4.1.0 4D-WC
4.1.0
合計、三本。
御影千種が警視庁に到着する迄に、パトカーの中で吸った煙草の本数である。
メンソール、しかも一ミリだし、大丈夫、と自分に言い聞かせた。
ところが、帰庁後すぐに石巻が「これ、さっき貰った分、返しとくわ」と言って机の抽斗から二本、千種に渡す素振りを見せ、理不尽ながらちょっと腹が立った。しかも石巻のは赤マル、格段にきつい。
無言でその魔物を内ポケットに入れ、「取調室、押さえてきます」と鞄を置いて、部屋を出た。
階下から冷気が漏れ出ている所為か、一課の部屋よりも、廊下はより寒い。
今週末の友達との新年会、行けるかな、という不安が千種の脳裏を掠める。この仕事を始めて以来、休む回数が増えた。学生時代から(警察学校時代を除けば)人付き合いは良かっただけに、就職したら、こういうものなのかな、とも思う。勿論、本庁内で行事(イベント、と呼ぶには何故か抵抗がある)があれば、絶対参加だし、「いかにも」な体質を感じる部分も多いのだが……。
機敏に手続きを済ませ、待機させている被疑者、依野明良を迎えに行く。無口も、ぼおっとした表情も、車中から変わらないままだ。
依野の見張り役だった制服警官に向かって、「すいません、精神科のセンセ、一人確保しといてほしいんですけど」と簡単にやり取りした後、「どうぞ」と依野を案内する。人形が紐で引っ張られるように、千種の後ろを付いてくる。
これは、ものすごく長引くか、一瞬で終わるか、どちらかだな、と算段する。
何か話してくれそうなら、辛抱強く待つ。暴れ出せば、その場で強制的に終了だ。
途中、何人かの顔見知りと擦れ違うが、お互いの真剣な表情を確かめ合うだけだ。笑顔で会釈などする気持ちの余裕など、誰にもない。
珍しいことだったが、第三取調室のドアの前には、石巻が待っていた。
足を絡める形で、壁にもたれている。
「お前、取り調べ、やるの?」下向き加減の視線で尋ねる。
「そのつもりですけど……不味いですか」
「いや」やっと上司は顔を上げた。「それなら俺は、ちょっとゆっくりさせて貰うわ」
「はい」素直に返事をする。
お正月、休んでないんだから、ゆっくりして下さい。
そう言えば良かったのだけど、何となく、言い出せないまま、足早にその場を去った石巻を見送ることとなった。
千種はドアを開け、脱力した依野を一瞥する。
「入って下さい」
明確に、廊下とは異なる暖気。下手をすると汗をかきそうだ。
室内には既に、書記係が待機していた。軽く目配せして、挨拶の代わりにする。奥にある椅子にコートを掛けた。
「……私は、どうなるんでしょうか」
久し振りに依野が発したのは、その言葉だった。
「それは、あなたのお話次第です」千種はすぐさま答え、続けて、正方形の机を挟み対面するパイプ椅子に向かって、「お座り下さい」と手を差し出した。
「ここが何処だか、分かりますか?」
取り調べに関する形式的な注意事項等を説明した後、ともかくも、その質問から始めることにした。
「警察、です」ぼそり、と依野は答える。
「あなたは、何故、ここにいるのか、それは、分かりますか?」
「覚醒剤を持っていたからです」
「その通りです」頷きながら、錯乱などには陥っていないようだと判断する。「しかし、覚醒剤に関するお話は、別の機会で行います。今、私が聞きたいのは、今朝起こったあの殺人事件のお話です」
「はい」
「あなたの娘さんが被害者であることは、間違いないのですね?」
「そう……だと、思います」唇が震えている。「実際、顔も確認しました。とても、冷たい顔でした。あれは、死んでた」
「悦吏子さんは、どうして、あの時間に研究センターにいたのでしょう?」
依野は、ぶるぶると頸を激しく振った。
「わからないです、全然。僕が教えて貰いたいぐらいだ、どうして、僕が」
語気が荒ぶるのを察知して、千種は相手を注意深く観察したまま、質問の進路を変更する。
「娘さんと最後にお会いになったのは、どれぐらい前ですか?」
「先週です、正月を、一緒に過ごしました」
「その時は、不審な様子は見られませんでしたか?」
「不審……不審……」
依野は記憶を手繰りながら、机を右の拳で軽く何回か殴った。
「例えば、元気が無いとか、悩みを抱えてる風だったとか」
「——いや、分からないです、普通でした」
普通と言っているが、正月に二人で薬物を吸引していた可能性にも一瞬、思い至る。
「娘さんとは、どれぐらいの頻度で会っていたんですか?」
「一ヶ月に、一回。多くても二回ぐらいです、離れて暮らしてて」
「娘さんは、一人暮らしをされているんですか?」
「いえ、一人ではありません。ある施設に入っています」
「ある施設?学校の女子寮などではなくてですか?」
「はい、ある宗教団体の施設です」
「宗教団体?」
突拍子もない言葉が出てきたな、と千種は焦る。
しかも、覚醒剤。安易な連想はいけないと思いつつ、最近の他の案件を思い出す。
ちらりと書記係に目を遣ると、一心不乱にペンを動かしている。
千種はゆっくりと息を吐き出しながらもう一度被疑者を見て、尋ねた。
「それ、何という名前の団体なんですか?」
もしかすると、石巻巡査部長の出番かも知れないな、とぼんやりと思う。
合計、三本。
御影千種が警視庁に到着する迄に、パトカーの中で吸った煙草の本数である。
メンソール、しかも一ミリだし、大丈夫、と自分に言い聞かせた。
ところが、帰庁後すぐに石巻が「これ、さっき貰った分、返しとくわ」と言って机の抽斗から二本、千種に渡す素振りを見せ、理不尽ながらちょっと腹が立った。しかも石巻のは赤マル、格段にきつい。
無言でその魔物を内ポケットに入れ、「取調室、押さえてきます」と鞄を置いて、部屋を出た。
階下から冷気が漏れ出ている所為か、一課の部屋よりも、廊下はより寒い。
今週末の友達との新年会、行けるかな、という不安が千種の脳裏を掠める。この仕事を始めて以来、休む回数が増えた。学生時代から(警察学校時代を除けば)人付き合いは良かっただけに、就職したら、こういうものなのかな、とも思う。勿論、本庁内で行事(イベント、と呼ぶには何故か抵抗がある)があれば、絶対参加だし、「いかにも」な体質を感じる部分も多いのだが……。
機敏に手続きを済ませ、待機させている被疑者、依野明良を迎えに行く。無口も、ぼおっとした表情も、車中から変わらないままだ。
依野の見張り役だった制服警官に向かって、「すいません、精神科のセンセ、一人確保しといてほしいんですけど」と簡単にやり取りした後、「どうぞ」と依野を案内する。人形が紐で引っ張られるように、千種の後ろを付いてくる。
これは、ものすごく長引くか、一瞬で終わるか、どちらかだな、と算段する。
何か話してくれそうなら、辛抱強く待つ。暴れ出せば、その場で強制的に終了だ。
途中、何人かの顔見知りと擦れ違うが、お互いの真剣な表情を確かめ合うだけだ。笑顔で会釈などする気持ちの余裕など、誰にもない。
珍しいことだったが、第三取調室のドアの前には、石巻が待っていた。
足を絡める形で、壁にもたれている。
「お前、取り調べ、やるの?」下向き加減の視線で尋ねる。
「そのつもりですけど……不味いですか」
「いや」やっと上司は顔を上げた。「それなら俺は、ちょっとゆっくりさせて貰うわ」
「はい」素直に返事をする。
お正月、休んでないんだから、ゆっくりして下さい。
そう言えば良かったのだけど、何となく、言い出せないまま、足早にその場を去った石巻を見送ることとなった。
千種はドアを開け、脱力した依野を一瞥する。
「入って下さい」
明確に、廊下とは異なる暖気。下手をすると汗をかきそうだ。
室内には既に、書記係が待機していた。軽く目配せして、挨拶の代わりにする。奥にある椅子にコートを掛けた。
「……私は、どうなるんでしょうか」
久し振りに依野が発したのは、その言葉だった。
「それは、あなたのお話次第です」千種はすぐさま答え、続けて、正方形の机を挟み対面するパイプ椅子に向かって、「お座り下さい」と手を差し出した。
「ここが何処だか、分かりますか?」
取り調べに関する形式的な注意事項等を説明した後、ともかくも、その質問から始めることにした。
「警察、です」ぼそり、と依野は答える。
「あなたは、何故、ここにいるのか、それは、分かりますか?」
「覚醒剤を持っていたからです」
「その通りです」頷きながら、錯乱などには陥っていないようだと判断する。「しかし、覚醒剤に関するお話は、別の機会で行います。今、私が聞きたいのは、今朝起こったあの殺人事件のお話です」
「はい」
「あなたの娘さんが被害者であることは、間違いないのですね?」
「そう……だと、思います」唇が震えている。「実際、顔も確認しました。とても、冷たい顔でした。あれは、死んでた」
「悦吏子さんは、どうして、あの時間に研究センターにいたのでしょう?」
依野は、ぶるぶると頸を激しく振った。
「わからないです、全然。僕が教えて貰いたいぐらいだ、どうして、僕が」
語気が荒ぶるのを察知して、千種は相手を注意深く観察したまま、質問の進路を変更する。
「娘さんと最後にお会いになったのは、どれぐらい前ですか?」
「先週です、正月を、一緒に過ごしました」
「その時は、不審な様子は見られませんでしたか?」
「不審……不審……」
依野は記憶を手繰りながら、机を右の拳で軽く何回か殴った。
「例えば、元気が無いとか、悩みを抱えてる風だったとか」
「——いや、分からないです、普通でした」
普通と言っているが、正月に二人で薬物を吸引していた可能性にも一瞬、思い至る。
「娘さんとは、どれぐらいの頻度で会っていたんですか?」
「一ヶ月に、一回。多くても二回ぐらいです、離れて暮らしてて」
「娘さんは、一人暮らしをされているんですか?」
「いえ、一人ではありません。ある施設に入っています」
「ある施設?学校の女子寮などではなくてですか?」
「はい、ある宗教団体の施設です」
「宗教団体?」
突拍子もない言葉が出てきたな、と千種は焦る。
しかも、覚醒剤。安易な連想はいけないと思いつつ、最近の他の案件を思い出す。
ちらりと書記係に目を遣ると、一心不乱にペンを動かしている。
千種はゆっくりと息を吐き出しながらもう一度被疑者を見て、尋ねた。
「それ、何という名前の団体なんですか?」
もしかすると、石巻巡査部長の出番かも知れないな、とぼんやりと思う。
4.0.1 4D-WC
4.0.1
助手席には巧の荷物が積んであったが、司は手際よくそれらを片付け、跳ねるように座った。周囲は住宅地の為、夕方のこの時間は主婦などの人通りも多く、運転には気を付ける必要がある。ギアをドライブに入れてアクセルを踏むと、駐車場の砂利が雨音のように鳴く。
「単刀直入に聞くが、本気なのか?」
最初に信号で停車した際、巧は思い切って切り出す。この子には、前置きは不要だ。
「うん、本気も本気」司は、躊躇うことなく答えた。「この車、CDとか聴けないの?」
「聴けるが……聴くCDがない」
「そっか」
「最近、よく助手席に乗るのか?」
「え?」司は大きな声を上げた。こっちを見たようだが、運転手はそういう訳にはいかない。横目で辛うじて視線を合わせる。「なんで?」
「車、乗り慣れてる気がしたからね、特に、助手席」
「うーん、まあ、色々あるんだよね、この歳になると」
「この歳か……」巧は吹き出す。「そうだな、色々、あるかもしれないな」
「パパは反対?」
「反対だったら、こんな風に話し合ったりしない」巧はゆっくり、優しい口調を意識する。「しかし、いきなり、アメリカだからね」
「そりゃ、そうだよね」司の声のトーンが下がる。
「高校卒業まで、まだ時間はある。今年の夏休みに、一時的にその教授とやらに会うのも良いかもしれない。正直なところを言えば、私も会いたい。司の為とかじゃなく、自分の為にね」
「専門分野、かぶってるから?」
「かぶってる?嗚呼、『重なってる』って言ってほしいな。うん、そう、結構、かぶってる」
「だよね、パパが今の研究してるの見て、私も興味持ったんだから」
「嬉しいことを言うじゃないか」
「そうなの?」
そこで、また信号に捕まる。
娘が自分の影響を受けてくれることほど、親冥利に尽きることはない。
「ねえ、事件のこと、教えてよ」
「それは、だめだ」巧はすぐ言い返す。
「女子高生が殺されたんでしょ?同じ女子高生の意見、聞きたくない?」
「他にも女子高生はたくさんいる」
「いきなし冷たくなるんだから」
「済まない、こればっかりは、他の人には話せないんだ」
「じゃあさ、一つ、当ててあげよっか」
交差点で左右を確認していた為に返事ができなかったが、司は構わず話を続ける。
「被害者の女子高生、手か、足が不自由じゃない?」
「どうして、そう思う?」
「否定しないってことは、当たりかな」
「いや、外れてる」幾通りの計算が瞬く間に行われ、巧は嘘をついた。「どうして、そう思ったんだ?」
「違うんだったら、話したって意味ないじゃん」
「余りにも突飛な意見だったから、ちょっと、興味がある」巧は前を向いたまま、わざと微笑む。「どうせ司も、話したいだろう?」
「人のせいにするのは良くないなあ。でも、話すよ。別に大したことでもないし。ニュースとかのソースだけじゃ、全然分からないけど、パパの職場で研究してる内容の詳細、調べたの」
「そう、情報は自分で仕入れなきゃ」
「ていうかパパの研究センター、ほんとに幅広いんだね、やってること。その中には、『高性能の義手・義足の開発』っていう内容もあるんだよね」
「えっと、そうだな、確かに、ある。パンフレットに書いてたかな」
「ううん、電話して聞いたの」
その行動力が、司らしい。
「しかし、他にも研究対象があるだろう、何故、そこだけをピックアップしたんだ?」
「いや、十七階に、義手義足をテストする為のラボがあるでしょ?」
「なるほど」そうだったかな、と巧は記憶を探る。「つまり、被害者は、それを取るために、研究センターに忍び込んだということか」
「そう。わざわざ、日曜日の、夜、誰もいない時間を狙って」
「しかし、簡単に研究内容を外部に喋るってのも、問題だな」思わず顔をしかめてしまう。
「そんなことないと思うよ、私、悪いとは思ったけど、パパの名前出したんだもん」
「とにかく」その四文字に力を込める。「面白いとは思うけど、ちょっと突飛すぎる。あんまり事件のことは気にしなくていい。それよりも自分のことに集中するんだ、司」
「はーい、そんなに怒らなくてもいいのに」
「どこに行く?」
「ファミレス!」司は返答を用意していたようだ。
「ファミ……リー、レストランか。何でも言葉を略すんじゃない」
「普通だよ、これぐらい」
「しかし、もっと他のものでも良いんだぞ」
「良いよ、あんまり食べると、太るし」
「司は充分、痩せてるよ」
「そんなことないよ!これで?」
驚く司を尻目に、巧はこの周辺のファミリーレストランへの経路を頭で探した。
助手席には巧の荷物が積んであったが、司は手際よくそれらを片付け、跳ねるように座った。周囲は住宅地の為、夕方のこの時間は主婦などの人通りも多く、運転には気を付ける必要がある。ギアをドライブに入れてアクセルを踏むと、駐車場の砂利が雨音のように鳴く。
「単刀直入に聞くが、本気なのか?」
最初に信号で停車した際、巧は思い切って切り出す。この子には、前置きは不要だ。
「うん、本気も本気」司は、躊躇うことなく答えた。「この車、CDとか聴けないの?」
「聴けるが……聴くCDがない」
「そっか」
「最近、よく助手席に乗るのか?」
「え?」司は大きな声を上げた。こっちを見たようだが、運転手はそういう訳にはいかない。横目で辛うじて視線を合わせる。「なんで?」
「車、乗り慣れてる気がしたからね、特に、助手席」
「うーん、まあ、色々あるんだよね、この歳になると」
「この歳か……」巧は吹き出す。「そうだな、色々、あるかもしれないな」
「パパは反対?」
「反対だったら、こんな風に話し合ったりしない」巧はゆっくり、優しい口調を意識する。「しかし、いきなり、アメリカだからね」
「そりゃ、そうだよね」司の声のトーンが下がる。
「高校卒業まで、まだ時間はある。今年の夏休みに、一時的にその教授とやらに会うのも良いかもしれない。正直なところを言えば、私も会いたい。司の為とかじゃなく、自分の為にね」
「専門分野、かぶってるから?」
「かぶってる?嗚呼、『重なってる』って言ってほしいな。うん、そう、結構、かぶってる」
「だよね、パパが今の研究してるの見て、私も興味持ったんだから」
「嬉しいことを言うじゃないか」
「そうなの?」
そこで、また信号に捕まる。
娘が自分の影響を受けてくれることほど、親冥利に尽きることはない。
「ねえ、事件のこと、教えてよ」
「それは、だめだ」巧はすぐ言い返す。
「女子高生が殺されたんでしょ?同じ女子高生の意見、聞きたくない?」
「他にも女子高生はたくさんいる」
「いきなし冷たくなるんだから」
「済まない、こればっかりは、他の人には話せないんだ」
「じゃあさ、一つ、当ててあげよっか」
交差点で左右を確認していた為に返事ができなかったが、司は構わず話を続ける。
「被害者の女子高生、手か、足が不自由じゃない?」
「どうして、そう思う?」
「否定しないってことは、当たりかな」
「いや、外れてる」幾通りの計算が瞬く間に行われ、巧は嘘をついた。「どうして、そう思ったんだ?」
「違うんだったら、話したって意味ないじゃん」
「余りにも突飛な意見だったから、ちょっと、興味がある」巧は前を向いたまま、わざと微笑む。「どうせ司も、話したいだろう?」
「人のせいにするのは良くないなあ。でも、話すよ。別に大したことでもないし。ニュースとかのソースだけじゃ、全然分からないけど、パパの職場で研究してる内容の詳細、調べたの」
「そう、情報は自分で仕入れなきゃ」
「ていうかパパの研究センター、ほんとに幅広いんだね、やってること。その中には、『高性能の義手・義足の開発』っていう内容もあるんだよね」
「えっと、そうだな、確かに、ある。パンフレットに書いてたかな」
「ううん、電話して聞いたの」
その行動力が、司らしい。
「しかし、他にも研究対象があるだろう、何故、そこだけをピックアップしたんだ?」
「いや、十七階に、義手義足をテストする為のラボがあるでしょ?」
「なるほど」そうだったかな、と巧は記憶を探る。「つまり、被害者は、それを取るために、研究センターに忍び込んだということか」
「そう。わざわざ、日曜日の、夜、誰もいない時間を狙って」
「しかし、簡単に研究内容を外部に喋るってのも、問題だな」思わず顔をしかめてしまう。
「そんなことないと思うよ、私、悪いとは思ったけど、パパの名前出したんだもん」
「とにかく」その四文字に力を込める。「面白いとは思うけど、ちょっと突飛すぎる。あんまり事件のことは気にしなくていい。それよりも自分のことに集中するんだ、司」
「はーい、そんなに怒らなくてもいいのに」
「どこに行く?」
「ファミレス!」司は返答を用意していたようだ。
「ファミ……リー、レストランか。何でも言葉を略すんじゃない」
「普通だよ、これぐらい」
「しかし、もっと他のものでも良いんだぞ」
「良いよ、あんまり食べると、太るし」
「司は充分、痩せてるよ」
「そんなことないよ!これで?」
驚く司を尻目に、巧はこの周辺のファミリーレストランへの経路を頭で探した。
4.0.0 4D-WC
4.0.0
午後、四時半。
日は落ちずとも、既に、昼間とは空の色が明確に違う。
今日は殆どの小学校、中学校などでは始業式だ。それは小石川巧が世話をしている児童に関しても例外ではない。施設に到着すると、多くの子供たちが巧を出迎えてくれた。
「ただいま、みんな」自然と微笑んでいる自分に、揃って口々に「おかえり、パパ」が連呼される。
その中に、司はいなかった。
まだ、ここへは来ていないのか。
「あら、お帰りなさい、所長、晩ご飯、ここで食べますか?」カウンタから女性が顔を出し、手を拭きながら廊下を歩いてこちらに向かってくる。
「そうさせてもらおうかな」
研究センターの仕事は状況が状況なので仕方ないが、全く進捗がなかった。寧ろ、「進捗がない」という報告を関係者に連絡している間に一日が終わった、という方が正しい。
ともかく、こうして施設に戻ってきて、安堵した。海の底から、漸く水面に顔を出した時に似ている。戻るべき日常が存在することほど、ありがたいことはない。
いや、司の件を考えれば、こちらも、非日常か。
大きく開けた食堂の隅で着替えをしている時も、俊や恵といった幼い子と他愛もない話をしている時も、頭はまだ混乱していた。何しろ、一度に多くのことが起きすぎた。
堂山係長との話し合いの結果、これから正式にこの事案は堂山が仕切ることとなった。我々「トクジ」はその手伝い、という位置付けになる。巧の置かれた社会的立場からして、当然の措置だろう。
「お茶、淹れました」
この施設の食事係、田布施(たぶせ)が湯飲みを二つ、巧の座る前に置いた。
「ありがとう」
「ニュース、見ましたよ」彼女は心配そうに、唇を締める。
「うん……大変だ」
口調が投げ遣り気味なのに、自分で多少、驚いた。勿論、表情には出さないよう努めたが。
「女子高生の子が殺されたって……。それからこれは、ビルの階数と同じ年齢の人間を殺していく、愉快犯だって話ですって。いや、ワイドショーでね」
「そんな話は、一切、警察の中では出ていないよ」
彼女に腹を立てても仕方ないのだが、制御が利かない。
「テレビ、見ます?まだやってるかもしれませんよ」
「いいよ、帰って来てまで事件の話を持ち込みたくないし、できれば、子供たちにも見せたくない」
「そうですよね」田布施は溜息をつき、首を横に振る。「すいません、お疲れの所を」
「いや、うん、そうだな、確かに少し疲れてる気がする」言葉を選ぶというよりは、言葉が見つからず、探しながら喋る。「当たり前だけど、田布施さんは悪くない、すまんね」
田布施は特に気にする様子もなく業務に戻り、俊、恵、そして碧(あおい)、昇(のぼる)といったその時食堂にいた面々の話を聞いたりじゃれあったりしているうちに、玄関から「ただいま」という大きな声がして、司が到着したのを知った。
玄関で靴を脱ごうとする司は、学校の制服姿だった。
「ごめん、遅くなっちゃった、友達と遊んでて」
少しだけ気まずそうな態度を取るが、それほど気にしている風でもない。
「いや、構わないよ、楽しんできてるなら、良かった」
そう、こどもの顔が見られる幸せがあれば、それで良いのだ。
「相変わらず、娘に甘いなあ」
「そうかな」巧は自然と一度司から視線を逸らす。「どうしようか、ここでも良いし、車でどこか、出掛けてもいい」
「うーん、それじゃあ、車でどっか、ドライブだね」
「それが司の希望なら、そうしよう」
「私の希望じゃないよ」
司は脱ぎかけた茶色のローファを改めて履き直しながら、にんまりする。
「パパが、行きたがってる顔してるから」
「え?そうか?」
「うん、車で海とか行けたら、いいのにね」
「海は遠すぎるし、今からじゃ暗くて危険だからね、そんなところに連れて行くのは——」
「わかってますよ、冗談冗談。大体、近くに海とかないし」
冗談を言えるようになったな、という言葉を飲み込み、巧は
「すぐ用意してくるから、ここでちょっと待っててくれ」
と言って、踵を返した。
午後、四時半。
日は落ちずとも、既に、昼間とは空の色が明確に違う。
今日は殆どの小学校、中学校などでは始業式だ。それは小石川巧が世話をしている児童に関しても例外ではない。施設に到着すると、多くの子供たちが巧を出迎えてくれた。
「ただいま、みんな」自然と微笑んでいる自分に、揃って口々に「おかえり、パパ」が連呼される。
その中に、司はいなかった。
まだ、ここへは来ていないのか。
「あら、お帰りなさい、所長、晩ご飯、ここで食べますか?」カウンタから女性が顔を出し、手を拭きながら廊下を歩いてこちらに向かってくる。
「そうさせてもらおうかな」
研究センターの仕事は状況が状況なので仕方ないが、全く進捗がなかった。寧ろ、「進捗がない」という報告を関係者に連絡している間に一日が終わった、という方が正しい。
ともかく、こうして施設に戻ってきて、安堵した。海の底から、漸く水面に顔を出した時に似ている。戻るべき日常が存在することほど、ありがたいことはない。
いや、司の件を考えれば、こちらも、非日常か。
大きく開けた食堂の隅で着替えをしている時も、俊や恵といった幼い子と他愛もない話をしている時も、頭はまだ混乱していた。何しろ、一度に多くのことが起きすぎた。
堂山係長との話し合いの結果、これから正式にこの事案は堂山が仕切ることとなった。我々「トクジ」はその手伝い、という位置付けになる。巧の置かれた社会的立場からして、当然の措置だろう。
「お茶、淹れました」
この施設の食事係、田布施(たぶせ)が湯飲みを二つ、巧の座る前に置いた。
「ありがとう」
「ニュース、見ましたよ」彼女は心配そうに、唇を締める。
「うん……大変だ」
口調が投げ遣り気味なのに、自分で多少、驚いた。勿論、表情には出さないよう努めたが。
「女子高生の子が殺されたって……。それからこれは、ビルの階数と同じ年齢の人間を殺していく、愉快犯だって話ですって。いや、ワイドショーでね」
「そんな話は、一切、警察の中では出ていないよ」
彼女に腹を立てても仕方ないのだが、制御が利かない。
「テレビ、見ます?まだやってるかもしれませんよ」
「いいよ、帰って来てまで事件の話を持ち込みたくないし、できれば、子供たちにも見せたくない」
「そうですよね」田布施は溜息をつき、首を横に振る。「すいません、お疲れの所を」
「いや、うん、そうだな、確かに少し疲れてる気がする」言葉を選ぶというよりは、言葉が見つからず、探しながら喋る。「当たり前だけど、田布施さんは悪くない、すまんね」
田布施は特に気にする様子もなく業務に戻り、俊、恵、そして碧(あおい)、昇(のぼる)といったその時食堂にいた面々の話を聞いたりじゃれあったりしているうちに、玄関から「ただいま」という大きな声がして、司が到着したのを知った。
玄関で靴を脱ごうとする司は、学校の制服姿だった。
「ごめん、遅くなっちゃった、友達と遊んでて」
少しだけ気まずそうな態度を取るが、それほど気にしている風でもない。
「いや、構わないよ、楽しんできてるなら、良かった」
そう、こどもの顔が見られる幸せがあれば、それで良いのだ。
「相変わらず、娘に甘いなあ」
「そうかな」巧は自然と一度司から視線を逸らす。「どうしようか、ここでも良いし、車でどこか、出掛けてもいい」
「うーん、それじゃあ、車でどっか、ドライブだね」
「それが司の希望なら、そうしよう」
「私の希望じゃないよ」
司は脱ぎかけた茶色のローファを改めて履き直しながら、にんまりする。
「パパが、行きたがってる顔してるから」
「え?そうか?」
「うん、車で海とか行けたら、いいのにね」
「海は遠すぎるし、今からじゃ暗くて危険だからね、そんなところに連れて行くのは——」
「わかってますよ、冗談冗談。大体、近くに海とかないし」
冗談を言えるようになったな、という言葉を飲み込み、巧は
「すぐ用意してくるから、ここでちょっと待っててくれ」
と言って、踵を返した。
3.9.1 4D-WC
3.9.1
『出会いの泉』は、つまり、魚市場でいう「セリ」だった。
但し、自分は仕入業者であり、同時に魚でもあるというのが多少特殊だったが。
数分置きの、つんのめった感さえあるアピール合戦、冷静さを要求される相手への点数付け。自分の役割がサクラであっても、いい加減にやるわけにはいかない。真剣さが違えば、必ずサクラであるとばれてしまうし、何よりバイト代を支払う相手の要求には応えなければ意味がない。「意外とマジメだね」は、普段、周囲の女性からの慶太に対する評価の最たるものである。「意外と」は余計やっちゅうねん。
そうか、自分のアピールポイントに「意外と真面目」と書けば良かったのか、と後悔したときには時既に遅し。「皆さんお待ち兼ね、フリータイムの時間でございます」という歯の浮くような司会の宣言により、軍隊よろしく整列していた男女の二列は、三々五々に散っていく。
開始前に出会った、今畑という車椅子の女性も参加はしていた。慶太が心配するまでもなく、彼女はあらゆる意味で、男性のみならず女性からも注目の的だった。幸いにも、今回のシステムは、女性は動かず、男性が数分置きに相手の女性を変更していく為に移動するものだった。「テーブルの一つ横の席にずれる」と言えば、より正確だ。
要するに今畑里緒奈は、車椅子を使用しているハンディを、殆ど背負わなかった訳である。
「嗚呼、面白かった」
「へえ、そうですか、僕は、疲れましたけど」
フリータイムの開始と同時に、今畑里緒奈は慶太を見つけ、大きく腕を振った。それに応じようか迷っている間に、彼女はするすると手で車椅子を漕ぎ、慶太の座る小さなテーブルまで辿り着いた。
「誰か、良い方はいらっしゃった?」
「うーん……難しい質問ですね」
「隠さなくても良いのに」
「いや、別に隠してる訳ではないですけど」
「坂町さん、ご出身はどちら?」
「大阪ですよ。なんでですか?プロフィールに書いてたと思いますけど——」
「そんなもの、あの状況では目を通す暇がないです。そうでしょう?」
「そりゃあ」いささか、気さくに喋り過ぎていると慶太は自己分析する。一杯だけ口にしたワインの所為だろうか。「そうかも、しれませんね」
「関西の方って、本当にそういう言葉をお使いになるんですね」
「そんなに、変ですか?これでも出ないように気を付けてるんけどね」
「気を付けてる」と、今畑里緒奈は慶太のアクセントを真似る。「とても、新鮮です」
新鮮、という言葉から、魚としては鮮度がいまいち、という「ぼけ」を連想するが、口に出すまでには至らなかった。
調子が、つかめんな。
誤魔化すついでに、他の男性たちの挙動を観察する。部屋の隅に思い思いに設けられた、小さな丸形のテーブルで女性と談笑を楽しむ男たち、そして、それを何気ない振りでやり過ごしながら、きっと次の行動を慎重に計算しているであろう男たち。慶太の近くにもミニテーブルがあるが、これは丁度、二人分が身を寄せ合って座るのに収まりがよいように作られているようだ。
突然、会場全体に音楽が鳴り響き、部屋にいた全員が音の発生源である中央奥の簡易ステージに目をくれる。そこはパーティの開始前、司会者がルール説明などを行った場所でもあった。
「何なんでしょう……」
今畑里緒奈の声はか細く、語尾は聞き取れなかった。
そして、ステージには、女性が現れた。中年、背は低く、着物を着ている。
見覚えがある。
正体が分かったのと同時に、女性は話し始める。
「楽しい時間を邪魔して申し訳ございません。私、今回の『出会いの泉』を総合プロデュースさせて頂いております、従前佐紀子でございます」歯切れ良く挨拶し、深く頭を垂れる。
「誰かしら?参加者では、なさそうですよね」
話し掛けてくる今畑里緒奈に、何と答えたものか思い付かない。
「現在、先程皆様からお預かりした、マッチングカードを整理する作業を行っています。それが終わるまでの間、皆様に我々がこのような事業を行っております経緯と理念を、少しだけお話させて頂きたいと存じます」
お見合いパーティのくせに、フリータイムに「経緯」と「理念」とは、無粋にも程がある。
そう感じたのは今畑里緒奈も同様のようだった。彼女は車椅子のサイズ上、丸いテーブルからは少しはみ出てしまっており、幾度も細かく居場所を変えている。
「いきなり、デリカシィが足りないお話ですね……」
「ええ、そうですよね、ほんまに」
「坂町さん」
「はい?」
「マッチングカード、私の評価、何点にされました?」
「その質問の方が、デリカシィないんちゃいます?」
「あ、ごめんなさい」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないです」やはり、突っ込みが通じない。
「私は、九十点ですよ」
「え?」
慶太は舞台上の女性から、横に座る女性に目を移す。
酔っているのか、急に焦点が合わせられない。
「どういうことです?」
「今日はこの後、お暇ですか?」
「いや、まあ、暇ですけど」
事前に聞かされ承諾した、今日のバイトの規則を思い出す。
自分に好意を持つ女性が現れた場合は、必ず、後ほど、その旨を報告すること。
「何処か、出掛けません?こんなお話、退屈ですし」
「そう、これからも我々は、この日本を救うべく、皆様お一人お一人が少しでも幸せになれるよう、微力ながらお力添えさせて頂く所存でございます」
「坂町さんとお話ししている方が、楽しいです」
「どうも、ありがとうございました。『出会いの泉』、最後までどうか有意義な時間にして下さいますよう——」
従前佐紀子が挨拶を締めくくろうとしたその瞬間、その後ろ、舞台の壁に提げられたロールスクリーンに、大きく黒い丸が現れた。毛筆で書いたような丸の中に、漢字の「十」が描かれたロゴになっている。これがどうやら、彼らのシンボルロゴなのだろう。
ーーそれにしても、眠い。
ーーなんでやろか。
「九十点とか、ひどいですよ、今畑さん」
「はい?」
「僕ね、百点つけてしまったんです。こんなん、不釣り合いちゃいます?」
今畑里緒奈は、また、微笑む。
「じゃあ、これから、その埋め合わせに行きましょう」
『出会いの泉』は、つまり、魚市場でいう「セリ」だった。
但し、自分は仕入業者であり、同時に魚でもあるというのが多少特殊だったが。
数分置きの、つんのめった感さえあるアピール合戦、冷静さを要求される相手への点数付け。自分の役割がサクラであっても、いい加減にやるわけにはいかない。真剣さが違えば、必ずサクラであるとばれてしまうし、何よりバイト代を支払う相手の要求には応えなければ意味がない。「意外とマジメだね」は、普段、周囲の女性からの慶太に対する評価の最たるものである。「意外と」は余計やっちゅうねん。
そうか、自分のアピールポイントに「意外と真面目」と書けば良かったのか、と後悔したときには時既に遅し。「皆さんお待ち兼ね、フリータイムの時間でございます」という歯の浮くような司会の宣言により、軍隊よろしく整列していた男女の二列は、三々五々に散っていく。
開始前に出会った、今畑という車椅子の女性も参加はしていた。慶太が心配するまでもなく、彼女はあらゆる意味で、男性のみならず女性からも注目の的だった。幸いにも、今回のシステムは、女性は動かず、男性が数分置きに相手の女性を変更していく為に移動するものだった。「テーブルの一つ横の席にずれる」と言えば、より正確だ。
要するに今畑里緒奈は、車椅子を使用しているハンディを、殆ど背負わなかった訳である。
「嗚呼、面白かった」
「へえ、そうですか、僕は、疲れましたけど」
フリータイムの開始と同時に、今畑里緒奈は慶太を見つけ、大きく腕を振った。それに応じようか迷っている間に、彼女はするすると手で車椅子を漕ぎ、慶太の座る小さなテーブルまで辿り着いた。
「誰か、良い方はいらっしゃった?」
「うーん……難しい質問ですね」
「隠さなくても良いのに」
「いや、別に隠してる訳ではないですけど」
「坂町さん、ご出身はどちら?」
「大阪ですよ。なんでですか?プロフィールに書いてたと思いますけど——」
「そんなもの、あの状況では目を通す暇がないです。そうでしょう?」
「そりゃあ」いささか、気さくに喋り過ぎていると慶太は自己分析する。一杯だけ口にしたワインの所為だろうか。「そうかも、しれませんね」
「関西の方って、本当にそういう言葉をお使いになるんですね」
「そんなに、変ですか?これでも出ないように気を付けてるんけどね」
「気を付けてる」と、今畑里緒奈は慶太のアクセントを真似る。「とても、新鮮です」
新鮮、という言葉から、魚としては鮮度がいまいち、という「ぼけ」を連想するが、口に出すまでには至らなかった。
調子が、つかめんな。
誤魔化すついでに、他の男性たちの挙動を観察する。部屋の隅に思い思いに設けられた、小さな丸形のテーブルで女性と談笑を楽しむ男たち、そして、それを何気ない振りでやり過ごしながら、きっと次の行動を慎重に計算しているであろう男たち。慶太の近くにもミニテーブルがあるが、これは丁度、二人分が身を寄せ合って座るのに収まりがよいように作られているようだ。
突然、会場全体に音楽が鳴り響き、部屋にいた全員が音の発生源である中央奥の簡易ステージに目をくれる。そこはパーティの開始前、司会者がルール説明などを行った場所でもあった。
「何なんでしょう……」
今畑里緒奈の声はか細く、語尾は聞き取れなかった。
そして、ステージには、女性が現れた。中年、背は低く、着物を着ている。
見覚えがある。
正体が分かったのと同時に、女性は話し始める。
「楽しい時間を邪魔して申し訳ございません。私、今回の『出会いの泉』を総合プロデュースさせて頂いております、従前佐紀子でございます」歯切れ良く挨拶し、深く頭を垂れる。
「誰かしら?参加者では、なさそうですよね」
話し掛けてくる今畑里緒奈に、何と答えたものか思い付かない。
「現在、先程皆様からお預かりした、マッチングカードを整理する作業を行っています。それが終わるまでの間、皆様に我々がこのような事業を行っております経緯と理念を、少しだけお話させて頂きたいと存じます」
お見合いパーティのくせに、フリータイムに「経緯」と「理念」とは、無粋にも程がある。
そう感じたのは今畑里緒奈も同様のようだった。彼女は車椅子のサイズ上、丸いテーブルからは少しはみ出てしまっており、幾度も細かく居場所を変えている。
「いきなり、デリカシィが足りないお話ですね……」
「ええ、そうですよね、ほんまに」
「坂町さん」
「はい?」
「マッチングカード、私の評価、何点にされました?」
「その質問の方が、デリカシィないんちゃいます?」
「あ、ごめんなさい」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないです」やはり、突っ込みが通じない。
「私は、九十点ですよ」
「え?」
慶太は舞台上の女性から、横に座る女性に目を移す。
酔っているのか、急に焦点が合わせられない。
「どういうことです?」
「今日はこの後、お暇ですか?」
「いや、まあ、暇ですけど」
事前に聞かされ承諾した、今日のバイトの規則を思い出す。
自分に好意を持つ女性が現れた場合は、必ず、後ほど、その旨を報告すること。
「何処か、出掛けません?こんなお話、退屈ですし」
「そう、これからも我々は、この日本を救うべく、皆様お一人お一人が少しでも幸せになれるよう、微力ながらお力添えさせて頂く所存でございます」
「坂町さんとお話ししている方が、楽しいです」
「どうも、ありがとうございました。『出会いの泉』、最後までどうか有意義な時間にして下さいますよう——」
従前佐紀子が挨拶を締めくくろうとしたその瞬間、その後ろ、舞台の壁に提げられたロールスクリーンに、大きく黒い丸が現れた。毛筆で書いたような丸の中に、漢字の「十」が描かれたロゴになっている。これがどうやら、彼らのシンボルロゴなのだろう。
ーーそれにしても、眠い。
ーーなんでやろか。
「九十点とか、ひどいですよ、今畑さん」
「はい?」
「僕ね、百点つけてしまったんです。こんなん、不釣り合いちゃいます?」
今畑里緒奈は、また、微笑む。
「じゃあ、これから、その埋め合わせに行きましょう」
3.9.0 4D-WC
3.9.0
「お待たせして申し訳ありません。こちらのメニューから、お好きなものをお選び下さい」
黒いスーツ、蝶ネクタイ。
四十代半ばほどの男性がにこやかに差し伸べた手の先には、黒い革の表紙で覆われた、気取った文字が踊っている。芋焼酎のロック、と言いたかったが、カタカナばかりが並ぶ一覧には、そんなものは見当たらない。廊下から流れるピアノジャズは、静かに、下品なものを排除しようとする。そう、何処か高圧的な空気が、濁って、滞留し、沈んでいる。
あかん。
ほんま、こういうの、あかんねん。
坂町慶太はそう叫び出したかったが、すんでの所で踏み留まった。
そもそも照明が暗くて、メニュー見せられても、全然読めへんし。
「あ、じゃあ、このビールのところの一番上のやつで」
「かしこまりました」
表情を変えず、辛抱強く待ち続けたウェイタは、華麗に慶太に背を向け、飲み物を用意しに戻った。
慶太は一つ息を吐き、ソファの分厚い背もたれに身体を預ける。
『出会いの泉』、当日。
集合時間よりも、三十分ほど早く到着してしまった。勤勉な性格ではない。単に、近くにあるスポーツ用品店で時間を潰す、という当てが外れてしまったに過ぎない。「現在、改装中」の貼り紙に、しばし店の前で呆然としてしまったが、誰かが突っ込んでくれるわけでもない。諦めて、早目にこのホテルの門をくぐったという経緯である。
エントランスの豪華さに圧倒されながら、導かれるままにエレベータで高層階まで上昇すると、目の前に広がったのは黒と茶色とで満たされた、シックな空間。無理矢理にでも緊張させられる。何故か、小さな頃に読んだアルセーヌ・ルパンが登場する小説を思い出す。
そら、お見合いパーティやもんな、こんなもんか。
「お客様、こちらへどうぞ」と言われ、メインの会場よりは小振りな部屋に通された。ここで結婚式が行われるのなら、親族控え室とかにうってつけだろう。
流石に到着が早過ぎたのか、部屋に通されたとき、そこには他の人間が誰もいなかった。
護衛のようにウェイタが後ろに付き、ドリンクの注文を聞いて立ち去ったところだった。
手持ち無沙汰なので革のビジネスバッグを提げてきたものの、荷物はほぼない。以前の仕事内容説明会で、今日の為の準備は殆ど終わっている、と説明された。慶太は自らのプロフィールを細かく所定の用紙に記入し、前後左右からの写真撮影を行ったことを思い出す。当日実際に顔を合わせるというのに、そこまでの念の入れように半ば呆れていた。
不意に、部屋のドアが開き、廊下から漏れていたジャズピアノの音量が大きくなる。
ソファから身体を捩って、振り向く。
ビールが早く飲みたい。
せめて飲まんと、こんなこと、やってられん。
しかしながら。
ドアから部屋に入ってきたのは、ウェイタではなかった。
慶太は、頸が痛くなってきた。
その痛みで初めて、自分が随分と長い時間、その女性を観察していたことを、悟った。
肩まで伸びた艶のある黒髪が、丸い輪郭の顔を飾る。後ろに立つウェイタと話すその表情は、気品と自信で充ち満ちており、最後に会釈と共にこちらへ向けた微笑みは、幼子のそれのように無邪気だった。
身に纏ったドレスは、深い緋色。彼女がこちらに近付くに連れ、膨らんだ肩から繋がる腕の部分には、小さな鳥類らしき刺繍が覗けた。
但し、最も慶太の目を奪ったのは、その容姿ではなかった。
彼女は、自分の足で歩いてきたわけではない。
車椅子に、乗っている。
それをウェイタにここまで押してきて貰い、ここまで辿り着いたのだ。
そのドレスに調和させる為か、車椅子全体もピンクに近い色調で統一されている。
その車輪が、慶太の前で動きを止めた。
「こんにちは」
彼女が発したのは、見掛けとは少し違う芯のある声。
慶太はまず「はい」と小さく反応して、お辞儀をして、その後顔を上げてから「こんにちは」と言うのが精一杯だった。
フリルで膨らんだドレスのスカート部分は、当然、座った状態ではその魅力を充分には発揮できない筈だが、それでも彼女は頭の先からピンヒールの踵に至るまで、万全の体勢を整えていた。そのせいか、車椅子に腰掛けているのが酷く不自然な状態に見えてしまう。
女性は慶太が座っている一つ横のソファの前で、ウェイタに微笑みだけで「ありがとう、もうここで大丈夫」と合図した。ウェイタも無言のまま頷き、車椅子の取っ手から手を離すと、一度も振り向かずに部屋を出て行った。
慶太が手を貸すべきか迷う暇もなく、女性は器用に車輪を操作して、腕力のみでソファに横から倒れ込み、今度は身体を入れ替えて、移動を終えた。肘掛けを含め慶太とは二人分ほどの距離で、同じ方向を向いて座っていることになる。
「足が、悪いんです」
女性はゆっくりと慶太に視線を合わせて、呟くように言った。
「——大変ですね」
「もう慣れていますので、大丈夫です。ご心配をお掛けして、ごめんなさい」
「いえ、そんな」
この女性も、今日の参加者だろうか。
危うく雰囲気に呑まれる寸前だったが、良く考えてみれば、お見合いパーティにこのような高貴な印象の人間が来るだろうか?そんなことをしなくても、相手など幾らでも見つかるのでは、などと不謹慎な想像をしてしまう。
「あなたも、今日の『出会いの泉』の参加者ですか?」
そう尋ねたのは、慶太ではなく、相手側だった。
「ええ、はい」必要以上に相手を凝視してしまう。「初めてなんで、勝手も分からなくて」
「そうですか……それは、偶然ですね、私も初めてなんです」
「そうなんですか、いや、緊張しますよね」
やはりこの女性も今日の参加者なのだ、という驚きは、他の雑多な感情に流され、刹那で記憶の彼岸へと遠ざかっていく。
「少し張り切って、早く来すぎてしまいました」女性は、悪戯っぽく笑う。「お名前、なんとお呼びすればよろしいかしら?」
お名前、なんとお呼びすればよろしいかしら?
慶太の分かる言葉に翻訳すると、「あんた、誰なん?」だ。
そんな台詞を生で聞く機会が訪れるとは思ってもみなかった。
「坂町と、言います」
こちらの言葉は通じるやろか、とおずおずと返答する。
「さかまちさん、下のお名前も頂戴したいです」
「坂町、慶太です」
「さかまちけいたさんですね。しっかりと、今、覚えました。今日は、どうかよろしくお願い致します」横を向いたまま、深々と頭を下げる。それでも、下半身は微動だにしない。
「いえ、こちらこそ。あの……」
「はい?」女性は、大きな瞳をしばたかせる。「何でしょう?」
「そちらも、名前、教えて貰ってもいいですか?」
「あら、ごめんなさい……私としたことが、うっかりして」瞬間、眉間に皺を寄せ、女性はすぐに笑顔に戻る。
小首を傾げる角度まで完璧なそのポーズを、坂町はその時、初めて見ることとなった。
「今畑、と申します。今畑、里緒奈です」
「お待たせして申し訳ありません。こちらのメニューから、お好きなものをお選び下さい」
黒いスーツ、蝶ネクタイ。
四十代半ばほどの男性がにこやかに差し伸べた手の先には、黒い革の表紙で覆われた、気取った文字が踊っている。芋焼酎のロック、と言いたかったが、カタカナばかりが並ぶ一覧には、そんなものは見当たらない。廊下から流れるピアノジャズは、静かに、下品なものを排除しようとする。そう、何処か高圧的な空気が、濁って、滞留し、沈んでいる。
あかん。
ほんま、こういうの、あかんねん。
坂町慶太はそう叫び出したかったが、すんでの所で踏み留まった。
そもそも照明が暗くて、メニュー見せられても、全然読めへんし。
「あ、じゃあ、このビールのところの一番上のやつで」
「かしこまりました」
表情を変えず、辛抱強く待ち続けたウェイタは、華麗に慶太に背を向け、飲み物を用意しに戻った。
慶太は一つ息を吐き、ソファの分厚い背もたれに身体を預ける。
『出会いの泉』、当日。
集合時間よりも、三十分ほど早く到着してしまった。勤勉な性格ではない。単に、近くにあるスポーツ用品店で時間を潰す、という当てが外れてしまったに過ぎない。「現在、改装中」の貼り紙に、しばし店の前で呆然としてしまったが、誰かが突っ込んでくれるわけでもない。諦めて、早目にこのホテルの門をくぐったという経緯である。
エントランスの豪華さに圧倒されながら、導かれるままにエレベータで高層階まで上昇すると、目の前に広がったのは黒と茶色とで満たされた、シックな空間。無理矢理にでも緊張させられる。何故か、小さな頃に読んだアルセーヌ・ルパンが登場する小説を思い出す。
そら、お見合いパーティやもんな、こんなもんか。
「お客様、こちらへどうぞ」と言われ、メインの会場よりは小振りな部屋に通された。ここで結婚式が行われるのなら、親族控え室とかにうってつけだろう。
流石に到着が早過ぎたのか、部屋に通されたとき、そこには他の人間が誰もいなかった。
護衛のようにウェイタが後ろに付き、ドリンクの注文を聞いて立ち去ったところだった。
手持ち無沙汰なので革のビジネスバッグを提げてきたものの、荷物はほぼない。以前の仕事内容説明会で、今日の為の準備は殆ど終わっている、と説明された。慶太は自らのプロフィールを細かく所定の用紙に記入し、前後左右からの写真撮影を行ったことを思い出す。当日実際に顔を合わせるというのに、そこまでの念の入れように半ば呆れていた。
不意に、部屋のドアが開き、廊下から漏れていたジャズピアノの音量が大きくなる。
ソファから身体を捩って、振り向く。
ビールが早く飲みたい。
せめて飲まんと、こんなこと、やってられん。
しかしながら。
ドアから部屋に入ってきたのは、ウェイタではなかった。
慶太は、頸が痛くなってきた。
その痛みで初めて、自分が随分と長い時間、その女性を観察していたことを、悟った。
肩まで伸びた艶のある黒髪が、丸い輪郭の顔を飾る。後ろに立つウェイタと話すその表情は、気品と自信で充ち満ちており、最後に会釈と共にこちらへ向けた微笑みは、幼子のそれのように無邪気だった。
身に纏ったドレスは、深い緋色。彼女がこちらに近付くに連れ、膨らんだ肩から繋がる腕の部分には、小さな鳥類らしき刺繍が覗けた。
但し、最も慶太の目を奪ったのは、その容姿ではなかった。
彼女は、自分の足で歩いてきたわけではない。
車椅子に、乗っている。
それをウェイタにここまで押してきて貰い、ここまで辿り着いたのだ。
そのドレスに調和させる為か、車椅子全体もピンクに近い色調で統一されている。
その車輪が、慶太の前で動きを止めた。
「こんにちは」
彼女が発したのは、見掛けとは少し違う芯のある声。
慶太はまず「はい」と小さく反応して、お辞儀をして、その後顔を上げてから「こんにちは」と言うのが精一杯だった。
フリルで膨らんだドレスのスカート部分は、当然、座った状態ではその魅力を充分には発揮できない筈だが、それでも彼女は頭の先からピンヒールの踵に至るまで、万全の体勢を整えていた。そのせいか、車椅子に腰掛けているのが酷く不自然な状態に見えてしまう。
女性は慶太が座っている一つ横のソファの前で、ウェイタに微笑みだけで「ありがとう、もうここで大丈夫」と合図した。ウェイタも無言のまま頷き、車椅子の取っ手から手を離すと、一度も振り向かずに部屋を出て行った。
慶太が手を貸すべきか迷う暇もなく、女性は器用に車輪を操作して、腕力のみでソファに横から倒れ込み、今度は身体を入れ替えて、移動を終えた。肘掛けを含め慶太とは二人分ほどの距離で、同じ方向を向いて座っていることになる。
「足が、悪いんです」
女性はゆっくりと慶太に視線を合わせて、呟くように言った。
「——大変ですね」
「もう慣れていますので、大丈夫です。ご心配をお掛けして、ごめんなさい」
「いえ、そんな」
この女性も、今日の参加者だろうか。
危うく雰囲気に呑まれる寸前だったが、良く考えてみれば、お見合いパーティにこのような高貴な印象の人間が来るだろうか?そんなことをしなくても、相手など幾らでも見つかるのでは、などと不謹慎な想像をしてしまう。
「あなたも、今日の『出会いの泉』の参加者ですか?」
そう尋ねたのは、慶太ではなく、相手側だった。
「ええ、はい」必要以上に相手を凝視してしまう。「初めてなんで、勝手も分からなくて」
「そうですか……それは、偶然ですね、私も初めてなんです」
「そうなんですか、いや、緊張しますよね」
やはりこの女性も今日の参加者なのだ、という驚きは、他の雑多な感情に流され、刹那で記憶の彼岸へと遠ざかっていく。
「少し張り切って、早く来すぎてしまいました」女性は、悪戯っぽく笑う。「お名前、なんとお呼びすればよろしいかしら?」
お名前、なんとお呼びすればよろしいかしら?
慶太の分かる言葉に翻訳すると、「あんた、誰なん?」だ。
そんな台詞を生で聞く機会が訪れるとは思ってもみなかった。
「坂町と、言います」
こちらの言葉は通じるやろか、とおずおずと返答する。
「さかまちさん、下のお名前も頂戴したいです」
「坂町、慶太です」
「さかまちけいたさんですね。しっかりと、今、覚えました。今日は、どうかよろしくお願い致します」横を向いたまま、深々と頭を下げる。それでも、下半身は微動だにしない。
「いえ、こちらこそ。あの……」
「はい?」女性は、大きな瞳をしばたかせる。「何でしょう?」
「そちらも、名前、教えて貰ってもいいですか?」
「あら、ごめんなさい……私としたことが、うっかりして」瞬間、眉間に皺を寄せ、女性はすぐに笑顔に戻る。
小首を傾げる角度まで完璧なそのポーズを、坂町はその時、初めて見ることとなった。
「今畑、と申します。今畑、里緒奈です」
3.8.2 4D-WC
3.8.2
「いいですけど、本当に何も分からないですよ」
と、眞田からのお願いを江熊係長は、渋々、承諾した。彼は鑑識課の係長であり、これまでも幾度か現場で世話になったことがある間柄だ。プライベートは全く知らないが、不思議と印象に残る風貌をしている。恐らくは、年下の筈。それなら頼み事をする時も、強く言いやすい。
「いや、申し訳ない。自分の目で確認したくて」
小石川巧部長と堂山昭輔係長は、今後の捜査方針の擦り合わせのため、二人で別の場所に移動した。眞田は自然とはじき出される形となった訳だった。
そのまま休憩しても良かったのだが、どうしても一つ、頭の片隅に残ったままの事柄があった。
車椅子のことである。
「午前中の捜査会議で、簡単な報告はしたと思うんですけど」
「すまないね、聞き込みに行っててその会議、出てないんだ。特記事項でもあった?」
江熊は太い眉を寄せる。
「いや、特記と言うほどでは……。指紋が綺麗に拭き取られてたことぐらいです」
「ああ、なるほどね」
「それでも、見ます?」
「勿論」
「そこまで言うなら、ご案内しますよ」
江熊係長はパイプ椅子から立ち上がり、多少億劫そうに眞田を引き連れ、二階の食堂から一階へと移動した。最終的には、今まで入ったことのない小さな部屋に到着した。どうやらここを一時的に証拠品置き場として使わせてもらっているらしい。部屋のドアのプレートには、「第三会議室」とあった。
カチャリという鍵の回る音が静かな廊下に響いた後に広がったのは、寒々しい無機質なパイプ椅子、長机、そしてホワイトボード。「どうぞ」という声と共に、部屋の照明が付く。
証拠品は向かって左側の手前にまとめられていた。
その中で、車椅子はよく目立った。というよりは、その場にある証拠品の内、車椅子が最も大きい。
「これ?」
「そうです。広いところに、出してご覧になります?」
「そうして貰えると、助かるね」
ということで、眞田は一旦、車椅子を廊下に出し、転がして入口近くのホールへと運ぶことにした。空の車椅子はやはり目立つらしく、職員らしき人間からの好奇の目が眞田に刺さる。業務は中止となったと聞いているが、それにもかかわらず周囲の職員の数は、朝よりも増えつつあるように感じる。
「何が、気になるんです?」
「いや、まだ、それすら、分からない」
眞田はもはや江熊の方は見ずに、白手袋を嵌めた両手を、開いたり握ったりして気合いを入れる。
「私、ここにいた方が良いですか?」
「そうだね、すぐ終わるから」
ありふれた形状、病院などで度々目にするタイプの車椅子だった。
但し、配色が多少特殊だ。
「赤というか、ピンクというか……可愛らしい感じだね」
「そう言われれば、そうですね」
この車椅子を被害者が使っていたのなら、それも理解できる。十七歳の女の子が好みそうな色だからだ。八十歳の老婆が使っても性能には問題ないだろうが、やはりそれでは、かなり目立つだろう。
タイヤ、ホイール、肘置き。金属部分に目を凝らすが、あからさまな傷、血痕などは見当たらない。
念の為、肘起きなどの可動部分を動かしてみるが、繋ぎ目が硬いと感じた以外には違和感はない。
「変なとこ、なかったんだよね?」
眞田は背もたれを後ろから支える金属のバーを観察しながら尋ねる。
「指紋以外は、正直、車椅子を調べることがあんまりないんで、分からないっていうのが……偽らざる本音、ですね」
「おいおい、そんなんでいいのかよ」
「嘘言っても、しょうがないでしょう」
それには答えず、眞田は次の質問をする。
「これさ、ひっくり返してみた?」
「ええ、そりゃ、裏も見ましたよ」
頷く江熊を尻目に、眞田は車椅子を一度持ち上げ、青いビニールシートの上に、ゆっくりと、横向きに倒す。意外と重量感がある。
座面の裏、中央辺りに、シールが貼ってある。
近付いて詳細を確認する。手の甲ぐらいの、丸いシールだ。
白い背景を縁取るように黒く太い円が描かれ、その中には、漢字の「十」が書かれている。
太い円も、漢字の「十」も、毛筆で書いたようにデザインされているが、あくまで印刷されたもので、本当に筆で書いたわけではなさそうだ。
眞田は何となく、何処かで見た調味料のマークか、江戸時代の火消しを想像した。
「なんだ、これ」
「どれですか」
江熊も同じようにしゃがみ込み、そのマークをじっと見つめる。
「この車椅子のメーカのマークじゃないんですか」
「そうか、その可能性もあるな」
「これ、変ですか?」
「そんなことはない」
眞田は、一つ溜息をつく。
「寧ろ、これぐらいしか、特徴がなさすぎる」
「いいですけど、本当に何も分からないですよ」
と、眞田からのお願いを江熊係長は、渋々、承諾した。彼は鑑識課の係長であり、これまでも幾度か現場で世話になったことがある間柄だ。プライベートは全く知らないが、不思議と印象に残る風貌をしている。恐らくは、年下の筈。それなら頼み事をする時も、強く言いやすい。
「いや、申し訳ない。自分の目で確認したくて」
小石川巧部長と堂山昭輔係長は、今後の捜査方針の擦り合わせのため、二人で別の場所に移動した。眞田は自然とはじき出される形となった訳だった。
そのまま休憩しても良かったのだが、どうしても一つ、頭の片隅に残ったままの事柄があった。
車椅子のことである。
「午前中の捜査会議で、簡単な報告はしたと思うんですけど」
「すまないね、聞き込みに行っててその会議、出てないんだ。特記事項でもあった?」
江熊は太い眉を寄せる。
「いや、特記と言うほどでは……。指紋が綺麗に拭き取られてたことぐらいです」
「ああ、なるほどね」
「それでも、見ます?」
「勿論」
「そこまで言うなら、ご案内しますよ」
江熊係長はパイプ椅子から立ち上がり、多少億劫そうに眞田を引き連れ、二階の食堂から一階へと移動した。最終的には、今まで入ったことのない小さな部屋に到着した。どうやらここを一時的に証拠品置き場として使わせてもらっているらしい。部屋のドアのプレートには、「第三会議室」とあった。
カチャリという鍵の回る音が静かな廊下に響いた後に広がったのは、寒々しい無機質なパイプ椅子、長机、そしてホワイトボード。「どうぞ」という声と共に、部屋の照明が付く。
証拠品は向かって左側の手前にまとめられていた。
その中で、車椅子はよく目立った。というよりは、その場にある証拠品の内、車椅子が最も大きい。
「これ?」
「そうです。広いところに、出してご覧になります?」
「そうして貰えると、助かるね」
ということで、眞田は一旦、車椅子を廊下に出し、転がして入口近くのホールへと運ぶことにした。空の車椅子はやはり目立つらしく、職員らしき人間からの好奇の目が眞田に刺さる。業務は中止となったと聞いているが、それにもかかわらず周囲の職員の数は、朝よりも増えつつあるように感じる。
「何が、気になるんです?」
「いや、まだ、それすら、分からない」
眞田はもはや江熊の方は見ずに、白手袋を嵌めた両手を、開いたり握ったりして気合いを入れる。
「私、ここにいた方が良いですか?」
「そうだね、すぐ終わるから」
ありふれた形状、病院などで度々目にするタイプの車椅子だった。
但し、配色が多少特殊だ。
「赤というか、ピンクというか……可愛らしい感じだね」
「そう言われれば、そうですね」
この車椅子を被害者が使っていたのなら、それも理解できる。十七歳の女の子が好みそうな色だからだ。八十歳の老婆が使っても性能には問題ないだろうが、やはりそれでは、かなり目立つだろう。
タイヤ、ホイール、肘置き。金属部分に目を凝らすが、あからさまな傷、血痕などは見当たらない。
念の為、肘起きなどの可動部分を動かしてみるが、繋ぎ目が硬いと感じた以外には違和感はない。
「変なとこ、なかったんだよね?」
眞田は背もたれを後ろから支える金属のバーを観察しながら尋ねる。
「指紋以外は、正直、車椅子を調べることがあんまりないんで、分からないっていうのが……偽らざる本音、ですね」
「おいおい、そんなんでいいのかよ」
「嘘言っても、しょうがないでしょう」
それには答えず、眞田は次の質問をする。
「これさ、ひっくり返してみた?」
「ええ、そりゃ、裏も見ましたよ」
頷く江熊を尻目に、眞田は車椅子を一度持ち上げ、青いビニールシートの上に、ゆっくりと、横向きに倒す。意外と重量感がある。
座面の裏、中央辺りに、シールが貼ってある。
近付いて詳細を確認する。手の甲ぐらいの、丸いシールだ。
白い背景を縁取るように黒く太い円が描かれ、その中には、漢字の「十」が書かれている。
太い円も、漢字の「十」も、毛筆で書いたようにデザインされているが、あくまで印刷されたもので、本当に筆で書いたわけではなさそうだ。
眞田は何となく、何処かで見た調味料のマークか、江戸時代の火消しを想像した。
「なんだ、これ」
「どれですか」
江熊も同じようにしゃがみ込み、そのマークをじっと見つめる。
「この車椅子のメーカのマークじゃないんですか」
「そうか、その可能性もあるな」
「これ、変ですか?」
「そんなことはない」
眞田は、一つ溜息をつく。
「寧ろ、これぐらいしか、特徴がなさすぎる」
3.8.1 4D-WC
3.8.1
小石川巧部長兼所長から話を聞くに連れ、眞田と堂山がいない間の出来事の輪郭が、徐々にではあるが浮かび上がってきた。
被害者の父親が、重要参考人として連行された。
その人物は、殺人現場であるこのセンターの職員。
しかし、彼は殺人の嫌疑で連れて行かれたわけではない。
「どうして、父親がクスリやってるって分かったんです?麻薬検査なんか、してる暇、なかったですよね」
「いや、実はいたんだ、麻薬検査官が、一人」
再び三人は、エレベータの中で殺人現場となった十七階へと向かっている。
「なるほど、大体、分かりましたよ部長。ガイシャが、やってたんですね?そうでしょう?」
「流石、堂山君」小石川は階数表示を見上げたまま、呟くように肯定する。「鑑識の一人が最初に被害者を調べた時に、怪しいと思って、少し前に呼んでいたらしい」
「そしたら、その父親からもクスリの兆候が出てきた、という訳ですか」
「そういうことだね」今度は頸を下げ、きっちりと堂山の方を向いて話す。「というか、手荷物の中に覚醒剤があったんだ。別に検査官がいなくても現行犯で逮捕できただろうけど」
言い終わってから、付け足すように眞田にも視線を合わせる。自分には意図が分からない。
「じゃあ、その父親は誰が連れて行ったんですか」
「君の部下の石巻君と若い女性の……誰だったかな」
「チグですね」堂山は顔をしかめる。今日はこの人、この表情が多いな、と眞田は硝子越しで眺めるように観察する。「うーん、というかですね、お言葉ですけど、そういう時は一言で良いんで、連絡貰えませんか。一応、私の部下になるんで」
「すまない、いや、連絡できればしていたが、どうしようもなかっただろう」
「そりゃあ、確かにそうなんですけどね……いや、連絡関係だけは正しくやっとかないと、いざという時に困りますから、部長」
「勝手に捜査一課の人間を動かして申し訳なかった。これから、気を付けるよ」
と、そのタイミングでエレベータが十七階に到着した。巧、堂山、眞田の順番で降りたが、それは堂山が不機嫌そうに眞田を押しのけ、半ば強引に先に外に出たからだった。
巧は意に介する様子もなく、廊下をすたすたと歩いていく。呑気な性格が役に立つこともあるんだな、とまた眞田は別のことを考える。
「コロシなのは、間違いないんですか?」急に思い立ち、眞田は尋ねる。
「まさか、自殺とか言い出すアレか?」堂山はすぐさま振り向き、眞田を呆れたような面持ちで眺める。「それはないだろ。凶器が見つかってない。自分で刺して隠す手間の意味もわからん」
「単なる確認です。本気で信じてるわけでもありません」
その返答に堂山は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「僕が一番分からないのはね」巧は前を向いたまま、歩を進めつつマイペースに話し始める。「ガイシャも、いたとすればホシも、日曜日の夜中にこの建物の中にいた理由だ」
「そっちの線での聞き込み、進んでるんですか?」
「いや、申し訳ない、まだだね、そこまで手が回っていない。これから二人にもそれをお願いしようと考えてたところだ」
「うーん、想像もつかないですね」
確かに、大学の研究施設に日曜日の夜中に忍び込む目的が思い付かない。強盗ならば、もっと金品が置いてある場所を選びそうなものだ。最初から殺人目的で入ったとすれば、こんな場所で落ち合う約束をした被害者の行動が不可解だ。
そこまで考えたところで、改めて、殺人現場に辿り着いた。
既に遺体はなく、捜査員も皆、出払っているようだった。
一基だけあるエレベータは依然、その扉を閉じている。
「ここへ来て、どうしようって言うんです?」
堂山のぶっきらぼうな質問にも、巧は丁寧に答える。
「うん……、できる限り、昨日の夜中に起こったことを具体的に想像してみたくてね」
徐に、巧はエレベータを背にして、つまりエレベータホールの中央を向いて直立した。
「被害者の女性は、一階から十七階まで上ってくる時、階段で来たんだろうか、それともエレベータを使って、この場所から降りたのだろうか、はたまたもう一つのエレベータホールの四基のエレベータのどれかを使って来たんだろうか?」
「さあ……一番使いやすいのは、四基のエレベータのどれかじゃないですか、一階のセンター入口から一番近いエレベータですし」
「うん。僕も、そう思うよ」巧は軽く頷く。「但し、今列挙した三つの可能性を、順番に、できるだけ具体的に考えてみると、少し、気になることが出てくる。ーー十七階に到着するのに最もありそうな方法、つまり大きい方のエレベータホールを使った場合、まずすべきことがある」
「すべきこと?」
「エレベータのロックを外す、ですよね」
「眞田君、返答が早いね」巧は満足そうに首を縦に振る。「そうだ、まず、事務室に行って、方法は不明だが、夜中に掛けられているセキュリティ対策用のエレベータロックを外す必要がある」
「ロック?そんなのがあるんですか」
堂山は驚くが、眞田にしてみればつい先程堂山もこの話を聴かされているはずである。
「そして、事務室からはね、四基のエレベータよりも、この現場になった小さい方のエレベータホールの方が圧倒的に近いんだ」
「ああ……なるほど。わざわざ戻った理由、ですね」
「そういうことだね」
「この……ここを小エレベータホールと呼ぶことにすれば、被害者は小エレベータホールの存在自体を知らなかったんじゃないですか」
「そうかもしれないね。でも、そんな人間が、ここのエレベータが夜中ロックされていることは知っているのは、ちょっとちぐはぐ過ぎる気はしないかね」
「ええ、言われてみれば」
「あの、お言葉ですが」堂山がわざわざ生徒のように手を挙げる。確かに、巧の話は聴き手にそのようにさせる力を持っているような気がする。「そうやってこれから、三つの可能性、ってやつを順番に考えていくんですか?すいませんが、そういう頭を酷使する作業ってのは苦手でして」
「うーん、そんなに頭を使わない方法だと思うが……力任せ法だし」
「ちからまかせ?」
「アルゴリズムの名前だよ。一つずつ順番に調べて、当たりが出るまで根気よくやる方法だ」
「そんな方法に、わざわざ大層な名前なんか付けなくても……」
「力任せ法は立派な方法だよ、時間があれば、今度説明するよ」
堂山は一瞬だけぎょっとした表情になり、遅れて頭を掻いた。
「ええ、時間があれば、お願いします。時間があれば」
小石川巧部長兼所長から話を聞くに連れ、眞田と堂山がいない間の出来事の輪郭が、徐々にではあるが浮かび上がってきた。
被害者の父親が、重要参考人として連行された。
その人物は、殺人現場であるこのセンターの職員。
しかし、彼は殺人の嫌疑で連れて行かれたわけではない。
「どうして、父親がクスリやってるって分かったんです?麻薬検査なんか、してる暇、なかったですよね」
「いや、実はいたんだ、麻薬検査官が、一人」
再び三人は、エレベータの中で殺人現場となった十七階へと向かっている。
「なるほど、大体、分かりましたよ部長。ガイシャが、やってたんですね?そうでしょう?」
「流石、堂山君」小石川は階数表示を見上げたまま、呟くように肯定する。「鑑識の一人が最初に被害者を調べた時に、怪しいと思って、少し前に呼んでいたらしい」
「そしたら、その父親からもクスリの兆候が出てきた、という訳ですか」
「そういうことだね」今度は頸を下げ、きっちりと堂山の方を向いて話す。「というか、手荷物の中に覚醒剤があったんだ。別に検査官がいなくても現行犯で逮捕できただろうけど」
言い終わってから、付け足すように眞田にも視線を合わせる。自分には意図が分からない。
「じゃあ、その父親は誰が連れて行ったんですか」
「君の部下の石巻君と若い女性の……誰だったかな」
「チグですね」堂山は顔をしかめる。今日はこの人、この表情が多いな、と眞田は硝子越しで眺めるように観察する。「うーん、というかですね、お言葉ですけど、そういう時は一言で良いんで、連絡貰えませんか。一応、私の部下になるんで」
「すまない、いや、連絡できればしていたが、どうしようもなかっただろう」
「そりゃあ、確かにそうなんですけどね……いや、連絡関係だけは正しくやっとかないと、いざという時に困りますから、部長」
「勝手に捜査一課の人間を動かして申し訳なかった。これから、気を付けるよ」
と、そのタイミングでエレベータが十七階に到着した。巧、堂山、眞田の順番で降りたが、それは堂山が不機嫌そうに眞田を押しのけ、半ば強引に先に外に出たからだった。
巧は意に介する様子もなく、廊下をすたすたと歩いていく。呑気な性格が役に立つこともあるんだな、とまた眞田は別のことを考える。
「コロシなのは、間違いないんですか?」急に思い立ち、眞田は尋ねる。
「まさか、自殺とか言い出すアレか?」堂山はすぐさま振り向き、眞田を呆れたような面持ちで眺める。「それはないだろ。凶器が見つかってない。自分で刺して隠す手間の意味もわからん」
「単なる確認です。本気で信じてるわけでもありません」
その返答に堂山は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「僕が一番分からないのはね」巧は前を向いたまま、歩を進めつつマイペースに話し始める。「ガイシャも、いたとすればホシも、日曜日の夜中にこの建物の中にいた理由だ」
「そっちの線での聞き込み、進んでるんですか?」
「いや、申し訳ない、まだだね、そこまで手が回っていない。これから二人にもそれをお願いしようと考えてたところだ」
「うーん、想像もつかないですね」
確かに、大学の研究施設に日曜日の夜中に忍び込む目的が思い付かない。強盗ならば、もっと金品が置いてある場所を選びそうなものだ。最初から殺人目的で入ったとすれば、こんな場所で落ち合う約束をした被害者の行動が不可解だ。
そこまで考えたところで、改めて、殺人現場に辿り着いた。
既に遺体はなく、捜査員も皆、出払っているようだった。
一基だけあるエレベータは依然、その扉を閉じている。
「ここへ来て、どうしようって言うんです?」
堂山のぶっきらぼうな質問にも、巧は丁寧に答える。
「うん……、できる限り、昨日の夜中に起こったことを具体的に想像してみたくてね」
徐に、巧はエレベータを背にして、つまりエレベータホールの中央を向いて直立した。
「被害者の女性は、一階から十七階まで上ってくる時、階段で来たんだろうか、それともエレベータを使って、この場所から降りたのだろうか、はたまたもう一つのエレベータホールの四基のエレベータのどれかを使って来たんだろうか?」
「さあ……一番使いやすいのは、四基のエレベータのどれかじゃないですか、一階のセンター入口から一番近いエレベータですし」
「うん。僕も、そう思うよ」巧は軽く頷く。「但し、今列挙した三つの可能性を、順番に、できるだけ具体的に考えてみると、少し、気になることが出てくる。ーー十七階に到着するのに最もありそうな方法、つまり大きい方のエレベータホールを使った場合、まずすべきことがある」
「すべきこと?」
「エレベータのロックを外す、ですよね」
「眞田君、返答が早いね」巧は満足そうに首を縦に振る。「そうだ、まず、事務室に行って、方法は不明だが、夜中に掛けられているセキュリティ対策用のエレベータロックを外す必要がある」
「ロック?そんなのがあるんですか」
堂山は驚くが、眞田にしてみればつい先程堂山もこの話を聴かされているはずである。
「そして、事務室からはね、四基のエレベータよりも、この現場になった小さい方のエレベータホールの方が圧倒的に近いんだ」
「ああ……なるほど。わざわざ戻った理由、ですね」
「そういうことだね」
「この……ここを小エレベータホールと呼ぶことにすれば、被害者は小エレベータホールの存在自体を知らなかったんじゃないですか」
「そうかもしれないね。でも、そんな人間が、ここのエレベータが夜中ロックされていることは知っているのは、ちょっとちぐはぐ過ぎる気はしないかね」
「ええ、言われてみれば」
「あの、お言葉ですが」堂山がわざわざ生徒のように手を挙げる。確かに、巧の話は聴き手にそのようにさせる力を持っているような気がする。「そうやってこれから、三つの可能性、ってやつを順番に考えていくんですか?すいませんが、そういう頭を酷使する作業ってのは苦手でして」
「うーん、そんなに頭を使わない方法だと思うが……力任せ法だし」
「ちからまかせ?」
「アルゴリズムの名前だよ。一つずつ順番に調べて、当たりが出るまで根気よくやる方法だ」
「そんな方法に、わざわざ大層な名前なんか付けなくても……」
「力任せ法は立派な方法だよ、時間があれば、今度説明するよ」
堂山は一瞬だけぎょっとした表情になり、遅れて頭を掻いた。
「ええ、時間があれば、お願いします。時間があれば」
3.8.0 4D-WC
3.8.0
出掛けた時は吹き出た汗を拭うほど身体が熱かったのに、戻ってきた今は、目の前のコーンスープの熱さが、やけに心に沁みる。他にも熱い淹れたてのお茶、流石に焼きたてとはいかないまでも電子レンジで温められたパンが幾つか、というメニュー。眞田敬二郎が一日で最初の食事にありつけた時には、既に正午前、十一時半になっていた。
国立情報学研究センターの二階にある食堂の中。正午にはなっていないが多くの人間がトレイを持ち、整列して注文を言う順番を待っている。殺人事件という非常事態により、今日は臨時休業という形になった。但し実際には多くの職員らしき人間がここで食事を摂っており、恐らくは仕事を進めている人間も少なくないだろう。
「臨時休業なんかして、痛手ではないんですか?」
大きなスプーンでコーンスープを掬いながら、眞田は尋ねる。相手は小石川巧である。
「そりゃ、痛手だよ。こんな事件がここで起こったことが、もっと痛手だけどね。でも、一般的な企業と比較すれば、被害は少ないはずだ。一朝一夕で成果が出る類の仕事じゃない」
「嗚呼、寒い。部長、報告は飯、食ってからで良いですよね」
眞田を挟んで巧の反対側の席には連れ添って戻ってきた堂山係長が、同じく食事中だ。
「構わんよ、ゆっくり食べてくれ」
「そう言えば部長」眞田は一つ目のパンの袋を開ける。「私たちとこんなに近い距離で話してるところを他の方に見られてもいいんですか?」
「それは大丈夫だ、何とでも言い訳はできる。元々、意外と不審には思われていないような気もするしね」
「ちょっと楽観的じゃないですか?」財布を忘れた件と言い、元来、この人はそういう性格のような気がする。
「部長、それじゃあ、報告良いですか」
「もう全部食べたんですか?」思わず横の堂山の席を確認するが、確かにトレイに置かれた食事は綺麗に平らげられていた。
「こんなもん、一分ありゃ食えるだろ」不思議と自慢気に堂山は呟き、すぐさま本題に入る。「いやね、報告も必要ですが、その前に大事なことを教えて貰わないと困るんです、部長」
「ん、何か君に言っていないことがあったかな」
「小野原貞政、って誰ですか?」
「嗚呼……その話か。何故、またいきなり?」そう言って、眞田の方をちらりと窺う。
「そこで報告って話になるんですけどね、これが」堂山はコートのポケットから小さな手帳を取り出す。眞田は彼がメモを取っている場面を見ていないが、どこかで必要な情報を整理したのだろう。
「こいつが、特事の案件は簡単には口外できない、の一点張りでね、そういうことなら、上司に直談判しようと思いまして」
「まだ依頼を受けたばかりの案件なんだが」と前置きして、巧はコーヒーカップに一口つけてから話し始めた。直談判は成功したようだった。「衆議院議員の今畑籐吉の娘を探して欲しい、とその今畑の秘書から依頼された。そしてその娘はある新興宗教の信者で、小野原貞政もその団体に属している」
「属している?信者ではないんですか?」
「まだ、調査中だ。教団の関連団体の人間という可能性もある」
「ふーん、議員さんのね……」堂山はメモを取りながら、唸る。「その娘と小野原は、宗教絡み以外で接点があるんですか?」
「それもまだ分からない」
「情報、少ないんですね、今の段階では」
明らかに落胆の表情を見せる堂山に対し、巧は口角を僅かに上げる。
「何しろ、依頼を受けたばかりだからね。君に期待させてもいけないし……だから、まだここで起こったコロシと、公安の話が関係あるのかどうか、判断できないんだよ、我々にも」
「こいつがあんまり勿体振るからね、期待しますよ、そりゃ」非難の矛先が自分に向けられ、眞田は驚く。「ま、しょうがないね、勝手にペラペラ喋るよりはましか」
「けなすか誉めるか、どっちかにして下さいよ」
「うるせえよ」
「部長、あまり食欲、ないんですか」
巧のトレイの上にはパンが一つ、そして紙パックの紅茶だけだった。「差し出がましいようですけど、食べて体力を付けておかないと、困るんじゃないですか」
「ありがとう、ただ、さっきも食べたんだ」
「食べ物と言えば、言えばホトケさんの胃の中、どうなってたんです?解剖、まだですか?」
遠慮なく、堂山は事件に関する質問をしてくる。思い付いたことを、そのまま口にしているのではと疑いたくなる。
「うん、解剖はまだだね、遺体はもう連れて行かれてたから、家族の許可も得られて、今頃やってるんじゃないかな」巧は頷く。
刑事就任間もない頃は、眞田にとって、食事中にこの種の会話ができる同僚や上司が信じられなかった。医者などでも同様のことがあると、友人から聞かされたこともある。ただ最近では、漸く免疫も付いてきた。成長したもんだな、と我ながら思う瞬間である。
「嗚呼、それじゃあ、稲坂のところに行ったのは結局、無駄骨か」
堂山はペンを机において椅子に大きくもたれ掛かれ、天井を仰ぐ。
「そんなことないですよ、色々、話も聞けたじゃないですか」
「だけど、全然、関係ないかも知れんしな……」
「そんなことはないと私は思うけどね、堂山君」巧は紙パックのストローをくわえている。「無駄なことをした時は、無駄なことをするという立派な経験ができたと思えばいいんだ」
「相変わらず、ややこしいこと言いますね」
渋面を作る堂山。
「それはともかく、せっかくだし、現場をもう一度見てから、ディスカッションというのはどうだろう。今日は遅くまでというわけにはいかないが、そうだな……」
巧は腕時計を数秒凝視した後、二人の目を見て言った。
「じゃあ、十五時十五分までだ」
「え?」
「切りが良いだろう?」
「え?」
二回目は、眞田と堂山の声が揃った。
出掛けた時は吹き出た汗を拭うほど身体が熱かったのに、戻ってきた今は、目の前のコーンスープの熱さが、やけに心に沁みる。他にも熱い淹れたてのお茶、流石に焼きたてとはいかないまでも電子レンジで温められたパンが幾つか、というメニュー。眞田敬二郎が一日で最初の食事にありつけた時には、既に正午前、十一時半になっていた。
国立情報学研究センターの二階にある食堂の中。正午にはなっていないが多くの人間がトレイを持ち、整列して注文を言う順番を待っている。殺人事件という非常事態により、今日は臨時休業という形になった。但し実際には多くの職員らしき人間がここで食事を摂っており、恐らくは仕事を進めている人間も少なくないだろう。
「臨時休業なんかして、痛手ではないんですか?」
大きなスプーンでコーンスープを掬いながら、眞田は尋ねる。相手は小石川巧である。
「そりゃ、痛手だよ。こんな事件がここで起こったことが、もっと痛手だけどね。でも、一般的な企業と比較すれば、被害は少ないはずだ。一朝一夕で成果が出る類の仕事じゃない」
「嗚呼、寒い。部長、報告は飯、食ってからで良いですよね」
眞田を挟んで巧の反対側の席には連れ添って戻ってきた堂山係長が、同じく食事中だ。
「構わんよ、ゆっくり食べてくれ」
「そう言えば部長」眞田は一つ目のパンの袋を開ける。「私たちとこんなに近い距離で話してるところを他の方に見られてもいいんですか?」
「それは大丈夫だ、何とでも言い訳はできる。元々、意外と不審には思われていないような気もするしね」
「ちょっと楽観的じゃないですか?」財布を忘れた件と言い、元来、この人はそういう性格のような気がする。
「部長、それじゃあ、報告良いですか」
「もう全部食べたんですか?」思わず横の堂山の席を確認するが、確かにトレイに置かれた食事は綺麗に平らげられていた。
「こんなもん、一分ありゃ食えるだろ」不思議と自慢気に堂山は呟き、すぐさま本題に入る。「いやね、報告も必要ですが、その前に大事なことを教えて貰わないと困るんです、部長」
「ん、何か君に言っていないことがあったかな」
「小野原貞政、って誰ですか?」
「嗚呼……その話か。何故、またいきなり?」そう言って、眞田の方をちらりと窺う。
「そこで報告って話になるんですけどね、これが」堂山はコートのポケットから小さな手帳を取り出す。眞田は彼がメモを取っている場面を見ていないが、どこかで必要な情報を整理したのだろう。
「こいつが、特事の案件は簡単には口外できない、の一点張りでね、そういうことなら、上司に直談判しようと思いまして」
「まだ依頼を受けたばかりの案件なんだが」と前置きして、巧はコーヒーカップに一口つけてから話し始めた。直談判は成功したようだった。「衆議院議員の今畑籐吉の娘を探して欲しい、とその今畑の秘書から依頼された。そしてその娘はある新興宗教の信者で、小野原貞政もその団体に属している」
「属している?信者ではないんですか?」
「まだ、調査中だ。教団の関連団体の人間という可能性もある」
「ふーん、議員さんのね……」堂山はメモを取りながら、唸る。「その娘と小野原は、宗教絡み以外で接点があるんですか?」
「それもまだ分からない」
「情報、少ないんですね、今の段階では」
明らかに落胆の表情を見せる堂山に対し、巧は口角を僅かに上げる。
「何しろ、依頼を受けたばかりだからね。君に期待させてもいけないし……だから、まだここで起こったコロシと、公安の話が関係あるのかどうか、判断できないんだよ、我々にも」
「こいつがあんまり勿体振るからね、期待しますよ、そりゃ」非難の矛先が自分に向けられ、眞田は驚く。「ま、しょうがないね、勝手にペラペラ喋るよりはましか」
「けなすか誉めるか、どっちかにして下さいよ」
「うるせえよ」
「部長、あまり食欲、ないんですか」
巧のトレイの上にはパンが一つ、そして紙パックの紅茶だけだった。「差し出がましいようですけど、食べて体力を付けておかないと、困るんじゃないですか」
「ありがとう、ただ、さっきも食べたんだ」
「食べ物と言えば、言えばホトケさんの胃の中、どうなってたんです?解剖、まだですか?」
遠慮なく、堂山は事件に関する質問をしてくる。思い付いたことを、そのまま口にしているのではと疑いたくなる。
「うん、解剖はまだだね、遺体はもう連れて行かれてたから、家族の許可も得られて、今頃やってるんじゃないかな」巧は頷く。
刑事就任間もない頃は、眞田にとって、食事中にこの種の会話ができる同僚や上司が信じられなかった。医者などでも同様のことがあると、友人から聞かされたこともある。ただ最近では、漸く免疫も付いてきた。成長したもんだな、と我ながら思う瞬間である。
「嗚呼、それじゃあ、稲坂のところに行ったのは結局、無駄骨か」
堂山はペンを机において椅子に大きくもたれ掛かれ、天井を仰ぐ。
「そんなことないですよ、色々、話も聞けたじゃないですか」
「だけど、全然、関係ないかも知れんしな……」
「そんなことはないと私は思うけどね、堂山君」巧は紙パックのストローをくわえている。「無駄なことをした時は、無駄なことをするという立派な経験ができたと思えばいいんだ」
「相変わらず、ややこしいこと言いますね」
渋面を作る堂山。
「それはともかく、せっかくだし、現場をもう一度見てから、ディスカッションというのはどうだろう。今日は遅くまでというわけにはいかないが、そうだな……」
巧は腕時計を数秒凝視した後、二人の目を見て言った。
「じゃあ、十五時十五分までだ」
「え?」
「切りが良いだろう?」
「え?」
二回目は、眞田と堂山の声が揃った。
3.7.0 4D-WC
3.7.0
大阪に留まるべきか、東京へと戻るべきか。
警察から半ば強引に外へと連れ出される結果となり、東川莉子は逡巡の後、戻ることを決めた。
そもそも、政局は今、永田町の動きを活発化させている。
一国の総理が退陣表明を行ったのがつい数日前。当然、そうなることは以前より予想の範囲内であったが、それはつまり、衆議院議員にとっては調査期間であり、また次の一手を打つ準備期間でもある。そこで選択を少し間違ったばかりに、地方へと謝罪に帰る羽目になった議員を莉子はこれまで数多く見聞きしてきた。
臨時国会で後釜が決まれば、丁度年明けのタイミングなのですぐに通常国会が開かれることとなるだろう。今畑は充分に力を持っているとは言えるが、万が一の事態に備え、忙しく動き回っている。
その最中にできれば他の事案で手を煩わせるのは避けたい、という思惑は働くものの、今畑にしてみれば、愛娘の行方の話である。秘書である自分が、勝手な判断で報告を省く訳にもいくまい。
それにしても。
と、改札内のベンチに腰掛け、莉子は考えてしまう。
偶然とは言え、小野原が里緒奈の属する宗教団体に関わっている恐れが出てきた。教育プロジェクト自体の停滞も痛手には違いないが、小野原とこのまま進めていてもどの道、ろくなことにはならなかっただろうという想像もつく。問題はそれよりも、今畑本人とその宗教団体との関係である。
てっきり、今畑籐吉は団体を憎んでいると思い込んでいた。
本当に、そうなのだろうか?
確たる根拠はないが、疑念が喉を突いて上がってくる。
ただ、ここで考えても仕方がない。
莉子は実務を優先させることにする。東京の事務所に、自分の行動を報告しておくべきだと思ったのだ。今畑籐吉には連絡を差し控えることにする。今まで、同じ場所にいない限り、この時間に彼と会話ができた試しがない。
「はい、今畑籐吉事務所でございます」
「あ、私です、東川です」
「ああ、莉子さんですか、おつかれさまです」
出たのは聞き覚えのある男の声だっだ。「慶次郎くん?」
「今、どこでしたっけ?あ、京都ですよね」
「事情があって、京都から大阪に移動したの。でももう、これからそっちに帰るから、その報告」
「わかりました。早く帰ってきてくださいよぉ、こっちはすごいことになってんですから」
「忙しいときに、本当にごめんなさい、帰ったらなんか奢るわ」
「じゃあ、飲みに連れてって下さいよ」
「うん、まあ、考えとく」
「あ、本気で言ってるんですからね」
「それじゃ、切るから」
悪い男ではないが、良くも悪くも、まだ若い。灘慶次郎(なだけいじろう)と暫く仕事をしてみて抱いた印象は、それ以上でも、それ以下でもなかった。彼が電話に出るということは、確かに「すごいことになっている」のかもしれない、と莉子は思う。彼は年齢の割には仕事ができる。数人の人間を束ねる立場にいるようになってもう一年ほど経つが、彼が電話番をしているところは見たことがない。但し実際には、本当にまずい事態にはなっていない、とも思う。その場合、聡明な彼ならば、意地でもその非常事態の内容を莉子に伝えようとするだろうからだ。
新幹線の発車時間まで残り、十五分。
食べ損なっているままの昼食を買わなければ。
ベンチから立ち上がった、その時。
誰かの視線を感じた。
莉子は息を止め、ゆっくりと、周囲を見回す。
一見、不審な人影は見当たらない。売店や土産物屋は、家族連れで賑わっている。発車時刻を告げる場内アナウンスが、やけに耳につく。
職業上、こういった経験は初めてではない。もっとも、それは殆どが自分の師、今畑籐吉に対して行われてきた。初めてだったら、気が付かなかったかも知れない。
ーー私個人を尾行して、何になる?
一番有力な候補は、大阪の警察組織。小野原と接触する恐れがないか、見張っているのだろう。少なくとも、自分が警察の立場ならば、そうする。他の候補は、その宗教団体、もしくは、東京で依頼をした大学の施設長の関係者。しかしどれも、莉子から得られると思われる情報は、できる限り客観的に考えてみても、掛けた労力に見合うとは考えにくかった。何か、勘違いをされているのに違いない。
再度、腕時計に目を落とす。
急ごう。
やるべきことが、待っている。
大阪に留まるべきか、東京へと戻るべきか。
警察から半ば強引に外へと連れ出される結果となり、東川莉子は逡巡の後、戻ることを決めた。
そもそも、政局は今、永田町の動きを活発化させている。
一国の総理が退陣表明を行ったのがつい数日前。当然、そうなることは以前より予想の範囲内であったが、それはつまり、衆議院議員にとっては調査期間であり、また次の一手を打つ準備期間でもある。そこで選択を少し間違ったばかりに、地方へと謝罪に帰る羽目になった議員を莉子はこれまで数多く見聞きしてきた。
臨時国会で後釜が決まれば、丁度年明けのタイミングなのですぐに通常国会が開かれることとなるだろう。今畑は充分に力を持っているとは言えるが、万が一の事態に備え、忙しく動き回っている。
その最中にできれば他の事案で手を煩わせるのは避けたい、という思惑は働くものの、今畑にしてみれば、愛娘の行方の話である。秘書である自分が、勝手な判断で報告を省く訳にもいくまい。
それにしても。
と、改札内のベンチに腰掛け、莉子は考えてしまう。
偶然とは言え、小野原が里緒奈の属する宗教団体に関わっている恐れが出てきた。教育プロジェクト自体の停滞も痛手には違いないが、小野原とこのまま進めていてもどの道、ろくなことにはならなかっただろうという想像もつく。問題はそれよりも、今畑本人とその宗教団体との関係である。
てっきり、今畑籐吉は団体を憎んでいると思い込んでいた。
本当に、そうなのだろうか?
確たる根拠はないが、疑念が喉を突いて上がってくる。
ただ、ここで考えても仕方がない。
莉子は実務を優先させることにする。東京の事務所に、自分の行動を報告しておくべきだと思ったのだ。今畑籐吉には連絡を差し控えることにする。今まで、同じ場所にいない限り、この時間に彼と会話ができた試しがない。
「はい、今畑籐吉事務所でございます」
「あ、私です、東川です」
「ああ、莉子さんですか、おつかれさまです」
出たのは聞き覚えのある男の声だっだ。「慶次郎くん?」
「今、どこでしたっけ?あ、京都ですよね」
「事情があって、京都から大阪に移動したの。でももう、これからそっちに帰るから、その報告」
「わかりました。早く帰ってきてくださいよぉ、こっちはすごいことになってんですから」
「忙しいときに、本当にごめんなさい、帰ったらなんか奢るわ」
「じゃあ、飲みに連れてって下さいよ」
「うん、まあ、考えとく」
「あ、本気で言ってるんですからね」
「それじゃ、切るから」
悪い男ではないが、良くも悪くも、まだ若い。灘慶次郎(なだけいじろう)と暫く仕事をしてみて抱いた印象は、それ以上でも、それ以下でもなかった。彼が電話に出るということは、確かに「すごいことになっている」のかもしれない、と莉子は思う。彼は年齢の割には仕事ができる。数人の人間を束ねる立場にいるようになってもう一年ほど経つが、彼が電話番をしているところは見たことがない。但し実際には、本当にまずい事態にはなっていない、とも思う。その場合、聡明な彼ならば、意地でもその非常事態の内容を莉子に伝えようとするだろうからだ。
新幹線の発車時間まで残り、十五分。
食べ損なっているままの昼食を買わなければ。
ベンチから立ち上がった、その時。
誰かの視線を感じた。
莉子は息を止め、ゆっくりと、周囲を見回す。
一見、不審な人影は見当たらない。売店や土産物屋は、家族連れで賑わっている。発車時刻を告げる場内アナウンスが、やけに耳につく。
職業上、こういった経験は初めてではない。もっとも、それは殆どが自分の師、今畑籐吉に対して行われてきた。初めてだったら、気が付かなかったかも知れない。
ーー私個人を尾行して、何になる?
一番有力な候補は、大阪の警察組織。小野原と接触する恐れがないか、見張っているのだろう。少なくとも、自分が警察の立場ならば、そうする。他の候補は、その宗教団体、もしくは、東京で依頼をした大学の施設長の関係者。しかしどれも、莉子から得られると思われる情報は、できる限り客観的に考えてみても、掛けた労力に見合うとは考えにくかった。何か、勘違いをされているのに違いない。
再度、腕時計に目を落とす。
急ごう。
やるべきことが、待っている。
3.6.0 4D-WC
3.6.0
午前、十一時。
小石川巧は一階の多目的室にいた。
鑑識からの検屍結果なども一通り出揃ったとの連絡を聞き、所長室から降りてきたところだった。
本来ならば、今は目立つ行動は避けたい。事件現場の施設の長が警察に呼び出されているだけだと説明すれば誤魔化せるかも知れないが、万が一、所長と警察秘密部隊の長を兼務している事実を知られるのは、避けられるに超したことはない。
しかしながら、この場を取り仕切る筈の堂山係長はいない上に、部下の眞田をも連れていってしまった。他に特に顔の知った人間は現場に到着していない。
渋々、所長室から出てきたという経緯だった。
「部長、もう、始められますか」
「部長と呼ぶなと言ってあるだろう」
「申し訳ありません……誠に、申し訳ありません」
横に座っている嶋井という男も、いささか頼りなさげな印象だ。上司にちょっと怒鳴られただけでこんなに平謝りする人間も珍しいだろう。
広い部屋に置かれた長机が三つ、入口に口を開ける形でコの字型に配置されている。真ん中の机に座る巧の左右はかなり埋まってきているが、右側の机の中では一番こちらに近い席が、ぽっかりと空けられたままになっている。
巧は指を指して尋ねる。「そこは、誰かな」
「鑑識の、江熊(えぐま)係長です」
聞いたことがある名前だ、と思った瞬間、
「遅くなりました!」
という大声と共に、キャップを被った男が分厚いファイルを小脇に抱え入ってきた。既に着席していた大勢が男を一瞥し、すぐに元の姿勢に戻る。
「君で、最後かな」
「だと、思います」男は歯を見せ、笑顔を作った。
「じゃあ、始めよう」巧は立ち上がり、部屋全体を見回す。「まだの者には、責任を持って伝わるようにしておいてほしい」
その合図で入口のドアが施錠され、嶋井はホワイトボードの前に移動して、ペンを持った。
「年明け早々、御苦労。一度この時点で、報告をまとめよう。鑑識から、検死結果を頼む」
「わかりました」座ったばかりの江熊という男は機敏な動作で報告を始める。「鑑識、今回の担当の江熊です。よろしくお願いします」
そこで一瞬間を置いたが、誰一人反応しなかった。江熊は続ける。
「えと、死亡推定時刻は、昨日、つまり一月七日の夜中の十一時から本日の午前零時です。死後硬直からの判断ですが、時間が経っていないのでかなり正確だと思われます。死因は腹部からの大量出血による失血死ですね。その割に、現場に血痕が少なかったですが」
巧は現場の様子を思い起こし、その江熊の意見に同調する。
「被害者は若く、十五歳から二十歳までの女性。彼女を刺した凶器は発見できておりません。差し口の角度から考えて、刃渡りが少なくとも十センチ。争った形跡も少ないので、多分、正面から一発、でしょう」
ふと振り向くと、嶋井がホワイトボードに向かいせっせと「一発」と書いている。
「車椅子は?」
「はい、もちろんそれも調べております」江熊はしっかりと巧を見据えた後、頷いた。「なお、現場のすぐの前にあるエレベータ内からは、誰も乗っていない車椅子が発見されました。発見当時は一階で停止していたと聞いておりますが、誰の指紋も出ておりません。当然、不自然な状態なので、誰かが故意に拭き取ったと思われます」
「了解、ありがとう。それではガイシャの身元近辺はどうだった?」
「はい、報告します」今度は巧から向かって左側の長机から、小太りの男が立ち上がった。よれよれのスーツが気になったが、口出しすべきことでもない。こちらもまた、見覚えのある男だった。捜査一課の人間だろう。
「被害者ですが、名前は依野悦吏子(よりのえりこ)、十七歳。父親の明良(あきら)とも面通しが済んでおり、更に先程の検死結果とも一致するため、本人で間違いないでしょう。また、エレベータ内で発見された車椅子ですが、被害者が普段使っていたものである可能性が高いです。現在、裏を取っている最中です」
「第一発見者は、事務員の男だと聞いているが、間違いないか」
「はい、佐山大治(さやまだいじ)という男です。部長はご存じでしょうが、ここに勤務して九年ほど、事務員の中では現在、一番の古株です。彼が夜勤明け、午前五時の見回りで、その、動作禁止ロックが外されているのに気が付いたんです」
「すいません、動作禁止ロック、って何ですか?」
という声が右側の机の一人から発せられる。
「はい、このビルはセキュリティも強固でして」そこで男はハンカチを取り出し、額を拭った。「午後十時から午前六時までの八時間は、エレベータが使えないよう、自動的にロックが掛かる仕組みになっているんだそうです」
「その通りだ」巧が補強する。
「それが外れてたってことですか?朝の五時に?」
「そういうことになりますね」小太りの男は困った顔になる。「異変が起きたと思った佐山は、まずはそのロックを掛け直し、その後で問題のエレベータ内で空の車椅子を発見します。それで益々、気味悪く感じて、そこから一階一階、フロアをチェックした結果、十七階で被害者を発見した、ということです」
「そのロックを外すにはどうすればいいんですか?」
段々、会話が小太りの男と質問の主との一対一になってきている。自分が仕切るよりは余程健全だ、と巧は思う。
「佐山曰く、その為のスイッチは事務室にしかない、とのことです」
「では、夜中に何者かが事務室に忍び込んだ、と?」
「しかしながら、その可能性は薄いんです」小太りの男がハンカチを使う間隔も短くなってきている。「佐山はその見回りの他の時間は、基本的には事務室で待機しています。可能性がゼロとは言いませんが、私の見たところ、人間一人が入ってきて気が付かないということはないはずです」
数秒の沈黙の後、部屋全体が、ざわめき始める。
「……静かにしてくれ。その話は一度、置いておこう」
立場上、場を収める発言をしたものの、巧にも同様の疑問が付きまとっている。以前から警備システムの詳細を知っている者としては、尚更だ。
本当は、他にも疑問は幾つかある。
例えば、何故、佐山は十七階まで全てのフロアを点検し直したのか。
殺人だとするなら、犯人の逃走経路はどこからなのか。
そしてまだ取り調べ中であろう、依野明良の証言。
被害者が昨日の夜中にこのセンター内に潜り込んだ目的。
指紋、血痕、もっと言うならば、公安が近くで別件捜査をしていること。
「よし、現在、被害者の父親から話を聞いている最中だ。その報告を待とう。以上、何か、質問は?」見回すが、予想通り、全員こちらも見ないし、手も挙げない。
「それでは、次は十四時、もう一度この場所に集合にしよう。各自、持ち場に戻ってくれ。解散!」
ガタガタというパイプ椅子が立てる音は、瞬く間に静まった。
いつも、そうだ。
巧は全員が作業を再開する、この瞬間が気に入っている。
何かに向かう生き物は、原始的だが、美しい、と感じる。
迷っている方が、多少、高等だ。
振り向くと、嶋井がまだ、ホワイトボードの前に立っている。
「どうした」
「いえ、これ、消してもよろしいでしょうか」
「早く消してくれ」
「わかりました」
「手伝おうか」
「いえ、そんな、滅相もない」不意打ちを喰らった嶋井は目を見開く。「畏れ多いです、そんな」
「心配するな、冗談だ」
「冗談ですか」
「じゃあ、頼んだぞ」
一旦、堂山係長に電話を入れるか。
公安の方で、何か、分かったかも知れない。
解けない問題は、まず、周辺情報を集めてから考えよう。
午前、十一時。
小石川巧は一階の多目的室にいた。
鑑識からの検屍結果なども一通り出揃ったとの連絡を聞き、所長室から降りてきたところだった。
本来ならば、今は目立つ行動は避けたい。事件現場の施設の長が警察に呼び出されているだけだと説明すれば誤魔化せるかも知れないが、万が一、所長と警察秘密部隊の長を兼務している事実を知られるのは、避けられるに超したことはない。
しかしながら、この場を取り仕切る筈の堂山係長はいない上に、部下の眞田をも連れていってしまった。他に特に顔の知った人間は現場に到着していない。
渋々、所長室から出てきたという経緯だった。
「部長、もう、始められますか」
「部長と呼ぶなと言ってあるだろう」
「申し訳ありません……誠に、申し訳ありません」
横に座っている嶋井という男も、いささか頼りなさげな印象だ。上司にちょっと怒鳴られただけでこんなに平謝りする人間も珍しいだろう。
広い部屋に置かれた長机が三つ、入口に口を開ける形でコの字型に配置されている。真ん中の机に座る巧の左右はかなり埋まってきているが、右側の机の中では一番こちらに近い席が、ぽっかりと空けられたままになっている。
巧は指を指して尋ねる。「そこは、誰かな」
「鑑識の、江熊(えぐま)係長です」
聞いたことがある名前だ、と思った瞬間、
「遅くなりました!」
という大声と共に、キャップを被った男が分厚いファイルを小脇に抱え入ってきた。既に着席していた大勢が男を一瞥し、すぐに元の姿勢に戻る。
「君で、最後かな」
「だと、思います」男は歯を見せ、笑顔を作った。
「じゃあ、始めよう」巧は立ち上がり、部屋全体を見回す。「まだの者には、責任を持って伝わるようにしておいてほしい」
その合図で入口のドアが施錠され、嶋井はホワイトボードの前に移動して、ペンを持った。
「年明け早々、御苦労。一度この時点で、報告をまとめよう。鑑識から、検死結果を頼む」
「わかりました」座ったばかりの江熊という男は機敏な動作で報告を始める。「鑑識、今回の担当の江熊です。よろしくお願いします」
そこで一瞬間を置いたが、誰一人反応しなかった。江熊は続ける。
「えと、死亡推定時刻は、昨日、つまり一月七日の夜中の十一時から本日の午前零時です。死後硬直からの判断ですが、時間が経っていないのでかなり正確だと思われます。死因は腹部からの大量出血による失血死ですね。その割に、現場に血痕が少なかったですが」
巧は現場の様子を思い起こし、その江熊の意見に同調する。
「被害者は若く、十五歳から二十歳までの女性。彼女を刺した凶器は発見できておりません。差し口の角度から考えて、刃渡りが少なくとも十センチ。争った形跡も少ないので、多分、正面から一発、でしょう」
ふと振り向くと、嶋井がホワイトボードに向かいせっせと「一発」と書いている。
「車椅子は?」
「はい、もちろんそれも調べております」江熊はしっかりと巧を見据えた後、頷いた。「なお、現場のすぐの前にあるエレベータ内からは、誰も乗っていない車椅子が発見されました。発見当時は一階で停止していたと聞いておりますが、誰の指紋も出ておりません。当然、不自然な状態なので、誰かが故意に拭き取ったと思われます」
「了解、ありがとう。それではガイシャの身元近辺はどうだった?」
「はい、報告します」今度は巧から向かって左側の長机から、小太りの男が立ち上がった。よれよれのスーツが気になったが、口出しすべきことでもない。こちらもまた、見覚えのある男だった。捜査一課の人間だろう。
「被害者ですが、名前は依野悦吏子(よりのえりこ)、十七歳。父親の明良(あきら)とも面通しが済んでおり、更に先程の検死結果とも一致するため、本人で間違いないでしょう。また、エレベータ内で発見された車椅子ですが、被害者が普段使っていたものである可能性が高いです。現在、裏を取っている最中です」
「第一発見者は、事務員の男だと聞いているが、間違いないか」
「はい、佐山大治(さやまだいじ)という男です。部長はご存じでしょうが、ここに勤務して九年ほど、事務員の中では現在、一番の古株です。彼が夜勤明け、午前五時の見回りで、その、動作禁止ロックが外されているのに気が付いたんです」
「すいません、動作禁止ロック、って何ですか?」
という声が右側の机の一人から発せられる。
「はい、このビルはセキュリティも強固でして」そこで男はハンカチを取り出し、額を拭った。「午後十時から午前六時までの八時間は、エレベータが使えないよう、自動的にロックが掛かる仕組みになっているんだそうです」
「その通りだ」巧が補強する。
「それが外れてたってことですか?朝の五時に?」
「そういうことになりますね」小太りの男は困った顔になる。「異変が起きたと思った佐山は、まずはそのロックを掛け直し、その後で問題のエレベータ内で空の車椅子を発見します。それで益々、気味悪く感じて、そこから一階一階、フロアをチェックした結果、十七階で被害者を発見した、ということです」
「そのロックを外すにはどうすればいいんですか?」
段々、会話が小太りの男と質問の主との一対一になってきている。自分が仕切るよりは余程健全だ、と巧は思う。
「佐山曰く、その為のスイッチは事務室にしかない、とのことです」
「では、夜中に何者かが事務室に忍び込んだ、と?」
「しかしながら、その可能性は薄いんです」小太りの男がハンカチを使う間隔も短くなってきている。「佐山はその見回りの他の時間は、基本的には事務室で待機しています。可能性がゼロとは言いませんが、私の見たところ、人間一人が入ってきて気が付かないということはないはずです」
数秒の沈黙の後、部屋全体が、ざわめき始める。
「……静かにしてくれ。その話は一度、置いておこう」
立場上、場を収める発言をしたものの、巧にも同様の疑問が付きまとっている。以前から警備システムの詳細を知っている者としては、尚更だ。
本当は、他にも疑問は幾つかある。
例えば、何故、佐山は十七階まで全てのフロアを点検し直したのか。
殺人だとするなら、犯人の逃走経路はどこからなのか。
そしてまだ取り調べ中であろう、依野明良の証言。
被害者が昨日の夜中にこのセンター内に潜り込んだ目的。
指紋、血痕、もっと言うならば、公安が近くで別件捜査をしていること。
「よし、現在、被害者の父親から話を聞いている最中だ。その報告を待とう。以上、何か、質問は?」見回すが、予想通り、全員こちらも見ないし、手も挙げない。
「それでは、次は十四時、もう一度この場所に集合にしよう。各自、持ち場に戻ってくれ。解散!」
ガタガタというパイプ椅子が立てる音は、瞬く間に静まった。
いつも、そうだ。
巧は全員が作業を再開する、この瞬間が気に入っている。
何かに向かう生き物は、原始的だが、美しい、と感じる。
迷っている方が、多少、高等だ。
振り向くと、嶋井がまだ、ホワイトボードの前に立っている。
「どうした」
「いえ、これ、消してもよろしいでしょうか」
「早く消してくれ」
「わかりました」
「手伝おうか」
「いえ、そんな、滅相もない」不意打ちを喰らった嶋井は目を見開く。「畏れ多いです、そんな」
「心配するな、冗談だ」
「冗談ですか」
「じゃあ、頼んだぞ」
一旦、堂山係長に電話を入れるか。
公安の方で、何か、分かったかも知れない。
解けない問題は、まず、周辺情報を集めてから考えよう。