岡崎 溝遊(コウユウ)の小説保管所 -3ページ目

4.7.0 4D-WC

4.7.0

 到着したファミリーレストランは、駐車場に停まっている乗用車の数からして、かなり混み合っているらしかった。入口のドアを押してすぐ、案の定だが、順番待ち用の用紙に名前と人数を書かされることになった。司はそわそわしながら、待合用のソファに腰掛ける。
 「おなか、すいた」
 「仕方ないね」足をぶらぶらさせる司の姿を見て、変わらないなあ、と思う。
 周囲では、多くの家族連れが巧たちと同様に順番を待っていたり、会計の途中だったりして、相当に騒がしかった。巧がこういう場所に来るのはもう、何年振りか分からなくなるほど久し振りのことだ。当時は、施設の財政も巧の給料も豊かとは言い難く、「ファミリーレストラン」と言えば、何ヶ月かに一度の「ご褒美」扱いだったことを思い起こす。
 だから、メニューに書かれた値段を見て、最初は戸惑った。
 「パパ、どしたの」
 「いや、レストランって、こんなに安かったかな、と思ってね」
 「うーん、こんなもんじゃないかな」司は唇を尖らせて俯く。考える姿勢だ。「昔の方が、物価が高かったってこと?」
 「わからないけど、物価は、今の方が高いよ」
 「そうか」ひとまず、頷く。
 結局、司が選んだのはハンバーグ定食、サラダバー、ドリンクバー付き。巧はそれほど空腹ではなかったので、小さなドリアを注文することにした。そもそも近頃、夜は殆ど何も口にしない。アルコールも、司がいるので遠慮することにする。今まで、息子や娘たちの前で酒を飲んだことはない。
 「日本じゃ、やりたいことは、できないのか」  
 ウェイトレスが立ち去ってから、思わず巧は質問してしまった。
 こういう思いは、不可逆圧縮だな、と一瞬だけ連想が巡る。
 「できないことは、ないよ、論理的には」司は、表情を変化させず、答える。「物理的にも。でも、倫理的には、日本人は縛られてる」
 「嗚呼、なるほど」腑に落ちるところは、当然、ある。
 「人工知能だって、外科手術だって、同じじゃない?結局は、ポリシィで引っかかっちゃう」
 「和を重んじる文化が、徒となる訳か」
 「そゆこと。パパだったら、賛成してくれるでしょ?」
 「うん、まあね」溜息が、漏れる。「まあ、一度、向こうに行ってみるのは悪くないか」
 「まだ納得してない顔してるな」司は小さく笑う。「ま、しょうがないか」
 「そりゃあ、簡単に納得はできないよ」きっと、自分は顔を顰めているだろう。
 「それより、事件の話だけど」
 「事件の話はやめてくれないか、せっかくの食事なのに」
 「ほんとに冷たいなあ……そんなに、大変そうなの?」
 「大変というかね」巧は言葉を探す。「事件の規模よりは、立場の問題だよ。事件現場が、自分の職場だからね……これからの自分の処遇もはっきりしないし」
 「クビ、ってこと?」司は、心配そうに上目遣いになる。
 「はっきり言ってくれるな」不覚にも、微笑んでしまう。「でも、冗談じゃ済まないかも知れない。事態が事態だからね」
 「分かった、じゃあ、何も言わないよ。でも」一呼吸置いてから、司は真剣な瞳を巧に向ける。「もしクビになるとかだったら、ちゃんと報告してよ、パパ」
 「勿論だよ」
 即座に応じたものの、実際に職を失った状況を想像すると、ぞっとしない。現在でも「トクジ」にいる以上は、半分「育児休暇」だと言われればそれまでだが、研究所の所長まで辞すれば、貧する。そして貧すれば、鈍する。息子娘たちとの触れ合いの時間が増えるのは、もっと先でも良い。
 程なくして司のハンバーグ定食が到着し、暫くは会話もお預けとなった。
 フォークを止めて見回せば、多くの親子連れが一家団欒を満喫している。今度は、施設の皆を連れてこよう、と思い付く。
 被害者の依野悦吏子は、両親と、あんな風に食事をしていたのだろうか。
 不意に、そんな考えに続き、
 被害者の遺体、
 そして、父親である職員の表情が、
 一挙に、脳裏に浮かび、消え去る。
 注文したドリアは食べ切れず、「勿体ない」と司に注意されながら残したまま、店を出た。
 相変わらず、駐車場はほぼ満車であり、自分の車を見失いかけたが、司が無事に発見してくれた。
 「へへ、ナンバーを覚えてるからね、ただいま、スカイライン」
 と言って、司はトランクを軽く叩く。
 ナンバーで探すのが、司らしい。いつの間にか、車種も覚えてしまっている。
 「あれ?」司が、その車を見つめる。「パパ、トランク、開いたままだよ」
 「え?」巧は司に駆け寄る。「……本当だ」最近、開けた覚えなどないのに。
 「パパ、これ、開いたままじゃなくて、閉まらないんだよ」暗闇を、司の視線が突き抜ける。「何か、挟まってるんじゃないの」
 しゃがみ込み目を凝らすと、トランクの蓋が、指一本ほど浮き上がっている。
 巧はその隙間に右手を差し入れ、引き上げる。
 そこにあったのは、巨大なスーツケースだった。
 見覚えはない。
 少なくとも、巧のものではない。
 スーツケースの厚みのせいで、トランクが閉まりきっていなかったのだ、と悟る。
 「何?」
 司の声が、何重ものフィルタに阻まれ、掠れて聞こえる。
 スーツケースの鍵は、掛かっていない。
 
 嗚呼。

 「司、見てはいけない」
 「え?」
 「電話だ、司」
 「どこに?」
 「警察」
 「パパがいるのに?」司は俊敏に疑問を呈す。
 「とにかく、早く、百十番だ」
 司は返事の代わりに振り返り、もう一度レストランへと走っていく。
 巧は再度、トランク内に目を移す。
 中には、折り畳まれた人間がいた。
 膝を抱え、強引に長方形に収まるように姿勢を作られている。
 当然、生きてはいない。
 人形でもない、筈だ。
 何故、自分の車に、死体が?
 横からその人間の顔を見たが、見覚えはない。
 捜査一課が、つまり堂山君が来るまでに、遺体の特徴を調べておかなければ。
 刑事としての自分。
 所長としての自分。
 親としての自分。
 それらが刹那、混濁され頭脳を、全身を、浸していく。
 一つ深呼吸して、トランク内に目を凝らす。
 性別は男性、年齢は四十代後半から五十代前半。
 恰幅が良い。そのせいでスーツケース内が余計に窮屈そうだ。
 横向きになったその身体には、外傷は見当たらない。
 上等なスーツを着ている。
 巧は、一旦、両手を引っ込めて、ポケットに入れた。 
 分厚いコートを着ているのに、震えが止まらなかった。

4.6.0 4D-WC

4.6.0

 余りにも、暑い夏だった。
 そして秋の台風の数も、その夏を強引に掻き消そうとしたのか、例年より多かった。
 気が付けば十月の「涼しい」と「冷たい」がせめぎ合う空気の中に、坂町慶太は佇んでいた。
 いつの間にか、今畑里緒奈とは、個人的に会うようになっていた。会う頻度も、夏に比較して、少しずつ増加していた。お金がないのでデートの場所に困ったが、牛丼屋でも、コンビニでも、河川敷でも、里緒奈は普段できない経験を新鮮に感じて喜んだ。
 しかしながら、慶太にも意地がある。たまには彼女に相応しい場所で食事がしたいと思っていた。なけなしのバイト代を清水の舞台から飛び降りる覚悟で注ぎ込み、都内の一等地、評判も名高い高級レストランを予約した。ドレスコードも、テーブルマナーも、普段は縁のないものだが、きっちりと勉強した。
 里緒奈の反応は、普段とは違っていた。
 どちらかというと、表情が曇っているようにすら見えた。
 「こういうとこ、……あんまり、おもろない?」
 「そんなこと、ないよ」里緒奈は入口を過ぎ、分厚い絨毯の上を車椅子で進みながら微笑む。しかしその笑顔は、これまでとは明確に違っていた。「ありがと、慶太」
 この返答、喜んで良いのか、悪いのか。
 大きな丸テーブルに案内され、里緒奈を奥に進ませる。車椅子を使う旨は事前に伝達済みのため、素早く里緒奈は慶太の真向かいに移動できた。
 「今日は、何か、お祝いごと?」
 ワイングラスを手慣れた手付きでテーブルに戻すと、里緒奈は小首を傾げた。
 「いや、ちゃうよ」赤ワインの味が予想以上に濃く、慶太は咽せそうになる。高価な飲み物が口に合わない。「うん、いっつもお金がかからん場所ばっかりやしね」
 「そう……」浮かない表情は変わらない。「ありがと」
 「いや、出会ってから、今日でちょうど二ヶ月やから」
 「もうそんなに、経つのね」里緒奈は目を丸くして驚く。「あっという間……慶太、そういう所、意外とマメなんだね」
 「意外とは、心外やな」
 「意外だもん」
 という、今日初めての屈託ない笑顔を見られて、慶太は漸く安堵する。
 二ヶ月前、里緒奈と出会った次の日、慶太は「出会いの泉」実施事務所に対して、「自分に好意を持つ女性がいた」と報告した。事前に告げられていた規則を忠実に守った、というよりは「こういう場合はどうすればいいのか」というアドバイスを貰いたかった、というのが本音である。
 担当者は、報告に対する礼を馬鹿丁寧に述べた後で「それではお礼の気持ちの証として、報酬の額を増やさせて頂きます。しかし、その後の行動は、私たちが関知するところではございません」と返事をした。
 「それって、つまり、どういうことですか?」いかにも頭の悪い質問やな、と自分の発言が嫌になる。「勝手にしろって、何を勝手にするんですか?」
 「勝手にしろ、とまでは言っておりませんが……」電話口の男性は、苦笑を堪えているようだった。「その女性と今後お付き合いをなされるつもりがないのであれば、断る役目を我々で引き受けます。そうでないならば、我々はその後について干渉するような野暮なことは致しません」
 「なるほど」と言いながら、相手の発言を脳内で整理する。
 「トラブルを避ける為にも、断る場合は、充分にお考え下さい」
 という念押しを受け取り、慶太は電話を切った。
 結局慶太は、「もう一度、今畑里緒奈と会う」という選択肢を選ぶことになる。受け取った報酬は、事前に聞かされていた二倍になり、銀行口座に振り込まれていた。随分と資金に余裕がある団体やな、とその時は感じたものだった。
 「慶太、実はね」
 過去の記憶は、里緒奈の声で、すっと幕を閉じる。
 「うん」料理はメインディッシュ、ステーキだった。白い大きな皿に、ぽてんと乗った肉の塊。付け合わせも含め、見た目は綺麗だが、とてもお腹が満足できる量ではない。
 「私、このレストラン、来たことがあるの」
 「……そうなんや」ナイフとフォークを持ったまま、慶太は里緒奈を見る。「でも、それが、そんなに問題?」
 確かに少しショックではあったが、深刻な表情で話すほどの内容ではない。尤も、この二ヶ月間、里緒奈との間にはそんな違和感ばかりだったので、特にその点を追及する気は起きなかった。慶太の気持ちを深く慮る故のことだったのだろう。
 と、彼女の次の発言を聞くまでは考えていた。
 「私ね、色々、慶太に話してないことがあるの」
 「俺も、いっぱい話してないこと、あるけど」
 里緒奈の表情を見ても、何を言わんとしているのかが、読み取れなかった。
 「私、わたし、ね……」
 「隠し事は、なしにしよ」慶太は里緒奈を安心させてやりたくて、頷く。「まだ、時間なんか、いっぱいあるやん。少しずつ、お互いのこと、知れたら、それでええんちゃう?」
 「ありがとう」里緒奈は目を伏せたまま、小さいがしっかりとした声。「そうだね、そうなんだけど、これだけは、今、言っておかないと駄目な気がする」
 「うん」
 「私は、サクラなの」
 「サクラ——」
 「『出会いの泉』の、主催者側の、人間なの」
 「それって……」
 そうだ、里緒奈が話してくれているのに、自分が黙っているわけにもいかない。
 「おんなじ。俺も、サクラ」
 「え?」顔を上げた彼女の瞳は、涙で濡れている。
 「『出会いの泉』に、バイトで、選ばれたんだ」
 「そうなの?」
 「だから、安心して。大丈夫」
 心の何処かで、腑に落ちる自分がいた。彼女のような人間が、お見合いパーティに潜り込んでいた不自然さ。彼女に惹かれてしまったばかりに、見落としていた当然の疑問。やはり、そういうことか、と納得さえしているかも知れない。
 「じゃあ、今までのことは」それでも、その先を口にするのは辛い。「……演技、ってこと?」
 「違う!」自分で出した大声に吃驚して、里緒奈は一つ大きく、呼吸した。「演技じゃないよ、これは、私が私の意思でやってることだから」
 「我々は、その後について干渉するような野暮なことは致しません」という言葉が蘇る。
 「じゃあ、問題ないやん」明るい口調を装いたかったが、完全に声は上ずっていた。「このままで、何の問題がある?」
 「慶太は、バイトだよね」里緒奈は淡々と続ける。「私は、バイトじゃない。あの組織の人間なの」
 「組織、って、『出会いの泉』?」
 「うん、まあ、そうかな」何故か彼女は、言葉を濁す。
 「落ち着いて、きちんと説明してくれんと、分かるもんも分からんくなる」
 「ごめんなさい」
 「謝らんでもええよ」
 「慶太、このレストラン、出よう」
 里緒奈は更に小声になり、しかし芯のある、今までに聞いたことのないような声で言った。
 「え?出る?」
 「ここにこのままいたら、慶太が危ない」
 問い返したかったが、訳が分からず、言葉が全く出てこない。

 「——逃げなきゃ、二人とも、殺されるかも知れない」

4.5.0 4D-WC

4.5.0
 
 六本木駅の改札を抜け地上に出た時には、既に辺りは薄暗かった。
 高速道路の高架下を、乗用車が連なり我先にと進んでいく。そんな光景すら、この数日間の体験と比較すれば懐かしく感じられるほどだった。
 東川莉子はそのまま高架に沿って歩き、車一台がどうにか通れるような路地を左に折れる。そのまま数分もすれば、スナックやナイトクラブが並ぶ、こじんまりとした一角が現れる。
 目当てのバー、「ペシエ・グリ」はここにある。
 木製のドアを莉子は力強く外側に引っ張る。扉が重いのだ。
 シャランシャラン、という金属音がその勢いに任せて店内に鳴り響く。
 マスタは、グラスを磨いていた。まだ準備中のようだった。
 「あれ、リコちゃん?」
 目の悪いマスタは、丸く細いフレームの向こうでまなじりを鋭くする。
 「ごめんなさい、開店前?それなら、出直してくるけど」
 「違うよ、単に、閑古鳥が鳴いてるだけ。ささ、どうぞどうぞ」
 促されるまま、莉子はカウンタテーブルのうち、一番奥まった席に座る。
 「誰もいないんだから、どうせだったら真ん中とか座ってほしいな」
 「お客さんがこれから来るんだから、空けてるの」
 「はいはい」マスタは白い歯を見せて笑う。「何飲む?ハイネケン?」
 「ギネスで」
 ここに来るのは、一ヶ月振りだろうか。歳を取るに連れ、来る頻度は減っている。このバーで経験できることが飽和状態になってきたのだろうか。よく言えば「洗練」だが、要するに「摩耗」である。
 「ここまでどうやって来たの?電車だよね?警察がすごくなかった?」マスタは莉子の前に瓶を置いた後、次のグラスを拭き始める。
 「警察?」まさかここでも、その単語を聞くことになろうとは。いや、ある意味では、当然か。
 「改札出る前に、手荷物検査とかされなかった?じゃあ、もう終わってるのかな……」
 「いや、そんなことはなかったけど」ビールの泡が、喉に心地良い。「何か、あったの?」
 「リコちゃん、忙しいから知らないんだね。今、ニュースで話題になってるよ、T大で殺人事件があったんだって。ワイドショーでも大騒ぎだし」
 「そんなにセンセーショナルな内容なの?」
 「いや、よく分からないんだけど、実は。ビルの十七階で、十七歳の女子高生が殺されたっていう話。階数と同じ年齢の人間が殺されていくんだ、みたいな無責任なこと、公共の電波で平気な顔して流してる」
 「女子高生?T大生じゃなくて?」
 「うん。それも謎だって。事件が起きたのも、学生用の建物じゃなくて、特別な研究施設らしいよ」
 「ふうん」もう、瓶の中は空になっていた。「マスタ、おかわり」
 「もう飲んだの?」
 「じゃあ、つまり」マスタの驚く声に重ねるようにして、莉子は質問する。「その関係で、警察が地下鉄で手荷物検査をやってたってことか」
 「そういうこと」マスタは次のギネスを莉子の前に置き、空瓶を回収する。「飲み過ぎないでよ」
 「国会に、影響とかあるの?」
 「影響……直接は、ないと思う。大体、それどころじゃないし」
 そうだ、政治家の立場から言えば、「個々の事件ではない、日本全体を考えるべきだ」というお題目の下に「些末な事例」として片付けられてしまうだろう。
 「嗚呼、次の総理も決めないとね……もう、決まってるんだろうけど、実際は」マスタは一呼吸置いて、真剣な表情を作る。「誰、次の人。リコちゃんなら、知ってるんでしょ」
 「私、政治記者じゃないんですよ」その表情に、思わず吹き出しそうになる。「噂は聞きますけど、政治の世界って、簡単に噂を信じると痛い目を見ますからね……」
 「またそうやって誤魔化す」
 「誤魔化してないですよ」
 「あ」
 いきなりマスタが、大きな声を出した。「ナダくん!」
 シャランシャランという金属音の後、「遅くなりました!」という、桁違いに大きな声で入ってきたのは今畑籐吉事務所の後輩、灘慶次郎だった。
 「あれ?マスタ、呼んでたの?」
 「まあね。最近、大変みたいだから」それは理由としてはよく分からなかった。忙しいから、ここで一息ついていけ、ということなのだろうか。
 灘は分厚いコートを脱ぎ、カウンタの端において、「とりあえず、ビール下さい」と、BGMがかき消されるほどの声を張り上げた。
 「居酒屋じゃないんだから」と言いながらも、マスタは冷蔵庫に戻って瓶ビールを持ってくる。
 「お疲れ様」
 「莉子さんこそ、大変でしたね。無事に帰って来れて、良かったです」
 「本当に、そうね」莉子は後輩に手を差し伸べて、横の席を示す。「座ったら?」
 「じゃ、失礼します」
 「忙しいときにごめんね、何があったの?」
 「えっと……」灘は突然口ごもる。「まあ、色々」
 「僕がいると、まずい話なんだね」マスタが、小さなグラスを二人の前に置く。「ちょっとの間、退散してよっか?」
 「いや、そういう訳じゃないんです、ただ、どういう風に話を進めれば良いのか、ちょっと困るような感じで」
 「それなら、別に今でなくても、良いよ」お酒が不味くなる話なら、尚更だ。
 「莉子さん、明日の朝、空いてますか?」
 「空いてる」二本目のギネスも、空いてる、と言おうとして、ちょっと酔ってきたかも、という自覚。「なんで?」
 「先生が、お呼びなんです」
 「そんなの、いつものことじゃない」
 莉子の軽い口調を覆そうとしているのか、灘は、真っ直ぐに莉子を見据えたままだ。
 「明日の朝、ここに来て下さい」
 四枚に折りたたまれた、メモ用紙だった。開くと、そこには都内のホテルの名前と、部屋番号。
 莉子は、驚きもせず、質問もせず、「ありがと」と言ってメモを受け取りポケットに素早く入れた。
 こういう時は、詳細に立ち入ってはいけない。
 灘の視線が、事態の重要さを物語っていた。
 数々の想像が一瞬で巻き起こり、連結され、絡み合い、解けなくなって、脳の奥へと沈んでいく。
 莉子は、まだ遠くで様子を伺っているマスタに、微笑みかける。
 「マスタ、今度はハイネケン、頂戴」
 ひとまずは、今夜を楽しもう。

4.4.0 4D-WC

4.4.0
 
 廊下に設けられた長椅子に前屈みに腰掛け、稲坂行生(いなざかゆきお)は呼吸を再開した。
 革張りの座面は、冬の寒さを受け、じんわりと冷たい。
 「秘密主義が過ぎるんじゃないの、コーアン様」
 同期の言葉が、脳裏に蘇り、体内を循環する。普段から、思ったことはすぐに口に出す奴だ。
 ある部分では、羨ましいとさえ、感じる。
 しかしそれでは、公安部では生きていけない。
 呼吸が、軽い溜息に変わるが、その他には、廊下に響く靴音一つない。
 稲坂は腕時計を確認する。
 午後、二時半。
 早朝に開始したT大学付近の大規模な交通規制は、もう六時間以上を経過しようとしている。
 依然として、小野原貞政の行方は掴めていない。
 稲坂にとって、今までで、最大級の規模の交通規制である。
 地下鉄をストップさせ、同時に、道路を封鎖もしくは検問。
 端的に言えば、やりすぎだ。
 挙げ句の果てに、目当ての人物は確保できていない。
 そろそろ、一般市民の怒りも限界だろう。
 一方では、上層部がここまで躍起になっている理由も見当は付く。
 絶対に、何としても、去年の事件と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。
 国家を脅かすテロリズムに対する、言わば「見せしめ」である。
 そうでなければ、国立大学の中に、警察組織の捜査がこんなにすんなりと入っていける筈がない。
 「秘密主義が過ぎるんじゃないの、コーアン様」
 そうだ、堂山、俺も、

 ——同感だよ。

 また、溜息。
 外と違い、息は白くない。
 現場は部下に任せ、昼過ぎには大学を後にして、車で本庁まで戻ってきた。
 上司の様子を窺っておく必要があると感じたからだ。
 稲坂の座る長椅子のすぐ横にある扉には、「警視正室」とある。
 本庁に戻って来るなり、「直接、部屋まで来い」との警視正からのお達しだった。
 そろそろ、入るか。
 話す内容も整理できていないが、仕方ない。
 言い訳の長短に関わらず、叱責を受けるのは、同じ。
 「失礼します」
 ノックをする手が震えていない分、まだ大丈夫だと感じた。
 「お疲れ様。時間が掛かったね、忙しいのに、申し訳ない」
 ゆったりとした口調で、警視正は第一声を発した。
 細微な彫刻が施された、木製のデスクの後ろには、黒い革張りのプレジデントチェア。
 左肘だけを肘置きに預けた警視正の後ろからは、覆い被さるかのように背もたれが生え出ている。
 忙しいのに、とは、厭味も甚だしい、とは当然、口に出来ない。
 「いえ、遅くなり、言い訳の仕様もございません」
 「成果が、出ておらんね」
 突然の、本題。上司の声は低く、重い。
 「申し訳、ありません」
 下げた頭を元に戻すことなく、稲坂は再度、謝罪した。
 「君が謝るとは、珍しいね」
 こちらには返す言葉は、存在しない。
 否、そもそも口答えの権利自体、存在しない。
 「ともかく」革張りの黒い椅子の右の肘掛けを、神経質にコツコツとペンの先で突きながら、上司は続ける。「何としても、その男を確保しろ」
 「承知しております、ただ……」
 「ただ?」
 ほんの僅か上がった眉に怖じけず、稲坂は、本来ない権利を、行使しようとした。
 「事情を、お聞かせ願えないかと」
 「事情?」
 警視正は、短く尋ね返すばかりである。
 稲坂は唾を大きく飲み込み、息を吸い込んでから喋った。
 「小野原貞政という男がそれほどまでに重要な人物であるという、理由です」
 「理由……」
 相手は、首を傾げ、目を見開き、それとは似合わぬ、静かな口調を維持する。
 「失礼ながら、それを知っていれば、現場の判断も、より精確になると考えます」
 直ぐに、また両手を伸ばし身体の横に付け、素早く九十度近くまで頭を下げ直した。
 この寒さには似つかわしくない汗が、額から流れてくるのを察知する。
 おかしい。
 幾ら見せしめとは言え、
 秘密主義が過ぎるんじゃないの、
 公安様。
 そんな風に感じながら相手の返答を待つ為の沈黙は、死んだように、長かった。
 「現場の判断?」
 コツコツという、ペン先の音が、止まる。

 「そんなものは、不要だ」

4.3.0 4D-WC

4.3.0
 
 「片牧主任、でもそれって、ほら、あの噂じゃないですか?」
 相手は前屈みになり、声を潜める。不謹慎な、とは思うが、一方では仕方ない、とも感じる。
 「あの噂って、何だっけ」文脈が飛んだので話に付いていけない。
 「そんな、本当に忘れちゃったんですかぁ?幻の、最上階の話ですよ」
 途中で声の大きさが元に戻りそうになるが、それを必死で堪えて話す。
 「そんな話も、あったね、そう言えば……」
 片牧の素っ気ない反応に、成田瑠衣(なりたるい)は不満そうに唇を尖らせる。
 「こんな事件があったのに、どうしてそんなに冷静でいられるんですか、片牧主任」
 「冷静じゃないよ、全然」自分がそんな風に観察されていたことに驚く。「混乱しちゃって。冷静じゃなくて、疲れてるんだと思う」実際、それだけ喋るのもやっとだった。
 依野が警察に連行されてから、気付けば自分のデスクに戻って仕事をしていた。全身がかっかと熱く、うなされているかの如く意識が朦朧とした。書いていた筈のプログラムもメールも、勝手に消えたり、内容を変えたり、知らぬ間に産まれたり。勿論、それらは片牧自身の作業に違いないのに、遠くで別の自分がその仕事を眺めているような、現実との乖離。
 少し遅れて訪れた食堂で、力強く背中を叩かれて振り返ると、そこにいたのは神妙な表情の成田だった。彼女は同僚ではなく、まだ学生だ。学部生なのか院生なのかは忘れたが、もう長い期間この研究センターで事務員としてアルバイトをしている。かなりの年下ながら、数少ない女性の友人と言える。
 「片牧主任……、警察の人って、私、初めてでしたけど、あんなに高圧的なんですねぇ」
 「そっか、ルミちゃん、朝からの出勤だと、いつも早いもんね。取り調べ受けたんだ」
 「取り調べっていうか、写真を見せられただけですけど」成田は長机に片肘をつき、自分の顎を掌に乗せる。「死体の写真なんか、見るの初めてですよ、主任も見たんですよね?」
 「見た」短く言葉を切って、息継ぎの代わりにホットコーヒーに口をつける。「というか、連れて行かれたの、私の同期だよ」
 「えぇ!」成田はマンガのようにのけぞる。「え、え、嘘でしょ?」
 「声が大きい、ルミちゃん」これって話しちゃまずい内容の気がする、と思いながら半ばやけくそで片牧は先を続ける。
 「えっとね、だから、死体の写真を確認したのは、私たちで最後。写真を見られたのは、私たちよりも先に出勤してた人だけ」
 「そんなの、全然、嬉しくもなんともないですよぉ、早起きしても、三文どころか、これじゃあ損じゃないですか」
 「で、何の話、してたっけ」
 「え?えっと……、噂です。幻の、最上階」
 「うん、二十三階があるって話ね」
 「そうですよぉ、今回の被害者の人、きっと、二十三階に行こうとしてたんですよ」
 被害者の人、という表現は重複しているとは思ったが、指摘する元気はない。
 「その二十三階には、何があるの?」
 「そう、それは……」成田の口調は突然、芝居がかる。「未だ見つかっていない徳川埋蔵金なのか、はたまた次世代スーパコンピュータの設計書なのか……そういう話ですね」
 「ま、噂だもんね」
 「それを言っちゃあおしまいですよぉ、主任」
 「まあ、確かに、この建物、何故か二十三階分の高さがあるしね。ルミちゃんがここに来る前から、そういう根も葉もない噂はあったよ」
 その事実が判明したのは、ビル清掃業者からの指摘によるものだった。
 小石川所長からの伝聞ではあるが、最上階である二十二階の窓からゴンドラで外に出たところ、まだ一フロア分の高さの窓が屋上まであったという話である。所長も困惑の後、そこにはフロアはないから、清掃はできる範囲で結構ですと断ったらしい。このビルの窓は全て外側からは鏡面仕上げになっている為、例え二十三階が存在するとしても、窓越しに中を見るのは不可能だろう。
 「それにしても、仕事、どうなるんですかね」
 「うーん、まだ全然、分からない。早く、業務に戻れればそれに越したことはないけど」
 「私は、有休になれば、どっちでもいいんですけど」
 「そっか、ルミちゃんには、そっちが大事か」
 「お金、ないですもん」そこで成田は、不思議とにやりとする。「学生生活、お金に掛かってますからね……あ、今度、ヨーロッパ行くんですけど、貯金してるんです」
 「そう言えば今回の犯人、お金が欲しかったのかな」
 「うーん、お金が欲しいなら、こんな場所には来ないですよぉ。もっと、銀行とか、スーパーとか、そういう所に行くんじゃないですか」
 「実は、埋蔵金の話、根拠が無くもないらしくて」
 こんなの、雑談だな、とぼんやり感じる自分。それを冷静に眺めるもう一人の自分。
 また、この感触だ。
 「この場所って、赤門からは随分と離れてるでしょう?その昔は大学の敷地じゃなくて、全く違う施設が建っていたらしいの、国営の。そこは秘密の軍事研究施設で、国から莫大な研究費を取ってたって話」
 「曖昧な話ですね。それじゃあ、そのお金がこの建物にあるってことですか?」
 「面白半分の噂だから、真に受けるのもどうかとは思うけど」と前置きしてから、喉が渇いてカップを見たが、もう珈琲は残っていなかった。「仮にそうだったとしても、研究費を貯めとくという発想があんまり理解できないなあ、私には」
 「まあまあ、夢のある話ってことで」と、成田は妙な慰め方をする。
 「人が死んでるんだから、夢なんかあるわけないでしょ」
 片牧の軽い溜息に合わせ、食堂の振り子時計が、一つ大きな音を立てる。
 しかし、食堂にいる職員は、誰も反応しない。
 午後、一時半。

4.2.1 4D-WC

4.2.1

 湯飲みも冷め、佐山の発言に愚痴が増えてきた頃に、堂山は話をやんわりと切り上げた。「本当にすいませんことです」と最後まで低頭平身な佐山に見送られ、事務室を後にする。
 直ちに、エレベータ内の映像の件を確認する為、管理会社に電話を入れた。「警察です」という言葉に敏感に反応した担当者が発した、「上司に代わります」という応答から数秒、「失礼ですが、今朝起きた、T大での事件のことでしょうか?」という質問が返ってきた。
 その上司の説明に拠れば、まず、問題の「ロック」が手動で操作された時点で、管理会社への連絡が入り、非常事態が起こったことを把握するのだそうだ。そして該当の映像は、一定時間の間(具体的には四十八時間)専用のレコーダに録画され、後から確認できるようになる、とのこと。
 「それでは、昨夜の夜十時以降の映像も、ばっちり残っている訳ですね?」
 「そういうことです。不審者がロックを外した時点から、録画が始まりますので」
 早速、管理会社を訪れるアポを取り付け、堂山は大満足で電話を切った。
 これで殆ど、事件は解決したようなもんだ。
 十七階まで登った経緯や理由は、その映像を見れば一目瞭然。犯人の顔すら映っている可能性も高い。当然ながら、万一その映像が不明瞭であったとしても、エレベータロックが手動でなされた時間が記録されるのならば、その時間は確実に割り出せる。死亡推定時刻と比較すれば、犯人の動きはかなり特定できる筈だ。
 だが、問題は、動機である。
 物証も状況証拠も、感触としては、割と展開は早い。しかしながら、それだけの事件を起こした理由に関しては、皆目、堂山には見当が付かない。
 被害者の娘は、あんな時間にこんな場所で、何をしていたのか?
 若しくは、何をしたかったのか?
 被害者からの薬物反応にしても、それを手掛かりと呼ぶには、貧弱に過ぎる。取り調べの最中であろう被害者の父親が、何か喋る可能性もゼロではないが、堂山の勘では、期待薄である。
 更に言うならば、公安の事案、並びに「トクジ」から仕入れた衆議院議員の娘の失踪事件。それらの案件との関係性も気になるところである。少なくとも、この二つの話は関係している。その間に存在するのは、特定の新興宗教である。
 気になるのは、両方の事案が「最重要機密」として扱われていることである。いや、正確には誰もそのような表現はしていないが、堂山が知る限り、箝口令の程度は一、二を争う。今までは必要ならば、公安の人間でも情報のやり取りはあり得たし、友人である稲坂とも、その機会は幾度もあった。「トクジ」でも、一課との普段の付き合いからいって、調査中の案件の内容をここまで隠すのは初めてだ。
 まだ、自分の知らない事実が隠されている。
 堂山の勘は、そう告げている。
 「あ、ご苦労様です」
 「なんだ、お前か」
 事件現場となった方の小エレベータホールでばったり出会ったのは、眞田敬二郎だった。
 「まだいたのか」
 「そういう言い方、無いんじゃないですか」
 眞田は不満そうに眉を寄せる。
 「ふん、まあいいさ。何か、調べてたのか」
 「僕なりに、ですけど」眞田はそう言ってエレベータのボタンを押す。「一緒に、このエレベータ、乗って頂けませんか、堂山係長」
 「あれ?このエレベータ、もう動かしてもいいのか?」
 「いえ、僕が許可を得て、一時的に動かして貰ってるんです」
 「偉そうなことするじゃねえか」思わずにやりとしてしまう。「そういうの、好きだな。それで、何か分かったのか」
 眞田はその質問には答えない。「堂山係長こそ、何故、ここに?」
 「俺も、エレベータを調べに来た、お前とは目的が違うかも知れんが」
 「そうですか——」眞田の相槌と同時に、チン、というエレベータの到着音。
 「取り敢えず、僕が気になったもの、見て頂いても良いですか」
 「おうよ」
 開いた扉の中は、未だ、ブルーシートで囲まれた空間のままだった。
 先に入った眞田は、堂山が乗り込んだのを確認すると上を見た。
 「堂山係長、お先に調べて下さい」
 「別にもったいぶるつもりはないから言うが、俺はこのエレベータ内の監視カメラを見つけに来た」
 「嗚呼、なるほど」
 そのように発言するところを見ると、眞田の目当ては監視カメラではないようだ。
 「しっかし、改めて見ても、どこにもカメラは見当たらんな」
 「そうですね……カメラが在るのは間違いないんですか?」
 「さっき、確認した。その映像も残ってるらしい」
 その発言に眞田は一瞬堂山を驚いた表情で見た後、納得したように頷いた。
 「普通は、階数ボタンの上とか、壁の端とかにありますよね」
 「俺だって馬鹿じゃない、普通にありそうな場所は調べが済んでる」
 「壁のブルーシート、取った方が良いですかね」
 堂山は少しの思案の後、「いや、後で誰か他の奴に頼むわ」と呟いた。
 「で、お前が調べにきたのは、一体何だ?」
 「これですよ」
 眞田は、エレベータの階数ボタンが並んだ真上、天井との中間地点を人差し指で示した。
 そこにあったのは、黒いレバーだった。
 そう、電源のブレーカのような。
 そのレバーは、透明なカバーに覆われており、その下には、鍵穴。
 「あんなとこにも、あったんだな」思わず、言葉が漏れていた。
 「も、ってことは、他の場所でも見つけたんですか」眞田の指摘は鋭い。
 「ついさっき、事務室でも見た」
 「あれは、何なんでしょうね」
 「恐らく、このエレベータのロックを操作するレバーだ」
 「事務室にあるというのは、それですか」
 「そうだ。エレベータの中からも、それが操作できるってことだ」
 「でもそれって、おかしくないですか?」眞田は真剣な表情で、堂山を見据える。「このエレベータ内に入れる以上、ロックは外された状態ですよね?ということは、その状態でロックを掛けると、自分がこのエレベータ内に閉じ込められてしまうんでは?」
 「そこまで考えて喋ってねえよ」しかし、眞田の言うことは筋が通っている。「ただな、全く同じ形のものが事務室にあるのは、厳然たる事実だ」
 「それって、本当にエレベータのロックをするためのものなんですか?」
 「は?」
 「いや、事務室のレバー、実際に動かして試してみました?」
 「そんなこと、簡単に出来る訳ねえだろ、じゃああれか、事務員が嘘言ってるってことか?」
 「そうは言いませんけど、だって、変ですよ、何となく」
 何と答えて良いものか、思い付かない。
 奇妙な違和感は、確かにある。
 数秒の後、堂山は軽く息を吐き、眞田の肩を軽く叩いた。
 「ともかく、監視カメラの映像を見れば、一発で、全部、分かる。話は、それからだ」

1.0 4D-OS

1.0

 ライブが終わり、私は外に出た。
 京都の四条にあるライブハウスだ。何人かのファンクラブのメンバとライブハウスの出口から少し歩いて裏口に回る。恒例の「出待ち」をするためだ。
 目的の人物は、三十分ほど待ってやっと出てきた。ロックバンド「サン・ブラン」のメインボーカル、小石川尽である。とは言っても彼の姿は遠い。目の前には多くのファンが私と同じように出待ちをしているし、その先にはロープ、そして更にいかつい警備員と私と尽様との間の障害は積み重なるばかりである。もちろん、恋は障害が多いほど燃えると言うではないか。全く問題なんかない。
 少しずつ彼の姿が近づく。ああもう少し、もうちょっとだけでも私の近くに来てくれたら。そう願う日々が過ぎていたが、遂にこの時が来たのだ。
 尽様に声を掛ける。もう必死に掛けまくる。掛けて掛けて掛けまくる。
 彼に私の声は聞こえている。ただ、周囲を気にして何も言わない、気にしない振りをしているのに違いない。なんて奥ゆかしき!なんて積極的な私!こんなやる気を職場でも見せろと怒られそうだけど、そう小言を呟きそうな冴えない上司の顔が浮かんでそれを消す。
 実物の尽様が目の前にいるのに、邪魔しないでほしい。
 そんなこんなで、本当にかなり近くまで来た。私は更に声を張り上げて、この日のために作ってきたお菓子(クッキー)の入ったカワイイ袋を同時に振り回す。前回は何を思ったかマドレーヌを作ってきたものの、長丁場のライブ会場の熱気と激しいダイブの嵐はマドレーヌを得体の知れぬ怪物に変えていた。帰ってすぐ捨てたあのゴミ箱の悲しさであることよ。あれ以来、生っぽい食べ物はライブ会場に持って行ってはだめ、という大切な教訓を得るに至った。よく考えれば、最初から分かるよね。
 それはともかく、私はただただ叫ぶ。
 「尽!尽!ZIN!」
 しかし、運命は無情。
 二人の出会いはキャリーオーバー。
 いつまで持ち越すのか……。LOTO6なら何億円ぐらいだろう。
 憧れの尽様は私の前を無言の笑顔で通り過ぎる。
 うそーん。
 いや、嘘じゃない。
 まずは現実を受け入れないと。
 と、落胆する暇もなく、私の左肩が引っ張られる。最初は私と尽様との間を邪魔する刺客かと思って無視していたけど、余りにも何度も繰り返されるので、一回そいつの顔を見てやろうと振り向いたのだった。「親の顔が見てみたい」ってよく言うけど、遺伝してるその子供の顔を目の前で見てるんだから、わざわざ似てる親の顔まで見る必要ないと思うんだ。あれ、ややこしい?意味が分からない?まあ、全然関係ないので流して頂いて結構です。
 「ねえねえ、シーナちゃん?」
 「ありゃ、これはこれは」
 「これはこれは、っておじさんみたいな言葉だね」
 それは「サン・ブラン」ファンクラブ経由で知り合った友達の、ハレルンだった。ちなみに私のシーナもハレルンも本名ではなくてインターネット上で使っている名前である。お互い、本名も知らないまま三年以上経っているけど、全く問題ない。ただ、職場では絶対に呼ばれたくないけど。そんなことされたら全身のムダ毛が抜ける。って案外便利かも。
 「もしかして、ここで出待ちしてたの?」
 「……うん」
 素直にそう答えた。ハレルンは右の眉毛を上げる。彼女の眉はいつ見ても、異様に精巧に製造されている。
 「もう昔とは違うんだから、無理だよ……とにかくさ、ちょっとのんびりできるとこ、行こうよ」
 そう言って私を他のファンの塊から引きずり出すと、ハレルンは私の右手を持ったまま引っ張っていく。ライブハウスからはかなり離れた小さな公園のベンチに収まることになった。この公園はライブハウスから駅への帰り道の途中にあって、どうやら私たちと同じようにライブを見終わったばかりの人々もちらほら確認できた。
 「今日、ライブ来てたなら呼んでくれれば良かったのに」
 ちょっと甘え気味に言って私はハレルンを睨む。一人じゃ心細かったぞ、という意味でもある。
 「ごめんね、今日私仕事で間に合わなかったんだ」
 俯き加減でハレルンは私の睨みをすっとかわす。
 何だか私は悪いことを言ってしまったようだ。
 「ごめんね、そういうつもりじゃなかったんだけど」
 「ううん、全然大丈夫。私の本番はこれからだから」
 ハレルンの顔は沈むどころか、実は笑いをこらえていた。それで俯き加減だったのか。
 「どういうこと?今日これから何かイベントでもあるの?」
 「そりゃそうよ。スペシャルイベント」
 「何?何?」
 でも、もう「サン・ブラン」のライブは終わっている。一体何の関係のイベントだろうか。このライブの後に他のバンドのライブでもあるのだろうか。
 「ホームページ、見てない?限定のスペシャルイベント、載ってたでしょ?」
 「スペシャルイベント?それって、サン・ブランの話?」
 「当然」
 「え?もしかして、あの少数限定の尽様と話ができるっていう……」
 もう一ヶ月ほど前のことである。サン・ブランのホームページに特別企画のインフォメーションが掲載された。メインボーカル、小石川尽と直接対面して話ができるという夢の企画だ。バンド結成史上初めての試みだという。応募は少数限定で受け付けるとのこと。
 実は、私はその企画には応募しなかった。理由は簡単で、見たときには既に応募締め切りを過ぎていたからだ。何とも情けない話であるが、こっちの仕事が忙しいときに限ってスペシャルなイベントを繰り出してくるファンクラブもファンクラブだ。などといつもの責任転嫁。
 「そのイベント、もう始まるの?」
 「もう、ぼちぼちかな……」ハレルンは腕時計を見る。
 「そっか」
 「行きたい?」
 「え?」私はハンマー投げの動作のように首を振った。「行けるの?」
 「いや、まあ、冗談だけど」
 「嘘!」
 私は思わず叫んだ。そんなおもしろくも何ともない冗談、普通の神経なら口にできないよ?え、ハレルンさん?
 「ごめんごめん……そんなに反応してくれると思ってなかったから……」
 「それって謝ってる?まあ、いいけど……この責任は重大ね」
 「どういうこと?」
 「まあ、私を一瞬でも期待させた罰として、私もこっそりそのスペシャルイベントに潜り込ませてくれたら、許してあげよう」
 「えー、ありえないよシーナちゃん。ちょっと、本気で言ってる?」
 「いや、まあ」そう本気で聞かれると、困るけど。「そりゃあねえ、行きたいし。まあ、本当に譲られたら譲られたで、後々恨まれそうだし」
 「今のシーナちゃんの方がよっぽど恨みがましいけど」
 「一言多いな……反省してないな」
 「ごめんごめん、それはほんとに、ごめん」
 ハレルンは両手を合わせて、私を拝むポーズを作る。
 まあいいや。早く帰って、独り寂しくご飯食べるから。

電子書籍作成開始

このブログで小説本文以外の文章は初めてですね。

作者です。岡崎コウユウと名乗ろうかと考えています。

実はこの度、電子書籍作成の実験を行う予定でいます。
私自身がiPhoneアプリの開発も行っているため、
iPhone上の電子書籍リーダーであるiBooksでも読めるePub形式という技術を使う予定です。
なお、ePub形式はKindleなど、数多くの電子書籍リーダーで読むことが可能な汎用性の高い形式です。

肝心の内容ですが、現在公開中の4D-WCと同じシリーズにする予定の、
「四次元オープンシークレット」というタイトルにします(略式名、4D-OS)。短編です。ちなみに、既に半分以上を書き終えています。

また進捗あり次第、御連絡致します。

それでは、引き続き4D-WCをお楽しみ下さいませ。

4.2.0 4D-WC

4.2.0
 
 小石川巧との話し合いの結果、今回のヤマの現場の責任者が自分になり、堂山は安堵した。
 「トクジ」の連中に任せておくのが癪だという理由も当然あるが、公安との絡みもある。自由に行動したければ、何としてでも、その場の実権を握るべきだ。
 話し合い後には連絡関係などで意外にも手間取り、気が付けばもう午後三時半。他の刑事や捜査員たちも既に一度、本庁に戻っていた。どちらにせよ、今日は小手調べ、本格的な捜査は明日からになるだろう。小石川巧はと言えば、十五時十五分の到来と共に、宣言通り帰っていった。自分の職場での事件だというのに、呑気なものだ。
 その代わりと言っては何だが、今度は警察関係以外の人間が増えてきた。職員の数は百人ほどだと言うが、それにしても多い。とは言え、擦れ違う人間は全員、胸にカード大の名札をぶら下げている。これがこの建物に入る際に必要となるIDカードであり、部外者は簡単にはこの中には入れない仕組みだった。堂山も、臨時に「ゲスト用」としてIDを発行して貰った。但し、胸の部分に付けるのには気恥ずかしさがあったため、スーツの胸ポケットに突っ込んではいたが。
 堂山が向かったのは、一階にある事務室である。目当ては、佐山大治という事務員の男。彼は第一に遺体の第一発見者であり、第二には「エレベータのロック」という機構に関しても詳細を知っている人物でもある。当然、現時点ではかなりの重要人物だろう。
 部屋のドアに向かい、ノックを二度。
 「はい」というドア越しのくぐもった声の後、ドアが開いた。
 「先程お約束していた、堂山です、入っても宜しいでしょうか」
 「ええ、勿論です、どうぞ」
 丁重にお辞儀をして、佐山は堂山を迎え入れた。
 何だか、飲み屋の座敷席みたいだな、と事務室全体を見回して思う。
 想像していたよりは広い。入口で靴を脱ぎ、畳が敷かれた部屋に上がる形となる。そのスペースが六畳ほど。中央には炬燵が置かれ、テレビや戸棚など、生活感溢れるものが揃っている。
 革靴を脱ぎ、せっかくなので炬燵に入る。
 「ああ、あったかいですなあ」
 「寒いのに、お仕事、ご苦労様です」
 「いやいや、佐山さんこそ、もう何度も、他の人間からも、お話を聞かせてもらってる筈だとは思うんだけど、今回は災難だったねえ」
 「そう言って貰えるだけで、充分ですよ」落ちくぼんだ眼窩が、疲労の痕を更に強調する。「お茶でも淹れましょうか」
 「いや、お構いなく、長居はしないよ」堂山は手で佐山の好意を断る。「早速だけど、念の為の確認で十七階で遺体を発見した時の話を聞きたくてね」
 「最初から、ですか?」
 「いや、そうだな、それなら、こちらから質問させて貰うことにしよう。どうして、朝の五時のチェックで車椅子を発見して怪しいと思った後、一階から順番にチェックしていったんだね」
 「どうして……何か、変なところがあるでしょうか?」
 「変というか、随分とまた律儀なことするよね、と思っただけなんだけど」
 「そんなに、手間は掛からないですよ、この建物、一階一階はそんなに広くないし、大抵の部屋は鍵が掛かってるのを確認するだけですから」
 「じゃあ、こういう時は、いつも一階ずつ調べてるってことになるのか」
 「そうですね」
 ここまでは、予想通りだ。
 「じゃあ、次、エレベータの話だけどね、事件の時のエレベータ内の映像って、残ってないの?」
 「それに関しても、前にも聞かれましたけどね」澄ました表情で佐山は答える。「そういうのは全部、エレベータの管理会社さんにお任せしてるんで、もうそっちにも話がいっとるはずです」
 「そうか、そりゃ済まないね、まだ佐山さんはその映像を見てない?」
 「はい、見てないですね」
 実は、小石川巧との話し合いで次に調べるべき重点項目として挙げられたのが、この「エレベータ内の映像」だった。午前中に確認したが、エレベータ内にあからさまな監視カメラのようなものは何処にもなかった。既にエレベータ内の映像の解析が始まっていたとは、意外だったが。
 「じゃあ、あと、そのエレベータのロックとやらを見せて貰えないかな」
 「いいですよ、じゃあ、案内します」
 佐山はすっと立ち上がり、一度、座敷部分から降り、サンダルを履いた。堂山もそれに続き、そのまま座敷の脇を進み、細い通路の先にあるドアをくぐる。
 「ここは?」
 「機器管理室と、呼んでます」佐山の声が、ゆっくりと部屋に反響する。「普段はあんまり入りません。ロックするんも、ロックの解除も、時間になれば自動的に行われるんで」
 機器管理室は、中が薄暗く、コンクリートの壁を伝うように太いパイプが何本も通り、急に下水道の中に紛れ込んだようだった。快適な空間とは言い難い。
 「この奥です」
 示された奥手の壁に、電気のブレーカのようにレバーが多く並んだ機器が貼り付いている。その上からは、透明なカバーが被さっている。
 「これを、操作すればいいのか」
 「そうなんですけど、鍵でこのカバーを外さないと」と言って、佐山は腰に付けている鍵束を薄暗い中に手早く見分け、その内の細い一本を、透明なカバーの下側に開いている鍵穴に刺し、回す。
 カバーは反動で上に跳ね上がる。
 堂山は、黒いレバーを操作しないように注意しながら、軽く触ってその様子を確かめてみる。
 「一、二、三……ちゃんと階数分あるな、今は全部下がってるけど、これがロックが外れた状態なんだな?」
 「そうですね、これが時間になると、自動的に上に上がるんです」
 「で、朝が来ると、また自動的に下がってロックが外れるって仕組みか」
 「そうですね」
 「その鍵……」堂山は佐山の腰元に視線を送る。「佐山さん以外は、持ってないのかね」
 その質問と自分がこれから発する返答に、佐山は当惑している様子を見せた。
 「鍵は、これ一本です。ただ、私以外にも警備員はおりますから、私個人のものじゃあ、ないんですけど」
 「合い鍵は?」
 「作ろうと思ったことはありませんけど……普通の鍵じゃないんで、大変そうですね」
 「ちょっと、見せてくれませんか、その鍵」
 佐山は相変わらず素早い手付きで鍵束から該当の一本を外し、堂山に渡した。
 普通の鍵よりも、一回り大きい。電子錠なのは分かったが、複製の可否は見極められない。
 「ありがとう」
 「あの、私、疑われてるんですか?」
 「え?」意外な発言に、堂山は佐山を見て、微笑みを作る。「いや、そんな訳、有りません。鍵のことも、調査してみないと分からんのでね。大体、貴方に女子高生を殺す動機がありますか?」
 「そりゃ、ないですよ!」急に佐山は叫ぶ。「いや、すいませんね、不安になったもんで」
 「お気持ちは分かります。貴方は遺体の第一発見者なので、こうして色々話をお聞きしているだけですよ、決して、疑っているわけではないんです」
 「それなら、良かった」
 「ともかく、戻りましょうか、ここじゃあ、話がしにくい」
 「え、ええ、そうですね、やっぱり、お茶でも淹れましょうか」
 「それじゃあ、お言葉に甘えるとします」
 堂山は、少し大袈裟に頷いた。

4.1.1 4D-WC

4.1.1

 一課の部屋に戻って来るなり、千種は石巻巡査部長から珈琲を買ってくるよう頼まれた。頭が疲労しているのでそういう仕事の方が有り難い。千種の属する第八係の面々も何名か顔を見せたので、軽く挨拶しながら、石巻に珈琲を渡す。
 「で、どうなんだよ、御影」
 コップを受け取るなり、上司からの詰問である。
 「どうって言われましても」紙コップの端っこを少し齧ってから、千種は唇を尖らせる。「ああいう話、私、苦手です」
 「うん、そうかも知れんがな……」石巻の珈琲は、砂糖なしのミルク入りと決まっている。「それが仕事なんだから、しょうがないだろうよ」
 「はい」
 現在は、精神科医が取調室で依野の相手をしている。正式な鑑定は行わないが、それは「鑑定書を発行しない」という意味である。簡単な印象だけでも、医者の一言は重い。今後の方向性を決定する材料としては充分だろう。
 時計はもう、午後二時半。
 不思議と、取り調べだと時間が過ぎるのが早く感じる。「好きな時間は早く過ぎる」と言うが、自分が取り調べ好きだとは、信じたくない。
 この数時間の手応えは、上々だった。
 依野は、ゆっくりとしたペースではあったが、意外にも明朗な話しぶりだった。その御陰か、依野親子に関する詳細の輪郭が、徐々にではあるが浮き上がってきた。
 依野明良、四十二歳。妻とは数年前から別居中。その契機となったのが、元々明良が入信していた宗教団体への不信感だった。しかしながら、妻も娘の置かれた状況を考え、離婚という選択肢は避け、定期的に家族三人で会うように心掛けていたと言う。
 依野悦吏子、十七歳。幼い頃の事故が原因で、下半身が全く動かないという。従って彼女は人生の大半を車椅子に座って過ごしてきた。明良の方針で宗教団体の敷地内にある教育施設に、小学校、中学校、高校と通わせていた。また、宗教上の理由から、彼女はその敷地内から出るには相当厳重なチェックを経る必要があった。これがつまり、明良が「娘があんな場所に一人で行ける筈がない」と言った主な根拠であり、その意見自体には千種も賛成だった。
 尚、悦吏子の他に、依野夫婦の間には子供はいない。
 明良の言動がちぐはぐになったのは、「俺が殺したようなもんだ」という言葉の真意を尋ねた時である。発言の断片から察するに、どうやら薬物に関係した話のようだ。娘に薬物を渡したのも自分である、と明良は認めている。そんな道に引っ張りこんだ自分が悪い、という意味だろうか。
 つまり明良は、自分の娘の死因が、薬物であると思い込んでいることになる。
 「それにしても、その宗教団体の敷地から出られないなんて、私に言わせれば、監禁ですね」
 「ま、よくあるこった」石巻はこともなげにそう言う。
 「そんな……可哀想じゃないですか、一番楽しい時期に、そんな場所に閉じ込められるなんて」
 「分かった分かった、泣くんじゃないよ、御影」
 「泣いてませんって」思わず石巻を睨み付ける。
 部屋の扉の内、千種に最も近い一枚が開き、顔を見せたのは精神科医の明埜武(あけのたける)だった。顔馴染みでもある彼が、今回依野の様子を診てくれた精神科医である。
 「あ、いた、御影さん、終わりましたよぅ」
 明埜は報告する相手を発見して、大袈裟に手を振る。
 「俺もいるぞ」と、面白そうに石巻が言って、珈琲をまた一口飲む。
 「お疲れ様です、どうでした?」
 「いやいやいやいや、うん、あ、珈琲ですか、良いですね、僕も欲しいな、寒いし」全く関係ないことを呟いてから、明埜は顎に手を当てて、考える素振りをする。「てか、精神状態としては、普通ですよ、あれ」
 「精神状態としては?」
 「いや、あんまり深い意味もなく喋りました、すいません」明埜は眼鏡の奥の瞳を光らせる。「でも、もう麻取(マトリ)に預けたんで、そっちでやって貰った方が色々分かるんじゃないですか」
 「普通か……じゃあ、安心して取り調べを続けられるってことか」
 「うーん、そうじゃないんですよね、実は」早口でまくし立てる明埜。「何て言うか、うん、普通なんだけど、普通、すぎる。ほら、過ぎたるは及ばざるが如しっていうか」
 「ほう」石巻が続きを聞きたそうに相槌を打った。
 「気になるでしょ、石巻さん、やっぱり?娘を殺されて、自分が警察にしょっぴかれてきたっていう感じじゃない。平常心だ、少なくとも診てる感じではね。覚醒剤打ってたんなら別だけど、今は打ってないって言ってたし……ちょっと、気持ち悪いな、ああいうヤツは」
 そう言って鋭い目で千種の反応を窺う。その目つきは常に鋭く、千種ですら時折心の中を射貫かれているのでは危惧するほどだ。口数が多くて口調も軽いが、時々、読めない。友人としては、面白いのだけれど。
 石巻が空になった紙コップを自分の机に置き、千種と明埜の両方を一度見た後、言った。
 「ま、考えるのは材料が出揃ってからでも良いだろう、それより御影、係長から連絡あったら、ちゃんと報告できるように纏めとけよ、どっちにしても、あっちからは現場の報告書があがってくるに決まってんだから」
 「現場、全然見てないですもんね。早く、見に行きたい」
 「えええ、そんなこと僕は絶対思わないね、御影さん、やっぱり刑事なんだなあと思いますよ、カッコいいなあ」
 「そう?」相変わらず、褒められるのには慣れていない。お世辞と分かっていても、うまい切り返しが出てこない。
 「うん。まあ、僕は今のままで満足してるけどね、あ、でも、この寒さには不満たらたら。早くあったまりたい。ということで僕も、珈琲、買ってきます」
 「好きにしろよ」
 という石巻の言葉を背中に受けながら、明埜は手を擦りつつ部屋を出て行った。