死刑執行人もまた死す | S A L O N

 

1942年5月27日午前10時25分、プラハ市内のKirchmeyer通り(現:Zenklova)からKlein Holeschoweizer通り(現:V Hoolesovickach)へのヘアピンカーブで事件は起きた。
駐英(ロンドン)のチェコスロバキア共和国亡命政府の指令を受けたヨゼフ・ガブチック曹長とヤン・クビシュ曹長およびチェコ国内に潜むレジスタンス組織からの増援2名(カレル・チュルダ、ヴィリアム・ゲリルク)の計4名は予てから計画(エンスラポイド作戦)通り、その朝、ベーメン・メーレン保護領副総督のラインハルト・ハイドリヒSS大将(兼国家保安本部長)を乗せた黒のメルセデス・ベンツ320カブリオレBを襲撃した。
ハイドリヒを乗せた車には護衛車輌はおろか短銃の携帯のみというヨハネス・クラインSS曹長が運転手として同乗しているだけだった。
後日、この事実を知ったヒトラーは「装甲のないオープンカーで走ったり、ボディーガードも付けずプラハの通りを歩いたり、そのような英雄気取りはナンセンスであり、国家のためにならない。全くその必然性がないのに、ハイドリヒのように掛け替えのない人物が危険に身を曝すなどということは愚かであるか、恐ろしく鈍感であるかのどちらかだ。」と感情を顕に語ったという。

クビシュの投げた手榴弾で車は部分的に破損したが、ハイドリヒは車を飛び降りるとピストルを連射しながらクビシュらを追った…が、突然立ち止まり、臀部の右側に手をやったかと思うと、そのまま道路に崩れ落ちた。

ハイドリヒの腹部および肋骨付近にはスプリングや金具等の破片が食い込み、脾臓内からは座席の詰め物として使われていた馬の毛が検出された。
病状は8日間一進一退を繰り返したが、1942年6月4日午前4時30分過ぎ…身長191㎝の長身で“理想の親衛隊(Idealer SS-Mann)”、“金髪の野獣(Blonde Bestie)”といわれたラインハルト・ハイドリヒは静かに息を引き取った。(享年38歳)

国葬は1942年6月9日ベルリンにおいて盛大に執り行われ、ヒトラーはその弔辞のなかで彼を“鋼鉄の心臓を持つ男”と称した。

 

ハイドリヒの車③は、自宅のあったパネンスケー・ブリェージャニィ①の方向から総督府の置かれたプラハ城②に向かって走行。
ホレショヴィチェ通りのヘアピンカーブを曲がった③で襲撃にあった。
④にはヤン・クビシュの逃走用と思われる自転車が置かれていた。
⑤は通りかかった二輌編成のトラム(路面電車)の停車位置。
⑥にはジャミングを起こし不発に終わった短機関銃ステン・マークⅡと、それを隠し持つために用意されたレインコートが放置。

 

 

襲撃を受けた現場検証中のメルセデス・ベンツ320カブリオレB (W142)
ハイドリヒの車輌であることを示す“SS-3”のナンバープレートは既に外されている。

 

プラハのチェコ軍事歴史博物館には、当初は襲撃直後の状態のまま展示されていたようだが、現在は修復されてしまっているとのことである。
手榴弾の被弾により開けられた穴から詰め物、スプリングなどが飛び出しているのがわかる。

 

(左)ベーメン・メーレン保護領副総督クルト・ダリューゲと(右)保護領親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクSS中将

 

襲撃事件後すぐにハイドリヒの代行としてプラハに入り、調査の陣頭指揮に当ったクルト・ダリューゲSS上級大将兼警察上級大将は、6月4日付で後任の副総督となり、襲撃および暗殺の報復としてボヘミアのリディツェ村やレジャーキ村の虐殺を下達した。
この事件に関わったとして1万人程が逮捕され、なかでも襲撃班の潜伏先と思われたリディツェ村は徹底的に破壊され、消滅した。
村内の男性は全員射殺されるなど…この報復劇による犠牲者は1,300人を下らない。
下の写真は1942年6月10日、15歳以上の男性176人が納屋に集められ、10人づつ壁の前に並べられて銃殺された直後の様子である。
マットレスは銃弾の跳ね返りを防ぐために立て掛けられた。



 

カレル・チュルダとヴィリアム・ゲリルクは身の安全および500万チェコ・クローネと引き替えに襲撃グループの潜伏先が聖キュリロス・メトディオス教会であることを供述。
それをもとに1942年6月18日早朝、カール・フォン・トルエンフェルトSS少将指揮のもと、ハインツ・パンウィッツSS大尉率いるSS部隊および警察部隊の750人が教会を包囲。
数時間におよぶ戦闘の末、襲撃グループ側の14人が死亡し、21人が重軽傷を負い終息。
手榴弾を投げ込んだクビシュは教会のバルコニーで負傷し、病院に搬送されたが死亡した。(享年26歳)
ハイドリヒにステンガンを向けたガブチックは教会の地下室で自決した。(享年30歳)

 

 

戦後、密告をしたチュルダとゲリルクの両名はチェコスロバキア政府により逮捕・拘留され、人民裁判で戦時反逆罪により有罪となり、1947年4月29日、パンクラク刑務所で午前11時45分にまずゲリルク、その12分後にツィルダの(絞首)刑が執行された。

(カレル・チュルダ:享年35歳、ヴィリアム・ゲリルク:享年26歳)

 

 

ハイドリヒ亡き後のベーメン・メーレン保護領における実権拡大に躍起となったダリューゲだったが、翌年には持病の心筋梗塞が悪化し、1943年7月31日付で全職務を辞すこととなる。
その後を継ぎ、保護領の実権を掌握したのが、同年8月20日付けで新設されたベーメン・メーレン保護領担当国務相(大臣待遇)となったカール・ヘルマン・フランクSS大将兼警察中将(当時)である。
戦争終結によりフランクは1945年5月9日にプルゼニで米軍に投降したが、その身柄はチェコスロヴァキアに引き渡され、その後、プラハでの人民裁判にいかけられ死刑判決を宣告された。
1946年5月22日、パンクラーツ刑務所の中庭において絞首刑に処せられた。(享年48歳)

 

その様子を一目見ようと中庭には約5,000人もの見物人が集まったという。

絞首刑直後のフランクを窓越しに笑顔の女性たちが見つめているが、これはこれでまた奇妙な光景でもあり、狂気の時代の象徴的な光景でもある。

 

一方、ダリューゲは終戦までバルト海に面する北ドイツの都市リューベックで療養していたが、そこで英軍により逮捕され、ニュルンベルクに拘禁されることとなったが、1946年9月には身柄をチェコスロヴァキアに引き渡され、同年10月23日に人民裁判において死刑判決が宣告され、翌24日に刑の執行が決定した。
ダリューゲは刑の執行直前に割ったグラスで手首を切っての自殺を図ったが失敗。
やはりパンクラーツ刑務所内の中庭において絞首刑となった。

刑の執行直前の、天を仰ぎ見て神に祈るかのようなその表情にはかつての面影はどこにもなかった。(享年49歳)


 

暁の7人(米題:The Price of Freedom/英題:Operation Daybreak)』(1975年)

 

このハイドリヒの暗殺事件を、アラン・バージェスの『暁の七人-ハイドリヒの暗殺-(原題:Seven Men at Daybreak)』(※)を原作に1975年に制作されたのが米国映画『暁の7人』である。

 

※“七人(7人)”とは、チェコスロバキア亡命政府から派遣された軍人(パラシュート工作員)たち…襲撃実行役のクビシュ、ガブチックの他、レジスタンス組織の支援と軍事工作の任務にあたったアドルフ・オパールカ中尉、ヨゼフ・ヴァルチック、ヤン・フルビィー、ヨゼフ・ブブリーク、ヤロスラフ・シュヴァルツの五人。

 

 

ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦(原題:Anthropoid)』(2016年)

 

40年の時を経て、プロローグ的な部分の脚色に違いはあるものの、ほぼリメイクされたのが2016年制作の捷瑛仏合作映画『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦』となる。

 

 

因みに、この作品ではデトレフ・ボーテが…『暁の7人』ではアントン・ディフリングの両ドイツ人俳優がハイドリヒ役を演じている。

 

ディフリングも劇中ではなかなかにハイドリヒ然として見えるのだが、こうして両人を見比べると、やはりボーテの面相はハイドリヒに似ている。

ただ、脱帽してしまうと“剃髪の野獣”となってしまうからなのか、劇中では着帽シーンのみでの登場となる。

 

ナチス第三の男(原題:HHhH/英題:The Man with the Iron Heart)』(2017年)

 

両作が、主人公の二人が暗殺に至る過程と、その最期までをメインに描いているのに対し、ハイドリヒが如何なる人物で、また如何にして“金髪の野獣”と化したのかも含めて描いているのが、ローラン・ビネの『HHhH(Himmlers Hirn heißt Heydrich=ヒムラーのブレイン・ハイドリヒ)』を原作に映画化された『ナチス第三の男』である。

勿論、この作品でも本編の(後半)半分以上を使って襲撃事件の顛末が描かれている。

 

この作品では、ジェイソン・クラークがそのハイドリヒ役を演じている。

 

重箱の隅を突くようだが、こうした映画やドラマなどにおける軍装…殊に襟章、肩章に関しては年代考証が曖昧な場合が殆どだったが、最近は、こうしたマニアックな映画を見るであろう客層…リエナクター諸氏などの鋭い目を意識してか、そのあたりの考証にも気を付けてきているようにも思われる。

この映画でも、その年代ごとに襟章、肩章など…1929年型(初期型)および1942年型(後期型)というように変えている点も評価したい。

ただ、更に重箱の隅を突くと…後期型の国防軍型肩章における台布色が幕僚部将官の“暗灰色”(武装SSおよび一般SS将官は“明灰色”)となってしまっているが、ハイドリヒは“警察緑色(Wiesengrun)”の肩章を着用させて欲しかった。(『ハイドリヒを撃て!』も然り)

 


 

【追記】

 

#1 今回のタイトルとしたのは、このハイドリヒ襲撃事件に着想を得て、第二次大戦の真っ只中に米国で制作された対独プロパガンダ色の濃い反ナチス・レジスタンス映画のタイトル。

 

『死刑執行人もまた死す(原題:Hangmen Also Die! )』(1943年)

当時は勿論、情報収集の主な手段はラジオ放送…テレビなどのない時代の映像による情報収集はニュース映画…そのため、映画館での上映を見るより他なかった。
そこで映画の合間に流されるニュース映像は、国威発揚や戦意高揚のためのプロパガンダ的に活用され、本編映画も自ずとそうした目的に沿った内容のものが主に上映されていたようである。
 

『独裁者(原題:The Great Dictator)』(1940年)

 

チャールズ・チャップリンが監督・脚本・主演・製作した『独裁者』は、反ヒトラー映画がまだ懸念されていた当時…一石を投じる作品であり、キナ臭く、混沌とした時代に進みつつある時代への問いかけであったともいえる。

後年、チャップリンは自伝のなかで「ヒトラーは笑い者にされなければない」という思いから『独裁者』は制作されたという旨を語っているが、チャップリンの真意、また反戦映画か、好戦映画かはともかく…

時代の流れのなかで国威発揚や戦意高揚の一助となったことは否定できない。

 

 

現在(いま)の視点から見れば滑稽で陳腐にさえ見えるかもしれないが、当時は多くの者が熱狂し、歓喜して彼の一言一句に耳を傾けたのも事実である。

これは決してドイツ人が特異であったからではなく、誰もが、明日にはそうしているかもしれない可能性を含んでいる。

戦時中、あれだけの蛮行を受け、その痛みを痛感しているにもかかわらず、彼らもまた蛮行をする側にあり続け、それを当然と思うようにさえなってしまっている。

 


#2 Silke

ハイドリヒと妻リナは、1931年12月24日にプロテスタント式の挙式をしている。

 

その後、1933年6月17日に長男クラウス、1934年12月28日に次男ハイデル、1939年4月9日に長女ジルケ、1942年6月23日に次女マルテ(ハイドリヒの死後)の四人の子供を儲けている。
(※クラウスは1943年10月24日に交通事故により亡くなっている。)

この写真は長女ジルケを愛しそうに見つめるハイドリヒ。

 

1960年代、美しい女性となった20代の頃のジルケ。

この頃、彼女は歌や演奏、演技…そして、この美貌を活かしモデルとしても活躍していた。

また、父親に関するドキュメンタリー番組などにも何度か出演している。

 


 

その後、ヨハニスベルク(Johannisberg)の農場主と結婚し、5人の子供を儲け、その長男には“ラインハルト”と名付けたとのことである。