ひじカタナ話 | S A L O N

 

土方歳三は、箱館戦争(五稜郭の戦い)最終盤の明治2年(1869年)5月11日(※)、箱館(現:函館)の一本木関門を死守せんと馬上にて指揮を執り、将兵たちの士気を鼓舞するも、腹部に銃弾を受け絶命したとされている。(享年34歳)

因みに、土方は武州武蔵国多摩郡石田村(現:東京都日野市石田)の豪農の家の10人兄弟の末っ子として、天保6年(1835年)…一説では“5月5日”に生まれたとのことである。

 

※明治2年当時の我が国の暦は太陽太陰暦(干支暦・旧暦)であり、明治6年1月1日から取り入れられたユリウス暦に直せば西暦1869年6月8日となり、その27年後の1900年には更にグレゴリオ暦に改暦されて現在に至るわけだが、このグレゴリオ暦に直せば西暦1869年6月20日となる。


その土方の生家のあった場所には、付近の区画整理に合わせて母屋を改築した際に“土方歳三資料館”が併設された。

現在、このご時世故に一般開館日はなく、感染防止の観点から【少人数完全予約制】の限定公開となっている。

 

13年程前の平成20年(2008年)…ドラマ、映画、書籍、漫画と、とにかく当時のマイブームとなっていた“土方歳三”。

その新選組副長・土方歳三が亡くなって、その年が“140回忌”だったということもあり…なかなか訪館できずにいた“土方歳三資料館”に、ほぼ一年越しで…ただ残念ながら、祥月命日である5月11日には“御参り”は果たせなかったものの、天気にもめぐまれた一週遅れの5月18日の麗らかな日曜日にやっと赴“日野”が実現した。

 

当日は何とも間の悪いことに、昭和20年(1945年)4月7日に、中島飛行機武蔵製作所などを目標としてサイパン島を出撃した第875爆撃飛行隊所属のB‐29のうち、調布飛行場から迎撃に向かった飛行第244戦隊(第二飛行隊)所属の古波津里英陸軍少尉乗機の三式戦闘機「飛燕」による体当り攻撃を受け墜落した“Mrs. Tittymouse”のAN-M66(1t爆弾)と思われる不発弾処理(周辺住民1万6千人を一時避難させるという大規模なもの)が国領付近で行われたおかげで若干遠回りをさせられたが…
なんとか予定より30分程の遅れで京王線“高幡不動”駅に到着…
多摩モノレールが浅川を渡ればすぐ左眼下に“土方歳三資料館”が見えてくる…
“万願寺”駅から急ぎ資料館に向かった。
既に30人程の人が狭い資料室に詰めかけおり、館の方の説明が始まったところであった。

土方歳三資料館 正門

先にも述べたように…
なぜ、ほぼ一年越しの想いかと言えば…
資料館を訪れるなら…毎年、この時期のみ展示されるという土方所用の愛刀“和泉守兼定”を是非この目で見てみたかったからで…
前年は既に展示期間が終了したところだったからである。
そのうえ、この年はなんと土方のもう一振の愛刀“大和守源秀国”も展示されるとのことで…訪館の想いは一入だったというわけなのである。
館の方のお話では…“大和守源秀国”が個人所有のため、こうして二振揃って展示されるのは最初で最後かもしれないとのことだった。
本身はそれでなくとも引き込まれるような怪しい魅力があるものなのだが…土方の様々な想いを知るこれら二振の愛刀を目の当りにすると、言い様のない感慨を覚えずにはいられなかった。

和泉守兼定
和泉守兼定

司馬遼太郎の『燃えよ剣』では上洛前の江戸で入手する段があるが、事実は上洛後間もなくのようで…
会津藩主松平容保の上洛に伴い会津の名刀匠である11代兼定も上洛し、京都で刀を鍛えていたこともあり…
会津藩関係者との関わりのなかで11代“兼定”(2尺8寸=106.4㎝)の作を入手し、愛用したのだそうである。
文久3年8月18日の政変や池田屋事変などの際には、さすがに、これだけの名刀…“兼定”を惜しげもなく振るっていたかは?であるが…とにかく、何かの折には腰に差していたことは間違いないであろう。
ただ、資料館に展示されていた“兼定”はこの“兼定”ではなく…
慶応3年2月の作と銘打たれた12代作の“兼定”で…
2尺3寸1分6厘(88.0㎝)と11代“兼定”よりも短い作りとなっている。
なんでも赤茶色の鞘の塗りも会津漆だそうで…そこに牡丹唐草と鳳凰の紋様が配されている。
その拵は無骨さとお洒落さがミックスした土方らしいものと言えるのではないだろうか。
この12代“兼定”は1年強程しか使われなかったようだが、その巻きの磨り減り様から推測される使い込み方は尋常ではないのだそうで…さすが“燃えよ剣”、“鬼の副長”!
実はこの“兼定”がどのような経緯で生家に届けられたかは伝えられていないのである。

土方の側近として土方絶命に際しても居合わせたという(元)新選組隊士…沢 忠助および立川主税の二人は、やはり隊士であり箱館で陸軍奉行添役となっていた安富才助の土方の戦死を伝える手紙と遺品(遺髪、写真、下げ緒など)を託され、箱館から湯ノ川への脱出を決行した。
立川は新政府軍に捕縛されたものの、沢がなんとか明治3年(1870年)に、土方の親戚である日野宿の佐藤彦五郎宅にこれらの遺品を届けたという。
ただ刀のことは伝えられておらず、もし届けられた品々のなかに刀が含まれていたのならば、むしろこのことの方が語り継がれているのではないかと見る向きもある。

そしてもう一人、箱館時にまだ15歳…小姓として土方に付き添っていた市村鉄之助という隊士は直に土方から形見の品などを託されて箱館脱出を命じられたのだという。
市村は官軍の包囲網を掻い潜り、3ヶ月かけて何とか無事に佐藤彦五郎宅に到着したらしい。
ただ、生前の土方が激戦の最中に愛刀を手放すはずがないと見る向きもある。
これはあくまでも勝手な推量であるが…
もしこの時、11代作の“兼定”もまだ土方の手元にあったのならば…
土方が市村に12代作“兼定”を託し…
新選組全盛時を共に闘ってきた11代作“兼定”と共に自らの最期を向かえるべく、これを再び主刀としたと考えれば手放す…託す…理由とも考えられなくもないのでは?…などと。
御歴々の諸説もあくまでも推測の域を脱せず…今となっては眼前にあった“兼定”だけが、その経緯を知るのみなのである。
因みに市村はその後、約2年ほど佐藤家に滞在していたのだという。

もう一振の“秀国”<2尺2寸8分(86.64㎝)>もやはり会津刀匠である秀国の作で、土方が慶応2年8月に“秋月某…たぶん登之助?”に譲ったものらしい。

大和守源秀国
大和守源秀国

当日は展示最終日ということで若干混んでいたとはいえ、祥月命日となる前の週は、そんな混みようではなかったのだということで…
また、土方の墓のある石田寺(せきでんじ)も、同じく相当の混みようだったそうだが…
私がお参りした時は、私の他には誰もおらず…思わず墓前に盃でもたむけて一献…といきたくなるほどだった。
そう考えれば、一週ずらしてて正解だったのかもしれない。

石田寺_正門

石田寺境内_土方歳三之墓



帰りは高幡不動を参詣し…“土方歳三”像も拝み…土方な一日を過ごした13年前の五月晴れの日の想い出である。

来年あたりは、また気兼ねなく訪れることのできるような世の中に戻っていてくれることを切に祈るばかりである。


高幡不動_土方歳三之像


栗塚 旭といえば“ミスター土方”とも呼ばれているほどなのだが…
通説の土方像にはまり過ぎの観はあるものの…
勿論、司馬先生が栗塚の隊士姿を見て「まさに土方!」と思われたくらいであるから…私も勿論、司馬作品の土方像としては文句のつけようはないのだが…
ただ、私の中では“栗塚 旭”というと、用心棒シリーズの“野良犬”の方が、どちらかといえばドンピシャ(これも死語?)なのだが…
 

TV時代劇『新選組血風録』『燃えよ剣』(※1966年には映画化)で土方歳三を演じた栗塚 旭



↑の写真は勿論、合成であり…因みに、新選組結成初期の文久3年に大丸呉服店(京都)に発注した麻の羽織が、この“だんだら模様”の羽織だったようであるが、実際はこのように“浅葱色(もしくは浅黄色)のだんだら羽織”姿で京都市中を闊歩していたということはほぼなかったとされている。

それ以上に、剣道の防具(胴、垂れ)を身に着けての市中見廻りというのは如何なものであろうか…(苦笑)

それはともかく、土方の実像に鑑みてみると…箱館戦争当時に撮られた写真からは、到底“鬼”とは思えぬ二枚目ぶり。
榎本武揚も土方を評して“入室伹清風(にゅうしつしょせいふう)”と言っているくらいで…爽やかで一見すると線の細そうな感じ?だったのではないかと思う。

 

 

子母澤寛原作の『新選組始末記』を映画化した1963年公開の同名作では、何と言っても大々スターの“雷蔵様”(市川雷蔵)が土方・近藤・沖田といった新選組の三大有名所ではなく、諸士調役兼監察の山崎 烝という役所での主演ということで、土方役の天地 茂、近藤役の城 健三朗(※大映当時の若山富三郎の別名義)という後の大御所も添え役観が否めなかった。
映画化前の1961年ドラマ版(TBS)では、土方役を…京大文学部英米文学科卒という異色の名脇・悪役である戸浦六宏が演じており、やはり土方は“入室伹清風”のイメージというよりは、冷酷でニヒルなな“鬼の副長”路線が優先されている。
因みに、1964年公開の…“銭形平次”でお馴染みの大川橋蔵主演映画『幕末残酷物語』でも狡猾なイメージの土方役として…後に国民的ドラマ『水戸黄門』(TBS)の二代目“黄門様”で黄門役の代名詞とまで言われるようになった西村 晃が“天下の副将軍”ならぬ“鬼の副長”役を演じている。(※この両作では近藤役は中村竹弥)
そして、1965年から始まった『新選組血風録』(NET※現:テレビ朝日)、1970年から土方、近藤(舟橋元)、沖田(島田順司)役はそのままに『燃えよ剣』(NET)がスタートした。
この間に土方役を内田良平、近藤役を刑事コロンボの声でお馴染みの小池朝雄、沖田役は杉良太郎というキャストで『燃えよ剣』(テレビ東京)をドラマ化しているが、“ミスター土方”栗塚以前は、どうしてもそれまでの“鞍馬天狗”の敵役たる新選組のイメージのなかでの土方像でキャスティングされていたようにも思える。
栗塚 旭という俳優のキャラクターとも相まって、無骨だが実直な土方像が定着していったのではないだろうか。
その後の土方役としては、古谷一行、役所広司、村上弘明、上川隆也、そしてNHK大河ドラマにして三谷幸喜の脚本ということでも話題となった『新選組!』(2004年)での山本耕史など、狡猾なイメージとは無縁な、無骨で実直だが、よりソフトで二枚目な路線へとシフトしてきているように思う。

ただ、こうした路線に待ったをかけるかの如く、大島 渚の監督作品としては遺作となってしまった松田龍平主演の映画『御法度』(1999年)ではビートたけし…また、Vシネマ『実録 新選組(前編・完結編)』(2006年)では寺島 進なども土方役を演じている。
そういえば、浅田次郎原作の『輪違屋糸里』をドラマ化した上戸 彩主演のドラマ(TBS)では伊藤英明が土方役を演じているが…
その伊藤は、今年10月公開の岡田准一主演の映画『燃えよ剣』では芹沢 鴨役を演じる。
当初は昨年5月の公開予定で、岡田主演での映画化の話が話題になった頃から、久しぶりの“新選組”モノということもあって、とても楽しみにしていたのだが、新型コロナの影響をもろに受け、しばらく公開日程も未定のまま延期となっていたが、ようやく公開が決まり、今から楽しみにしている次第である。

はたして1年半近く待った甲斐はあるのだろうか…

 

 

“新選組”モノということで忘れてはならないのが…
2002年にドラマ化(テレビ東京)され、その翌年(2003年)に映画化もされた『壬生義士伝』…浅田次郎原作の同名小説を映画化したこのドラマ、映画では、元盛岡藩士だった吉村貫一郎という隊士の生き様を通した新選組のストーリーとなっており…渡辺 謙、中井貴一がそれぞれ吉村貫一郎役を好演している。
このドラマ、映画とももう何度も見返しているのだが…
鳥羽伏見の戦いに敗れ、深手を負いながら辿り着く盛岡藩の大阪蔵屋敷での竹馬の友との別れ…そして父の遺志を継ぐため箱館へと旅経つ…旧知の仲の子息同士の手盃で水杯を交わす別れの両シーンは、私的には何度見ても涙腺が緩んでしまう。
因みに、ドラマ版では伊原剛志が土方、柄本 明が近藤、金子 賢が沖田を…映画版では野村祐人が土方、塩見三省が近藤、ブレイク前の堺 雅人が沖田をそれぞれ演じているが、この作品では、やはり両主演とそれに対峙する斉藤 一役の竹中直人、佐藤浩市があくまでもメインなので新選組トリオの印象は薄い作品と言わざるを得ないのだが、それでも“新選組”モノのなかでは…「おもさげながんす」が、これが私の中のフェイバリット・ストーリーかもしれない。

 

映画『壬生義士伝』

 

その斎藤 一(のち改名:藤田五郎)の明治30年(53歳当時)頃に撮影されたという写真が、2016年7月に五郎と妻(時尾=トキヲ)との間に生まれた次男の藤田 剛氏のご子孫から公表された。
これは警視庁退職後に、当時、湯島聖堂構内にあった東京高等師範学校(現:東京教育大学)附属・東京教育博物館(現:国立科学博物館)の守衛長の職にあった時分に住んでいた本郷(東京)の写真師・中黒 実の寫眞館で撮影したものではないかとのことである。

 

 

長年、“ミスター・スポック”が如き髪型の面相が実しやかに五郎とされてきたが、これはどうも…長男・藤田 勉氏の長男(ごちゃごちゃしてきたが…)藤田 實氏の写真を基に描かれた想像上の物だったとのこと。

ここのところ、NHK大河ドラマ『新選組!』でのオダギリジョー、映画『るろうに剣心』シリーズでの江口洋介…そして、新作の『燃えよ剣』ではシンガーソングライター&俳優の松下洸平が演じるなど、斉藤一も美男子キャラ化の傾向にあるのだが…勿論、佐藤浩市然り!

ただ、実際のお写真を拝見すると竹中直人あたりが一番的を得ているのかもしれないが…
ただ私的には、『新選組血風録』での左右田一平の演じた人情味溢れる“一さん”のキャラクターが一番お気に入りである。
因みに、沖田役は…“二枚目の美青年剣士”的なキャラが先行し、軒並み二枚目(美)俳優たちが演じてきており…TBS系列の1977年版『新選組始末記』での草刈正雄、フジテレビ系列の時代劇スペシャルドラマ『沖田総司-華麗なる暗殺者-』(1982年)での郷ひろみ、日本テレビ系列の『燃えて散る、炎の剣士、沖田総司』(1984年)での田原俊彦、同系列の年末時代劇スペシャル『白虎隊』(1986年)では“しょこたん(中川翔子)”のお父さん中川勝彦、映画『御法度』での武田真治、NHK大河ドラマ『新選組!』での藤原竜也などなど…そして、1991年公開の映画『幕末純情伝』では何と牧瀬里穂までもが演じているのだが、『新選組血風録』および1970年『燃えよ剣』で演じた“屈託のない”感じの笑顔・表情を見せる島田順司の沖田役が、これまた一番お気に入りなのであるが、そう思うのは私だけだろうか…

 

 

追記

 

既記の如く、これまで映画、ドラマ、演劇にと様々な形で様々な演者が土方役を演じてきているが…
では、面構えだけを考えたら誰が的を得ていたか…と言われてみると、なかなかコレという方がいない。
ここのところでは、“ミスター土方”栗塚よりも、『新選組!』で土方を演じた山本耕史という声も上がっているようではあるが…
その山本よりも新作の『燃えよ剣』での岡田准一の方が私のなかでのイメージとしては近いこともあり、公開前から期待をしているという訳である。

 


大河ドラマ「新選組!」で土方役を演じた山本耕史の、その土方ぶりが好評だったため、2006年には大河ドラマとして初の続編版となるNHK正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の一日』も制作・放映されている。

確かに、キャスティングは“そっくり”さん選びではないので、面相だけで演じるものではないことは承知の上だが、面相のイメージだけなら誰が?などと取り留めの無いことを考えたりしてしまう。

そして、これまでは…(あくまでも)若かりし頃の坂上 忍などが割といいのではないかなどと思っていたところ…ネットで検索していると、土方に似ている芸能人として挙がっていたのがディーン・フジオカ!

確かに、下の画像で比較してみると頷けなくもない。

 

 

フジオカは、NHK連続テレビ小説『あさが来た』(2015年)で好評を博した五代才助役を、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』でも再び演じており、一昨日放送の第13回「栄一、京の都へ」から登場…また、町田啓太演じる土方も同回から登場した。

 

五代才助、土方歳三の『青天を衝け』初登場シーン


五代才助(友厚)は、薩摩藩士だった幕末の動乱期に経理・経営・外交などの才で頭角を現し、切った張ったの志士ではなかったが、土方と同じ天保6年生まれと…まさに同時代を生きた人物である。

後に大阪経済界の重鎮の一人となり「東の渋沢、西の五代」とまで言われたが、惜しまれつつ明治18年(1885年)9月25日に49歳という若さで病没している。

 

あさが来た』で熱烈なファンに“五代様”とまで呼ばれていたフジオカがその最期のシーンをむかえると、“五代ロス”と言われた社会現象が起きた程である。

 

奇しくも岡田とフジオカも同年…共に現在40歳…
確かに“五代ロス”まで巻き起こしたフジオカではあるが、岡田の存在感と比べると、土方という主役を張るには残念ながら少々役不足観は否めないかもしれないが、土方という体になり切った新選組隊士姿も、ちょっと見てみたいものである。

 

これは『あさが来た』の一場面であるが、現存する近藤 勇の写真が総髪なことからも、箱館以前の土方も総髪だったというのは想像に難くないところではあるが、実際はどうだったのであろうか?

その通例からすれば、月代を剃らずに総髪だったら“土方”が市中を疾走している場面にも見えなくもないのだが…

月代はさておき、“誠”の鉢金姿として加工しただけで…土方とまでは言わずとも、新選組隊士の感じにはなるものである。

因みに、この朝ドラでは…NHKの貪欲さ…ここでも山本耕史を土方役で出演させている。

 

“五代”繋がりで最後にもう一作…

昨年(2020年)12月に公開された映画『天外者(てんがらもん)』)では、三浦春馬がその五代役を好演している。
ご存じの通り、三浦は同年7月18日に急逝…残念ながら、この映画が最後の主演(“銀幕勇姿”)映画となってしまった。(享年30歳)