゲルは50名の人質の処刑を命じ、10月26日までに犯人が逮捕されなかった場合は追加の50名の処刑を通告した。
そして翌日の10月24日、ボルドーから25㎞程のところにあるスジェ収容所で50名の銃殺刑が執行された。

相次ぐ暗殺事件に伴う報復処刑に対する国民感情に鑑み、シュテュルプナーゲルは両事件に対する追加の処刑は断念すべきと判断し、行われなかった。

ルビエールは、同年12月15日に逮捕され、翌1942年1月10日にドイツ当局に引き渡され、収監された。
同年8月24日から9月9日まで、パリのホテル・コンチネンタルで開廷された簡易裁判において死刑判決を受け、同年10月5日にバラード射撃場(パリ15区)にて銃殺。(享年33歳)



その後も、事件が起きる度に報復措置としての処刑をOKW(国防軍最高司令部)から求められ、辟易として、精神的にも限界に来ていたシュテュルプナーゲルは神経衰弱の症状も見られるようになっていた。
1942年2月13日付で司令官を辞任し、そのまま待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年8月31日付をもってドイツ国防軍からも除隊した。
終戦後の1945年8月2日に英国軍に逮捕。
1946年12月25日に仏国側に引き渡され戦争責任の罪で収監。
1948年2月6日、シェルシュ=ミディ刑務所(パリ)にて自殺。(享年69歳)