2.8.1 4D-WC
2.8.1
地面の下での混乱は、よく振った缶ビールを開けた時のように、急激に地下鉄の入口から周囲の道路、建物、人々へと伝播していった。
警察の警備の声、野次馬の好奇の目、車のクラクション。
その中を三人は、縫うように歩く。
職場であるT大学が近付くに連れ、野次馬の中に学生らしき若者が増えてくる。警察官が度を超した学生を制しながら、三角コーンを並べてポールで繋いだだけの簡易の柵の外へと押し出している。片牧はこの様子をどこかで見たことがあると思った次の瞬間、それが何なのかわかった。マラソンの中継映像に似ているのだ。
大学の門をくぐると、流石に、多少喧噪は落ち着いた。学生も真っ直ぐに何処かへと向かっているし、学生でなくとも、それは同様だった。但し相変わらず、人の数は多い。それが事件のせいなのか正月明け最初の月曜日だからなのかは判然としないが、非日常を印象付けるのには充分すぎるほどだった。
「去年の事件もあるし、本当に物騒ね」知らぬ内、呟いていた。「子供を外に出せないかも」
「ああ、確かに」三人の中では一番先頭を歩いていた依野が振り向き、首を大きく、何度も縦に振る。
うちはまだ息子だからましかもしれないが、やはり娘を持つ父親としては、心配の種類も違うのだろう、と想像する。
松木は珍しく、片牧と依野に後ろに沿って、黙って歩いている。
その様子が既に充分に、現場の異常さを示しているようにも思える。
歩くにつれ、見慣れた建造物が視界に入り出す。
外面からは鏡に見える硝子窓。
その窓が精緻に並べられた壁面を持つ、二十階を超えるビル。
周りには競うような建物も存在しないため、やけに目立つ。
そして、片牧は悟る。
その入口の付近の地上が、日常から著しく乖離していることを。
「あれ、ほら」
思わず、驚きと共にその付近を指していた指先に、前を歩いていた依野は一瞥だけくれて、
「みたいだな、やっぱり」
と、気のなさそうな返事をした。
彼には、予想の範囲内だったんだ、と感じる。
「すごい、パトカーが……一、二、三……」
松木の呟き声に被さるようにして、赤色灯を光らせながら、更にもう一台のパトカーが三人を追い抜いていく。
遅れてきたそのパトカーは「立入禁止」のテープの前で一旦停止し、立っていた警官と車の中から一言二言交わしたかと思うと、そのまま封鎖が解かれたテープの合間からビルの陰へと消えていった。
あっちは駐車場だ、片牧は咄嗟に思う。
自分たちの駐車場が使われているのだ、という奇妙な感覚。
「入っても、いいんでしょうか、僕たち……」
依野は松木の発言よりも先に、先ほどパトカーを通した警官の側に駆け寄っていた。やっぱり、こういうときには、依野の後ろ姿は逞しく感じられる。
残された二人は、しばらくその場で待機する。
「あ、あれ、迫村(さこむら)さん、っぽくないです?」
「さこむらさん、って誰?」
待っている間、松木が手をコートのポケットに突っ込んだまま、顎でビルの入口付近を指し示す。この際、何も言うまい。
「立入禁止」のテープのずっと向こう、ビルのエントランスにつながる数段の階段を誰かが上っている。髪の長さから言って女性のようだが、この距離ではそれ以上のことは判別できない。
「僕の同期です、ほら、センター内では結構有名なんですけど、……知りません、よね」
「うん。何で、有名なの?」
「別に……、大したことじゃないんで、いいです」
「わかった」
普段なら追及するところだけど、そんな場合じゃない。
その「さこむらさん」に焦点を合わせるのに疲れ始めた時点で、ちょうど依野が戻ってきた。大した距離でもないのに、息が上がっている。片牧の知る限り、彼らしくない挙動だった。
「どうだったの?何があったの?」
「うん……人が、死んだらしい」
「死んだ」
と、オウム返ししたのは松木だった。
「誰が?知ってる人?」
依野は悲痛な表情で首を横に振る。「詳しいことは、中で話す、って言われた。教えてもらえなかったんだ」
片牧はその返答に二の句が継げず、唇が乾いていることに、今更ながら、気が付く。
黙っているのは松木も同じだった。
「知ってる人かも、知れない、知らない人かも、知れない」
依野は、噛んで含めるようにゆっくりと言った。半分は自らに向けての言葉なのだろう。
「今、ここで変な考えを巡らしても、しょうがない。中で話を聞こう」
「そうね」
松木を横目で伺うと、下を向いたまま、依然、黙っている。
「あの、三人とも、このセンターの職員の方ですか」
大きな声で、そう呼び掛けられた。依野がさっきまで話をしていた警官が、こちらへと歩みを進めている。
「そうです。同僚です」
「大変、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。こちらの男性には先ほどお話ししましたが、昨日、この場所で事件がありました。残念ながら、犠牲者が出ております。まだ捜査は、開始したばかりですので、是非ともお三方にお話を、知ってる限りのことで結構ですので、聴かせて頂きたいと考えております」
近付いてみると、背が高い警察官だった。淡々と、割合に事務的な口調だった。
その抑揚の無さに、却って片牧は薄ら寒くなった。
地面の下での混乱は、よく振った缶ビールを開けた時のように、急激に地下鉄の入口から周囲の道路、建物、人々へと伝播していった。
警察の警備の声、野次馬の好奇の目、車のクラクション。
その中を三人は、縫うように歩く。
職場であるT大学が近付くに連れ、野次馬の中に学生らしき若者が増えてくる。警察官が度を超した学生を制しながら、三角コーンを並べてポールで繋いだだけの簡易の柵の外へと押し出している。片牧はこの様子をどこかで見たことがあると思った次の瞬間、それが何なのかわかった。マラソンの中継映像に似ているのだ。
大学の門をくぐると、流石に、多少喧噪は落ち着いた。学生も真っ直ぐに何処かへと向かっているし、学生でなくとも、それは同様だった。但し相変わらず、人の数は多い。それが事件のせいなのか正月明け最初の月曜日だからなのかは判然としないが、非日常を印象付けるのには充分すぎるほどだった。
「去年の事件もあるし、本当に物騒ね」知らぬ内、呟いていた。「子供を外に出せないかも」
「ああ、確かに」三人の中では一番先頭を歩いていた依野が振り向き、首を大きく、何度も縦に振る。
うちはまだ息子だからましかもしれないが、やはり娘を持つ父親としては、心配の種類も違うのだろう、と想像する。
松木は珍しく、片牧と依野に後ろに沿って、黙って歩いている。
その様子が既に充分に、現場の異常さを示しているようにも思える。
歩くにつれ、見慣れた建造物が視界に入り出す。
外面からは鏡に見える硝子窓。
その窓が精緻に並べられた壁面を持つ、二十階を超えるビル。
周りには競うような建物も存在しないため、やけに目立つ。
そして、片牧は悟る。
その入口の付近の地上が、日常から著しく乖離していることを。
「あれ、ほら」
思わず、驚きと共にその付近を指していた指先に、前を歩いていた依野は一瞥だけくれて、
「みたいだな、やっぱり」
と、気のなさそうな返事をした。
彼には、予想の範囲内だったんだ、と感じる。
「すごい、パトカーが……一、二、三……」
松木の呟き声に被さるようにして、赤色灯を光らせながら、更にもう一台のパトカーが三人を追い抜いていく。
遅れてきたそのパトカーは「立入禁止」のテープの前で一旦停止し、立っていた警官と車の中から一言二言交わしたかと思うと、そのまま封鎖が解かれたテープの合間からビルの陰へと消えていった。
あっちは駐車場だ、片牧は咄嗟に思う。
自分たちの駐車場が使われているのだ、という奇妙な感覚。
「入っても、いいんでしょうか、僕たち……」
依野は松木の発言よりも先に、先ほどパトカーを通した警官の側に駆け寄っていた。やっぱり、こういうときには、依野の後ろ姿は逞しく感じられる。
残された二人は、しばらくその場で待機する。
「あ、あれ、迫村(さこむら)さん、っぽくないです?」
「さこむらさん、って誰?」
待っている間、松木が手をコートのポケットに突っ込んだまま、顎でビルの入口付近を指し示す。この際、何も言うまい。
「立入禁止」のテープのずっと向こう、ビルのエントランスにつながる数段の階段を誰かが上っている。髪の長さから言って女性のようだが、この距離ではそれ以上のことは判別できない。
「僕の同期です、ほら、センター内では結構有名なんですけど、……知りません、よね」
「うん。何で、有名なの?」
「別に……、大したことじゃないんで、いいです」
「わかった」
普段なら追及するところだけど、そんな場合じゃない。
その「さこむらさん」に焦点を合わせるのに疲れ始めた時点で、ちょうど依野が戻ってきた。大した距離でもないのに、息が上がっている。片牧の知る限り、彼らしくない挙動だった。
「どうだったの?何があったの?」
「うん……人が、死んだらしい」
「死んだ」
と、オウム返ししたのは松木だった。
「誰が?知ってる人?」
依野は悲痛な表情で首を横に振る。「詳しいことは、中で話す、って言われた。教えてもらえなかったんだ」
片牧はその返答に二の句が継げず、唇が乾いていることに、今更ながら、気が付く。
黙っているのは松木も同じだった。
「知ってる人かも、知れない、知らない人かも、知れない」
依野は、噛んで含めるようにゆっくりと言った。半分は自らに向けての言葉なのだろう。
「今、ここで変な考えを巡らしても、しょうがない。中で話を聞こう」
「そうね」
松木を横目で伺うと、下を向いたまま、依然、黙っている。
「あの、三人とも、このセンターの職員の方ですか」
大きな声で、そう呼び掛けられた。依野がさっきまで話をしていた警官が、こちらへと歩みを進めている。
「そうです。同僚です」
「大変、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。こちらの男性には先ほどお話ししましたが、昨日、この場所で事件がありました。残念ながら、犠牲者が出ております。まだ捜査は、開始したばかりですので、是非ともお三方にお話を、知ってる限りのことで結構ですので、聴かせて頂きたいと考えております」
近付いてみると、背が高い警察官だった。淡々と、割合に事務的な口調だった。
その抑揚の無さに、却って片牧は薄ら寒くなった。
2.8.0 4D-WC
2.8.0
地下鉄ホーム内の手荷物検査は、依野明良(あきら)、片牧智佳子、松木修太の順番で行われることになった。単純に、検査を待つ時の並びがこの順だったに過ぎない。依野はまず、持っていた黒いビジネスバッグを開かれ、「仕事用ですか」「お勤めはどちらで?」という簡単な身元調査をされた。最後には国立情報学研究センターのIDカードを提示して検査を締めくくっていたので、残りの二人もそれに従うことにした。片牧のパソコンに関しては、バッグから出されたまでは良かったが、検査官は不思議そうに蓋を開け閉めしたりパソコンごと裏返したりしただけで、それを元の位置に戻した。今の検査で何が分かるんだろう、と松木は笑いたいような笑えないような気分になった。
松木はバッグを持っていなかったのでコートを脱がされ、内ポケットまで確認された。変なものを入れておかなくて良かった、と日頃の行いに感謝した。
結果的には問題なく検査は終了して、最後に依野が「事件があったんですか」と聞くと、
「はい。このすぐ近くです。ただ、地上に上がっても多数の警察官で警備を続けておりますので、ご安心下さい」
という返答が帰って来た。
安心していいなら、検査は要らないだろう、と松木は心の中でつっこむ。
怪しい人間がいるかも知れないから、検査しているんだろう?
松木の検査が終わるのを待ってくれていた依野と片牧は、地上への上り階段の踊り場の端で、所在なさそうに立っていた。検査を終えた大量の人々の流れを遮断しないように、そうするしかなかったのだ。
「待たせてすいません」
「君が悪いんじゃないし、まあ、行こうか」という依野の呼び掛けに片牧も頷く。
階段を上りながら、やっと垣間見えた地上の光は、想像以上に眩しく感じられた。
そして同時に、真冬の冷気が頭上に降りかかってくる。
しかしその冷気が持つ攻撃的な印象や、地上独特のにおい、階段を上る人々の声の隙間から微かに聞こえてくる地上の音。それら全てが、普段と変わらないはずなのに、不思議と懐かしかった。
「連絡、どうしようか」
依野は冷静に相談する。出勤時間に遅刻していることを言っているのに違いなかった。
「別に、大丈夫じゃないですか? きっと、センターもこの事態は知ってるんじゃないですかね」
松木の軽い口調に、依野は慎重に応える。
「確かに……センターに着いたら、事情を説明しに行こう」
「ええ」
と、片牧は短く呟いた。何か、他のことを考えているようにも見える。
「主任、どうしたんですか?」
「うん……別に、もう、どうでもいいんだけどね」
「どうでもいい、って顔、してないけどね」と依野がおどけた表情を作る。
「いや、結局——」片牧は階段の出口を見つめたまま、本当に少しだけ首を傾げた。「どんなことが起こってるのか、全然知らせてもらってないって、こんなに怖いんだな、と思って」
地下鉄ホーム内の手荷物検査は、依野明良(あきら)、片牧智佳子、松木修太の順番で行われることになった。単純に、検査を待つ時の並びがこの順だったに過ぎない。依野はまず、持っていた黒いビジネスバッグを開かれ、「仕事用ですか」「お勤めはどちらで?」という簡単な身元調査をされた。最後には国立情報学研究センターのIDカードを提示して検査を締めくくっていたので、残りの二人もそれに従うことにした。片牧のパソコンに関しては、バッグから出されたまでは良かったが、検査官は不思議そうに蓋を開け閉めしたりパソコンごと裏返したりしただけで、それを元の位置に戻した。今の検査で何が分かるんだろう、と松木は笑いたいような笑えないような気分になった。
松木はバッグを持っていなかったのでコートを脱がされ、内ポケットまで確認された。変なものを入れておかなくて良かった、と日頃の行いに感謝した。
結果的には問題なく検査は終了して、最後に依野が「事件があったんですか」と聞くと、
「はい。このすぐ近くです。ただ、地上に上がっても多数の警察官で警備を続けておりますので、ご安心下さい」
という返答が帰って来た。
安心していいなら、検査は要らないだろう、と松木は心の中でつっこむ。
怪しい人間がいるかも知れないから、検査しているんだろう?
松木の検査が終わるのを待ってくれていた依野と片牧は、地上への上り階段の踊り場の端で、所在なさそうに立っていた。検査を終えた大量の人々の流れを遮断しないように、そうするしかなかったのだ。
「待たせてすいません」
「君が悪いんじゃないし、まあ、行こうか」という依野の呼び掛けに片牧も頷く。
階段を上りながら、やっと垣間見えた地上の光は、想像以上に眩しく感じられた。
そして同時に、真冬の冷気が頭上に降りかかってくる。
しかしその冷気が持つ攻撃的な印象や、地上独特のにおい、階段を上る人々の声の隙間から微かに聞こえてくる地上の音。それら全てが、普段と変わらないはずなのに、不思議と懐かしかった。
「連絡、どうしようか」
依野は冷静に相談する。出勤時間に遅刻していることを言っているのに違いなかった。
「別に、大丈夫じゃないですか? きっと、センターもこの事態は知ってるんじゃないですかね」
松木の軽い口調に、依野は慎重に応える。
「確かに……センターに着いたら、事情を説明しに行こう」
「ええ」
と、片牧は短く呟いた。何か、他のことを考えているようにも見える。
「主任、どうしたんですか?」
「うん……別に、もう、どうでもいいんだけどね」
「どうでもいい、って顔、してないけどね」と依野がおどけた表情を作る。
「いや、結局——」片牧は階段の出口を見つめたまま、本当に少しだけ首を傾げた。「どんなことが起こってるのか、全然知らせてもらってないって、こんなに怖いんだな、と思って」
2.7.0 4D-WC
2.7.0
堂山昭輔係長と眞田敬二郎が国立情報学研究センターを出て行ってから、小石川巧は休憩することに決めた。このビルの二階に食堂がある。出勤時間前で職員もおらず、まともな料理は食べられないが、飲み物以外にも軽食が買える自動販売機があったことを思い出した。
食堂には、一晩掛けて積もった静かな空気が静かに溜まっていた。白いテーブル、白い椅子は整列して黙っている。それは、兵隊が集団の秩序を乱されまいとして、侵入者を拒絶するのに似ていた。
紙のカップの珈琲と固形の栄養食品を買って、巧は兵隊の一つに腰掛け、外を見た。二階は天井までの嵌め込み硝子で、景色が広く見渡せる。但しマジックミラーになっているので、外から食堂の様子は分からない。現在座っている位置はこのビルの入口に面しており、出勤してくる人間がいれば歩いてくるのが見えるはずだった。
視点を定めないまま、巧は、今朝まで滞在していた施設にいる幼いこどもたちのことを考えた。世話も焼けるが、皆、大切な家族だ。協力できることがあれば、できるだけのことはしてやりたい。
しかしそれにしても、金曜日に司から聴かされた話は、正直驚くべき内容だった。司は小学生の頃から聡明で、テストが簡単すぎてつまらないとこぼしていた。小学校六年生で理系大学生用の数学の問題集を楽しそうに解いていた。中学生の時にされた質問には、専門分野以外では答えられなくなっていた。
気が付くと、ちらほらとこのビルに向かって歩いてくる人が増えてきた。
知った職員がいるだろうか。目を凝らしてみるが、顔までは判別できない。
早朝、このビルに呼び出されたときにはまだ真夜中並みの暗さだったが、すっかり辺りは明るくなっている。
そしてまた巧は、珈琲に口を付ける。
司の要求は、要約すれば、「研究のため渡米したい」ということだった。高校は楽しいので卒業したいが、アメリカの有名大学に自分の興味ある分野の権威がいることを知り、更に直接その教授本人からも「一度来てみると良い」と打診されている、と言うではないか。そう、既に彼女は直接自分で英語を操り、コンタクトを取っていたのだ。
娘を嫁に出す時の父親は、こういう気持ちなのかもしれない、と巧は感じる。司の溢れる才能は活かしてやりたい。反面、残る淋しさに嘘はつけない。不安も当然ある。
一体、どうしたものだろうか。
「こちらにいらっしゃったんですね」
不意に掛けられた言葉に、巧は慌てて振り返る。
「部長、報告、よろしいでしょうか」
食堂の入口で立っていたのは、捜査一課の嶋井善継(しまいよしつぐ)だった。小脇にファイルを抱えている。
「ああ、済まんね、頼むよ」
「ご休憩中、申し訳ありません。今日は、ずっとこちらに?」
「そうだね、朝、呼び出されたよ。そう言えば、今日会うのは初めてか」
小柄な嶋井は大抵、大きな身振りで話す。その姿が巧には印象的だった。「見つかった?」
「いえ、駄目ですね——全滅です」
嶋井には、被害者の身元が職員なのかどうかを最優先で調べさせた。全職員の顔写真が載ったリストがある場所に保管されているため、それをセンター所長権限で提供して照合させたのだ。
「職員じゃない、ということになるのか」
「そう、ですね」
緊張した表情で嶋井は相槌を打ったが、長い間直立したままなので、「座って良いよ、気を使わなくていい」と巧は言った。安心させるためにも微笑んでみる。まだまだ部下への配慮が足りないな、と内心反省する。
「では、失礼します」
「学生かな……、若い女性か……あまりそういう先入観を持たない方が良いのかも知れないな」
「そうですね」
「君はどう思う」
「いや、そうですね、職員でなければ、部長の仰った通りかと考えます。つまり、T大生であると考えるのが妥当かと思います」
「ああ、そうそう、忘れていたよ」巧は栄養食品を一口食べてから忠告する。「今日、私は部長じゃない、ここの所長なんだ。私が警察関係者であることは、伏せておいて欲しい」
「はあ、構いませんが、なぜでしょうか」嶋井は大袈裟に首を傾げる。
「まあ、説明すると長いんだ。ともかく、私は元々、ここの所長でもある。それは聞いてる?」
「存じ上げております」
「じゃあ大丈夫だ。よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
「嶋井」
「なんでしょうか」
「君はいつも、そんな調子なのか」
「はい、今日は、そこまでではないですが」
返答の意味がよく分からない。念の為、目を見るが、ふざけているようには見えない。
ともかく一度、現場に戻ろう。次の手を寝る必要がある。
「珈琲、飲まないか。私はもういい」巧は立ち上がり、紙のカップを渡す。
「ありがとうございます。あ、しかし」
嶋井の動きが一瞬止まる。
「どうした」
「いえ、私が部長と同じものを」
「嫌なのか」
「いえ、決してそういうわけでは……逆です」嶋井はアヒルの口をした挙げ句に、扇風機の物真似を追加した。
「どっちでもいい。私は一度現場に戻ることにするよ。もしすることがなければ、T大へのアプローチを頼む」
「かしこまりました」
返事をして、嶋井はそのまま巧を凝視している。見張られている感覚に近い。
「珈琲、飲まないのか」
「いえ、飲みます」
「別に嫌なら、構わないが」
「いえ、飲みます」
堂山昭輔係長と眞田敬二郎が国立情報学研究センターを出て行ってから、小石川巧は休憩することに決めた。このビルの二階に食堂がある。出勤時間前で職員もおらず、まともな料理は食べられないが、飲み物以外にも軽食が買える自動販売機があったことを思い出した。
食堂には、一晩掛けて積もった静かな空気が静かに溜まっていた。白いテーブル、白い椅子は整列して黙っている。それは、兵隊が集団の秩序を乱されまいとして、侵入者を拒絶するのに似ていた。
紙のカップの珈琲と固形の栄養食品を買って、巧は兵隊の一つに腰掛け、外を見た。二階は天井までの嵌め込み硝子で、景色が広く見渡せる。但しマジックミラーになっているので、外から食堂の様子は分からない。現在座っている位置はこのビルの入口に面しており、出勤してくる人間がいれば歩いてくるのが見えるはずだった。
視点を定めないまま、巧は、今朝まで滞在していた施設にいる幼いこどもたちのことを考えた。世話も焼けるが、皆、大切な家族だ。協力できることがあれば、できるだけのことはしてやりたい。
しかしそれにしても、金曜日に司から聴かされた話は、正直驚くべき内容だった。司は小学生の頃から聡明で、テストが簡単すぎてつまらないとこぼしていた。小学校六年生で理系大学生用の数学の問題集を楽しそうに解いていた。中学生の時にされた質問には、専門分野以外では答えられなくなっていた。
気が付くと、ちらほらとこのビルに向かって歩いてくる人が増えてきた。
知った職員がいるだろうか。目を凝らしてみるが、顔までは判別できない。
早朝、このビルに呼び出されたときにはまだ真夜中並みの暗さだったが、すっかり辺りは明るくなっている。
そしてまた巧は、珈琲に口を付ける。
司の要求は、要約すれば、「研究のため渡米したい」ということだった。高校は楽しいので卒業したいが、アメリカの有名大学に自分の興味ある分野の権威がいることを知り、更に直接その教授本人からも「一度来てみると良い」と打診されている、と言うではないか。そう、既に彼女は直接自分で英語を操り、コンタクトを取っていたのだ。
娘を嫁に出す時の父親は、こういう気持ちなのかもしれない、と巧は感じる。司の溢れる才能は活かしてやりたい。反面、残る淋しさに嘘はつけない。不安も当然ある。
一体、どうしたものだろうか。
「こちらにいらっしゃったんですね」
不意に掛けられた言葉に、巧は慌てて振り返る。
「部長、報告、よろしいでしょうか」
食堂の入口で立っていたのは、捜査一課の嶋井善継(しまいよしつぐ)だった。小脇にファイルを抱えている。
「ああ、済まんね、頼むよ」
「ご休憩中、申し訳ありません。今日は、ずっとこちらに?」
「そうだね、朝、呼び出されたよ。そう言えば、今日会うのは初めてか」
小柄な嶋井は大抵、大きな身振りで話す。その姿が巧には印象的だった。「見つかった?」
「いえ、駄目ですね——全滅です」
嶋井には、被害者の身元が職員なのかどうかを最優先で調べさせた。全職員の顔写真が載ったリストがある場所に保管されているため、それをセンター所長権限で提供して照合させたのだ。
「職員じゃない、ということになるのか」
「そう、ですね」
緊張した表情で嶋井は相槌を打ったが、長い間直立したままなので、「座って良いよ、気を使わなくていい」と巧は言った。安心させるためにも微笑んでみる。まだまだ部下への配慮が足りないな、と内心反省する。
「では、失礼します」
「学生かな……、若い女性か……あまりそういう先入観を持たない方が良いのかも知れないな」
「そうですね」
「君はどう思う」
「いや、そうですね、職員でなければ、部長の仰った通りかと考えます。つまり、T大生であると考えるのが妥当かと思います」
「ああ、そうそう、忘れていたよ」巧は栄養食品を一口食べてから忠告する。「今日、私は部長じゃない、ここの所長なんだ。私が警察関係者であることは、伏せておいて欲しい」
「はあ、構いませんが、なぜでしょうか」嶋井は大袈裟に首を傾げる。
「まあ、説明すると長いんだ。ともかく、私は元々、ここの所長でもある。それは聞いてる?」
「存じ上げております」
「じゃあ大丈夫だ。よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
「嶋井」
「なんでしょうか」
「君はいつも、そんな調子なのか」
「はい、今日は、そこまでではないですが」
返答の意味がよく分からない。念の為、目を見るが、ふざけているようには見えない。
ともかく一度、現場に戻ろう。次の手を寝る必要がある。
「珈琲、飲まないか。私はもういい」巧は立ち上がり、紙のカップを渡す。
「ありがとうございます。あ、しかし」
嶋井の動きが一瞬止まる。
「どうした」
「いえ、私が部長と同じものを」
「嫌なのか」
「いえ、決してそういうわけでは……逆です」嶋井はアヒルの口をした挙げ句に、扇風機の物真似を追加した。
「どっちでもいい。私は一度現場に戻ることにするよ。もしすることがなければ、T大へのアプローチを頼む」
「かしこまりました」
返事をして、嶋井はそのまま巧を凝視している。見張られている感覚に近い。
「珈琲、飲まないのか」
「いえ、飲みます」
「別に嫌なら、構わないが」
「いえ、飲みます」
2.6.1 4D-WC
2.6.1
タクシーはロータリーに沿って、大学の中央に位置する棟に横付けして停車した。
ありがとう、と礼を述べ莉子は硬い地盤に降り立った。予想以上の寒さに、コートの前をきつく締め直す。そこから逃げるように明治様式のドアをくぐると、円形のエントランスホールに迎えられた。しんとした音が聴こえるほど、静かな空気が満ちている。
廊下の奥の部屋に「教務」のプレートを発見し、小野原教授の名前を出して理学科への道を尋ねる。白いカッターシャツの年配男性に訝しげな顔をされながら、構内の主要な建物の位置を記した地図を渡された。それによると、現在地と棟は異なるが、渡り廊下を使って外に出ることなく理学部まで辿り着くことができそうだった。
途中、自動販売機で缶コーヒーを買い、それを懐炉代わりにしながら歩く。理学科棟の部屋が立ち並ぶ様子は、莉子が事前に考えていた光景とギャップがあった。理系と聞くと大仰な実験装置が幾つも据え付けられている大きな部屋を想像したのに、実際には普段よく目にする会議室のような大きさのドアが等間隔に続いているだけだった。
目が合うのは何れも若い男性で、大抵はジーンズに分厚いセーターを着ている。その内の一人に小野原氏の部屋の場所を尋ねたが明確な返答はなく、入口のドアを一つずつ確かめる最中に、壁の黄ばんだ貼り紙にやっとその名前を認めた。
「小野寺教授には、正直、私たちも少し困っておりましてね」
小野寺教授の部屋の鍵が開いていたので無礼を承知で室内を覗き込むと、中央におかれた無機質なスチールデスクの向こう側、巨大な本棚の本を整理している人物が莉子に背を向けていた。
しかし、それは小野寺教授ではなく、柳原(やなぎはら)という名前の初老の男だった。受け取った名刺には「R大学工学部理学科教授」とある。どうやら柳原教授の部屋は小野寺の幾つか隣だったようで、莉子はそちらの部屋へと改めて案内された。
「ということは、大学側でも小野寺氏が何処にいらっしゃるのか把握されていないのですね?」
「そういうことです」
柳原は噛んで含めるように頷く。
次の質問を考える間に、白髪の教授は再び話し始める。
「さっきも彼の部屋に行ったのは、貸しっぱなしの文献を返して貰う為でね。小野寺教授はどうも、怠惰な性格が過ぎる部分があったように思います」
「連絡が長い間取れない状態も、珍しくはないということですか?」
「いや、そこまでとは言いません」そこで柳原教授は思い出したように提案する。「ああ、珈琲でも淹れましょうか。今日も冷えますしな」
「ありがとうございます」
窓際のブラインドからは日光が差し込み、コーヒーメイカがおかれた場所にゼブラ模様を形作る。黙って待つ時間の余裕はないが、適切な質問も浮かばないまま、莉子は手帳を覗く振りをして考え続ける。
「小野原教授とは、親しくされているのですか?」
「何度か、新しい教育カリキュラムを作る目的でご意見を伺っています」
「そうですか」
珈琲カップが莉子の目の前に置かれる。置かれたカップにはまず口を付ける。莉子が心掛けている法則の一つだ。そしてそれは、自らの師、今畑籐吉の教えでもある。
「柳原教授、小野原教授がこういう状態になっているのに、なぜ誰も困った様子がないのでしょう」
その問いに、柳原は一瞬目を丸くし、やがて口元だけを歪めた。
「充分、困ってますよ、私も、周りの人間も」あなたは何を言っているのか、という不満げな表情が覗き見える。「しかし、ある意味では影響は少ないかもしれない。だって、彼には少なからず普段から困っていましたからね」
そう皮肉って鼻を鳴らす。
「事務処理、彼の講座の学生の面倒、言い出せば切りがないが、言っても仕方ない。動ける人間で手分けして彼の穴埋めをしながら連絡を待っている最中なんですよ」
「事情も存じ上げぬまま失礼な発言を致しました、お許し下さい」
「いいんですよ、あなたが悪いわけではない」
「いえ——それでは、小野原氏と私のやりとりを引き継げる方もいらっしゃらないということですね」
「少なくとも、私には無理ですね」柳原は軽く溜息も吐く。「他にも候補は見当たらない」
「小野原教授に、奥様は?」
「いや、いないはずです。ずっと、独身で通していると思います」
それはこの年代では珍しいことだ、と莉子はその情報を脳にインプットする。
「柳原教授、このまま連絡がなければ、警察に届けるご予定ですか」
「いや、うん……どうだろうね」言葉を濁すためか柳原はコーヒーに一度口を付ける。「正直、面倒は御免被りたい。これが偽らざる本音というところです。あなたのような若い方からすれば、許せないことかも知れませんが」
「私も生憎、若くありません」冗談のつもりだった。「現状に関しては、お察し致します。当然ですが、その部分を追及する意図は全くございません。私は、小野原先生と蓄積してきた時間を無駄にしたくない。それだけです。それが駄目ならば、次の手を考えるまでです」
「なるほど」含み笑いの後、柳原は腕を組んで数秒唸った。「それなら、小野原教授の自宅に直接出向いては如何ですか。ここで私の話を聴くよりは、よっぽど手っ取り早いでしょう」
百聞は一見に如かず。
莉子はこの言葉を盲目的に信じているわけではない。
但し、他に打開策は見当たらない。
「小野原教授のお住まいはどちらなんですか」
「今、住所を印刷しますよ、お待ち下さい」コーヒーカップを持ったまま緩慢に立ち上がり、柳原は流し台を経由してカップを片付けてから、奥の部屋に引っ込んだ。そちらで印刷できるのだろう。
「因みに、少し遠いですよ、大阪なんです。車でお越しですか?」
奥から話し続ける声が聞こえる。
「市内ですか?」莉子はその質問を無視した。
「そうですね、電車なら乗り換えが必要です。尤も、ここが田舎過ぎますが」
莉子は時計を見る。
今から出発すれば、昼食を大阪で食べられるだろうか。
しかし、早々に小野原氏を諦める手も未だ残されている。
「野次馬根性で申し訳ないが、行くならばお願いしたいことがあるんです」
戻ってきた小野原は地図を莉子の前に置くと、神妙な面持ちで言った。
「私にできることならば」
「彼の、良くない噂を知っていますか」
「良くない……いえ、存じ上げませんが」
「彼は、どうやら、その、ある種の、その、宗教に熱を上げているらしいんですよ」
「はあ」急な展開に面食らったが、頭のスイッチを一旦切り替える。
「私も詳しいことは分かりません」柳原の声量が下がる。「今回も、関係しているのかも知れません、生徒はきっと、もっと不愉快な噂にして楽しんでいるでしょう」
なるほど。
そういうこと、か。
「了解しました。ともかくも、一度確かめてきます」
「汚れ役をお頼みするようで、大変、申し訳ない」
ここで自然に微笑むことができるかどうか、それが勝負だ。
「いえ——その代わり、何らかの成果があった時には、是非ともうちの今畑に選挙でご協力頂きますよう、よろしくお願いできますでしょうか」
タクシーはロータリーに沿って、大学の中央に位置する棟に横付けして停車した。
ありがとう、と礼を述べ莉子は硬い地盤に降り立った。予想以上の寒さに、コートの前をきつく締め直す。そこから逃げるように明治様式のドアをくぐると、円形のエントランスホールに迎えられた。しんとした音が聴こえるほど、静かな空気が満ちている。
廊下の奥の部屋に「教務」のプレートを発見し、小野原教授の名前を出して理学科への道を尋ねる。白いカッターシャツの年配男性に訝しげな顔をされながら、構内の主要な建物の位置を記した地図を渡された。それによると、現在地と棟は異なるが、渡り廊下を使って外に出ることなく理学部まで辿り着くことができそうだった。
途中、自動販売機で缶コーヒーを買い、それを懐炉代わりにしながら歩く。理学科棟の部屋が立ち並ぶ様子は、莉子が事前に考えていた光景とギャップがあった。理系と聞くと大仰な実験装置が幾つも据え付けられている大きな部屋を想像したのに、実際には普段よく目にする会議室のような大きさのドアが等間隔に続いているだけだった。
目が合うのは何れも若い男性で、大抵はジーンズに分厚いセーターを着ている。その内の一人に小野原氏の部屋の場所を尋ねたが明確な返答はなく、入口のドアを一つずつ確かめる最中に、壁の黄ばんだ貼り紙にやっとその名前を認めた。
「小野寺教授には、正直、私たちも少し困っておりましてね」
小野寺教授の部屋の鍵が開いていたので無礼を承知で室内を覗き込むと、中央におかれた無機質なスチールデスクの向こう側、巨大な本棚の本を整理している人物が莉子に背を向けていた。
しかし、それは小野寺教授ではなく、柳原(やなぎはら)という名前の初老の男だった。受け取った名刺には「R大学工学部理学科教授」とある。どうやら柳原教授の部屋は小野寺の幾つか隣だったようで、莉子はそちらの部屋へと改めて案内された。
「ということは、大学側でも小野寺氏が何処にいらっしゃるのか把握されていないのですね?」
「そういうことです」
柳原は噛んで含めるように頷く。
次の質問を考える間に、白髪の教授は再び話し始める。
「さっきも彼の部屋に行ったのは、貸しっぱなしの文献を返して貰う為でね。小野寺教授はどうも、怠惰な性格が過ぎる部分があったように思います」
「連絡が長い間取れない状態も、珍しくはないということですか?」
「いや、そこまでとは言いません」そこで柳原教授は思い出したように提案する。「ああ、珈琲でも淹れましょうか。今日も冷えますしな」
「ありがとうございます」
窓際のブラインドからは日光が差し込み、コーヒーメイカがおかれた場所にゼブラ模様を形作る。黙って待つ時間の余裕はないが、適切な質問も浮かばないまま、莉子は手帳を覗く振りをして考え続ける。
「小野原教授とは、親しくされているのですか?」
「何度か、新しい教育カリキュラムを作る目的でご意見を伺っています」
「そうですか」
珈琲カップが莉子の目の前に置かれる。置かれたカップにはまず口を付ける。莉子が心掛けている法則の一つだ。そしてそれは、自らの師、今畑籐吉の教えでもある。
「柳原教授、小野原教授がこういう状態になっているのに、なぜ誰も困った様子がないのでしょう」
その問いに、柳原は一瞬目を丸くし、やがて口元だけを歪めた。
「充分、困ってますよ、私も、周りの人間も」あなたは何を言っているのか、という不満げな表情が覗き見える。「しかし、ある意味では影響は少ないかもしれない。だって、彼には少なからず普段から困っていましたからね」
そう皮肉って鼻を鳴らす。
「事務処理、彼の講座の学生の面倒、言い出せば切りがないが、言っても仕方ない。動ける人間で手分けして彼の穴埋めをしながら連絡を待っている最中なんですよ」
「事情も存じ上げぬまま失礼な発言を致しました、お許し下さい」
「いいんですよ、あなたが悪いわけではない」
「いえ——それでは、小野原氏と私のやりとりを引き継げる方もいらっしゃらないということですね」
「少なくとも、私には無理ですね」柳原は軽く溜息も吐く。「他にも候補は見当たらない」
「小野原教授に、奥様は?」
「いや、いないはずです。ずっと、独身で通していると思います」
それはこの年代では珍しいことだ、と莉子はその情報を脳にインプットする。
「柳原教授、このまま連絡がなければ、警察に届けるご予定ですか」
「いや、うん……どうだろうね」言葉を濁すためか柳原はコーヒーに一度口を付ける。「正直、面倒は御免被りたい。これが偽らざる本音というところです。あなたのような若い方からすれば、許せないことかも知れませんが」
「私も生憎、若くありません」冗談のつもりだった。「現状に関しては、お察し致します。当然ですが、その部分を追及する意図は全くございません。私は、小野原先生と蓄積してきた時間を無駄にしたくない。それだけです。それが駄目ならば、次の手を考えるまでです」
「なるほど」含み笑いの後、柳原は腕を組んで数秒唸った。「それなら、小野原教授の自宅に直接出向いては如何ですか。ここで私の話を聴くよりは、よっぽど手っ取り早いでしょう」
百聞は一見に如かず。
莉子はこの言葉を盲目的に信じているわけではない。
但し、他に打開策は見当たらない。
「小野原教授のお住まいはどちらなんですか」
「今、住所を印刷しますよ、お待ち下さい」コーヒーカップを持ったまま緩慢に立ち上がり、柳原は流し台を経由してカップを片付けてから、奥の部屋に引っ込んだ。そちらで印刷できるのだろう。
「因みに、少し遠いですよ、大阪なんです。車でお越しですか?」
奥から話し続ける声が聞こえる。
「市内ですか?」莉子はその質問を無視した。
「そうですね、電車なら乗り換えが必要です。尤も、ここが田舎過ぎますが」
莉子は時計を見る。
今から出発すれば、昼食を大阪で食べられるだろうか。
しかし、早々に小野原氏を諦める手も未だ残されている。
「野次馬根性で申し訳ないが、行くならばお願いしたいことがあるんです」
戻ってきた小野原は地図を莉子の前に置くと、神妙な面持ちで言った。
「私にできることならば」
「彼の、良くない噂を知っていますか」
「良くない……いえ、存じ上げませんが」
「彼は、どうやら、その、ある種の、その、宗教に熱を上げているらしいんですよ」
「はあ」急な展開に面食らったが、頭のスイッチを一旦切り替える。
「私も詳しいことは分かりません」柳原の声量が下がる。「今回も、関係しているのかも知れません、生徒はきっと、もっと不愉快な噂にして楽しんでいるでしょう」
なるほど。
そういうこと、か。
「了解しました。ともかくも、一度確かめてきます」
「汚れ役をお頼みするようで、大変、申し訳ない」
ここで自然に微笑むことができるかどうか、それが勝負だ。
「いえ——その代わり、何らかの成果があった時には、是非ともうちの今畑に選挙でご協力頂きますよう、よろしくお願いできますでしょうか」
2.6.0 4D-WC
2.6.0
まだ薄ら寒い年明けの、蒼く雲のない空。そこに無機質で巨大なフェンスが覆い被さり、新幹線のホームの線路を防護している。構内のアナウンスから程なくして、微かにその姿を見せたかと思うと刹那、流線型を描き青と白で彩られた車体がホームに滑り込む。
——京都、京都。
我先にと降りてくる乗客の中、東川莉子は手帳を見ながら歩く。周囲は紙袋を持ちリュックを背負った家族連れが多い。幾度か後ろから衝撃を受けたが、全て、腰ほどの背丈の少年少女が自分を追い抜いていくばかりだった。
手帳に貼られた「電算機センター小野原氏」の付箋を剥がす、というのが今回、関西を訪れた主な目的である。
本来ならば来週のアポイントメントだが、結局、小野原貞政氏とは連絡がつかずじまいだ。大学の研究室の人間にも連絡を試みたものの、少なくとも電話は一本もつながらなかった。学者は浮世離れしないと務まらないのだろうか。全く、羨ましい限りだ。
京都には来慣れている。タクシー乗り場まで迷わずに歩き、開け放たれたドアから素早く乗り込む。
煙草の臭いがする社内が気になった。「ありがとうございます。どこまで?」
「R大学のキャンパスまで、お願いします」
「わかりました」
東京に比較して、随分と運転手の態度が柔らかい気がした。単に高齢の運転手だからかもしれない。
昨日は、今畑里緒奈の失踪に関する案件に関し、夜遅くまで警察から事情を聞かれていた。警察がどこまで本腰を入れて調査するのかは未知数だが、お手並み拝見という他ないだろう。
初詣に向かう人の流れが、車の進行にも影響を与えている。「すいませんなあ、年明けはいつもこうなんですよ」と言う運転手の言葉はのんびりしている。それでも、大きな通りを抜け、中心地を過ぎた辺りからは逆に殆ど他の車と擦れ違わなくなった。新年最初の土曜日、午前中に車で出掛ける人間も少ないに違いない。
突然の訪問なのだから、小野寺氏に面会できる可能性が極めて低い事は承知している。莉子が狙っているのは、代役をどのように立てるか、ということである。全く小野寺氏とは無縁の他大学の候補もいるにはいるが、これまで小野寺氏とは、昨年から打ち合わせを重ねている。できればその内容を引き継げる人間を捜し出し、手早く話を纏めてしまいたかった。
実は京都には、慕っている政治家が何人か住んでいる。仮に小野寺氏関連で成果が上がらない場合は、そちらへ、新年の挨拶を兼ね解決策をお願いしに行くという手段も残してある。
約四十五分が経った頃、莉子はバッグから化粧ポーチを出し、髪型と表情を確かめる。
そろそろ到着するはずだ。
道路の両脇には冬の木々が目立つ。春を待つ細い枝が、莉子は不思議と嫌いではない。
少し寂しい印象は、何故か自らの学生時代を連想させる。
大学生時代、自分は何をしていただろう。
記憶を手繰るが、出てくるのは時間の波に溶けてしまった仄かな香りだけだった。
まだ薄ら寒い年明けの、蒼く雲のない空。そこに無機質で巨大なフェンスが覆い被さり、新幹線のホームの線路を防護している。構内のアナウンスから程なくして、微かにその姿を見せたかと思うと刹那、流線型を描き青と白で彩られた車体がホームに滑り込む。
——京都、京都。
我先にと降りてくる乗客の中、東川莉子は手帳を見ながら歩く。周囲は紙袋を持ちリュックを背負った家族連れが多い。幾度か後ろから衝撃を受けたが、全て、腰ほどの背丈の少年少女が自分を追い抜いていくばかりだった。
手帳に貼られた「電算機センター小野原氏」の付箋を剥がす、というのが今回、関西を訪れた主な目的である。
本来ならば来週のアポイントメントだが、結局、小野原貞政氏とは連絡がつかずじまいだ。大学の研究室の人間にも連絡を試みたものの、少なくとも電話は一本もつながらなかった。学者は浮世離れしないと務まらないのだろうか。全く、羨ましい限りだ。
京都には来慣れている。タクシー乗り場まで迷わずに歩き、開け放たれたドアから素早く乗り込む。
煙草の臭いがする社内が気になった。「ありがとうございます。どこまで?」
「R大学のキャンパスまで、お願いします」
「わかりました」
東京に比較して、随分と運転手の態度が柔らかい気がした。単に高齢の運転手だからかもしれない。
昨日は、今畑里緒奈の失踪に関する案件に関し、夜遅くまで警察から事情を聞かれていた。警察がどこまで本腰を入れて調査するのかは未知数だが、お手並み拝見という他ないだろう。
初詣に向かう人の流れが、車の進行にも影響を与えている。「すいませんなあ、年明けはいつもこうなんですよ」と言う運転手の言葉はのんびりしている。それでも、大きな通りを抜け、中心地を過ぎた辺りからは逆に殆ど他の車と擦れ違わなくなった。新年最初の土曜日、午前中に車で出掛ける人間も少ないに違いない。
突然の訪問なのだから、小野寺氏に面会できる可能性が極めて低い事は承知している。莉子が狙っているのは、代役をどのように立てるか、ということである。全く小野寺氏とは無縁の他大学の候補もいるにはいるが、これまで小野寺氏とは、昨年から打ち合わせを重ねている。できればその内容を引き継げる人間を捜し出し、手早く話を纏めてしまいたかった。
実は京都には、慕っている政治家が何人か住んでいる。仮に小野寺氏関連で成果が上がらない場合は、そちらへ、新年の挨拶を兼ね解決策をお願いしに行くという手段も残してある。
約四十五分が経った頃、莉子はバッグから化粧ポーチを出し、髪型と表情を確かめる。
そろそろ到着するはずだ。
道路の両脇には冬の木々が目立つ。春を待つ細い枝が、莉子は不思議と嫌いではない。
少し寂しい印象は、何故か自らの学生時代を連想させる。
大学生時代、自分は何をしていただろう。
記憶を手繰るが、出てくるのは時間の波に溶けてしまった仄かな香りだけだった。
2.5.0 4D-WC
2.5.0
松木修太(まつきしゅうた)が地下鉄のホームに降り立った時には、既に大勢の人が渦を巻くようにひしめき合っていた。皆、行き場を失い、レミングスのように、ただぐるぐるしている。その様子が現実離れしていて滑稽だった。
尤も、松木を含め、列車内の乗客は比較的冷静だった。到着前、T大学で事件が起こったため警察による何らかの対処がなされる可能性がある、とアナウンスされたからだ。
時刻は八時四十五分。ホーム中央に掲げてあるアナログ時計を見た。
「まさか、これで遅刻とか言わないよな、所長……」
就業開始は九時である。但し、こんな異常事態なのだから、流石に誰にも文句は言われないだろう。ここから出られたら、少しの時間ならサボってどこか遊びに行けるかもしれない。
しかしこの大量の人間は、一体ここで何をしているのだろうか。警察が出口を塞いだのは想像に難くないが、ここで今、何が行われているのかは全く分からない。周囲では様々な種類の人が動き続けている。黒や灰色の分厚いコートを着た中年の男女。それに対比して目立つ色の防寒着を着込んでいる若者、これは学生だろう。若いって良いよな、もっと遊んでおけば良かった、と学生を見る度に後悔する。
不意に、がなるような大声がホーム中に充満する。
「手荷物検査、順番に、実施しております。どうか、押し合わぬよう、ご協力をお願いします。この手荷物検査が、終わられた方から、駅の外に出て頂きます。どうか、ご協力を、押し合わぬよう!」
どうやら誰かが拡声器で整理を行っているようだ。
手荷物検査。
手荷物という言葉に反応して自分の身体を見たが、両手ともコートのポケットに突っ込んだままだ。リュックも背負っていない。普段、仕事道具は全て職場に置く習慣なので、松木には「手荷物」はない。コートも脱ぐ必要があるのだろうか。下着になれ、とか言われたら断りたい。というかそれだと、まるで麻薬検査だ。
どんな事件が起こったのか知りたいが、近くには警察官らしき人間はいない。右往左往している人間が多すぎて見つからないというのもある。事件は大学で起こったらしい。キャンパスは広いし、自分の職場には関係ないだろうが、万が一、今日の仕事が休みになったら何をして遊ぶのか、考えておく必要があるかもしれない。いや、その必要まではないか、と一人で内心つっこむ。
急いでいる人間には申し訳ないが、ここはチャンスと捕らえてゆっくり自分の手荷物検査の順番を待つことに決めた。確か、ホーム内に売店がある。そこで飲み物と雑誌でも買えば、時間を潰すのに困ることはないだろう。
松木はうろ覚えのまま、喧噪から離れていく方向にホームを歩いた。擦れ違う人は皆、必死の形相だ。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」
言ってから、我ながら、古い。古すぎる、とまたつっこむ。
そうだよ、余裕が必要でしょ、こういう時こそ。
ホームの壁際、緑色の公衆電話が並ぶ一帯、地べたに座りコンピュータを広げ、キーボードを一生懸命に打ち続けている人もいる。ほっそりとした、中年の女性だ。
ああ、そうだ、どこかで見たことがある。
脳が認識した人影は、松木にとって突如重要な意味を持ち始める。
職場の上司の、片牧智佳子だ。
思わず変な声が出そうになるのを制止した。
咄嗟の判断。
知らない振りだ。
自分でも釈然としないが、後々、面倒になるリスクは避けたい。
売店まで、ひとまず向かおう。
意識して片牧の方を見ないよう努める。
一気に駆け抜けろ、との誰かからの指示。
そして、その奥に見えたのは、売店ではなくトイレだった。
ホームの反対側だったか、売店……。
「あ、松木君」
背後からの声。もう、好きにして下さい。
わざと緩慢に振り向き、驚いた表情を作る。
「あ、主任!こんなところで会うとは」
「仕事前なんだから、会っても全然おかしくないでしょ」
片牧は怪訝な顔になる。
言われれば確かにそうだ。他に出勤前の職員がいてもおかしくない。
「もう、手荷物検査終わった?」
「いや、まだです。さっきの電車で着いたばっかりなんで」
「あ、そうなんだ……どうせ暇でしょ、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
「暇……まあ、暇ですね、そう言えば」
「ちょっとこっち来て、このファイル」こちらの反応は全く無視だ。いつものことだが、いつも嫌だ。「バグが見つからなくて」
こんな状況でよくプログラミングができるな、とある意味、感心する。
仕方なく片牧の横に陣取ってあぐらを掻き、小さなディスプレイを見つめる。「Cですか?」
「うん、あなた、できるでしょ、言語はだいたい」
「何がおかしいんです?」
「レイトレーサ、行列の変換がうまくいってないみたい」
表示されているソースコードを見つめるが、それだけではよく分からない。
「GDBはもう起動してます?」
「うん、勿論」
「ちょっと、いいですか」
諦めて、片牧から詳細を聞き出すために、短い質問のやりとりをする。プログラミングで最も重要なのは、タイピングの早さでも、論理的思考力でもない。現状と目的を正しく把握する能力だ。他人の作ったプログラムなら、尚更そうだ。
何点か、ミスの起こりそうな所に見当を付け、わざと間違った動作を試してみる。
数秒おきに別の可能性を考えつくが、思うままに進めてはいけない。
冷静に。
「いけそう?」横で片牧が不安そうにこちらを見つめる。珍しい表情だ。
「分からないですね、メモリが原因っぽいですけど」一息つく。「これ、そんなに急ぎなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、せっかくコンピュータ持ってたし、仕事しようかなと思って」
見上げた根性だ、という言葉をまた飲み込む。
「後でも、いいんじゃないですか?とりあえず、手荷物検査、並びません?」
「うーん、でも、気になるのよね……」
そう言って片牧はディスプレイを見つめ直す。
よく考えると、こんなに近くで上司の横顔を見るのは初めてだ。
年齢の割には、明らかに容貌は若いし、職場の男性からも人気がある。
わざわざ、こんな職業に就かなくてもいいのに、一瞬だけ思う。
こういうのも、悪くないかもしれない。
いやはや、なんとも、悪くない。
その横顔がディスプレイから視線を外し、ホームの人混みに向けて焦点を定めた。
「あ、依野くん」
その声で正気を取り戻し、松木もそちらを向く。
「片牧!……良かったよ、知り合いがいて」
背の高い短髪の男性。どういう知り合いだろうか。片牧が結婚しているのは知っているが、呼び方からして夫ではなさそうだ。
その男性は他人を掻き分けながらつかつかと歩み寄り、挨拶した。
「おはよう。こちらは?」自分に視線が向けられるのが不思議な感じだ。
「ああ、同じ部署の後輩。あ、松木君、職場の同期の依野(よりの)くん、今は五階で働いているの」
と、後半はこちらに向けて男性を紹介する。
松木の職場はビルであり、五階には同じ機関の別の部署が入っている。実際にどんな仕事をしているのかは咄嗟には思い出せなかった。
「よくわからないけど、大変なことになってるね。手荷物検査をしてるらしい」
ヨリノという男性は眉を顰める。
「何でもいいけど、迷惑な話」片牧も同調する。
「そういえば、どんな、事件があったんですか?」
すっかり聞きそびれていたことを口に出す。
「それが、何も教えてくれないのよ。そりゃ警察からしたら当然かもしれないけど、大学で事件があった、とだけ」
「ふーん、それなら、手荷物検査、行った方がいいんじゃない?」
依野は真っ当な提案をする。
「そうなんだけど、これが気になってて……」
「こんな所でもプログラム?相変わらず仕事ばっかりだな」
苦笑する表情は、松木にとっても好感が持てた。良いお父さん、という風情だ。
「ちょっと、貸してみ」
軽い口調と同時に依野はしゃがみ込み、にっこり微笑む。片牧はコンピュータのディスプレイをそちらに向ける。
「ああ、レイトレーサ?最近たまたま、俺も携わってたよ」
と呟き、松木に一瞬視線を向ける。どういう意味か分からないし、反応の仕方も分からない。
「どんな図形になればいいの?」「こっちに正しい図の画像があるわ」という、松木も行った情報交換が再度。
それきり、依野は黙り込む。
タイピングの音だけを聞きながら、待つこと、約三分。
「OK、わかった」
「え?ほんと?」
片牧が叫ぶ。背中から炎を出して飛び上がりそうだ。
「いや、たまたま、同じミスをしたことがあって、もしかしたらと思って」
「すごい!さすが!」片牧は嬉しそうに手を叩く。
「そんなに感激して貰えるとは思わなかった、やってみるもんだ」
あくまで落ち着いた大人の対応をして、依野は立ち上がる。「あ、保存するの忘れたからそれだけ頼む」
「了解了解」
なんだかなあ、いいとこなしじゃないか、俺。
「そういえば、娘さん、元気?」恐らく仕上げの作業をしながら片牧がディスプレイを見つめたまま尋ねる。
「すっかり高校生だよ。あ、言ってなかったっけ、三人目も産まれたんだ」
依野の破顔は最高潮になる。
「ええ!そりゃおめでとう!そっか、すごいね、上の二人とは随分離れちゃうんだね」
「そうなるね。そっちは?息子一人?」
「そう、やっと中学校入ったばっかり。本当に大変」
「そうか……早いな」
「そうね、早いね」
世間話が始まった。自分に関係ない世間話は、沈黙よりもつらい。
相変わらずの、ホームの喧噪。徐々に制服を着た警察官の数が増え始めている。並べられた赤いポール、作られている列も長くなってきた。
ホームの大きなアナログ時計をもう一度見る。
九時十五分。
「あの、早く、手荷物検査行きましょうよ」
「機嫌悪そうね、松木くん。いつものことだけど」
「そんなことないですよ」
「隠しても分かるわよ」
「機嫌悪くないですって、まじで」
「まじで、はやめなさい」
松木修太(まつきしゅうた)が地下鉄のホームに降り立った時には、既に大勢の人が渦を巻くようにひしめき合っていた。皆、行き場を失い、レミングスのように、ただぐるぐるしている。その様子が現実離れしていて滑稽だった。
尤も、松木を含め、列車内の乗客は比較的冷静だった。到着前、T大学で事件が起こったため警察による何らかの対処がなされる可能性がある、とアナウンスされたからだ。
時刻は八時四十五分。ホーム中央に掲げてあるアナログ時計を見た。
「まさか、これで遅刻とか言わないよな、所長……」
就業開始は九時である。但し、こんな異常事態なのだから、流石に誰にも文句は言われないだろう。ここから出られたら、少しの時間ならサボってどこか遊びに行けるかもしれない。
しかしこの大量の人間は、一体ここで何をしているのだろうか。警察が出口を塞いだのは想像に難くないが、ここで今、何が行われているのかは全く分からない。周囲では様々な種類の人が動き続けている。黒や灰色の分厚いコートを着た中年の男女。それに対比して目立つ色の防寒着を着込んでいる若者、これは学生だろう。若いって良いよな、もっと遊んでおけば良かった、と学生を見る度に後悔する。
不意に、がなるような大声がホーム中に充満する。
「手荷物検査、順番に、実施しております。どうか、押し合わぬよう、ご協力をお願いします。この手荷物検査が、終わられた方から、駅の外に出て頂きます。どうか、ご協力を、押し合わぬよう!」
どうやら誰かが拡声器で整理を行っているようだ。
手荷物検査。
手荷物という言葉に反応して自分の身体を見たが、両手ともコートのポケットに突っ込んだままだ。リュックも背負っていない。普段、仕事道具は全て職場に置く習慣なので、松木には「手荷物」はない。コートも脱ぐ必要があるのだろうか。下着になれ、とか言われたら断りたい。というかそれだと、まるで麻薬検査だ。
どんな事件が起こったのか知りたいが、近くには警察官らしき人間はいない。右往左往している人間が多すぎて見つからないというのもある。事件は大学で起こったらしい。キャンパスは広いし、自分の職場には関係ないだろうが、万が一、今日の仕事が休みになったら何をして遊ぶのか、考えておく必要があるかもしれない。いや、その必要まではないか、と一人で内心つっこむ。
急いでいる人間には申し訳ないが、ここはチャンスと捕らえてゆっくり自分の手荷物検査の順番を待つことに決めた。確か、ホーム内に売店がある。そこで飲み物と雑誌でも買えば、時間を潰すのに困ることはないだろう。
松木はうろ覚えのまま、喧噪から離れていく方向にホームを歩いた。擦れ違う人は皆、必死の形相だ。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」
言ってから、我ながら、古い。古すぎる、とまたつっこむ。
そうだよ、余裕が必要でしょ、こういう時こそ。
ホームの壁際、緑色の公衆電話が並ぶ一帯、地べたに座りコンピュータを広げ、キーボードを一生懸命に打ち続けている人もいる。ほっそりとした、中年の女性だ。
ああ、そうだ、どこかで見たことがある。
脳が認識した人影は、松木にとって突如重要な意味を持ち始める。
職場の上司の、片牧智佳子だ。
思わず変な声が出そうになるのを制止した。
咄嗟の判断。
知らない振りだ。
自分でも釈然としないが、後々、面倒になるリスクは避けたい。
売店まで、ひとまず向かおう。
意識して片牧の方を見ないよう努める。
一気に駆け抜けろ、との誰かからの指示。
そして、その奥に見えたのは、売店ではなくトイレだった。
ホームの反対側だったか、売店……。
「あ、松木君」
背後からの声。もう、好きにして下さい。
わざと緩慢に振り向き、驚いた表情を作る。
「あ、主任!こんなところで会うとは」
「仕事前なんだから、会っても全然おかしくないでしょ」
片牧は怪訝な顔になる。
言われれば確かにそうだ。他に出勤前の職員がいてもおかしくない。
「もう、手荷物検査終わった?」
「いや、まだです。さっきの電車で着いたばっかりなんで」
「あ、そうなんだ……どうせ暇でしょ、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
「暇……まあ、暇ですね、そう言えば」
「ちょっとこっち来て、このファイル」こちらの反応は全く無視だ。いつものことだが、いつも嫌だ。「バグが見つからなくて」
こんな状況でよくプログラミングができるな、とある意味、感心する。
仕方なく片牧の横に陣取ってあぐらを掻き、小さなディスプレイを見つめる。「Cですか?」
「うん、あなた、できるでしょ、言語はだいたい」
「何がおかしいんです?」
「レイトレーサ、行列の変換がうまくいってないみたい」
表示されているソースコードを見つめるが、それだけではよく分からない。
「GDBはもう起動してます?」
「うん、勿論」
「ちょっと、いいですか」
諦めて、片牧から詳細を聞き出すために、短い質問のやりとりをする。プログラミングで最も重要なのは、タイピングの早さでも、論理的思考力でもない。現状と目的を正しく把握する能力だ。他人の作ったプログラムなら、尚更そうだ。
何点か、ミスの起こりそうな所に見当を付け、わざと間違った動作を試してみる。
数秒おきに別の可能性を考えつくが、思うままに進めてはいけない。
冷静に。
「いけそう?」横で片牧が不安そうにこちらを見つめる。珍しい表情だ。
「分からないですね、メモリが原因っぽいですけど」一息つく。「これ、そんなに急ぎなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、せっかくコンピュータ持ってたし、仕事しようかなと思って」
見上げた根性だ、という言葉をまた飲み込む。
「後でも、いいんじゃないですか?とりあえず、手荷物検査、並びません?」
「うーん、でも、気になるのよね……」
そう言って片牧はディスプレイを見つめ直す。
よく考えると、こんなに近くで上司の横顔を見るのは初めてだ。
年齢の割には、明らかに容貌は若いし、職場の男性からも人気がある。
わざわざ、こんな職業に就かなくてもいいのに、一瞬だけ思う。
こういうのも、悪くないかもしれない。
いやはや、なんとも、悪くない。
その横顔がディスプレイから視線を外し、ホームの人混みに向けて焦点を定めた。
「あ、依野くん」
その声で正気を取り戻し、松木もそちらを向く。
「片牧!……良かったよ、知り合いがいて」
背の高い短髪の男性。どういう知り合いだろうか。片牧が結婚しているのは知っているが、呼び方からして夫ではなさそうだ。
その男性は他人を掻き分けながらつかつかと歩み寄り、挨拶した。
「おはよう。こちらは?」自分に視線が向けられるのが不思議な感じだ。
「ああ、同じ部署の後輩。あ、松木君、職場の同期の依野(よりの)くん、今は五階で働いているの」
と、後半はこちらに向けて男性を紹介する。
松木の職場はビルであり、五階には同じ機関の別の部署が入っている。実際にどんな仕事をしているのかは咄嗟には思い出せなかった。
「よくわからないけど、大変なことになってるね。手荷物検査をしてるらしい」
ヨリノという男性は眉を顰める。
「何でもいいけど、迷惑な話」片牧も同調する。
「そういえば、どんな、事件があったんですか?」
すっかり聞きそびれていたことを口に出す。
「それが、何も教えてくれないのよ。そりゃ警察からしたら当然かもしれないけど、大学で事件があった、とだけ」
「ふーん、それなら、手荷物検査、行った方がいいんじゃない?」
依野は真っ当な提案をする。
「そうなんだけど、これが気になってて……」
「こんな所でもプログラム?相変わらず仕事ばっかりだな」
苦笑する表情は、松木にとっても好感が持てた。良いお父さん、という風情だ。
「ちょっと、貸してみ」
軽い口調と同時に依野はしゃがみ込み、にっこり微笑む。片牧はコンピュータのディスプレイをそちらに向ける。
「ああ、レイトレーサ?最近たまたま、俺も携わってたよ」
と呟き、松木に一瞬視線を向ける。どういう意味か分からないし、反応の仕方も分からない。
「どんな図形になればいいの?」「こっちに正しい図の画像があるわ」という、松木も行った情報交換が再度。
それきり、依野は黙り込む。
タイピングの音だけを聞きながら、待つこと、約三分。
「OK、わかった」
「え?ほんと?」
片牧が叫ぶ。背中から炎を出して飛び上がりそうだ。
「いや、たまたま、同じミスをしたことがあって、もしかしたらと思って」
「すごい!さすが!」片牧は嬉しそうに手を叩く。
「そんなに感激して貰えるとは思わなかった、やってみるもんだ」
あくまで落ち着いた大人の対応をして、依野は立ち上がる。「あ、保存するの忘れたからそれだけ頼む」
「了解了解」
なんだかなあ、いいとこなしじゃないか、俺。
「そういえば、娘さん、元気?」恐らく仕上げの作業をしながら片牧がディスプレイを見つめたまま尋ねる。
「すっかり高校生だよ。あ、言ってなかったっけ、三人目も産まれたんだ」
依野の破顔は最高潮になる。
「ええ!そりゃおめでとう!そっか、すごいね、上の二人とは随分離れちゃうんだね」
「そうなるね。そっちは?息子一人?」
「そう、やっと中学校入ったばっかり。本当に大変」
「そうか……早いな」
「そうね、早いね」
世間話が始まった。自分に関係ない世間話は、沈黙よりもつらい。
相変わらずの、ホームの喧噪。徐々に制服を着た警察官の数が増え始めている。並べられた赤いポール、作られている列も長くなってきた。
ホームの大きなアナログ時計をもう一度見る。
九時十五分。
「あの、早く、手荷物検査行きましょうよ」
「機嫌悪そうね、松木くん。いつものことだけど」
「そんなことないですよ」
「隠しても分かるわよ」
「機嫌悪くないですって、まじで」
「まじで、はやめなさい」
2.4.0 4D-WC
2.4.0
日光が広大な日本庭園の池に降り注いでいるのを横目に、坂町慶太は板張りの廊下を進む。
この屋敷に到着してから、どうも現実感が薄い。目の前を歩く着物の女性も摺り足で音を出さず、廊下をひたすらに奥へと進んでいく。
入口の門の前では二十分ほど待たされ、遂に現れた中年の女性(但し、非常に美人だった)が必要最低限の言葉で慶太を屋敷の奥へと案内した。それから、かれこれ十分程、歩き続けている。東京都内にこんな場所が存在するのが不思議でならない。
そもそも、慶太の目的はバイトの説明会を受けに来たことのはずだ。電話で告げられた通りの住所の場所にやって来たが、余りにも事前の想像と実物とのギャップがあったために、何度も自分の記憶を疑う羽目になってしまった。
「わけわからん」とは口に出せず、唇を噛んで前へと進む。
こんなとこまで連れてこられたら、逃げるに逃げられへん。
「——大変、お待たせ致しました」
「はい!」
場違いな返事をしたのにも全く無反応で、着物の女性は立ち止まり慶太を見据えた。「こちらでございます」
音も無く障子が滑り、その部屋の中が見えた。
畳に座る、多くの人、人、人。
横にかなり長い、木製の低い机がいくつも層になって並んでいる。
その間を埋めるように、等間隔にスーツの男女が並んで、ある一方を見つめている。
「どうぞ、お入り下さいませ」
すごすごと、慶太はその畳の部屋に足を踏み入れる。
「それでは、私は他の方のお迎えに向かいます故、ここで失礼致します」
振り向いた時には、既に障子は閉められていた。
仕方がないので、広い空間を見渡して自分の座る場所を探す。長机の最後尾、向かって右側の奥はまだ余裕があったのでそちらへと足早に移動し、腰を下ろす。立ったままの姿勢は、余りにも居心地が悪い。
腰を下ろした姿勢のまま他の人間と同じ方向を向くと、前方は、ステージ状に一段高くなっている。
昔、派遣のバイトをやった時、説明会という名目で、これと似たシチュエーションに遭遇したことがある。
しかしこれほど広くない会場だったし、和風の建物でもなかった。
何より、集まった人間が静か過ぎる。
無駄な音を禁じる結界でも張られているのかと思うほどだ。
慶太の目の前にも、男性が背中を丸め慣れない様子であぐらを掻いているが、しぼんだ風船のように大人しい。
恐らく、全員が慶太と同じ心持ちなのだろう。
ステージというか、舞台の上には誰もいないが、そこには講演でよく見掛ける台が置いてある。
腕時計は、現在十三時五十七分。
集合時間まで、残り三分。
そして慶太は、驚いた。
驚いて顔を向けた先は、
舞台の上ではなく、
さっき自分が入ってきた障子の側だった。
長机と平行になった何十枚もの障子が、一斉に開いたのだ。
そしてそれと同時に起こる驚きの声、溜息。
忍耐の限界から産まれる声は、ストッパを失い指数的に伝播していく。
障子が開いて姿を見せたのは、またもやスーツ姿の男女だった。
但し、こちら側と明確に違うのは、年齢。
ほぼ間違いなく、四十代以上だろう。
何十人もの中年の男女が板張りの廊下の上で横並びになっているというのは、なかなか見られる光景ではない。
「——お静かに」
更に違う方向から突然降ってきた声に、一気に全員が静まり返る。
舞台の上、講演台の後ろに、人間が立って、こちらを見つめている。
いや、遠くてその表情までは分からないはずなのだが、そう感じた。
「——大変長らくお待たせ致しました」
マイクが据え付けられている。スピーカもこの和室に幾つも備え付けられているようだ。
「本日は、『出会いの泉』を盛り上げて下さるという方々がここに、一斉にお集まり頂いております。遠方からの方もいらっしゃいます。誠にありがとうございます。私はこの『出会いの泉』で監修を任されております従前佐紀子(じゅうぜんさきこ)と申します。どうか本日はよろしくお願い致します」
話し終わると同時に拍手が起こるので、それに併せて渋々慶太も手を叩いた。拍手をあおったのは勿論、板張りの廊下にならぶ中年スーツの男女の集団である。
なんやこれ。
ほとんど、宗教やん。
慶太の地元には土着の新興宗教の集会があり、幼い頃は夏にはアイス、冬には肉まんが貰えるので喜んで遊びに行っていた。特に何をするでもなく、同じ目的で集った同級生とひたすら遊んでいただけだった。季節の節目には簡単なお祭り、そして一時期は習字教室も行われていた。
その感覚と、非常に近いのだ、
この、奇妙な「バイトの仕事説明会」は。
「皆さんのお時間を無駄にもできないので、これから早速、バイトの内容の説明へと移らせて頂きます。しかし私がここからたくさんの方々にお話しするよりは、多くの優秀な我が社の社員に説明をさせて頂く方が、質問なども受け付けやすかろうと思われます。是非、疑問点を残さぬよう、しっかりと当日に備えて頂きますようよろしくお願いします」
そしてまた、板張りから拍手。
一体、なんなんや。
慶太は思わず呟く。
「けったくそわるい」
日光が広大な日本庭園の池に降り注いでいるのを横目に、坂町慶太は板張りの廊下を進む。
この屋敷に到着してから、どうも現実感が薄い。目の前を歩く着物の女性も摺り足で音を出さず、廊下をひたすらに奥へと進んでいく。
入口の門の前では二十分ほど待たされ、遂に現れた中年の女性(但し、非常に美人だった)が必要最低限の言葉で慶太を屋敷の奥へと案内した。それから、かれこれ十分程、歩き続けている。東京都内にこんな場所が存在するのが不思議でならない。
そもそも、慶太の目的はバイトの説明会を受けに来たことのはずだ。電話で告げられた通りの住所の場所にやって来たが、余りにも事前の想像と実物とのギャップがあったために、何度も自分の記憶を疑う羽目になってしまった。
「わけわからん」とは口に出せず、唇を噛んで前へと進む。
こんなとこまで連れてこられたら、逃げるに逃げられへん。
「——大変、お待たせ致しました」
「はい!」
場違いな返事をしたのにも全く無反応で、着物の女性は立ち止まり慶太を見据えた。「こちらでございます」
音も無く障子が滑り、その部屋の中が見えた。
畳に座る、多くの人、人、人。
横にかなり長い、木製の低い机がいくつも層になって並んでいる。
その間を埋めるように、等間隔にスーツの男女が並んで、ある一方を見つめている。
「どうぞ、お入り下さいませ」
すごすごと、慶太はその畳の部屋に足を踏み入れる。
「それでは、私は他の方のお迎えに向かいます故、ここで失礼致します」
振り向いた時には、既に障子は閉められていた。
仕方がないので、広い空間を見渡して自分の座る場所を探す。長机の最後尾、向かって右側の奥はまだ余裕があったのでそちらへと足早に移動し、腰を下ろす。立ったままの姿勢は、余りにも居心地が悪い。
腰を下ろした姿勢のまま他の人間と同じ方向を向くと、前方は、ステージ状に一段高くなっている。
昔、派遣のバイトをやった時、説明会という名目で、これと似たシチュエーションに遭遇したことがある。
しかしこれほど広くない会場だったし、和風の建物でもなかった。
何より、集まった人間が静か過ぎる。
無駄な音を禁じる結界でも張られているのかと思うほどだ。
慶太の目の前にも、男性が背中を丸め慣れない様子であぐらを掻いているが、しぼんだ風船のように大人しい。
恐らく、全員が慶太と同じ心持ちなのだろう。
ステージというか、舞台の上には誰もいないが、そこには講演でよく見掛ける台が置いてある。
腕時計は、現在十三時五十七分。
集合時間まで、残り三分。
そして慶太は、驚いた。
驚いて顔を向けた先は、
舞台の上ではなく、
さっき自分が入ってきた障子の側だった。
長机と平行になった何十枚もの障子が、一斉に開いたのだ。
そしてそれと同時に起こる驚きの声、溜息。
忍耐の限界から産まれる声は、ストッパを失い指数的に伝播していく。
障子が開いて姿を見せたのは、またもやスーツ姿の男女だった。
但し、こちら側と明確に違うのは、年齢。
ほぼ間違いなく、四十代以上だろう。
何十人もの中年の男女が板張りの廊下の上で横並びになっているというのは、なかなか見られる光景ではない。
「——お静かに」
更に違う方向から突然降ってきた声に、一気に全員が静まり返る。
舞台の上、講演台の後ろに、人間が立って、こちらを見つめている。
いや、遠くてその表情までは分からないはずなのだが、そう感じた。
「——大変長らくお待たせ致しました」
マイクが据え付けられている。スピーカもこの和室に幾つも備え付けられているようだ。
「本日は、『出会いの泉』を盛り上げて下さるという方々がここに、一斉にお集まり頂いております。遠方からの方もいらっしゃいます。誠にありがとうございます。私はこの『出会いの泉』で監修を任されております従前佐紀子(じゅうぜんさきこ)と申します。どうか本日はよろしくお願い致します」
話し終わると同時に拍手が起こるので、それに併せて渋々慶太も手を叩いた。拍手をあおったのは勿論、板張りの廊下にならぶ中年スーツの男女の集団である。
なんやこれ。
ほとんど、宗教やん。
慶太の地元には土着の新興宗教の集会があり、幼い頃は夏にはアイス、冬には肉まんが貰えるので喜んで遊びに行っていた。特に何をするでもなく、同じ目的で集った同級生とひたすら遊んでいただけだった。季節の節目には簡単なお祭り、そして一時期は習字教室も行われていた。
その感覚と、非常に近いのだ、
この、奇妙な「バイトの仕事説明会」は。
「皆さんのお時間を無駄にもできないので、これから早速、バイトの内容の説明へと移らせて頂きます。しかし私がここからたくさんの方々にお話しするよりは、多くの優秀な我が社の社員に説明をさせて頂く方が、質問なども受け付けやすかろうと思われます。是非、疑問点を残さぬよう、しっかりと当日に備えて頂きますようよろしくお願いします」
そしてまた、板張りから拍手。
一体、なんなんや。
慶太は思わず呟く。
「けったくそわるい」
2.3.0 4D-WC
2.3.0
堂山昭輔は二人の別部署の刑事を引き連れ、国立情報学研究センターの十七階、つまり今回の現場へと向かった。所長室がある十一階からエレベータに乗り、十七階へと上がる。ただし、このエレベータは車椅子が見つかった問題のエレベータではない。 現在調査中のため、問題のエレベータは使えなくなっている。代わりに四基あるメイン側のエレベータに乗り込んだ。
鑑識と捜査員共に、車椅子エレベータが停まっていた一階、そして遺体が発見された十七階に集中して配備した。他の階も調べたいが、センター所長がごく近しい存在なわけだし、それほど焦る必要もないだろう。
関係者に関しては、第一発見者である佐山以外にはまだ話を聞けていない。月曜日、しかも新年最初の出勤、早朝では姿を見せていなくて当然である。主要な職員が顔を揃える前に、できる限りの捜査をして取り調べの取っ掛かりを摑んでしまいたいところだった。
「正月は、ゆっくり休まれましたか、小石川所長」
エレベータ内、壁にもたれかかり堂山は尋ねる。
「御陰様で、ゆっくりさせてもらったよ。そちらは大変そうなのに、本当に済まないね」
「いや、一課とはそういう部署ですから」
そう言って、意識して歯を見せて、小石川に微笑みかける。二人に挟まれた状態で眞田は何も喋らなかった。既にスーツを着ていて、寒そうではない。
十七階に到着する。
降りてすぐ、エレベータホールの両側に紺色の制服を着た捜査員がしゃがんで作業をしていた。
堂山たちの姿を確認するとすぐさま、直立不動でお辞儀をする。「おはようございます」
「ああ、おはよう、何か出た?」
「いえ」向かって左側に立っている捜査員が答える。「めぼしいものは何も」
「うん。何か見つかったらすぐ教えてくれよ、朝からすまんな」
堂山はすぐにそう言って左に曲がる。そこは長い廊下になっており、突き当たりまではかなりの距離がある。その突き当たり付近には広くなったスペースが見え、そこでも作業中の捜査員の姿が確認できる。
廊下の両側は、無機質な印象のクリーム色の壁に挟まれている。先程、両側は会議室などになっていることを第一発見者の佐山大治から軽く聞き出した。ドアは三つあるので、部屋も当然三つだろう。
「ここは、何をするための階なんですか?」
振り返り、小石川巧「所長」を見やる。
「主に、会議用だね」小石川は素早く応じる。「ただ、そんなに使ってないんだ。多分、一つの部屋は倉庫になってるはずだ。正直この階には余り来ないんでね」
「なるほど」
各部屋のドアの前に通りかかるタイミングで、念のために堂山はオーソドックスなドアノブを摑んで捻ってみた。予想通り、どこも鍵が掛かっており回らない。このような行動は、殆ど無意識のうちに行っている。こういった些細な行動が後で役に立つことも少なくない。
漸く、廊下の突き当たりに到着する。
「ご苦労さん」という声に反応して、その場にいた捜査員全員が腰を上げて挨拶する。
堂山はそれには直接応えず、後ろにいた特殊事案調査室の二人に向き直り、その踊り場の中央付近へと手を差し延ばした。
「ここが現場です」
「エレベータの目の前なんですね」
と、眞田は最初の感想を呟く。小石川は無言でしゃがみ込み、そのエレベータホールの中央に横たわる白く長い布の端をめくる。
「知った顔ですか」すぐに堂山もしゃがんで、小石川のすぐ横に陣取る。
「いや、知らないね……」その表情からは何も読み取れなかった。安心しているのか、それとも逆なのか。「当然、ここの職員じゃないと決まった訳じゃない。僕の知らない職員はたくさんいる」
「そうですね」
「このエレベータは、今は動いてるんですか?」堂山と小石川からは離れた位置に立っている眞田は。被害者の様子よりも、現場がエレベータホールであるという部分に引っかかっているようだった。「ホシが逃げたなら、ここからですね」
「そのエレベータは、今は一階で停まってるよ。一階でエレベータの中で車椅子を見つけて、だからこそ第一発見者は異変を感じて調べ始めたんだからな」
「車椅子?」眞田は車椅子の件を聞いていないのだろう、不思議そうな表情になる。
「しかしまあ、このエレベータは最後に一階で停まっていたのなら、やはりホシはこのエレベータで一階まで逃げたんでしょうな」
堂山は立ち上がったが、小石川はまだ被害者の顔を見つめたままだった。
「死因は?」
「胸のところ、刺されてます」説明しながら、思わず自分が渋面になるのが分かる。「何回もやられてます。相当恨んでたのかもしれませんね」
小石川はそれを受けて、持ち上げていた白い布を両手で完全にどかし、胸の辺りの刺し傷を確認した。
「これは、ひどいな」ただし、態度に動揺はない。流石だ、と堂山は感心する。「検屍もまだ?」
「はい。今、手配してます」
「凶器は?」
「見つかってません」
「間違いなく、コロシだね。方針は、指紋が出てから考えようか」
「はい。既にそう思ってたところですから」
「頼もしいね」
そう言って、小石川はゆっくりと立ち上がる。その様子を見て、堂山は一休みしたくなった。
腕時計を見ると、七時半を少し過ぎている。
安心した堂山の脳裏にすぐに浮かんだのは、去年の年末から追っている別の事案、そして家族のことである。
都内のマンションの一室で、男性の遺体が発見された。近所の話でも、以前から精神的に不安定であったという話が多く聞かれたし、実際、医者で薬も貰っていたということも確認できた。従って堂山自身、最初は薄い印象の事件だった。
よくある事件、という色彩が薄まってきたのは、突然公安が乗り込んできてからだった。しかし、詳細は教えて貰えない。公安の態度としてはよくある話なので今更腹も立たないが、盗み聞きした限りでは、どうやら宗教絡みの話らしかった。
ともかく、堂山にとってはせっかくの正月休みがその事件で台無しになってしまった。自分自身は休めなくても良いが、家族はそうもいかない。こんな職業だということをわかっているのかいないのか、父親らしいこともしてないんだから放って置いてくれれば良いのに、子供は夏休み、冬休み、春休みと休みが来る度に不満を口に出す。妻も文句は言うものの、不思議と見捨てたりはしない。
これはこれで、幸せなのかもしれん、と毎回感じるのだ。
「……なんで、こんな場所にいたんでしょうね」
相変わらず、遺体ではなくエレベータホールばかりを観察している眞田が、少し大きめの声を出して、堂山は我に帰る。
「夜中に、何か用事があったのかもしれん。ま、このホトケさんがここの職員だったら、という条件付きだがね」
「いや、そうじゃないんです」と、眞田は俯き考えている様子を見せる。「部長、十七階って、会議室なんですよね」
「ああ、なるほど、そういうことか」
既に小石川は眞田の言わんとするところを摑んでいるようだ。ま、頭の良い人は違うもんだ。
「はい、どうして何もない十七階にいたのか、わかんないですね」
「ほう」
確かに、そうだ。
時間も、場所も、目的は不明。
……どこから、調べようか。
堂山は目を瞑り、取っ掛かりを、探る。
鑑識の報告を聞いてからじゃ、捜査は遅い。
大抵の刑事が間違ってるのは、そこだ。
客観的なデータを待ってから、なんてのは完全に間違ってる。
客観的、なんてありゃしないからだ。
でもそれは、直感で勝手に動くという意味じゃない。
自分でアタリを付けて、先手で動く。
結果が間違ってたら、何が間違ってたのかを考える。
それだけだ。
その繰り返しで、俺は今まで乗り切ってきた。
「部長、ここで少しだけ指揮を執って頂いて良いですか」
「君からの指示なら、全く構わないが……何か気になった、ということか」
「ええ……」堂山は白い手袋を外す。「眞田、今から行けるか?」
「え?僕ですか?」
「他にいないだろ、馬鹿、もう、寒くないか」
「はい、御陰様でだいぶ」
「よし、それなら望みを叶えてやるよ」
眞田に向かって白い歯を見せようと意識したが、今度はなぜか上手くいかなかった。
「大学の反対側、見に行くか。公安の現場、乗り込むぞ」
堂山昭輔は二人の別部署の刑事を引き連れ、国立情報学研究センターの十七階、つまり今回の現場へと向かった。所長室がある十一階からエレベータに乗り、十七階へと上がる。ただし、このエレベータは車椅子が見つかった問題のエレベータではない。 現在調査中のため、問題のエレベータは使えなくなっている。代わりに四基あるメイン側のエレベータに乗り込んだ。
鑑識と捜査員共に、車椅子エレベータが停まっていた一階、そして遺体が発見された十七階に集中して配備した。他の階も調べたいが、センター所長がごく近しい存在なわけだし、それほど焦る必要もないだろう。
関係者に関しては、第一発見者である佐山以外にはまだ話を聞けていない。月曜日、しかも新年最初の出勤、早朝では姿を見せていなくて当然である。主要な職員が顔を揃える前に、できる限りの捜査をして取り調べの取っ掛かりを摑んでしまいたいところだった。
「正月は、ゆっくり休まれましたか、小石川所長」
エレベータ内、壁にもたれかかり堂山は尋ねる。
「御陰様で、ゆっくりさせてもらったよ。そちらは大変そうなのに、本当に済まないね」
「いや、一課とはそういう部署ですから」
そう言って、意識して歯を見せて、小石川に微笑みかける。二人に挟まれた状態で眞田は何も喋らなかった。既にスーツを着ていて、寒そうではない。
十七階に到着する。
降りてすぐ、エレベータホールの両側に紺色の制服を着た捜査員がしゃがんで作業をしていた。
堂山たちの姿を確認するとすぐさま、直立不動でお辞儀をする。「おはようございます」
「ああ、おはよう、何か出た?」
「いえ」向かって左側に立っている捜査員が答える。「めぼしいものは何も」
「うん。何か見つかったらすぐ教えてくれよ、朝からすまんな」
堂山はすぐにそう言って左に曲がる。そこは長い廊下になっており、突き当たりまではかなりの距離がある。その突き当たり付近には広くなったスペースが見え、そこでも作業中の捜査員の姿が確認できる。
廊下の両側は、無機質な印象のクリーム色の壁に挟まれている。先程、両側は会議室などになっていることを第一発見者の佐山大治から軽く聞き出した。ドアは三つあるので、部屋も当然三つだろう。
「ここは、何をするための階なんですか?」
振り返り、小石川巧「所長」を見やる。
「主に、会議用だね」小石川は素早く応じる。「ただ、そんなに使ってないんだ。多分、一つの部屋は倉庫になってるはずだ。正直この階には余り来ないんでね」
「なるほど」
各部屋のドアの前に通りかかるタイミングで、念のために堂山はオーソドックスなドアノブを摑んで捻ってみた。予想通り、どこも鍵が掛かっており回らない。このような行動は、殆ど無意識のうちに行っている。こういった些細な行動が後で役に立つことも少なくない。
漸く、廊下の突き当たりに到着する。
「ご苦労さん」という声に反応して、その場にいた捜査員全員が腰を上げて挨拶する。
堂山はそれには直接応えず、後ろにいた特殊事案調査室の二人に向き直り、その踊り場の中央付近へと手を差し延ばした。
「ここが現場です」
「エレベータの目の前なんですね」
と、眞田は最初の感想を呟く。小石川は無言でしゃがみ込み、そのエレベータホールの中央に横たわる白く長い布の端をめくる。
「知った顔ですか」すぐに堂山もしゃがんで、小石川のすぐ横に陣取る。
「いや、知らないね……」その表情からは何も読み取れなかった。安心しているのか、それとも逆なのか。「当然、ここの職員じゃないと決まった訳じゃない。僕の知らない職員はたくさんいる」
「そうですね」
「このエレベータは、今は動いてるんですか?」堂山と小石川からは離れた位置に立っている眞田は。被害者の様子よりも、現場がエレベータホールであるという部分に引っかかっているようだった。「ホシが逃げたなら、ここからですね」
「そのエレベータは、今は一階で停まってるよ。一階でエレベータの中で車椅子を見つけて、だからこそ第一発見者は異変を感じて調べ始めたんだからな」
「車椅子?」眞田は車椅子の件を聞いていないのだろう、不思議そうな表情になる。
「しかしまあ、このエレベータは最後に一階で停まっていたのなら、やはりホシはこのエレベータで一階まで逃げたんでしょうな」
堂山は立ち上がったが、小石川はまだ被害者の顔を見つめたままだった。
「死因は?」
「胸のところ、刺されてます」説明しながら、思わず自分が渋面になるのが分かる。「何回もやられてます。相当恨んでたのかもしれませんね」
小石川はそれを受けて、持ち上げていた白い布を両手で完全にどかし、胸の辺りの刺し傷を確認した。
「これは、ひどいな」ただし、態度に動揺はない。流石だ、と堂山は感心する。「検屍もまだ?」
「はい。今、手配してます」
「凶器は?」
「見つかってません」
「間違いなく、コロシだね。方針は、指紋が出てから考えようか」
「はい。既にそう思ってたところですから」
「頼もしいね」
そう言って、小石川はゆっくりと立ち上がる。その様子を見て、堂山は一休みしたくなった。
腕時計を見ると、七時半を少し過ぎている。
安心した堂山の脳裏にすぐに浮かんだのは、去年の年末から追っている別の事案、そして家族のことである。
都内のマンションの一室で、男性の遺体が発見された。近所の話でも、以前から精神的に不安定であったという話が多く聞かれたし、実際、医者で薬も貰っていたということも確認できた。従って堂山自身、最初は薄い印象の事件だった。
よくある事件、という色彩が薄まってきたのは、突然公安が乗り込んできてからだった。しかし、詳細は教えて貰えない。公安の態度としてはよくある話なので今更腹も立たないが、盗み聞きした限りでは、どうやら宗教絡みの話らしかった。
ともかく、堂山にとってはせっかくの正月休みがその事件で台無しになってしまった。自分自身は休めなくても良いが、家族はそうもいかない。こんな職業だということをわかっているのかいないのか、父親らしいこともしてないんだから放って置いてくれれば良いのに、子供は夏休み、冬休み、春休みと休みが来る度に不満を口に出す。妻も文句は言うものの、不思議と見捨てたりはしない。
これはこれで、幸せなのかもしれん、と毎回感じるのだ。
「……なんで、こんな場所にいたんでしょうね」
相変わらず、遺体ではなくエレベータホールばかりを観察している眞田が、少し大きめの声を出して、堂山は我に帰る。
「夜中に、何か用事があったのかもしれん。ま、このホトケさんがここの職員だったら、という条件付きだがね」
「いや、そうじゃないんです」と、眞田は俯き考えている様子を見せる。「部長、十七階って、会議室なんですよね」
「ああ、なるほど、そういうことか」
既に小石川は眞田の言わんとするところを摑んでいるようだ。ま、頭の良い人は違うもんだ。
「はい、どうして何もない十七階にいたのか、わかんないですね」
「ほう」
確かに、そうだ。
時間も、場所も、目的は不明。
……どこから、調べようか。
堂山は目を瞑り、取っ掛かりを、探る。
鑑識の報告を聞いてからじゃ、捜査は遅い。
大抵の刑事が間違ってるのは、そこだ。
客観的なデータを待ってから、なんてのは完全に間違ってる。
客観的、なんてありゃしないからだ。
でもそれは、直感で勝手に動くという意味じゃない。
自分でアタリを付けて、先手で動く。
結果が間違ってたら、何が間違ってたのかを考える。
それだけだ。
その繰り返しで、俺は今まで乗り切ってきた。
「部長、ここで少しだけ指揮を執って頂いて良いですか」
「君からの指示なら、全く構わないが……何か気になった、ということか」
「ええ……」堂山は白い手袋を外す。「眞田、今から行けるか?」
「え?僕ですか?」
「他にいないだろ、馬鹿、もう、寒くないか」
「はい、御陰様でだいぶ」
「よし、それなら望みを叶えてやるよ」
眞田に向かって白い歯を見せようと意識したが、今度はなぜか上手くいかなかった。
「大学の反対側、見に行くか。公安の現場、乗り込むぞ」
2.2.1 4D-WC
2.2.1
堂山係長が部屋を出た後は、急に静かになった。
事件の詳細ももちろん気になるが、この国立情報学研究センター自体が受けるであろう影響に対する策を考えておく必要がある。被害者が若い女性ということだが、その女性がセンターの職員かどうかによって、今後の対応はかなり変わってくる。
あまり考えたくはないが、職員が被害者ならば、まずはその家族への連絡、同じ部署内の仕事のフォロー、その人間のその後の予定のキャンセルなど、やるべき作業は多岐にわたる。
そもそも、職員は、事務員やアルバイトも含めて、現在百名近い。全員に対して身元を確認していく作業は、なかなか骨が折れるだろう。しかしそれは警察側の仕事であり、言い換えれば、今回は堂山係長がその役目を負ってくれるということにもなる。
いずれにせよ、身元の確認が最優先ということか。
そして、再びノックの音。今度は三回だった。
「はい」堂山係長が戻ってきたのだろうか。
「眞田です」
「入ってくれ」
ドアを開けたのは巧の部下、眞田である。彼に対しても、緊急の連絡がなされていたということなのだろう。
「おはようございます」
「君にも連絡がいってたんだね」
「ええ。起こされました……部長も同じですか」
「君よりは数時間早かったみたいだけど」
「そうですか」眞田は、生返事をした後、部屋を見渡す。「ここ、暑くないですか」
そう言った眞田は、スーツの上を脱ぎカッターシャツだけの状態だ。しかも襟元のボタンを開けている。
「まるで走ってきたみたいだね」
「走ってきたんです」
「どうして?」何かトラブルでもあったのだろうか。
「あれ?」急に素っ頓狂な声を上げる。「部長、ご存じないんですか?」
「何を?」
「いや、交通規制かけてるでしょう?」
「交通規制?知らないよ」
「どういうことですかね……」と、誰ともなしに眞田は呟く。「堂山係長が知ってるのかもしれない」
「なぜ交通規制を掛ける必要がある?」
巧の口調は自然と強くなる。こういう細かい違和感は、経験上、大抵の場合、見過ごしてはいけない。
「えとですね、座っても、良いですか」
勝手に眞田は、部屋の隅に置いてある一人掛けのソファにゆっくり腰掛ける。
何かを考えている表情、視線だ。
「現在、私が知っているだけで、地下鉄とこの大学周辺の道路、二種類の交通規制が敷かれています。正確には、地下鉄の規制に関しては嶋井からの伝聞です」
「それで?」
「道路の方に関しては、私が直接、規制中の警官に尋ねたので間違いないと思います。大学で事件があったので交通規制している、とはっきり言っていました」
「そうか……少なくとも、私は報告を受けていない」
「変ですね」
「特事には知らせないということかな」特事、とは特殊事案調査室の略だ。
堂山係長は、組織上、特殊事案調査室ではなく、警視庁捜査一課の人間なので巧の直接の部下ではない。仕事の内容上接点も多いが、今回は交通規制の情報は捜査一課内だけで完結している情報なのかもしれない。眞田に今朝電話をしてきた嶋井に関しても、捜査一課の所属である。
「しかしそれにしても、交通規制が早過ぎないか」
「……部長も、そう思われますか」
「後で説明するけれど、まだガイシャの身元も割れてないんだ。現段階で交通規制する意味はない。むしろ、T大の周辺でそんなことを始めたら、却って騒ぎが大きくなるだけ……不思議な話だ」
「堂山係長はここにいらっしゃるんでしょう?後で話を聞きましょう」
「もちろん、そのつもりだ。ガイシャも見に行くし、一緒に行けばよい」
「あ、そういえば」眞田は再び立ち上がり、畳んで抱えていたコートの内ポケットを探り始めた。「財布、持ってきましたよ」
巧の顔が思わず緩む。
「良かった良かった……助かったよ、本当に」
「お言葉ですが、部長、もう少し気をつけられた方がよろしいかと」
「いや、申し訳ない」素直に謝るしかない。「どうもね、もう歳かな……。どこにあったんだったかな」
「六本木の電話ボックスの中です。昨日、国会議員の秘書から話を聞かれたでしょう?その女性が見つけてくれたらしいです」
「なるほど。名前は、確か、東川」仕事ができそうな、理知的な話し方をする女性だった。
「はい」
「そっちの話も、なるべく早くしないといけないな」
「今畑議員に直接話を聞きに行くんですよね」
「どうだろう……少し慎重に動いた方が良いかもしれない。色々と面倒なんだ、国民の代表ってやつは」
「公安、誰か押さえといた方がいいですよね」
「そうだな、宗教関係に強そうなのがいれば心強い」
「後で電話、しときます」
そして再び、ノックの音が二回。巧が応じると、やはり堂山係長だった。
「部長、準備できましたよ……あ、ひさしぶり、おはようさん」と、堂山は眞田を見つけて唇を尖らせる。
「おはようございます」
「ていうか、お前、寒くないの?そんな格好で」オーバジェスチャで驚いてみせる。
「あ、ここまで走ってきたんで。段々寒くなってはきましたけど」
眞田は大真面目な顔で答える。
「走ってきた?それ、趣味?」
「違いますよ、交通規制してて電車でもタクシーでも近寄れなかったんです。ご存じでしょう?」
「交通規制?ああ、そゆことね。なんか大学の西側で公安が動いてるわ」
「え?こっちでやってるんじゃないですか?」
堂山は鬱陶しそうにぶんぶんと手を振る。「まだこっちは始まったばっかりなのに、なんでそんなことするの?違う違う。部長、行きましょう、実況見分ですよ」
最後は巧を見据えた後、にっこりと微笑む。
「え?公安?それってどんな事件ですか?」眞田は食い下がる。
「そんなの知らん知らん。ああ、お前、いいから早く服着ろよ」
「あ、すいません」
眞田はいそいそとカッターシャツのボタンを締め始める。
堂山係長は眞田から視線を外しドアを開けたが、まだ何事か呟いている。
「そんなので風邪引かれても、責任持てんぞ。部長、いや、今日は所長でしたね、早く行きましょう。ああ、もう、ほんと、見てるだけでこっちが寒いわあ」
堂山係長が部屋を出た後は、急に静かになった。
事件の詳細ももちろん気になるが、この国立情報学研究センター自体が受けるであろう影響に対する策を考えておく必要がある。被害者が若い女性ということだが、その女性がセンターの職員かどうかによって、今後の対応はかなり変わってくる。
あまり考えたくはないが、職員が被害者ならば、まずはその家族への連絡、同じ部署内の仕事のフォロー、その人間のその後の予定のキャンセルなど、やるべき作業は多岐にわたる。
そもそも、職員は、事務員やアルバイトも含めて、現在百名近い。全員に対して身元を確認していく作業は、なかなか骨が折れるだろう。しかしそれは警察側の仕事であり、言い換えれば、今回は堂山係長がその役目を負ってくれるということにもなる。
いずれにせよ、身元の確認が最優先ということか。
そして、再びノックの音。今度は三回だった。
「はい」堂山係長が戻ってきたのだろうか。
「眞田です」
「入ってくれ」
ドアを開けたのは巧の部下、眞田である。彼に対しても、緊急の連絡がなされていたということなのだろう。
「おはようございます」
「君にも連絡がいってたんだね」
「ええ。起こされました……部長も同じですか」
「君よりは数時間早かったみたいだけど」
「そうですか」眞田は、生返事をした後、部屋を見渡す。「ここ、暑くないですか」
そう言った眞田は、スーツの上を脱ぎカッターシャツだけの状態だ。しかも襟元のボタンを開けている。
「まるで走ってきたみたいだね」
「走ってきたんです」
「どうして?」何かトラブルでもあったのだろうか。
「あれ?」急に素っ頓狂な声を上げる。「部長、ご存じないんですか?」
「何を?」
「いや、交通規制かけてるでしょう?」
「交通規制?知らないよ」
「どういうことですかね……」と、誰ともなしに眞田は呟く。「堂山係長が知ってるのかもしれない」
「なぜ交通規制を掛ける必要がある?」
巧の口調は自然と強くなる。こういう細かい違和感は、経験上、大抵の場合、見過ごしてはいけない。
「えとですね、座っても、良いですか」
勝手に眞田は、部屋の隅に置いてある一人掛けのソファにゆっくり腰掛ける。
何かを考えている表情、視線だ。
「現在、私が知っているだけで、地下鉄とこの大学周辺の道路、二種類の交通規制が敷かれています。正確には、地下鉄の規制に関しては嶋井からの伝聞です」
「それで?」
「道路の方に関しては、私が直接、規制中の警官に尋ねたので間違いないと思います。大学で事件があったので交通規制している、とはっきり言っていました」
「そうか……少なくとも、私は報告を受けていない」
「変ですね」
「特事には知らせないということかな」特事、とは特殊事案調査室の略だ。
堂山係長は、組織上、特殊事案調査室ではなく、警視庁捜査一課の人間なので巧の直接の部下ではない。仕事の内容上接点も多いが、今回は交通規制の情報は捜査一課内だけで完結している情報なのかもしれない。眞田に今朝電話をしてきた嶋井に関しても、捜査一課の所属である。
「しかしそれにしても、交通規制が早過ぎないか」
「……部長も、そう思われますか」
「後で説明するけれど、まだガイシャの身元も割れてないんだ。現段階で交通規制する意味はない。むしろ、T大の周辺でそんなことを始めたら、却って騒ぎが大きくなるだけ……不思議な話だ」
「堂山係長はここにいらっしゃるんでしょう?後で話を聞きましょう」
「もちろん、そのつもりだ。ガイシャも見に行くし、一緒に行けばよい」
「あ、そういえば」眞田は再び立ち上がり、畳んで抱えていたコートの内ポケットを探り始めた。「財布、持ってきましたよ」
巧の顔が思わず緩む。
「良かった良かった……助かったよ、本当に」
「お言葉ですが、部長、もう少し気をつけられた方がよろしいかと」
「いや、申し訳ない」素直に謝るしかない。「どうもね、もう歳かな……。どこにあったんだったかな」
「六本木の電話ボックスの中です。昨日、国会議員の秘書から話を聞かれたでしょう?その女性が見つけてくれたらしいです」
「なるほど。名前は、確か、東川」仕事ができそうな、理知的な話し方をする女性だった。
「はい」
「そっちの話も、なるべく早くしないといけないな」
「今畑議員に直接話を聞きに行くんですよね」
「どうだろう……少し慎重に動いた方が良いかもしれない。色々と面倒なんだ、国民の代表ってやつは」
「公安、誰か押さえといた方がいいですよね」
「そうだな、宗教関係に強そうなのがいれば心強い」
「後で電話、しときます」
そして再び、ノックの音が二回。巧が応じると、やはり堂山係長だった。
「部長、準備できましたよ……あ、ひさしぶり、おはようさん」と、堂山は眞田を見つけて唇を尖らせる。
「おはようございます」
「ていうか、お前、寒くないの?そんな格好で」オーバジェスチャで驚いてみせる。
「あ、ここまで走ってきたんで。段々寒くなってはきましたけど」
眞田は大真面目な顔で答える。
「走ってきた?それ、趣味?」
「違いますよ、交通規制してて電車でもタクシーでも近寄れなかったんです。ご存じでしょう?」
「交通規制?ああ、そゆことね。なんか大学の西側で公安が動いてるわ」
「え?こっちでやってるんじゃないですか?」
堂山は鬱陶しそうにぶんぶんと手を振る。「まだこっちは始まったばっかりなのに、なんでそんなことするの?違う違う。部長、行きましょう、実況見分ですよ」
最後は巧を見据えた後、にっこりと微笑む。
「え?公安?それってどんな事件ですか?」眞田は食い下がる。
「そんなの知らん知らん。ああ、お前、いいから早く服着ろよ」
「あ、すいません」
眞田はいそいそとカッターシャツのボタンを締め始める。
堂山係長は眞田から視線を外しドアを開けたが、まだ何事か呟いている。
「そんなので風邪引かれても、責任持てんぞ。部長、いや、今日は所長でしたね、早く行きましょう。ああ、もう、ほんと、見てるだけでこっちが寒いわあ」
2.2.0 4D-WC
2.2.0
国立情報学研究センター所長室は、十一階のエレベータを降りてすぐの場所に位置している。
十畳ほどの広さの奥には重厚な木製のテーブル、そしてその奥の革張りの黒いプレジデントチェア。
部屋のどこにも、コンピュータは見当たらない。
ただし机の他には、この部屋には何も余分なものが置かれていない。
小石川巧は腕を組み、机の上に広げられたノートを凝視したまま、随分と長い時間を過ごしていた。
そのノートの右半分は、白紙。
そしてその左半分には、今日の日付と曜日が几帳面な字体で記されている。
やっかいなことになった。
早朝、緊急の連絡を受け、滞在していた児童養護施設から駆けつけた。ほぼ起きたままの状態だ。
まだ全貌を把握しているわけではなく、現場検証中だ。
到着した時には既に鑑識が到着していた。随分と早い措置に驚いたが、部下の堂山昭輔(どうやましょうすけ)係長がてきぱきと段取りをつけたようだった。大した男だ。
やっかいなこと、というのは事件がこの国立情報学研究センターで起きた、という点である。巧は警察関係者とこの施設の所長を兼務している。そして更に、巧が警察関係者であるという事実は、この国立情報学研究センターの職員は、誰も知らないし、知られることは、様々な観点から、許されない。
一方、警察側は、巧がこのセンターの所長であることを知っている。
結果、ここでの巧は「センター所長小石川先生」として扱われることになる。警察側からは初対面であるかのような顔をされることになる。
本来ならば捜査の指揮を執りたいが、そうもいかず、結局は堂山係長に一任する形となった。
これほどもどかしいことが他にあるだろうか。
という思考を断ち切る二回のノック。
「どうぞ」
入ってきたのは勿論、堂山係長だ。
「よろしいですか、小石川所長」と言って堂山は口元を少し上げる。
「やめてくれないか、堂山君」
「今のうちにこの呼び方に慣れておかないと……とりあえず、ざっくり現場見てきました」
「うん。私は何も見ていないから、最初から頼むよ」
「はい。第一発見者はここの事務員の佐山大治(さやまだいじ)。ご存じです?」
「名前までは……心当たりはあるけどね」
「彼が夜勤で、夜の警備を担当しているんです。午前五時の見回りで、エレベータの動作禁止ロックが外されていたのを発見しました。おかしいと思って所内の五つのエレベータ全てを見回ったところ、一番奥の一基が一階で停止した状態になっており、その中に一台の車椅子を発見したんです」
「車椅子?」
「通常の介護用のものみたいですけど、詳しいことはみてもらってる途中です」
「ガイシャは?」
「それは、十七階で発見されました」
「十七階?そんな場所には何もないはずだが」
「そうなんですか?そこらへんの事情は部長からも後でお聞かせ願いたいところですが……ともかく、そこで先程の奥の一基のエレベータを出てすぐの場所に、女性が倒れていました」
「見つけたのは、誰?」
「それも事務員の佐山ですね」
「どうして、わざわざ十七階に調査しに行ったのかね?」
「そういうわけではないですね。一階で車椅子を見つけた後、不審に思って全ての階を順番にチェックしていったらしいです」
「地道なアルゴリズムだね」
「はい?」
「あ、いや、それで?」慌てて先を促す。
「はい、十七階で遺体を発見して、すぐに通報。我々の第一陣が到着してからはずっとこの状態です」
「死因は?」
「まだ、鑑識にみてもらってるところですけど……」
「身元の確認もまだだね?」
「そうです。見たところ、若い女性のようでしたが……」そこで一度、堂山は言葉を切った。「後で、部長にも見て頂いてよろしいですかね」
「そう……だね」
「では、そのための手配をしてきます。部長は、今日は『所長』ですので」
「実況見分という扱いになるのか」
「そりゃ、そうですよ。後で怪しまれるのは部長にとってもまずいんじゃないですか?」
巧は顔をしかめて、肩をすくめる。
「御深慮に大変感謝するよ」
国立情報学研究センター所長室は、十一階のエレベータを降りてすぐの場所に位置している。
十畳ほどの広さの奥には重厚な木製のテーブル、そしてその奥の革張りの黒いプレジデントチェア。
部屋のどこにも、コンピュータは見当たらない。
ただし机の他には、この部屋には何も余分なものが置かれていない。
小石川巧は腕を組み、机の上に広げられたノートを凝視したまま、随分と長い時間を過ごしていた。
そのノートの右半分は、白紙。
そしてその左半分には、今日の日付と曜日が几帳面な字体で記されている。
やっかいなことになった。
早朝、緊急の連絡を受け、滞在していた児童養護施設から駆けつけた。ほぼ起きたままの状態だ。
まだ全貌を把握しているわけではなく、現場検証中だ。
到着した時には既に鑑識が到着していた。随分と早い措置に驚いたが、部下の堂山昭輔(どうやましょうすけ)係長がてきぱきと段取りをつけたようだった。大した男だ。
やっかいなこと、というのは事件がこの国立情報学研究センターで起きた、という点である。巧は警察関係者とこの施設の所長を兼務している。そして更に、巧が警察関係者であるという事実は、この国立情報学研究センターの職員は、誰も知らないし、知られることは、様々な観点から、許されない。
一方、警察側は、巧がこのセンターの所長であることを知っている。
結果、ここでの巧は「センター所長小石川先生」として扱われることになる。警察側からは初対面であるかのような顔をされることになる。
本来ならば捜査の指揮を執りたいが、そうもいかず、結局は堂山係長に一任する形となった。
これほどもどかしいことが他にあるだろうか。
という思考を断ち切る二回のノック。
「どうぞ」
入ってきたのは勿論、堂山係長だ。
「よろしいですか、小石川所長」と言って堂山は口元を少し上げる。
「やめてくれないか、堂山君」
「今のうちにこの呼び方に慣れておかないと……とりあえず、ざっくり現場見てきました」
「うん。私は何も見ていないから、最初から頼むよ」
「はい。第一発見者はここの事務員の佐山大治(さやまだいじ)。ご存じです?」
「名前までは……心当たりはあるけどね」
「彼が夜勤で、夜の警備を担当しているんです。午前五時の見回りで、エレベータの動作禁止ロックが外されていたのを発見しました。おかしいと思って所内の五つのエレベータ全てを見回ったところ、一番奥の一基が一階で停止した状態になっており、その中に一台の車椅子を発見したんです」
「車椅子?」
「通常の介護用のものみたいですけど、詳しいことはみてもらってる途中です」
「ガイシャは?」
「それは、十七階で発見されました」
「十七階?そんな場所には何もないはずだが」
「そうなんですか?そこらへんの事情は部長からも後でお聞かせ願いたいところですが……ともかく、そこで先程の奥の一基のエレベータを出てすぐの場所に、女性が倒れていました」
「見つけたのは、誰?」
「それも事務員の佐山ですね」
「どうして、わざわざ十七階に調査しに行ったのかね?」
「そういうわけではないですね。一階で車椅子を見つけた後、不審に思って全ての階を順番にチェックしていったらしいです」
「地道なアルゴリズムだね」
「はい?」
「あ、いや、それで?」慌てて先を促す。
「はい、十七階で遺体を発見して、すぐに通報。我々の第一陣が到着してからはずっとこの状態です」
「死因は?」
「まだ、鑑識にみてもらってるところですけど……」
「身元の確認もまだだね?」
「そうです。見たところ、若い女性のようでしたが……」そこで一度、堂山は言葉を切った。「後で、部長にも見て頂いてよろしいですかね」
「そう……だね」
「では、そのための手配をしてきます。部長は、今日は『所長』ですので」
「実況見分という扱いになるのか」
「そりゃ、そうですよ。後で怪しまれるのは部長にとってもまずいんじゃないですか?」
巧は顔をしかめて、肩をすくめる。
「御深慮に大変感謝するよ」