散るぞ悲しき | S A L O N

昭和20年(1945年)3月26日午前9時をもって“硫黄島の戦い”の終結が宣言された。


硫黄島は東西約8km、南北約4km、海岸線長(周囲)約22km…面積23.73km²の(活)火山島である。

“硫黄島”は…「いおうとう」および「いおうじま」の両呼称が用いられてきたが、平成19年(2007年)から「いおうとう」が正式な表記となっている。
因みに、大日本帝國陸軍では「いおうとう」、大日本帝國海軍では「いおうじま」と呼称されていた。


東京から南方約1,250㎞(北緯24度45分29秒、東経141度17分14秒)に位置するこの島が太平洋戦争末期の1945年2月16日~3月26日の36日間に亘り、最激戦地と化した。
駐留していた日本軍将兵20,933名のうち20,129名(うち軍属82名)が戦死(病死、行方不明を含む)。
捕虜となったのは、たった1,023名…生還率4%という惨状であった。
一方、米軍側も70,000名の将兵うち6,821名が戦死(21,865名が戦傷)するという壮絶な戦闘が両軍の間で繰り返された。
水も食料も武器も弾もなく…劣悪な環境下にあって尚…
当初、米軍側は5日もあれば陥落出来得ると目算していたようだが予想を上回る苦戦を強いたのである。

3月25日深夜(~翌26日未明)、栗林以下、400名程の将兵をもって、米軍に占拠されていた第2飛行場(元山飛行場)に対して最期の総員突撃…肉弾特攻を敢行し、米軍の建設大隊(Seabees)、第5工兵大隊、第28海兵隊から成る守備部隊と1時間半程の戦闘により玉砕。(※米軍側:死者53名、負傷者119名)
この組織的抗戦の決着により、硫黄島における戦闘は一応の終結をみた。(その後も、地下に潜伏を続けた残存兵らによるゲリラ戦は散発的に繰り返された。)

硫黄島からの手紙(Letters from Iwo Jima) 』(2006年)


 

この映画は、戦況が悪化の一途を辿る1944年6月8日に硫黄島に着任した栗林陸軍中将(渡辺 謙)の目を通し、また一兵卒の西郷(二宮和也)の目を通し、激しい攻防のなか、其処に生き、死んでいった者たちの1945年3月26日…“総攻撃”後(?)までの日々を描いている。

硫黄島からの手紙_栗林中将_渡辺謙

 



ストーリーその他に関しては、今更私如きが語るべくもないので割愛させて頂くが…
この映画…
“よい映画”かどうかは観る者によって様々かとは思うが…
“よく出来た映画”とはいえるのかもしれない。
確かに、実際の地下壕内の悲劇・惨劇は想像を絶するものであったと思われ…描かれているそれらの状況はまだまだ生易しいといった観は否めないものの“映画”としてはこれが限界なのかもしれない。

戦争を描く“映画”は…
確かに、どこまでリアルに描かれているか…ということも重要だが…
観る者の目を背けさすことが目的ではないとも思うわけで…
あとは、観る者がそれをどう咀嚼・還元していくかということなのではないかと思う。

“硫黄島の戦”いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」の二部作(米側視点の『父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)』)としてクリント・イーストウッドがメガフォンを取ったことでも話題となった映画なので、既にご覧になられた方も多いことと思うが…まだという方は、この機会に、是非ご覧になるのもよいのではないだろうか…


栗林は3月16日に大本営に宛て訣別電報を打電している。
その一部…
国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ

因みに、“散るぞ悲しき”の部分は“散るぞ口惜し”に改竄され新聞発表された。
大本営は指揮官が“悲しき”と嘆じることを良しとしなかった。
私的には…“散るぞ虚しき”などと思ってしまう…

 

留守近衛第二師団長時代の栗林陸軍中将(★★★の大将となっているが、後年の修正によるもの)

 

栗林忠陸軍大将は1891年(明治24年)7月7日、長野縣埴科郡松代町(現:長野市松代町)に栗林家の次男として生まれている。
そして既記の如く、3月25日~26日の総員突撃において戦死。

栗林は階級章など自身を特定する物を外し、白布を襷に掛け、軍刀を振りかざし将士の先頭に立って突入して“逝った”とされている。
栗林の最期に関しては、進撃前もしくは途中で、右大腿部に重傷を負い、洞窟もしくは、その場で自決したともされるが詳細はわかっていない。
栗林に敬意を払っていた米軍側も捜索を行ったが、その遺体の特定には至らなかった。(享年53歳)
特旨により一階級特進し陸軍大将に昇級している。

【追記】


昭和19年3月1日付で松永貞市海軍中将が北東方面艦隊/第十二航空艦隊所属の第二十七航空戦隊司令官に任官し、硫黄島に赴任。
5月27日付で栗林は小笠原方面防衛強化のため父島要塞守備隊を基幹に再編された第109師団の師団長に親補。
6月8日、栗林が硫黄島に着任。
7月1日付で陸軍の第109師団と海軍の第二十七航空戦隊の陸海軍共同部隊となる大本営直轄の小笠原兵団を編成し、栗林が兵団長(※第109師団の師団長を兼務)に任官。
7月10日付で第二十七航空戦隊は第十二航空艦隊から第三航空艦隊に編入。
第三航空艦隊を空地分離方式を採用して新編し、空中部隊(第一三一海軍航空隊、第二五二海軍航空隊、第七五二海軍航空隊、第八〇一海軍航空隊、関東海軍航空隊)を司令長官の寺岡謹平海軍中将が直卒し、第二十七航空戦隊は地上部隊として引き続き硫黄島の守備に就いた。
その第二十七航空戦隊は、20日付で南方諸島海軍航空隊、硫黄島警備隊、第二〇四設営隊(※一部島民から徴用)を隷下として再編。
8月15日付で松永が練習連合航空総隊兼第11連合航空隊の司令官任官に伴い、後任として市丸利之助海軍少将が第二十七航空戦隊の司令官に任官し、硫黄島に赴任。
この市丸は、ルーズベルト大統領に宛てた『「ルーズベルト」ニ與フル書』を認めた人物としても有名である。
市丸は最期の総員突撃に際して、米兵が将校の遺体を弄ることを見越して、この書の和文版を通信参謀の村上治重海軍大尉の…そして、ハワイ出身の三上弘文兵曹に英訳させた英文版を二十七航戦参謀の赤田邦雄海軍中佐の懐中に忍ばせて、わざと発見されるようにした。
市丸の思惑通り、この書簡は米軍の手に渡り、米国大手新聞各社がこぞって1945年7月11日の新聞に掲載して、全米で大きな反響を呼ぶこととなった。

但、フランクリン・ルーズベルト大統領は、硫黄島の戦いが終結してから2週間程後の4月12日に脳出血により急逝しており、この書簡の内容がルーズベルト本人に伝えられていたかは定かではないということである。