あじさい 1
1
帰り道、紫陽花が枯れているのに気が付いた。
重厚な門構えとは対照的に、屋敷の外観に彩りを添える花々。表札の漢字すら読めないその大邸宅は、自宅とバイト先の中間を過ぎた場所にある。梅雨入りして以来、毎日その横を通り過ぎていたものの、自分が紫陽花を知らぬ間に愛でていたのに悟らされたのは、つい先程のことだった。
枯れてみて、初めて花の美しさを知る、か。
感傷に浸る暇もなく、後ろから軽いクラクション。振り向けば、黄色い大きなバスが近くまで迫っていた。ヘッドライトの近く、正面に描いてある顔が不気味だったが、ひとまずは狭い路地の端にへばり付くようにして交通弱者は道を譲る。
通り過ぎるバス横の窓からは、大勢のこどもたちが自分を見下ろしている。中には指を差して何か言ってる輩も居る。見世物小屋か。
太陽は既に高く昇り、多くが通学・出勤に充てるこの時間、自分は反対に帰宅途中である。健全な皆様が健全な生活サイクルを送るため、深夜から夜が明けるまでの時間帯を労働に費やしているわけである。尤も、健全な方々が自分の客になることは滅多にないが。
バイト先から自宅までの復路は、ゆっくり歩いても、十分かからない。自転車は今の家に駐輪場がないので、持っていない。もしあっても、比較的路地が細いのできっと常用できないだろう。実家に寄生していた時なら乗っていた大型バイクも、今頃、埃を被っているに違いない。
マンションに到着して、ポストをチェックする。風俗店からのお誘いが何枚かと、地域サークルの手作り感溢れる日報を、消化器横のゴミ箱に無造作に投げ捨てて、その勢いのままエレベータのボタンを押す。オートロックなどという無駄な機構は、ここにはない。
通常ならスーツ姿の方々と擦れ違うところだが、今日はぎこちない会釈も使わず、無事に玄関に辿り着く。脱ぎ捨てた靴もそのまま、レジ袋を床に小さなテーブルに置き、その格好のまま寝転がる。
部屋を薄暗く演出するカーテンも、この時間の日光には圧され気味だ。熱気に負け、床に投げ出してあったエアコンのリモコンを手に取り、一瞬躊躇った後、電源を入れる。電気代を気にしている場合ではない。
緩慢な初期動作の後、備え付けの冷房器具が動き出す。
それを合図に立ち上がり、喉の渇きを潤すため、冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出し、グラスに注き、一気に飲み干す。そのままもう一杯、注ぎ足してテーブルに置く。
夏、か。
ぼんやりと、そんなことを、想う。
もう、一年も経ったのか。
端的に、去年の自分は、別人だった。入社一年目に鳴り物入りで取得した社長奨励賞を皮切りに、社内評価は鰻登り。会社と自分との相性が奇跡的に良かったという理由もあり、多くの部下、尊敬できる上司と一緒に実績を積み上げていった。「社畜」と揶揄されるのも意に介さなかった。様々な人々との出会い、関係作り。
しかし、何かが崩れるのには、それを作り上げるほどの出来事は必要ない。指で突いたトランプタワーが、パタパタと静かに頂点から折り畳まれていくかの如く、淡々と、着実に、幸せは消えていった。
結果、一人の大切な女性が、自分の前から姿を消した。
それが、三十路を迎えた、去年の夏休み前のことだった。
帰り道、紫陽花が枯れているのに気が付いた。
重厚な門構えとは対照的に、屋敷の外観に彩りを添える花々。表札の漢字すら読めないその大邸宅は、自宅とバイト先の中間を過ぎた場所にある。梅雨入りして以来、毎日その横を通り過ぎていたものの、自分が紫陽花を知らぬ間に愛でていたのに悟らされたのは、つい先程のことだった。
枯れてみて、初めて花の美しさを知る、か。
感傷に浸る暇もなく、後ろから軽いクラクション。振り向けば、黄色い大きなバスが近くまで迫っていた。ヘッドライトの近く、正面に描いてある顔が不気味だったが、ひとまずは狭い路地の端にへばり付くようにして交通弱者は道を譲る。
通り過ぎるバス横の窓からは、大勢のこどもたちが自分を見下ろしている。中には指を差して何か言ってる輩も居る。見世物小屋か。
太陽は既に高く昇り、多くが通学・出勤に充てるこの時間、自分は反対に帰宅途中である。健全な皆様が健全な生活サイクルを送るため、深夜から夜が明けるまでの時間帯を労働に費やしているわけである。尤も、健全な方々が自分の客になることは滅多にないが。
バイト先から自宅までの復路は、ゆっくり歩いても、十分かからない。自転車は今の家に駐輪場がないので、持っていない。もしあっても、比較的路地が細いのできっと常用できないだろう。実家に寄生していた時なら乗っていた大型バイクも、今頃、埃を被っているに違いない。
マンションに到着して、ポストをチェックする。風俗店からのお誘いが何枚かと、地域サークルの手作り感溢れる日報を、消化器横のゴミ箱に無造作に投げ捨てて、その勢いのままエレベータのボタンを押す。オートロックなどという無駄な機構は、ここにはない。
通常ならスーツ姿の方々と擦れ違うところだが、今日はぎこちない会釈も使わず、無事に玄関に辿り着く。脱ぎ捨てた靴もそのまま、レジ袋を床に小さなテーブルに置き、その格好のまま寝転がる。
部屋を薄暗く演出するカーテンも、この時間の日光には圧され気味だ。熱気に負け、床に投げ出してあったエアコンのリモコンを手に取り、一瞬躊躇った後、電源を入れる。電気代を気にしている場合ではない。
緩慢な初期動作の後、備え付けの冷房器具が動き出す。
それを合図に立ち上がり、喉の渇きを潤すため、冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出し、グラスに注き、一気に飲み干す。そのままもう一杯、注ぎ足してテーブルに置く。
夏、か。
ぼんやりと、そんなことを、想う。
もう、一年も経ったのか。
端的に、去年の自分は、別人だった。入社一年目に鳴り物入りで取得した社長奨励賞を皮切りに、社内評価は鰻登り。会社と自分との相性が奇跡的に良かったという理由もあり、多くの部下、尊敬できる上司と一緒に実績を積み上げていった。「社畜」と揶揄されるのも意に介さなかった。様々な人々との出会い、関係作り。
しかし、何かが崩れるのには、それを作り上げるほどの出来事は必要ない。指で突いたトランプタワーが、パタパタと静かに頂点から折り畳まれていくかの如く、淡々と、着実に、幸せは消えていった。
結果、一人の大切な女性が、自分の前から姿を消した。
それが、三十路を迎えた、去年の夏休み前のことだった。
静かな海 1
1
青白い光が滲み、私を包み、その刹那、闇が蘇る。
光量の変化に瞳が慣れてきた頃、自分の身体が、道路の真ん中に佇んでいるのに気が付く。
国道だろうか、片側二車線、街灯が定期的にアスファルトと道路標識を頼りなげに照らし出す。
自分の身体は、中央分離帯の中に居た。
何故、こんな場所に?
しん、とした闇が、無言でその問いを押し流す。
さっきの光は乗用車のハイビームだったのだろう。目覚ましにしては刺激が強すぎる。
記憶を、手繰る。
覚えているのは、海の記憶。
汽笛、そして穏やかな並みの周期。
吸い込まれそうな水平線。
嗚呼、声が聞こえる。
「あなたは、何も分かってない」
強めの口調、女性だ。つまり、自分の声ではない。
それは、誰だ?
一度、地面に座り直す。胡座をかいてみる。
思い出せ。
それは誰だったのか。
「私のことなんかちっとも見てくれないじゃない」
懐かしい声。よく知っているはずの。ヒステリックな。
目を瞑り思考に集中するが、頭痛がそれを遮ろうとする。
「黙ってないで答えなさいよ」
厳しく責め立てる、その女性。
記憶が遂に開かれる。
美紗だ。
自分の、恋人だ。
そこで再度、目映さ故、視界を光に包まれる。右側の車線を車が走っているのだ。なかなか光の量が減らないと思っていたら、その車は徐々に減速し、自分の横で動きを止めた。驚いて車の方を見たものの、全く車の様子は分からない。
「ーーおい」男の声がした。
「はい」自分の声が出た。こんな声だったのか、と驚く。
「こんな場所で、何してるんだ」
それはこっちが知りたい、と答えるわけにもいかない。暫く黙っていると、相手は突然声を張り上げた。「警察だ、ちょっと聞きたいことがあるから、乗れ」
「え?」
既に自分は二人の警官に対峙していた。声の主とは別の人間だ。
無言で警官は自分の身体を抱え上げるようにして引っ張っていく。抵抗の暇もない。
両側を警官に挟まれる形で、後部座席に大型荷物のように詰め込まれる。
車は発車しない。ラジオもかかっていない。暖房も効いていない。
そして、舞台のスポットライトみたく、車内のライトが点灯する。
運転席の男が、振り返りこちらを睨んでいた。
「お前、シモザワアキヒトだな」さっき聞いた、低いトーンの発声。
「いや、違います」
自分の名前は、そんな名前じゃない。
しかし、こちらの返事を無視して相手は続ける。
「警察だ」そう念を押した。
「はい」
「いいか、よく聴けよ」相手は折り畳まれた白い紙を広げ、自分に見えるように両手で広げた。
「お前の逮捕状が出た。シモザワアキヒト、殺人、及び死体遺棄の容疑で逮捕するからな、いいな」
二の句が継げず、喉の水分が一気に飛んでいくのを感じる。
「いいな、お前は、サエグサミサを殺したんだ」
相手はそう言うと、前に向き直し、小さな無線機で、事務的に報告した。
「こちら有馬、ヒトマルヒトサン、シモザワアキヒト、逮捕、どうぞ」
青白い光が滲み、私を包み、その刹那、闇が蘇る。
光量の変化に瞳が慣れてきた頃、自分の身体が、道路の真ん中に佇んでいるのに気が付く。
国道だろうか、片側二車線、街灯が定期的にアスファルトと道路標識を頼りなげに照らし出す。
自分の身体は、中央分離帯の中に居た。
何故、こんな場所に?
しん、とした闇が、無言でその問いを押し流す。
さっきの光は乗用車のハイビームだったのだろう。目覚ましにしては刺激が強すぎる。
記憶を、手繰る。
覚えているのは、海の記憶。
汽笛、そして穏やかな並みの周期。
吸い込まれそうな水平線。
嗚呼、声が聞こえる。
「あなたは、何も分かってない」
強めの口調、女性だ。つまり、自分の声ではない。
それは、誰だ?
一度、地面に座り直す。胡座をかいてみる。
思い出せ。
それは誰だったのか。
「私のことなんかちっとも見てくれないじゃない」
懐かしい声。よく知っているはずの。ヒステリックな。
目を瞑り思考に集中するが、頭痛がそれを遮ろうとする。
「黙ってないで答えなさいよ」
厳しく責め立てる、その女性。
記憶が遂に開かれる。
美紗だ。
自分の、恋人だ。
そこで再度、目映さ故、視界を光に包まれる。右側の車線を車が走っているのだ。なかなか光の量が減らないと思っていたら、その車は徐々に減速し、自分の横で動きを止めた。驚いて車の方を見たものの、全く車の様子は分からない。
「ーーおい」男の声がした。
「はい」自分の声が出た。こんな声だったのか、と驚く。
「こんな場所で、何してるんだ」
それはこっちが知りたい、と答えるわけにもいかない。暫く黙っていると、相手は突然声を張り上げた。「警察だ、ちょっと聞きたいことがあるから、乗れ」
「え?」
既に自分は二人の警官に対峙していた。声の主とは別の人間だ。
無言で警官は自分の身体を抱え上げるようにして引っ張っていく。抵抗の暇もない。
両側を警官に挟まれる形で、後部座席に大型荷物のように詰め込まれる。
車は発車しない。ラジオもかかっていない。暖房も効いていない。
そして、舞台のスポットライトみたく、車内のライトが点灯する。
運転席の男が、振り返りこちらを睨んでいた。
「お前、シモザワアキヒトだな」さっき聞いた、低いトーンの発声。
「いや、違います」
自分の名前は、そんな名前じゃない。
しかし、こちらの返事を無視して相手は続ける。
「警察だ」そう念を押した。
「はい」
「いいか、よく聴けよ」相手は折り畳まれた白い紙を広げ、自分に見えるように両手で広げた。
「お前の逮捕状が出た。シモザワアキヒト、殺人、及び死体遺棄の容疑で逮捕するからな、いいな」
二の句が継げず、喉の水分が一気に飛んでいくのを感じる。
「いいな、お前は、サエグサミサを殺したんだ」
相手はそう言うと、前に向き直し、小さな無線機で、事務的に報告した。
「こちら有馬、ヒトマルヒトサン、シモザワアキヒト、逮捕、どうぞ」
INDEX 4D Series
四次元オープンシークレット (略式名 4D-OS)
1.0
2.0
3.0
4.0
to be continued..., please wait a little.
四次元ホイップクリーム (略式名 4D-WC)
目次です。
chapter 0
0.0.0
chapter 1
1.0.0
1.1.0
1.2.0
1.3.0
1.4.0
1.5.0
1.6.0
1.7.0
1.8.0
1.9.0
chapter 2
2.0.0 / 2.0.1
2.1.0
2.2.0 / 2.2.1
2.3.0
2.4.0
2.5.0
2.6.0 / 2.6.1
2.7.0
2.8.0 / 2.8.1 / 2.8.2
2.9.0
chapter 3
3.0.0 / 3.0.1
3.1.0 / 3.1.1
3.2.0
3.3.0
3.4.0
3.5.0
3.6.0
3.7.0
3.8.0 / 3.8.1 / 3.8.2
3.9.0 / 3.9.1
chapter 4
4.0.0 / 4.0.1
4.1.0 / 4.1.1
4.2.0 / 4.2.1
4.3.0
4.4.0
4.5.0
4.6.0
4.7.0
4.8.0
4.9.0
chapter 5
5.0.0
5.1.0
5.2.0
5.3.0
5.4.0
5.5.0
5.6.0 / 5.6.1
5.7.0 / 5.7.1
5.8.0
5.9.0
now 5.9.1 writing...sorry, please wait a little.
1.0
2.0
3.0
4.0
to be continued..., please wait a little.
四次元ホイップクリーム (略式名 4D-WC)
目次です。
chapter 0
0.0.0
chapter 1
1.0.0
1.1.0
1.2.0
1.3.0
1.4.0
1.5.0
1.6.0
1.7.0
1.8.0
1.9.0
chapter 2
2.0.0 / 2.0.1
2.1.0
2.2.0 / 2.2.1
2.3.0
2.4.0
2.5.0
2.6.0 / 2.6.1
2.7.0
2.8.0 / 2.8.1 / 2.8.2
2.9.0
chapter 3
3.0.0 / 3.0.1
3.1.0 / 3.1.1
3.2.0
3.3.0
3.4.0
3.5.0
3.6.0
3.7.0
3.8.0 / 3.8.1 / 3.8.2
3.9.0 / 3.9.1
chapter 4
4.0.0 / 4.0.1
4.1.0 / 4.1.1
4.2.0 / 4.2.1
4.3.0
4.4.0
4.5.0
4.6.0
4.7.0
4.8.0
4.9.0
chapter 5
5.0.0
5.1.0
5.2.0
5.3.0
5.4.0
5.5.0
5.6.0 / 5.6.1
5.7.0 / 5.7.1
5.8.0
5.9.0
now 5.9.1 writing...sorry, please wait a little.
5.9.0 4D-WC
5.9.0
堂山は、警視庁で俵田の運転するパトカーを降りた後、都営地下鉄を使ってT大まで急いだ。
恐らくは重要な証拠であるエレベータ内の監視カメラの映像も含め、パトカーが大量の荷物を載せた状態だったという理由もあるが、それ以上に、自分でT大まで地下鉄に乗る経験がしたかった。公安が実施した大規模な交通規制、その正体に近付く為だ。
ただ、その行動で何かが判明するという確固たる根拠はなく、言わば、刑事の勘である。地下鉄の車両の中は随分と暖房が効いていて、遅い初詣に向かう途中なのか和装の人間も多い。普段と大差ない年明けの風景を眺めている内に、あっという間に乗換駅に到着してしまった。
公安が追っていた男が、「トクジ」の小石川部長の車から発見された。
従って、結論だけ言えば、あの大規模な交通規制は無意味だったわけだ。
今頃、公安は地団駄を踏んでいるのに違いない。
目的の駅の、アナウンス。
堂山は人の塊の一部となり、電車から吐き出される。同時に降りたのは、年齢的に十代が半分、二十代前半が半分ほどか。やはり学生だろう。
T大生の思考など全く分からないが、エリートという人種は常に違う場所を見ている気がして、いけすかない。その内の一人は、公安の稲坂である。
地下鉄のエスカレータを上がり、最も大きな改札口を通る。
地上は既に従来の風景を取り戻していた。交通量、周囲を歩く人の流れ。交通規制があったとは全く感じさせない。「場」の空気を読むのが人間なら、「場」を作るのもまた、人間の意識に他ならない。
しかし、国立情報学研究センターだけは、やはりまだ事件の香りを色濃く残していた。センターの脇に見えるだけで三台のパトカー、入口に立つ、制服姿の警官。勿論、自らの命令でこの体勢を敷いているとは言え、他の場所からは確実に浮き上がって見える。
入口のロビーから、すぐに事務室に向かう。幸運にも、事件の第一発見者の佐山大治がいた。
「ご苦労様でございます」丁重に佐山は頭を下げる。
「すいませんね、連日」
「いえいえ」
「単刀直入で済まないが、佐山さん」
「はい?」
「エレベータの中にも、エレベータロックのレバーがあるの、ご存じですかね」
堂山は、警視庁で俵田の運転するパトカーを降りた後、都営地下鉄を使ってT大まで急いだ。
恐らくは重要な証拠であるエレベータ内の監視カメラの映像も含め、パトカーが大量の荷物を載せた状態だったという理由もあるが、それ以上に、自分でT大まで地下鉄に乗る経験がしたかった。公安が実施した大規模な交通規制、その正体に近付く為だ。
ただ、その行動で何かが判明するという確固たる根拠はなく、言わば、刑事の勘である。地下鉄の車両の中は随分と暖房が効いていて、遅い初詣に向かう途中なのか和装の人間も多い。普段と大差ない年明けの風景を眺めている内に、あっという間に乗換駅に到着してしまった。
公安が追っていた男が、「トクジ」の小石川部長の車から発見された。
従って、結論だけ言えば、あの大規模な交通規制は無意味だったわけだ。
今頃、公安は地団駄を踏んでいるのに違いない。
目的の駅の、アナウンス。
堂山は人の塊の一部となり、電車から吐き出される。同時に降りたのは、年齢的に十代が半分、二十代前半が半分ほどか。やはり学生だろう。
T大生の思考など全く分からないが、エリートという人種は常に違う場所を見ている気がして、いけすかない。その内の一人は、公安の稲坂である。
地下鉄のエスカレータを上がり、最も大きな改札口を通る。
地上は既に従来の風景を取り戻していた。交通量、周囲を歩く人の流れ。交通規制があったとは全く感じさせない。「場」の空気を読むのが人間なら、「場」を作るのもまた、人間の意識に他ならない。
しかし、国立情報学研究センターだけは、やはりまだ事件の香りを色濃く残していた。センターの脇に見えるだけで三台のパトカー、入口に立つ、制服姿の警官。勿論、自らの命令でこの体勢を敷いているとは言え、他の場所からは確実に浮き上がって見える。
入口のロビーから、すぐに事務室に向かう。幸運にも、事件の第一発見者の佐山大治がいた。
「ご苦労様でございます」丁重に佐山は頭を下げる。
「すいませんね、連日」
「いえいえ」
「単刀直入で済まないが、佐山さん」
「はい?」
「エレベータの中にも、エレベータロックのレバーがあるの、ご存じですかね」
4.0 4D-OS
4.0
それでも、お礼のメールを送るぐらいはいいだろうという甘い考えがよぎり、その考えに忠実に従い、忠実にメールを送ることにした。たまにはメールに忠誠を誓うというのも乙なものである。
「さきほどはすいませんでした。突然のことで驚いてしまったというのが本音です。そんなことはありえないのかもしれませんが、もしそういう機会があるならば、お食事ぐらいならご一緒させて頂きたいです」
ここまで入力して、そのまま送信するのをためらう。
まず、文章がクドいな、いちいち。
あと、お食事「ぐらいなら」っていうのがどうにも上から目線な気がする。相手は言わば有名人なのである。こんな生意気な文章を見たらそれこそ怒って会ってくれなくなるかもしれないじゃないか。
ということで少しだけ修正して、でも結局、面倒になって送信。
一体どっちなんだ。
でも、さすがにすぐには返信が来なかった。ってそりゃそうだよ。タクシーに乗ってる途中だろうし、他にも色々忙しいだろうから。
何というか、変に切ない。
自宅は、地下鉄の駅からは十五分ぐらいの距離だ。それなのに、いつまで経っても家に着かない。いつもの道を通っているのに、長く感じる。同じ道をループしていたら、それこそ夢遊病者だ。実際夢を見ている方がまだましだ。いや、これは夢かも知れない。夢から醒めた夢かも知れない。もう自分の思考の内容に付いていけていない。
適度な疲労感のせいだと信じる力で、私はやっと自宅にワープできた。珍しく念入りなメイクを落として、そのまま加速度を付けてシャワーを浴びる。
シャワーから出たらすぐに携帯電話を見たけど、着信もメールもない。化粧という仮面と一緒に、さっきの出来事も剥がれ落ちてしまったようにさっぱりしてしまった。さっきまでの切なさよりも、今は睡眠欲が強い。
そして、メールの着信音。
余りに驚きすぎて発電できるかと思った。
恐る恐る覗くその相手。
おおお。信じたいような信じたくないようなお話。
尽様。
私はバスタオルも毛穴すっきりパックも忘れてその小さなディスプレイにかぶりつく。
「さっきは本当にすいませんでした。今、帰って来ました。メールくれて、嬉しいです。早速ですが、明日はお暇ですか?お酒を飲もうとは言いません。軽くコーヒーでも飲みながら今日のお詫びをさせて下さい」
「はい!」メールに大声で返事してしまった。しかも夜遅く。ごめんよ隣人。
その後はめくるめくデコメールの応酬、というわけには当然いかず、お誘いメールにOKを出して、こちらから会う場所を提案した。とは言ってもこっちの都合が良い職場近くのレストランである。一応、高層ビルの最上階にあるところを選んだ。夜中にインターネットで見つけた場所で、割引クーポンを印刷して持って行こうか真剣に悩んだ挙句断念。最初から奢って貰うことを期待して行くのは流石に無神経かと思いつつ、でもその可能性が高いよなあ、などと妄想してしまう。
しかし、そして、だけれども、
妄想って、それだけで、楽しい。
眠るのが、ほんとにもったいない。
だって、妄想だったら、何でも叶うんだよ?
あれ?それって、夢でも同じじゃないの?
とか考えてたら、寝てました。はい。
それでも、お礼のメールを送るぐらいはいいだろうという甘い考えがよぎり、その考えに忠実に従い、忠実にメールを送ることにした。たまにはメールに忠誠を誓うというのも乙なものである。
「さきほどはすいませんでした。突然のことで驚いてしまったというのが本音です。そんなことはありえないのかもしれませんが、もしそういう機会があるならば、お食事ぐらいならご一緒させて頂きたいです」
ここまで入力して、そのまま送信するのをためらう。
まず、文章がクドいな、いちいち。
あと、お食事「ぐらいなら」っていうのがどうにも上から目線な気がする。相手は言わば有名人なのである。こんな生意気な文章を見たらそれこそ怒って会ってくれなくなるかもしれないじゃないか。
ということで少しだけ修正して、でも結局、面倒になって送信。
一体どっちなんだ。
でも、さすがにすぐには返信が来なかった。ってそりゃそうだよ。タクシーに乗ってる途中だろうし、他にも色々忙しいだろうから。
何というか、変に切ない。
自宅は、地下鉄の駅からは十五分ぐらいの距離だ。それなのに、いつまで経っても家に着かない。いつもの道を通っているのに、長く感じる。同じ道をループしていたら、それこそ夢遊病者だ。実際夢を見ている方がまだましだ。いや、これは夢かも知れない。夢から醒めた夢かも知れない。もう自分の思考の内容に付いていけていない。
適度な疲労感のせいだと信じる力で、私はやっと自宅にワープできた。珍しく念入りなメイクを落として、そのまま加速度を付けてシャワーを浴びる。
シャワーから出たらすぐに携帯電話を見たけど、着信もメールもない。化粧という仮面と一緒に、さっきの出来事も剥がれ落ちてしまったようにさっぱりしてしまった。さっきまでの切なさよりも、今は睡眠欲が強い。
そして、メールの着信音。
余りに驚きすぎて発電できるかと思った。
恐る恐る覗くその相手。
おおお。信じたいような信じたくないようなお話。
尽様。
私はバスタオルも毛穴すっきりパックも忘れてその小さなディスプレイにかぶりつく。
「さっきは本当にすいませんでした。今、帰って来ました。メールくれて、嬉しいです。早速ですが、明日はお暇ですか?お酒を飲もうとは言いません。軽くコーヒーでも飲みながら今日のお詫びをさせて下さい」
「はい!」メールに大声で返事してしまった。しかも夜遅く。ごめんよ隣人。
その後はめくるめくデコメールの応酬、というわけには当然いかず、お誘いメールにOKを出して、こちらから会う場所を提案した。とは言ってもこっちの都合が良い職場近くのレストランである。一応、高層ビルの最上階にあるところを選んだ。夜中にインターネットで見つけた場所で、割引クーポンを印刷して持って行こうか真剣に悩んだ挙句断念。最初から奢って貰うことを期待して行くのは流石に無神経かと思いつつ、でもその可能性が高いよなあ、などと妄想してしまう。
しかし、そして、だけれども、
妄想って、それだけで、楽しい。
眠るのが、ほんとにもったいない。
だって、妄想だったら、何でも叶うんだよ?
あれ?それって、夢でも同じじゃないの?
とか考えてたら、寝てました。はい。
5.8.0 4D-WC
5.8.0
俵田秀平(たわらだしゅうへい)がブレーキを踏むと、パトカーはボディの後部を引きずるように停止した。ダッシュボードの時計はは昼過ぎ、十二時半を指している。
往路は二十分程の気軽なドライブだったが、聴き込み終了後から警視庁到着までは一時間以上経過している。
渋滞に巻き込まれたのではない。エレベータ会社から押収した資料を全て運ぶのに多大な時間が掛かったのである。結果、俵田にとって年明け後、最も重い肉体労働となった。
「警部、到着しました」
「おお、悪いな」
その言葉とは裏腹に、上司である堂山は資料運搬を一切手伝ってくれなかった。噂通りの傍若無人振りである。
堂山はパトカーを降りると、振り向きもせず地下駐車場の出口へと立ち去ってしまった。
思わず出る、溜息。
安堵のせいか、疲労のせいか、若しくは、諦めのせいか。
俵田が堂山の部下になってからは、大体、四年ほどが経つ。
指示は素早く簡潔、行動力もある。最初はその点が頼もしかったが、やはり人間誰しも、長所は裏返せば欠点になり得る。部下が受けるプレッシャは、その分半端ではない。
また、最も困るのは、その考えや感情が読めないことである。嫌いな人間でも必要とあれば仲良くするようだし、一方では出世に響きそうなものなのに、明らかな怒りを上層部に向けたりもする。豪快な外見や行動とは別の顔を持っているような気がして、俵田はいまいち心を開けずにいた。
しかし、今回の事件では、少し堂山の様子がおかしいな、と感じることが多い。
それは特殊事案調査室、通称「トクジ」と呼ばれる部隊に関してだ。
最初にその名前を耳にした時は、トッコウーー特別高等警察の類かと思ったが、どうやらその成員は殆どが元々捜査一課に在籍していた人間のようであり、実際にも、一課の様々な事件に顔を出しているようだ。
「トクジ」がどういう役割で動いているのかは全く判然としないが、少なくとも、彼らを目の前にした時の堂山の態度は、通常と違うように見える。明確な感情は相変わらず見い出せないものの、「トクジ」を意識しているのは、間違いない。しかし他の人間では、そのことすら分からないだろう。四年間一緒に仕事をしてきて、漸く気付けるかどうか、というレベルの変化である。
先程の聞き込みを横で聞く限り、堂山は、国立情報学研究センターのエレベータに強い関心を抱いている。殺害現場がエレベータホール、そしてその中から被害者が使用していたと思しき車椅子が発見されたことからも、その関心は当然だ。ところが彼の関心は更にその先、設計図に描かれていた、エレベータ内のレバーにあるようだった。セキュリティに関する事項である、とはエレベータ会社の社長の弁だったが、詳細は一聴しただけでは理解できなかった。
俵田は遅まきながら、サイドブレーキを引き、車のキーを抜く。
静寂を取り戻す、コンクリートの地下空間。
続けて、コンコン、というノックの音。
驚いて助手席側に振り向くと、そこにあるのは、元上司の顔だった。
俵田は急いでパトカーを降り、まずは一礼する。
「御苦労様です」
「そんなの、いらんよ。もうお前の上司でも何でもないんだからよ」
優しく張りのある声が、地下駐車場に反響する。
「いえ、滅相もないです、石巻さん」
「丁度良い、タワラダ、今からちょっと時間、あるか?」
石巻慎治巡査部長はそう言って、微笑んだ。
俵田秀平(たわらだしゅうへい)がブレーキを踏むと、パトカーはボディの後部を引きずるように停止した。ダッシュボードの時計はは昼過ぎ、十二時半を指している。
往路は二十分程の気軽なドライブだったが、聴き込み終了後から警視庁到着までは一時間以上経過している。
渋滞に巻き込まれたのではない。エレベータ会社から押収した資料を全て運ぶのに多大な時間が掛かったのである。結果、俵田にとって年明け後、最も重い肉体労働となった。
「警部、到着しました」
「おお、悪いな」
その言葉とは裏腹に、上司である堂山は資料運搬を一切手伝ってくれなかった。噂通りの傍若無人振りである。
堂山はパトカーを降りると、振り向きもせず地下駐車場の出口へと立ち去ってしまった。
思わず出る、溜息。
安堵のせいか、疲労のせいか、若しくは、諦めのせいか。
俵田が堂山の部下になってからは、大体、四年ほどが経つ。
指示は素早く簡潔、行動力もある。最初はその点が頼もしかったが、やはり人間誰しも、長所は裏返せば欠点になり得る。部下が受けるプレッシャは、その分半端ではない。
また、最も困るのは、その考えや感情が読めないことである。嫌いな人間でも必要とあれば仲良くするようだし、一方では出世に響きそうなものなのに、明らかな怒りを上層部に向けたりもする。豪快な外見や行動とは別の顔を持っているような気がして、俵田はいまいち心を開けずにいた。
しかし、今回の事件では、少し堂山の様子がおかしいな、と感じることが多い。
それは特殊事案調査室、通称「トクジ」と呼ばれる部隊に関してだ。
最初にその名前を耳にした時は、トッコウーー特別高等警察の類かと思ったが、どうやらその成員は殆どが元々捜査一課に在籍していた人間のようであり、実際にも、一課の様々な事件に顔を出しているようだ。
「トクジ」がどういう役割で動いているのかは全く判然としないが、少なくとも、彼らを目の前にした時の堂山の態度は、通常と違うように見える。明確な感情は相変わらず見い出せないものの、「トクジ」を意識しているのは、間違いない。しかし他の人間では、そのことすら分からないだろう。四年間一緒に仕事をしてきて、漸く気付けるかどうか、というレベルの変化である。
先程の聞き込みを横で聞く限り、堂山は、国立情報学研究センターのエレベータに強い関心を抱いている。殺害現場がエレベータホール、そしてその中から被害者が使用していたと思しき車椅子が発見されたことからも、その関心は当然だ。ところが彼の関心は更にその先、設計図に描かれていた、エレベータ内のレバーにあるようだった。セキュリティに関する事項である、とはエレベータ会社の社長の弁だったが、詳細は一聴しただけでは理解できなかった。
俵田は遅まきながら、サイドブレーキを引き、車のキーを抜く。
静寂を取り戻す、コンクリートの地下空間。
続けて、コンコン、というノックの音。
驚いて助手席側に振り向くと、そこにあるのは、元上司の顔だった。
俵田は急いでパトカーを降り、まずは一礼する。
「御苦労様です」
「そんなの、いらんよ。もうお前の上司でも何でもないんだからよ」
優しく張りのある声が、地下駐車場に反響する。
「いえ、滅相もないです、石巻さん」
「丁度良い、タワラダ、今からちょっと時間、あるか?」
石巻慎治巡査部長はそう言って、微笑んだ。
5.7.1 4D-WC
5.7.1
最近、よく取調室に入る気がする。
無機質な壁にも、不思議と馴染んできた。
前回は大阪で小野原貞政を捜している時だった、と莉子は思い出す。少なくとも、このような場所が似合うほど、女として品位を下げているつもりは毛頭ないが。
今畑里緒奈の捜索中止を依頼する為、警視庁の入口をくぐったのが、約一時間前。小石川巧との面会を要請するが、彼は外出中で、中で待つように頼まれた。
小石川の連絡先を聞いておけば良かった、とまたしても後悔する。小野原の件と言い、非常時に連絡がつかないのは非常に辛い。進展の具合も、気に懸かる。全く連絡がないので、里緒奈が既に発見されている、ということはないだろうが。
二度目の暖かいお茶が紙コップに入れられ運ばれてきたのと同時に、漸く小石川がドアを開け姿を現した。いつか見た、眞田という男と一緒だった。
「ご無沙汰しております。私を覚えておいででしょうか」
そう言って莉子は深々と頭を下げる。
「勿論です」小石川は直ぐ応じる。「東川莉子さん、ですよね。今日は、どうされましたか」
眞田が折り畳まれていたパイプ椅子を二つ展開し、小石川は莉子の視線を受け止めたまま、そのうちの一つにゆっくりと腰掛ける。
「ええ……例の件の進展は如何でしょうか」
「それが、正直、手詰まりですね」小石川は、そう言って肩を竦める。「もしや、有益な情報をお持ちですか?」
「いえ、実は、急なお話なのですが、調査を中止して頂きたいのです」
「中止?」反復したのは横にいた眞田だった。
その疑問の声に被せるようにして、小石川は顔を顰める。
「東川さん、それは、事情をご説明頂けないと、簡単には承諾致しかねます」
莉子は呼吸を整え、簡潔な言葉を探す。
「答は、率直に、依頼主から直接にそのような要請があったからです」
「直接に?依頼主の方が、調査をやめろと?」小石川の、非対称な眉の位置は動かない。「また突然ですね、何故でしょう?」
「私も、分かりません」素直に首を振ったが、この言動は芝居だという疑念を抱かれているかも知れない、と想像しながら喋る。「聞き返しましたが、理由も、教えて貰えませんでした」
「うーん」と、眞田が唸る。「部長、それだけでは、断るには困るのではないですか」
「そうだな……」小石川は再度、眞田から莉子に向き直る。「実を言いますと、うっすらですが、ご依頼の件に関連しそうな事項は出てきています」
「——そうですか」
やはり、進展はしているのか。
莉子は、喜ぶべきか悲しむべきか、迷った。
「小野原貞政、という人物を、ご存じですか」
そう不意に尋ねた小石川は、射貫くように莉子を見据えていた。
これまで接していて、初めて見る表情だった。
「昨日のT大での事件はニュースなどでご存じかも知れませんね。ともかく、途中経過をご報告致しましょう。——但し」
「但し?」
「この情報を聞いた以上は、東川さん、あなたからももっと詳しいお話を聞かせて頂くことになります。小野原貞政の話も、他の話も。まだ、お話になっていないことが、あるんじゃないですか?」
眞田は上司の前だからか、小石川の横で、何も言わない。
莉子は意識して、ゆっくりと腹から、静かに息を吐く。
「分かりました、情報交換しましょう、小石川先生」
最近、よく取調室に入る気がする。
無機質な壁にも、不思議と馴染んできた。
前回は大阪で小野原貞政を捜している時だった、と莉子は思い出す。少なくとも、このような場所が似合うほど、女として品位を下げているつもりは毛頭ないが。
今畑里緒奈の捜索中止を依頼する為、警視庁の入口をくぐったのが、約一時間前。小石川巧との面会を要請するが、彼は外出中で、中で待つように頼まれた。
小石川の連絡先を聞いておけば良かった、とまたしても後悔する。小野原の件と言い、非常時に連絡がつかないのは非常に辛い。進展の具合も、気に懸かる。全く連絡がないので、里緒奈が既に発見されている、ということはないだろうが。
二度目の暖かいお茶が紙コップに入れられ運ばれてきたのと同時に、漸く小石川がドアを開け姿を現した。いつか見た、眞田という男と一緒だった。
「ご無沙汰しております。私を覚えておいででしょうか」
そう言って莉子は深々と頭を下げる。
「勿論です」小石川は直ぐ応じる。「東川莉子さん、ですよね。今日は、どうされましたか」
眞田が折り畳まれていたパイプ椅子を二つ展開し、小石川は莉子の視線を受け止めたまま、そのうちの一つにゆっくりと腰掛ける。
「ええ……例の件の進展は如何でしょうか」
「それが、正直、手詰まりですね」小石川は、そう言って肩を竦める。「もしや、有益な情報をお持ちですか?」
「いえ、実は、急なお話なのですが、調査を中止して頂きたいのです」
「中止?」反復したのは横にいた眞田だった。
その疑問の声に被せるようにして、小石川は顔を顰める。
「東川さん、それは、事情をご説明頂けないと、簡単には承諾致しかねます」
莉子は呼吸を整え、簡潔な言葉を探す。
「答は、率直に、依頼主から直接にそのような要請があったからです」
「直接に?依頼主の方が、調査をやめろと?」小石川の、非対称な眉の位置は動かない。「また突然ですね、何故でしょう?」
「私も、分かりません」素直に首を振ったが、この言動は芝居だという疑念を抱かれているかも知れない、と想像しながら喋る。「聞き返しましたが、理由も、教えて貰えませんでした」
「うーん」と、眞田が唸る。「部長、それだけでは、断るには困るのではないですか」
「そうだな……」小石川は再度、眞田から莉子に向き直る。「実を言いますと、うっすらですが、ご依頼の件に関連しそうな事項は出てきています」
「——そうですか」
やはり、進展はしているのか。
莉子は、喜ぶべきか悲しむべきか、迷った。
「小野原貞政、という人物を、ご存じですか」
そう不意に尋ねた小石川は、射貫くように莉子を見据えていた。
これまで接していて、初めて見る表情だった。
「昨日のT大での事件はニュースなどでご存じかも知れませんね。ともかく、途中経過をご報告致しましょう。——但し」
「但し?」
「この情報を聞いた以上は、東川さん、あなたからももっと詳しいお話を聞かせて頂くことになります。小野原貞政の話も、他の話も。まだ、お話になっていないことが、あるんじゃないですか?」
眞田は上司の前だからか、小石川の横で、何も言わない。
莉子は意識して、ゆっくりと腹から、静かに息を吐く。
「分かりました、情報交換しましょう、小石川先生」
5.7.0 4D-WC
5.7.0
今畑里緒奈を、もう探さなくても、良い。
その意味を咀嚼しながら、ホテルを後にする。クロークでの男性の上品な挨拶が、何処か遠く感じられた。お車を呼ぶことも可能ですが、という申し出も何とか断れたが、いつもの笑顔ではなかっただろう。
自動ドアが開いた瞬間、冷気が莉子を襲う。それで少し、現実に戻る。
雲は厚く、太陽の光も鈍い。いっそのこと、雨にでも打たれた方が気が楽かも。
そんな思考をするなんて、自分らしくない。
悩んだ末、莉子は事務所に戻ることに決めた。
遠い距離でもないが、タクシーを使うことにした。車内からぼんやりと外を眺めている間に、事務所に到着してしまい、慌てて莉子は車を後にする。
ドアを開けた途端、電話の音やスタッフのやり取りが莉子の耳に突き刺さる。昨日同じバーであれほど酔っていた灘慶次郎の姿も認めたが、全く二日酔いの素振りはなさそうだ。事務所の入口に最も近いデスクの女性、久田麗実(ひさだれみ)が声を掛けてくる。
「リコさん!おかえりなさい!」
その声に反応して、連鎖的に「おかえりなさい」の声が莉子に向けられる。
「ありがとう……随分、久し振りな気がするわね」
中の熱気にコートを脱がされ、莉子は大きめの声をフロア全体に掛け微笑む。
「今日はまた、外出はされるんですか」
「うん……そうね」
曖昧に言葉を濁しながら、莉子は自らのデスクへと落ち着く。雑然と積まれた書類や書籍。見慣れた筈の光景だが、まだ奇妙に現実感が薄い。
通常国会前の忙しさも含め、殆どの事項は他の秘書や灘に任せてある。それでも幾つかの確認、報告事項に対処した。一通りの仕事が済んだ後、莉子は珈琲を淹れて休憩する。
作業をしている内に、次に打つべき一手の輪郭が、鮮明になってきた。
それは当然、警察へ、調査の中止を要請すること。
このまま警察が動き続けることによって、今畑籐吉に何らかの被害が及ぶのは避けたい。
「莉子さん、言ってくれれば珈琲ぐらい淹れるのに」
満面の笑みで莉子の隣に椅子を持ってきて座ったのは、灘慶次郎だった。
「みんな忙しいのに、そんなことできないわよ」
急に灘は真剣な目になり、「莉子さん」とだけ言って黙った。
莉子は、その無言の質問に答える。
「うん、まだ、報告は出来ない。説明できるほど整理も出来てないし、まだすべきことも残ってるから」
「分かりました」
それだけ言って、灘は笑顔に戻る。
莉子もデスクの方に向き直り、珈琲を飲む動作に集中する。
それにしても、と莉子は心配になる。
説明できるほど、自分に真相が分かる日など、来るのだろうか?
今畑里緒奈を、もう探さなくても、良い。
その意味を咀嚼しながら、ホテルを後にする。クロークでの男性の上品な挨拶が、何処か遠く感じられた。お車を呼ぶことも可能ですが、という申し出も何とか断れたが、いつもの笑顔ではなかっただろう。
自動ドアが開いた瞬間、冷気が莉子を襲う。それで少し、現実に戻る。
雲は厚く、太陽の光も鈍い。いっそのこと、雨にでも打たれた方が気が楽かも。
そんな思考をするなんて、自分らしくない。
悩んだ末、莉子は事務所に戻ることに決めた。
遠い距離でもないが、タクシーを使うことにした。車内からぼんやりと外を眺めている間に、事務所に到着してしまい、慌てて莉子は車を後にする。
ドアを開けた途端、電話の音やスタッフのやり取りが莉子の耳に突き刺さる。昨日同じバーであれほど酔っていた灘慶次郎の姿も認めたが、全く二日酔いの素振りはなさそうだ。事務所の入口に最も近いデスクの女性、久田麗実(ひさだれみ)が声を掛けてくる。
「リコさん!おかえりなさい!」
その声に反応して、連鎖的に「おかえりなさい」の声が莉子に向けられる。
「ありがとう……随分、久し振りな気がするわね」
中の熱気にコートを脱がされ、莉子は大きめの声をフロア全体に掛け微笑む。
「今日はまた、外出はされるんですか」
「うん……そうね」
曖昧に言葉を濁しながら、莉子は自らのデスクへと落ち着く。雑然と積まれた書類や書籍。見慣れた筈の光景だが、まだ奇妙に現実感が薄い。
通常国会前の忙しさも含め、殆どの事項は他の秘書や灘に任せてある。それでも幾つかの確認、報告事項に対処した。一通りの仕事が済んだ後、莉子は珈琲を淹れて休憩する。
作業をしている内に、次に打つべき一手の輪郭が、鮮明になってきた。
それは当然、警察へ、調査の中止を要請すること。
このまま警察が動き続けることによって、今畑籐吉に何らかの被害が及ぶのは避けたい。
「莉子さん、言ってくれれば珈琲ぐらい淹れるのに」
満面の笑みで莉子の隣に椅子を持ってきて座ったのは、灘慶次郎だった。
「みんな忙しいのに、そんなことできないわよ」
急に灘は真剣な目になり、「莉子さん」とだけ言って黙った。
莉子は、その無言の質問に答える。
「うん、まだ、報告は出来ない。説明できるほど整理も出来てないし、まだすべきことも残ってるから」
「分かりました」
それだけ言って、灘は笑顔に戻る。
莉子もデスクの方に向き直り、珈琲を飲む動作に集中する。
それにしても、と莉子は心配になる。
説明できるほど、自分に真相が分かる日など、来るのだろうか?
5.6.1 4D-WC
5.6.1
「どういうこと?俺たちが、殺される?」
という坂町慶太の声で、里緒奈は我を取り戻す。慶太の声は、震えていた。
レストランを出た後は、無事な場所に、とにもかくにも、逃げ込んだ。慶太は最初は近くの喫茶店などを探そうとしたので、それを制止して、慶太の自宅に駆け込む。里緒奈の邸宅も、公的な場所も、余りにも危険だ。しかし勿論、慶太には逃げる理由は分かる訳が無い。
六畳の部屋と、二畳ほどのキッチン。以前に一度だけ来たことがある、慶太の自宅。
傘を畳む時間も惜しみ、里緒奈は車椅子から飛び降りるようにして、玄関から這いつくばり、部屋の中央まで自力で移動しようとした。その様子を見かねたのか、慶太が里緒奈の身体を下から支え、小さなテーブルの前に運ぶ。ベッドの側面を背もたれ代わりに、もたれさせる。
射貫くような視線が、里緒奈に向いている。
「里緒奈、いったん、落ち着こ」
そう言う慶太こそ、里緒奈を抱えた後だからか、息を切らせている。
その過剰な息遣いに混じる、磨り硝子越しの外の雨音。
あの日の従前佐紀子、小野原貞政がしていた秘密の会話が、脳裏に蘇る。
「簡単に説明するのは難しいんだけど」里緒奈は無理矢理、微笑む。
慶太は里緒奈がその後の言葉を続けないのを確認して、立ち上がり、部屋の照明を付ける。
ちかちかと時折瞬きながら、二人に光が落ちる。
里緒奈は呟く。
「慶太、この世で最も罪深い宗教は、何だと思う?」
これを聞いたら、もう、戻れないかもしれない、と思いながら。
「宗教?」と良いながら、慶太は考える素振りをする。件の団体で何度も感じた、あの雰囲気を思い出しているはず。
「宗教って言うと、どうしても偏見があるな……やっぱり、あれちゃう、新興宗教とか。幹部が危ない思想持ってるとか。例の地下鉄での事件もあったし」
「そういう悪い新興宗教も中にはあるけれど、それでもまだ、ましなの」首を横に振る里緒奈。「だって、やっている本人たちに自覚があるもの」
里緒奈は伏せていた目を上げ、徐に、慶太を見つめる。
慶太の困惑する表情は変わらない。
「じゃあ、何?しかも、なんでそんな話、いきなりするん?」
「だってそれが、私が殺されるかも知れない理由だから」
「勿体振らんで教えてや、里緒奈。ここまで話したんやったら、全部言ってもおんなじやろ?」
「うん……」里緒奈は無意識に、唾を飲み込む。
そして、精一杯の笑顔で、慶太に言った。
「一番罪深い宗教は……恋愛なの」
「どういうこと?俺たちが、殺される?」
という坂町慶太の声で、里緒奈は我を取り戻す。慶太の声は、震えていた。
レストランを出た後は、無事な場所に、とにもかくにも、逃げ込んだ。慶太は最初は近くの喫茶店などを探そうとしたので、それを制止して、慶太の自宅に駆け込む。里緒奈の邸宅も、公的な場所も、余りにも危険だ。しかし勿論、慶太には逃げる理由は分かる訳が無い。
六畳の部屋と、二畳ほどのキッチン。以前に一度だけ来たことがある、慶太の自宅。
傘を畳む時間も惜しみ、里緒奈は車椅子から飛び降りるようにして、玄関から這いつくばり、部屋の中央まで自力で移動しようとした。その様子を見かねたのか、慶太が里緒奈の身体を下から支え、小さなテーブルの前に運ぶ。ベッドの側面を背もたれ代わりに、もたれさせる。
射貫くような視線が、里緒奈に向いている。
「里緒奈、いったん、落ち着こ」
そう言う慶太こそ、里緒奈を抱えた後だからか、息を切らせている。
その過剰な息遣いに混じる、磨り硝子越しの外の雨音。
あの日の従前佐紀子、小野原貞政がしていた秘密の会話が、脳裏に蘇る。
「簡単に説明するのは難しいんだけど」里緒奈は無理矢理、微笑む。
慶太は里緒奈がその後の言葉を続けないのを確認して、立ち上がり、部屋の照明を付ける。
ちかちかと時折瞬きながら、二人に光が落ちる。
里緒奈は呟く。
「慶太、この世で最も罪深い宗教は、何だと思う?」
これを聞いたら、もう、戻れないかもしれない、と思いながら。
「宗教?」と良いながら、慶太は考える素振りをする。件の団体で何度も感じた、あの雰囲気を思い出しているはず。
「宗教って言うと、どうしても偏見があるな……やっぱり、あれちゃう、新興宗教とか。幹部が危ない思想持ってるとか。例の地下鉄での事件もあったし」
「そういう悪い新興宗教も中にはあるけれど、それでもまだ、ましなの」首を横に振る里緒奈。「だって、やっている本人たちに自覚があるもの」
里緒奈は伏せていた目を上げ、徐に、慶太を見つめる。
慶太の困惑する表情は変わらない。
「じゃあ、何?しかも、なんでそんな話、いきなりするん?」
「だってそれが、私が殺されるかも知れない理由だから」
「勿体振らんで教えてや、里緒奈。ここまで話したんやったら、全部言ってもおんなじやろ?」
「うん……」里緒奈は無意識に、唾を飲み込む。
そして、精一杯の笑顔で、慶太に言った。
「一番罪深い宗教は……恋愛なの」
5.6.0 4D-WC
5.6.0
今畑里緒奈は、思い出す。
絵空事みたいに遠い、雨の日だった。
雨傘を丁寧に畳み、エントランス前のスロープを上る。
硝子の向こう側、顔見知りの事務員を見付け、声を掛ける。
「ああ、里緒奈さん!今日も、お綺麗ですな」
自動ドアが開き、そう言って事務員は破顔し頭を下げる。
「ありがとうございます」その笑顔に嬉しくなり、里緒奈も、微笑みを返す。
車椅子をその男性に頼んで押して貰い、廊下を進む。ある部屋の前まで来たところで、里緒奈は振り向く。「御免なさい、此処で結構です。後は自分で行けますので」
「え?」そのお願いは、彼には予想外らしかった。「そうですか……それでは、私は此処で失礼致します。もし、何か用事があれば、お呼び下さい」
男が立ち去るのを確認してから、里緒奈は廊下の突き当たり、赤い扉の大きな丸いレバーを回し、片側を押して開く。その先も廊下だが、照明は無い。
雨音が、廊下片側の窓越しに、静かに聞こえる。
壁を探り、照明のスイッチを入れる。里緒奈には高い位置にあるので、少し苦労した。
天井の蛍光灯が、手前から順番に連鎖的に廊下を造っていく。
その中を里緒奈は、一人で進む。
奥にあるエレベータを使い、地下に降りる。
薄暗い、無機質な空間。降りた目の前に、ドアがある。
しかし、里緒奈はそこには入らない。
その代わり、ポケットから、イヤフォンを取り出し、装着する。
そしてドアの横の小窓に、そっと近付く。
中の様子が見えた。入念な、準備の結果。
コンクリ—トの硬質な印象の部屋の中、普段、人前では見せない洋装をした従前佐紀子と、普段通りのスーツを着た小野原貞政が、向かい合っている。
小野原は、柔らかなソファにどっかりとのしかかり、圧力をかけている。
従前は、ソファの前の部分だけに腰掛け、ワインを飲んでいる。
その様子は、とても、滑稽。
ばれぬよう、今畑里緒奈は息を潜める。
「計画は、進んでいますか?」従前は口を付けたワイングラスをコースタに置くと、尋ねた。
「はい」小野原は、噛みしめるように、頷く。「順調です」
「それなら、良いのです」その声が、里緒奈の耳の中で、良く響く。それに対し、小野原の声は濁っている。
「里緒奈は、どうしましょうか」
「そうね……」従前は、一呼吸置く。
「殺して、しまいましょうか」
今畑里緒奈は、思い出す。
絵空事みたいに遠い、雨の日だった。
雨傘を丁寧に畳み、エントランス前のスロープを上る。
硝子の向こう側、顔見知りの事務員を見付け、声を掛ける。
「ああ、里緒奈さん!今日も、お綺麗ですな」
自動ドアが開き、そう言って事務員は破顔し頭を下げる。
「ありがとうございます」その笑顔に嬉しくなり、里緒奈も、微笑みを返す。
車椅子をその男性に頼んで押して貰い、廊下を進む。ある部屋の前まで来たところで、里緒奈は振り向く。「御免なさい、此処で結構です。後は自分で行けますので」
「え?」そのお願いは、彼には予想外らしかった。「そうですか……それでは、私は此処で失礼致します。もし、何か用事があれば、お呼び下さい」
男が立ち去るのを確認してから、里緒奈は廊下の突き当たり、赤い扉の大きな丸いレバーを回し、片側を押して開く。その先も廊下だが、照明は無い。
雨音が、廊下片側の窓越しに、静かに聞こえる。
壁を探り、照明のスイッチを入れる。里緒奈には高い位置にあるので、少し苦労した。
天井の蛍光灯が、手前から順番に連鎖的に廊下を造っていく。
その中を里緒奈は、一人で進む。
奥にあるエレベータを使い、地下に降りる。
薄暗い、無機質な空間。降りた目の前に、ドアがある。
しかし、里緒奈はそこには入らない。
その代わり、ポケットから、イヤフォンを取り出し、装着する。
そしてドアの横の小窓に、そっと近付く。
中の様子が見えた。入念な、準備の結果。
コンクリ—トの硬質な印象の部屋の中、普段、人前では見せない洋装をした従前佐紀子と、普段通りのスーツを着た小野原貞政が、向かい合っている。
小野原は、柔らかなソファにどっかりとのしかかり、圧力をかけている。
従前は、ソファの前の部分だけに腰掛け、ワインを飲んでいる。
その様子は、とても、滑稽。
ばれぬよう、今畑里緒奈は息を潜める。
「計画は、進んでいますか?」従前は口を付けたワイングラスをコースタに置くと、尋ねた。
「はい」小野原は、噛みしめるように、頷く。「順調です」
「それなら、良いのです」その声が、里緒奈の耳の中で、良く響く。それに対し、小野原の声は濁っている。
「里緒奈は、どうしましょうか」
「そうね……」従前は、一呼吸置く。
「殺して、しまいましょうか」
