岡崎 溝遊(コウユウ)の小説保管所 -8ページ目
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1.2.0 4D-WC

1.2.0

 急用ができたとだけ告げて、巧は結局十七時過ぎには帰る支度を調えていた。実際、急用ができることは珍しくない。部下ももう、巧のこうした申し 入れには慣れていて、「あ、わかりました。どうせそんなことだろうと思いましたよ」などと生意気な松木には言われてしまうほどである。
 帰る前に、一本電話を入れておくことにした。
 電話はすぐにつながる。
 「はい」
 という短い返事だけが聞こえてくる。これは決まりだから、ぶっきらぼうなのは仕方ない。
 「小石川だ」
 「こ・い・し・か・わ……声紋が一致しました。ご用件を、どうぞ」
 「C・D・7・1・3・B・B・2」
 数秒のタイムラグの後、
 「了解しました。六本木へ、向かって下さい」
 そのまま受話器を静かに置く。部屋には誰もいないはずなのに、この時ばかりはいつも緊張してしまう。無意識に時計を見る。十七時九分。
 巧は鞄を抱えて所長室を出る。所内はまだまだ、仕事をする空気で満たされている。廊下には優秀な部下やそうでもない部下がせわしげに廊下を往復している。その様子を横目に見ながら、比較的のんびりとエレベータホールへと歩く。
 「あ、所長、お帰りですか?」
 呼ばれて振り返ると、主任である片牧智佳子だった。左腕の小脇にはバインダとファイルを幾つか抱えている。彼女を所内で見るときは大抵、この格好である。
 「ああ……ちょっと、急用でね」
 「もしかして、今日訪ねてきた、若い女性が関係あります?」
 「え?」
 一瞬だけ警戒するが、冷静に問い返す。
 「関係なくはないが……」などと曖昧な返答をしながら、「どうして片牧君が、それを知ってるのか……誰かから聞いたのか?」
 さては、他のみんなも知っているのか。
 「いえ、実は最初にその人から電話を受けたの、私なんです」
 「なるほど」内心胸をなで下ろす。
 「こういうことは早い方がいいのかと思って、アポイントメントが既にあるのなら、ここまで来て頂いても結構ですって私から言ったんです」
 「ん……その女性は、アポが既にある、と言ったのか?」
 「えっとですね」片牧は天井を仰ぎ見る。「その人は、既に取ってあるアポイントメントの時間の確認をされたんです。もちろん、私には答えられな いので、折り返しお電話差し上げますって答えたんです。直接所長を呼びに行こうとも思ったんですけど、ちょうど別の会議をなされていたようだったので」
 「そうか」
 詳しく聞いてみたい気もしたが、これからその電話の主と直接対面するのだから余り気にしないことにした。
 「お知り合いなんですか?」
 「その女性か?まさか。今日が初対面だ」
 「ですよね……」
 「すまんが、遅れてもいけないので、お先に失礼するよ」
 「あ!すいません!」
 片牧智佳子はばつが悪そうに驚いた表情をして、その後、にっこりと笑った。「今日も色々とお疲れ様でした。また明日、よろしくお願いします」
 「ああ、また明日」
 巧はもう一度廊下で身体の向きを変えて、エレベータホールに辿り着いた。ここでも数名の研究員に頭を下げられ、挨拶する。二言三言の雑談も交わした。
 私の周りにはこれだけ優秀な頭脳が揃っているというのに、日本は何故歩みを止めているのか。そんな風にふと巧は連想する。この時代に、経済が破綻して間もないこの時代に、国の土台を築けるのは、文字通り基礎研究やそこから産まれ得る新しい技術ではないのか。
 そうは思っても、現実の社会はそういう風には回っていない。
 何だろうか。自分のやってることの意味は、何だろうか。
 エレベータの階数表示が一つずつ下がっていく。
 その移り変わりを見ながら、自分のこれからの使命を思い出してくる。
 国立情報処理センターの所長の肩書きは、少しの間忘れよう。
 私には他にも大事な役割がある。
 チン、という高い音。
 一階に到着した。
 エレベータのドアが開く。
 そこには誰もいなかった。
 ビルの外は曇り空だった。少し歩くと、広い道に出る。周りには情報センターと同じような高さのビルが幾つか、そしてそれよりは比較的低い、四階建ての建物が並ぶ。
 今の時間はまだ若者が大勢、歩いている。いかにも今時な格好をした女性や、あまり時流には興味の無さそうな男性の集団。いずれも談笑しながら、巧と擦れ違っていく。ここでは若者たちの姿が圧倒的に多い。
 当然、ここが国立大学の構内だからだ。
 巧の勤務する施設は、元々はこの国立大学の一つの施設に過ぎなかった。それが正式に情報学を研究する専門施設になったのは、実はまだちょうど一 年前の話である。つまり、広大な大学の敷地面積を持ち出さなくても、巧のような立場の人間、言い換えればこの大学に全くゆかりがない人間は相当マイナリ ティのはずだった。
 まずは大学の構内から外に出るのに時間が掛かる。慣れればそうでもないが、非常に遠く感じる。十分ほどで漸く、地下鉄の駅に到着する。
 近くには他の私立の女子大も建っているためか、地下鉄のホームには若い女性の集団も非常に多く見られた。時間としては大学の講義もそろそろ終わっている頃だろう。
 どんなことがあっても、地下鉄を使う人間が減るわけではない。
 それぐらい、人間は文明から逃げられないのだ。今更何と言おうと、便利になるために、便利が豊かさだと信じて、この国は何十年もやってきた。例 え自分たちが利用する文明に重大な危険性や落ち度が見つかったとしても、すぐさまその習慣を変えられるわけでもない。我々にできることは、せいぜい、セ キュリティを必死で高めることぐらいだ。
 ぼんやりとホームを眺めながら、愚痴めいたことを独りごちる。
 軽やかな電子音と共に、人間が掘った穴から、車両が、線路伝いにこちらへ近付く。
 女子大生らしき集団の後に続き、乗り込む。
 乗換も含めて、六本木には二十分もあれば到着するだろう。
 現在、十七時二十五分。

1.1.0 4D-WC

1.1.0

 男性と面接していた部屋を出て廊下を左に折れると、すぐにドアがある。
 それを開けると大きな部屋に出る。これがこの施設のエレベータホールである。
 巧は二十階から十五階へと移動して、そこから真っ直ぐ施設の入り口へと向かう。
 その途中で何名かと擦れ違い、挨拶に会釈で返す。
 不本意ながら、今日は比較的忙しい。朝の会議のすぐ後、学生が学会提出する論文の査読、施設で使用しているスーパコンピュータの一部の動作不良 に関する調査。これはもう、時代の流れからすると、徐々にパソコンに切り替えていくべきなのかも知れないと考えている。その他細々とした判断、決済、部下 への指導。
 ルーティンにひとつまみのイレギュラを混ぜ込むと、見事に「混乱」のモデルができあがる。現実はいつだって、ちょうど良いぐらいに複雑だ。
 歩きながら、着ている白衣の胸ポケットに茶色いシミが付いているのに気が付いたが、構っている余裕はない。
 施設の入り口に、黒いスーツの女性が立っていた。
 予想に反して、知らない顔だった。
 その女性が、正確無比なお辞儀をする。
 巧は距離を縮め、先に声を出した。
 「いやいや、お待たせしました。私がここで所長をさせてもらっている、小石川です」
 顔を上げた女性は、うっすらと微笑んだ。
 「お忙しいところ大変申し訳ありません、所長」
 「いやいや、アポイントメントを入れておられたんですよね」
 「ああ……いえ、実はあれは、嘘なんです」
 「嘘?」
 不快感が、思わず表情に出てしまっていただろう。
 「申し遅れました、私、東川と申します」東川、と名乗ったその女性は名刺を差し出す。
 巧は名刺をかなり目に近付けて、その肩書きを読んだ。
 衆議院議員、今畑とうきち事務所、秘書。
 議員秘書か。
 ……なるほど。
 巧は視線を秘書に戻す。
 「御無礼は承知で申し上げますが、緊急を要する件なのです。何卒、お話を聞いて頂けないでしょうか」
 「そうですね、そういうことでしたら、本日の夕方からはどうでしょうか」
 突然の来客にのんびり対応している余裕はない。いみじくも、こちらは国立研究施設なのである。例えそれが国会議員からの要請であっても、簡単に優先順位を引き上げられる訳ではない。
 「夕方ですか……そうですか……」
 東川秘書は不満げな面持ちを浮かべ、少し落ち着かない視線を巧に向ける。
 「所長、これは、実は、国立情報処理センター所長へのお願いではありません」実は、という部分に力を込めて東川は言う。「あなたが行われている、もう一つのお仕事に対する依頼なのです」
 薄々考えていたことが現実となった。
 やはりそうか。
 「そうですか、それでも……やはり、私は所長として片付けるべき仕事があります。一分一秒を争う話かどうかはわかりませんが、できればまた、夕方以降でお願いしたい」
 まずは相手の言いなりにならない態度を見せておく必要がある。
 どうも経験上、政治畑から来る人間は自分が一番だと思い込んでいる節があるからだ。
 「それに、そんな話をここでする気にはなれない」
 結果、相手はまずは引き下がった。
 「わかりました、小石川所長。私は今日は一度事務所に戻って出直します」そして完璧な笑顔に戻った。今はむしろ腹立たしいはずなのに、大した能力だ。
 「十八時四十五分以降ならば、この場所に到着していられます。十九時に、どこか場所を押さえておきましょうか?」
 手帳も見ずにすらすらと東川秘書は提案する。
 「いや……実は、そういう話をするのに良い場所があってね、事務所はここから遠いのかな」
 「六本木です。遠くはないです」
 「そうか、それならば、なるべくそちらが出てきやすいように場所を設定しよう。それでは、十八時に営団地下鉄の六本木でどうでしょうか」
 「わかりました」
 「地下鉄は、やはり物騒と思うかね」思わず、去年の事件を思い出して尋ねる。
 東川秘書はまた笑顔を作る。
 「いえ、国会の方が、余程物騒ですから」

1.0.0 4D-WC

1.0.0
 「大学では、何をやっていたんだね?」
 「情報処理です」
 小石川巧(こいしかわ・たくみ)は、その返答に対して腕を組み直した。
 苛立ちを相手に悟られぬ為だ。
 「特に、専攻は?実践寄り、それとも基礎研究かな」
 「実践向きでは、ないですね」パイプ椅子に座る男性が少し考えてから答える。「数理論理学なんですけど」
 「ああ、記号論理学のことだね、なるほど、様相論理とか、時制論理とか、そっちの方かね?それなら完全に論理学になってしまうが」
 喋りながら再度履歴書に目を落とす。実はこの動作にそれほど意味はない。単なる視線の調整だった。そうか、履歴書とはその為にあるのか、などと無駄な妄想をする。
 「そういうのもかじりましたけど、どちらかと言えば計算理論ですね」
 「そうか……プログラム経験は?」
 「Lispを少し」
 「今時、珍しいね、Cとか、Basicとかは……」言い掛けて、撤回した。「いや、大学ではそんなのやらないか」
 「そうですね……教授の趣味がLispだったみたいで」
 何故か男性は頭を掻いて恥ずかしそうにした。
 「まあ、僕もそれほどプログラムはできない。ただやっぱり、必要な時もあるから免疫だけは付けておいてほしい。言語は何でも良い」
 「はい、わかりました」
 「コンピュータは自宅にもある?」
 「いや、ないですね」そしてあからさまに不安そうな表情を作った後、「買った方がよいですか?」と疑問を口にする。
 巧は腕組みをした。これも考えている振りだ。
 「いや、貯金があるなら買ってもいいけど、うちに来れば毎日触ることができる。考えるのはそれからでも遅くはない」
 「そうですか」そう言って安堵の表情に戻る。
 それからは暫く、面接相手である男性のプライベートな質問に切り替えた。彼の緊張をほぐしたかったし、これからの仕事仲間のことは多少でも知っ ておきたかったからだ。彼は履歴書から想像していた通りの人格だった。ここに面接に来る段階で既に、性格はある程度予想がつく。時々とんでもない変わり者 がいることはいるが、意外と普通の人間が多い。それはおそらく、あまりにも普通の人間でも、あまりにも変な人間でも、どちらでもない場合しか、この研究所 に就職しようなどとは考えないからであろう。
 雑談をして、場の空気が温まってきたところに、男性の後ろのドアがノックされた。
 「いいよ」
 そう応じると、静かにノブが回りドアが薄めに開いた。
 研究員の松木だった。
 「所長、来客が来てるんですけど」
 言葉遣いがおかしい、と言いたかったが咄嗟に我慢する。
 最近の若いもんは、などとは絶対に口にしたくない。
 「来客?予定にはなかったはずだが」
 「あれ?そうですか……おかしいですね、アポ取ってるって言われましたよ」
 「誰なんだ」
 「すいません、聞いてきませんでした、若い女性です」
 「若い女性って、それだけか?」
 「すいません」
 奇妙な沈黙の間に、面接相手の男性が挟まれる格好となった。
 「あの、僕は、どうすれば」
 「申し訳ない、少しだけ様子を見てくるから、君はその松木君に所内を案内してもらってほしい。松木君、頼むよ」
 「あ、はい」
 覇気のない返事にはもう慣れている。
 巧は立ち上がる。
 若い女性?
 思い当たる節がないでもないが、と思いを巡らせる。
 微量の不安物質もまた、体内を巡る。

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 これは、ある事件に関する記述である。
 表向きには、それは単なる殺人事件として扱われた。しかしながら関係者には、その扱いは全く不似合いであるという風に感じられた。その理由の一 つは、この事件の背景には国家レベルの思惑が関与していたという事実である。勿論、重要な情報には政府が箝口令を敷いたのであろう。そう誰もが想像して、 心の中だけに秘密を収めた。
 物語る、という記述の性質上仕方のないことではあるが、やはり話には何らかの「軸」が必要である。そもそも歴史を物語るとはどういうことか、などと言い出すときりがないのではあるが、事実(と呼ばれる何か)を記述者が記述しようとする際には幾許かの注意が必要となる。
 まず、記述者は全知全能の神ではない。従ってここに記されることは、世界の全てと同一ではない。そんなことは当然であると嘲笑する向きもあるで あろう。記述者は知りうる全てのことをここに記したはずだが、それが全てであるはずはない。つまり、ある意味では、記述者の責任放棄の宣言であるとも言え る。
 また、政府が介入した事件を記述するという点において、この物語は危険を犯している。しかしながら、この点について多少、記述者は有利な状況にいる。記述者自身が、そういった政府関係者であるからだ。ここで記述者に関するこれ以上の情報を開示することは避けたい。
 さて、前口上はこれぐらいにしておこう。
 メタな視点を振りかざす輩に限って、傲慢さが鼻につく機会も多い。せめて記述者がそう思われないよう、肝心の内容に話題を切り替えよう。
 最初の事件は、東京で発生した。
 場所は国立の情報センターである。主に情報学を扱う分野を研究する施設であり、従来は国立大学の一施設だった。
 その情報センターの十七階で、一人の変死体が見つかった。
 殺害方法に異常な点が認められた訳ではない。しかしながら、他殺であることは警察組織の捜査によって間違いないと断定された。
 多少奇異に感じられたのは、現場にある凶器からは、被害者本人の指紋のみが検出されたことである。当然ながら殺害後、加害者は逃走前に自分の指紋を拭き取ったのであろうと推測された。
 また細かな疑問点を挙げるならば、被害者(と加害者)がその施設に殺害当時滞在していた理由である。死体が発見されたのは月曜日の朝だった。その前の週の金曜日の夜まで、被害者は少なくとも間違いなく生存していた。
 つまり、土曜日もしくは日曜日に被害者は殺されたことになるが、実はそれが、奇妙な点だった。
 被害者は平日以外、本来は外出不可能な立場にあったのである。被害者の自宅には、その外出を見張っている他の人間が雇われているほどの状態であり、事件現場に向かうためには、少なくともその監視を振り切る必要がある。
 そうすると当然、次の疑問が浮かぶ。
 そこまでして被害者を事件現場に向かわせた理由とは何か?
 被害者は、十七歳の女性。奇しくも同じセンターの十七階で殺されたため、一部マスコミは「愉快犯ではないか」「次は最上階の二十二階で二十二歳の人間が殺されてしまうのではないか」という無責任な憶測を広範囲にばらまいた。
 そして彼女と施設の関係はすぐに捜査で判明した。
 彼女の父親が、その施設の研究員だった。
 そしてその後の進展も相まって、事件に対する世間の関心は高まっていくことになる。
 以下、この事件の発端・展開・顛末までを記す。
 心せよ。

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