今年の2月4日(立春)
真夜中に静かに坐っていると
ちょっとした一種の
至福体験をしたのだけれど
過去にも何度か経験はあるのだが
今回はなんだかしばらくソレが続いた。
しばらくズーーーーーっと
現実味がなく
ふわふわしている感じ。
第三の眼的なモンが
カーーーーッと開きまくっている感じ。
そこから息子発熱で
元に戻ってきてしまったのだけれど。
数年前に体験したこと
ソレがのちに
「一瞥体験」とか
「覚醒体験」ということを知った。
ブログではその体験を書くことが
恥ずかしくて
どうしても書けなかった。
自分は悟ったのだ、覚醒したのだ、
といい気になって書きそうで
ソレが今後
己の最大の恥となるのを知っていたから。
禅の修行中であるならば
お師匠にバチコーン!と
はたかれる案件。
「『自分』が?覚醒しただと?
『自分』とはなんだ?どこにいる?
出直してこーーい!!」案件。
悟りとか覚醒とか
自分がしたのではなく
ただその『体験』があっただけなのである。
立春の日に起きてきた「体験」は
過去のものとも違っていて
わかっていたつもりだったけど
全然わかっていなかったのだな〜
となったし、
まだまだ「自分が自分が」という
「自分教」の勢いが強いのは確か。
▼▼▼
いい気になって
「自分は悟った」だの「覚醒した」だの
調子こいた状態を
禅の世界では
『魔境』に入る
というらしい。
魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘[誰?]もある。
概要
臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。
実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見[誰?]もある。
自分はすごい人間だ.....
と思い込んでしまう魔境。
ちょーーーーーこーーーーわいっ!!!!
誰もが陥る可能性大の魔境。
そりゃそうだ。
とんでもない世界を視ちゃうのだから。
自分はこれから勝手に
ひとり修行に入るとする。
口で言うのはカンタンだが
行動はとてつもなく難しい。
でもやる。
気づいて気づいて気づく。
怒りが湧いても
悲しみがやってきても
己の反応に気づいている。
(怒りも悲しみも打ち消さない)
他人の言動行動がどうであろうと
ただソレを視る視る視る。
いちいち判断してもいいが
判断している己に気づいていること。
人生はどこにも向かっておらず
いま、ソレが起きているだけ。
今日は以上です。
ありがとうございました。