嘗て、ドイツ西南部の旧プロイセン領ライン地方(現:ラインラント=プファルツ州北部)には、ライン川を跨いで西岸のレマーゲン(Remagen)と東岸のエルペル(Erpel)を結ぶ、堅牢な軍用鉄道橋があった。
全長325m、幅員約12m、複線構造に加え、両側には細いながらも歩道を備えたその橋は、“通り抜けアーチ橋”と呼ばれる形式を採り、後に「レマゲン鉄橋」として知られることとなる。
米軍と独軍との間で繰り広げられたこの“レマゲン鉄橋”をめぐる攻防の末、その責任を問われた四人の独軍将校は、見せしめのための二日間にわたる特別軍法会議で死刑を宣告され、先組二人、後組二人とも即日中に森のなかに轟く銃声とともに露と消えた。
ちょうど81年前…1945年3月13日、14日のことである。
第一次世界大戦中の1916年、東側(ジーク線・ラーン渓谷線・ギーセン経由の東西幹線)から右岸幹線に流れ込む膨大な物資・軍需品および人員(兵士)を、最短距離で西部戦線へ送るために、エルペル - レマゲン間に橋を架け、アール渓谷鉄道へ直結する軍事輸送限定の“ショートカット”を新設する機運が高まった。
この橋の設計はカール・ヴィンナー が担当し、建設計画を強く推進したエーリヒ・ルーデンドルフ 歩兵科大将(当時)の名を冠し、1918年5月1日に「ルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke) 」と正式に命名された。
同年8月15日に竣工式が行われたが、エルペラー・レイ(Erpeler Ley)を貫通させるトンネル建設や、エルペル側の切通し開削工事が難航したため工事は遅れ、線路の敷設が完了したのは、あろうことか第一次世界大戦が終結してから約8か月も経った1919年半ばのことだった。
橋は1919年7月23日にケルン鉄道管理局(Eisenbahndirektion Köln)の管轄となり、同年、鉄道橋として正式に供用が開始された。
1945年1月末、連合軍の戦略に対する英国側の懸念を和らげるため、連合国遠征軍最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワー 米陸軍元帥は帝国参謀総長のアラン・F・ブルック 英陸軍元帥に対し、ライン川北部での渡河作戦は、川の西側全域からドイツ軍を排除し終えるまで待つ必要はないと保証したうえで、2月20日付の書簡でもアイゼンハワーは、バーナード・L・モントゴメリー 英陸軍元帥率いる英第21軍集団が、ルール地方北方からライン川を突破する主攻撃を行うことを再確認し、その間にジェイコブ・L・デヴァース 米陸軍中将(当時)率いる米第6軍集団とオマール・N・ブラッドレー 米陸軍中将(当時)率いる米第12軍集団が西岸の掃討作戦を完了し、後に補助的な渡河作戦を行う予定だとしていた。
3月初旬の時点でライン川に架かる橋のうち、ケルンのホーエンツォレルン橋(Hohenzollernbrücke※1945年3月6日に爆破)、ボンの(旧)ライン橋(Rheinbrücke=“Klaus-Clemens-Brücke”※1945年3月8日に爆破)、ウルミッツ鉄道橋(“ヴィルヘルム皇太子橋”:Urmitzer Eisenbahnbrücke※1945年3月9日に爆破)、そしてこのルーデンドルフ橋の4本が、なんとか利用可能な状態で残されていた。
アイゼンハワーは、ドイツ深部への進撃ルートとしてルール地方北方とフランクフルト=カッセル回廊の二つを指定したが、具体的な渡河地点の選定は各軍集団司令官に委ねた。
第12軍集団の作戦幕僚は、後のコートニー・H・ホッジス 米陸軍中将率いる米第1軍の作戦区域において、ライン川の渓谷が比較的広く展開する二つの渡河候補地として…一つは北部のケルンとボンの間、もう一つはアンダーナッハ(Andernach)とコブレンツ(Koblenz)の間を妥当な渡河地点として挙げた。
いずれもルール=フランクフルト間のアウトバーンやラーン(Lahn )川流域を経て、フランクフルト=カッセル回廊へと迅速にアクセスできる位置にあったが、道路網は極端に限られ、また両地点ともヴェスターヴァルト(Westerwald)と呼ばれる、樹木が生い茂った丘陵地帯と、急峻な地形を有する険しい森林丘陵地帯に通じており、そのなかでも最も厄介なのがレマゲンであった。
ホッジス率いる第1軍がライン川に接近するなか、ブラッドレーは、米第3軍のジョージ・S・パットン 米陸軍中将(当時)と同様、第1軍の今後の作戦における役割を、即時の渡河よりも、先ずはライン川沿いの防衛線を維持し、残存する抵抗勢力の拠点を掃討したうえで、想定される2つの渡河地点のうち、最も南に位置するアンダーナッハとコブレンツ間の地点まで部隊を展開する準備を整えるべきと考え、その旨をホッジズにも下達した。
連合軍がライン川に迫るなか、衰亡間近の独軍の指揮系統は混迷のなかにあった。
複雑化の要因として、独軍の地上部隊は、野戦軍(Feldheer)と補充軍(Ersatzheer)とに明確に分けられていたことにある。
補充軍は国内の兵站および兵員補充・訓練・再編を一手に担い、また軍管区(Wehrkreis)内における防衛責任も担っていた。
ベルリンの陸軍兵器局長兼補充軍司令官(Chef der Heeresrüstung und Befehlshaber des Ersatzheeres)により統括され、各“軍管区司令官(Wehrkreis-Kommandeur)”は、その指揮下に配置されており、フリードリヒ・フロム 陸軍大将が永らくそのポストに就いてきたが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後…陸軍に不信感を抱いたヒトラーは、陸軍の影響力を削ぐため、補充軍司令官に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラー を任命した。
これは政治的措置であり、実務の大部分は依然、陸軍内部の高官たちが就く軍管区司令官が担っていたが、1945年3月初頭、戦線がルール川からライン川へと後退するにつれ、防衛責任は軍管区から軍集団・軍へと移行するはずだった。
だが、実際には軍管区司令官たちは覇権を手放そうとせず、陸軍内部における混乱を招き、その影響は、結局は末端での指揮系統の混乱に拍車をかけた。
レマゲン橋梁地区という小さな戦区における防衛においても、その指揮系統は…ある意味、複雑であった。
ヘルベルト・シュトローベル陸軍少佐 の所属に関しては、一次資料的な物がなかなか無いなか(年齢すら不明)、これまで“第51自動車化工兵連隊幕僚”とする実しやかな部隊名を挙げている文献が多いが、そもそも“特別任務配備”のために編成された「Pionier‑Regimentsstab z.b.V.」自体に『51』という番号がふられた“組織”は存在しない。
因みに、「z.b.V.」は、“特別任務配備”の意味となる「zur besonderen Verwendung」の略であるが…
「Pionier‑Regimentsstab z.b.V.」の場合の、特別任務のために組織された“stab(幕僚)”は、配下に戦闘部隊を持たず、必要に応じ派遣先工兵連隊の幕僚部として編入される。
但し、特別任務の指定を受ける“組織”は…“stab(幕僚)”だけではなく、大隊(Abteilung)、師団(Division)、さらには軍団(Korps)規模の実戦部隊として組織される場合もあり、その場合も通常は既存の師団や軍団に属さず、適宜、各戦線へ臨時投入される。
話を戻し、“第51自動車化工兵連隊”に限ってみても、『51』の番号付をされた“自動車化”は勿論、連隊規模の工兵部隊は存在しない。
強いて挙げるならば、間違えてもおかしくないくらいによく似た“第51自動車化工兵大隊(Pionier-Bataillon(mot.) 51)”という工兵部隊があるが、連隊規模でなく大隊規模であり、1945年3月時点において第23装甲師団に所属しており、ハンガリー北部〜スロバキア南部のフロン川(Hron)周辺から、その後はモラヴィア(ブルノ方面)に後退中で、しかも1942年5月21日付で既に第51装甲工兵大隊(Panzer-Pionier-Bataillon 51)と改称されており、勿論全くの無関係である。
当方の見解では、補充拠点となる軍管区の第12軍管区(管区司令官:ヘルベルト・オスターカンプ 陸軍砲兵科大将)に編成された“特別任務工兵連隊幕僚”である第519特別任務工兵連隊幕僚(Pionier‑Regimentsstab z.b.V. 519)がシュトローベルの所属先と考えている。
おそらくは、どこかの段階で…この「519」の「9」が抜けてしまい、「51」のみが一人歩きをしてその後は当たり前の如く伝わってしまったものと考えられる。
そしてシュトローベルの“特別任務工兵連隊幕僚”は同軍管区に編成された第12地方工兵補充・訓練連隊(Landespionier-Ersatz-und Ausbildungs-Regiment 12)の幕僚部として編入され、幕僚本部をレマゲンから45㎞程下流のコブレンツ(Koblenz)に置き、シュトローベルがそのトップとして、橋梁の爆破準備に関する技術・戦術および兵站に関しても統括した。
アウグスト・クラフト陸軍少佐 は、第12地方工兵補充・訓練連隊の第3大隊指揮官で、その司令部はレマゲンから南東に35㎞程のベンドルフ=ザイン(Bendorf-Sayn)に置かれ、主な任務はライン川のレマゲンからコブレンツ間の上下流に架かる5つの橋梁と多数の渡り船を警備・運用・管理することにあった。
クラフト配下の諸部隊は、担当地区内の諸橋梁に分散されており、その一つの担当橋梁がルーデンドルフ橋…レマゲン鉄橋であり、第12中隊が、この橋における爆破作業の担当部隊となっていた。
つまり、クラフトには各橋梁における戦闘・戦術的な面での指揮権はなかった。
1945年2月時点で、(西岸側)第954軽高射砲大隊(leichte Flak-Abteilung 954)、(東岸側)第962軽高射砲大隊(leichte Flak-Abteilung 962)、鉄道貨車搭載型の高射砲部隊である第514鉄道高射砲大隊(Eisenbahn-Flak-Abteilung 514 ※3/7以前に配置換え済)、そして(東岸側)エルペラー・レイの高台にはボン防空地区(Luftgaukommando VI)所属の重高射砲中隊(schwere Flak-Batterie)からの分遣隊による10.5cm重高射砲など、レマゲンとその近傍にはいくつかの中隊規模(実情は定数割れ)から為る対空射撃部隊が配備されていた。
そして、コードネームを“フェーン(Föhn)”とする…44年型7.3cm対空ロケット発射機(7.3cm Flakraketenwerfer 44)の試験的運用配備のための特殊部隊も東西両岸に配置されていた。
それが、カール・ハインツ・ペータース空軍中尉 が指揮する第900対空砲教導試験大隊(Flak‑Lehr‑ und Versuchs‑Abteilung 900)の第3中隊で、レマゲンには1945年2月初旬に派遣されている。
この中隊は3個小隊からなり、当初の編成(定数)では“固定型12基:可動型12基”の計24基という潤沢なる発射機24基を有し、兵員も120名で構成されるという…この時期にして破格の扱いであったが…
蓋を開けてみれば、想定数の約半分程となる…“固定型10基:可動型4基”の計14基(推定)、兵員も(多くても)70名前後であった可能性が高い。
主力は東岸側で、エルペラー・レイの各所に固定型10基、可動型2基、そして西岸側はヴィクトリアベルク(Viktoriaberg)の丘上に可動型を2基を配備したものと思われる。
勿論、この“派遣分遣隊”は…陸軍にも武装SSにも属さず空軍の指揮下にあった。
“フェーン(Föhn)”は、7.3cm無誘導ロケット弾35発を一斉射撃可能な移動式ランチャーで、“極秘兵器(Geheime Kommandosache)”ではないが“高度に制限された特殊兵器(Sondergerät)”として扱われ、運用にあたっては、情報公開・運用部隊および配置場所など当時はまだ厳しく制限されていた。
橋における爆破装置の敷設を含む現場での実務を実質的に指揮していたのが、第12地方工兵補充・訓練連隊/第3大隊所属の第12中隊指揮官として橋梁指揮官(Brückenkommandant)に任官していたカール・フリーゼンハーン陸軍大尉 であった。
フリーゼンハーンは、1914年8月にドイツ帝国陸軍に入隊し、第一次大戦中は工兵大隊に所属し、三度の負傷を経て、陸軍軍曹まで進級している。
戦後は除隊して故郷のコブレンツに戻り、義兄の経営するビール醸造所で働いていた。
第二次大戦開戦時には既に40代半ばであったが、1939年に施行された動員計画に基づいて編成された「地方工兵補充・訓練連隊」における占領地の維持、後方の橋梁・インフラの保守管理という後方支援任務のために、一次大戦経験のある者が必要とされ充員召集を受けており、その工兵部門の知識と経験を買われ、地雷探知専門家として非戦闘部隊に配属されている。
その後、ドレスデン工兵学校の工兵科将校候補生講習を受け、1940年に陸軍(工兵)少尉に任官し、1942年には陸軍大尉に昇進している。
1944年6月8日、第80補充訓練大隊(Grenadier-Ersatz-Ausbildungs-Bataillon 80)から編成された傷病兵を含む1個中隊…いわゆる“回復兵中隊(Genesenden-Kompanie)”からの300名の増援を受けた第12中隊の指揮官として、フリーゼンハーンはルーデンドルフ橋の防衛任務に就いているが、主としてこの中隊の構成員は戦傷快方期にある歩兵たちで、対岸のライン河畔のリンツにあった陸軍病院での治療を受けながら一時的に任務に従事しており、回復してしまうと原隊復帰のため送還されてしまい、秋までには300名からその3分の1にまで減じていた。
因みに、この経験豊富なベテラン中隊長がレマゲンに赴任した時、既に彼は49歳となっていた。
ヴィリー・ブラトゲ陸軍大尉 が生まれた…嘗てドイツ帝国領であったエルビング(Elbing ※波語読み:エルブロンク(Elbląg))は、第一次世界大戦後の ヴェルサイユ条約によって、東プロイセン(ヴァイマル共和国領)に加わり続けたことで、ポーランド回廊によって本国から切り離されるかたちとなっていた。
1924年に師範学校(Lehrerseminar)を卒業し教師の職を探すも、その前年末にはハイパーインフレが崩壊、経済は混乱の最中にあり、雇用も悪化の一途を辿り、なかなか仕事は見つからなかった。
こうした環境、時代背景のなか育った若者たちの心の中に…「いつの日にか郷里(“失われた領土(Verlorene Gebiete)”)をポーランドから奪い返そう」という強い意識が芽生え、ブラトゲのみならず、強烈な民族意識・復讐心・愛国主義を抱く者は少なくなかった。
そして、信念と…何より俸給の面を考えるにつけ、軍人となることは、学校教師になることよりも至極当然の選択であった。
エルビングにも駐屯地のあった第3プロイセン歩兵連隊(3. (Preußisches) Infanterie-Regiment)に入隊後、数学、物理学、自然科学に堪能な上に、その授業能力の才を認められたブラトゲは、夜間クラスの教官に抜擢されている。
1927年に陸軍を辞めて教育の仕事に戻っているが、軍事演習には参加し続け、1937年に予備役に編入。
1939年8月、秘かにポーランド侵攻の準備を進めるなか、ブラトゲは召集され、第21歩兵師団(21. Infanterie-Division)所属の第24歩兵連隊(Infanterie‑Regiment 24)に予備役少尉として再任官している。
(※1934年10月1日付でエルビングに“エルビング司令部(Kommandant von Elbing)”という国防軍拡大期における隠蔽工作的な…実質的には軍事部隊が編成され、1935年10月15日付で、正式に第21歩兵師団(21. Infanterie-Division)と改称されている。)
1940年7月、陸軍中尉に昇進。
西方戦役(フランス侵攻)終結後まもなく、教官としてバルテンシュタイン(Bartenstein)の陸軍下士官学校(UOS:Unteroffiziersschule)、さらにボルドーの駐屯軍である第529野戦司令部(Feldkommandantur(FK)529)に転属。
独ソ戦が泥沼化するなか前線勤務を希望したブラトゲは、1943年春に陸軍大尉に昇進し、第223歩兵師団/第344擲弾兵連隊/第2大隊の中隊指揮官に任官。
1943年のソ連軍による南方軍集団への攻勢後、師団とともに短期間ハリコフ地区へ転戦し、激しい防衛戦に参加…この間、師団は戦闘集団の戦力まで縮小されている。(第1大隊は1943/44年冬に解散)
第168歩兵師団所属の第417擲弾兵連隊は、再編のため自連隊の第2大隊と第344擲弾兵連隊の第2大隊から、新たに第1および第2大隊を編成。
1944年夏、ソ連第1ウクライナ方面軍の大攻勢(Lvov–Sandomierz Operation)により独軍は壊滅的打撃を受け、ブラトゲの所属する第417擲弾兵連隊の第2大隊も、8月には連隊単位での防衛戦 → 後退 → 包囲回避戦を繰り返し、ウクライナのカルパチア山脈北麓に位置するドロホブィチ(Дрогóбич)まで追い詰められた。
この戦闘の最中に受傷し本国に後送され、療養後も前線への復帰は無理と判断され、1944年11月1日付で橋梁地区警戒部隊における隊附先任将校としてレマゲンに補職されている。
同格の大尉であるブラトゲとフリーゼンハーンとの関係は上手くいっていたとはいえ、年長でより経験のある工兵将校が自分よりも若い先任指揮官に従うという、ある意味での二重構造は“指揮系統上の不安定要因”ともなり、これを“上”も認識し、同年12月中旬になってレマゲン戦闘指揮官(Kampfkommandant von Remagen)という新たなポストを設け、ブラトゲの地位を格上げしている。
これは両者に明確な指揮権の上下を付けることで関係性を図ったとみられる。
そして、その戦闘指揮所はライン川沿いのプロムナードに面したレストラン兼宿泊施設の“ホテル・アンカー(Hotel Anker:錨)”(※現在も同地(Rheinpromenade 40, 53424 Remagen)にて営業中)に置かれた。
但し、この“レマゲン戦闘指揮官”という役職は、あくまでも名目上のものであり、それぞれに指揮系統を有する対空砲部隊、国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)、国家勤労奉仕団(RAD:Reichsarbeitsdienst)、地方防護警察(Schutzpolizei der Gemeinden)など橋周辺の全組織に対する指揮権を実際に有するものではなく、その権限が発動できるのは緊急時のみという限定的なものだった。
更なる直近の指揮系統の変更は、より事態を複雑にした。
2月1日、第6軍管区(管区司令官:フランツ・マッテンクロット 陸軍歩兵科大将)が、レマゲンの管轄を第12軍管区に移管し、3月1日、米第9軍による「グレネード作戦(ローアー(Roer)の戦い)」の最中に第5装甲軍(司令官:ハッソ・フォン・マントイフェル 陸軍装甲兵科大将)と第15軍(司令官:グスタフ・アドルフ・フォン・ツァンゲン 陸軍歩兵科大将)の担当区域が入れ替えられた。
その数日後、独軍がルール川から撤退するなか、ボン方面に展開していたカール・ピュヒラー 陸軍歩兵科大将率いる第74軍団が、ボンおよびレマゲン周辺の橋頭堡の指揮も執るものと思われていたが、B軍集団司令官のヴァルター・モーデル 陸軍元帥は、ラインブロール(Rheinbrohl)まで撤退していた第18国民擲弾兵師団の指揮官にヴァルター・フーゴ・ボッシュ 陸軍中将を任命し、同師団をレマゲン地区の防衛に充てた。
これは、ツァンゲン率いる第15軍の南側面に位置するボッシュの第18国民擲弾兵師団が、直接的な隷属関係にはないものの、同軍の作戦区域において南翼防衛の戦術的一翼も担う形となったことを意味していた。
ボッシュは、戦況の把握に努めるなかで、上官であるツァンゲンとモーデルという二人の将軍の見解の違いに真正面からぶつかることになる。
モーデルは米軍の主攻がボンに向かうと考えていたのに対し、ツァンゲンは“漏斗の注ぎ口”にあたるレマゲンを突破口として進撃してくると見ていたのである。
どちらの可能性にも備えるため、ボッシュは司令部をボンとレマゲンの中間地点に置きたいと考えたが、モーデルはあくまでもボン、あるいはその近郊に置くよう強く命じた。
ところがボンに赴いたボッシュは、同地区の防衛司令官リヒャルト・フォン・ボートマー 陸軍少将と、ボンにおける指揮権の所在をめぐって折り合えず、調整は難航した。
ボッシュは、この複雑に入り組んだ指揮系統をめぐる調整に…3月初旬の数日間を、第15軍とB軍集団の司令部、そしてボンとレマゲンの間を疲労と苛立ちのなか奔走することとなる。
3月6日早朝、アール川沿いを第15軍司令部へ向かう途中、ボッシュはライン川へ向けて潰走する部隊や消耗しきった兵士たちの姿を目の当たりにし、戦線の崩壊が現実のものとなりつつあることを肌で感じた。
このような現場感覚は、レマゲンでの防衛にとって大きな助けとなったかもしれないが、ボッシュにはそれを活かす機会が与えられなかった。
というのも、6日午後、第53軍団司令官エドウィン・ロートキルヒ 騎兵科大将が、エーフェル地方(ビトブルク北東、ダウン周辺)で米軍に捕らえられたため、モーデルはその後任として、ボッシュを第53軍団の司令官に任命したのである。
その日の午後5時には、ボッシュは新たな任務地…第53軍団が駐屯するトリール(Trier)に赴くため、後任者への引き継ぎの時間すらなくラインブロールを出発している。
ボッシュの異動を知ったツァンゲンは、第67軍団司令官のオットー・ヒッツフェルト 陸軍中将に、レマゲン地区の防衛状況を直接確認するための適任者を派遣するよう命じた。
その数時間後の翌7日午前1時、ツァンゲンは第67軍団に対し、レマゲンの“漏斗の注ぎ口”における防衛準備を命じるとともに、レマゲン橋頭堡の全防衛責任を同軍団に移管した。
第67軍団司令部はクルトシャイト(Kurtscheid)に置かれており、レマゲンから20㎞程しか離れてはいなかったが、ヒッツフェルトはこの時点においてレマゲンの鉄道橋に関しては勿論、この地区における殆ど何の情報も持ち合わせてはいなかった。
この時すでに米軍はレマゲンから15㎞以内に迫っていた。
※第67軍団司令部は、当初はアルトヴィート(Altwied)に置かれていたが、資料によれば…夜間に激しい砲撃を受けることもあり、後にそこから北東に約13kmの“Nuscheid”への移動が記されている。
だが、現在の地図上では該当する地名は確認できず、綴りの誤記・誤読の可能性を考慮すると、クルトシャイトがその実在地であった可能性が高い。
7日午前1時20分、副官のヨハネス(“ハンス”)・シェラー陸軍少佐 を呼び、レマゲン地区司令官(Abschnittskommandant von Remagen)に任命するとともに、すぐさまレマゲンへ向かうよう命じた。
現地で全指揮権を引き継ぎ、可能な限り兵力を集め、小規模でも橋頭堡を築くようにという指示だった。
さらにヒッツフェルトは、橋の構造と爆破準備の状況を到着次第すぐに確認するよう、特に念を押し、「状況により、もし必要ならば、君は自分で爆破命令を下してよろしい」と付け加えた。
午前2時過ぎ、シェラーは8人の兵士と一組の無線機を携え、2台の車両に分乗し、小雨が降り霧の立ち込める司令部を出発した。
暗闇と退却中の車輛や兵士らで混雑したアイフェル丘陵の曲がりくねった夜道をレマゲンへと急いだが、シェラーの車輛は燃料が尽きかけていたため、燃料補給所のあるデーデンバッハ(Dedenbach)を経て回り路をせねばならなかった。
シェラーは、無線機を積んだもう一台には、このままレマゲンに直行するように命じ、二手に別れている。
夜が明け始め、無線機を携帯した方の車輛は、その先に既に米軍の戦車部隊が進出していることを知った。
接近を試みたが、突破は不可能と判断し、やむなく司令部へ引き返している。
これによりシェラー…つまり、レマゲン守備隊は、大切かつ唯一の通信手段を持たぬまま最後を迎えざるを得なくなったのである。
2月の段階では、一部の米軍幕僚のなかに橋の奪取を想定する空気も若干はあったものの、可能性は極めて低いとされ、むしろ橋の爆破を遅らせるための空爆を継続するよう要請していた。
3月初頭には米第9軍で一時的に希望が高まったが試みは失敗し、独軍が橋を確実に破壊するだろうという見方が強まり…
3月6日の時点で、現場の指揮官や将兵のなかに橋を無傷で奪取できるという非現実的な期待を抱く者はもはや殆どおらず、米第9機甲師団に発令されたこの日の命令でも、米第1軍の方針に従い、作戦目標は南東方向へと修正され、アール川の渡河を重視する進撃が開始され、“レマゲン鉄橋”の奪取は正式な作戦目標からは外されていた。
この日、電話での戦況を巡るやり取りのなかで、米第3軍団のジョン・ミリキン 米陸軍少将が、米第9機甲師団のジョン・W・レナード 米陸軍少将に「橋が取れたら名を残すぞ」と冗談交じりに語ったというが…この時、両将とも、十数時間後にそれが現実のものとなるなどとは想像すらしていなかった。
ラインバッハの交通要所をめぐる激しい攻防により、一時的に進撃が阻まれたものの、米第9機甲師団の戦闘司令部A(CC-A)は約16㎞以上の前進に成功し、深夜にはアール川まで残り3.2㎞程の地点に到達した。
同じく同師団の戦闘司令部B(CC-B)はシュタット・メッケンハイムに進出し、ライン川までわずか13㎞程の距離に迫った。
さらに、米第1歩兵師団の一部はボン北西でライン川から約6.5㎞以内に接近していた。
翌3月7日朝、J・ロートン・コリンズ 米陸軍少将率いる米第7軍団が隣接するケルン周辺の抵抗を排除したことを受け、ホッジスは、ボンの掃討任務も米第7軍団に任せ、併せて米第1師団もその指揮下に置いた。
その頃、米第9歩兵師団はバート・ゴーデスベルクに迫りつつあり、米第9機甲師団のCC-Aはバート・ノイエナールでアール川を渡河した。
独軍はヒッツフェルト率いる第67軍団の退却路であるアール渓谷の幹線道路を死守しようと激しく抵抗したが、CC-Bは一部をライン川との合流点付近で渡河させ、もう一部…米第27機甲歩兵大隊と米第14戦車大隊(1個中隊欠)を基幹として、その米第14戦車大隊指揮官のレナード・E・エンゲマン米陸軍中佐を指揮官とする任務部隊(エンゲマン戦闘団)を編成し、ライン川沿いに位置する人口5,000人程の町…レマゲン方面へと進撃させた。
メッケンハイムからの道路は瓦礫で塞がれていたため、戦車ドーザによる整備を待たねばならず、出発は午前8時20分とだいぶ遅れたが、独軍はこの遅延を有効に活用することはできなかった。
進撃開始から約5㎞地点で軽微な砲撃と小火器による抵抗に遭遇し、さらに2㎞半程東進した後に南へ転進し、正午前にはレマゲン西方の森林地帯に突入した。
森林内では、米軍に降伏を望む独軍兵の小集団が投降する光景が見受けられた。
7日の夜明け直後から、橋の周辺は、圧倒的な戦力をもってアール渓谷を南下し、追走してくる米軍から敗走してきた車輛、馬車などの車列…さらに、項垂れ、疲れ果て、意気消沈した独軍の将兵、負傷兵や脱落兵たちが統制を失ったまま次々と橋へと押し寄せ…橋の上は制御不能な交通渋滞に陥り、混乱の渦のなかにあった。
もし、フリーゼンハーン以下…工兵部隊による前4日間にわたる…線路を敷板で覆う突貫の敷設作業が間に合っていなかったならば、この混雑はさらに深刻なものとなっていたことであろう。
戦争を始める1年程前の1938年の段階で、既にOKW(国防軍最高司部)は、この橋の綿密な爆破計画を立てていた。
手筈としては、厚い鋼管に収められたケーブルで爆薬と接続された電気信管が設置され、万一それが作動しない場合には、手動で導火線に点火し、非常用の爆薬を起爆できるようにとなっていた。
さらに1944年末には、レマゲン側の橋頭に大きな溝を掘って敵戦車の進入を遅らせ、その間に本爆破を完了させるという追加の計画も立てられていた。
工兵部隊の現場指揮官であるフリーゼンハーンは長くこの任にあり、爆破計画にも精通していたが、任務を複雑にする新たな命令を…前日の6日に受けることとなる。
既記の如く、6日に…ケルンの独軍守備隊により、撤退直前にホーエンツォレルン橋が…予定より早く爆破されてしまったことを受け、OKWは、米軍の前線が橋から8㎞以内に迫るまでは爆薬の設置を禁じ、さらに「爆破が避けられないと判断されるまで」信管の取り付けも行わないよう命じ…加えて、爆薬の準備命令および爆破命令のいずれも、当該地区の“戦術責任者”…つまり、第67軍団司令官であるヒッツフェルトによる書面での発令が必要とされた。
ボッシュは、ボンの防衛に一個師団、そしてブラトゲとの約束でもあったレマゲンへの一個連隊の増援をモーデルに要請したが、モーデルの返答は「そのような戦力はもはや存在しない」という冷ややかなものであった。
6日夜半、ブラトゲは…この件の進捗に関してボッシュの司令部に連絡を取ろうとしたが繋がらなかった。
ブラトゲは知る由もなかったが、この時、ボッシュは既記の如く新たな任務地…トリールに既に異動してしまっていた。
そのうえ、その事をブラトゲに伝えるべく、ボンのボートマーの司令部から派遣された連絡将校の車は道に迷い、あろうことか米軍の陣地に迷い込み、捕虜となっていた。
結局のところ、レマゲンに増援は一兵たりとも届くこてはなく、眼前では友軍は橋を渡って退却していく一方である。
正規に設置された情報系統というものを持たなかったブラトゲの部隊は、専ら米軍の行動に関する情報は退却中のその友軍に依存せねばならなかった。
そこから聞き及んだ多くの情報(聞き伝?)によれば、既に米機甲部隊がレマゲンから僅か8㎞程西のビルレスドルフ(Birresdorf)に迫っているとのことであり…
焦りを募らせたブラトゲは、7日の早朝にB軍集団司令部へ電話をかけて指示を仰いだが、対応したのは当直の作戦将校補佐官メイ陸軍中尉のみで…そのうえ、その当該将校は、「びくつくことはありません。それらの戦車はボン、ケルン、およびデュッセルドルフに向っているものです」と、レマゲン地区の現状に関しては、深刻な脅威に晒されているとの特段の懸念すら抱いていない有様だった。
更には、「いやしくも練達な将校たる(ブラトゲ)大尉ならば、当然、これが米軍の主力ではないことはご理解いただいているものとは思いますが…」と皮肉めいた言葉で会話を打ち切ったとのことである。
この時点での橋の防衛戦力としては、ブラトゲの直接指揮下にあった第80補充訓練大隊(Grenadier-Ersatz-Ausbildungs-Bataillon 80)から編成された傷病兵を含む1個中隊…いわゆる“回復兵中隊(Genesenden-Kompanie)”の36名と、フリーゼンハーン指揮下の第12中隊20名弱(※当初は120名程の中隊だが、各所での工兵作業で分散しており、当日に橋にいたのがこの人数)、そして地元住民から徴用した…装備・訓練ともに極めて不十分かつ信頼性に乏しい国民突撃隊の10〜15名、および鉄道警備兵、憲兵、通信兵などの10〜15名だったとされている。
業を煮やしたブラトゲは、やむなく…撤退中の第3降下猟兵師団の残兵をかき集め、アール渓谷方面からの米軍の進出を阻むべく、翌7日午前5時より、レマゲンの南西4㎞程に位置するバート・ボーデンドルフ(Bad Bodendorf)付近に防衛陣地を敷設するよう命じた。
だが、程なくその残兵たちも敗走する群衆に紛れて姿を消していた。
7日午前11時15分頃、ブラトゲが橋の交通統制点で確認作業をしていると、そこに…目は充血し、、疲労困憊の陸軍少佐…ハンス・シェラーら一行が近づいてくるのが見えた。
ブラトゲは、シェラーがヒッツフェルトの命を受け、レマゲンの全指揮を引き継いだことを確認し、指揮権を移譲した。
ブラトゲは後年、この時の様子を以下のように回想している。
「私は、状況を劇的に変えてくれるような強力な増援や、明確な権限を持った将軍が来るのを期待していた。しかし、やってきたのは、たった数人の部下を連れた疲弊しきったシェラー少佐だった。彼が持ってきたのは『命令書』だけで、我々が喉から手が出るほど欲しかった“大隊”も“通信機”も持っていなかった」
さらに、「何時間もかけて、やっとのことでレマゲンに辿り着いた直後であり、精神的・肉体的に消耗しており、到着直後は状況を把握するのに精一杯で、毅然とした指揮官という風貌ではなかく、ただ彼は現場の状況を理解するよりも先に、自分の権限を主張することに固執しているように見えた」とも述懐している。
シェラーが到着して10分程経った時、伝令が「レマゲンの西方の丘にいる部隊が米軍の戦車と歩兵によって攻撃された」と報告してきた。
二人のいる場所からも、RAD(国家労働奉仕団)のキャンプが展開していたレマゲン(西岸)側のヴィクトリアベルク丘上付近から煙が煙が立ち上り、小銃と機関銃による断続的な銃声も響いていた。
だが、この状況でもシェラーは冷静だったとブラトゲは語っており、「では、橋の視察に出かけることにしましょう」と言い、この後二人は、橋の爆破準備の進捗を確認するため現場の爆破責任者であるフリーゼンハーンのもとへと向かったという。
ルーデンドルフ橋のような鋼鉄アーチ構造と橋脚を有する堅牢な橋梁を“完全破壊”するためには、工学・建築学的には少なくとも約6,000kg以上もの爆薬が必要とされるそうであるが、戦況の逼迫と補給の困難さを踏まえ、現場責任者であるフリーゼンハーンは、たとえ少量であってもトロチル(TNT)やSprengstoff 28といった軍用規格の高性能爆薬を要所に設置すれば、橋のデッキや路面、接合部に致命的な損傷を与え、少なくとも通行不能にはできると判断し、600kgというギリギリの量を要請したものと思われる。
しかし7日午前11時頃にようやく届いたのは、爆速がTNTより遅く、鋼鉄構造物の破壊には不向きな工業用爆薬のドナリット(Donarit)が300kg程に過ぎず、しかも一部は湿気を帯びて劣化していたため、起爆性能の低下も懸念された。
やむなく、爆薬は塔楼や橋脚などの要所への限定的な設置作業が急ピッチで進められた。
フリーゼンハーンは新司令官に対し、「この爆薬は土木作業用で、鋼鉄の橋を確実に落とすには威力が不十分であり、量も足りない」と強く主張した。
シェラーも、追加の爆薬や資材が届く見込みがないことを知っていたので、「今あるもので何とかするしかない」と答えるしかなく、この時点で“確実な爆破”への自信は揺らいでいく。
さらに深刻だったのは、起爆させるための“電気式点火装置”への信頼性であり、ブラトゲとフリーゼンハーンは、度重なる米軍の砲撃によって、橋に張り巡らされた電気系統の配線が切断されている可能性を危惧していた。
ブラトゲは、「米軍はすぐそこに来ているので、これほど不安定な爆薬なら、敵が来る前に余裕を持って今すぐにでも爆破作業を行うべきだ」と主張したが、シェラーは 「いや、まだ西岸に味方が残っおり、また軍団からは“可能な限り橋は維持せよ”と言われている」とし、橋の爆破命令を出すことに慎重だった。
確かに、多くの将兵と貴重な装備がまだ西岸に取り残されている現時点での橋の爆破は、彼らを見殺しにするのに等しく、また大きな損失にもつながると考えたシェラーは、ぎりぎりの判断を迫られながらも、決断を躊躇った。
シェラーは「午後4時までは爆破を待て」と指示を出しているが、“橋の爆破”に関する不安要素が多々あるなかで、さらに“時間的猶予”を削るという二重のリスクを冒すことになったのである。
西岸の対空砲陣地に配備された38式4連装2cm対空砲(2cm Flakvierling 38)。
爆撃により砲座が崩壊し使用不能となった…エルペラー・レイの高台に設置された38/39式10.5cm高射砲(10.5cm Flugabwehrkanone 38/39)。
そして午後12時56分…(米)A中隊(ティマーマン戦闘団)の歩兵先遣隊である第2小隊を率いていたエメット・J・バロウズ米陸軍少尉が…森林を抜け、アポリナリスベルク(Apollinarisberg)の高地からレマゲンの町を見下ろすと、眼下には、曇天のもと、冷気に包まれ、霧がかったライン渓谷の壮麗な景観が広がり、そして何と!ライン河上にまだ破壊されずに聳える…“レマゲン鉄橋”が望見できたのである。
※この画像は、エルペラー・レイの高台から橋を一望したもので、上方に広がる街並みがレマゲンとなる。
バロウズは…この前日のメッケンハイムでの戦闘において、(前)中隊長のクライナー米陸軍大尉が戦死したことをうけ…急遽、A中隊の指揮を任された若干22歳のカール・H・ティマーマン米陸軍中尉に、ほぼ無傷の橋の発見をかなり興奮気味に伝えたという。
ティマーマンから報告を受けたエンゲマンもまた、橋を目の当たりにすると、バロウズやティマーマンらと同様に驚きと興奮を隠せなかった。
少し遅れて、CC-Bの作戦将校であるベン・コスラン米陸軍少佐も到着し…やはり興奮気味に「Oh my God!(なんてこった!) 早くオヤジ(CC-B司令官ウィリアム・M・ホーグ 米陸軍准将)を呼んでこい!!」と大声で叫んだという。
ホーグは、アール渓谷方面へ向かう別動隊が主力部隊と見なされていたため、そちらに随行していたが、コスランの無線報告を受けると、すぐさまホーグもレマゲンの高台に駆け付けてきた。
眼下では、退却のため橋へと殺到する独軍の車列、人並が群を成している。
ホーグは、橋の奪取に伴う危険性を見極めつつ、破壊される前に行動すべきか否かで葛藤していた。
そんな折、CC-Bの別動隊から午後3時15分頃に届いた報告によれば、ジンツィッヒでの戦闘中、地元住民から「ドイツ軍はルーデンドルフ鉄道橋を午後4時ちょうどに爆破するつもりだ」との情報がもたらされた。
実際には、独軍側にそのような明確な時刻設定はなかったのだが、この通報はホーグに危機感を募らせ、エンゲマンに一刻も早く橋を奪取するよう命じた。
午後1時10分頃、シェラーは戦闘指揮所を東岸側のエルペル鉄道トンネル内に移動することを命じ、ブラトゲは機密書類などの運搬に留意しながらその移動を監督した。
またシェラーは、ヴィクトリアベルク丘上に展開するRADなどのグループを急ぎ橋まで撤退させるよう指示し、ブラトゲはこの指令を警戒部隊に電話したが、発信音は鳴っているものの、その時既に彼らは敗走した後だった。
午後1時40分、米軍による橋への攻撃が始まった。
米第14戦車大隊から新たに到着したM26パーシング重戦車の小隊が先頭に立ち、ティマーマン率いるA中隊がこれに続いて進撃した。
午後2時を少し過ぎた頃、米軍の戦車の砲撃および歩兵による銃撃は既に橋に命中し始めていた。
フリーゼンハーンは、2名の下士官と2名の志願兵を伴い、橋西岸からの車輛の通過を妨げるに足る大きさの孔を橋の取付道路に開けるべく図られた爆弾に連結された時限信管の近くに待機した。
警笛を鳴らしたジープと歩兵たちが橋から数百メートル程のところにまで迫っていた。
フリーゼンハーンは「点火!」と叫び、時限信管が効力を現す6秒間を息を吞んで待った。
砂埃と煙が立ち上り、取付道路には10m弱の漏斗孔が形成されていた。
とりあえず一安心したフリーゼンハーンたちは、背中越しに銃声が響くなか、トンネルに向け一散に駆け戻った。
何とか橋を渡りきり、フリーゼンハーンはあたりを見回したが、そこにはゲアハルト・ローテ陸軍軍曹しかいなかった。
その時、一発の戦車弾が橋上に炸裂した。
衝撃で打ち倒され、起き上がろうとしたが、軍服はひどく引き裂かれ、流血し、そのまま15分程、気を失っていたとのことである。
午後3時10分過ぎ…フリーゼンハーンと、少し遅れて…脚に大怪我を負ったローテは途中這いながらも何とかンネルまで辿り着くことができた。
レマゲン市街における散発的な独軍の抵抗を排除しつつ、午後3時12分、米軍は橋の取付道路付近に達していた。
さらに、小火器や2cm機関砲による断続的な射撃をかわしながら、部隊は前進を続けた。
フリーゼンハーンはブラトゲに、「橋を爆破する許可を貰ってくれ!」と怒鳴った。
そして、この命令を直ちに実行しない限り、橋の爆破失敗に対する責任は取れない旨付け加えた。
ブラトゲは大急ぎでシェラーのもとに走り、「少佐、あなたが橋の爆破命令を下さないなら、私の一存で橋を爆破させますよ!」と言い放った。
東岸のトンネルは、独軍兵士・国民突撃隊(DV:Deutscher Volkssturm)隊員 ・民間人・外国人労働者・少数の捕虜、そして動物までもが身を寄せ合う避難所と化していた。
フリーゼンハーンは「全員気を付け!我々は今から橋を爆破する。全員奥に退避し、うつ伏せになれ。鼓膜が破れぬように口は開けておけ」と告げた。
午後3時20分過ぎ、シェラーはようやく第一弾となる橋の西側部分の爆破命令を出した。
フリーゼンハーンは発破器のハンドルを回した。
薇発条(ぜんまいバネ)がしっかり巻かれた時、爆破薬は起爆することになっていた。
だが、何も起こらない。
フリーゼンハーンは、慌てて再び巻いたが、依然として何も起こらない。
分厚いパイプの中に収納された導火線は、砲弾が命中してもそう簡単には寸断されることはないと思いつつも、その振動が電気回路に少なからず影響を及ぼさないとも限らず、おそらくはそのせいで電気起爆装置は作動しないものと思われた。
こうなっては熟達した修理工からなる非常修理班により回線の遮断部を修理させる他はないが、銃弾が降り注ぐなか、故障個所の地点までたどり着くこと自体が容易なことではないにもかかわらず、何処に故障個所があるのかを発見し、迅速に修理することなど到底無理な話である。
斯くなる上は、非常用爆破薬に直接繋げられた雷管コードを手動点火させる他なく、フリーゼンハーンは、下士官全員をトンネルの入り口付近に呼び集め、この危険な任務の志願者を募ったが、誰も名乗り出る者はいなかった。
その時、カール・ファウスト陸軍曹長が「私がやりましょう!」と申し出た。
最小限の爆薬で最大の損害を与え得るだろうと鉄道技師たちが割り出した位置…トンネルからは80m程先の橋上に雷管コードと爆破薬は設置されていた。
ファウストは、銃弾を潜り抜け、匍匐で前進していった。
だが、橋の“爆破威力の算出”の参考とした爆薬は軍用火薬によるものであり、今設置してある火薬が、果たして橋を破壊する程の威力があるのかは疑問であった。
ただ今となっては、少量であろうが、劣品であろうが…破壊とまではいかずとも、とにかく橋に致命的な打撃を与えてくれることを祈るしかなく、その鍵を握るファウストにただただ任せるしかない。
フリーゼンハーンは、居ても立っても居られず、橋の袂まで向かったが、すぐさま機関銃掃射を受け、あわてて遮蔽物に身を隠した。
そこにファウストが戻ってくるのが見えた。
午後3時40分、爆音が轟き、木材が宙を舞い、橋は崩れ落ちたかに見えたが、煙が晴れると、デッキ中央部に多少の穴が空き、周囲の鉄骨構造の一部に歪みや変形は見られたものの、アーチおよびトラスといった橋梁自体の主構造に致命的な損傷を与えるには至らず、橋は依然としてその姿を留めたままだった。
その光景を目の当たりにすると、すぐさま、M26パーシング戦車による弾幕射撃が開始され、それに呼応しティマーマンはA中隊に“渡橋”を命じた。
橋上では散発的な銃撃戦はがあったものの、独軍側の抵抗は軽微だった。
同時に、米第9機甲工兵大隊の工兵たちは橋の下部に設置された爆破装置の導線を切断、追加爆破はこれにより阻止された。
A中隊/第3小隊所属のアレクサンダー・A・ドラビック米陸軍軍曹の分隊が最初に東岸に突入。
続いて同小隊所属のジョセフ・A・デリジオ米陸軍二等軍曹の分隊が東岸の橋塔に突入し、 橋上での脅威となる敵火点(銃座)を掃討、橋塔を制圧し、午後3時50分頃には東岸の鉄道トンネルの入り口に到達。
午後4時頃には米兵約120名が渡橋を完了。
ティマーマンは、デリジオら数名の斥候をトンネルへ派遣し、内部の爆破装置と起爆要員の確保に当たらせた。
ブラトゲ、フリーゼンハーンらトンネル内の独軍部隊は散発的な抵抗を見せたものの、斥候班により程なく制圧され、午後5時15分頃に正式に降伏。
周辺一帯も米軍の掌握下に置かれた。
(因みに、同日夜には独軍潜水兵による橋梁破壊工作も試みられたが米軍に捕縛されている。)
しかし、トンネル上方の高台は依然として独軍の観測・射撃位置として脅威であり、、そこからの銃撃、砲撃と地形の険しさに阻まれ、急斜面をよじ登っての制圧を試みたものの、重火器を持ち上げられない状況下では、小銃・手榴弾中心の戦闘となり、滑落や砲撃による負傷者が続出し、バロウズ率いる第2小隊の高台制圧は難航を極め苦戦した。
何とか日没までには斜面を確保したものの、頂上付近の制圧までには更に2~3時間程を要した。
因みに、この高台における戦闘を称して“Suicide Cliff(自殺の崖)”とも言われるが、これは戦後の回想であり、当時の公式呼称ではない。
もし独軍が即時に戦車と歩兵による組織的反撃を行っていたならば、橋の奪取および高台制圧は難しかった可能性が高いと分析されている。
路面損傷部などは、米軍工兵部隊により10時間程で補修され、同日深夜には戦車も渡河を開始した。
米軍により橋が奪取された後、独空軍(LW)は戦闘爆撃機に加え、ジェット機(Me262、Ar234)による航空攻撃を試みたが、制空権を失っていた状況下では、もはやレマゲン周辺にほとんど航空戦力を展開できず、また激しい対空砲火に阻まれ効果は限定的であった。
さらに砲撃やV2ロケットなどによる多様な攻撃も試みたが、橋は損傷を受けつつも、その都度の補修により、その後も10日間使用し続けられた。
だが、先の爆破未遂時における損傷や連日の被弾による損傷に加え、過負荷(兵員・車輛の通行)などによる構造疲労を齎す複合的要因が相俟って、3月17日午後3時…ついにルーデンドルフ橋は崩落した。
崩落時、橋上で対空砲を撤去する作業を行っていた米第639高射砲大隊の兵士28名が死亡、93名が負傷している。
米軍はもともと橋を無傷で奪取できるとは想定をしておらず、あらかじめポンツーン(舟橋、浮橋、浮遊橋脚橋)などの周到な渡河準備を進めていた。
故に、この橋を占拠した意義は、“戦略的”実用性というよりも、連合軍将兵にとっての強い“心理的”象徴性にこそあった。
後にアイゼンハワーは「橋の重さ分の金に値する」と評し、この出来事は“レマゲンの奇跡”として、プロパガンダ的に利用されていく。
現在も橋梁そのものは崩落したまま再建されていない。
戦後しばらくはライン川沿いの一帯が米軍占領地域に含まれていたが、1955年の占領終了とともに橋跡の管理権は独側へと返還され、レマゲン側の西岸橋塔は市の所有となり、内部は“レマゲン平和博物館(Friedensmuseum Brücke von Remagen)”として一般公開されている。
一方、エルペル側の東岸橋塔はドイツ連邦鉄道財産管理局(BEV)の管理下にあり、現在は売却対象物件となってもいるようだが、文化財指定ではないものの歴史的遺構としての扱いで利用制限があることに加え、エルペラー・レイの急斜面に近くアクセスが良いとは言えず、周囲は静かな住宅地で商業利用における収益化の見込みも薄く、何より改修には莫大な費用がかかるため、未利用のまま放置されている。
レマゲン鉄橋 【後編】に続く…