ある知人がお付き合いしている方と

お別れしたという。

 

去年のクリスマス直前に

お別れしたらしい。

 

 

前回記事にしたように

「お悔やみの言葉が言えない」自分は

 

こういうトキにも

気の利いた言葉が言えないでいる。

 

 

▼▼▼

 

 

どちらからの

お別れ宣言かもわからないし

お別れした理由も知らない

 

 

ただ、

 

「カラダの調子はどうですか?」

 

としか言えなかった次第。

 

 

話の内容から察するに

 

相手の方から

別れの提案をされたように感じた。

 

 

「クリスマス直前に別れなくても...」

「孤独に慣れない」

 

 

知人は元から

大勢で集まって

 

パーチぃー的なことをよくやっていて

主催もしているような方。

 

567騒動以降、

パーティー開催は控えていたが

徐々に集まりだしたという。

 

 

そんなパーチぃーの帰り道、

パーチぃーとは真逆の

パーチぃーからはるか遠い彼方に

生息しているヒトに連絡がきた。

 

 

 

 

『孤独は山になく街にある』

 

....と語ったのは誰であったか。

 

 

検索サクサクサクってみた。

 

 

 

 

 

『孤独は山になく、街にある。

1人の人間にあるのではなく、

大勢の人間の『間』にある。』

 

 

 

考察

山籠もりしている人間が一人いたとしたら、街中で毎日どんちゃん騒ぎして、あるいは家族団らんとして食事を食べる人間と比べた時、彼は、『孤独』なのだろうか。それとも、違うのだろうか。

 

 

エマーソンは言った。

 

『世間一般の考えに従って生活することはごく易しい。また、自分の事だけ考えて孤独の生活を送る事もごく易しい。 だが悟りを開いた人間とは、群集の真っ只中にありながらも、自立の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間である。』

 

つまり、山籠もりしている彼も、街で群衆の真っただ中にありながらも、自分の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間も、『孤独』ではなく、『孤高』なのだ。『主体性』があるからである。短絡的にはいかないことはわかった。では、『間』とは何だろうか。

 

 

 

 

『孤独は山になく街にある』

 

この「山」とは独りでいる状態

「街」とは人と人との間で生きている状態

 

....らしい。

 

 

注目を浴び続けた人間が

世間とのつながりを絶たれたトキ

孤独に襲われるという

 

「定年うつ」という言葉があるように

自分から肩書きがなくなり

生きがいもやりがいもやることも失ったトキ

孤独に襲われると聞いたこともある。

 

 

 

そもそも我々は、

 

「自我」が芽生えてから

全体(神、宇宙)から切り離されたと

錯覚してこれまで生きてきた。

 

それはそれは「孤独」を感じることだろう。

 

子どもの頃、

お母さんとずっと離れずに繋いでいた手が

 

急に離れてしまい

迷子になってしまったトキの

恐怖感、孤独感

 

 

お母さんと一緒ならば怖くない

真っ暗闇の夜の公園も

 

お母さんの手が離れた瞬間、

おぞましい恐怖がやってきて

あっという間にホラーとなる。

 

 

 

_____

 

 

 

 

自分ひとりで

なんとかしなくてはならなくて

 

自分ひとりで

自分も家族も護らねばならなくて

 

自分ひとりで

正しい道を歩まねばならない

 

間違ってはいけない

失敗してはいけない

後ろ指さされてはいけない

 

.....と思い込んでいる。

 

それは恐怖以外のナニモノでもない。

 

 

〜べき、〜ねば

 

と尻を叩いているのは誰か。

 

 

 

 

「あなたは決して独りではない」

 

...とは、

 

気休めでも

その場限りの安心でもなく

 

真実なのである。

 

 

あなたもわたしも決して独りではない

 

 

 

 

 

 

自我(思考、頭の中)さんが

 

自分は孤独だ、ひとりぼっちだ

さびしいさびしいさびしい....

と大騒ぎしているだけ。

 

 

つながりは絶たれていない

 

ずっと繋がっている

 

だいじょうぶだ

 

 

今日は以上です。

ありがとうございました。