“戦場のピアニスト”を救った男 | S A L O N

1939年10月、ポーランドは独(斯)ソによる侵攻により両国によって分割された。
1940年以降、ポーランド国内における(一時的)ユダヤ人問題解決のため“ゲットー(ghetto)”を各地に復活させ…特に首都ワルシャワには最大規模のゲットーが創設され、多くのユダヤ人(1941年3月時点で44万5000人/面積3.36km2)を移住させた。
ソ連の思惑、ロンドンに亡命中のポーランド亡命政府の思惑の狭間で、ついに1944年8月1日、ワルシャワで武装蜂起が敢行された。
翌1945年1月17日、廃墟と化したワルシャワは、ようやく重い腰を上げたソ連軍により解放…
解放というのは名ばかりで、ソ連側はレジスタンス幹部らを逮捕し、自由主義の芽を一掃する形での実質、占領であった。

 


こうした過酷な時代背景のなかを生き延びたユダヤ系ポーランド人ピアニスト…ウワディスワフ・シュピルマンの実話をもとにロマン・ポランスキー監督により映画化されたのが、仏独波英合作映画の『戦場のピアニスト(原題: The Pianist)』である。


戦場のピアニスト(原題:The Pianist)』(2002年)

 

原作は、シュピルマンの友人であったポーランドの音楽評論家イエジ・ヴァルドルフが、シュピルマンの回想録としてまとめ、1946年に刊行した「Śmierć miasta(ある都市の死)」である。
当時の共産圏ポーランド政府の検閲により絶版処分になるなど紆余曲折を経て、1998年にドイツで「Das wunderbare Überleben(奇跡の生存者)」、翌年にイギリスで「The Pianist」としてようやく刊行され、2002年に映画化となった。

 

 

因みに、第55回カンヌ国際映画祭では最高賞であるパルムドール…また、第75回アカデミー賞でも7部門にノミネートされ、監督賞、脚色賞、主演男優賞の3部門を受賞している。

 


シュピルマンを演じた主演のエイドリアン・ブロディは、その主演男優賞を受賞した。

 

この映画における、もう一人のキーパーソンとなるのが、そのシュピルマンを救うトーマス・クレッチマン演じるドイツ軍将校…

それが、ヴィルム・ホーゼンフェルトである。


ヴィルヘルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉は、小学校で旧教(カトリック)の教鞭をとっていた父アダルベルトと母フリーデリケの六人兄弟の四番目として、1895年5月2日にマッケンツェルで生まれている。
マッケンツェルの小学校卒業後、ヒューンフェルトのラテン語学校に入学。
1910年、フリッツラーの予備校(Präparandenanstalt)に入学。
1913年、フルダのカトリック教員ゼミナール(Lehrerseminar※教育大学の前身)に入学。
ワンダーフォーゲル活動を中心とする初期青年運動に熱中している。
修士課程を修了し、第一次教員試験に合格するも、試補(教員)勤務には進まず…
1914年8月8日付で愛国心に燃えドイツ帝国陸軍に志願兵として入営。
同年11月、西部戦線、ベルギーにおける第一次イーペルの戦いに参加。
1915年6月、 重傷を負い予備歩兵部隊に転属して東部戦線に派遣…リトアニア、クールラントでの戦いに参加。
同年10月、陸軍軍曹に昇進。
1916年4月、二級鉄十字章を受章。
同年9月24日より、ルーマニア戦線における“トランシルヴァニア(独:ジーベンビュルゲン)の戦い”に参加。
1917年1月27日付で陸軍准曹長に昇進。
再び重傷を負い、今度は"felddienstuntauglich(前線勤務不適格)"となり帰国。
※秋頃にワンダーフォーゲル活動を再燃し、この頃からWilhelmの縮約形“Wilm”を名称に用いるようになっている。
帰国後(同年9月30日~)、青年ドイツ同盟(Jungdeutscher Bund)に熱心に参加。
1918年初頭、健康上の理由により除隊。
同年5月1日、ルドルフスハンで試補教員として採用。
この頃、独自のワンダーフォーゲル団体設立。
同年8月8日、ロスバッハの小学校で試補勤務。
1919年、村人と教区司祭らの反対によりワンダーフォーゲル団体を解散。
1920年5月23日、両親の反対を押し切り、画家カール・クルマッハーの娘であるアンネマリアとカトリック聖ヨハネ教会にて結婚し、その後、5人の子供を儲けている。(後にその子供達は全員、医師となっている。)
1921年2月4日、第二次教員試験に合格。
同年6月1日よりロスバッハ近郊のカッセル村の小学校で社会科とキリスト教の正規教員として勤務。
1923年、実業補習学校(Fortbildungsschule)を設立。
1927年4月1日よりフルダ近郊のターラウの小学校に教師兼校長代理として勤務。
ドイツ戦争墓地維持国民同盟(VDK)会員となる。
1933年4月15日付で突撃隊(SA)に入隊。(後にSA軍曹に昇進)
同年8月25日、国家社会主義教員同盟(NSLB)の会員となる。
※“強制的同一化(Gleichschaltung)”を掲げた国家政策・思想により独自団体等は解散を余儀なくされた。
1935年8月1日、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に入党。

Wilm Hosenfeld with his family in 1938
ホーゼンフェルト、アンネマリア、そして5人の子供達(1938年撮影)

1939年、第二次世界大戦が勃発。
ポーランド侵攻の際には、陸軍曹長として国土防衛大隊に配属。
ウッチ(Łódź)近郊パビャニツェ(ポーランド)の俘虜収容所、建設・運営に携わる。
その後、大隊は11月下旬にヴェングルフ(Węgrów)~12月初旬にヤドゥフ(Jadów)に移動。(※どちらもポーランド総督府内)
1940年2月1日付で陸軍少尉に昇進。
同年7月9日付でポーランド駐留警護大隊司令部附将校としてワルシャワに赴く。
1941年4月1日付で陸軍中尉に昇進。
同年5月15日付でワルシャワの国防軍スポーツ学校(後のワルシャワ司令本部・スポーツ局)のスポーツ武官に任官。

Wilm Hosenfeld_03
かつては教会でのオルガン演奏や、実業補習学校でもレッスンを受け持つなど、自身も音楽に精通していたようである。


1942年夏、陸軍大尉に昇進。
この時期、ユダヤ人に対する“最終的解決”、占領下のポーランドに対する圧政を目の当たりにして、“ナチズム”への不信感を募らせていったとも言われている。
1943~44年にかけて、多くのユダヤ人および非ユダヤのポーランド人をスポーツ局で管理・雇用することにより、その生命を危機的状況から救っている。

1944年8月1日に勃発したワルシャワ・ゲットー蜂起に伴い、ワルシャワ司令部・参謀部“Ic(情報部)”の従属機関であったスポーツ局も一時的に諜報活動を補助することとなる。

1945年1月12日、ワルシャワへの進撃を再開したソ連軍は、17日にはワルシャワを占拠。
17日、ホーゼンフェルトもワルシャワから西に28km程のブウォニエでソ連軍の捕虜となる。
その後、ミンスクの調査拘置所に移送、拘留。
スポーツ局は諜報活動にも加担した廉で厳しい尋問を受けることとなる。
1946年、バブルイスク(ベラルーシ・マヒリョウ州)の捕虜収容所に移送。
収容所生活は彼の健康を蝕まみ、1947年に最初の脳卒中により右半身に麻痺が発症。
1948年には二度目の卒中発作も起こしている。
1950年5月27日、懲役25年の刑が確定。
1952年8月13日、三度目の卒中発作を起こし、スターリングラードの捕虜収容所で亡くなっている。(享年57歳)


ポーランドに赴任した1940年頃の末の三男とのツーショット。

Wilm Hosenfeld in Polen 1940
子供達に囲まれて談笑しているホーゼンフェルト。(1940年頃)

Wilm Hosenfeld_04
ホーゼンフェルトはシュピルマンのみならず、ユダヤ人などに対して偏見を抱くことはなかった。


The Pianist best scene from jdamasio on Vimeo.


1944年11月17日、ホーゼンフェルトはワルシャワの廃墟でシュピルマンと初めて遭遇。
彼がワルシャワを退去する直前の12月12日まで、食料やコート、毛布などが援助された。

 

1997年に、ワルシャワの自宅でシュピルマン(当時86歳)自身がショパンの「ノクターン(夜想曲) 第20番 嬰ハ短調 [遺作]」を演奏している映像。
劇中では、ホーゼンフェルトに命じられて弾くのは「バラード 第1番 ト短調 作品23」だが、実際にはこの曲を演奏して聴かせたようだ。
因みに、1939年9月にポーランド国営ラジオ局が爆撃を受けた正にその時、 シュピルマンが電波に乗せ生演奏していた曲もこの曲だったのだとか。


【 Postskriptum 】

2007年:ポーランド大統領(当時)のレフ・カチンスキは、ホーゼンフェルトの人道的行為を高く評しポーランド復興星付きコマンドルスキ十字勲章(二等)を授与している。
2009年:イスラエルもまたホーゼンフェルトの人道的行為に対し、「“Gerechter unter den Völkern”(諸国民の中の正義の人)」の称号を授与し、エルサレムにあるヤド・ヴァシェムの「名誉の壁」にその名が記されることとなった。