ヒトラー最期の12日間 | S A L O N

Der Untergang (英題:Downfall / 邦題:ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2005年)

 

ヒトラーのその最期の日に至る…地下壕での“失意”の12日間をリアルに描いた2005年公開のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作が『DER UNTERGANG(英題:Downfall)/ヒトラー ~最期の12日間~』である。

原作はヨアヒム・フェスト著書の『Inside Hitler's Bunker: The Last Days of the Third Reich (総統官邸地下壕での第三帝国の最後の日々)』。
そして、ヒトラーの最期を目の当りにした秘書ゲルトラウト“トラウドゥル”・ユンゲが自身の最晩年に回顧録として出版した『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』などをもとに脚本が書かれている。



 

1943年以降になると歳よりも老けて見えはじめ…地下壕に閉じ篭った頃ともなると“まるで廃人”のようだったと表現する証言者もいるくらい外見的にも判る程に精神的にも荒廃していたヒトラー。
ただそうした状態のもとにあってもなお人々を引き付け、その威光が完全に失われたわけではなかったヒトラー役をブルーノ・ガンツが迫真の演技で演じている。


ヒトラーとその取り巻き連中の描き方については賛否両論あるかとも思うが、私的にはかなり当時を知る者達の証言事項などが細部にわたり織り込まれおり、また市街戦などのシーンもかなり迫真に迫っていて、なかなかに見応えのある映画になっているのではないかと思う。

 

この映画では、恐怖と欺瞞と退廃に満ちた息の詰まるような地下壕での時間を、アレクサンドラ・マリア・ララが演じる主人公のトラウドゥル・ユンゲの目を通して描くのとは別に…その外…ソ連軍が迫り、激しさを増す攻撃・砲撃のなか…恐怖と怯懦と狂信の錯綜する荒廃してゆくベルリン市街での時間をドネヴァン・グニア演じるペーター・クランツ少年の目を通しても描いている。

 

 

1945年3月20日、二級鉄十字章を受章したヒトラーユーゲント(HJ:Hitlerjugend)の少年たちへの総統直々の授与式が(旧)総統官邸の中庭で行われた。
 

16歳のヴィルヘルム・ヒュプナーに続いて、19名のHJに混じってドイツ少国民団(DJ:Deutsche Jungvolk/HJの下部組織)の少年小隊長として最年少受章者となった12歳のアルフレッド・チェコがヒトラーから祝福の言葉を掛けられているシーンは、翌々日(22日)のニュース映画(Nr. 755)でも公開された。
因みに、この時の模様がヒトラー生前最後の映像となった。
 

この映画では、この時の模様をなぞらえてペーターがヒトラーと出会う場面としている。


エンディングではそのペーターとユンゲが手を取り、共に明日へと歩き出すという…ある意味、象徴的なシーンでこの映画を締め括っている。

 


 

ただ映画の内容に関しては、今更書き連ねるよりも、是非ご自身でご覧になっていただければとも思うで、ここではこの映画の劇中に登場する地下壕の住人たちのなかで私がで気になった人物と実際との対比程度にとどめ…主に最期の日々の“後”あたりに触れていこうと思う。

 

先ずは、アレクサンドラ・マリア・ララが演じた主人公のトラウドゥル・ユンゲ嬢から…

本名はゲルトラウト・ユンゲであるが、“トラウデル(Traudl)”の愛称で呼ばれていた。

そのユンゲは、劇中でも触れられているように結構なスモーカーであったようで、後(1943年6月19日)に結婚をすることとなる総統警護隊(FBK:Führerbegleitkommando)の隊員であった下士官当時のハンス=ヘルマン・ユンゲSS中尉とのツーショットでもタバコを吹かしている。


夫のハンスは、1943年7月14日付で第12SS装甲師団“Hitlerjugend”に異動となり、1944年8月13日にノルマンディー地方ドルーにおける対空戦闘中に敵戦闘機による機銃掃射により戦死亡している。(享年30歳)


劇中のシーンにもあるように、5月1日夜半、官庁街防衛地区司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将が中心となり、六つの脱出グループを編成し、午後9時に最初の一団が出発した後、順次、総統官邸地下壕からの脱出を開始することとなった。

ユンゲはモーンケ率いる最初のグループと共に総統官邸地下壕を離れた。 

このグループには、ヒトラー専属副官オットー・ギュンシェSS少佐、親衛隊軍医エルンスト・ギュンター・シェンクSS軍医中佐、ヒトラー専属帝国政府飛行隊長ハンス・バウアSS中将、国家保安局長ヨハン・ラッテンフーバーSS中将、総統官邸附海軍連絡将校のハンス=エーリヒ・フォス海軍中将、外務省総統官邸駐在官のヴァルター・ヘーヴェル、総統個人秘書の同僚であるゲルダ・クリスティアンとボルマンの個人秘書のエルゼ・クリューガー、ヒトラー専属料理人・栄養士のコンスタンツェ・マンツィアーリーなども含まれていた。 

ユンゲ、ゲルダ、エルゼクリューガーは、モーンケよりグループから離れ、報告書を大統領カール・デーニッツ大提督に届けるよう依頼され、エルベ川周辺までは辿り着いたものの、対岸の米軍占領地区に行くことは無理と判断し、再びベルリンに戻りかけたとろで連合国軍に拘束されている。
ただ、彼女たちが何者なのかなどの取り調べもほとんどなく解放されたようである。

 

戦後しばらくして、ミュンヘンのフランツ・ヨーゼフ通りの一画にあるゾフィー・ショルを追悼する銘板の前を通り過ぎた彼女は、ショルが自分と同じ年に生まれ、ヒトラーの秘書となった年に処刑されていたことを知る。
その瞬間、ナチスによる蛮行については、自分が若かったからということが言い訳にはならず、知らなかったというよりも知ろうとしなかったということに気付いたのだという。
2002年2月10日、癌により亡くなった彼女は、ミュンヘンのノルトフリートホーフ墓地に永眠っている。(享年81歳)

ユンゲ(未亡人)とともに官邸地下壕に残った総統個人秘書のゲルダ・クリスティアン(夫人)は、ビルジット・ミニヒマイアが演じている。
ゲルダは、総統本部附空軍司令部長であったエックハルト・クリスティアン空軍中佐(当時:のち空軍少将)と1943年2月2日に結婚をするにあたり長期休暇を取っていて、その抜けた穴を埋める人員として、その前年の11月に新たな秘書として採用されたのがミュンヘン出身のトラウデル(当時は旧姓のフンプス)・ユンゲで…この映画の冒頭のシーンにもなっている。

1943年夏に職務に復帰したゲルダとユンゲは、その後随時行動を共にした。
戦後間もなくエックハルトと離婚(旧姓のダラノフスキーに戻る)したゲルダはデュッセルドルフに移り、そこでホテルに勤務し、1997年4月14日、癌のため同地で亡くなっている。(享年83歳)

 

エヴァ・ヒトラー(ブラウン)は、ユリアーネ・ケーラーが演じているのだが…個人的嗜好を言わせて頂くとケーラーよりも『モレク神(Moloch/Молох)』のエレーナ・ルファーノヴァの方が雰囲気的にはエヴァに近いように思える。

 

『モレク神(Moloch/原題:Молох)』は、アレクサンドル・ソクーロフ監督の1999年製作のロシア映画で、日本公開は2001年3月31日ということなので、もうずいぶんと前のことで記憶も不確かなのですが、おそらく…当時、近隣ではラピュタ阿佐ヶ谷という小さな劇場での単館上映で、そこで観たと記憶している。
1942年春、ベルヒテスガーデン近郊の人里離れた丘陵にあるベルクホーフの山荘での、ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンとの静かな生活を抒情的に…淡々と描いていた作品だったという印象しか残っておらず、機会があればもう一度ゆっくりと見返してみたい映画でもある。

 

 

4月29日未明、ついに“愛人”という立場に終止符を打ち、エヴァ・ブラウンはヒトラーと結婚した。
午前1時から2時間程の簡易なその式事は、総統地下壕地下二階の小会議地図室で執り行われた。
ゲッペルスはこの結婚に際し、必要な資格を持つ者を付近から探してくるように親衛隊に命じ、国民突撃隊“Gauleitung”大隊に所属していた弁護士のヴァルター・ワグナーなる人物に公証人として儀式を司らせ、ゲッペルスとボルマンが立会人として参列した。
シルクの青いドレスを身に纏ったエヴァは、結婚証明書の署名欄に“Eva B”と書きかけたが、すぐに気付き、訂正線を引いて“Eva Hitler”と書き直した。
この式の後、ある給仕がエヴァに「奥様(gnädige Frau)!」と呼び掛けると…「ヒトラー夫人(Frau Hitler)と呼んでいいのよ」と自慢気に言ったというエピソードが残っている。
そんな結婚式から僅か1日半後の翌30日午後1時頃、ヒトラーは最後の食事を済ますと、妻エヴァを呼び、ユンゲ、クリスチャン、クリューガーの三人の秘書、ボルマン、ゲッペルス、クレブス、ブルクドルフ、ラッテンフーバー、フォス、ヘーヴェル、そして国民啓蒙・宣伝省次官(当時)のヴェルナー・ナウマンなどの極側近の者たちに別れを告げ、エヴァとともに自室に消えていった。
午後3時20分頃、一発の銃声が響き、そのまま静まりかえった。
二発目の銃声は無かった。
数分待ち、ヒトラーの執事でもあったハインツ・リンゲSS中佐がオットー・ギュンシェSS少佐を伴い書斎に入ると、シアン化物のカプセルを噛んだ直後、6.35mm口径のピストルで右側のこめかみを撃ち抜き拳銃自殺を図ったヒトラーとシアン化物による服毒自殺を図ったエヴァが、正面のソファのそれぞれ右端、左端に…二人とも腰かけた状態で発見された。

毛布に包まれた二人の遺体には、遺言に従い大量(ほうぼう駆けまわりやっと調達できた約180リットル)のガソリンが撒かれ、ギュンシェ、リンゲらにより総統官邸の中庭において焼却が為された。
エヴァ・ヒトラー(享年33歳)、アドルフ・ヒトラー(享年56歳)



ヒトラー専属副官オットー・ギュンシェSS少佐は、ゲッツ・オットーが演じている。
4月30日、自殺したヒトラーとその妻となって共に亡くなったエヴァの遺体の焼却を確認した後、5月1日の真夜中過ぎ…既記の如く、ヴィルヘルム・モーンケSS少将らのグループは地下壕を脱出し…翌2日、クロイツベルク地区(ベルリン)のシュルトハイス・ビール醸造所に潜伏しているところをソ連軍に包囲され、捕虜となった。
1956年5月までバウツェン収容所で服役し、その後、西ドイツ側へ脱出、ボン近郊に移り住んでいる。
この映画が公開となる少し前(2003年10月2日)までご存命であったが、最後まで自身の体験について公に語ることは無く、沈黙を守り通して亡くなった。(享年86歳)

ギュンシェは、“骨一本も残さず完全に燃やし尽くした”との主張を曲げなかったが、ガソリンによる焼却では完全に遺体を燃やし尽くすことは到底不可能であったため、結局は遺言通りにはならず、遺骨は戦後、ソ連によって回収され、2000年4月にヒトラーのものとされる頭蓋骨の一部と歯が公開されている。


ヒトラー役のブルーノ・ガンツと並んでなかなかに近しい雰囲気を出していたように思えるのがハイノ・フレヒが演じたアルベルト・シュペーア

ヒトラーの夢の大都市構想の推進のために、当初はお気に入りだったものの、如何にヒトラーであってもなかなか専門的な意見のし難い建築家の大家であるパウル・ルートヴィヒ・トローストよりも、才能豊かでかつ自らの意見に沿い奔走する若いシュペーアを、ヒトラーは登用するようになっていく。
シュペーアは、帝国首都建設総監としての建築部門のみならず、門外漢であった軍需部門においても…その政策原案の殆んどが前任の軍需大臣であったフリッツ・トートSA大将兼空軍少将による考えの焼き直しだったにせよ、目に見える形で実現化せしめた彼の功績は大きく、今作の台詞にもあるように、ヒトラーにして“本物の天才”と言わしめた。
戦後は、日和見的に“善きナチス”としての立ち位置を通した。
BBCに出演するために渡英していた1981年9月1日、愛人宅において心臓発作で倒れ、ロンドンのセント・メリー病院に搬送されるも、そのまま帰らぬ人となった。(享年76歳)


ヴェルナー・ハーゼSS軍医中佐は、マティアス・ハビッヒ演じている。


ゾルトブーフ(俸給手帳)用の写真(左)と拘束直後に撮られた本人確認用写真。

 

1945年4月のベルリンの戦いでの最後の日々を、ハーゼはシェンクとともに、フォス通りに面した新総統官邸(病棟)の公共掩蔽豪に設けられた緊急医療施設において負傷兵、民間人の負傷者の命を救うために奔走している。
外科的処置を必要とする患者が次々と運ばれてくるなか、外科系のハーゼは、持病の結核の病状が思わしくなく、シェンクに口頭で指示を与えながら横になることが多かったということである。

4月29日、総統地下壕に呼び出されたハーゼは、シアン化物(青酸カリ)の有効性と捕らえられた場合にカプセルを飲み込んでから死に至るまでにどれくらいの時間がかかるのかを親衛隊軍医のルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーSS軍医中佐とともに検証せよとの命を受けた。
その背景には、それらの薬物の製造がヒムラーの管理下にあった研究所によって製造され、総統官邸にも納入されていたことから、連合国側と秘密裏に交渉を行おうとしていたヒムラ―に対するヒトラーの疑心暗鬼からくるものでもあった。
ヒトラーは、自決用として渡されている同カプセルを愛犬ブロンディで試すように命じた。
ブロンディは飲み込むことを激しく拒み、その眼差しはずっと主人であるヒトラーに向けられていたという。
いたたまれなくなったヒトラーが退室した後も、目線はその後姿を見据えていたが、ついに息絶えた。
4匹の仔犬も同様に毒殺された。

ハーゼは翌30日の午後にヒトラーが自殺するまで総統地下壕に留まり、その後、ハーゼは病棟掩蔽豪に戻っている。
シェンクがハーゼの元に来てから7日間で二人は約370件の手術を行ったという。
ハーゼは、ゲッベルスの子供たちの殺害に関与したとされる親衛隊歯科軍医のヘルムート・クンツSS軍医少佐エルナ・フレーゲルとリーゼロッテ・チェルヴィンスカの2人の看護師らとともに官邸を脱出したが、5月2日にソ連軍の捕虜となった。

収監中に結核の病状が悪化したハーゼは、1950年11月30日に、モスクワのブティルスカヤ刑務所内の療養施設で亡くなっている。(享年50歳)

 


ハーゼとともに掩蔽豪において負傷者の手当に追われることとなったエルンスト・ギュンター・シェンクSS軍医中佐は、クリスチャン・ベルケルが演じている。

因みに、ベルケルの父親は元軍医とのことであるが、母親がユダヤ人だったこともあり、戦時中は迫害を逃れてフランス、アルゼンチンなどに亡命していた。
ベルケルはこの後も、『ブラックブック』『ワルキューレ』などでもドイツ将校・将官役を演じている。

 

戦時中に撮られた写真(左)と晩年の画像(右)。


シェンクは栄養学などに素養があったことなどから、戦地における武装親衛隊の兵士たちのビタミン剤やプロテイン・ソーセージといったレーション開発・製造などに携わり、1943~1944年にはSS経済管理本部員としてマウトハウゼン強制収容所において栄養実験の責任者を務め、その後、国防軍の栄養検査官および上級医師に昇級している。
1945年5月2日、シェンクはソ連軍に投降、収監され、1949年12月21日に死刑判決を宣告を受けるも、刑は25年の禁固刑に減刑されている。
 結局、1955年に釈放され、帰国後はグリューネンタール(Grünenthal GmbH)などのドイツの製薬会社に勤務。
また帰還者協会の飢餓被害の補償問題に関する専門家として活動し、1998年12月21日にアーヘンで亡くなっている。(享年94歳)
今作では、実際の人物像よりも好意的に描かれているとの指摘もある。



以前の記事(白バラが紅く染まった日)の際も紹介させていただいたウルリッヒ・マテスがヨーゼフ・ゲッベルスを演じており…マテスという役者とのファーストコンタクトがこの映画であった。
ゲッベルス自体も、猿顔チックな少々特徴的な顔立ちではあるが、それ以上にインパクトのある…というか、猟奇的にも見えてしまう特徴ある顔立ちのマテスのため、当初はミスキャストにも思えてしまった程である。

 


私見だが、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ(原題: Valkyrie)』でゲッベルスを演じたハーヴェイ・フリードマンの方が若干それらしくは見えるかもしれないが、マテスという実力ある役者の演技をあらためて見返してみれば、マテスのゲッベルスも、なかなかに味があってよいのかもしれない。

 

コリンナ・ハルフォーフは、この映画のキャストの女性陣として、ユンゲ、エヴァに次ぐ重要な役所ともなる…ゲッベルスの妻にして、陰鬱とした地下壕のなかにあって、愛らしい6人の子供たちの母親でもあるマクダ・ゲッベルスを演じている。

 

ゲッペルス夫妻の6人の子供達の最期に関して、総統官邸附歯科医師のヘルムート・クンツSS軍医少佐のソ連軍への供述証言によると…
ほぼ劇中の如くではあるが、ただ若干違うのは…劇中では嫌がるヘルガに無理やり飲ませたことになっているが、注射によりモルヒネ(傾眠効果あり)0.5ccを…「マクダは、子供達に「いつもよその子供や兵隊さん達もしているやつよ」と言い終えると部屋から出て行きました。
私は長女のヘルガ、次女ヘルデ、次男ヘルムート、三女ホルデ、四女へータ、五女ハイデの順で処置していきました。
それが済んだのが午後8時40分…10分ほど経ってマクダと子供達の寝室に戻り、更に5分程待って一人一人の口に青酸カリ(1.5cc)のアンプルを砕いて含ませました。」…ということのようである。

子供たちの処置が済むと、ゲッベルスとマクダは総統地下壕地下一階の自室を出て、ナウマンとゲッベルス専属警護隊所属で副官のギュンター・シュヴァ―ガーマンSS大尉と簡単な挨拶を交わし、中庭への階段を登って行った。
因みに、シュヴァ―ガーマンの証言によると「焼却用のガソリンを用意している時に銃声が聞こえ、庭に行ってみるとゲッベルスとマクダの死体を発見する。マグダは毒(青酸カリ)を飲んで既に死亡していたが、ゲッベルスは自分ではどうしても急所を撃つことが出来なかったようだったので私は部下(伝令兵)の一人に命じて止めをささせました。これは当初からゲッベルス本人に頼まれていたことでもあり、彼が撃ったあと念を入れて私がもう一度撃ち、それから死体を火葬に付すことになっていました。ただ、私にはどうしても撃てなかったのです。」
時刻は5月1日午後8時15分頃だったという。
上記二人の証言では時間的に誤差が生じてはいるが、あのような状況下では記憶の不確かさは否めないかもしれない。

例えば、クンツの“午後8時40分”という認識が1時間ほど誤っていたとして、実際には“7時40分”だったならば、その後の時間的経緯も合点がいくのだが…
その後、シュヴェーガーマン、ゲッベルスの運転手ラッハ、伝令兵らによりゲッベルス夫妻の遺体にガソリンが撒かれ、総統官邸の中庭において焼却が為されているが、ガソリンの量が少なく焦げた程度であった。
ヨーゼフ・ゲッベルス(享年47歳)、マクダ・ゲッベルス(享年43歳)

 

プロパガンダの天才であるゲッベルスは、ドイツの良き家庭のお手本とすべく、子だくさんの自身の家族を、そのプロパガンダにも利用した。
マクダと6人の子供たちを度々ドイツ週間ニュースにも登場させて、その“良き家族”ぶりを披露した。

 

1942年9月23日、北アフリカから一時帰国したロンメルが、ベルリン滞在中にゲッベルスの邸宅に招かれた際に子供達と遊ぶ様子を撮した映像である。
おそらく、10月3日に宣伝省を訪れた後にゲッベルス宅に招待されたものと思われる。

 

戦後、ソ連軍によるヨーゼフ・ゲッベルス、マクダと子供たちの死体見分の様子。
衝撃的な映像が含まれていますので視聴にはご注意ください

 

ヘルマン・フェーゲラインSS中将は、『戦場のピアニスト』など独軍将校役として、当方のブログでは既にお馴染みのトーマス・クレッチマンが演じている。

因みに重箱の隅的にはなるが、クレッチマンの衣装の階級章はSS少将となっているが、この時点では既にSS中将に昇進している。

 


1945年4月27日、地下壕の住人達の証言から…フェーゲラインが部下二名を伴って、酔っぱらった状態で総統官邸を抜け出したことが発覚した。 
国家保安局(RSD:Reichssicherheitsdienst)のペーター・ヘーグルSS中佐が捜索に派遣され、29日未明、フェーゲラインはシャルロッテンブルク(ベルリン)の私邸のベットで私服姿で横たわっているところを拘束されている。
発見当時、泥酔状態であり、また国外逃亡を見据えた多額の外貨、宝飾品を所持していたともいわれている。
フェーゲラインはその場で妻グレートルの姉エヴァ・ブラウンに直接電話をかけ、彼女に懇願するも無駄だったということである。
官邸地下壕に連れ戻された彼は、ハインリヒ・ミュラーSS中将(ゲスターポ局長)を裁判長、RSD局長ヨハン・ラッテンフーバーSS中将、ヴィルヘルム・モーンケSS少将、ハンス・クレープス陸軍歩兵科大将、ヴィルヘルム・ブルクドルフ陸軍歩兵科大将らを判事として、敵前逃亡罪およびソ連軍側に総統の身柄を引き渡すことを画策していたのではないかとの嫌疑により臨時軍事法廷に掛けられた。
その最中もひどい泥酔状態で、自身では立っていることも出来ず、床に座り込み、嘔吐、放尿までしてしまう有様のフェーゲラインには、“軍法会議中は被告が健全な心身であることが義務付けられている”とする軍法による裁判の継続できないというモーンケの主張により法廷は短時間で閉廷し、フェーゲラインの身柄はラッテンフーバーに引き渡され、その処遇はヘーグルに一任された。
フェーゲラインの処遇に関してヨーゼフ・ゲッベルスとマルティン・ボルマンに相談したヒトラーは、その後、彼を自身の前に連行させ、激しく罵倒し、階級を剥奪はしたようではあるが、身柄の拘束・監禁命令以上の命令は下してはいなかったが、29日深夜、ヘーグルの独断により総統官邸近くの外務省の敷地内において銃殺刑が執行されている。
このフェーゲラインに対する“銃殺”という決着の背景にはヘルマン・ゲーリングの背信的行為以上に精神的打撃を与えるに至ったハインリヒ・ヒムラーの裏切り行為に起因するところが大きかったものと思われる。
あの“忠臣ハインリヒ”が勝手に和平交渉を申し出たこともさることながら、総統である自分の身柄を引き渡す約束をしたともされ、“裏切り行為”に対する怒りは頂点に達し、ある意味、ヒムラーの身代り的な処断ともいえ、信奉する総統ヒトラーに対するヘーグルの忖度が働いた故であろう。(享年38歳)

 


SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、ウルリッヒ・ネーテンが演じている。

ヒムラ―は、ソ連を除いた米英との講和に向け水面下で工作を始めるも、ヒムラーの西部戦線降伏に関する提案は、「部分的降伏は有り得ず」とした米国大統領ハリー・S・トルーマンにより正式に拒絶され、1945年4月28日のBBCのラジオ放送によりヒムラーからの「降伏の申し出があった」旨が伝えれたことで、その裏切り行為がヒトラーの知るところとなった。
戦後は、野戦憲兵のハインリヒ・ヒッツィンガー陸軍曹長として、髭を剃り、眼帯を装着して、ルドルフ・ブラント、カール・ゲプハルトなどの側近たちとともにホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡していたが、5月22日、ブレーマーフェルデとハンブルクの間にあるバルンシュテット村のはずれで英国軍に拘束され、捕虜としてリューネブルクの捕虜収容所に送られた。
一兵卒の捕虜としての対応に業を煮やしたヒムラ―は、自らにまだその権威があると疑わず、収容所所長に対してハインリヒ・ヒムラーであると名乗り出たうえで、連合国側の上層部との政治的交渉を求め、その旨を取り計らうことを要求したが、勿論、その要求は拒否された。

 


5月23日、午後11時4分…自らの末路を悟り、シアン化物による服毒自殺で、ひっそりと息を引き取った。
その遺体は丸一日放置され…その後、軍葬も、宗教儀式もなく、3日後の26日の朝、英軍少佐以下4名によりリューネブルク近郊の森の中に埋葬されたが、その場所は明らかにされることはなかった。
奇しくも、ヒムラーは生前に…「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」と、語っていたのだとか…
正に、それを地で行くようなハインリヒ・ヒムラーという男の質素な最期であった。(享年44歳)

 

ヴィルヘルム・ブルクドルフ陸軍歩兵科大将は、ユストゥス・フォン・ドホナーニが演じている。
ブルクドルフは、陸軍人事局長およびヒトラーの主任副官という立場にあり、『映画のなかの“狐”たち』でも触れたが、彼はロンメルの自決に大きく関わった人物である。
“人事の人間”という偏見的なイメージもあったのかもしれないが、軍人間ではあまり評価は良くなかったようである。
既記の如く、脱出グループに加わることなく地下壕に残ったブルクドルフとクレブスは、2日早朝、ともに頭部を撃ち抜き拳銃自殺を図った。(享年50歳)

 

ハンス・クレブス歩兵科大将は、ロルフ・カニースが演じている。

戦争の最末期(1945年4月1日~5月1日)にOKH(陸軍総司令部)最後の陸軍参謀総長に任官したハンス・クレブス陸軍歩兵科大将は、かつてモスクワで大使館付武官の経験をもちロシア語も堪能であったこともあり、5月1日にヴァイトリングの参謀長であるテオドール・フォン・ダフィング陸軍大佐を伴い、白旗を掲げ、第8親衛軍の司令官ワシーリー・チュイコフ大将のもとにゲッベルスの“条件付き”降伏書簡を持って交渉に当たったが、他の連合国と合意が為されているように、ソ連も無条件降伏以外を受け入れることは出来ないとし交渉は決裂した。
その日の午後8時30分頃にゲッベルスが自殺したことで“条件付き”という障害が取り除かれたが、クレブスが再び交渉に赴くことはなかった。
脱出グループに加わることなく地下壕に残ったクレブスとブルクドルフは、2日早朝、ともに頭部を撃ち抜き拳銃自殺を図った。(享年47歳)
 

降伏交渉は、ベルリン防衛軍司令官であるヘルムート・ヴァイトリング陸軍砲兵科大将に委ねられることとなった。

 


ベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング砲兵科大将は、ミヒャエル・メンドルが演じている。
実際の雰囲気とは若干違うものの、劇中ではなかなかに魅力的に描かれているように思う。

 

1945年1月20日、ソ連軍は東プロイセンに侵攻し、遂にドイツ領内へ進撃した。
ベルリン防衛の強化を担い、2月2日付でベルリン防衛軍司令官に任官したブルーノ・フォン・ハオエンシルト陸軍中将だったが、2月中旬に重度のインフルエンザに罹患したため、3月6日付でヘルムート・ライマン陸軍中将が引き継ぐこととなった。

 

4月16日…モスクワ時間の午前5時…ベルリン時間の午前3時、暁の闇をついてソ連軍の砲門がいっせいに火を噴き、ベルリンの戦いは始まった。

10倍近い圧倒的な兵力差に苦戦を強いられるなか、ゲッペルス、ブルクドルフらと折り合いが悪かったライマンは、敗北主義的であり、防衛軍司令官として不適格であるとヒトラーに吹聴され4月22日付で解任された。

 


ヒトラーは、エルンスト・ケーター陸軍少将を陸軍中将に即時昇進させ、その後任に任命したが、結局、後任に就くことはなく(昇進も取り消し)、ヒトラー自身がエーリッヒ・ベーレンフェンガー陸軍中佐を陸軍少将に即時昇進させ、その“副司令官”とすることで一時的に引き継いでいる。

 


一方、ベルリン東部の防衛を担当していたヴァイトリングは、戦況悪化に伴う適宜対応としての後退が抗命罪に当たるとされ、銃殺刑を宣告されたが、劇中にもあるように、総統地下壕へ出頭し、ヒトラーに直接現状を訴えると、一転して銃殺刑は撤回され、23日付でベルリン防衛軍司令官に任命された。

 

24日までに、東と北から西進するゲオルギー・ジューコフ元帥率いる第1ベラルーシ戦線(第47軍、第2親衛戦車軍、第3突撃軍、第5突撃軍、第8親衛軍・第1親衛戦車軍、第3軍、第69軍)と、南から北上するイワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ戦線(第4親衛戦車軍、第28軍、第3親衛軍)により、ベルリン市の包囲は完了した。

25日、ヴァイトリングは、5個師団及び武装親衛隊の兵力4万5,000名、さらに補充要員として4万名からなる兵員を、ベルリン市街を“A”から“H”の8区画に分けて配備した。
総統官邸を含むベルリン官庁街地区には9個大隊(約2,000名)から為るヴィルヘルム モーンケSS少将を指揮官とするモーンケ戦闘団、グスタフ・クルッケンベルクSS少将を指揮官とする第33SS所属武装擲弾兵師団“Charlemagne”と第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の残存混成部隊を市の南東の防衛区(ヘルマンプラッツ地区)、ヴェルナー・ムンメルト陸軍少将を指揮官とするミュンヘベルク装甲師団をシュプレー川以西の市の南東とテンペルホーフ空港付近の防衛区、ハリー・ヘルマン空軍大佐を指揮官とする第9降下猟兵師団のベルリン内兵力を市の北側となるフンボルトハイン高射砲塔~シェーンハウザー・アレー地区、ヨーゼフ・ラオホ陸軍少将を指揮官とする予備の第18装甲擲弾兵師団をグルーネヴァルト付近に各々配備した。
但し、補充要員の4万名の多くはベルリン警察官、ヒトラーユーゲントなどの少年兵、および退役軍人などから為る国民突撃隊民兵といった、そのほとんどが実戦経験が皆無の寄せ集めの俄か部隊にすぎなかった。

 

だが、ベルリン市内での攻防戦は、ソ連軍側が思った以上に難航した。
その一助となったのが、第33SS所属武装擲弾兵師団“Charlemagne”に所属のフランス人、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”に所属のオランダ人、スウェーデン人、デンマーク人、ノルウェー人、第15SS所属武装擲弾兵師団(レットラント(=ラトビア)第1)に所属のラトビア人など、自国を敵に回して戦ってきた者たちの戻る場所のない必死必勝の捨て身の反攻によるところが大であった。

 

ソ連軍の両戦線はほぼ同時にベルリン市内に突入したが、29日の襲撃は失敗したものの、30日の夕方にはジューコフの部隊が帝国議事堂を先に占拠したため二人のベルリン争奪戦は事実上決着し、ジューコフは“勝利の将軍”の名声を得ることとなった。

 

ヴァイトリングは参謀長のフォン・ダフヴィングにチュイコフとの会談を手配させ、5月2日にチュイコフと第1ウクライナ戦線の参謀長ヴァシーリー・ソコロフスキー上級大将の命令に従い…午前8時23分、降伏文書に署名し、その後、戦闘を続ける各部隊に対して即時戦闘の中止を下達する旨の以下のような内容を街宣放送を行うと同時に各所に文書として配布し、午後3時をもって戦闘は終了した。

 

1945年4月30日、総統は自決なさり、忠誠を誓った我々を残したまま逝かれた。兵士諸君は総統命令に従い抵抗を続けてきたが、武器弾薬も尽きた今、これ以上の抵抗は無益である。即時、戦闘中止を命令する。戦闘を続けてもベルリン市民と負傷兵の苦しみを長引かせるだけである。ソ連軍最高司令部との合意に基づき、ここに命令する。即時、戦闘を中止せよ。 ヴァイトリング 元ベルリン防衛軍司令官

 

ヴァイトリングは、懲役25年の刑期中の1955年11月17日にウラジーミルの収容所にて動脈硬化により亡くなっている。(享年64歳)


ベルリン官庁街防衛地区司令官のヴィルヘルム・モーンケSS少将は、アンドレ・ヘンニッケが演じている。

 

 

ソ連軍に投降後、モーンケ、シェンクおよびモーンケ戦闘団の上級将校らは、チュイコフの許可を得て、第8親衛軍の参謀長による晩餐会に招待された。
午後10時30分、別室に案内され、そのまま幽閉され、翌3日の夜、モーンケらはNKVD(内務人民委員部)に引き渡され、尋問などを受けた後、ポーランドのルビャンカ刑務所に移送された。
6年間の監禁の後、モーンケはヴォイコヴォの将校捕虜収容所に移送され、1955年10月10日に釈放されている。
その後、バルスビュッテル(当時は西ドイツ)に移住し、小型トラックやトレーラーのディーラーとして従事、2001年8月6日に同地で亡くなっている。(享年90歳)

 

因みに、この写真はソ連軍に拘束された直後に撮られたものであるが、どう見てもまだ34歳の若者とは思えないような、その窶れ方、風貌からもベルリンを巡る攻防戦の苛烈さが窺い知れるのと同時に、どこか安堵感というものも垣間見られるようにも思える。



国防軍最高司令部(OKW)作戦本部長のアルフレート・ヨードル陸軍上級大将は、クリスチャン・レドルが演じている。

ニュルンベルク収監中に行われた知能テストでも127点という高得点であったヨードルは、俊秀の集まる参謀本部にあって主流を歩んできた有能な戦術家ではあったのだろうが、ヒトラーには逆らえず、結局はその戦術眼を活かすことは出来なかった。



フレンスブルク政府の大統領となったカール・デーニッツ大提督の命を受け、フランスでの降伏交渉に赴いたヨードル(中央)であったが、連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥の対応は厳しく、やむなく1945年5月7日午前2時38分に降伏文書に署名を行った。
※同席したハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将(右)とヨードルの副官ヴィルヘルム・オクセニウス陸軍参謀少佐(左)
 


5月23日にフレンスブルク近郊で英国軍に逮捕され、翌1946年10月1日のニュルンベルク裁判での判決において、四つの訴因全てで有罪となり、減刑を嘆願するも叶わず、10月16日午前1時10分から…自殺したゲーリングを除く主要戦犯10名の絞首刑が順次執行され、ヨードルは9番目の執行であった。
最期の言葉は「Ich grüße Dich, mein ewiges Deutschland(さらば、我が不滅なるドイツよ)」であった。(享年56歳)

 

総統秘書官兼副官のマルティン・ボルマンは、トーマス・ティーメが演じている。
ボルマンは、N.S.D.A.P.(ナチス)党官房長官であり、党の金庫番として大きな影響力を得るに至り、また総統秘書官兼副官としてヒトラーの影の如く、最側近で公私に渉り密接に関わり、ついにヒトラーに次ぐ権力者となっていた。
4月30日、ヒトラーは自らの死にあたり、遺言でボルマンを帝国党大臣(Reichsparteiminister)に任命し、その遺言の執行人に指名している。
ボルマンは5月1日23時、シュトゥンプフエッガーSS軍医中佐、全国青少年指導者アルトゥール・アクスマンらとともに第2グループとして総統官邸地下壕を脱出している。
シュプレー川に架かるヴァイデンダム橋を何とか渡り、ボルマンとシュトゥンプフェッガーらは線路に沿ってレアター駅方面へ向かうことにし、アクスマンとその副官らは別方向に向かううこととなり、そこで別れたという。
因みにアクスマンは、ベルリンからの脱出に成功し、“エーリヒ・ズィーヴェルト”の偽名で地下活動を行っていたが、米陸軍の防諜作戦によって発見され、リューベックで逮捕された。
1949年5月、ニュルンベルク裁判で3年3か月の懲役刑を宣告されている。(戦争犯罪に関しては無罪となった。)
釈放された後、アクスマンはビジネスマンとして成功し、1976年にベルリンに戻り、1996年10月24日に亡くなっている。(享年83歳)

話をボルマンに戻し…1963年、アルベルト・クルムノウと同僚のヴァーゲンプフォールの二人の元郵便局員が、1945年5月8日頃、レーアター駅(現在のベルリン中央駅)近くの鉄道橋の近くで見つかった二遺体を埋葬するようにとソ連軍に命じられたと語った。
一人はドイツ国防軍の制服を着ており、もう一人は下着だけを着ていて、その遺体がSS軍医のゾルトブーフ(俸給手帳)を所持していたころから、シュトゥンプフェッガーSS軍医中佐の遺体と推定された。(享年34歳)
その後、アクスマンや元郵便局員らの証言を基にした場所からの発掘調査では遺体は発見されず、永らくボルマンの海外逃亡説が信じられ、西ドイツ政府も1971年にボルマンの捜索を断念した。
ところが、1972年12月7日、クルムノウが埋葬したと主張した場所からわずか12m程のレーアター駅近くの建設現場で作業員がニ体の人骨を発見した。
剖検の結果、それらがボルマンおよびシュトゥンプフェッガーのものであると確認された。
また、両名の顎の骨格部分にガラス片が検出されたことから、もはや逃げ切れないと覚悟した両名がシアン化物のアンプルを嚙み砕いて自決に至ったものと断定されている。
1998年にドイツ当局によるDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが確定した。
ボルマンの遺灰は、1999年8月16日にバルト海に散骨されている。(享年44歳)

 

この映画には、実在した人物という…ある意味、絶対的な存在感をもつ登場人物たちの多いなか…登場するシーン、セリフこそ少ないが、ペーターと市街戦を共にする…三つ編みのブロンド少女…インゲ・ドンブロフスキ役のエレーナ・ツェレンスカヤ嬢の凛とした美しさが強く印象に残っているという方も少なくないのでは…

 

ベルリン脱出劇

ディートリヒ・ホリンダーボイマー演じるローベルト・リッター・フォン・グライム空軍上級大将(のち空軍元帥)とともに市街戦真っ只中の…総統官邸地下壕のヒトラーを訪ねるべくべルリンに向け飛んで来たハンナ・ライチュ女史はアナ・タールバッハが演じている。

 

 

 

ヒトラーへの背信行為を厳しく糾弾され、その逆鱗に触れたヘルマン・ゲーリングは、1945年4月23日付であらゆる職務・権限を剥奪された。
ヒトラーは、その後任に第6航空艦隊司令官のフォン・グライム空軍上級大将を25日付で空軍元帥に昇進させるとともにドイツ空軍最高司令官に任命した。


当初、グライムはジャイロプレーンでベルリンに向かうはずだったようだが、最後の1機となったジャイロも故障していたため、やむなく、その2日前にもアルベルト・シュペーア(軍需・軍事生産大臣)をベルリンに送り届けたという経験を持つ空軍曹長にパイロットを依頼した。
グライムの友人でもあり、専属パイロットでもあったライチュも強く同行を懇願。
結局、機種は操縦席の後に予備席のある“Fw190(フォッケウルフ)”が選ばれ、ライチュは非常ハッチから機体尾部に潜り込むかたちで搭乗し、26日未明にレヒリン=レルツ飛行場を飛び立った。
機は40機程の護衛をつけて、その時点で唯一独側の手にあったガート飛行場(到着と同時に空襲を受けるが…)まで何とか辿り着いた。
ガートからは“Fi156シュトルヒ(フィーゼラー)”に乗り換え、徒歩で地下壕まで歩ける地点に着陸することになった。
ブランデンブルク門上空にさしかかった時、グライムは右足に被弾し重傷を負う。
ライチュは肩越しから操縦桿を握り、何とか幹線道路に機を着陸させた。
着陸地点には重砲、軽火器の弾が降り注ぎ…その中を負傷したグライムに肩を貸しながらただひたすらに走った。
通りかかった車に飛び乗り、地下壕に命からがら辿り着いたのは午後6時を回っていたという。
ライチュによると“30日午後1時30分”…地下壕でヒトラーと運命を共にしたいと申し出た二人に対し、エルベ川東岸に布陣するヴァルター・ヴェンク陸軍装甲兵科大将率いる第12軍の進軍を、ドイツ空軍の全戦力をあげて援護せよ!という総統命令を伝えるため地下壕からの脱出を言い渡される。
ブランデンブルク門付近に隠されていた“アラド96型”(ベルリンに残された最後の1機だったとライチュは主張…)で門から続く幅の広い道路を滑走路代わりにして、機は砲弾の降り注ぐなか北に進路を取りレヒリンに向かった。
レヒリンでも砲撃は受けたものの、二人は何とか無事に帰着することが出来たのである。
(※レヒリン=レルツ飛行場には、ドイツ空軍の実験試験施設…空軍実験センターがあり、当時、同様の施設はドイツ国内に4ヶ所あり、レヒリンにはその本部が置かれていた。)

 

ベルリンから脱出した後、グライムとライチュは、オーストリア/チロル州の都市であるキッツビューエルにおいて5月8日に米軍に逮捕されている。
グライムは、移送されたザルツブルクの刑務所に収監中の5月24日、隠し持っていたシアン化物(地下壕にてヒトラーから貰った物)により自殺している。(享年52歳)

ライチュは、15ヶ月間の拘留の末に釈放され、戦後も飛行家としてぶれることなく精力的に活動している。
ライチュの家族には悲しいエピソードも伝わっている。
ソ連軍の侵攻に先立ち、ポーランド南西部の下シレジア地方の都市であるヒルシュベルク(Hirschberg=イェレニャ・グラ(Jelenia Góra))からザルツブルクに避難したライチュの家族は、ドイツの降伏後は、ソ連占領地域に連れ戻され過酷な難民生活を強いられるとの噂を聞き、1945年5月3日の夜、ライチュの父親は、母親と妹…妹の3人の子供たちを射殺してから自殺している。
生涯独身を貫いたライチュは、心臓発作により1979年8月24日にフランクフルトで亡くなっている。(享年67歳)