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空軍大戦略(原題:Battle of Britain)』(1969年)

 

1969年に公開の英・西独・米合作映画『空軍大戦略(原題:Battle of Britain)』は、数ある戦争映画のなかでも…(実は一番重要な)内容はともかく…衣装的にも、雰囲気的にも…私の中ではドイツ軍(空軍)物の戦争映画で一番のお気に入りといってもよい!
1940年7月~10月における英本土上陸に向けた制空権を巡る戦い“バトル・オブ・ブリテン”を描いたこの映画は、当然のこと英軍側がメインのはずなのだが、独軍側に話が切り替わると…当方の贔屓目かもしれないが、英軍側の野暮ったさが浮き彫りになり、独軍側のスマートさが一層如実となる。

 

視察に訪れた航空機総監のエアハルト・ミルヒ“元帥”(※)役のディートリヒ・フラオベースを、アルベルト・ケッセルリンク“元帥”(※)役のペーター・ハーガァと、ヨハネス・フィンク“少将”役のヴォルフ・ハル二ッシュが出迎えるシーンで始まるオープニングが、またなんとも堪らない!

(※クレジットでは、ミルヒ、ケッセルリンクともに“元帥”となっているが、映像を見る限りでは…襟章に関しては、葉冠下部に“元帥杖”が付加されているか否かはハッキリしないが、両名ともピプ(星章)3個を付けた肩章を装用しているので、設定としては“上級大将”だったのかもしれない。)

 

ただ、この映画のオープニングの設定時期はバトル・オブ・ブリテン前…つまり1940年7月10日以前という設定であり、実際には、ミルヒ…そして二階級の特進をするケッセルリンクともに、“空軍元帥”に昇進するのが同年7月19日付ということで、この時点ではまだ、ミルヒは“空軍上級大将”、ケッセルリンクは“航空兵科大将”であった。

フィンクも役のうえでは“少将”となっているが、“空軍少将”に昇進するのは同年10月1日付であり、この時点では“空軍大佐”ということになる。

CGやVFXなどといった技法のない時代ではあったが、精巧な模型も駆使するとともに、まだ多数の実動機が残存していた時代でもあり、スピード感・臨場感・切迫感・戦闘感などは最新技法に劣るものの、メッサーシュミットBf109G-2、ハインケルHe111、ユンカース87と88、スツーカ急降下爆撃機様に改装されたプロクター、スピットファイアやハリケーンなどの(実機)勇姿を見られるというのは嬉しい限りである。

 

スペインのイスパノ・アヴィアシオン社がメッサーシュミット(Bf 109G-2)をライセンス生産したHA(Hispano Aviacion)-1112-M1Lは、そのメッサーシュミットの代役として、スペイン空軍が保有していたものをごっそり買い受けたとのことである。

これらは、ベッドフォードシャのヘンロウ英空軍の基地で修理され、撮影に使用された。
因みに、爆撃シーンで使用された機体は、爆破するためだけにわざわざ造られた。
クライマックスとなる独軍の飛行場爆撃シーンは、負傷者が続出するほどの緊迫感のなかでの撮影だったようで…
ロケ地となったスペインのラプラタ飛行場には、それら負傷者の救護のために、スペイン空軍側が、急ごしらえの医療施設を設置し、医療スタッフを派遣するほどであった。

 

この映画で、ゲーリング役を演じたのがハイン・リースである。
リースは1913年9月11日、ハンブルクのアイルベクで生まれている。
船員、プロの歌手(レコードもリリースしている)などを経て、1963年に俳優として、幾つかのTV番組やドラマに出演。
そして、リースの代表作ともいうべき、この映画にゲーリング役として抜擢されている。
この映画で、航空関連の技術コンサルタントとして参加したアドルフ・ガーランド(元)空軍中将は、リースの声はまさにゲーリングのようだったと評したとのこと。
余談だが…リースは、戦争中に一度、ゲーリングに実際に会った(おそらくは遠巻きに見た程度だとは思うが…)こともあるのだとか…

 

 

リースの纏う“国家元帥”の衣装は、複製品としては最高のレベルといっても過言ではない。
特に、これだけ薄く、コンパクトに造られた肩章、襟章のモール刺繍の細かさ…制帽(鉢巻部)の空軍帽章、葉冠の細工、空軍鷲章など…当時はまだ、これだけの仕事のできる職人たちが存命だったから為せる技の数々といえよう。
それに加えて、現在ではこれだけ細い番手のモール糸自体が製造されていないのだそうだ。
砂漠の鬼将軍』(1951年)で、ロンメル役を演じたジェームズ・メイソンの衣装が、ロンメルの実物の軍服だったともいわれたりもするのだが…これに関しては、私的には少々懐疑的なのだが…このリースの衣装に関しては、ゲーリング本人の所用もしくはストック衣装が使われたといわれても納得してしまう。

 

ドーバー海峡を視察するゲーリング役のハイン・リースとオスターカンプ少将役のヴィルフリート・ ファン・アーケン

これが、実際のテオドーア・オスターカンプ空軍少将(のち中将)。
第一次世界大戦では、32機におよぶ撃墜数を誇るエクスペルテン(エース・パイロット)であり、勿論のこと、1918年9月2日付でプール・ル・メリット勲章(Pour le Mérite)も受章している。
第二次世界大戦では、ドイツ空軍の伝説的エクスペルテンであるヴェルナー・メルダース空軍大佐(撃墜数:115機)が所属していたことで有名な第51戦闘航空団を指揮し、尚且つ、バトル・オブ・ブリテンでも6機を撃墜をするという、史上稀にみる二つの大戦双方での撃墜記録を持っている人物でもある。

 

 

 

“バトル・オブ・ブリテン”から6年後の1946年10月15日…

翌未明にニュルンベルグ軍事裁判での刑の執行を控え、独房棟C1階は最後の静寂の中にあり、看守のグレゴリー・ティムチシン二等軍曹は各独房の覗き小窓から房内の様子を見廻っていた。
そして、5号独房を覗いた彼は房内の異変に気付く。
左手をだらりとベッドから垂らし、異常なイビキをかき、片側の口の端から泡を噴いているその顔色は緑がかっていた。
詰まらせた息を大きく吐いた直後…
午後10時47分…ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは絶命した。
シアン化合物による服毒自殺であった。(享年53歳)

ゲーリングは、この死(自殺)に至った経緯について、連合国管理委員会宛に次のような書簡を残している。
 

「銃殺刑であれば私は全く異議を唱えなかったであろう。
しかしながら、ドイツ国家元帥を絞首刑に処することを許すわけにはいかない。
ドイツのために私は、この絞首刑を認めることが出来ないのだ。
さらに私は、敵による罰を甘んじて受けるという道徳上の義務を感じていない。
こうした理由により、私は偉大なるハンニバル将軍のような死を選ぶこととした。
我々の死を人気第一主義の報道陣に対する見世物にすることは悪趣味の極みであると考える。
こうした終わり方が検察側と判事団の示した卑劣さと軌を一にするものであるということは間違いない。
すべては見世物裁判、質の悪い喜劇だったのだ。
私個人としては、こうした人気第一主義を避け、観客のいないなかで死ぬことにする。」

 

ゲーリングの意見に正当性があるか否かは別にして、連合国側は彼の自殺により唯一残ったドイツの最重要戦犯を正義の名のもとに裁く機会を失う結果となった。

 

ゲーリングは生前…
「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」と語っていたという。
その言葉通りになったも言うべきか…狭い監房の一室で、自らの命を絶った。
片目だけが閉じられたその死に顔は、出し抜いてやった者たちを小馬鹿にして、まるでウィンクでもしているかのようにさえ見える。
勿論、偶然なのだろうが、ゲーリングのプライドが為せる最後の抵抗が起こさせた“偶然”だったのかもしれない。

 

 

1893年1月12日に南独のバイエルン州ローゼンハイムの裕福な家庭に生まれたゲーリングは、ベルリン近郊のグロース・リヒターフェルデ士官学校に進み、1912年3月にミュルハウゼンの第112歩兵連隊“プリンツ・ヴィルヘルム”に陸軍少尉として任官している。

 

 

その後、1914年10月に第25野戦飛行分遺隊の偵察将校として航空隊への転属を果たし、1915年3月に一級鉄十字章(EKI:1914年章)を受章している。
1917年8月には第27戦闘飛行中隊の指揮官に任官していたが、1918年4月21日にドイツの大エース…レッドバロンことマンフレート・フォ ン・リヒトホーヘン男爵が空中戦闘中戦死したことで、ゲーリングに大きな転機がもたらされた。
就任に際し、当初は軍人としてのキャリア、実績等から反対する声もあったが、リヒトホーヘンの後任として第1戦闘航空団“リヒトホーヘン”の司令官に就任し、結果的には彼持ち前の運営・統括能力に次第に魅了され、エリート戦闘航空団を掌握するに至っている。
また、撃墜スコアは22機に達してはいたものの、その当時の一応の授与目安となる25機以上の撃墜スコアには達していなかったが、1918年6月2日付で、特例的にプール・ル・メリット勲章が授与され、公然たる“エースパイロット”の仲間入りを果たしている。

 

ゲーリングを“無能な太っちょ”との酷評もあるが、はたしてその実はどうだったのであろうか?
ニュルンベルク収監中に行われた知能テストでは138点という…得点上では“天才”という範疇に入ることとなる得点(140点以上)に迫る程の高得点であったという。
現にゲーリングは頭の回転が速く、その口調は荘重で風格さえ感じさせ…更に様々な表情を巧みに使い分け、しばしば公判中も 、彼に不快感を持って臨んだ傍聴人たちでさえ、いつの間にか彼に惹きつけられてしまっていたとのことである。
 

ナチスが政権を執って以降、財界・団体その他…いわゆる上流階級の間では、ナチス高官のなかでも話のわかる人物として通っており、それらとの太いパイプを握っていた彼はリベートと賄賂によって巨万の富を蓄えていくこととなる。
当初は、ヒトラーからの信頼も厚く…1938年2月4日付で空軍元帥(航空大臣兼空軍総司令官)に昇級していた彼に対しては、 国防軍三軍の“元帥”よりも上位にあたる新たに国家元帥(Reichsmarschall)という地位を設け、1940年7月19日付でそれに昇級させ…
さらに翌年の1941年6月29日付“総統布告”(※)では、ヒトラーの正式後継者に指名されるまでに至り、名実ともに第三帝国のNo.2の地位にまで登りつめた。

(※)「総統である余が、何らかの理由により統治が出来なくなった際にはゲーリングがそれを代行するものとし、また死亡した際にはゲーリングがこれを継承することとする。」

 

順風満帆かに見えたゲーリングの歯車も、戦争へと突入していった頃より狂いが生じ始める。
ダンケルクでの失態、バトル・オブ・ブリテンの失敗…ついにはスターリングラードによって彼の面目は完全に失墜する。
それでもヒトラーにルール地方の防空体勢について尋ねられた際に「もし敵機がここまで飛来したら、私を丁稚小僧と呼んでも結構です!」とまで豪語したとのことであるが、その空自慢に反し…ドイツ空軍(Luftwaffe=LW)は、1942年5月30日に、英空軍の爆撃機150機によるケルンの夜間爆撃を易々と許してしまった。

 


カリンハルの別荘に引き籠り、遊びに興じていたところ、総統官邸に呼び出され、すぐさま駆けつけた彼は、いつもの如くヒトラーに面会の握手を求めたが拒絶され、そのうえ居並ぶ直属の部下たる空軍将官・将校たちの前で激しく罵倒された。
空襲はその後も…米空軍が昼間に、英空軍が夜間にと一層激化し、ベルリンをはじめドイツの大部分の都市が瓦礫と化した。

彼の地位や名誉は今や名ばかりのものとなり、総統官邸に足を運ぶこともなくなり、薬物(モルヒネ)に頼るなど頽廃的な日々に興じるようになっていく。
ゲーリングは政治屋としてはある程度有能だったが、戦争屋としての器ではなかったと言えるのかもしれない。

 

1945年4月23日、ゲーリングは総統官邸(地下壕)に宛て、1941年6月29日付総統布告に基づき「別段のご返事を頂かない限り、私が国家の指揮権を引き継ぐつもりであります」旨の電報をオーベルザルツブルクの別荘から打った。
その前日に、彼はマルティン・ボルマン官房長官兼総統秘書官から「総統はかなり精神が衰弱しているので代わりに指揮を執るように」との連絡を受け取ったという。
これは政敵であったボルマンの仕掛けた罠であることは、彼も薄々は気付いてはいたようだが、勝負に出て、先のような電報を打ったということである。
これを受け取ったヒトラーは、直ちに前述の総統布告を無効とし、本来であるならば総統ならびに国家社会主義に対する反逆であるが、過去の貢献を考慮して一切の役職を退くならば極刑を免除するという内容の三通の返電を送っている。
結局はボルマンの思惑通り、術中に嵌ったカタチとなった。
この時、ヒトラーが激高した旨の記載もあるが、三通の電文を読む限りでは…むしろかつての盟友に対して同情的であったようにも思われる。
しかしボルマンは機に敏に行動し、オーベルザルツブルクの政治警察指導者にゲーリング他の逮捕命令を下した。
ゲーリングらは拘留され、監視下におかれることとなるが…4月29日未明のヒトラーの自殺により事態は好転し、空軍部隊に身柄を引き渡され一応の拘留をとかれた。
表舞台への復帰を模索した彼は、その後、ヒトラーの後継者となったカール・デーニッツ大提督(大統領)に、連合軍司令官アイゼンハワー元帥との交渉役として名乗りを上げ、実際に働きかけもしているが、時すでに遅く…5月7日午前2時41分、降伏調印は終了し、ドイツの無条件降伏が決定した。
だが、それでもまだ直接アイゼンハワーとの会見を実現すべく奔走し、副官のベルント・フォン・ブラウヒッチュ空軍大佐(ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍元帥の長男)を連絡役として米36歩兵師団本部に送り…5月7日、ザルツブルク南東のラドシュタットで、妻エミーと8歳になる愛娘エッダ、部下らとともに出迎えにきたロバート・スタック准将に投降した。

 

投降直後のゲーリング。

余談だが…投降に際し、このような状況下において尚トラック2台分の家財道具、調度品なども持ち込んだと言われているが…

そのあたりは、ある意味さすがゲーリングである…(苦笑)

 

当初、収容所での生活は快適なものだった。
降伏翌日の5月8日には、米第8空軍司令官カール・スパーツ空軍大将がシャンパンを持って彼を訪れ、互いの勇猛果敢さを讃えて乾杯をした。
その晩には、米第7軍本部の置かれたキッツビュール(オーストリア)のグランド・ホテル内将校用食堂での夕食会にも招かれ、米軍将校たちは競うように“有名敵将”に酒を振る舞い、彼を囲んで『テキサスの奥深き田舎』などを歌って聴かせた。
上機嫌になった彼は、収容所に持ち込んだ山のような荷物の中からアコーディオンを持って来させ、『我、その意味を知らず』を弾き語りしてその歓迎に応えたという。
ところが、この米軍将校たちによる有名ナチス幹部饗応が新聞で報道され、米国内で物議を醸すと、世論に敏感になってなっていたアイゼンハワーは、ゲーリングをはじめとするナチス高級幹部を今後は他の戦争捕虜と同様に扱うように命令した。

 


報道陣などとの取材、懇談の際にはいつも人垣が出来、勲章類の佩用こそないものの収監中も国家元帥としての徽章類の装用されたままの制服を着用しての登場であった。

 

ニュルンベルク軍事裁判公判中のゲーリング。

大戦中には120kg近くあった体重も、死ぬ間際には84kg程になっていた。(※身長は170cm程度)

 

【付記】

 

 

ゲーリングは、カリンハルやオーバーザルツベルクの豪邸でペットとしてライオンを飼っていたことは有名だが、1933年にライプツィヒ動物園から最初の子ライオンを貰い受けて以来…その後も、ベルリン動物園からライオンを貰い受け、計7頭のライオンを飼っていた。
ペットとして小さい頃から育てているとはいえ、やはり野生のライオンは、大きくなるにつれ安全には飼えなくなってくる。
そのため、1歳から1歳半になるたびに動物園に返し、また新しい子が入ると、また貰い受けていた。 
ゲーリングの(後)妻エマ・ヨハンナ・ヘニー(愛称“エミー”)は、「手放さなくてはならなくなると、私たちはいつも悲しい日々を過ごしていました」と語っている。
また、ゲーリング夫妻が動物園に戻されたライオンに会いに行くと、「膝に頭を摺り寄せ、撫でてもらいたがるので、飼われていた時のことを憶えているのでしょう」とも回想している。

 

愛獅子のMuckiとゲーリング。
ライオンの毛が制服に付いても気にしなかったようだが、その毛を取るための専属スタッフがいたのだとか。
 

ゲーリングとエミーの間で、頬を撫でられ気持ちよさそうにしているMucki…上の写真より大分大きくなっている。

 

愛獅子のPalとゲーリング。

おそらく制服からするとMuckiより以前に飼われていたライオン。

さすがに、これだけ大きくなってしまうとPalに悪気はなくじゃれられたとしても少々恐怖に感じるのかもしれない。

どことなくゲーリングの表情も引き攣って見える。

 

 

カリンハルは、ベルリン北東部ショルフハイデの広大な敷地(東京ドーム約8,700個分)に建てられた前妻カリン(1931年10月17日、心臓病で病没)の名を冠した豪華な別荘である。

 

森林・狩猟長官という肩書を持つゲーリングは、自らも狩猟を好み、この広大な土地を狩猟の楽園とも化していた。

 

カリンハルにはボーリング場、テニスコート、プライベート動物園なども併設され、また屋根裏部屋には4,160RM(※)(≒2,900万円)を投じて作らせた精巧な鉄道模型のジオラマがあり、そこで遊ぶのも大好きだった。 (※RM:Reichsmark)

 

ミュンヘン一揆の際に精巣に受けた傷がもとで、生殖機能に支障をきたしていると思われただけに、ゲーリングが45歳(妻エミー44歳)にして授かったエッダをこよなく愛し、また遊興には明け暮れても、ゲーリングは“色”を好まず、妻エミーだけを愛した。
そのエミーとの再婚の際も、死別したカリンを裏切ることになるのではないかと悩み、周囲に説得されようやく再婚に踏み切ったという律儀な一面もゲーリングは持ち合わせていた。