3.5.0 4D-WC
3.5.0
「その方は重要参考人ですか?」
「事件には不可解な点が残っているとの情報が入っているのですが」
「職員の方々は不安ではないですか?」
向かって左側から赤、白、青のそれぞれダウンジャケットが並ぶ。それぞれから繰り出されるマイクと質問の応酬を軽快なフットワークでかわし、御影千種(みかげちぐさ)は諦めない記者やレポータを目一杯睨み付ける。
余裕があればフランス三兄弟とでも名付けたいところだが、当然、無理な注文だ。
「話すことは何もないですから!どいて!」
と叫ぶのがせいぜいである。
全く、日本語で話し掛けてくるくせに、こっちの日本語はまるで伝わらない。
「御影、早く乗せろ!」運転席から怒号が飛ぶ。
「分かってます!」
「僕は、後ろですか」
と項垂れ気味の男は、状況に似合わぬ落ち着いた発声で尋ねる。千種は答えず、覆面パトカーの後ろのドアを開け、無言で乗り込むよう相手に促す。肝の据わった容疑者だ。
「あの、一言だけでも!」
「質問取材は、記者会見の際にお願いします!」
「今、お話が聞きたいんですーー」
千種の眼光にも負けず、赤ダウン野郎が食い下がる。
「御影、相手すんな、出すぞ!」
その声の勢いに便乗して、記者の男のマイクごと挟むつもりでドアを閉める。後部座席の男も既に、無事乗り込んだようだ。
「お願いします!」
「よっしゃ!千種、赤色灯、出してくれ。すっかり、忘れてた」
車が動き出すと同時に、助手席側の側面部分の硝子に貼り付いていた記者の顔が離れ、みるみるうちに事件現場のビルが遠ざかっていく。
千種は一つ、安堵の息を吐く。
容疑者を連行するというほんの短い間だったが、手袋をしていない手先は既にかじかみ気味だ。車内は暖房が効いていて、暖かい。助手席からバックミラー越しに後部座席を確認したが、男は殆ど動かない。蒼白な唇と、光を鈍らせた瞳孔は熱を失っており、まるで車内の温度を下げているのかと錯覚するほどだった。
「ご苦労さん」右の掌のみで器用にハンドルを右に切りながら、石巻慎治(いしまきしんじ)は千種を労った。「寒かったろう」
その低い声は、いつも千種を落ち着かせる。それは声そのものというよりは、彼が併せ持つ、品のある優しさという気質のせいだと気が付いたのは、割合最近のことだ。
「いえ、運転手なんて、巡査部長殿に正月明けにやらせる仕事でもないのに、申し訳ありません」
「それ、厭味か?……まあいっか、どうせ家にいてもすることないしな」
そう呟き、運転手は軽く鼻を鳴らす。
千種は、石巻のその言葉は優しい嘘だ、と思う。彼は年末まで別のヤマを追っていた。そしてそのまま家族とは別々のまま捜査中に新年を迎え、やっと調べが一段落して、先週末に遅めの正月を迎えていた筈だったのだ。家族サービスの途中で抜け出してきたのに違いない。
もっとも、その優しさは刑事にとって良いことばかりでもない。彼が年齢の割に、未だ巡査部長に留まっていること自体が、その証左の断片と言える。例えば彼の上司である堂山という男は石巻より年下だが、去年の春に係長へと昇進を遂げている。また年末のヤマに関しても、堂山係長はメインで担当していたにも関わらず、大晦日と三箇日は「子供からの我が儘」を切り札としてちゃっかり休んでいた。
石巻巡査部長には、そういうことはできない。
そんなことを脳裏に浮かべながら前に向き直ると、目の前の風景が、縦一列に整列した、退屈をもてあます乗用車のパレードに変わった。堂山係長からの事前情報によれば、公安が被疑者確保のため交通規制を掛けているらしく、そのことが年明けの渋滞の列を余計に増長させていた。
「混んでるな、やっぱ」石巻は前方を見たまま話す。「果たして帰れるかね、これは」
「帰りたいですね」
「そりゃ、帰りたいわな、誰だって。なんで正月早々、現場の近くで待ちぼうけせないかん」
そう言って石巻は小さく首を振る。
それにしても、警視庁に戻れるのは、一体いつになるんだろう。
「……巡査部長、煙草吸っても良いですか?」
「あれ、お前、吸うんだ。知らんな、お前のそういう姿」
「苛々したときに、たまに吸うんです」
話しながらコートの内ポケットの中を探るが、出てこない。
「そんなにカリカリすんなよ、正月なんだし」
「いえ……やっぱり、ブンキシャとか、ああいうのは、苦手ですね」
「うん?ああ、そうか、でも、仕方ないわな、それも刑事の仕事だと思わんと」
「ああそうだ巡査部長、赤、白、青ときたら、何を想像します?」
「いきなり何なんだよ」と諭すような口調で突っ込み、石巻は眉を顰める。「オランダだろ」
「オランダ?フランスじゃなくてですか?」
「フランスじゃないだろ……うん?どうだっけか」
「あれ、フランスって、緑が入ってました?」
「いや、それはイタリアだ……御影、煙草、吸わんのか」
「探してるんですけど、見つからなくて……そうか、オランダという手もあったか。いやですね、さっきの記者、3人の上着の色がその色だったんで」
「そんなこと考えながら記者をあしらうなんて、意外と余裕だな、お前なら大丈夫だよ。全然、苦手じゃない」
「え?ああ、そうですかね、そう言われれば」
「もっと、自信持ってもいいんじゃないか?」一瞬だけこちらを向き、石巻は微笑む。
ありがたいけど、少し、恥ずかしい。
「後ろの席、暖房、効き過ぎじゃないですか?」
反射的に後部座席を振り返り、被疑者の男の様子を窺う。
「ーー大丈夫です」
暫くの沈黙の後、体格に似合わぬ、か細い声。下を向いたままなので表情は判別できない。
「そうですか、何かあれば、また、言って下さい」
また少し待ったが、返事がなかったので諦めて元の姿勢に戻る。
「お前さんよお、なんか、スポーツ、やってたのかね」
ハンドルから少し手を離し、石巻が少し大きめの声で言った。その視線は、バックミラーに注がれている。相変わらず、渋滞した列は殆ど前に進まない。
「……スポーツというか、自転車が好きなんです」
突然質問した石巻にも、それに返答した被疑者にも驚いた。
「自転車、ほお、レースとか、出るのか」
「娘ができるまでは、出てました。最近は、忙しかったので」
「そうかあ、子供は娘さん一人?」
「……ええ」
「巡査部長、ここじゃ調書が取れないんですから、取調室まで待ちましょうよ」
「単なる雑談だよ、雑談」石巻は左手で頭を掻く。「かたっくるしいこと言うなよ、御影。それがお前の良いとこでもあるんだけども」
「はい」その時、座席の下に漸く煙草の箱を見つけた。今まで踏んでいて気が付かなかったのだ。
「そのかわいい一人娘を、どうして手に掛けた?」
「巡査部長!」
不意に出た叫び声を、石巻はまた渋い顔をして受け流す。「雑談だよ、あくまで雑談。どうせ細かい話は後で確認しなきゃならんし、渋滞だって動かないんだから、この方が効率的だろ?」
「しかし……」
「最初に報告を受けたとき、あんたは『娘は俺が殺したようなもんだ』って、そう言ったそうじゃないか。じゃあ、本当は殺してないのか?殺してないのに、どうして、警察に連れて行かれようとしてるんだ、お前さん」
知っている。
その質問に対する正しい答を、勿論、石巻は知っている。
問題は、被疑者である依野が、どう考えているかなのだ。
「……分かりません」
「分からないのに、どうして、この車に乗った?」
「それも、……分かりません」躊躇うでもなく、淡々と、返答する。
「お前、事件の夜のこと、覚えているのか、自分が何をしていたのか」
「とても、記憶が曖昧なんです」
「ふん、それは、クスリのせいなんだろ?」
核心に迫った、と千種は感じた。
依野からの、返事はなかった。
それこそが、答だった。
「御影」
「はい?」
いきなり話し掛けられ、戸惑う。
「何ですか、煙草、一本吸います?」
「違うよ、早く出せよ」
「出すって、何をです?」
「赤色灯だよ、やっぱり、急いで戻って取り調べだわ」
「その方は重要参考人ですか?」
「事件には不可解な点が残っているとの情報が入っているのですが」
「職員の方々は不安ではないですか?」
向かって左側から赤、白、青のそれぞれダウンジャケットが並ぶ。それぞれから繰り出されるマイクと質問の応酬を軽快なフットワークでかわし、御影千種(みかげちぐさ)は諦めない記者やレポータを目一杯睨み付ける。
余裕があればフランス三兄弟とでも名付けたいところだが、当然、無理な注文だ。
「話すことは何もないですから!どいて!」
と叫ぶのがせいぜいである。
全く、日本語で話し掛けてくるくせに、こっちの日本語はまるで伝わらない。
「御影、早く乗せろ!」運転席から怒号が飛ぶ。
「分かってます!」
「僕は、後ろですか」
と項垂れ気味の男は、状況に似合わぬ落ち着いた発声で尋ねる。千種は答えず、覆面パトカーの後ろのドアを開け、無言で乗り込むよう相手に促す。肝の据わった容疑者だ。
「あの、一言だけでも!」
「質問取材は、記者会見の際にお願いします!」
「今、お話が聞きたいんですーー」
千種の眼光にも負けず、赤ダウン野郎が食い下がる。
「御影、相手すんな、出すぞ!」
その声の勢いに便乗して、記者の男のマイクごと挟むつもりでドアを閉める。後部座席の男も既に、無事乗り込んだようだ。
「お願いします!」
「よっしゃ!千種、赤色灯、出してくれ。すっかり、忘れてた」
車が動き出すと同時に、助手席側の側面部分の硝子に貼り付いていた記者の顔が離れ、みるみるうちに事件現場のビルが遠ざかっていく。
千種は一つ、安堵の息を吐く。
容疑者を連行するというほんの短い間だったが、手袋をしていない手先は既にかじかみ気味だ。車内は暖房が効いていて、暖かい。助手席からバックミラー越しに後部座席を確認したが、男は殆ど動かない。蒼白な唇と、光を鈍らせた瞳孔は熱を失っており、まるで車内の温度を下げているのかと錯覚するほどだった。
「ご苦労さん」右の掌のみで器用にハンドルを右に切りながら、石巻慎治(いしまきしんじ)は千種を労った。「寒かったろう」
その低い声は、いつも千種を落ち着かせる。それは声そのものというよりは、彼が併せ持つ、品のある優しさという気質のせいだと気が付いたのは、割合最近のことだ。
「いえ、運転手なんて、巡査部長殿に正月明けにやらせる仕事でもないのに、申し訳ありません」
「それ、厭味か?……まあいっか、どうせ家にいてもすることないしな」
そう呟き、運転手は軽く鼻を鳴らす。
千種は、石巻のその言葉は優しい嘘だ、と思う。彼は年末まで別のヤマを追っていた。そしてそのまま家族とは別々のまま捜査中に新年を迎え、やっと調べが一段落して、先週末に遅めの正月を迎えていた筈だったのだ。家族サービスの途中で抜け出してきたのに違いない。
もっとも、その優しさは刑事にとって良いことばかりでもない。彼が年齢の割に、未だ巡査部長に留まっていること自体が、その証左の断片と言える。例えば彼の上司である堂山という男は石巻より年下だが、去年の春に係長へと昇進を遂げている。また年末のヤマに関しても、堂山係長はメインで担当していたにも関わらず、大晦日と三箇日は「子供からの我が儘」を切り札としてちゃっかり休んでいた。
石巻巡査部長には、そういうことはできない。
そんなことを脳裏に浮かべながら前に向き直ると、目の前の風景が、縦一列に整列した、退屈をもてあます乗用車のパレードに変わった。堂山係長からの事前情報によれば、公安が被疑者確保のため交通規制を掛けているらしく、そのことが年明けの渋滞の列を余計に増長させていた。
「混んでるな、やっぱ」石巻は前方を見たまま話す。「果たして帰れるかね、これは」
「帰りたいですね」
「そりゃ、帰りたいわな、誰だって。なんで正月早々、現場の近くで待ちぼうけせないかん」
そう言って石巻は小さく首を振る。
それにしても、警視庁に戻れるのは、一体いつになるんだろう。
「……巡査部長、煙草吸っても良いですか?」
「あれ、お前、吸うんだ。知らんな、お前のそういう姿」
「苛々したときに、たまに吸うんです」
話しながらコートの内ポケットの中を探るが、出てこない。
「そんなにカリカリすんなよ、正月なんだし」
「いえ……やっぱり、ブンキシャとか、ああいうのは、苦手ですね」
「うん?ああ、そうか、でも、仕方ないわな、それも刑事の仕事だと思わんと」
「ああそうだ巡査部長、赤、白、青ときたら、何を想像します?」
「いきなり何なんだよ」と諭すような口調で突っ込み、石巻は眉を顰める。「オランダだろ」
「オランダ?フランスじゃなくてですか?」
「フランスじゃないだろ……うん?どうだっけか」
「あれ、フランスって、緑が入ってました?」
「いや、それはイタリアだ……御影、煙草、吸わんのか」
「探してるんですけど、見つからなくて……そうか、オランダという手もあったか。いやですね、さっきの記者、3人の上着の色がその色だったんで」
「そんなこと考えながら記者をあしらうなんて、意外と余裕だな、お前なら大丈夫だよ。全然、苦手じゃない」
「え?ああ、そうですかね、そう言われれば」
「もっと、自信持ってもいいんじゃないか?」一瞬だけこちらを向き、石巻は微笑む。
ありがたいけど、少し、恥ずかしい。
「後ろの席、暖房、効き過ぎじゃないですか?」
反射的に後部座席を振り返り、被疑者の男の様子を窺う。
「ーー大丈夫です」
暫くの沈黙の後、体格に似合わぬ、か細い声。下を向いたままなので表情は判別できない。
「そうですか、何かあれば、また、言って下さい」
また少し待ったが、返事がなかったので諦めて元の姿勢に戻る。
「お前さんよお、なんか、スポーツ、やってたのかね」
ハンドルから少し手を離し、石巻が少し大きめの声で言った。その視線は、バックミラーに注がれている。相変わらず、渋滞した列は殆ど前に進まない。
「……スポーツというか、自転車が好きなんです」
突然質問した石巻にも、それに返答した被疑者にも驚いた。
「自転車、ほお、レースとか、出るのか」
「娘ができるまでは、出てました。最近は、忙しかったので」
「そうかあ、子供は娘さん一人?」
「……ええ」
「巡査部長、ここじゃ調書が取れないんですから、取調室まで待ちましょうよ」
「単なる雑談だよ、雑談」石巻は左手で頭を掻く。「かたっくるしいこと言うなよ、御影。それがお前の良いとこでもあるんだけども」
「はい」その時、座席の下に漸く煙草の箱を見つけた。今まで踏んでいて気が付かなかったのだ。
「そのかわいい一人娘を、どうして手に掛けた?」
「巡査部長!」
不意に出た叫び声を、石巻はまた渋い顔をして受け流す。「雑談だよ、あくまで雑談。どうせ細かい話は後で確認しなきゃならんし、渋滞だって動かないんだから、この方が効率的だろ?」
「しかし……」
「最初に報告を受けたとき、あんたは『娘は俺が殺したようなもんだ』って、そう言ったそうじゃないか。じゃあ、本当は殺してないのか?殺してないのに、どうして、警察に連れて行かれようとしてるんだ、お前さん」
知っている。
その質問に対する正しい答を、勿論、石巻は知っている。
問題は、被疑者である依野が、どう考えているかなのだ。
「……分かりません」
「分からないのに、どうして、この車に乗った?」
「それも、……分かりません」躊躇うでもなく、淡々と、返答する。
「お前、事件の夜のこと、覚えているのか、自分が何をしていたのか」
「とても、記憶が曖昧なんです」
「ふん、それは、クスリのせいなんだろ?」
核心に迫った、と千種は感じた。
依野からの、返事はなかった。
それこそが、答だった。
「御影」
「はい?」
いきなり話し掛けられ、戸惑う。
「何ですか、煙草、一本吸います?」
「違うよ、早く出せよ」
「出すって、何をです?」
「赤色灯だよ、やっぱり、急いで戻って取り調べだわ」
3.4.0 4D-WC
3.4.0
「年明けの最高学府で、殺人事件です」
スクリーンの照り返しの向こう側、報道センターの中。
女性アナウンサーが、理知的な表情を崩さず話し始める。
「今朝未明、T大内の研究施設、国立情報学研究センターで、女性の遺体が発見されました。被害者は依野悦吏子さん、十七歳。殺害方法など、詳しいことは不明ですが、被害者の女性は都内の高校に通う高校生であり、なぜこのような大学の研究施設の中にいたのかは謎に包まれています。警察は被害者の痕跡、また現場に残された状況から、慎重に調べを続けています。凶器が見つかっているという情報は、今のところありません」
そのニュースは、そこまでだった。
女性アナウンサーが続けて次のニュースを読み出したタイミングで、松木はテレビから目を逸らす。
今は、彼一人。
国立情報学研究センター内、八階にある小食堂の大きなソファに腰掛けていた。
二階にも食堂があるが、こちらは食事を取ると言うよりは、喫茶店の趣である。但し今は事件のせいもあり、店員もいない。普段、休みたくなるとここに来るので松木は八階まで上がってきた。不思議と、警察官に咎められることもなかった。
何となく物寂しいので、備え付けのテレビの電源を入れてぼんやりと眺めていると、偶然なのか事件のニュースが報じられるのを目の当たりにすることとなった。
松木はアナウンスの内容を思い出す。
先程警察に連れて行かれた、被害者の父親、依野という男。彼の話は一切出てこなかった。そもそも依野がここで死んでいた女性を自分の娘だと証言して、結果的に警察へ向かってからまだ約一時間。そんな短い時間では情報がマスコミに流れる暇がないのかも知れない。
松木の精神状態は、自覚する限りでは、極めて奇妙だ。上司の片牧主任ではないにしろ、神経が昂ぶっているのを明確に察知できる。事件のことを考えたかった。誰かと事件の話をしたかった。片牧は自分の友人である依野が参考人として扱われたことがショックだったのだろう、仕事場のフロアに着くなり、ディスプレイを見つめたまま、松木の問いかけには生返事しか返さなくなってしまった。
片牧主任って、非常時には、こうなるんだな。
他人事のようにそう感じた。
そして、自分は、何も話ができなくなるんだな、と分かった。
口が、動かなくなるのだ。
そう、依野が写真を見て、「これは自分の娘だ」と言った瞬間がとても遠く感じられる。
しかし実際には、それから一時間半しか経っていない。
被害者の素性が分かった途端、目の前の警官が、こちらを見る目が変わった。三人はそのまま部屋を出てエレベータに乗るように促された。勿論、車椅子を見つけた奥にある一基だけのエレベータではなく、センターの入口に近い四基のうちの一つだ。
エレベータの内側には、床にも壁にも天井にも、白いシートが被せられ、工事中か引越作業中のような状態だった。よく分からないが、証拠を消さないためだろうか。
「えっと、これから念のためですが、実際の遺体の顔を見て、お嬢さんであることを改めて確認してもらいます」
警官は高めの声でそう告げる。
三人とも、無言で頷くのが精一杯だった。
エレベータの階数表示に、自然と目が行く。
七、
八、
九。
横目で見た依野は、真正面、エレベータのドアを見つめたままだ。
というより、どこも見ていないのかも知れない。
十二、
十三、
十四。
片牧主任は、口を半開きにしている。
思わず自分もそうなっていないか確認する。
十六、
十七、
——チン。
「先に、依野さん、降りて下さい」
何故か、警官はそう言った。依野はやはり無表情のまま、その指示に従ってエレベータから出た。
制服を着ていた作業員が何人か立ち上がり、警官に会釈をする。
流石に、廊下にまでシートが敷いてあったりはしないようだ。
依野を先頭に、片牧、松木、そして最後に警官が続く。
嗚呼、見張られているのか、と感じる。
そして廊下を突き当たり、奥のエレベータホールが見えてきたところで、依野は突然立ち止まり、列全体も廊下の途中で停止した。
……あれか。
人が横たわっている。白いシーツを掛けられているが、人間の形が浮き出ていて、余計に不気味だ。
「大丈夫ですか、依野さん」
「はい、ええ、大丈夫だと思います」
という言葉の弱々しさを感じ取ったのだろう、警官が三人を追い越し、今度は率先して先頭に立つ。
「おつらいでしょうが、必要なことです、行きましょう」
ゆっくりと、歩く、依野の項垂れた後ろ姿。
片牧と松木は、廊下で待つ。
警官は屈み込み、白いシーツの頭らしき部分を捲る。
松木は、直立のまま、それを見ている。
警官は、シーツの端を摑んだまま、相手の反応を、待っている。
数秒経った。
その時だった。
すっ、と依野が警官の頭の位置までしゃがみ込み、そのまま警官の胸ぐらを摑み、再度立ち上がった。
「依野くん」
「なあ、なんで、こんなことになってんだよ」
「よりの、さん、落ち着いて下さい」
「教えろよ」
「ちょっと、」
強い、衝撃音。
警官は、廊下側の壁に押さえつけられる格好となっていた。
松木は、動けなかった。
片牧は咄嗟に走り出し、「やめて!」とだけ叫び、依野を警官から引き離そうとした。
だが、空しいだけの抵抗だった。
言葉にならない叫び声と嗚咽を合図に、依野は崩れ落ちた。
一瞬の、出来事だった。
身体が震えるのを抑え、次の瞬間、松木は息をする感覚を思い出す。
「こんなの」
「こんなの、俺が殺したようなもんだ」
「え?」
警官と、片牧の驚きがほぼ同時、廊下にこだまする。
「悦吏子は、俺が、殺した、のも同じなんです」
ぜいぜいという息遣い、遠慮無く吐かれる唾の中、依野は、警官を見据え、そうはっきりと告白した。
「年明けの最高学府で、殺人事件です」
スクリーンの照り返しの向こう側、報道センターの中。
女性アナウンサーが、理知的な表情を崩さず話し始める。
「今朝未明、T大内の研究施設、国立情報学研究センターで、女性の遺体が発見されました。被害者は依野悦吏子さん、十七歳。殺害方法など、詳しいことは不明ですが、被害者の女性は都内の高校に通う高校生であり、なぜこのような大学の研究施設の中にいたのかは謎に包まれています。警察は被害者の痕跡、また現場に残された状況から、慎重に調べを続けています。凶器が見つかっているという情報は、今のところありません」
そのニュースは、そこまでだった。
女性アナウンサーが続けて次のニュースを読み出したタイミングで、松木はテレビから目を逸らす。
今は、彼一人。
国立情報学研究センター内、八階にある小食堂の大きなソファに腰掛けていた。
二階にも食堂があるが、こちらは食事を取ると言うよりは、喫茶店の趣である。但し今は事件のせいもあり、店員もいない。普段、休みたくなるとここに来るので松木は八階まで上がってきた。不思議と、警察官に咎められることもなかった。
何となく物寂しいので、備え付けのテレビの電源を入れてぼんやりと眺めていると、偶然なのか事件のニュースが報じられるのを目の当たりにすることとなった。
松木はアナウンスの内容を思い出す。
先程警察に連れて行かれた、被害者の父親、依野という男。彼の話は一切出てこなかった。そもそも依野がここで死んでいた女性を自分の娘だと証言して、結果的に警察へ向かってからまだ約一時間。そんな短い時間では情報がマスコミに流れる暇がないのかも知れない。
松木の精神状態は、自覚する限りでは、極めて奇妙だ。上司の片牧主任ではないにしろ、神経が昂ぶっているのを明確に察知できる。事件のことを考えたかった。誰かと事件の話をしたかった。片牧は自分の友人である依野が参考人として扱われたことがショックだったのだろう、仕事場のフロアに着くなり、ディスプレイを見つめたまま、松木の問いかけには生返事しか返さなくなってしまった。
片牧主任って、非常時には、こうなるんだな。
他人事のようにそう感じた。
そして、自分は、何も話ができなくなるんだな、と分かった。
口が、動かなくなるのだ。
そう、依野が写真を見て、「これは自分の娘だ」と言った瞬間がとても遠く感じられる。
しかし実際には、それから一時間半しか経っていない。
被害者の素性が分かった途端、目の前の警官が、こちらを見る目が変わった。三人はそのまま部屋を出てエレベータに乗るように促された。勿論、車椅子を見つけた奥にある一基だけのエレベータではなく、センターの入口に近い四基のうちの一つだ。
エレベータの内側には、床にも壁にも天井にも、白いシートが被せられ、工事中か引越作業中のような状態だった。よく分からないが、証拠を消さないためだろうか。
「えっと、これから念のためですが、実際の遺体の顔を見て、お嬢さんであることを改めて確認してもらいます」
警官は高めの声でそう告げる。
三人とも、無言で頷くのが精一杯だった。
エレベータの階数表示に、自然と目が行く。
七、
八、
九。
横目で見た依野は、真正面、エレベータのドアを見つめたままだ。
というより、どこも見ていないのかも知れない。
十二、
十三、
十四。
片牧主任は、口を半開きにしている。
思わず自分もそうなっていないか確認する。
十六、
十七、
——チン。
「先に、依野さん、降りて下さい」
何故か、警官はそう言った。依野はやはり無表情のまま、その指示に従ってエレベータから出た。
制服を着ていた作業員が何人か立ち上がり、警官に会釈をする。
流石に、廊下にまでシートが敷いてあったりはしないようだ。
依野を先頭に、片牧、松木、そして最後に警官が続く。
嗚呼、見張られているのか、と感じる。
そして廊下を突き当たり、奥のエレベータホールが見えてきたところで、依野は突然立ち止まり、列全体も廊下の途中で停止した。
……あれか。
人が横たわっている。白いシーツを掛けられているが、人間の形が浮き出ていて、余計に不気味だ。
「大丈夫ですか、依野さん」
「はい、ええ、大丈夫だと思います」
という言葉の弱々しさを感じ取ったのだろう、警官が三人を追い越し、今度は率先して先頭に立つ。
「おつらいでしょうが、必要なことです、行きましょう」
ゆっくりと、歩く、依野の項垂れた後ろ姿。
片牧と松木は、廊下で待つ。
警官は屈み込み、白いシーツの頭らしき部分を捲る。
松木は、直立のまま、それを見ている。
警官は、シーツの端を摑んだまま、相手の反応を、待っている。
数秒経った。
その時だった。
すっ、と依野が警官の頭の位置までしゃがみ込み、そのまま警官の胸ぐらを摑み、再度立ち上がった。
「依野くん」
「なあ、なんで、こんなことになってんだよ」
「よりの、さん、落ち着いて下さい」
「教えろよ」
「ちょっと、」
強い、衝撃音。
警官は、廊下側の壁に押さえつけられる格好となっていた。
松木は、動けなかった。
片牧は咄嗟に走り出し、「やめて!」とだけ叫び、依野を警官から引き離そうとした。
だが、空しいだけの抵抗だった。
言葉にならない叫び声と嗚咽を合図に、依野は崩れ落ちた。
一瞬の、出来事だった。
身体が震えるのを抑え、次の瞬間、松木は息をする感覚を思い出す。
「こんなの」
「こんなの、俺が殺したようなもんだ」
「え?」
警官と、片牧の驚きがほぼ同時、廊下にこだまする。
「悦吏子は、俺が、殺した、のも同じなんです」
ぜいぜいという息遣い、遠慮無く吐かれる唾の中、依野は、警官を見据え、そうはっきりと告白した。
3.3.0 4D-WC
3.3.0
非常時というのは、言わば、分岐点である。
事態が悪くなるリスクを見越し、準備を行う。
事態が悪化しなくても、相応の対応が必要になる。
「常に最悪を考えよ」とは、誰の忠告だったのか、小石川巧には思い出せない。
どうしてそのお節介な忠告が未だに言い継がれているのか、今なら分かる。
最悪な事態など、誰も考えたくはないからだ。
巧は、革張りの椅子の背もたれをリクライニングする。せめて身体だけでも、何かに寄りかかりたい。
週明けということで、コンピュータで確認したメールは通常よりは多めだ。
内容も見ないで、とにかく緊急事態を伝える旨、返信を繰り返す。
その中に、「小石川司」の名前を発見する。
パパへ
怒ってる?
でも、わたしはどうしても、アメリカに行きたい。
文面は、それだけ。
つかさへ
怒ってないよ。また、話をしよう。
そう返信して、画面から目を離し、大きく一つ息を吐く。
音のない、部屋だった。
まるで、巧を黙らせる目的で、そうしているようにすら思えてくる。
厄介なことは、重なるものだな。
そして、ノックの音。
回数は、二回。
「はい」
「失礼します」
いそいそと所長室に入ってきたのは、捜査一課の嶋井だった。彼には、被害者と面識がないか職員全員に確認する役割を与えていた。
「何か、進んだんだね」
「はい。ガイシャの身元が確認できました」
顔の筋肉が強ばるのを自覚する。
「どこの、誰なんだ」
嶋井はバインダに挟まったメモを、食い入るように見ながら答える。
「えっと、依野悦吏子、年齢は十七歳。ここの職員の、娘ですね」
「ということは、そうか——ただ、『よりの』という職員は知らないな」
「あ、そうですか」
「その職員を、ここに呼んでくれないか」
「はい。ただ——」珍しく、嶋井は言い淀む。「既に参考人として本庁へ身柄を移す準備を進めております」
「参考人?被害者の、親なのに?」
「はい、それには、理由がありまして……、えとですね」
と、適切な説明を探し始めた嶋井を制し、巧はゆっくりと希望を繰り返した。
「いや、その詳しい話は本人から聞こう。ともかく、君はその職員を呼んできて欲しい」
「かしこまりました」
相変わらずのやけに丁寧なお辞儀をして、嶋井はそそくさと部屋を出ていった。
参考人?
その疑問を反芻しながら、巧は、傾けたばかりのチェアの背もたれを戻す。
ともかくも、神様は、悪い方の事態を選択したようだ。
被害者は職員ではなかったが、職員の、娘だった。
気持ちとしてはその「よりの」という職員の情報を一刻も早く知りたかったが、生憎、セキュリティ上の観点から目の前のコンピュータには職員のデータは入っていないし、履歴書などを初めとした個人情報の書類ファイルは嶋井に渡したまま、まだ返却されていない。
問題は、主に三つある。一つは対内的に、その「よりの」が抜けた穴を今後どのように埋めるか。残りの二つは対外的な対応をどうするかであり、相手が大学組織とマスコミに分かれる。恐らく、最も骨が折れるのは最後のマスコミ対策だろう。
いや、今回ばかりは特事の部長としての立場も危ういかも知れない。
最悪の場合、「警察関係の人間が起こした不祥事」というレッテルを貼られる可能性も否定できない。
これでは、司の留学どころの話ではないではないか。
無意識に、首を横に振っていた。
「失礼します」
意外と早く嶋井が戻ってきた。後ろに何名か、引き連れている。
「お待たせしました。すいません、本人以外にも、是非ここに来たいと申し出た者がおりまして……」
「所長!私です!」
「片牧君じゃないか」
巧の直属で働いている、片牧主任だった。先に入った「よりの」を押しのけ、一歩前に出る。ここで出会うつもりでなかったため、頭が対応し切れていない。
「なぜ、ここに?」
答えた片牧は、どういうわけか少し誇らしげだった。「依野君は私の同期で、昔からの知り合いなんです。所長に会いに行くなら、連れて行って欲しいとお願いしたんです」
「そうか……顔が見られて、正直、ほっとしたよ」それは、紛れもない本音だった。
「所長は、本当に、もう、体調は大丈夫なんですか、私、心配で……」
多少頬を上気させ、片牧は早口で尋ねる。
「うん、まあ、早く起こされたぐらいだから、大丈夫だよ、ありがとう」
「あの——」もう一人、よく知った顔が不満そうに呟く。片牧の部下の、松木だった。「座りません?ちょっと、疲れちゃったんで」
「松木君も一緒だったのか、そうかそうか、ソファに座ってくれ、お茶でも淹れよう」
「所長がなさらなくても——私がやります」
「いや、いいんだ」身を乗り出した片牧を、右手で席に座るように促す。「ちょっと、片牧君、落ち着いた方が良いね」
「え?私、落ち着いていませんか?」
「——自覚なしですか」
ぼそっと松木がつっこむ。
お茶を淹れる、とは言ってもティーバッグを使うだけだ。準備しながらソファにいる「よりの」本人の様子を観察するが、この所長室に入ってから一言も発していない。片牧と同期というならば、三十代半ばだろう、その割には若く見える。頭髪も短く刈り込んでおり、爽やかな印象だったが、今は項垂れた姿勢から動かないため、何も知らない人からすれば、スポーツの後で疲れているように見えるかも知れない。
やはり我慢できなかったのか、片牧がお盆を出し、お茶を運ぶのを手伝った。
巧は三人が座っているのと反対側のソファに、ゆっくりと腰を落とす。嶋井は直立不動で、ドアの番人になってくれていたのでそのままにしておく。
「さて、『よりの』さん」
「よりの」の身体が傍目にも分かるほどびくっと一旦跳ね上がり、それから首が徐々に持ち上がる。
彼の目は見開かれ、口元は硬く締められていた。
「……はい」
「私のことは、ご存じですか」
「勿論です、所長」
「すいません、実は私の方は、今まではあなたの顔と名前が一致していなかった。失礼ですが、どこの部署の所属ですか」
「私は、依野と言います。五階の外部連携チームで、主任をしています」
正確には「外部連携部」、所謂、「産学連携」を推し進めている部署になる。恐らく、外部の企業などと最も接する機会が多いチームとなるだろう。
「なるほど、そうでしたか」
「あの……」今度は依野からだった。「私は、やはり、もうここにはいられないのでしょうか」
「ちょっと、依野君!何言ってるの」
片牧が真横にいる男に向かって怒鳴る。
突然の展開だったが、巧は相手の思考を追うことに専念する。
「嗚呼……そういういことですか、分かりました。私がここにあなたを呼んだ理由が、そういうことだと考えたんですね」
「ええ、そうです。わたしは、こんなことになってしまった以上、クビでしょうか」
「あなたは被害者の父親です、あなたをクビにする理由は見当たらない」と巧は言った後、目に力を込め、更に付け足した。「と、個人的には言いたいところですが、まだ、分かりません」
「所長!何てことを!」
声を一層高くして、片牧が今度は巧に向かって叫ぶ。
「世の中には、よく知りもしないで、一方的な意見を押しつける輩が多くいます」巧は自分の発声を落ち着かせることに努めた。「その下らない意見でも、集まれば世論となる。この団体は多くの組織と関わっていますが、その組織の多くは自己保身という意味で、保守的です。何らかの圧力が掛かれば、私ぐらいが抵抗したところでどうにもならないでしょう。冷たく聞こえるかも知れませんが、お分かりになりますか」
「分かります」はっきりと、依野は答えた。もう、片牧も何も言わない。
松木は、さっきから視線を宙に浮かせ、黙っているままだ。
「但し、私があなたをここに呼んだのは、その為ではありません。事件のことを、少しでもあなたに聞いておきたかったんです。どうしても引っかかるのは、何故、娘さんがこの国立情報学研究センターにいたのか、ということです」
「それは、信じて頂きたいんですが、私にも見当が付かないんです」
「娘さんが、ここに遊びに来たことはありますか」
「いや、一度もない、はずです」
「娘さんを最後に見たのは、いつですか」
「娘とは一緒に住んでいないので、そうですね、一週間ぐらい前でしょうか」
「そうですか」
そこでお茶を飲み、巧が一息吐く間に、質問の主は依野に映った。
「あの、気になることがあるんですが」
「何でしょう」
「うちの娘なんですが、特殊な事情がありまして、その、そもそも、外出が、出来ないはずなんです」
「外出できない?」
「娘は半身不随で、車椅子に乗っています。加えて、特殊な施設で行動を、何というか、常に見られているわけなんです」
「常に、見られている?」話がまだ飲み込めないが、次の説明を待った。
車椅子、というキーワードにも、彼らに反応を悟られてはいけないと我慢する。
「彼女は、絶対に、この場所に来られるはずが、ないんです」依野は、激しく首を横に振る。「絶対にです」
巧は、数秒考え、立ち上がった。
「これ以上は、警察でお話しされた方が良いでしょう。一階に戻って下さい」
相手の返事を待たずソファを離れ、巧は窓際に歩を進め、窓側を向き天を仰ぐ。
絶対に、外に出られない。
絶対に。
その人間が、どうして、この場所で、殺されている?
もっと聞きたいが、それはこの組織の所長のする仕事の範疇を超える。
それでも、疑問は巧にまとわりつく。
——何故、絶対に来られないはずの人間が、この場所で、死んでいる?
非常時というのは、言わば、分岐点である。
事態が悪くなるリスクを見越し、準備を行う。
事態が悪化しなくても、相応の対応が必要になる。
「常に最悪を考えよ」とは、誰の忠告だったのか、小石川巧には思い出せない。
どうしてそのお節介な忠告が未だに言い継がれているのか、今なら分かる。
最悪な事態など、誰も考えたくはないからだ。
巧は、革張りの椅子の背もたれをリクライニングする。せめて身体だけでも、何かに寄りかかりたい。
週明けということで、コンピュータで確認したメールは通常よりは多めだ。
内容も見ないで、とにかく緊急事態を伝える旨、返信を繰り返す。
その中に、「小石川司」の名前を発見する。
パパへ
怒ってる?
でも、わたしはどうしても、アメリカに行きたい。
文面は、それだけ。
つかさへ
怒ってないよ。また、話をしよう。
そう返信して、画面から目を離し、大きく一つ息を吐く。
音のない、部屋だった。
まるで、巧を黙らせる目的で、そうしているようにすら思えてくる。
厄介なことは、重なるものだな。
そして、ノックの音。
回数は、二回。
「はい」
「失礼します」
いそいそと所長室に入ってきたのは、捜査一課の嶋井だった。彼には、被害者と面識がないか職員全員に確認する役割を与えていた。
「何か、進んだんだね」
「はい。ガイシャの身元が確認できました」
顔の筋肉が強ばるのを自覚する。
「どこの、誰なんだ」
嶋井はバインダに挟まったメモを、食い入るように見ながら答える。
「えっと、依野悦吏子、年齢は十七歳。ここの職員の、娘ですね」
「ということは、そうか——ただ、『よりの』という職員は知らないな」
「あ、そうですか」
「その職員を、ここに呼んでくれないか」
「はい。ただ——」珍しく、嶋井は言い淀む。「既に参考人として本庁へ身柄を移す準備を進めております」
「参考人?被害者の、親なのに?」
「はい、それには、理由がありまして……、えとですね」
と、適切な説明を探し始めた嶋井を制し、巧はゆっくりと希望を繰り返した。
「いや、その詳しい話は本人から聞こう。ともかく、君はその職員を呼んできて欲しい」
「かしこまりました」
相変わらずのやけに丁寧なお辞儀をして、嶋井はそそくさと部屋を出ていった。
参考人?
その疑問を反芻しながら、巧は、傾けたばかりのチェアの背もたれを戻す。
ともかくも、神様は、悪い方の事態を選択したようだ。
被害者は職員ではなかったが、職員の、娘だった。
気持ちとしてはその「よりの」という職員の情報を一刻も早く知りたかったが、生憎、セキュリティ上の観点から目の前のコンピュータには職員のデータは入っていないし、履歴書などを初めとした個人情報の書類ファイルは嶋井に渡したまま、まだ返却されていない。
問題は、主に三つある。一つは対内的に、その「よりの」が抜けた穴を今後どのように埋めるか。残りの二つは対外的な対応をどうするかであり、相手が大学組織とマスコミに分かれる。恐らく、最も骨が折れるのは最後のマスコミ対策だろう。
いや、今回ばかりは特事の部長としての立場も危ういかも知れない。
最悪の場合、「警察関係の人間が起こした不祥事」というレッテルを貼られる可能性も否定できない。
これでは、司の留学どころの話ではないではないか。
無意識に、首を横に振っていた。
「失礼します」
意外と早く嶋井が戻ってきた。後ろに何名か、引き連れている。
「お待たせしました。すいません、本人以外にも、是非ここに来たいと申し出た者がおりまして……」
「所長!私です!」
「片牧君じゃないか」
巧の直属で働いている、片牧主任だった。先に入った「よりの」を押しのけ、一歩前に出る。ここで出会うつもりでなかったため、頭が対応し切れていない。
「なぜ、ここに?」
答えた片牧は、どういうわけか少し誇らしげだった。「依野君は私の同期で、昔からの知り合いなんです。所長に会いに行くなら、連れて行って欲しいとお願いしたんです」
「そうか……顔が見られて、正直、ほっとしたよ」それは、紛れもない本音だった。
「所長は、本当に、もう、体調は大丈夫なんですか、私、心配で……」
多少頬を上気させ、片牧は早口で尋ねる。
「うん、まあ、早く起こされたぐらいだから、大丈夫だよ、ありがとう」
「あの——」もう一人、よく知った顔が不満そうに呟く。片牧の部下の、松木だった。「座りません?ちょっと、疲れちゃったんで」
「松木君も一緒だったのか、そうかそうか、ソファに座ってくれ、お茶でも淹れよう」
「所長がなさらなくても——私がやります」
「いや、いいんだ」身を乗り出した片牧を、右手で席に座るように促す。「ちょっと、片牧君、落ち着いた方が良いね」
「え?私、落ち着いていませんか?」
「——自覚なしですか」
ぼそっと松木がつっこむ。
お茶を淹れる、とは言ってもティーバッグを使うだけだ。準備しながらソファにいる「よりの」本人の様子を観察するが、この所長室に入ってから一言も発していない。片牧と同期というならば、三十代半ばだろう、その割には若く見える。頭髪も短く刈り込んでおり、爽やかな印象だったが、今は項垂れた姿勢から動かないため、何も知らない人からすれば、スポーツの後で疲れているように見えるかも知れない。
やはり我慢できなかったのか、片牧がお盆を出し、お茶を運ぶのを手伝った。
巧は三人が座っているのと反対側のソファに、ゆっくりと腰を落とす。嶋井は直立不動で、ドアの番人になってくれていたのでそのままにしておく。
「さて、『よりの』さん」
「よりの」の身体が傍目にも分かるほどびくっと一旦跳ね上がり、それから首が徐々に持ち上がる。
彼の目は見開かれ、口元は硬く締められていた。
「……はい」
「私のことは、ご存じですか」
「勿論です、所長」
「すいません、実は私の方は、今まではあなたの顔と名前が一致していなかった。失礼ですが、どこの部署の所属ですか」
「私は、依野と言います。五階の外部連携チームで、主任をしています」
正確には「外部連携部」、所謂、「産学連携」を推し進めている部署になる。恐らく、外部の企業などと最も接する機会が多いチームとなるだろう。
「なるほど、そうでしたか」
「あの……」今度は依野からだった。「私は、やはり、もうここにはいられないのでしょうか」
「ちょっと、依野君!何言ってるの」
片牧が真横にいる男に向かって怒鳴る。
突然の展開だったが、巧は相手の思考を追うことに専念する。
「嗚呼……そういういことですか、分かりました。私がここにあなたを呼んだ理由が、そういうことだと考えたんですね」
「ええ、そうです。わたしは、こんなことになってしまった以上、クビでしょうか」
「あなたは被害者の父親です、あなたをクビにする理由は見当たらない」と巧は言った後、目に力を込め、更に付け足した。「と、個人的には言いたいところですが、まだ、分かりません」
「所長!何てことを!」
声を一層高くして、片牧が今度は巧に向かって叫ぶ。
「世の中には、よく知りもしないで、一方的な意見を押しつける輩が多くいます」巧は自分の発声を落ち着かせることに努めた。「その下らない意見でも、集まれば世論となる。この団体は多くの組織と関わっていますが、その組織の多くは自己保身という意味で、保守的です。何らかの圧力が掛かれば、私ぐらいが抵抗したところでどうにもならないでしょう。冷たく聞こえるかも知れませんが、お分かりになりますか」
「分かります」はっきりと、依野は答えた。もう、片牧も何も言わない。
松木は、さっきから視線を宙に浮かせ、黙っているままだ。
「但し、私があなたをここに呼んだのは、その為ではありません。事件のことを、少しでもあなたに聞いておきたかったんです。どうしても引っかかるのは、何故、娘さんがこの国立情報学研究センターにいたのか、ということです」
「それは、信じて頂きたいんですが、私にも見当が付かないんです」
「娘さんが、ここに遊びに来たことはありますか」
「いや、一度もない、はずです」
「娘さんを最後に見たのは、いつですか」
「娘とは一緒に住んでいないので、そうですね、一週間ぐらい前でしょうか」
「そうですか」
そこでお茶を飲み、巧が一息吐く間に、質問の主は依野に映った。
「あの、気になることがあるんですが」
「何でしょう」
「うちの娘なんですが、特殊な事情がありまして、その、そもそも、外出が、出来ないはずなんです」
「外出できない?」
「娘は半身不随で、車椅子に乗っています。加えて、特殊な施設で行動を、何というか、常に見られているわけなんです」
「常に、見られている?」話がまだ飲み込めないが、次の説明を待った。
車椅子、というキーワードにも、彼らに反応を悟られてはいけないと我慢する。
「彼女は、絶対に、この場所に来られるはずが、ないんです」依野は、激しく首を横に振る。「絶対にです」
巧は、数秒考え、立ち上がった。
「これ以上は、警察でお話しされた方が良いでしょう。一階に戻って下さい」
相手の返事を待たずソファを離れ、巧は窓際に歩を進め、窓側を向き天を仰ぐ。
絶対に、外に出られない。
絶対に。
その人間が、どうして、この場所で、殺されている?
もっと聞きたいが、それはこの組織の所長のする仕事の範疇を超える。
それでも、疑問は巧にまとわりつく。
——何故、絶対に来られないはずの人間が、この場所で、死んでいる?
3.2.0 4D-WC
3.2.0
「スーツ、暑くはないですか」
相手の予想外にフランクな話しぶりに、坂町慶太は面食らった。
「はあ、確かにちょっと」間違っても、めっちゃ暑いっちゅうねん、とは言えない。「脱いでも良いですか」
「どうぞどうぞ、いや、さっきのあれ、吃驚されたでしょう」
「あれ、ですか」
あれってどれやろか、と考えながら慶太は用意されていた木製の椅子に腰掛ける。
バイトの内容を具体的に説明する、ということで連れ込まれたのは、昔ながらの日本家屋から少し離れた場所にある、プレハブの建物だった。母屋とは随分と趣が違い、中身も普通の事務所然としている。
一つの部屋は学校の教室ぐらいの広さだろうか。中がブースに分けられていて、仮の個室が作られている。その数は慶太が今いる部屋で六つ。その内の廊下側、最も奥のブースに通された。
「冷たいお茶、用意しますよ」
彼を案内してきたのは体格の良い男性だった。四十代半ばに見える。男性は素早く立ち上がりブースを出たが、すぐに紙コップを二つ運んできた。
「どうぞどうぞ」
薦められるがままそのお茶を口に含むが、特に怪しい味がする訳でもない。
三口目を飲もうか考えている時に、その男性がにっこりと笑って話し始めた。
「どうですか、バイト内容の説明ということですが、今のところ、疑問点などはないですか」
このブースに来る前に母屋で、仕事内容に関する簡単なパンフレットを母屋で受け取っていた。一通りは目を通したし、事前に聞いていた通りの内容で間違いはなかった。
「特に……ないですね」
「そうですか、それなら良かった」
「ええ」
話が続かんなあ、と感じる暇もなく、相手は再び話し出す。
「じゃあ、こちらから一応、ご説明させて頂きます。先程の従前さんのお話、正直なところ、驚かれたのではないですか?」
それは、その男性が一番最初にしたのと同じ質問だった。
どうしてもしなければならない話なのだろうか。
「驚いたというか……そうですね、こういう体験、したことないですから」
「そうでしょう、確かに」相手は幾度も頷きを繰り返す。
「ただですね……どうも、昨今はその、怪しい団体も増えておりますから、我々もとばっちりで影響を受ける訳なんです。つまり、何かの宗教の類ではないかと」
「はあ」
「我々はれっきとした株式会社でして、決してそういった種類の団体ではございません。まあ、坂町さんは特に疑問もない、とのことでしたので大丈夫かと思いますが」
「それじゃあ、あの、大きな部屋での話は、別に珍しいことではないんですか」
「ええ、全く」そこで相手の男性は、一口お茶を飲んだ。「この場所自体は、社長の先代の持ち物でして、やはりこれほど広い場所を確保することは都内では難しいですから、ええ。年に数回、この場所に今日のように全社員が集まり、社長からのお話があることもあるんですよ」
「そうなんですか」
「こういうお話のついでに申し上げておきますが、宗教じみた雰囲気が感じられるとすれば、それはこの会社ができた経緯によるところが大きいのかも知れません。というのも、元々は、この会社は仏教の研究団体だったんですよ」
「研究……ですか」
「そうなんです、研究です。ぴんと来ないかも知れないですね、無理もないことです。言わば国の支援を受ける法人でして、日本全国の仏教に関する統計を取ったり、資料を整理したりしてスムーズに提供できるように準備を行うという組織だったのです」
相手の話は終わらない。
「ところが十年ほど前に突然、国からの支援が途切れまして、そこからは新しい道を模索することとなったのです。私が入社しましたのはその後ですが、従来の事業であった仏教関連の仕事も一定の需要が残っていたため辞められず、こういった『出会いの泉』のような新しい事業ができるようになったのはここ最近のことなんです」
殆ど話半分で聞いていたが、相手の言いたいことは、「我々は怪しくない」という一点に尽きた。
余程、怪しまれるのだろう。
というより、確かに怪しい。
そして、最後まで坂町が話をする機会は余り与えられないまま、「仕事説明会」は終了した。
本番となる、「出会いの泉」の会場は都内の高級ホテル。
日時は九月の中頃、これからまだ、約一ヶ月先になる。
家に帰ってからは急いでスーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。
汗を落としてすっきりすると、今度は、自分をこの説明会に誘った友人のことが気に懸かってきた。
ひとまず報告だけでも、と思い受話器を取って電話を掛ける。
呼び出し音が始まるかと思えば——。
「お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度、お掛け直し下さい。お客様のお掛けになった——」
念のため、番号が間違っていないか確認するが、もちろん大丈夫だった。
慶太は、静かに、受話器を元に戻す。
早速、次の汗が背中に滲んでくるのを感じる。
風鈴が、涼しい音を奏でる。
たった、一日、だけのことやし。
ほんまに怪しかったら、途中で逃げれば、何とかなるやろ。
その心の声に、また、風鈴が答える。
チリン、
チリンチリン、
チリン。
「スーツ、暑くはないですか」
相手の予想外にフランクな話しぶりに、坂町慶太は面食らった。
「はあ、確かにちょっと」間違っても、めっちゃ暑いっちゅうねん、とは言えない。「脱いでも良いですか」
「どうぞどうぞ、いや、さっきのあれ、吃驚されたでしょう」
「あれ、ですか」
あれってどれやろか、と考えながら慶太は用意されていた木製の椅子に腰掛ける。
バイトの内容を具体的に説明する、ということで連れ込まれたのは、昔ながらの日本家屋から少し離れた場所にある、プレハブの建物だった。母屋とは随分と趣が違い、中身も普通の事務所然としている。
一つの部屋は学校の教室ぐらいの広さだろうか。中がブースに分けられていて、仮の個室が作られている。その数は慶太が今いる部屋で六つ。その内の廊下側、最も奥のブースに通された。
「冷たいお茶、用意しますよ」
彼を案内してきたのは体格の良い男性だった。四十代半ばに見える。男性は素早く立ち上がりブースを出たが、すぐに紙コップを二つ運んできた。
「どうぞどうぞ」
薦められるがままそのお茶を口に含むが、特に怪しい味がする訳でもない。
三口目を飲もうか考えている時に、その男性がにっこりと笑って話し始めた。
「どうですか、バイト内容の説明ということですが、今のところ、疑問点などはないですか」
このブースに来る前に母屋で、仕事内容に関する簡単なパンフレットを母屋で受け取っていた。一通りは目を通したし、事前に聞いていた通りの内容で間違いはなかった。
「特に……ないですね」
「そうですか、それなら良かった」
「ええ」
話が続かんなあ、と感じる暇もなく、相手は再び話し出す。
「じゃあ、こちらから一応、ご説明させて頂きます。先程の従前さんのお話、正直なところ、驚かれたのではないですか?」
それは、その男性が一番最初にしたのと同じ質問だった。
どうしてもしなければならない話なのだろうか。
「驚いたというか……そうですね、こういう体験、したことないですから」
「そうでしょう、確かに」相手は幾度も頷きを繰り返す。
「ただですね……どうも、昨今はその、怪しい団体も増えておりますから、我々もとばっちりで影響を受ける訳なんです。つまり、何かの宗教の類ではないかと」
「はあ」
「我々はれっきとした株式会社でして、決してそういった種類の団体ではございません。まあ、坂町さんは特に疑問もない、とのことでしたので大丈夫かと思いますが」
「それじゃあ、あの、大きな部屋での話は、別に珍しいことではないんですか」
「ええ、全く」そこで相手の男性は、一口お茶を飲んだ。「この場所自体は、社長の先代の持ち物でして、やはりこれほど広い場所を確保することは都内では難しいですから、ええ。年に数回、この場所に今日のように全社員が集まり、社長からのお話があることもあるんですよ」
「そうなんですか」
「こういうお話のついでに申し上げておきますが、宗教じみた雰囲気が感じられるとすれば、それはこの会社ができた経緯によるところが大きいのかも知れません。というのも、元々は、この会社は仏教の研究団体だったんですよ」
「研究……ですか」
「そうなんです、研究です。ぴんと来ないかも知れないですね、無理もないことです。言わば国の支援を受ける法人でして、日本全国の仏教に関する統計を取ったり、資料を整理したりしてスムーズに提供できるように準備を行うという組織だったのです」
相手の話は終わらない。
「ところが十年ほど前に突然、国からの支援が途切れまして、そこからは新しい道を模索することとなったのです。私が入社しましたのはその後ですが、従来の事業であった仏教関連の仕事も一定の需要が残っていたため辞められず、こういった『出会いの泉』のような新しい事業ができるようになったのはここ最近のことなんです」
殆ど話半分で聞いていたが、相手の言いたいことは、「我々は怪しくない」という一点に尽きた。
余程、怪しまれるのだろう。
というより、確かに怪しい。
そして、最後まで坂町が話をする機会は余り与えられないまま、「仕事説明会」は終了した。
本番となる、「出会いの泉」の会場は都内の高級ホテル。
日時は九月の中頃、これからまだ、約一ヶ月先になる。
家に帰ってからは急いでスーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。
汗を落としてすっきりすると、今度は、自分をこの説明会に誘った友人のことが気に懸かってきた。
ひとまず報告だけでも、と思い受話器を取って電話を掛ける。
呼び出し音が始まるかと思えば——。
「お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度、お掛け直し下さい。お客様のお掛けになった——」
念のため、番号が間違っていないか確認するが、もちろん大丈夫だった。
慶太は、静かに、受話器を元に戻す。
早速、次の汗が背中に滲んでくるのを感じる。
風鈴が、涼しい音を奏でる。
たった、一日、だけのことやし。
ほんまに怪しかったら、途中で逃げれば、何とかなるやろ。
その心の声に、また、風鈴が答える。
チリン、
チリンチリン、
チリン。
3.1.1 4D-WC
3.1.1
文学部が関係する棟は複数あるらしく、眞田と堂山は幾つかの建物で正しい場所を聞きながら、やっとのことで目的地に到着した。建物の名前自体は「総合研究棟」という名前だった。
直前に立ち寄った文学部三号館を出た後、眞田は思わず呟いていた。
「なんで、こんなにしんどい思いをするんだろう」
聞きつけた堂山はすかさず口を挟む。
「……お前、愚痴は終わってからにしろよ」
「いや、そうじゃなくてですね」と眞田は説明する。
そう、これほど苦労したこと自体が、眞田には不可解だった。地下鉄の駅前で、あれほど大規模な交通規制を敷いたのが公安部だったとすれば、現場自体にも相当数の捜査員が割り当てられていて当然だ。先程の国立情報学研究センターと同じく、パトカーが停まり野次馬が群がり……といった光景を想像しながら歩いてきたはずなのに、それは見つからなかった。
つまり、公安が動く現場としては、静か過ぎるのだ。
総合研究棟は見る限り、建築物としては小さい。二階建てで歴史も比較的浅そうだ。
堂山は石段数段を忙しげに登り、左右を見回して、向かってすぐ左側にある壁をじっと見つめた。そこには、総合研究棟全体の見取り図が書いてある。
「どうします」
「どうって、そりゃ、まずは事務員のとこだ——あった、ここだ、事務室」
差していた指を引っ込めてから堂山はくるりと振り返り、案内板とは反対側、恐らくは北側に延びる廊下を進むと「事務室」のプレートをすぐさま発見した。
「すいません」
声を掛けて窓から部屋の中を窺ったが、反応は無い。眞田から見える限りでも、誰の姿も見えなかった。
「あの、すいません、警察ですが」
再度の挑戦にも、応える者はいない。
「係長、ストーブ、消えてますね」
「嗚呼、ほんとだ、じゃ、ここは無駄だな」
「……かもしれないですね」
「よし、探すか」
「自力でですか」
「聞く相手がいないだろ」堂山は聞く相手もいないと言いながら、急に小声になる。「そもそもだ、これだけ静かってことは、公安もよっぽど、秘密裏で事を進めたいってことだ。ここにいる一般人にも捜査のことを知らせてないって可能性もある。不用意に、この建物の中の人間に質問しない方が良いような気がしてきた」
「確かに、そうですね」
「わかれば、行くぞ」
とは言うものの総合研究棟は大きくないので、まずは一階の廊下を反対まで進み、今度は南側の階段から二階に上がり、そのまま建物の反対側まで進めば、それで探索は終わりになってしまう。
途中、何名か学生や職員らしき人間と擦れ違うが、全く見向きもされない。
「ほんとに、ここか?」
「文学部の関係する建物はこれで最後ですから、ここですよ」
「あの、あれだ、入口にいたじいちゃんが嘘吐いてんじゃねえの」
「うーん、どうなんでしょう……もう一回、戻ります?」
「そうするか」
「結構、しっかりしてそうな方でしたけどね、入口の警備員の人」
「実際、公安はいないんだからさ、そんなことを言ってもしょうがないだろ」
片方の眉だけを吊り上げ、いかにも面倒くさい、といった表情で堂山は吐き捨てる。
またそこに、目の前の階段、つまり、さっき上がってきたのとは正反対である北側の階段を、スーツ姿の人間が降りてきた。自分より年齢は上だが、割と若い男だった。
多分、職員であろうと見当をつけ、取り敢えずは会釈する。
相手は怪訝そうな面持ちになったが、眞田はこういった場面を何度となく経験している。知り合いに声を掛けられたのと勘違いして、名前や顔を思い出そうとしているのかも知れない。
しかし、若干の、違和感。
そうだ。
二階しかない建物の階段を、どうして、降りてくる?
「おいおい」
不意に堂山が大きな声を出したせいで、眞田は背中に電気が走ったように驚いた。
しかし、そんな驚きは、相手が堂山の呼び掛けに反応したことで吹き飛んでしまった。
「これはこれは。どうしたんだ、堂山じゃないか」
「俺は運が良いな、お前が担当なのか」
スーツ姿の男は、一瞬黙った。
そして、ゆっくりと、発声する。
「何の、話だ」
「冷たいなあ、稲坂(いなざか)……長い付き合いじゃないか」
スーツ姿の男は、顔をこちらに向ける。
「そちらは?」
「あ、こいつは部下じゃない、ある意味、お前側の人間で、眞田って言うんだ」
「そうか。……眞田さん、私、稲坂と申します。堂山とは入庁が同じ年でね。どうか、よろしくお願いしますよ」
「——はい、特殊事案捜査室の眞田と申します」
流れに任せた返事には、全くといって良いほど余裕が無かったのが自分でも分かった。
「特殊——ああ、トクジか。そりゃ、結構です」
意味が分かるような分からないような言葉に軽い笑いを付け足し、稲坂は階段を降り切り、同じ高さに立った。眞田も背は低くない方だが、稲坂の方が断然、腰の位置も顔の位置も高い。情けなくも、一瞬だけ湧き上がる嫉妬心。
「聞きたいことがあってな」
「何だ?」
「なんで、交通規制なんか、やってる?」
「すまん、堂山。機密事項だ」
稲坂は最初から用意していたらしい言葉を、記者会見で発表するように言い、スーツの上着の襟を癖なのかしきりに触った。
いつもよりも、更に「意に介さず」の顔付きで、堂山は顎を上げる。
「大学の反対側で、今、別件でコロシを調べてる」
「ほお、それは、ご苦労様だな」
「その情報、知ってたか」
「いや、全く」
「関係ないと思っていいのか、そっちのヤマとは」
「そんなこと、こっちが分かるわけがないだろう」
答えて、稲坂は鼻を鳴らす。
「そうだな、お互いの情報を知らないと、判断もできない」
再び、数秒の沈黙。
気味が悪いぐらい、稲坂の表情は、変化しない。
眞田は、ひたすら唾を飲むしかない。
「取引には、応じられない」
「屋上で、何をしてた?」
「屋上?そんな場所には行っていない」
そうか、二階のもう一つ上は、当然、屋上だ。
彼は屋上にいたのだ。
そこで、何かを調べていたのだ。
「ま、いいさ、お前らはいっつも、そうだ。去年の年末も、お前らのそういう態度のせいで、ほんとに大変な目に遭ったんだよ、ほんとにな。それにしたって、最近は秘密主義が過ぎるんじゃねえの、コーアン様」
「そんなことはない。必要、最低限の機密で動いているだけだ」
「教えてくれないなら、自分で調べるだけだが、もしかして、例の宗教が関係してんのか」
「宗教?」
「ああ、年末のコロシ、ガイシャは男だったが、お前らにいきなり現場押さえられてどうしようもなくなった」堂山は少し言葉を切る。「嗚呼、思い出しただけで、腹立つわ。細かいことは全然分からんが、宗教絡みらしいってのは聞いた」
「——そうか。残念だが、見当外れの話をしているんじゃないのか、堂山」
「ふん、どうせ、俺はお前みたいに頭が良くないよ、見当外れはいつものことだ。まあ、いい。今日のところはごあいさつ、ってヤツだ」
「分かった。早く、本筋のヤマに戻った方が良い」
稲坂は軽く唇を噛んで、首を振る。それが眞田には、相手を小馬鹿にするような態度に映って気分が悪くなった。
「うるさいよ、よし、眞田、戻るぞ」堂山は稲坂に背を向け、構うことなく吐き捨てる。「くそったれが」
「稲坂……警視でしょうか」
話し掛けられたことが意外だったらしく、無表情に戻って稲坂は答える。
「今は、警部をやっている。呼び方は、何でも良い」
「こちらには、特事には、今畑籐吉先生がバックに着く事案があります」眞田は言葉を選びながら、慎重に話し始めた。「その気になれば、もしその宗教絡みの事件ならば、こっちは幾らでも情報を集めることが出来ます。僕が言っている意味が、ご理解頂けますね?」
「理解?」
という声は、これまでで最もトーンが高かった。
これなら、
いけるかもしれない。
「お互い、無駄な時間を掛けるのは、止めましょう、稲坂警部」
相手は、何も答えない。
「あなた方の情報は、時間は掛かりますが、私たちは手に入れられる。でも、私たちの情報は、どうです?私たちが直接教えない限り、手に入らないんじゃないですか?公安の方ならば、僕たち特事のことは、よくご存じなんですよね」
「我々は、自分たちで調べ上げる、それが公安の仕事だ」
稲坂はやっと、そう言った。
今度はスーツの袖のボタンを、指の先でしきりに触っている。
その答は、公安の事案が、今畑里緒奈が所属する例の新興宗教に関連している、
そう答えたのとほぼ、同じ意味だ。
「交通規制で誰を網に掛けようとしているのか、教えて頂ければ、こちらも情報を提供します」
「だから——」
相手の言葉を眞田は遮る。
「誰ですか?情報が、欲しいでしょう、稲坂警部」
長い、
更に長い、
沈黙。
堂山も、流石に口を出してこない。
「——本当に、役に立つ情報なんだろうな」
「お約束します」眞田は、意識してゆっくりと頷く。
「で、誰なんだよ、稲坂、追ってんのは」
遂に我慢できなかったのか堂山が尋ねる。
「恐らく、名前は知ってるだろうが」
「はい」
「——小野原だ、小野原貞政という大学教授を追っている」
文学部が関係する棟は複数あるらしく、眞田と堂山は幾つかの建物で正しい場所を聞きながら、やっとのことで目的地に到着した。建物の名前自体は「総合研究棟」という名前だった。
直前に立ち寄った文学部三号館を出た後、眞田は思わず呟いていた。
「なんで、こんなにしんどい思いをするんだろう」
聞きつけた堂山はすかさず口を挟む。
「……お前、愚痴は終わってからにしろよ」
「いや、そうじゃなくてですね」と眞田は説明する。
そう、これほど苦労したこと自体が、眞田には不可解だった。地下鉄の駅前で、あれほど大規模な交通規制を敷いたのが公安部だったとすれば、現場自体にも相当数の捜査員が割り当てられていて当然だ。先程の国立情報学研究センターと同じく、パトカーが停まり野次馬が群がり……といった光景を想像しながら歩いてきたはずなのに、それは見つからなかった。
つまり、公安が動く現場としては、静か過ぎるのだ。
総合研究棟は見る限り、建築物としては小さい。二階建てで歴史も比較的浅そうだ。
堂山は石段数段を忙しげに登り、左右を見回して、向かってすぐ左側にある壁をじっと見つめた。そこには、総合研究棟全体の見取り図が書いてある。
「どうします」
「どうって、そりゃ、まずは事務員のとこだ——あった、ここだ、事務室」
差していた指を引っ込めてから堂山はくるりと振り返り、案内板とは反対側、恐らくは北側に延びる廊下を進むと「事務室」のプレートをすぐさま発見した。
「すいません」
声を掛けて窓から部屋の中を窺ったが、反応は無い。眞田から見える限りでも、誰の姿も見えなかった。
「あの、すいません、警察ですが」
再度の挑戦にも、応える者はいない。
「係長、ストーブ、消えてますね」
「嗚呼、ほんとだ、じゃ、ここは無駄だな」
「……かもしれないですね」
「よし、探すか」
「自力でですか」
「聞く相手がいないだろ」堂山は聞く相手もいないと言いながら、急に小声になる。「そもそもだ、これだけ静かってことは、公安もよっぽど、秘密裏で事を進めたいってことだ。ここにいる一般人にも捜査のことを知らせてないって可能性もある。不用意に、この建物の中の人間に質問しない方が良いような気がしてきた」
「確かに、そうですね」
「わかれば、行くぞ」
とは言うものの総合研究棟は大きくないので、まずは一階の廊下を反対まで進み、今度は南側の階段から二階に上がり、そのまま建物の反対側まで進めば、それで探索は終わりになってしまう。
途中、何名か学生や職員らしき人間と擦れ違うが、全く見向きもされない。
「ほんとに、ここか?」
「文学部の関係する建物はこれで最後ですから、ここですよ」
「あの、あれだ、入口にいたじいちゃんが嘘吐いてんじゃねえの」
「うーん、どうなんでしょう……もう一回、戻ります?」
「そうするか」
「結構、しっかりしてそうな方でしたけどね、入口の警備員の人」
「実際、公安はいないんだからさ、そんなことを言ってもしょうがないだろ」
片方の眉だけを吊り上げ、いかにも面倒くさい、といった表情で堂山は吐き捨てる。
またそこに、目の前の階段、つまり、さっき上がってきたのとは正反対である北側の階段を、スーツ姿の人間が降りてきた。自分より年齢は上だが、割と若い男だった。
多分、職員であろうと見当をつけ、取り敢えずは会釈する。
相手は怪訝そうな面持ちになったが、眞田はこういった場面を何度となく経験している。知り合いに声を掛けられたのと勘違いして、名前や顔を思い出そうとしているのかも知れない。
しかし、若干の、違和感。
そうだ。
二階しかない建物の階段を、どうして、降りてくる?
「おいおい」
不意に堂山が大きな声を出したせいで、眞田は背中に電気が走ったように驚いた。
しかし、そんな驚きは、相手が堂山の呼び掛けに反応したことで吹き飛んでしまった。
「これはこれは。どうしたんだ、堂山じゃないか」
「俺は運が良いな、お前が担当なのか」
スーツ姿の男は、一瞬黙った。
そして、ゆっくりと、発声する。
「何の、話だ」
「冷たいなあ、稲坂(いなざか)……長い付き合いじゃないか」
スーツ姿の男は、顔をこちらに向ける。
「そちらは?」
「あ、こいつは部下じゃない、ある意味、お前側の人間で、眞田って言うんだ」
「そうか。……眞田さん、私、稲坂と申します。堂山とは入庁が同じ年でね。どうか、よろしくお願いしますよ」
「——はい、特殊事案捜査室の眞田と申します」
流れに任せた返事には、全くといって良いほど余裕が無かったのが自分でも分かった。
「特殊——ああ、トクジか。そりゃ、結構です」
意味が分かるような分からないような言葉に軽い笑いを付け足し、稲坂は階段を降り切り、同じ高さに立った。眞田も背は低くない方だが、稲坂の方が断然、腰の位置も顔の位置も高い。情けなくも、一瞬だけ湧き上がる嫉妬心。
「聞きたいことがあってな」
「何だ?」
「なんで、交通規制なんか、やってる?」
「すまん、堂山。機密事項だ」
稲坂は最初から用意していたらしい言葉を、記者会見で発表するように言い、スーツの上着の襟を癖なのかしきりに触った。
いつもよりも、更に「意に介さず」の顔付きで、堂山は顎を上げる。
「大学の反対側で、今、別件でコロシを調べてる」
「ほお、それは、ご苦労様だな」
「その情報、知ってたか」
「いや、全く」
「関係ないと思っていいのか、そっちのヤマとは」
「そんなこと、こっちが分かるわけがないだろう」
答えて、稲坂は鼻を鳴らす。
「そうだな、お互いの情報を知らないと、判断もできない」
再び、数秒の沈黙。
気味が悪いぐらい、稲坂の表情は、変化しない。
眞田は、ひたすら唾を飲むしかない。
「取引には、応じられない」
「屋上で、何をしてた?」
「屋上?そんな場所には行っていない」
そうか、二階のもう一つ上は、当然、屋上だ。
彼は屋上にいたのだ。
そこで、何かを調べていたのだ。
「ま、いいさ、お前らはいっつも、そうだ。去年の年末も、お前らのそういう態度のせいで、ほんとに大変な目に遭ったんだよ、ほんとにな。それにしたって、最近は秘密主義が過ぎるんじゃねえの、コーアン様」
「そんなことはない。必要、最低限の機密で動いているだけだ」
「教えてくれないなら、自分で調べるだけだが、もしかして、例の宗教が関係してんのか」
「宗教?」
「ああ、年末のコロシ、ガイシャは男だったが、お前らにいきなり現場押さえられてどうしようもなくなった」堂山は少し言葉を切る。「嗚呼、思い出しただけで、腹立つわ。細かいことは全然分からんが、宗教絡みらしいってのは聞いた」
「——そうか。残念だが、見当外れの話をしているんじゃないのか、堂山」
「ふん、どうせ、俺はお前みたいに頭が良くないよ、見当外れはいつものことだ。まあ、いい。今日のところはごあいさつ、ってヤツだ」
「分かった。早く、本筋のヤマに戻った方が良い」
稲坂は軽く唇を噛んで、首を振る。それが眞田には、相手を小馬鹿にするような態度に映って気分が悪くなった。
「うるさいよ、よし、眞田、戻るぞ」堂山は稲坂に背を向け、構うことなく吐き捨てる。「くそったれが」
「稲坂……警視でしょうか」
話し掛けられたことが意外だったらしく、無表情に戻って稲坂は答える。
「今は、警部をやっている。呼び方は、何でも良い」
「こちらには、特事には、今畑籐吉先生がバックに着く事案があります」眞田は言葉を選びながら、慎重に話し始めた。「その気になれば、もしその宗教絡みの事件ならば、こっちは幾らでも情報を集めることが出来ます。僕が言っている意味が、ご理解頂けますね?」
「理解?」
という声は、これまでで最もトーンが高かった。
これなら、
いけるかもしれない。
「お互い、無駄な時間を掛けるのは、止めましょう、稲坂警部」
相手は、何も答えない。
「あなた方の情報は、時間は掛かりますが、私たちは手に入れられる。でも、私たちの情報は、どうです?私たちが直接教えない限り、手に入らないんじゃないですか?公安の方ならば、僕たち特事のことは、よくご存じなんですよね」
「我々は、自分たちで調べ上げる、それが公安の仕事だ」
稲坂はやっと、そう言った。
今度はスーツの袖のボタンを、指の先でしきりに触っている。
その答は、公安の事案が、今畑里緒奈が所属する例の新興宗教に関連している、
そう答えたのとほぼ、同じ意味だ。
「交通規制で誰を網に掛けようとしているのか、教えて頂ければ、こちらも情報を提供します」
「だから——」
相手の言葉を眞田は遮る。
「誰ですか?情報が、欲しいでしょう、稲坂警部」
長い、
更に長い、
沈黙。
堂山も、流石に口を出してこない。
「——本当に、役に立つ情報なんだろうな」
「お約束します」眞田は、意識してゆっくりと頷く。
「で、誰なんだよ、稲坂、追ってんのは」
遂に我慢できなかったのか堂山が尋ねる。
「恐らく、名前は知ってるだろうが」
「はい」
「——小野原だ、小野原貞政という大学教授を追っている」
3.1.0 4D-WC
3.1.0
眞田敬二郎は外に出る前、小石川部長に呼び止められた。「先、行っとくからな」という堂山係長の短い一言と彼の独特の後ろ姿が消え去ったのを確認してから、小石川は呟くように言った。
「公安と揉めそうになったら、すぐに連絡してくれないかな」
「はい、わかりました」真意を図りかねたまま、眞田はその言葉を胸に仕舞う。「……それだけ、ですか?」
「それだけだが」
「堂山係長に知られたらまずい話なんですか」
「そうだな、堂山係長というよりは、捜査一課だ」
特事(特殊事案調査室)所属の人間だけで打ち合わせて置きたかった、ということだろうか。捜査一課と公安との相性は、眞田が内部で見る限り、すこぶる悪い。
「了解しました」
眞田は他にも、今畑籐吉の娘の失踪事件についての細かい情報交換を行った。進展は少ないが、これこそ特事の人間だけで話し合う内容だろう。
堂山係長は恐らく、一階で待っているはずだ。
エレベータで下に降りる。
依然として、一階では捜査員が忙しそうに歩き回っている。軽く見回した限りでは、堂山の姿は認められない。
と思ったら、その堂山が入口から自動ドアをくぐってきた。
「遅い、早くしろよ」フロア中に響くような大きな声で怒鳴る。数人の捜査員が反応を示したものの、すぐに元の作業に戻る。
「すいません」
「寒いのに、外で待たせんなよ……これ、お前も持ってろ」
差し出されたのは一枚の紙切れで、すぐにこのT大学内の地図だと分かった。
「どの、建物なんですか」
「わからん」臆面もなく、堂山は言い放つ。「大学の反対側に行けば、騒がしい場所があるだろ」
そういう経緯で、国立情報学研究センターを出発した二人は、大学の反対側、方角で言えば西側を目指して歩き出した。そちらの方が大学としては主な建物が揃っているはずで、警察がいれば一層騒ぎになりそうなものだが、と眞田は不思議に感じながらも堂山には何も質問しなかった。
立ち入り禁止のポールを挟んで、数人の人間がカメラを向けて立っていた。画像、映像、レポータ、更に少し離れた場所に目をやると、白い大きな放送局の車両も停まっている。
マイクを向けられて数人に同時に質問されるが、堂山は完全に無視する。それに倣い眞田も耳が聞こえない振りをする。歩きながらも、暫くはレポータが二人ほど付いてきたが、終始、沈黙で押し通した。
大学の西側との境目で、一旦は一般道を跨ぐ必要がある。細い路地であり、道路沿いには民家などもある。レポータはそこで追跡を諦めたようだった。
「ほんとにしつこいですね」
「ま、あいつらはあれが仕事だからな」と堂山は言った。「しつこさで負けてるようじゃ、駄目だな」
路地を数本越えると、一方には大学との境界線を示す柵と樹木が現れ、その柵に沿って行くと煉瓦造りの建物の前に車両の無断進入を禁ずる為のポールが見えてきた。
同じく煉瓦造りの、小さな警備員室の中には初老の制服姿の男がいた。
硝子窓越しに堂山が中を覗き見る。奥にあるストーブが暖かそうだ。
「すいません、警察ですが」
その声に警備員は突然目を見開き、台に乗った眼鏡を掛け、「嗚呼、例の、あれですか」とだけ答えた。どうやら、その眼鏡でノートに何やら書き込んでいるところを見ると、老眼鏡のようだった。
「寒いですね、いやあ、羨ましい」
堂山はにっこりと笑う。勿論、警察手帳を相手に示しながらだ。
「いやいや、お恥ずかしいことで……、通って頂いて、結構ですよ」
「いやね、その建物、どこだっけね」
「え?ご存じないんですか?」眼鏡の奥の目が、細くなる。
「先に入った同僚と連絡がつかなくてね、確か、正門からは離れてるんだっけ?赤門の方?」
「ああ、文学部の棟でね、正門からの方が近いですね、はい」
「そうかそうか」わざとらしく堂山は頭を掻く。「やっぱりそうか。すまんね、お勤め中に」
「いえいえ、一応、お名前だけ頂けます?」
「堂山」
ぶっきらぼうに答えるその名前を、警備員は手早くノートに書き付ける。
「そちらの方は?」
いきなり顔を向けられて眞田は驚く。「眞田と申します」
「ありがとうございます、ではどうぞ」
地図によれば、目の前に聳えるのは工学部棟だ。
「文学部、ってどっちですかね」
「知るか。あとは頼んだぞ」
「あれ、僕が、探すんですね」
「何か、文句あるか?」
眞田はその質問には答えず、再度、地図に目を落とす。
「左です、係長、左に行きましょう」
「お前、もしかして怒ってんのか?」
「怒ってないですよ、別に」
「なら、いっけど」
眞田敬二郎は外に出る前、小石川部長に呼び止められた。「先、行っとくからな」という堂山係長の短い一言と彼の独特の後ろ姿が消え去ったのを確認してから、小石川は呟くように言った。
「公安と揉めそうになったら、すぐに連絡してくれないかな」
「はい、わかりました」真意を図りかねたまま、眞田はその言葉を胸に仕舞う。「……それだけ、ですか?」
「それだけだが」
「堂山係長に知られたらまずい話なんですか」
「そうだな、堂山係長というよりは、捜査一課だ」
特事(特殊事案調査室)所属の人間だけで打ち合わせて置きたかった、ということだろうか。捜査一課と公安との相性は、眞田が内部で見る限り、すこぶる悪い。
「了解しました」
眞田は他にも、今畑籐吉の娘の失踪事件についての細かい情報交換を行った。進展は少ないが、これこそ特事の人間だけで話し合う内容だろう。
堂山係長は恐らく、一階で待っているはずだ。
エレベータで下に降りる。
依然として、一階では捜査員が忙しそうに歩き回っている。軽く見回した限りでは、堂山の姿は認められない。
と思ったら、その堂山が入口から自動ドアをくぐってきた。
「遅い、早くしろよ」フロア中に響くような大きな声で怒鳴る。数人の捜査員が反応を示したものの、すぐに元の作業に戻る。
「すいません」
「寒いのに、外で待たせんなよ……これ、お前も持ってろ」
差し出されたのは一枚の紙切れで、すぐにこのT大学内の地図だと分かった。
「どの、建物なんですか」
「わからん」臆面もなく、堂山は言い放つ。「大学の反対側に行けば、騒がしい場所があるだろ」
そういう経緯で、国立情報学研究センターを出発した二人は、大学の反対側、方角で言えば西側を目指して歩き出した。そちらの方が大学としては主な建物が揃っているはずで、警察がいれば一層騒ぎになりそうなものだが、と眞田は不思議に感じながらも堂山には何も質問しなかった。
立ち入り禁止のポールを挟んで、数人の人間がカメラを向けて立っていた。画像、映像、レポータ、更に少し離れた場所に目をやると、白い大きな放送局の車両も停まっている。
マイクを向けられて数人に同時に質問されるが、堂山は完全に無視する。それに倣い眞田も耳が聞こえない振りをする。歩きながらも、暫くはレポータが二人ほど付いてきたが、終始、沈黙で押し通した。
大学の西側との境目で、一旦は一般道を跨ぐ必要がある。細い路地であり、道路沿いには民家などもある。レポータはそこで追跡を諦めたようだった。
「ほんとにしつこいですね」
「ま、あいつらはあれが仕事だからな」と堂山は言った。「しつこさで負けてるようじゃ、駄目だな」
路地を数本越えると、一方には大学との境界線を示す柵と樹木が現れ、その柵に沿って行くと煉瓦造りの建物の前に車両の無断進入を禁ずる為のポールが見えてきた。
同じく煉瓦造りの、小さな警備員室の中には初老の制服姿の男がいた。
硝子窓越しに堂山が中を覗き見る。奥にあるストーブが暖かそうだ。
「すいません、警察ですが」
その声に警備員は突然目を見開き、台に乗った眼鏡を掛け、「嗚呼、例の、あれですか」とだけ答えた。どうやら、その眼鏡でノートに何やら書き込んでいるところを見ると、老眼鏡のようだった。
「寒いですね、いやあ、羨ましい」
堂山はにっこりと笑う。勿論、警察手帳を相手に示しながらだ。
「いやいや、お恥ずかしいことで……、通って頂いて、結構ですよ」
「いやね、その建物、どこだっけね」
「え?ご存じないんですか?」眼鏡の奥の目が、細くなる。
「先に入った同僚と連絡がつかなくてね、確か、正門からは離れてるんだっけ?赤門の方?」
「ああ、文学部の棟でね、正門からの方が近いですね、はい」
「そうかそうか」わざとらしく堂山は頭を掻く。「やっぱりそうか。すまんね、お勤め中に」
「いえいえ、一応、お名前だけ頂けます?」
「堂山」
ぶっきらぼうに答えるその名前を、警備員は手早くノートに書き付ける。
「そちらの方は?」
いきなり顔を向けられて眞田は驚く。「眞田と申します」
「ありがとうございます、ではどうぞ」
地図によれば、目の前に聳えるのは工学部棟だ。
「文学部、ってどっちですかね」
「知るか。あとは頼んだぞ」
「あれ、僕が、探すんですね」
「何か、文句あるか?」
眞田はその質問には答えず、再度、地図に目を落とす。
「左です、係長、左に行きましょう」
「お前、もしかして怒ってんのか?」
「怒ってないですよ、別に」
「なら、いっけど」
3.0.1 4D-WC
3.0.1
「どうぞ、こちらへ」という短い案内をして手を差し出した後、エレベータで上の階で降りるまで、前を歩く三人の男はこちらを振り向かなかった。こういう気障な手合いは、どうにも性が合わない。
埃は無いのにもかかわらず、経年で薄汚れた廊下のタイル。莉子のヒールの踵とも相性が悪いらしく、気味の悪い音を時々立てる。
「すいません、この部屋です」
次に手を差し出したのは別の男、警官姿の一人だった。
もう一人警官がいたはずだが、周りには見当たらない。
莉子はわざと背筋を伸ばしたまま、男たちには視線を向けないようにして中に入る。
最初が肝心だ。
「こういった場所には慣れておられないでしょう」
「そうでもないですけど」
「あれ、そうですか」スーツの男が大袈裟に驚く。
「国は、綺麗事だけでは回っていませんからね」そう言って莉子は微笑む。
「なるほど」
頷きながら、スーツの男は机の向こう側の椅子に、鈍い動作で腰掛ける。丁度、莉子とは向かい合う形になる。
「私は——すいませんね、申し遅れまして——定兼(さだかね)、と申します。ちょっとの間、ご辛抱をお願いします。慣れない土地ですが、暫くお付き合い下さい」
そう言って定兼も、微笑み返す。
顔が細長く、眼鏡を掛けているが、それ以外にはこれといった特徴のない男だった。大阪人という雰囲気も全く感じられない。
「いえ、全く問題ありません。最悪、今日中には東京に戻れれば大丈夫です」
「そんなに手間は取らせないと、思いますよ」
ドアの開く音がして、先程の三人のうちの一人、最初にカウンタ越しに莉子の話を聞いた制服の警官が入ってきた。手には無機質なA4サイズの黒いファイルを持っている。注意深く観察したが、見出しや表紙はなく内容を類推するのは困難だった。
一人いないと思っていたら、これを取りに行っていたのか。
定兼と名乗る男はそれを無言で軽く頷いてから受け取り、徐にページをめくり始める。目の前の小さなテーブルの上はそのファイルを広げただけでほぼ全てのスペースが塞がってしまった。
「小野原さんに、何かあったんでしょうか」
「ええ、そうですね、率直に言えば、我々は被疑者として小野原貞政を追っています」
「被疑者」
「時間節約の為にも、簡単にご説明しましょう」
定兼はファイルの中からあるページを開き、それを莉子に見えやすいようにひっくり返してみせた。
ワープロ書きのA4の文面だ。黒い文字と明朝体といった、これといった特徴のない、ビジネス文章に似た印象を受ける。
お願い、というタイトル。
署名は小野原氏の名前だから、小野原氏から誰かに宛てたものだろう。
「これは、何ですか?」
「要するに、脅迫文書です」
「金銭の、要求ですね」
文面には具体的な金額が出ている。そこだけ数字なので、よく目立つ。
ただ、さっと目を通したものの、金銭を要求する部分に至る前半部分が、すっと頭に入ってこない。
難しい表現を使っているというか、回りくどいというか——。
「宗教的な、臭いがしますね」
「御神」という単語を見つけ、莉子はそう慎重に発言した。自分がR大学の柳原から聞いた、「小野原氏は新興宗教に入れ込んでいる」という事前の知識は、まだ披露すべきではない。
「よく、お気付きですね。彼は、実は、近頃どうにもブームになっている新興宗教の一つの熱心な、そりゃあ熱心な信者であるようでして」
「新興宗教?」
「ディテールはすっ飛ばしますが、つまり、彼は若手の教徒がこの団体を抜けようとしたことを聞きつけて、そのように交換条件として金銭を要求したわけですな」
無言で相槌を打つ莉子に、続けて定兼は質問する。
「小野原氏が、そのような団体に属されているのは、ご存じない?」
「ええ、初めて聞きました」
「思い出しても、そんな素振りはなかったですか?」
「そもそも、小野原氏とは東京と大阪という土地の間でのやりとりが殆どでしたから、彼のプライベートに関わる話をしたことは皆無です」
「そうですか、それではますます驚かれたでしょう」
「ええ……」
「今回は、小野原氏の自宅を探されていたんですよね」
「はい」
「それはまた、何故?」
「と、言いますと?」
「プロジェクトの打ち合わせは、普通は自宅ではしないですよね」
嗚呼、疑われているのは、そこか、と莉子は悟る。
「勿論です。今日もさっきまで、京都のR大学にいました。私が今回京都に来たのは、正直なところ、ここ一週間ほど、小野原氏と連絡が取れなくなってしまっていたからです」
「ほお」
「R大学に直接行けば会えるかも知れない、と他の用事も作って参りましたが、大学でも行方が知れず困っている、とのことでしたので、一度教えて貰った自宅まで行ってみようかと」
話した内容を反芻しながら、不自然ではないかを確かめる。
ぎりぎりの線だ。
「なるほどなるほど、そういうことでしたか……」
定兼は何度も頷く。
「経緯は把握致しました。まあ、そういうことで、小野原氏はですね、東川さん、あなたとの連絡が途絶えたぐらい、つまり去年の年末ぐらいにこの手紙を若手の教徒に渡しています」
「はい」
「そしてその後、何故か、行方を眩ましているんです」
「お金は、受け取ったんでしょうか」
「いえ、その若手の教徒が警察に連絡をしてくれてましてね、金銭的な被害は出ていません」
「じゃあ、小野原氏は——」
「うん」定兼は莉子の言葉を受け取る。「恐らく、自分の脅迫が我々に発覚した、と考え逃亡したのだと思われます」
「そういう、ことですか」
「あくまでも推測ですが……まあ、これから彼の自宅を捜索しようと思っていた矢先のことだったので、東川さんの発言を放って置くわけにもいかなかった、という訳なんです」
「はい」
「お話は、これで終わりです。短かったでしょう?」定兼はまたしても微笑む。「何か、ご質問がありますか?」
「……いえ、特には」
「じゃあ、もうお昼ですし、我々も外に出ます。小野原氏とのプロジェクトは、考え直された方が良いかと思います」
「ええ。その方が良さそうですね」
「うんうん。また、何か分かりましたら、ご連絡致しますよ」
そう言って定兼は勝手に何度も頷き、目の前の黒いファイルを、勢い良く閉じた。
「どうぞ、こちらへ」という短い案内をして手を差し出した後、エレベータで上の階で降りるまで、前を歩く三人の男はこちらを振り向かなかった。こういう気障な手合いは、どうにも性が合わない。
埃は無いのにもかかわらず、経年で薄汚れた廊下のタイル。莉子のヒールの踵とも相性が悪いらしく、気味の悪い音を時々立てる。
「すいません、この部屋です」
次に手を差し出したのは別の男、警官姿の一人だった。
もう一人警官がいたはずだが、周りには見当たらない。
莉子はわざと背筋を伸ばしたまま、男たちには視線を向けないようにして中に入る。
最初が肝心だ。
「こういった場所には慣れておられないでしょう」
「そうでもないですけど」
「あれ、そうですか」スーツの男が大袈裟に驚く。
「国は、綺麗事だけでは回っていませんからね」そう言って莉子は微笑む。
「なるほど」
頷きながら、スーツの男は机の向こう側の椅子に、鈍い動作で腰掛ける。丁度、莉子とは向かい合う形になる。
「私は——すいませんね、申し遅れまして——定兼(さだかね)、と申します。ちょっとの間、ご辛抱をお願いします。慣れない土地ですが、暫くお付き合い下さい」
そう言って定兼も、微笑み返す。
顔が細長く、眼鏡を掛けているが、それ以外にはこれといった特徴のない男だった。大阪人という雰囲気も全く感じられない。
「いえ、全く問題ありません。最悪、今日中には東京に戻れれば大丈夫です」
「そんなに手間は取らせないと、思いますよ」
ドアの開く音がして、先程の三人のうちの一人、最初にカウンタ越しに莉子の話を聞いた制服の警官が入ってきた。手には無機質なA4サイズの黒いファイルを持っている。注意深く観察したが、見出しや表紙はなく内容を類推するのは困難だった。
一人いないと思っていたら、これを取りに行っていたのか。
定兼と名乗る男はそれを無言で軽く頷いてから受け取り、徐にページをめくり始める。目の前の小さなテーブルの上はそのファイルを広げただけでほぼ全てのスペースが塞がってしまった。
「小野原さんに、何かあったんでしょうか」
「ええ、そうですね、率直に言えば、我々は被疑者として小野原貞政を追っています」
「被疑者」
「時間節約の為にも、簡単にご説明しましょう」
定兼はファイルの中からあるページを開き、それを莉子に見えやすいようにひっくり返してみせた。
ワープロ書きのA4の文面だ。黒い文字と明朝体といった、これといった特徴のない、ビジネス文章に似た印象を受ける。
お願い、というタイトル。
署名は小野原氏の名前だから、小野原氏から誰かに宛てたものだろう。
「これは、何ですか?」
「要するに、脅迫文書です」
「金銭の、要求ですね」
文面には具体的な金額が出ている。そこだけ数字なので、よく目立つ。
ただ、さっと目を通したものの、金銭を要求する部分に至る前半部分が、すっと頭に入ってこない。
難しい表現を使っているというか、回りくどいというか——。
「宗教的な、臭いがしますね」
「御神」という単語を見つけ、莉子はそう慎重に発言した。自分がR大学の柳原から聞いた、「小野原氏は新興宗教に入れ込んでいる」という事前の知識は、まだ披露すべきではない。
「よく、お気付きですね。彼は、実は、近頃どうにもブームになっている新興宗教の一つの熱心な、そりゃあ熱心な信者であるようでして」
「新興宗教?」
「ディテールはすっ飛ばしますが、つまり、彼は若手の教徒がこの団体を抜けようとしたことを聞きつけて、そのように交換条件として金銭を要求したわけですな」
無言で相槌を打つ莉子に、続けて定兼は質問する。
「小野原氏が、そのような団体に属されているのは、ご存じない?」
「ええ、初めて聞きました」
「思い出しても、そんな素振りはなかったですか?」
「そもそも、小野原氏とは東京と大阪という土地の間でのやりとりが殆どでしたから、彼のプライベートに関わる話をしたことは皆無です」
「そうですか、それではますます驚かれたでしょう」
「ええ……」
「今回は、小野原氏の自宅を探されていたんですよね」
「はい」
「それはまた、何故?」
「と、言いますと?」
「プロジェクトの打ち合わせは、普通は自宅ではしないですよね」
嗚呼、疑われているのは、そこか、と莉子は悟る。
「勿論です。今日もさっきまで、京都のR大学にいました。私が今回京都に来たのは、正直なところ、ここ一週間ほど、小野原氏と連絡が取れなくなってしまっていたからです」
「ほお」
「R大学に直接行けば会えるかも知れない、と他の用事も作って参りましたが、大学でも行方が知れず困っている、とのことでしたので、一度教えて貰った自宅まで行ってみようかと」
話した内容を反芻しながら、不自然ではないかを確かめる。
ぎりぎりの線だ。
「なるほどなるほど、そういうことでしたか……」
定兼は何度も頷く。
「経緯は把握致しました。まあ、そういうことで、小野原氏はですね、東川さん、あなたとの連絡が途絶えたぐらい、つまり去年の年末ぐらいにこの手紙を若手の教徒に渡しています」
「はい」
「そしてその後、何故か、行方を眩ましているんです」
「お金は、受け取ったんでしょうか」
「いえ、その若手の教徒が警察に連絡をしてくれてましてね、金銭的な被害は出ていません」
「じゃあ、小野原氏は——」
「うん」定兼は莉子の言葉を受け取る。「恐らく、自分の脅迫が我々に発覚した、と考え逃亡したのだと思われます」
「そういう、ことですか」
「あくまでも推測ですが……まあ、これから彼の自宅を捜索しようと思っていた矢先のことだったので、東川さんの発言を放って置くわけにもいかなかった、という訳なんです」
「はい」
「お話は、これで終わりです。短かったでしょう?」定兼はまたしても微笑む。「何か、ご質問がありますか?」
「……いえ、特には」
「じゃあ、もうお昼ですし、我々も外に出ます。小野原氏とのプロジェクトは、考え直された方が良いかと思います」
「ええ。その方が良さそうですね」
「うんうん。また、何か分かりましたら、ご連絡致しますよ」
そう言って定兼は勝手に何度も頷き、目の前の黒いファイルを、勢い良く閉じた。
3.0.0 4D-WC
3.0.0
次なる目的地が大阪に決まり、東川莉子は早々にR大学を後にした。京都に在住する、古い付き合いの政治家とも会わないことにする。時間に多少の余裕はあるが、京都の街も次回に持ち越しだ。時間に関して、不必要な綱渡りはしない主義である。
帰りのタクシーは、行きと比較すればスムーズに駅に辿り着いたが、初詣客と見られる人の波は相変わらずだった。大勢の着物姿の女性が、莉子とは逆方向に歩いて行く。そう言えば、もう何年も、着物で初詣には行っていない。今畑に連れられ、普段と変わらぬスーツ姿のまま、東京の小さな神社に参るのが年明けの恒例行事になっているものの、それを初詣と呼ぶのは、正直、憚られる。
大阪へ向かう満員電車に乗り込み、手帳を開く。
まだ、「電算機センター小野原氏」の付箋は剥がせない。むしろ、彼の住所が示されたメモが横に追加されてしまった。消費した時間に相当する成果は、全く得られていない。ただ、そのメモの横には更に、興味深い語句が付け加えられていた。
新興宗教。
今畑里緒奈が失踪した案件を思い出さずにはいられない。但し、里緒奈が属する団体に、大阪支部があるのかは不明だ。去年、大事件を起こした例の団体を初めとして、新興宗教など、掃いて捨てるほど存在するだろう。それでも、奇妙な符合に莉子は引き寄せられるしかなかった。小野原に再会できれば、少なくとも教育関係の案件は先に進む。可能性は極めて低いが、あわよくば、里緒奈に関する話も聞き出せるかも知れない。
ふと顔を上げ、一つ息を吐く。
車窓からは、寒々しい山々が見渡せる。
瓦葺きの日本家屋や背の低いマンションが、次々と後ろに流れていく。
こういった自然に近い風景を、ゆったりと眺められれば良いが、生憎車両の中は年明けで賑わう家族や若者たちの会話で満たされている。のどかさの欠片もない。
早く帰って、気楽にお酒でも飲みたいな。
行きつけのバーの、店長の顔が浮かぶ。
そんな思考は、車両に響くアナウンスで遮られる。
もう大阪に着いたのかと思って聞いてみるが、どうやら途中の停車駅のようだ。
乗降口付近に立っていた莉子は揉まれながら一旦ホームへと降りる羽目になり、その直後に強制的に車内へと詰め込まれる格好となった。もう一歩奥にお進み下さい、という無茶なアナウンス。幾度となく経験しているはずの満員電車なのに、慣れる気配はない。手帳も少し前に閉じておいて良かった。
結局、目的地に到着するまで、男性の首元を注視したまま残りの時間を過ごす結果となった。
電車のドアが開いた瞬間、ピンボールの玉のように押し出され、周囲に任せたままホーム、改札口、そしていつの間にか駅の外へと流れ着いていた。近くに初詣をする場所が思い付かないが、人間の数は京都以上だ。
ともかくも、小野原氏の自宅に急がなければ。
時計はまだ昼食には早い時間を指し示している。先に用事を済ませてしまおう。
決意して、手帳を開き、住所を確認しようとした。
ページを間違えたのかと思ったが、そうではないらしい。
「電算機センター小野原氏」の付箋の横に貼っていたはずの小野原氏の住所。
その付箋が、ない。
前後、何枚かの紙をめくって見てみたが、他の場所にも、見当たらない。
思わず、唇を噛む。
私としたことが……。
冷静さを欠いていたか。
まずは、駅から電話でR大学に問い合わせ直した。そもそもこの住所を教えてくれた柳原教授に尋ね直そうとしたのだが、彼は近くには見当たらない、との事務的な返答。必要ないと判断して、直通の連絡先も聞かなかった。電話を切って数秒悩んだが、名前から調べ直すことに決める。リカバできれば、問題ない。
思い立って電話帳を捲る。しかし「小野原貞政」という人物は掲載されていなかった。
駅の案内所で尋ねると、近くに大きな警察署があるとの話を聞くことができた。わざわざ外まで着いてきてくれた駅員に、「ほら」と指差された大きな道路越しには、確かにその建物が見えている。
「大阪、慣れてます?」という柔らかいアクセントの質問。
「あまり——来ないですね」
「ややこしいけど、地下から行って下さい。えっとね」
丁重に頭を下げ、言われた通りの道順を進むと、ものの数分でその警察署には到着した。
随分と大きな入口だった。
政治関係者は警察と聞くと必要以上に身構えてしまう癖があるが、莉子も例外ではない。
「どうしました?」
カウンタの向こう側、数人の警官が机に向かって作業をしている中、一人が来客の姿を認めて立ち上がる。
「いえ、ある方の自宅を探しております。大阪市内だということは分かっているのですが」
「その人の名前は、わかってらっしゃるんかね」
「はい。小野原貞政、という」
「——うん、じゃあ一旦そっちの椅子に座って。話、聞きますから」
発言を中断させられ、莉子はカウンタの前の椅子に腰掛ける。
どうにもペースが掴めない。
まずは名刺を渡し、東京で国会議員秘書をしていることを告げる。
里緒奈の失踪の件は警察には言うな、と今畑から念を押されている。今回の小野原氏の一件はあくまで、R大学との教育関係のプロジェクトでの一環であることを自分に言い聞かせる。
「ほお、それはそれは、まずはこっちで見てみましょう。調べるのに時間が掛かるなら、また言います」
そう言い残して、男性警官は広いフロアの隅の方に引っ込んだ。コンピュータの前に座って操作したり、分厚い本を取り出して調べている。
ここで駄目ならば、R大学にもう一度聞いてみよう。
大阪で宿泊するのだけは避けたい。単純に、時間が足りないからだ。
祈るような気持ちで待つ数分間が過ぎ、ゆっくりと先程の警官が戻ってきた。何故か、別の男性二人が横に付き添っている。
「どうでしたか?」
分かったのか、分からないのか。
しかし、その返答はどちらでもなかった。
「東川さん……ですかね、あなた、小野原さんとはどういった関係でしたかね」
「そちらの男性には既にお話ししましたが」意外にも、質問をしたのは付き添った二人のうちの一人だった。「R大学との共同で行っております教育関係のプロジェクトのパートナーです」
「そうですか……いや、東川さん、今日、お時間は空いておられますか」
「いえ、一刻も早く仕事を終えて東京に戻りたいのですが」
「うーん」
と、唸ったのは付き添っていた二人のもう一人、制服ではなくスーツの男だった。
「実はね、あなたが探されている、小野原さん、私たちも探しているんです」
「——と、言いますと」
「お忙しいのは重々承知なんですが、詳しい話をしたいんで、お時間をちょいとばかし頂戴したいんです」
「何か、あったんですか」
「ここでは、お話しできないんです」
その言葉と共に、スーツの男の眼光が鋭くなる。
「……ひとまず、東京に連絡をしてもよろしいですか」
「ええ、結構ですよ。年明けの忙しい時に、本当に申し訳ありませんね……こちらも早く済ませるように努力しますんで、どうか、お付き合い下さい」
スーツの男は、奇妙にバランスの崩れた笑顔で軽く頭を下げた。
再度、莉子は唇を噛む。
目が笑っていない笑顔ほど、
怖いものはない。
そして、
丁寧な言い回しで告げられる命令ほど、
不快なものはない。
「承知しました。精一杯、ご協力致します」
次なる目的地が大阪に決まり、東川莉子は早々にR大学を後にした。京都に在住する、古い付き合いの政治家とも会わないことにする。時間に多少の余裕はあるが、京都の街も次回に持ち越しだ。時間に関して、不必要な綱渡りはしない主義である。
帰りのタクシーは、行きと比較すればスムーズに駅に辿り着いたが、初詣客と見られる人の波は相変わらずだった。大勢の着物姿の女性が、莉子とは逆方向に歩いて行く。そう言えば、もう何年も、着物で初詣には行っていない。今畑に連れられ、普段と変わらぬスーツ姿のまま、東京の小さな神社に参るのが年明けの恒例行事になっているものの、それを初詣と呼ぶのは、正直、憚られる。
大阪へ向かう満員電車に乗り込み、手帳を開く。
まだ、「電算機センター小野原氏」の付箋は剥がせない。むしろ、彼の住所が示されたメモが横に追加されてしまった。消費した時間に相当する成果は、全く得られていない。ただ、そのメモの横には更に、興味深い語句が付け加えられていた。
新興宗教。
今畑里緒奈が失踪した案件を思い出さずにはいられない。但し、里緒奈が属する団体に、大阪支部があるのかは不明だ。去年、大事件を起こした例の団体を初めとして、新興宗教など、掃いて捨てるほど存在するだろう。それでも、奇妙な符合に莉子は引き寄せられるしかなかった。小野原に再会できれば、少なくとも教育関係の案件は先に進む。可能性は極めて低いが、あわよくば、里緒奈に関する話も聞き出せるかも知れない。
ふと顔を上げ、一つ息を吐く。
車窓からは、寒々しい山々が見渡せる。
瓦葺きの日本家屋や背の低いマンションが、次々と後ろに流れていく。
こういった自然に近い風景を、ゆったりと眺められれば良いが、生憎車両の中は年明けで賑わう家族や若者たちの会話で満たされている。のどかさの欠片もない。
早く帰って、気楽にお酒でも飲みたいな。
行きつけのバーの、店長の顔が浮かぶ。
そんな思考は、車両に響くアナウンスで遮られる。
もう大阪に着いたのかと思って聞いてみるが、どうやら途中の停車駅のようだ。
乗降口付近に立っていた莉子は揉まれながら一旦ホームへと降りる羽目になり、その直後に強制的に車内へと詰め込まれる格好となった。もう一歩奥にお進み下さい、という無茶なアナウンス。幾度となく経験しているはずの満員電車なのに、慣れる気配はない。手帳も少し前に閉じておいて良かった。
結局、目的地に到着するまで、男性の首元を注視したまま残りの時間を過ごす結果となった。
電車のドアが開いた瞬間、ピンボールの玉のように押し出され、周囲に任せたままホーム、改札口、そしていつの間にか駅の外へと流れ着いていた。近くに初詣をする場所が思い付かないが、人間の数は京都以上だ。
ともかくも、小野原氏の自宅に急がなければ。
時計はまだ昼食には早い時間を指し示している。先に用事を済ませてしまおう。
決意して、手帳を開き、住所を確認しようとした。
ページを間違えたのかと思ったが、そうではないらしい。
「電算機センター小野原氏」の付箋の横に貼っていたはずの小野原氏の住所。
その付箋が、ない。
前後、何枚かの紙をめくって見てみたが、他の場所にも、見当たらない。
思わず、唇を噛む。
私としたことが……。
冷静さを欠いていたか。
まずは、駅から電話でR大学に問い合わせ直した。そもそもこの住所を教えてくれた柳原教授に尋ね直そうとしたのだが、彼は近くには見当たらない、との事務的な返答。必要ないと判断して、直通の連絡先も聞かなかった。電話を切って数秒悩んだが、名前から調べ直すことに決める。リカバできれば、問題ない。
思い立って電話帳を捲る。しかし「小野原貞政」という人物は掲載されていなかった。
駅の案内所で尋ねると、近くに大きな警察署があるとの話を聞くことができた。わざわざ外まで着いてきてくれた駅員に、「ほら」と指差された大きな道路越しには、確かにその建物が見えている。
「大阪、慣れてます?」という柔らかいアクセントの質問。
「あまり——来ないですね」
「ややこしいけど、地下から行って下さい。えっとね」
丁重に頭を下げ、言われた通りの道順を進むと、ものの数分でその警察署には到着した。
随分と大きな入口だった。
政治関係者は警察と聞くと必要以上に身構えてしまう癖があるが、莉子も例外ではない。
「どうしました?」
カウンタの向こう側、数人の警官が机に向かって作業をしている中、一人が来客の姿を認めて立ち上がる。
「いえ、ある方の自宅を探しております。大阪市内だということは分かっているのですが」
「その人の名前は、わかってらっしゃるんかね」
「はい。小野原貞政、という」
「——うん、じゃあ一旦そっちの椅子に座って。話、聞きますから」
発言を中断させられ、莉子はカウンタの前の椅子に腰掛ける。
どうにもペースが掴めない。
まずは名刺を渡し、東京で国会議員秘書をしていることを告げる。
里緒奈の失踪の件は警察には言うな、と今畑から念を押されている。今回の小野原氏の一件はあくまで、R大学との教育関係のプロジェクトでの一環であることを自分に言い聞かせる。
「ほお、それはそれは、まずはこっちで見てみましょう。調べるのに時間が掛かるなら、また言います」
そう言い残して、男性警官は広いフロアの隅の方に引っ込んだ。コンピュータの前に座って操作したり、分厚い本を取り出して調べている。
ここで駄目ならば、R大学にもう一度聞いてみよう。
大阪で宿泊するのだけは避けたい。単純に、時間が足りないからだ。
祈るような気持ちで待つ数分間が過ぎ、ゆっくりと先程の警官が戻ってきた。何故か、別の男性二人が横に付き添っている。
「どうでしたか?」
分かったのか、分からないのか。
しかし、その返答はどちらでもなかった。
「東川さん……ですかね、あなた、小野原さんとはどういった関係でしたかね」
「そちらの男性には既にお話ししましたが」意外にも、質問をしたのは付き添った二人のうちの一人だった。「R大学との共同で行っております教育関係のプロジェクトのパートナーです」
「そうですか……いや、東川さん、今日、お時間は空いておられますか」
「いえ、一刻も早く仕事を終えて東京に戻りたいのですが」
「うーん」
と、唸ったのは付き添っていた二人のもう一人、制服ではなくスーツの男だった。
「実はね、あなたが探されている、小野原さん、私たちも探しているんです」
「——と、言いますと」
「お忙しいのは重々承知なんですが、詳しい話をしたいんで、お時間をちょいとばかし頂戴したいんです」
「何か、あったんですか」
「ここでは、お話しできないんです」
その言葉と共に、スーツの男の眼光が鋭くなる。
「……ひとまず、東京に連絡をしてもよろしいですか」
「ええ、結構ですよ。年明けの忙しい時に、本当に申し訳ありませんね……こちらも早く済ませるように努力しますんで、どうか、お付き合い下さい」
スーツの男は、奇妙にバランスの崩れた笑顔で軽く頭を下げた。
再度、莉子は唇を噛む。
目が笑っていない笑顔ほど、
怖いものはない。
そして、
丁寧な言い回しで告げられる命令ほど、
不快なものはない。
「承知しました。精一杯、ご協力致します」
2.9.0 4D-WC
2.9.0
嶋井善継は、次の仕事を命じられた。
事件現場であるこのビルで働く職員に対する、被害者への面通しである。
小石川部長からは簡潔な指示が出ただけだったので、どうすればいいのかよく分からない。
ひとまず一階に戻ったものの、他の上司も見つからないし、あんまり知り合いもいない。
話し掛けるのも、なんとなく気恥ずかしい。
さっきまでは、被害者自身がここの職員ではないかどうかの確認を行っていた。
結果は、完全にハズレ。
「あ、どんな感じですか?」
特に理由もなく、ビルの入口付近にある四基のエレベータに近付き、自分と歳が変わらなさそうな鑑識係の一人に話し掛けた。
「今のところ、何にも出ないですね」
「そっか……」
しかしその後の言葉が続かない。
「嶋井、お前、何してんの?」
「はい?」
背後から呼び止められたのでビクっとしてそちらを向くと、上司の堂山が歩いてきていた。
「おつかれさまです!」
「仕事ないなら、一緒に行くか?眞田と一緒に外で別件を見に行くんだが」
「いや、仕事はあります!」
「……あっそ」妙な沈黙が流れる。「じゃあいいけど。ほんとに仕事、あるんだろな?」
「はい。あの、被害者の面通しを、小石川部長に指示頂きました」
「じゃあ、さっさとしろよ。どこでやるの?」
「まだ、決めてませんが」
「場所を確保、設営はそこらへんのヤツ捕まえて手伝ってもらえ。それが終わったら、少なくとも一課の人間には面通しするってちゃんと連絡しとけ。できるか?」
「あ、今、メモとります」
「それぐらい覚えろよ」
「すいません」
堂山は軽く溜息をつき、「ま、頑張れ。仕事は一人でやるな」とだけ言って、歩いて行ってしまった。眞田の名前が出ていたが、堂山は誰も連れておらず一人だった。
指示が貰えたので、その通りに動くことにする。
結局、場所は一階にある広めの小会議室に決定、鑑識から警備目的の巡査部長から年齢が同じぐらいの人員に相談して机と椅子を並べる。その人間たちに、職員が出勤したら順次、小会議室に誘導するようにお願いした。
元々、面通し用の被害者の写真は持っている。これで準備万端だ。
「ふう」
誰もいない、白い壁を基調とした殺風景な部屋。
窓からはブラインド越しに朝日が差し込む。
嶋井が座るパイプ椅子は、一課の会議室にあるのより座り心地が良い。
国立大学、金があるんだな、きっと。
今日も帰りは遅くなるんだろうか。
などと考えていたら、ノックの音がして、最初の面通しがいきなり始まった。
最初は男性が二人だった。たむら、そして、えざわ。職員名簿のコピーからその人を見つけてチェックをする。
用意していたポラロイド写真を何枚か見せるが、知らない、との返答。
次に入ってきたのは小柄な女性だった。名前を聞き、職員名簿のコピーからその人を消す。さこむら、という名字だった。何度か慎重に見ていたが、彼女も被害者は知らない、とのこと。
続いてどんどんと入ってくる。しかし、「くさか」という男性、「よしだ」という男性、「さだおか」「なりた」という女性二人、「にいやま」「おかだ」「にしむら」の三人組の男性と女性の混合、「すい」という男性。
全て、被害者の顔は知らないと言う。
少し、間が空いたので飲み物を飲んで休憩。
そして続けては三人組。「よりの」「かたまき」「まつき」、「よりの」「まつき」は男性、「かたまき」は女性。それぞれ職員名簿から発見してチェックする。
各々に一、二枚のポラロイド写真を渡す。それぞれ別の写真なので、見終わったら他の人に回してもらう。
女性である「かたまき」が、不思議と長い時間写真を見つめている。
慎重なタイプなのだろう。はっきり言って、遺体は普段とは表情が違うことも多い。似ているかも知れない、とは感じてもそう簡単に断定はできない。
一方、残り二人の男性はあんまりやる気がない感じだ。二人とも、一目で写真から目を離す。特に若くない方の男前——「よりの」の方は部屋に入ってくるときから協力的な態度ではなかった。こういうヤツはあんまり相手にしたくないが、警察にやたらとつっかかってくる人間も珍しくはない。
「何か、あるのか」と「よりの」が「かたまき」に尋ねる。
「ううん、違うと思うけど」
「じっくり、時間を掛けてもらって結構ですよ」と、声を掛ける。はい、と短く「かたまき」は答える。
「僕は……知らないですね」とは「まつき」の弁。
「一応、交換するか。ごめん、そっちにある写真、貰えるか」
「はい」
「よりの」が「まつき」と写真を交換する。
「うーん」
「見たこと、ないですよ、やっぱり」
「あの……」
と、「かたまき」がこちらを向いた。
「なにか、気が付きましたか」
「いえ、この人は知らないですけど、この人がしてるネックレスが」
「どういうことでしょう」
「これ、依野君、見て」
「え?俺?」
「これ、あなたが昔つけてたの、見たことある」
その瞬間、「よりの」の表情が何とも言えない複雑なものになった。そしてしばらく写真を凝視した後、
「ああ」
と、声を漏らした。我慢していたのに出てしまったような、妙な音だった。
「見せて頂いても良いですか」
「まつき」は一瞬だけ躊躇う仕草を見せたが、すぐに写真をこちらに向けた。
それは首より下が写された、比較的アップになった写真だった。
確かに、ネックレスをしている。
はっきりとはしないが、紫色に似た小さな玉が数珠のように繋がっているように見える。
それから数秒間、「よりの」は黙ったままだった。
というよりは、写真を見ながら声にならない声を吐き出し続けていた。
これは何か、知っている。
「よりのさん、その方をご存じですか」
「まだ、わからないですけど」
「全然、結構ですよ」
「いや……」
相手が真一文字に結んだ唇を見ると、なんと言っていいか分からなくなって、嶋井は待った。
「どうして、こんなところにいるのかが、わからないですが」
「はい」
「よりの」は、いきなり思い付いたように嶋井を見た。
「あの、直接、僕は、この人を見ることは出来ませんか」
「それは……えっと、場合による……と、思います。どういう、ことでしょうか?」
「どういう、って……」
「その人は、誰なんです?」
「答えた方がいいよ、依野君」
「娘です。私の、娘の、悦吏子(えりこ)です」
嶋井善継は、次の仕事を命じられた。
事件現場であるこのビルで働く職員に対する、被害者への面通しである。
小石川部長からは簡潔な指示が出ただけだったので、どうすればいいのかよく分からない。
ひとまず一階に戻ったものの、他の上司も見つからないし、あんまり知り合いもいない。
話し掛けるのも、なんとなく気恥ずかしい。
さっきまでは、被害者自身がここの職員ではないかどうかの確認を行っていた。
結果は、完全にハズレ。
「あ、どんな感じですか?」
特に理由もなく、ビルの入口付近にある四基のエレベータに近付き、自分と歳が変わらなさそうな鑑識係の一人に話し掛けた。
「今のところ、何にも出ないですね」
「そっか……」
しかしその後の言葉が続かない。
「嶋井、お前、何してんの?」
「はい?」
背後から呼び止められたのでビクっとしてそちらを向くと、上司の堂山が歩いてきていた。
「おつかれさまです!」
「仕事ないなら、一緒に行くか?眞田と一緒に外で別件を見に行くんだが」
「いや、仕事はあります!」
「……あっそ」妙な沈黙が流れる。「じゃあいいけど。ほんとに仕事、あるんだろな?」
「はい。あの、被害者の面通しを、小石川部長に指示頂きました」
「じゃあ、さっさとしろよ。どこでやるの?」
「まだ、決めてませんが」
「場所を確保、設営はそこらへんのヤツ捕まえて手伝ってもらえ。それが終わったら、少なくとも一課の人間には面通しするってちゃんと連絡しとけ。できるか?」
「あ、今、メモとります」
「それぐらい覚えろよ」
「すいません」
堂山は軽く溜息をつき、「ま、頑張れ。仕事は一人でやるな」とだけ言って、歩いて行ってしまった。眞田の名前が出ていたが、堂山は誰も連れておらず一人だった。
指示が貰えたので、その通りに動くことにする。
結局、場所は一階にある広めの小会議室に決定、鑑識から警備目的の巡査部長から年齢が同じぐらいの人員に相談して机と椅子を並べる。その人間たちに、職員が出勤したら順次、小会議室に誘導するようにお願いした。
元々、面通し用の被害者の写真は持っている。これで準備万端だ。
「ふう」
誰もいない、白い壁を基調とした殺風景な部屋。
窓からはブラインド越しに朝日が差し込む。
嶋井が座るパイプ椅子は、一課の会議室にあるのより座り心地が良い。
国立大学、金があるんだな、きっと。
今日も帰りは遅くなるんだろうか。
などと考えていたら、ノックの音がして、最初の面通しがいきなり始まった。
最初は男性が二人だった。たむら、そして、えざわ。職員名簿のコピーからその人を見つけてチェックをする。
用意していたポラロイド写真を何枚か見せるが、知らない、との返答。
次に入ってきたのは小柄な女性だった。名前を聞き、職員名簿のコピーからその人を消す。さこむら、という名字だった。何度か慎重に見ていたが、彼女も被害者は知らない、とのこと。
続いてどんどんと入ってくる。しかし、「くさか」という男性、「よしだ」という男性、「さだおか」「なりた」という女性二人、「にいやま」「おかだ」「にしむら」の三人組の男性と女性の混合、「すい」という男性。
全て、被害者の顔は知らないと言う。
少し、間が空いたので飲み物を飲んで休憩。
そして続けては三人組。「よりの」「かたまき」「まつき」、「よりの」「まつき」は男性、「かたまき」は女性。それぞれ職員名簿から発見してチェックする。
各々に一、二枚のポラロイド写真を渡す。それぞれ別の写真なので、見終わったら他の人に回してもらう。
女性である「かたまき」が、不思議と長い時間写真を見つめている。
慎重なタイプなのだろう。はっきり言って、遺体は普段とは表情が違うことも多い。似ているかも知れない、とは感じてもそう簡単に断定はできない。
一方、残り二人の男性はあんまりやる気がない感じだ。二人とも、一目で写真から目を離す。特に若くない方の男前——「よりの」の方は部屋に入ってくるときから協力的な態度ではなかった。こういうヤツはあんまり相手にしたくないが、警察にやたらとつっかかってくる人間も珍しくはない。
「何か、あるのか」と「よりの」が「かたまき」に尋ねる。
「ううん、違うと思うけど」
「じっくり、時間を掛けてもらって結構ですよ」と、声を掛ける。はい、と短く「かたまき」は答える。
「僕は……知らないですね」とは「まつき」の弁。
「一応、交換するか。ごめん、そっちにある写真、貰えるか」
「はい」
「よりの」が「まつき」と写真を交換する。
「うーん」
「見たこと、ないですよ、やっぱり」
「あの……」
と、「かたまき」がこちらを向いた。
「なにか、気が付きましたか」
「いえ、この人は知らないですけど、この人がしてるネックレスが」
「どういうことでしょう」
「これ、依野君、見て」
「え?俺?」
「これ、あなたが昔つけてたの、見たことある」
その瞬間、「よりの」の表情が何とも言えない複雑なものになった。そしてしばらく写真を凝視した後、
「ああ」
と、声を漏らした。我慢していたのに出てしまったような、妙な音だった。
「見せて頂いても良いですか」
「まつき」は一瞬だけ躊躇う仕草を見せたが、すぐに写真をこちらに向けた。
それは首より下が写された、比較的アップになった写真だった。
確かに、ネックレスをしている。
はっきりとはしないが、紫色に似た小さな玉が数珠のように繋がっているように見える。
それから数秒間、「よりの」は黙ったままだった。
というよりは、写真を見ながら声にならない声を吐き出し続けていた。
これは何か、知っている。
「よりのさん、その方をご存じですか」
「まだ、わからないですけど」
「全然、結構ですよ」
「いや……」
相手が真一文字に結んだ唇を見ると、なんと言っていいか分からなくなって、嶋井は待った。
「どうして、こんなところにいるのかが、わからないですが」
「はい」
「よりの」は、いきなり思い付いたように嶋井を見た。
「あの、直接、僕は、この人を見ることは出来ませんか」
「それは……えっと、場合による……と、思います。どういう、ことでしょうか?」
「どういう、って……」
「その人は、誰なんです?」
「答えた方がいいよ、依野君」
「娘です。私の、娘の、悦吏子(えりこ)です」
2.8.2 4D-WC
2.8.2
ビルの中に入ってすぐ、奥にある部屋に入るように促された。とある警官(ビルの外側にいたのとは別の警官だ)の話によると、「これは職員全員に対して形式的に行っていることであり、決してあなた方を特別な目で見ているのではありません」とのこと。
依野がこれに対して不快感をはっきりと表した。感情的になることは珍しくない彼だけれど、地下鉄の駅での手荷物検査を思い出したのかもしれない。随分と待たされた挙げ句に、それこそ「形式的な」検査しか行わない、まさに時間の浪費だ、という依野の意見には一般人なら誰しもが賛成するところだろう。
「お気持ちは分かりますが、ここは、実際の事件現場なんです」眉をぴくりとも動かさずに、警官は受け答えする。「それに、職員の数は限られていますし、前もってこちらもある程度の情報は持っています。無駄な取り調べは決して致しませんので、どうかご安心下さい」
「いや、僕もね、何も無闇につっかかってるわけじゃないんですよ」
横でやりとりを聞きながら、片牧は気が付いていた。
今確かに、「取り調べ」という言葉を警官は使った。
無意識だろうが、しっかりと気持ちは言葉に出る。
一方、松木は無言、無表情のまま、曖昧に周囲を見回している。すっかり見慣れた職場のロビーなのだから、何かを探しているはずもなく、単なる暇つぶしだろう。
もう、何時だろう。
そう思って目をやった左手の腕時計は九時半を少し過ぎている。
それにしても、ロビーには本当にたくさんの人間が行き来している。
あちこちに敷かれたブルーのビニールシート。制服姿で床にしゃがみ込み、食い入るように地面を見つめる数人の男たち。私服の人間は手帳を片手に情報交換を続けている。
しかし、意外なのは、静かだということだ。
勿論、全く音がしないわけはないが、人間の数の割には、目立つような騒音はない。喋り声も静か、作業の音も同様だ。だから、ぼんやりとこのロビーの風景を眺めているだけならば、事件があったということが遠い世界の出来事にも思えてくる。モニターかテレビ越しに見ている、現実から浮遊した映像だと錯覚しそうだ。
人は、大きすぎる変化には鈍感になるのだ。
「それでは、こちらへお越し下さい」
という警官の声で片牧は依野と松木の方に向き直す。
結局、依野は折れたようだ。
ロビーに隣接している広いエレベータホールは四基あり、片牧も普段から使用しているものだが、それらの周りにも捜査員らしき人間が何人もいて、壁に向かって作業を繰り返している。素人から見る限り、指紋でも採取しているのだろうか。
「エレベータ使えないと、上にあがれないですよね」
と、呟く松木。
「うん」とだけ応じる。続ける言葉が見つからなかったからだ。
三人は警官に連れられたままエレベータ横の廊下を奥に進む。
人の姿は減るが、それはそれで、不気味だ。
「この奥の部屋で、お話を聞かせて頂きます」
「嗚呼……小会議室、ですかね」
「どうなんでしょう」その警官の表情が曇るのを初めて見た。「部屋の名前は存じ上げませんが……皆さんの方がよほど、詳しいと思いますので」
この廊下を奥に言って一度角を曲がったところに、割と多くの人数が入ることができる小会議室がある。
話を聞けそうな場所は、片牧には、とりあえずそこしか思いつかなかった。
一度廊下を奥に行った場所で、再びたくさんの捜査員らしき人間を発見した。
そこは狭いが、エレベータホールになっており、一基だけがいつも動いている。
その周りはしかし、入口の四基のエレベータよりも多くの人間が取り囲み、最も、物々しかった。
なんだろう。
ここで、何かがあったのか。
目が勝手にそのエレベータホールを隅から隅まで追ってしまう。
好奇心には、勝てない。
「くるまいす?」
と言ったのは、松木だった。
口に出してしまうなんて、松木らしい。
そう、片牧もしっかりと発見していた。車椅子が、エレベータの中にそのまま、こちらを向いて置かれていた。
そこに誰かが座っていたのだろうか。
その人が被害者だろうか。
車椅子に乗るような、そんな人がこの職場にいただろうか。
それともその人が犯人だろうか。
犯人?
何の?
そもそも、何が起こったのか、全くといっていいほど聞かされていないじゃないか。
「こちらです、皆さん、そちらはまだ調査中ですので」
先を行く警官に諭され、片牧も松木も、エレベータホールから目を離す。
「とっとと、終わらせようや」
依野はしかめっ面でその部屋のドアを指さす。
ドアは、開いていた。
「捜査室」
というワープロ書きのぶっきらぼうな張り紙が内側になされている。
「こちらで、お願いします」
依野の声が聞こえたはずなのに、警官は丁重にお辞儀をして、三人を迎え入れた。
ビルの中に入ってすぐ、奥にある部屋に入るように促された。とある警官(ビルの外側にいたのとは別の警官だ)の話によると、「これは職員全員に対して形式的に行っていることであり、決してあなた方を特別な目で見ているのではありません」とのこと。
依野がこれに対して不快感をはっきりと表した。感情的になることは珍しくない彼だけれど、地下鉄の駅での手荷物検査を思い出したのかもしれない。随分と待たされた挙げ句に、それこそ「形式的な」検査しか行わない、まさに時間の浪費だ、という依野の意見には一般人なら誰しもが賛成するところだろう。
「お気持ちは分かりますが、ここは、実際の事件現場なんです」眉をぴくりとも動かさずに、警官は受け答えする。「それに、職員の数は限られていますし、前もってこちらもある程度の情報は持っています。無駄な取り調べは決して致しませんので、どうかご安心下さい」
「いや、僕もね、何も無闇につっかかってるわけじゃないんですよ」
横でやりとりを聞きながら、片牧は気が付いていた。
今確かに、「取り調べ」という言葉を警官は使った。
無意識だろうが、しっかりと気持ちは言葉に出る。
一方、松木は無言、無表情のまま、曖昧に周囲を見回している。すっかり見慣れた職場のロビーなのだから、何かを探しているはずもなく、単なる暇つぶしだろう。
もう、何時だろう。
そう思って目をやった左手の腕時計は九時半を少し過ぎている。
それにしても、ロビーには本当にたくさんの人間が行き来している。
あちこちに敷かれたブルーのビニールシート。制服姿で床にしゃがみ込み、食い入るように地面を見つめる数人の男たち。私服の人間は手帳を片手に情報交換を続けている。
しかし、意外なのは、静かだということだ。
勿論、全く音がしないわけはないが、人間の数の割には、目立つような騒音はない。喋り声も静か、作業の音も同様だ。だから、ぼんやりとこのロビーの風景を眺めているだけならば、事件があったということが遠い世界の出来事にも思えてくる。モニターかテレビ越しに見ている、現実から浮遊した映像だと錯覚しそうだ。
人は、大きすぎる変化には鈍感になるのだ。
「それでは、こちらへお越し下さい」
という警官の声で片牧は依野と松木の方に向き直す。
結局、依野は折れたようだ。
ロビーに隣接している広いエレベータホールは四基あり、片牧も普段から使用しているものだが、それらの周りにも捜査員らしき人間が何人もいて、壁に向かって作業を繰り返している。素人から見る限り、指紋でも採取しているのだろうか。
「エレベータ使えないと、上にあがれないですよね」
と、呟く松木。
「うん」とだけ応じる。続ける言葉が見つからなかったからだ。
三人は警官に連れられたままエレベータ横の廊下を奥に進む。
人の姿は減るが、それはそれで、不気味だ。
「この奥の部屋で、お話を聞かせて頂きます」
「嗚呼……小会議室、ですかね」
「どうなんでしょう」その警官の表情が曇るのを初めて見た。「部屋の名前は存じ上げませんが……皆さんの方がよほど、詳しいと思いますので」
この廊下を奥に言って一度角を曲がったところに、割と多くの人数が入ることができる小会議室がある。
話を聞けそうな場所は、片牧には、とりあえずそこしか思いつかなかった。
一度廊下を奥に行った場所で、再びたくさんの捜査員らしき人間を発見した。
そこは狭いが、エレベータホールになっており、一基だけがいつも動いている。
その周りはしかし、入口の四基のエレベータよりも多くの人間が取り囲み、最も、物々しかった。
なんだろう。
ここで、何かがあったのか。
目が勝手にそのエレベータホールを隅から隅まで追ってしまう。
好奇心には、勝てない。
「くるまいす?」
と言ったのは、松木だった。
口に出してしまうなんて、松木らしい。
そう、片牧もしっかりと発見していた。車椅子が、エレベータの中にそのまま、こちらを向いて置かれていた。
そこに誰かが座っていたのだろうか。
その人が被害者だろうか。
車椅子に乗るような、そんな人がこの職場にいただろうか。
それともその人が犯人だろうか。
犯人?
何の?
そもそも、何が起こったのか、全くといっていいほど聞かされていないじゃないか。
「こちらです、皆さん、そちらはまだ調査中ですので」
先を行く警官に諭され、片牧も松木も、エレベータホールから目を離す。
「とっとと、終わらせようや」
依野はしかめっ面でその部屋のドアを指さす。
ドアは、開いていた。
「捜査室」
というワープロ書きのぶっきらぼうな張り紙が内側になされている。
「こちらで、お願いします」
依野の声が聞こえたはずなのに、警官は丁重にお辞儀をして、三人を迎え入れた。