岡崎 溝遊(コウユウ)の小説保管所 -2ページ目

5.5.0 4D-WC

5.5.0

 立ち並ぶ裸の木々は寒々しく、寄り集まる姿が一層、淋しい。
 眞田敬二郎は、日比谷公園を散歩中だった。眞田が出した「外で何か食べましょうか」という提案に対し、小石川巧が提示した場所への一番の近道が、この公園内の通路だった。
 生憎の曇天だったが、小石川巧は警視庁を出て外の光を浴びると、眩しそうに目を細めた。歩を進めながら見た巧の後ろ姿は、眞田の知る限りでだが、最も衰弱していた。よれたスーツの皺、覚束ない足取り。もしや、昨夜は徹夜だったのだろうか。
 その上司は「いつも行く場所がある」と言って微笑んだのを最後に、眞田の前を無言で歩いている。午前中だが、意外と人が歩いている。ジョギング中の人もいる。テニスコートがある一角を越え、東西に真っ直ぐ公園を突っ切る形となる。
 「嗚呼、帝国ホテルですか」
 眞田は正直、この選択に驚いた。徒歩で入ってきた二人に対しても、ベルボーイが丁重にお辞儀をする。落ち着かないこちらを意に介することなく、巧は颯爽と前を進んでいく。
 エレベータで、十七階へ。ビュッフェ形式のバイキングだった。朝食の時間帯としては遅いが、どうやらぎりぎりのようだった。意外と客は多い。ホテルの宿泊客がいるのだから、当然と言えば当然かも知れない。
 そう言えば、警視庁の近くの飲食店を眞田は余り利用しない。霞ヶ関と国会議事堂を側に控え、同僚、政治家などと鉢合わせして、落ち着けないからだ。しかし帝国ホテルレベルまで来ると、そんな次元ではない。警察関係者も政治家も当然いるだろうが、鉢合わせして気まずいような知り合いは来ないからだ。
 巧がここを普段遣いする理由も同じだろうか、と考えながら席に着く。ボーイがやって来て、テーブルに逆さに置かれていたグラスをひっくり返し、水を入れる。いちいち、落ち着けない。
 「部長を取り調べたのは、公安だったんですね、納得しました」
 グラスの水に一度口を付けた後、眞田が尋ねる。
 最初はてっきり、取り調べたのは堂山係長だとばかり考えていた。
 「そうなんだ、昨日の夜、いきなり乗り込んできてね……公安との付き合いも短くないつもりだが、相当、必死な様子だったよ」
 続けて、巧はかいつまんで眞田に聴取の様子を話す。合間にやたらと水を口にした。口調の端々に、巧が昨夜感じた緊張感が伝わってきた。
 「その、スーツケースの中の男……小野原、ですか、何者なんです」
 「さあ……」何故か、巧は水ではなくホットミルクティーだ。「見当も付かないね」
 「いつ、部長の車にスーツケースを入れたんでしょうか」 
 「事件の日、つまり昨日だろうね、きっと」
 「では、それ以前に、小野原は殺されていたということですね」
 「勿論だ」巧は頷く。「見た限りでは、スーツケースの中に、血痕は付着していなかった」
 「その小野原が昨日のコロシに関係してるなら、調べ易そうですけど」
 「その場合でもね」巧は渋い顔をする。「スーツケースを入れた時刻は特定できない」
 「確かに……そんな暇、無かったですよね」
 そこで巧は立ち上がり、朝食タイムに遷る。眞田もすごすご着いていく。とてもじゃないが、自由に取って良い料理のレベルではない。彼女が居ても、年に一度連れて来るのが限度だろう。しかし、彼女なしの身では、思考に益々現実感が無い。
 ローストビーフの切り落としを口に運びながら、巧は会話を再開する。
 「いつ、スーツケースが車に入れられたのか。確証はないが、私が現場に到着した後だと仮定する」
 「はい」
 「朝は、六時半ぐらいに到着した筈だ。そして帰りは、私用で早かった。十五時十五分だと、宣言してただろう」
 「ああ、そうでしたね」そんなこともあったな、と眞田は思い出す。
 「到着してから研究センターを出るまで、私は一度も駐車場には戻っていない」
 「その間、約九時間ですね。チャンスは結構あったのでは?」
 「どうだろうね。駐車場に不審者が入れば、警備員が見張っている筈なんだ。そして何より、駐車場にも監視カメラがある」
 「ということは、その映像を見れば、何か分かるんじゃないんですか」
 「そうかも知れんがね」巧の表情は冴えない。「そうなると、今度はその行動の理由を考える必要が出てくる」
 「確かに……」返事に詰まり、眞田は目の前の皿に視線を落とす。料理の名前は分からないが、恐らくフランス料理のような気がする。とにかく美味しい。自分の語彙の無さが憎い。「部長の車に死体を乗せて、何か得をしますかね」
 巧は首を縦に振る。「他にも、車はたくさんあったのに、私の車は、なぜ選ばれたのか」
 「もし狙ってやったのなら、部長の動きを封じる為じゃないですか」
 「私の動き?」
 「現に、今朝まで拘束されていた訳ですし」
 「なるほど。しかし、私に恨みを持つ人物とは、誰だろう?」
 「本気にしないで下さい、すいません」眞田は手を振って否定する。「小野原殺害の動機が部長にある、というのも変な話ですし」
 「これは勘だが、小野原殺害も、その死体を私の車に入れたのも、一連の動きという気がする」
 「本当にそうですかね?小野原殺しのホシと、それを車に入れた人間は、別かも知れませんよ」
 「実行犯が複数居たとしても、別の目的で同時に二つの事件が起こる、というのは突飛過ぎるよ、眞田君」
 眞田は料理の美味しさを横に置き、頭を整理する。
 小野原殺害の時刻、小野原の死体を巧の車に入れた時刻。
 結局は、この二つを推測または確定させる必要がある。
 その為には、そもそも小野原殺害と昨日の事件との関連も考えねばならない。
 「まずは、駐車場の監視カメラの映像を見ようか」
 巧はそう提案したが、返事をしない眞田が困っていると思ったのか、溜息をつく。ただ、顔色は徐々に回復しつつある。豪華なビュッフェ形式の朝食のお陰だろう。
 「部長はまだ、大人しくしていて下さいね、参考人なんですから」眞田は諭すように言う。「この件は、僕の仕事です」

5.4.0 4D-WC

5.4.0

 東京の空は、曇り。
 パトカーで約二十分走り、到着したのは「東都エレベータ株式会社」という巨大な文字を掲げる建物の前。昨日アポイントメントを取ったことを伝え、駐車場に入る。途中、フォークリフトや作業車と擦れ違う。パトカーのウィンドウ越しに、平屋の工場に隣接する、巨大な煙突のようなタワーが見える。エレベータの稼働実験などに使用するのだろう。
 運転主の刑事を引き連れ、入口の自動ドアを抜ける。受付で警察手帳を提示すると、直ちに応接室に通された。どうやら、こちらの訪問に対し、入念に事前準備していたらしい。余りにも丁重だと却って怪しいが、その見極めは難しい。
 「ビデオを、お貸しできませんかね」何故か、応接室の奥には、天鵞絨のカバーを被ったグランドピアノが設置されている。天鵞絨と言えば、つい体育館の緞帳を思い出してしまう堂山である。
 「勿論、ご協力させて頂きます」社長は五十代後半か六十代前半、年相応の恰幅。名刺には三房元(みふさはじめ)、とあった。汗っかきらしく、頻繁に小さなタオルで額を拭う。「只ですね、できれば、事件の詳細をお聞かせ願えないでしょうか。我々としましても、エレベータが犯罪に使われたとあっては、末代までの恥ですので」
 「ええ、説明させて頂きますよ」大袈裟だな、と思いながら堂山は答える。
 社長の様子を伺いながら簡単に経緯を説明したが、会社側は事件の内容を殆ど知らず、堂山は多少違和感を覚えた。多忙でニュースも確認していないらしい。
 「国立情報学研究センターからは、何と言ってきたんですかね」
 「何もお聞きしておりません」三房社長は即答する。「但し、問題の映像はどちらにせよ、残っております。エレベータのロック、ですかね、その機構が手動で操作された時点で、専用のビデオに映像の録画が開始される仕組みになっておるわけです」
 「社長はその映像、確認されたんですか」
 「恥ずかしながら、まだです」本当に恥ずかしそうに、三房社長は下を向く。
 そこで若い女性がトレイにお茶を載せて運んできた為、会話は中断する。「別嬪でしょう、頭も良いんですよ」と社長は笑顔で彼女を紹介したが、堂山は何と答えて良いのか困った。横に座る若い刑事を見たが、彼も戸惑いの表情だった。
 女性は無言のまま、微笑んで会釈し、部屋を出て行った。
 「あの国立情報学研究センターのエレベータは、特別なものなんでしょうか」
 しっかりお茶菓子も平らげた後で、堂山は質問を再開する。
 「ええ、お話を頂いてから、昔の資料を出して調べてみました、あれは相当、当時の社長が社運を賭けて作った特注のエレベータだったようです」
 「ほお、特注」
 詳細は、社長の話を纏めれば、こうなる。
 当時の東都エレベータ自体は創業して五年余り、受注も伸び悩んでいた。国立情報学研究センターの導入機に関しても、形式上の入札制度はあったものの、実質上、他の大手企業に先に打診があった筈である。大企業がそれを断ってきたのには国からの出した、厳しい条件による部分が大きかったと見えた。
 それは、「強固なセキュリティ」という一点である。未来を担う情報科学の最先端の研究施設として、情報が外に漏れるようなことがあってはならない、というのがお上からのお達しであった。散々悩んだ挙げ句、最後は先代社長の冒険とも呼べる英断により、受注が決まったとのことだった。
 「当時の資料を、持って参りました」
 三房社長は机の端に積まれたファイルや冊子の中から一つを取り出し、堂山たちに見えやすいように広げて見せた。「刑事さんが仰るロックの機構も、ここに書いてあります」
 時代がかった色彩とフォントで飾られた、A4サイズの分厚い紙面。
 丁寧な図解と共に、目玉機能として「時限式エレベータロックレバーの導入」という項が大きく場所を取っている。専門用語が多く理解できない部分が多いが、図解を見れば、堂山の知りたい情報は充分に読み取れた。
 しかし、目を凝らしてみたところで、別段不思議な点はなかった。事務員、佐山大治が言っていた通り、夜十時になればロックが掛かり、朝六時にはそれが解除される、との文章もある。作られた当初から、変化はないようだった。
 続けて、堂山はエレベータ内のレバーについて尋ねる。社長は該当の説明を探し始めたが、やがて紙面から目を離し、指で目を押さえた。彼には字が小さく、辛いのだろう。
 「エレベータロックと同じ機能だったので、わざわざ記載しなかったのかも知れませんね」
 こちらに向き直ると社長は残念そうに言い、パンフレットを堂山の側に戻した。それを受け取り、部下の刑事と二人で頁を捲って確認していく。三房社長は机にある他の資料を調べ始めた。
 冊子にして数冊、三十分以上は探したが、何処にもない。
 「仕方無いですね、当時の内部設計書を持ってきましょう、そこの図面には必ず載っているので」
 社長は、一度応接室を出てから数分後、両腕で分厚いファイルを抱え戻ってきた。足下に落とすと扁平足になるな、と堂山は妙な想像をする。三房社長はファイルを机に投げ置くと、「よっこらせ」と声を出し、頁を繰り始めた。先程と違い、老眼鏡を掛けている。
 「ああ、これかな」暫くして、社長が呟く。
 「ありましたか」堂山は身を乗り出し、その指先が指す部分を見る。
 「図面は確かに、あるには、あったんですが……いや、おかしい、刑事さんの言われるようなレバーは、ないですね。うん、確かに、ない」
 「何処です」
 社長が示したのは、エレベータ内部の図面だった。天井と四方の壁、そして床の寸法が事細かく細い線と文字で几帳面に描かれている。
 堂山の記憶では、エレベータ内のレバーは、正面の壁、つまり扉と同じ壁の上部にあった。
 再度三人で確認したが、図面上にそれらしきレバーは何処にもない。
 「不思議ですねえ」座ったままだというのに、三房社長は少々息が上がっている。「確かに、奥の一基、サブエレベータなんですよね?」
 「そう呼ぶのかどうかは分からないですが、建物の奥に一つだけあるエレベータです」
 「それなら、やはり、間違いないと思います。設計図には、そのようなレバーは付いておりませんので」
 「その資料、お借りできますか」
 「ええ、でも、重いですよ」
 「大丈夫です」堂山は大きく頷く。「持つのは私じゃありませんから」

5.3.0 4D-WC

5.3.0

 視界が曇るので、稲坂行生は眼鏡拭きを取り出し、丁寧にレンズを磨く。手入れが出来るよう、ポケットには必ず一枚は眼鏡拭きを常備している。
 再度眼鏡を掛け直したが、視界の曇りは取れない。
 レンズの所為ではないなら、疲労か。
 全く、今回は振り回されてばかりだ。 
 稲坂は事件の日の夜、上司から連絡を受けた。
 小野原かも知れない死体が発見された、という内容だった。
 突然の連絡に驚きながらも、本庁へと急ぐ。聞けば、昨日堂山昭輔が言っていた、T大内の施設の殺人事件と関係があるらしい。詳しい話を聞くよりは、早く小野原の顔が見たかった。事前に確認できた曖昧な写真では、単なる平凡な大学教授という印象のみだった。
 それにしても、上層部がその情報をどこから得たのか。
 更に、その死体が小野原だと推測した理由は何なのか。
 死体発見から、こちらへ連絡する迄の時間が極端に短い。
 疑問を抱きながら、部下数名と一緒に、捜査一課に乗り込む。既に、夜の帳は降りていた。
 T大内の事件の担当者は堂山昭輔という男であり、稲坂の同期だ。
 彼を捜すのは、昔から簡単だ。一番大きな声を出している奴を探せば良い。思惑通り、彼は直ぐに見つかった。
 近付いて行くと、堂山は遠目にこちらを一瞥したにも関わらず、視線を元々の話し相手に戻した。どうせ、わざと無視しているのだろう。これも昔からだが、精神年齢が極めて低い。
 捜査一課の部屋で一礼したが、周囲が身構えているのを感じた。我々公安が直接乗り込む事態は珍しい為、致し方ないだろう。
 顔を合わせ、事情を説明する。
 「ふん」説明が済むと、いきなり堂山は悪態をついた。「相変わらず、やり口が強引だな」
 「やり口は関係ない、結果が全てだ」
 そう軽く流した稲坂に対して、堂山は無言で鼻を鳴らす。
 今度は、堂山の向かいに座っている歳上の男が尋ねる。
 「で、誰なのかね、この死体は」
 殆ど面識は無かったが、小石川という名前らしい。元々、堂山と話をしていたのはこの男だ。
 「この男は、小野原貞政と言います。我々はずっとこの男を追っていました」
 返答しながら、小石川という男を観察する。彼の乗る車から小野原が発見されたということなのだから、大変な重要人物であることは間違いない。
 「小野原……」小石川はその名前を反復する。聞き覚えが無いか、記憶の糸を辿っているのだろう。「一体、何をやらかしたんだね、この男は」
 稲坂は目の奥を細くする。「それは、申し訳ないですが極秘事項です」
 「別に全てを教えてくれとは言わないが」小石川巧は真っ直ぐに稲坂を見据える。「今畑籐吉議員の話はもう聞いているだろう?我々が知りたいのは、この死体が、昨日のT大の事件に関係在るかどうか、それだけだ」
 「断定はできませんが、それは、あると思います」
 「やけに素直に話すじゃねえか」
 いちいち五月蝿い堂山を睨んだが、そのまま話を続ける。「勿論、必要に応じてそちらからも情報を頂く必要が出てくる恐れもありますので。彼を追う理由以外の部分ならば、ある程度はお話しできるかと」
 冷静さを保つよう、心掛けながら話す。
 小野原を追う理由は、答えたくとも、稲坂自身が真相を知らない。
 小石川は再び質問する。
 「我々の事件とこの小野原とが関連している、と公安が考える根拠は何かね」 
 「それは、小野原とそちらの被害者が、同じ新興宗教の信者であることです」
 「こっちの被害者の情報も持ってんのかよ」
 堂山は茶々を入れるが、答えないことにする。
 「成程……これは、協力する必要がありそうだね、我々も」
 小石川は不思議と微笑んだが、こちらは視線を逸らすだけだ。
 必要以上に、親密になる必要はない。
 「では、少しご協力願いますか、小石川本部長」
 そう言って、不満そうな堂山を放ったまま、稲坂は公安部まで小石川を引っ張っていった。
 この時、時刻は既に夜の十時過ぎ。
 聴取の内容は極めて詳細に及んだ。あのスーツケースの中の死体、小野原貞政に関わった恐れのある時間の行動全てに関して、逐一話を聞く。話している最中でも、裏取りが必要そうな内容であれば、直ちに部下の刑事を使わせた。普段なら人を出し渋る上層部だが、今回はやはり扱いが全く違う。人員が豊富なのか、今に限って公安が暇なのか、それとも、この事件に掛ける意気込みが違うのか。恐らくは最後の可能性が一番高いが、結局どのパターンでも、余り嬉しくはない。
 三時間ほどで一度休憩を挟んで、そのまま夜中まで二時間ほど。「頭が朦朧としてきた」と小石川が訴えた為、流石にその日は公安部の中で泊まるように薦め、それを彼も受け入れた。そして起床後、簡単な朝食を渡された後で、そのまま聴取の続きである。
 解放後、見覚えのある刑事が小石川本部長を迎えに来た。
 直属の部下である、眞田という男だ。
 T大文学部内での、風貌に似つかない鋭い駆け引きを思い出す。
 「部長!もう、大丈夫なんですか」
 小石川は、照れくさそうに頭を掻く。
 「うん……この年齢には堪えるよ。なかなか、参考人も大変だね」
 「何処かで休まれます?」
 「そうだな」小石川は、真剣な表情に戻り、稲坂を見る。「もう、出て行っても大丈夫かね」
 「はい。御足労をお掛け致しました」
 部屋を出て行く二人の後ろ姿が、時折、ぼやける。
 もう、瞼を下ろしてしまいたい。
 こればかりは、眼鏡を拭いても、治らないだろう。
 参考人も大変だが、理由も分からず取り調べるのも、大変だ。

5.2.0 4D-WC

5.2.0

 結果的には、小石川巧は警視庁公安部内で事件二日目の朝を迎えることになった。
 前日の死体発見直後のことを、思い出す。
 コートの内ポケットにある警察手帳を確かめてから、巧は行動を開始した。
 その手帳をファミリーレストランの店員に提示して、現場を保存するようお願いする。司が警察に連絡した後、同じ電話で施設に連絡して、小石川司を迎えに来るように頼んだ。幸い、家政婦の田布施がすぐ車を出してくれると言う。
 様々な不安が駆け巡ったが、何よりも気掛かりなのは、子どもたちだった。
 「大丈夫、パパ?」
 刑事を待つ間、司は瞳を大きくして巧を気遣った。レストランからは、元々いたお客が二人を好奇の目で見ながら立ち去っていく。夕食の時間帯だったので、その人数も多い。
 「大丈夫だ。何とか、頑張ってみるよ」どちらにしても、そう答えるしかない。
 それに対し司は一瞬、口を開き掛けたが、黙ったままだった。
 偶然近くに居たレストランのオーナが、血相を変え店内に乗り込んできた。こういった事態には弱いタイプらしく、巧の説明が一通り済む頃には、オーナの顔には濃い憔悴の色が浮かんでいた。
 警察が到着したのは、それから二十分ほど経ってからだった。パトカーから降りてくる堂山係長の姿を発見した時には、少なからず、安堵した。
 無理矢理着いてくる司を引き連れ、駐車場に出る。刑事は堂山を含めて三人だった。こちらを発見したらしく目が合ったのでコートの襟を正し、頭を下げる。横に立つ司も、慌ててそれを真似る。
 強面の第一声が、白い息に変わる。
 「お疲れ様です、部長。一体全体、何だってんです」
 そう言いながら周囲を観察する堂山に対し、巧は言葉を選び、説明する。
 「私の車から、死体が見つかった。後ろのトランクに、知らないスーツケースが入っていた」
 「え?」堂山の片方の眉が吊り上がる。「どういうことです?」
 「事情を知りたいのは、私の方だ」口を真一文字に結び、巧は誰ともなしに、頷く。「いや、こんなことを言っても、始まらないんだが……。知らない、顔だった。すまないね、堂山係長」
 「謝るのは、後です」そう言って、一つ溜息をつき、彼は白い手袋を差し出す。「調べるんで、手伝って下さい」
 娘に調査現場を見せるのは初めてだな、と思っていた矢先、迎えの車が到着し、司を引き渡した。泣いていたかも知れないが、確認していない。そんな余裕は、仕事中にはない。
 調査は、一時間ほどで終了した。堂山係長が念の為に死体をある程度見た後、スーツケースごと警察車両に運び込む。その後は巧の車の調査である。後部座席には多少荷物が残っていたが、普段と変わらないままであり、それが巧には奇妙な感覚だった。
 堂山は車の中に明確な血痕や犯行の痕跡が残っていないことを確認し、その車を牽引する手続きを取った。調査が一段落した時には、これでスカイラインともお別れか、という妙な惜別の感情だけが、巧の心に残った。
 謎は一度忘れて、この淋しさに集中しよう、と決める。ばらばらな感情は、整理しなくてはならない。強引に悲しんだり、喜んだりすることも、時には必要なのだ。恋愛映画を見て泣くのと同じだ。
 そのままパトカーに乗せて貰い、本庁まで戻る形となる。堂山以外の二人の刑事は巧を見て困惑していた。上司なのか、重要参考人なのか。どう扱えば良いのか、という顔を見て、巧自身は申し訳ない気持ちが先に立った。忙しく躍動する警視庁捜査一課に戻り、まずは、スーツケースの死体と、昨日の殺人との関連について議論することを決定した。
 まずは特殊事案調査室の本部長として、役割を果たすべきだろう。
 「最後にトランクの中に死体がないのを確認したのはいつです?」
 堂山が尋ねる横で、若手の刑事が書記をしている。
 「三日か、四日前かな」
 「いつもは車で出勤じゃないんですか?」
 「普段は電車だよ、但し昨日の事件の時は急いでいたからね」
 ここは強行犯捜査一係、要するに庶務係である。周囲では、主に事務処理なのだろうが、もうすっかり外も暗いというのに大勢の人間が動き回っている。自らの非常事態時でも、変わらず日常は動いていることを再認識させられる。
 偶然、話し合いに丁度良い場所を確保できたのがこの場所だったのだが、落ち着かない雰囲気は拭えない。但し、あからさまに取調室に入れられるよりはましだ、と思い直す。
 堂山は質問を続ける。
 「T大へは、車で来る方が、電車で来るより早いんですね?」
 「そうだ」
 「スーツケースは部長の物ではないんですよね?」
 「そうだ」再度、頷く。
 「じゃあ、スーツケースごと、誰かが部長の車に死体を入れたことになる」
 「そういうことに、なるな」そこで巧は俯く。思考を集中させたかったからだ。
 記憶を手繰れば、前々回、つまり事件の前に最後に車を出したのは、施設の皆を連れて初詣に行った時だ。第三者がトランクを開ける機会はなかった筈だが、確証は無い。そちらに捜査の手が行くのは大変に不本意だが、やむを得ないだろう。
 一方、事件当日である昨日の方が、車を見ていない時間が長い。国立情報学研究センターの駐車場は建物の入口からぐるりと回った裏側に近い部分にあり、少し歩く必要がある。入口には専用のゲートがあり、事務員の許可なしでは通行防止用のバーを上げることは不可能だ。不審者がいたならば、事務員の目に留まってもおかしくない。
 「そのスーツケースの死体、今回のコロシと、本当に関係あるんですかね?」
 そう言って無表情で上司を見る堂山に対して、巧は「わからない」と言うのが精一杯だった。

5.1.0 4D-WC

5.1.0

 事件二日目の朝も、眞田敬二郎は普段より早く出勤することになった。
 昨日の殺人に関しては、本日から本格的な捜査が開始される。「国立情報学研究所殺人事件対策本部」という長い木製の看板が同名の組織と共に作成され、眞田もその担当に回ることが正式に決定した。
 但し、彼が早起きしたのは、別の理由だった。
 「お、来たか、遅えな」
 二十畳ほどの会議室の中で待っていたのは、堂山係長、ただ一人だった。ここが対策本部として割り当てられた部屋である。「いいから、まあ、座れよ」
 眞田は、素直に堂山の横にあるパイプ椅子に腰を下ろす。横目で見た腕時計は、七時半を指していた。
 無精髭が伸びた堂山の表情からは、感情が読み取れない。
 そのまま堂山の第一声を待っていると、目の前の上司は「朝飯、食いながらで良いぞ」と言って漸く少し口元を緩めた。「焦ってんじゃねえぞ、相変わらず」
 「ありがとうございます」言われるままに、コンビニの袋からおにぎりとお茶を取り出す。「部長、大丈夫なんですか」
 「そういうとこが焦ってる、って言ってんだけどな」堂山の脇の長机の上には、紙コップの珈琲が置かれていた。まだ湯気が登っている。ひとまずはおにぎり三つを、手早く胃に入れる。缶入りの緑茶は、既に少し冷めていた。
 二つ目の死体が、小石川巧の車のトランクから発見された。身元は不明。
 堂山は極めて簡潔に、そう告げた。
 事前情報と大差ないその話に対し、疑問点が次々と浮かぶ。
 「今、部長はどこに?」
 「事情聴取されてるよ、残念ながら」平坦な口調で言って、珈琲を一口飲む。皮肉かも知れないが、眞田には判別し兼ねた。「同じ建物にいるのに、立場は逆になっちまった」
 「係長は現場に行かれたんですか?」
 「行ったよ、部長とも少し話できた。娘さんと一緒だった」
 「娘さんなんて、いましたっけ?」巧の家族構成を、眞田は知らない。
 「知らんよ、俺は。高校生ぐらいの若い女だったから、そう思っただけだ」
 結局、得られた情報は多くはなかった。更なる質問の為、眠気を押して思考を巡らせるが、回転は鈍い。乾いたプラスチックが、脳の中でカランカランと暴れ回る連想を、すぐ打ち消す。
 堂山との取り留めないやり取りに比較すれば、小石川巧本人の話を聞くのが格段に効率的だ。しかしながら、堂山の口振りからは明確に、彼が小石川部長の聴取の詳細を知らないことが窺え、眞田はそのことに対し違和感を覚えた。いわゆる「内輪」の人間の関知を回避する目的だろうが、もしそうなら、誰が彼の話を聞いているのか、それも不思議だった。
 徐々に会議室内の刑事は増え、書類を抱え次々と席に着く。顔見知りも初顔も半々の割合、といった印象だった。彼らは当然、第二の事件を知る由もない。そもそも、堂山が眞田を相当早く呼び付けた理由も、情報の伝達範囲を必要最小限に留める為だろう。
 八時半には、対策本部最初の会議が開始され、堂山昭輔が場を仕切った。つまり、対策本部長は彼である。
 まとめ役の簡単な紹介、事件の概要に関する説明、そして今日の人員の割り振り。しかし、眞田の役目は、二つ目の死体の話と同様、発表されず仕舞いだった。
 「解散!」という鶴(堂山にこの喩えは相応しくないが)の一声の後、全員が一斉に機敏に立ち上がり、連なり部屋を出て行く。優秀さの証か、若しくは一刻も早く部屋を出たいのか。
 その中に不本意ながら疎遠な同僚刑事の顔も見掛けたものの、やはり目配せでその存在を確認するのが精一杯だった。
 大丈夫、まだ、俺は生きている。
 こういう時、何故かいつも脳裏を余切るその言葉を合図に、眞田は会議室の前方へと進む。堂山対策本部長は既に、数名の刑事と輪を作り話をしていた。
 「堂山係長、宜しいでしょうか」公式な場なので、一応丁寧な口調を心掛ける。「私の役目が発表されなかったのですが、何すれば良いんです?」
 堂山の返答より先に、他の刑事が振り返り眞田を睨む。質問の語尾から丁寧さが抜けたからでは、当然ないだろう。見れば周囲は皆、一課の係長に近い役職の人間だった。
 「いちいち怒るな、今、お前を呼ぶつもりだったんだ」堂山には不敵な笑み。「こいつ、『トクジ』からの応援で、眞田ってんだ。皆もよろしく頼む」
 その言葉に、慌てて頭を垂れる。「眞田と申します。宜しく御願い致します」
 堂山以外の四名の上司は、軽い会釈のみで、全員無言だった。不穏な圧力を感じたが、後ろ向きな推測を努めて頭から消す。顔の特徴を覚え、名前は後で確認しようと決める。そういうのは、得意分野だ。
 堂山は、意に介せずと言った面持ちで続ける。
 「眞田、お前は裏で動いて貰う」
 「裏?」裏返ったのは、声だったかも知れない。
 「二つ目の事件の話は、このメンバーには話してある」得意気な表情で堂山は腕を組む。「だが、事情が事情だからな、おおっぴらに人を回せない」
 「それで、私を?」
 「『トクジ』絡みだしな、適任だろ」
 事情が事情?
 堂山は言葉を濁したが、やはり、二つ目の事件が警察内の不祥事と見なされることを恐れている、という理解で良い筈だ。その認識が正しいか確認したいが、我慢した。それを尋ねることすら、憚られる空気を感じたからだ。
 ーーと。
 殆ど静謐さを取り戻していた会議室のドアが開き、慌てた様子で一人の刑事が駆け寄る。風貌は若いが、この集団に対して物怖じも躊躇もしなかった。その余裕すらないようにも見えた。
 「堂山係長」
 「お、お疲れさん、やっと終わったか」
 「はい」多分、堂山係長直属の部下だろう。
 「終わったって、何がーー」
 「早速出番だ、眞田」堂山は軽く顎を上げる。「小石川部長の聴取、終わったってよ」

5.0.0 4D-WC

5.0.0

 事件発生から一夜明け、少なくとも、報道の規模は指数的に加速した。
 既に前日の時点で、「ビルの階数と同じ年齢の人間を殺す愉快犯」という、事実無根の情報が野放図に飛び回ってはいた。但し、輪を掛けてテレビ局を歓喜の渦に巻き込んだのは「新しい死体が発見された」という事実、更に言うなら、「『第一の事件の現場関係者』の所有する乗用車の中から」という「事態の進展」であった。
 早朝の時点で、第二の死体発見現場の中継映像が、垂れ流しに近い状態となった。殆ど有益な情報がないと悟るや否や、ニュースは予め作成しておいた「前代未聞!都内最大規模で行われた交通規制!果たして、警察の狙いは?」という映像を流すことで、何とか間をつないだ。
 関係者、とりわけ官庁や公的組織の一部はマスメディアのこうした過剰とも言える騒ぎに、敏感に反応した。具体的には文部省、警察庁が主なエネルギー源である。
 これに不運ながら政局が絡む運びとなり、事態の混乱は、各々の当事者が想像するよりも、嘆くべき方向へと舵を切っていた。
 何しろ、首相の退陣発表が年初早々にもなされ、ただでさえ通常国会で慌ただしい時期である。それに加え大事件、下手をすれば野党からとばっちりを喰らう恐れも零ではない。そんな状況は可能な限り避けねばならない。政府が裏側でどのような手を回したとしても、奇妙奇天烈と呼ぶには値しない行動だろう。

 さて、唐突な質問ではあるが、あなたにとっての「他人」とは何だろうか。
 この言葉に良い印象を抱く人は、恐らく少ない。家族でも恋人でも友人でも知人でもない人間に対して「他人」という表現を使うのが、一般的だからだ。そして大抵の場合、他人は無条件に信用する対象ではない。
 ところがその一方で、「世間」という言葉がある。「世の中」と呼んでも良い。この曖昧な表現は、その曖昧さ故に、様々な悪評の対象となり得る。
 「世の中がそうなんだから仕方がない」と発する時が、正にそれである。
 他人を怖れつつも、世間に責任転嫁する。記述者にはその点が大いなる矛盾を含んだ行動であるように思えて仕方ない。

3.0 4D-OS

3.0

 「あれあれ」と、尽様は意外に高い声を出した。「まずいなあ……ばれましたね……いや……すいません」
 「いや、今日は、ありがとうございました」
 意味の分からない謝罪に、場違いな感謝で応える。
 その後はしばらく、今日のライブの話になった。尽様が熱心に尋ねてくるので、私でできることならば、と意気込んで喋った。良かった曲、構成に不満はなかったか、スタッフの対応はどうだったか、などなど。よく言えばきめ細かく、悪く言えば重箱の隅をつつくような質問攻めに遭った。
 ただ、心は正に上の空だった。身体も感覚が鈍い。その代わり、尽様に対する神経だけが、集中して働いているように感じる。テレビ番組にもよく出演する有名人が目の前にいることが受け入れられない。例えその人のファンであっても、人間、手放しで喜べるものではないものであることよ、と私はこの時思い知った。
 もしかしたら、そっくりさんかもしれないじゃないか。
 嘘をつかれているかもしれないじゃないか。
 何故か、彼が尽様ではないような可能性を敢えて想像してしまう。自分が憧れの人間に会ってしまうことを恐れているのだろうか?嬉しいことをどうして受け入れられない?
 いつの間にか、もう自宅の最寄り駅に到着しようとしていた。
 「あの……私、もう、帰ります」意外といつも通り会話できているな、という自己評価。
 「え?帰るの?」
 彼はあっさりそう言って、きょとんとした顔をした。
 情けない話だが、その表情がめちゃめちゃ可愛かったのだ。
 「いや、あの……そうですね」
 電車が停まり、ドアが開く。ホームはやはりがらんとしている。
 駅名のアナウンスが二度、三度。
 「ちょっとだけ、飲みに行こうよ」
 「今からですか?いや、明日、仕事なんで……」
 「大丈夫、一杯だけだから」
 「いや、あの……」
 ルルルルルルル。
 このままでは、ドアが閉まる。
 どうしよう?
 「……すいません!」
 私は断腸の思いで、目を瞑ったまま駆け出した。ホラー映画なら、断たれた腸をその場に残したまま走っているシーンが撮れるかも知れない。後ろで何か言われているようにも感じたけど、その誘惑に負けている場合ではなかった。
 私は五体満足で、ホームに立っていた。
 振り向かなかった。その間に、地下鉄のホームから、発車のアナウンス。
 そのまま電車が走り去るまで、なぜか全く動けなかった。
 それにしても、何という体験。
 憧れの人に会えたはずなのに……舞い上がってもおかしくないのに……。
 冷静だった自分が不思議。案外、そういうものか。
 明日、みんなに話そう。派手な話題になりそうだし。
 と、思ったら、いきなり腕を掴まれた。
 「ちょっと……いきなり降りないでよ」
 「え」
 そのまま私は振り向けず、絶句した。
 「どうしてこっちを向いてくれないの?もう、嫌われちゃったかな」
 後頭部に甘い声が充満する。嗅ぎたい。その甘さを知りたい。
 「でも……私……明日、仕事なんです」
 彼に背を向けたままで、自分でも意外なほど冷静な対応を始められた。
 「そっか、残念……じゃあ、今日はいいよ、これ、受け取って」
 「これ……」
 私の掴まれている方の手のひらに、何か紙屑のようなものを握らされた。
 「携帯のメールアドレス。都合の良いときに、いつでもメールして」
 「えっと……」
 「今日は、タクシーで帰るよ、じゃあ」
 その言葉が余韻のように残り、掴まれていたはずの腕は急に力を失った。
 静かなホームに、靴音だけが響き渡る。
 彼を追うことはできない。
 そんなことをしたら、絶対に帰れないと分かっているから。
 

4.9.0 4D-WC

4.9.0

 はらがへった。
 でも、だめだ。うごきたくない。死んでも。
 カーテンのそとは、あかるい。あさなのか、ひるなのか。
 てをうごかして、まわりをさぐる。
 まわりにある、ふくろには、もう、おかしがはいっていない。
 ゲームをするきにも、ならない。
 すこし、あきたな。
 殺したり、殺されたり。
 がめんのなかで、にんげんも、にんげんじゃないものも、死んでいく。
 あたまが、ぼんやりする。
 「はらへった」
 しゃべったつもりだったけど、こえがでたのかどうか、わからない。
 じぶんののどが死んでいるのか。
 それとも、じぶんのみみが死んでいるのか。
 死んだり、死ななかったり。
 ぼくはまだ、生きている。
 でも、どうでもいいや。
 まわりにつみあがった、ゴミ。ふくろ、マンガ、ゲームの箱、ビデオも。
 どこになにがあるのか、さっぱりわからない。
 あたまが、かゆい。
 テレビを、みようか。やっぱり、やめよう。あいつら、うるさい。
 むずかしいこととかばっかりいう、みょうなやつら。
 死んじゃえば、イイのに。


 司、元気かな。
 司の声が、聴きたいな。
 

 後方より、突然の怒声、ではなく、巨大な物音、重力のなせる業に崩れ落つる。それは欲望の対象、積まれた書籍たちの反乱。秩序を滅し新たなる構造を、欲す物理現象。嘗ての食物、腐敗臭を放ち、雪崩の如く漫画、詩集、写真集、楽譜、小説の上を滑り、攪拌され、それは彼の五感を、なかんずく視覚を、眼鏡を奪い、酷く長期間、彼の周囲で渦を巻き続け、


 おなか、すいたな。
 いま、なんじだろうか。
 どうでも、いいけど。
 ひとり、ふたり、さんにん。
 ふえればふえるほど、めんどくさい。
 おれは、おれひとりでいい。
 ちゃんと、じぶんのこと、かんがえているし。
 ちゃんと、かんがえているんだ。
 すこし、さむい。すこしだけ。
 ねむいのも、ある。
 ずっとぼんやりしてるのは、ねむいからか。
 でも、ねられないんだ。
 めをつぶるのが、こわいんだ。
 ほかのことは、なにもこわくないのに。
 めをつぶると、


 司の顔が浮かぶんだ。


 どうして、それがこわいのか、わからない。
 わからない。


 どうして、こわいのに、司に逢いたくなるのか。
 それも、わからない。
 

 それにしても、おなか、すいた。

2.0 4D-OS

2.0

 ところが、事態は急展開を見せる。
 なんとハレルンの携帯電話に、彼女の母親が危篤だという連絡が入り、急遽自宅に戻る必要が出てきたのだ。そして彼女のスペシャルイベント参加の権利は私に転がり込んでくることになった……わけないね。
 すいません、嘘です。いくら何でも、そんな虫のいい話があるはずがない。
 でも急展開は本当で、実はそのスペシャルイベントそのものが中止になってしまったのだ。しかも理由は不明。ハレルンと一緒にイベント会場まで行ったら、その入り口で関係者らしい男性がおろおろしながら説明してくれた。
 「本当に申し訳ありませんが、今回の主役である小石川尽にトラブルが発生致しまして、こちらとしても不本意ですがこのような結果になりました」
 見かけが若い割にはやけに丁寧な言葉遣いをする奴だな、と他人事のように(本当に他人事なのだが)見ていると、周りにいる数人の女性もハレルンと同様に今にも泣きそうな顔でその男性の説明を聞いていた。
 そのイベント会場は少し大きめのフレンチレストランで、どうやら夕食を一緒に味わいながらの語らいを行う予定だったようだ。貸し切りになっていて、大きな硝子の窓からは静かな店内が覗けた。結構豪華な飾り付けが随所に見える。
 でも、ハレルンはそんな店内なんか、もう目にも入らないようだった。
 「大丈夫だよ、今日はなくてもまたやってくれるかもしれないよ」
 「そうだよね……ありがとう」
 結局、二人でとぼとぼ、帰宅の途につくことになった。とは言っても二人は住んでいる場所が近いわけでもなく、地下鉄の駅までは同じだったものの、乗換が必要な私は途中で電車を降りることになった。ハレルンを残していくのが忍びなかった。彼女の「帰らないで」光線を無視するのが正直、つらかった。
 私はライブを楽しんだはずなのに、一つ大きく溜息。
 それにしても、イベントが中止になるようなトラブルって、一体何があったんだろう。遅刻、病気、事故……でも直前まですぐ近くのライブハウスにいたのだから(イベント会場とライブハウスは歩いて十分ほどの距離だった)、遅刻も病気も事故も実は考えにくい。今日のライブとそのスペシャルイベントは、開催側からすればきっと一続きの流れと考えていたはずだろうし。
 もう一つ溜息を漏らした車両の中には、私の他には乗客はいない。日曜日の夜だから、別に珍しい光景でもない。自宅の最寄り駅まではあと三駅ある。
 そう思っている間にも、あっさり次の駅に到着する。
 静かなホームに、電車の発車ブザーだけが鳴り響く。
 もの悲しいよね、日曜の夜の地下鉄。
 これも、ブルーマンデーの為せる業か。友達で、これを「ブルーマン・デー」と勘違いして青い人間がぞろぞろ出てくる外国のお祭りだと思ってる奴がいたな……。どうでもいいなあ、本当に。
 ブザーが鳴り終わり、列車のドアが閉まる直前、階段をせわしなく走って降りてくる音がホームに反響した。降りてきたのはやけにぴったりした服を着た男だった。男は必死で走ってきて列車に飛び乗ろうとしたけど、詮無いかな、ぎりぎりで間に合わず、「プシュー」という間の抜けた音をドアの向こう側で聞くことになった。
 男は全身全霊でドアに体当たりしたため、身体全体がドアに吸い付き、墨を塗っておけば見事な人拓が取れると思うほど惜しい姿になった。
 私はその姿に思わず合掌しようかと思ったぐらいだったけど、神は御慈悲を賜うものである、いや、もしかしたら車掌の同情かもしれないけど、とにかくドアがもう一度開いたのだ。その途端、彼は活きの良い鰹のように動いたドアから反射的に身を離し、何事も無かったかのように人間の姿勢に戻って、車内に入ってきた。
 かっこつけてるけど、ものすごくかっこわるい!
 その男はサングラスを掛けてたんだけど、さっきの衝撃で少し曲がってしまったらしく必死でその歪みを修整しようとしている。
 そうしてサングラスを外すタイミングで、彼の顔が見えて驚いた。
 私の驚きはよそに、男は私とは大分離れた座席の真ん中に座る。普通誰も乗っていなかったら端っこに座ってしまうのが人の性だけど、その人は例外のようだった。
 やっと歪みを直したサングラスをかけた彼は、車両の中をぐるっと見回した。
 そして、端に座っている私と目が合った。
 「今の、見てました?」
 離れた位置にいるのに、男はそう大声で聞いてきた。二人しかいない状態だからこそできることだ。
 見ているも何も、凝視してましたよ。
 「……ええ、まあ」
 「すいませんでしたね」
 「いや、まあ」
 こっちは謝られるような被害は何一つない。むしろ私の方が、こんな現場を目撃してしまって申し訳ありませんでした、と言いたいぐらいだ。
 「そっちに行っても、いいですか?」
 「え?」
 いきなりの提案に面食らう暇もなく、彼は立ち上がり、すたすたとこちらに歩いてくる。そしてそのまま、私の座席と、一人分ほどの間を開けて腰を下ろした。
 まだ、次の駅には着かない。
 「今からお帰りですか?」
 「はい、そうですね」
 「明日は、お仕事ですか?」
 「はい、そうですね」私はロボットのように同じ返答を反復する。何故か、実家で昔飼っていた出目金を思い出す。
 「恥ずかしいところをお見せしてしまいましたが……」彼は一瞬だけこちらから顔の向きを外して、またこちらに向き直す。「恥ずかしいついでに、少しあなたとお話ししても構いませんでしょうか?」
 「ええ……」もう既に話はしているじゃないか、と思いながらも、頷く。
 彼は上下ともに、ぴったりとした服装だった。サングラスとキャップを被り、無地の五分丈シャツの下には千鳥格子の細めの茶パンツ。皮のスニーカを履いている。
 「今日は、どちらへお出かけだったんですか?」
 「いや、ライブに……」
 「ライブ?音楽ですか?」
 「そうですね……」私は下を向いた。
 そして、意を決して、彼を真っ直ぐ見つめて答えた。
 「今日はあなたのライブに行ってました、小石川尽さん」

4.8.0 4D-WC

4.8.0

 閑散とした、まだ眠る早朝の永田町。だだ広い道路を、東川莉子はタクシーで進む。
 かなりの飲酒量だった筈だが、不思議と二日酔いにはなっていない。酒への耐性が増したのか、無意識に抑えていたのか、それとも、二日酔いを凌駕するほどの緊張からか。
 どれも、正解のような気がする。
 赤坂のホテルのエントランスで降ろして貰い、そのままロビーへと入る。折り目正しいベルボーイが音もなく近寄ってきたが、莉子が微笑むとそのままお辞儀をして、「いらっしゃいませ」とだけ言った。
 フロントで号室を告げ、念の為に名刺も見せる。少々お待ち下さい、という返答の後、タキシードの男は受話器を取って何処かに電話を掛けた。程なくして、スマイルと共にエレベータホールの場所を案内される。怪しい者ではないと証明されたらしかった。
 自分が呼び出された理由を、莉子は回転の鈍い頭脳を使い考える。
 灘慶次郎は一緒には来ない、と、昨晩飲んでいる最中に彼から告げられた。正確には、「僕はね、行きませんからねぇ、今畑先生に来るな、って言われちゃったんで」と呂律の回らない状態で呟いただけだったが。
 自分だけに関わる内容だとすれば、やはり、里緒奈お嬢様のことだろう。これまでの進捗は一度報告済みではあるが、直接にやり取りしてはいないので、詳しい話を聞きたいか、若しくは疑問点などが在るのかも知れない。
 長い廊下を進み、メモを確認しながら、該当する部屋番号を探す。発見したドアをノックすると、数秒経ってから静かに、ドアが外側に開く。
 「先生、莉子です」
 「おお、東川さんか」
 「え?」
 それは、今畑籐吉の声ではなかった。
 咄嗟に状況を把握しようと、考えるより先に身体が後ずさっていた。
 「驚いたかね」そんな莉子の心中を見透かすように、声の主は含み笑う。「とにかく、入りなさい。今畑先生は中にいらっしゃるよ」
 「酒々井(しすい)会長!ご無沙汰しております」
 自らの名前を冠する巨大商社、酒々井グループの現会長、酒々井英慈(しすいえいじ)である。随分と久し振りだったが、強烈な眼力は一度会えばなかなか忘れることができないほどだ。
 なぜ彼が、今畑籐吉の部屋に?という疑問を発する暇もなく、莉子はそのまま部屋の中に迎え入れられる。てっきり、今畑と二人だけで話すことになることを予測していただけに、情けないことだが戸惑いが隠しきれない。
 部屋は、さほど広くない。今畑にしては、これも珍しい。
 そもそも、この部屋を押さえたのは誰だろう。
 「莉子、来たか」
 掠れたその声に、莉子は反射的に微笑む。「先生、お早う御座います」
 「さ、座って下さい」少し前を歩いていた酒々井がソファを手で指し示す。
 中央のローテーブルを囲むように、上座に今畑、硝子張りの窓際に酒々井、壁際に莉子という配置になる。
 「酒々井さんとは少し相談してたんだが」今畑は突き出た腹を潰すように前に屈む姿勢になり、莉子を真っ直ぐ見る。「里緒奈のことだ」
 「はい」
 予想通りだった。
 ここまでは。
 「もう、探さなくても良い」
 口調を変化させず、今畑は言った。
 その意味を、莉子が把握できるまでに数秒が掛かった。次に、今畑の表情を確認したが、彼は眉一つ動かさなかった。助けを求めるように酒々井の方を向くが、今度はやけに優しい、作られた微笑みが得られただけだった。
 「……見つかったのでしょうか、里緒奈お嬢様が」
 「そういうわけではない」今畑は苦しそうに一つ息を吐くと、背中をソファに預ける。「もう良いんだ、莉子」
 「里緒奈お嬢様を心配する者として、私もその理由が知りたいです」
 説明が、省かれすぎている。
 しかも、酒々井会長は、その理由を知っているような様子ではないか。
 彼に言えて、私に言えないことがあるのか。
 私の存在は、そんなものなのか。
 いや、違う。
 そういう問題ではない。
 落ち着け。
 「これは、苦渋の決断なのですよ、東川さん。聡明なあなたなら、必ず分かって頂けると思うのですがね……」酒々井は微笑みを崩さぬまま、何度も頷く。「勿論、今畑先生もお嬢様が心配なのに変わりはないんです、しかし、この件は、なかなかどうして、複雑になってしまった」
 「その詳細は、教えて頂けないのでしょうか」
 その質問に答えたのは、今畑籐吉だった。
 「莉子、お前の気持ちは、よく分かる。私も、ずっと悩んで、決めたことだ。理由がお前に伝えられないのも、とても辛い。里緒奈を諦めたのでは、ない。今は、耐えるべき時なんだ」
 本当に悲しそうな今畑の表情を見ていると、不思議と冷静さが戻ってくる。
 今畑籐吉ほどの実力者が、口を封じられる、その相手の存在が気になった。
 同じ党の人間ならば、指で数えられるほどしか残っていない。
 政治畑ではないのなら、候補は多少増えるが、それでも日本屈指の権力者ばかりだ。
 それとも、国家権力?
 それとも、去年の事件のような、カルトな集団からの脅迫?
 駄目だ。
 考えていても、埒が開かない。
 「わかりました、先生。私も一緒に、耐えます」
 今畑は、何も答えなかった。
 「流石、東川さん、あなたなら、必ずそう答えて頂けると思っていましたよ」酒々井は一人、にこにこと、安堵した表情で頷き続けている。「何、調査の中断は、それほど長くはないとは思います。然るべき時期が来れば、里緒奈お嬢様の消息を再び探せるようになります。然るべき、その時期が来れば」
 その言葉の後、漸く、部屋に沈黙が訪れた。
 三人の視線は、全く絡み合わなかった。