星になった王子さま | S A L O N

 

星の王子さま(原題:Le Petit Prince)』という童話をご存知またはお読みになったことがあるという方も多いことと思う。
サハラ砂漠に不時着した飛行機の操縦士“ぼく”と、そこで出会ったある小惑星からやってきた王子さまとのお話である。
童話ということでやさしい文体で綴られてはいるが、その行間にこめられた真意は奥深く…
“Comprenons la vie(生を理解する)”というテーマに基づいた…
実は大人のために書かれた童話なのだという。

著者は1900年6月29日…南フランスのリヨンで貴族の家に生まれた作家であり、また飛行機の操縦士でもあったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリである。
この本が書かれた時代は第二次世界大戦の真っ最中であり…
勿論、彼の母国フランスもその渦中にあった。
献辞において、彼はこの本をフランスにいるある困難に陥っている“おとなの人”に捧げると述べている。
その“おとなの人”とは彼の友人でありジャーナリストであったユダヤ人のレオン・ヴェルトのことであった。
この『星の王子さま』は“人間の怒りや憎しみ、戦争や暴力の愚かさが蔓延した悲劇の時代”の渦中にあった彼から、真実を見る目を失いかけ…見て見ぬふりをしている私たちへの問いかけなのである。


1921年、サン=テグジュペリは兵役に志願し、陸軍飛行連隊に配属されたが、勤務先はストラスブールの飛行機修理工場であった。

そこで自費で飛行訓練を受け、民間飛行機の飛行免許を見事取得。
空軍入隊を希望したが婚約者の家族の反対にあい、やむなく自動車会社の販売員などの職に就いたそうである。
そして1926年、彼は「銀の船」という雑誌に…
後に「南方郵便機」に収められることになる短編「飛行機」を発表。
作家としての一歩を踏み出すことになった。
それと同時期にパイロットとして路線飛行機に乗り、郵便物などを運ぶ仕事に就いている。
そうした飛行中には何度かの事故にも遭っているようだが…
1935年、彼は二人乗りのプロペラ機でパリからサイゴンへの長距離飛行中、エジプト上空で機が故障…カイロ手前のリビア砂漠に不時着してしまう。
どこに不時着したかもわからないまま、彼と同僚の二人は5日間砂漠をさまよい歩いた。
幸いなことに偶然通りかかったキャラバン隊の一行に助けられ九死に一生を得ている。
その時の経験は『星の王子さま』執筆に大いに活かされたことであろう。
ヨーロッパがきな臭くなり始めた頃には、彼は既にベストセラー作家の仲間入りを果たしていたが、第二次世界大戦が勃発すると(予備役)大尉として技術教育部門に配属されることとなる。
彼は長距離偵察飛行大隊への転属を志願。
ちょうどこの頃に『星の王子さま』を書き始めている。
しかし母国フランスは1940年6月にドイツに降伏。
彼は軍を離れ「戦う操縦士」「城砦」の執筆にかかる。
そして1943年には遺作ともなる『星の王子さま』を書き上げ亡命先の米国にて発表。
軍務から一旦退いた彼であったが…
祖国を憂う気持ちを抑えきれず、自らの知名度を利用して…
なんと米国大統領ルーズヴェルト子息の口添えにより一旦米国空軍に入隊。
その後…1943年6月、原隊であるII/33部隊(偵察飛行隊)に少佐として復隊している。
軍上層部としては年齢的にも…そのうえ有名人でもあることから、彼を第一“戦”から外そうとしたが、執拗に出撃を志願し続けたということである。
そして1944年7月31日…いつものように偵察のためにコルシカ島のボルゴ飛行場を単機で出撃した彼が二度と戻ることはなかった。 (享年44歳)


約60年を経て…地中海のマルセイユ沖リュウ島近くに沈む機体の残骸(※刻印されたシリアル番号“2734”が一致)が、サン=テグジュペリ乗機のロッキードF-5B-1(戦闘機P-38ライトニングの偵察機型)の物であると確認された。



2008年3月15日刊「La Provence」に、その偵察機を撃墜したという…当時、ドイツ空軍(LW)の第200戦闘航空団(JG200)所属のホルスト・リッパート空軍曹長の証言が掲載された。
因みに、リッパートは乗機のメッサーシュミット(Bf-109)で、28機(※26機、29機とのリザルトもある)の撃墜スコアを残している。
戦後はZDF(第2ドイツテレビ)社のスポーツジャーナリストとして勤務し、2013年4月19日にヴィースバーデンで亡くなっている。(享年90歳)


当時のLWでは帰隊した後の本人の事細かな調書(撃墜公認のための調査書)提出は勿論、ガン・カメラの記録、僚機の証言、残骸の有無などを査定したうえで、最終的に僚機(目撃者)の了承サインを得てはじめて撃墜が公認された。
かなり厳しい行程を経なくてはならなかったようであり、例え実際に撃墜をしたとしても僚機が撃墜されて目撃証言が得られなかったり、空戦域から自機だけが離れての撃墜などのように他機による目撃証言が得られない場合は公認がされなかった。

もしリッパートがサン=テグジュペリ氏を撃墜していたとするならば、公認を得られているかは別にしても…
“撃墜公認のための調査書”には“撃墜機種名称、撃墜機の国籍及び標識、撃墜状況、撃墜地点”等などをかなり詳細に記載することになっていたわけであり、出撃に当たってはその点を了解したうえでの搭乗であったわけであろうから、彼がそれら詳細をある程度記憶していたということも否定は出来ない。
名乗り出た際の撃墜状況談でも…

南仏のマイレス(Milles)基地への帰投途上、トゥーロン(Toulon)の上空でマルセイユ方面へ飛ぶP-38を発見。
私の機は高度差3000mの優位を占めていた。
襲撃をかけ、胴体ではなく翼を狙い弾は命中した。
機体は破損…まっすぐ水面に向かって落ちて行き、海没した。
数日後に、それがサン=テグジュペリの乗機であることを知った。

…と語っている。
ただ、これを“眉唾”とする向きもあるが…果たして真相や如何に…

余談であるが…
“サン=テグジュペリ未帰還・行方不明”の報は敵側の無線を傍受していたドイツ側も知るところとなり、当時、既に国境・民族を越えて愛されていた彼の安否を心配したLW側も独自に捜索を行っていたとのことである。