岡崎 溝遊(コウユウ)の小説保管所 -7ページ目

2.1.0 4D-WC

2.1.0

 眞田敬二郎(さなだけいじろう)は事件当日、普段より三十分ほど早く起床した。
 当然、本庁からの入電があったからだ。
 前日は仕事の後、遅くまで起きていたためかなりきつかったが、日本最高学府での事件と聞き、大まかな状況を聞く間に目は冴えてきた。昨日とは違い、スーツもシャツもクリーニング直後のものを出して素早く着替える。新しいヤマに入る前、気持ちを切り替えるために眞田が行っているちょっとした儀式だった。
 「タクシーに乗ってきて下さい」電話の相手は同僚の嶋井(しまい)だ。
 「なんで?」
 「まだどうなるかわかりませんが、電車、できるだけ止めるみたいなんで」
 「ああ、逃走経路、防ぐってこと?」
 「はい」
 「なんで逃げてるってわかったの?そもそもコロシなの?」
 ネクタイを締めながら眞田は尋ねる。
 「詳しいところは、ちょっと……」急に嶋井の声はか細くなる。「堂山さんが言ってることなんで」
 「あ、そ」
 「時間、かかりそうですか?」
 「いや……もう出るから、七時前には到着かな。まずかったりする?」
 「いえ、結構です。待ってますんで、早く来て下さい」
 「わかった。すぐ行くわ」
 「では」
 家の近くでタクシーが拾えるかどうかを考えながら靴を履く。
 外に出てみると、朝早いせいもあってか、いつも以上に寒く感じられる。
 周りには人もいない。通勤時間にはまだ早いということだろう。
 自宅の前は細い路地のため、ひとまずはタクシーが拾えそうな広い道路を目指して歩き出す。
 しん、と静まりかえった空気が寒気を倍増させる。
 眞田はまず、コートの内ポケットに入ったままの手帳を出して眺める。
 「こっちも全然片付いてないんだけどね……」
 独り言を言っても仕方ないが、何か喋っていないと寒さが紛れない。
 勿論、昨日詳しく話を聞いた、国会議員、今畑籐吉の娘の失踪事件に関する調査である。
 今畑籐吉本人からではなく、秘書である東川莉子から、失踪当時の状況について聞いた。
 彼女の話しぶりからも、今のところ、特におかしな点は見当たらなかった。
 しかしながら気味が悪いのは、そこにとある新興宗教が絡んでいるらしいという部分である。これまでそういう類の団体と深く関わったこともなく想像だけで判断してしまうのだが、少なくとも国会議員が特定の宗教と深い関わりがあると判断されることは、支持を集める際にはネックになる場合もある。しかも去年の事件もあったし、時期としては最悪のタイミングだろう。
 だからこそ、今畑は秘密裏に調査をするように依頼してきたのだろう。
 また東川莉子は、重要な手掛かりについても話していた。
 今畑の娘がその新興宗教に関わっていることを示す証拠となるかもしれない、写真の存在である。
 現物をその場で見ることは叶わなかったものの、次に来て貰う時点でその写真を持ってくるようにお願いしてある。今畑側としても、私たち警察を確実に動かすための材料として必ず持ってくるだろう。
 公安にもお伺を立てる必要があるかもしれない、と思ったところで、やっとタクシーが向かってくるのを発見した。
 嫌々、ポケットから手を出してタクシーを停め、足早に乗り込む。
 「あけましておめでとうございます」やけに愛想の良い運転手が後ろを振り返る。
 「おめでとさん、悪いけど急ぎでT大まで」
 走り出してすぐに運転手は早朝に似つかわしくない明るい声で話し始める。
 「失礼だが、おたく、先生かね」
 「先生?いや、違いますが」
 「こんな時間に大学に行くなんて。そろそろ授業も始まるでしょうから、大学の先生さんかと思いましてね、いや、違ってたら申し訳ない」
 「いえ、そういうわけではないんです。ただ、急いで欲しいんです」
 「まだ道路もそんなに混んではないしね、焦らなくても大丈夫ですな」
 「何時に着きます?」
 「うーん、遅くても七時半、ぐらいですかね」天を仰ぎながら運転手は答える。
 「それじゃ遅すぎる。七時には、無理?」
 率直に言うのが一番早い。
 少し返答までに間が空いたが、運転手は信号待ちになった直後に、左手でOKサインを作って見せた。
 「かしこまりました、本気を出しましょう」
 いつも本気でやれよ、とは言わなかったものの、少し安心して眞田は座席に深く寄りかかった。
 気持ちをこれからの事案に切り替える。
 電話で聞いた簡単な情報しかないが、どうやら、女性の遺体が大学内のとある研究施設で見つかったらしい。
 昨日の夜中に死んだのを、今朝出勤してきた職員が発見したらしい。
 身元は不明だが、これから出勤してくる職員に聞いていくことで判明するだろう。
 それにしても何故、そんな夜中にその施設にいたのだろうか?
 しかし大学の研究者ならば、それほどおかしな話でもないのかもしれない、とも思い直す。
 電車を止める、とも電話では言っていた。
 逃走経路を塞ぐため?
 ということは、現場の状況からコロシだと分かっているのだろう。とは言え、電車を止めるとはなかなか珍しい措置だ。そう簡単に鉄道会社側が承諾するとは思えない。堂山係長がそこまで強気の行動に出るのは、よほど確かな証拠が現場に残っていたのだろう。ただし去年の事件を考慮すれば、地下鉄は割とあっさりと止まるのかもしれないが……。
 やっぱり現場を見るのが一番早い、か。
 「お客さん、大変申し訳ないんだがね」
 不意に運転手がまたしても後ろを向く。
 「どうしたんです?」
 「もう近くまでは来とるんだけどね、交通規制やっとりますわ」
 「交通規制」
 確かに、目の前では数台の乗用車が十字路にもかかわらず一様に右折するように誘導を受けている。
 「これじゃ遠回りになる?」 
 「うーん、そうですね……」
 不安げな表情の運転手から、自身の腕時計へと視線を移す。
 現在、六時五十五分。
 「わかった、ここで良いわ、ありがとう」
 「あ、もう良いんですか?」
 「時間、ないんでね。お釣りもいいや、取っといて」
 「はい、ありがとうございます、また、頼みます」
 「ここをまっすぐ行けば大学に着く?」
 「ええ、もう見えてますから、あっちに、ほら」
 運転手が指をさす先には、確かに、それらしき建物の群が覗ける。
 「了解、後ろも詰まってるから、行ってやって」
 最後に丁寧に一礼して運転手は去っていった。ありゃ前科者だな、と眞田は途中で彼の左手を見て思った。ついついそんな部分ばかりに目が行くのがこの職業の悲しい性だ。
 交通規制をしているのは制服警官だったので、その脇の忙しくなさそうな、もう一人の警官にゆっくりと歩み寄って話し掛ける。
 当然、右手で警察手帳を見せながらだ。
 「あの、ごめん、なんかあった?警視庁の一課の眞田だけど」
 それは厳密には嘘だ。しかしまあ、一課と言うのが一番早いし、それに完全に嘘とも言い切れない、はずだ。
 「あ、おはようございます!いや、T大でコロシがあったらしいので」
 「それで、交通規制?」
 「はい!犯人の逃走を阻止するため、と聞いています」
 「あ、そ、わかった、ありがと」
 電車も、車も、両方とも止めるのか。
 少し行動が早過ぎないか、堂山係長。
 何か、おかしい。
 事件よりも、こちらの対応が。
 「現場、百遍」
 またも独り言を呟いて、眞田は歩き出す。
 寒さにコートの前を更にきつく締める。
 その拍子に、何かが身体とコートの間に窮屈に挟まっているのを感じる。
 そういえば、と思い出す。
 コートの内ポケット、手帳と反対側のもう一つの側に入っているのは、財布。
 小石川部長の財布だ。
 昨日、今畑の秘書、東川莉子から預かったものだ。
 どうも小石川部長にはどこか抜けている印象がある。
 学者あがりの人は、やはり雰囲気が違うとでも言うのか……。
 恐らく今日の現場にも来られるだろう。その時に返せば良い。
 今畑籐吉の件も、情報交換する時間を作ってもらおう。
 この時はまだ、眞田はそう考えていた。

2.0.1 4D-WC

2.0.1

 智佳子の家から職場である国立情報学研究センターまでは、地下鉄で二十分ほどだ。大学の構内に入ってから少しだけ歩く必要があるが、それでも夫の通勤距離に比較すれば大した距離ではない。自分は恵まれている、と本気で思っている。
 テレビで報道されていた事件に関しては、結局詳しいところは把握できていない。余りに慌てておりきちんと確認する余裕もなかった。
 誰かが、亡くなったらしい。
 その人の名前も発表されていたような気がするが、知っている苗字ではなかった。
 その時の安堵した感情を覚えているからだ。
 智佳子の職場の職員の数は多いため、もしかすると自分が知らない職員なのかもしれない。もしくは大学生だろうか。大学内にある施設だから有り得ない話ではない。勿論、そもそも、全く無関係の人間かもしれない。
 少しずつ冷静になってきたのは、地下鉄のホームで慌しいラッシュを目にした時からだった。家を出る前は、とにかく一度直接職場の様子を確かめなければという思いだけで急いで出てきたが、職場に近付くこと自体が可能なのかどうか定かではない。警察も来ているだろう。しかし警察は果たして大学の中に入ることができたのだろうか。歴史上、大学側が抵抗するのは間違いないだろう。いや、そのような考えそのものが古いのかもしれないが。
 地下鉄を降りる頃には、色々と考えてみたところで仕方ないではないか、という思いが強くなり始めていた。
 冷静に、状況を見極めよう。
 ドアが開き、大量の通勤客の団子の一部となったままホームに傾れ落ちる。
 皆、普段と変わらぬ姿で出口のあるエスカレータの方向に向かっていく。その流れの中から、智佳子は周りの人間の様子を伺った。本来なら毎朝と変わらないはずの風景だが、ホームにいる群衆の様子をまるで映画の観客のように、客観的に確かめたことはなかったので奇妙な気持ちだった。
 今は八時半過ぎだが、スーツを着た人間はほぼ見あたらない。年配ならばラフなジャンパー、若ければもっとファッションに気を使った格好をしている。これは男性のみの特徴で、女性は年齢には関係なく、揃ってダウンジャケットかロングコート。そういう智佳子自身、黒いウールのコートを着ている。大学という特殊な場所に特有の朝の風景だろう。
 その集団が、漏斗の先のように細くなったエスカレータの乗り口で徐々に一列になり、自分の番を待ちながらエスカレータの出口の方を見上げている。確かについ、出番を待つ時は無意識にエスカレータの出口を見てしまっている気がする。エレベータの場合でも、乗っている間はずっと上を見ているじゃないか。いや、あれは知らない人間と一緒に乗っていて気まずいだけか、と関係ない内容も連想する。
 それにしても、並んでいる人たちは、全く日常通りの様子に見える。
 朝のニュースを、見ていないのだろうか。
 いや、自分だけが見ているはずはない。
 他の人も、私と同じように考えているのだろうか、と智佳子は落ち着かない気持ちになる。
 すると、智佳子の数人前で並んでいる若い男性が、上を見上げたまま、智佳子にも聞こえる声で喋り始めた。
 喋るというよりは、驚いて、呟いている。
 「あ、とまって、うん……とまってるんだ」
 それに応えて、他の声が、
 「ああ、ぜんぜん、うごかない」
 それが騒ぎになる、トリガだった。
 突如として列に並んでいる人間の多くからざわめきが漏れ、せわしなく首振りながらエスカレータの出口を覗こうとしている。最初はみんなが呟いている内容を聞き取ろうとしていた智佳子は、並んでいる列が全く前に進まなくなったことに気が付いた。
 「え……」
 思わず漏れた声に続けたかったのは、「急いでいるので前に進んでもらえませんか」というお願いのはずだったが、それが場違いなお願いだと分かるのはその一瞬後だった。
 騒ぎになっているから、列が前に進まないんじゃない。
 全く逆だ。
 列が前に進まないから、騒ぎになっているんだ。
 智佳子はやっと、他の人間と同じように、エスカレータに乗っている人たち、そしてエスカレータの出口の様子を探ろうと首だけを前に乗り出す。
 エスカレータが、止まっている。
 そして、そのエスカレータに乗ったまま、皆、一歩も動かない。下にいる人間と同じように、止まったまま出口を見上げるだけ。
 先に進まないことに抗議している人間も見受けられるが、全く効果はなさそうだ。
 何が起きているのか。
 何故、歩いてでもエスカレータを上ろうとしないのか。
 エスカレータは二本あり、人が溜まっている方に隣接してもう一本、空の状態で止まっている。そう、こちらも止まっているのだ。それがいつからなのか、もう智佳子の記憶にはない。
 痺れを切らしたらしい一人の男性が、エスカレータのちょうど中間地点からゴムの手すりを乗り越えて、空いている側のエスカレータに無理矢理移動した。その時は少し観衆から声が出たが、その男性は気にする様子もなく、そのまま走って上へと向かっていく。
 そしてその空のエスカレータの頂点で、突然大きな声が響いた。
 「皆さん」
 拡声器だ。
 その低い声が、ホーム中に響く。
 列から抜けたはずの男性はその拡声器を持った人間にぶつかって、怒った調子で文句を言おうとしているようだったが、拡声器はそれに構うことなく話し続ける。
 「どうか、落ち着いて下さい。我々は警察です」
 その一言に反応して、集団のざわめきは一気に荒れ始める。
 「皆さん、どうか、冷静に行動して頂きますよう、お願いしたいのです。……今、この地下鉄の先にある大学で、事件が起きました。それに伴い、皆さんには大変申し訳ないのですが、一時的にこの出口を封鎖することに決めました」
 智佳子の目から遠く、うっすらと見えるその拡声器の声の主は、体格の良い男性に見える。
 紺色の服を着ているようだ。当然、警察の制服だろう。
 「封鎖の時間は未定ですが、少なくとも皆さんにはこのホームから別の駅を迂回して頂きますよう、お願いしたいのです。よろしいでしょうか。申し訳ないですが、この出口を開けるわけにはいかないのです」
 そこで一呼吸置く。
 既に、観衆は静かにその声を聞いている。
 「まず、念のため、この場にいらっしゃる皆さんには、簡単な手荷物検査を実施します。お忙しいところ恐縮ですが、どうかご協力頂きますようお願いします。大変まれな事態ではありますが、一時的に、この地下鉄の電車も止めて頂いております。よろしいでしょうか。ご質問などあれば、その検査の際にお伺いします。どうか、ご協力、お願いします。早速ですが、エスカレータから、ホームに戻って頂きますようよろしくお願いします」
 拡声器の声が、途絶えた。
 馬鹿みたいに、静まりかえった。
 しばらく、誰一人、動こうとしなかった。
 智佳子は、溜息をつく。
 左手に提げた鞄がとても、重い。
 何が入ってるんだっけ。
 ああ、家に持ち帰った仕事の書類を、パソコンに入れて持ってきたんだった。
 ほんとに、失敗した。
 こんなことになるなら、パソコンなんて、入れてくるんじゃなかった。

 

2.0.0 4D-WC

2.0.0

 「今日は弁当、何?」
 片牧智佳子は、下を向いたままでその質問に答える。「昨日のお肉焼いたのと、サラダと、あと、コーンスープと、それからあれも入れとこうか、数の子」
 振り向いて冷蔵庫を開け、おせちの残りでまだ取ってあるはずの数の子を探す。そろそろ、食べてしまわないと傷んでしまう。お弁当箱の残りのスペースに対して数の子の量が多かったが、ここは気合いで少し詰め気味に入れてみる。
 「数の子?なんでそんなの入れるの」カウンターキッチンの向こうで、息子はきょとんとした顔をする。
 「だって、だいぶ経ってるから。食べてしまわないと」
 「まあ、いいけど」今度は無表情になった息子は、「一人でおせちは恥ずかしい感じ」と独りごちる。
 夫は、まだ姿を見せない。寝ているのだろう。昨日の帰りもどうやら遅かったようだ。
 リビングのテレビが、今朝も大騒ぎでニュースを伝えている。
 智佳子は弁当の用意を機敏に終わらせると、今度は自分の身支度を整え始める。
 「あ、章太郎(しょうたろう)、ちゃんと食器片付けた?」
 「片付けたよ」
 遠くから聞こえる、息子の覇気のない返事。もしくは眠気が覚めないのかのどちらかだろう。
 約十分間の、三面鏡の前での格闘を据え付けの時計を睨みながら完了する。朝の一分はどうしてこんなに短いのだろう。統計でも取ってレポートでも書いたら、仕事の暇つぶしになるかもしれない、などと考える時間も惜しい。
 「おかあさん」
 今日の仕事の内容を整理していた頭脳が、ワンテンポ送れて応える。
 「何?」
 声はリビングからだ。
 「これ、おかあさんの職場じゃない?」
 「え?」
 白いシャツを羽織ってボタンを留めながら、ひとまずリビングのテレビの近くまで駆け寄る。
 「ほら」
 息子に促されるまま、目に飛び込んできたのは、確かに智佳子の職場だった。
 画面の端に映し出される、「国立情報学研究センター」の文字。
 見慣れた入口の前で、マイクを持って直立しているレポータが興奮した面持ちで喋っている。
 「ほんとだ、章太郎、何があったって?」
 「うーん、人が死んだって」
 「人が?死んだ?」
 意味がよく分からないが、よく見れば確かに、「遺体発見」という文字が今度は下の方に出ている。
 ただひたすら、泡を飛ばしそうな勢いで喋るレポータが、妙に滑稽に見える。
 智佳子は無言のまま電話台から受話器を取り上げて、ワンタッチで職場を呼び出す。
 自分のオフィスの専用電話は話し中だった。珍しいことだ。
 普段は使わない代表電話にも掛けてみたが、こちらも誰も出ない。
 何か、大変なことが起きているんだ、という感覚が、智佳子の身体を徐々に這い上がってきた。
 「おかあさん、行かなくてもいいの?」
 電話を切った母親を、息子が真っ直ぐに見つめていた。
 「そう……ね」
 智佳子は、まだ考えている。
 「確かめてくる。あなたは早く、学校に行きなさい」

1.9.0 4D-WC

1.9.0

 二十二階建のビルの屋上には、黄色い円。そしてその中に大きく描かれたアルファベットのHの文字。
 その非常脱出用のヘリポートを、ビルの角に据え付けられた薄暗いサーチライトが照らしている。
 今はそこには、誰も、何も、いない。
 ただ、暗いだけの、夜。
 今畑里緒奈は、そのビルの一階にある、正面入口にいた。
 嵌め込み硝子の向かって右端、北側に設置されたセキュリティ用のオートロックシステムがある。
 プッシュ式の数字のボタンが並ぶ横に、目立つ形でカードリーダーが取り付けられている。
 里緒奈は手に持った銀色のカードを、縦方向に滑らせてカードリーダーに読み込ませる。
 電子音が、闇に響き渡る。
 LEDのランプが赤から、緑色に変わる。
 解錠されたのだ。
 ゆっくりと横に大きく開く、硝子のドア。
 昼間なら、自動ドアの部分だ。
 里緒奈はゆっくりと、建物の中に入る。
 普段は日光が差し込むであろう、大きなロビーは、すっかり眠っている。
 そのいびきのような、大きな感覚で繰り返される、柔らかいポーンという音。
 まず里緒奈は、正面左手の、少し奥まった部分に向かう。
 四基あるうちの左から三番目、幅広いエレベータの前で、里緒奈はポケットから一つの鍵を取り出す。
 そしてそれを、エレベータ横のボタンの下にある鍵穴に差し込み回す。
 扉の上、現在階表示の横長いイルミネーションが灯る。
 エレベータの電源が入った証拠だ。
 里緒奈は、一つだけある丸いボタンを押す。
 ボタンも明るく灯り、一瞬、里緒奈の手元を仄かに照らす。
 チン、という軽いベルの音。
 エレベータの扉が、開いた。
 乗り込んだ里緒奈が押したのは、四階。
 すぐに到着する。
 四階も、もちろん暗い。
 降りてすぐ、里緒奈は一度廊下の両側に目をくれ、そしてそのまま左側に向かう。
 廊下を出ると、広いオフィス。
 縦長の机と、たくさんのディスプレイと、機械類。
 その間をすり抜け、反対側にある別の廊下に出る。
 そこにまた、エレベータ。
 ボタン下の鍵穴に再び、里緒奈は鍵を刺して回す。
 今度は二つあるボタンの、上側を押す。
 次の行き先は、十三階。
 少しだけ、息が苦しい、と里緒奈は感じる。
 狭い部屋は、苦手だ。
 閉じ込められるのは、苦手だ。
 チン、という音で我に返る。
 降りると迷わず、今度は右側に。
 またしても、大きな部屋。
 さきほどのフロアと違い、何も置かれていない。
 突っ切った後は、再度、四基のエレベータの前に来る。
 そして、左から二つ目のエレベータを使用可能にして、下に向かうボタンを押す。
 これで一度、九階に下がる。
 九階に到着後、更に、四基のうち一番右側のエレベータに乗り換える。
 押したボタンは、十七階。
 現在階のランプが順番に上がっていくのを眺めながら、里緒奈は唾を飲む。
 やっと、最上階へ向かうことができる。
 不思議な気持ちだった。
 嬉しいのか、怖いのか、悲しいのか。
 全てが混ざっている気がする。
 チン。
 エレベータの扉が、開く。
 降りた先、左右に広がる廊下を見渡す。
 このフロアは、これまでと違い、ただ長い一本の廊下が見える。
 よく見れば奥の方に幾つか、部屋の入口らしきドアも見える。
 里緒奈は左側に進み始める。
 廊下がやけに、長く感じられる。
 自分が奥に進んでいく以外の、物音はしない。
 奥にある、一基だけのエレベータの前に到着する。
 これまでと同じように、鍵穴に鍵を刺そうとして、里緒奈は気が付く。
 既に、現在階表示のイルミネーションが点灯している。
 何も奇妙な話ではない。
 さっき、自分が四階から十三階に行くために使ったのと、
 同じ位置にあるエレベータだからだ。
 使用可能な状態にしたのは、自分自身なのだ。
 しかし、奇妙なのは、その点ではなかった。
 まだ、上に向かうボタンを押していないのに、
 エレベータが下がってきているのだ。
 最上階の二十二階から、

 二十一、

 二十、

 十九、

 十八、

 ——十七階。

 チン。

 エレベータの扉が、開く。
 一瞬遅れて、里緒奈は、小さく悲鳴を上げる。
 そのエレベータは、空ではない。
 そのエレベータには、何かが乗っている。
 そしてその何かは、動き、
 里緒奈に近付いた。
 小さくなっていたから分からなかったが、
 それは、
 人間だった。
 里緒奈は、微動だにできない。
 立つと、その人間は、とても大きく見えた。
 全身が黒い服なのか、身体の形がよく分からない。
 その人間は、
 手に何かを持っていた。
 渾身の力で後ずさった里緒奈は、その拍子に、その手の先が、輝くのを見た。
 ナイフだ。
 ナイフ。
 手に、握っている。
 その人間は、一歩前に進み出て、静かな声で言った。

 「——こんばんは」

1.8.0 4D-WC

1.8.0

 東川莉子が警察庁で話を聞いて貰える状況になるまで、多少の時間がかかることになった。
 しかしそれは莉子が悪いわけではない。ひとえに彼女を警察庁まで送り届ける役目の眞田の落ち度である。
 まず、彼はお金を持っていなかった。ということで莉子が眞田の交通費を出してやる羽目になり、挙げ句の果てに夕食代まで貸すことになってしまった。
 「そろそろ、お腹が空きませんか。議員さんの秘書ともなればお忙しいでしょうから、軽くご飯でも食べながらお話を聞く方が効率的ではありませんか」
 という提案が来たときは「そのお金は誰が出すんですか」という質問をぐっとこらえて、莉子は頷いた。提案自体はもっともなものだと思ったし、時間を節約したいのは確かだったからだ。
 近くのファミリーレストランに入り、寄ってきた店員に、「あ、二名で。たばこは吸いません」と莉子に対するのとは違う強気な口調で告げ、眞田は莉子をエスコートした。この若さでこの態度では、先が思いやられる。少なくとも、プライベートでは相手をしたくない。
 席に座るなり「いや、本当に申し訳ない」と眞田は頭を掻いたが、爽やかな笑顔の向こうに反省の色があるのかどうか莉子には判別できなかった。
 眞田は水を一口飲むと、早速本題に入った。
 「小石川にお話ししたことは、全て私にも連絡済みだと考えて下さい。全ての情報は部署の人間にはシステムを通じて共有されており、また外部の人間には漏れないように堅いセキュリティが掛けられています。ご安心下さい」
 「わかりました」
 「単刀直入に質問します。今畑の娘が関わっているという犯罪とは、何ですか」
 「本当に単刀直入ですね」面食らってしまい、莉子はそう言って誤魔化すしかなかった。「さすが本庁の刑事さんは優秀ですね」
 「いえ、東川さん。あなたの時間を取らせないためです。また、その犯罪の正体がはっきりしないことには、私たちは諸手を挙げて動くことができません。事件性はそこにしかないからです。いくら国会議員の娘とは言え、人捜しまで引き受けていたんじゃ身が持ちません」
 どうやら刑事としてはかなり直接的な物言いをする人間のようだ。
 「それではこちらも単刀直入に申し上げましょう。彼女は恐らく、新興宗教の組織だった詐欺的商法に重要な役割として参加しています」
 それまでメモを取るためにずっと下を向いていた眞田が、顔を上げた。
 次の質問を考えている表情だ。そこに先程までの爽やかな笑顔は残されていなかった。
 「その宗教の名前を、お聞きしてもよいですか」
 「いえ、大変申し訳ありません。それは知らないのです」
 「知らない……それは、本当に知らないと思って良いのでしょうか」
 「はい。これから眞田さんにお話しする情報は、全て今畑籐吉本人から私自身が直接聞いた内容です。そして私にしてみれば、事件に関して、今畑籐吉から聞いた情報が全てなのです」
 「今畑籐吉先生自身が、宗教の名称をご存じない、ということでしょうか」
 「そうです。少なくとも、私にはそうおっしゃいました」
 がっかりしたように眞田は肩を落とし、軽く溜息をつく。
 「……わかりました。今畑先生があなたにお話しされたことを、順番に教えて頂けませんか」
 「はい。今畑が今回の話をされたのは、去年の年末、忘年会パーティの時でした」
 「それはまた、大規模な?」
 「そうですね……大体百五十人人ぐらいの参加者がいました。都内のホテルです。毎年恒例の行事なので私は普段通りに進行をしていたのですが、途中歓談の時間、先生が私をお呼びになりました」
 「はい、それで何と?」
 「大事な話があるから別室に来てほしい、数分で終わる話だから、とおっしゃいました」
 「どう思われました?」
 「どうって……」莉子は少し考える。「珍しいことだったので、よほど、何か大事なことなのだろうと思いました。また相当急いでいるのだろうとも。そうでなければわざわざ忘年会パーティの途中で話を切り出す必要もないでしょうし」
 「確かにそうですね。すいません、先を続けて下さい」
 「結局、部屋に戻る時間もなかったので、ホテルの一階のロビーのソファーに座ってお話を伺うことになりました。そこで里緒奈お嬢様がいなくなったことを告げられました」
 「りおな……さんというのが今畑先生の娘さんでしたね。他には?」
 「前から予兆はあった、というお話でした。怪しい宗教にかぶれている、だから見張りを付けていたのに、恐らく私が見張っているのに勘付いて逃げたのだろう、と」
 「かぶれている……それは、今畑先生の言葉ですね?」
 「そうです」
 「小石川には、娘の可愛さの余りボディガードを付けていた、ということになっていましたが、実際はそうではなく、見張りを付けていたわけですね」
 「そういうことになると思います。それから今畑は、私に里緒奈お嬢様の件を任せるとおっしゃいました。これまでの里緒奈お嬢様に関する調査の記録を金庫に隠してあるから、それを元にして至急調べてほしい、ということでした」
 「金庫……それはまた、念入りな……」と一瞬絶句して、眞田は先を続ける。「ともかくも、あなたはその指示にすぐ従ったわけですね?」
 「まあ、そうですね。まずはその金庫の中の資料を確認するところから始めました。どれぐらいの期間で集められたのか、今畑本人が集めたのかどうかもよくわからなかったのですが、結構な量の資料がありました。しかしそれはほとんど、写真の束でした」 
 その言葉に眞田の目の色が変わる。
 「写真には、何が写っていたんですか」 
 「里緒奈お嬢様を隠し撮りした写真がかなり多かったです。とあるマンションの一室に出たり、入ったり……。その部屋の中で何をしているのかはさっぱりそこからはわかりませんでしたけど。写真には、他の人間と並んで歩く里緒奈お嬢様の写真も写っていました」
 「その写真は、今日はお持ちですか」
 「いえ、現在自宅で保管しています。軽はずみに持ち歩かないようにしていますので」
 「なるほど。後日お持ち頂くことは、可能ですね?」
 「もちろんです」
 「先程、今畑先生の娘さんが新興宗教に関わっているというお話がありましたが、それも資料の中に書いてあった情報でしょうか?」
 「はい。資料の中に、宇宙と交信をするための機器を購入することを薦めるチラシがありました」
 「宇宙と交信……」相手は苦笑いだが、メモを取ることは忘れない。
 「その文章の中に、里緒奈お嬢様の顔写真が載っていました。その機器を使用した体験記を載せた人間として、文章を寄せていたんです」
 「ほお……」
 そこで一度話がストップした。二人がオーダーした食事が到着したからだ。
 ウェイトレスの女性は二人の空気には気が付かず、手早く席から離れていった。
 「ひとまず、食べましょうか」
 「ええ……」
 話は中途半端だったが、今のうちに食べておかないと身体に良くない。
 一息ついて、莉子は大きなガラス越しに外を眺める。
 夜の闇は数多の街灯に消され、目の前の繁華街を多くの人が通り過ぎるのが見える。
 皆、一様に楽しそうだ。
 いや、そう見えるだけか。
 時々、ほんの時々だが、莉子はふと、我に返る瞬間がある。
 自分は一体こんな場所で何をしているんだろう。
 普通の女性なら、こんなことをしていないはず。
 普通の女性?
 私は普通じゃないのだろうか。
 何が不満なのだろう?
 漠然とした感覚が、周りの席の話し声にかき消される。
 気が付くと、眞田が笑顔でこちらを見ていた。
 「あれ、食欲、ないんですか?もし良ければ、私食べましょうか?」

1.7.0 4D-WC

 真冬の夜は早い。
小石川巧が目的地に到着した時には、既に辺りは何も見えなかった。
 車の通ることができる少し大きめの路地を左に折れ、細い路地を進むと幅の長い和風の玄関を持つ三階建の建物が現れた。手前の駐車場には砂利が敷き詰められている。
 玄関の横には純和風の板張りの廊下、そして縁側が延びている。今は寒いのでガラス戸が閉め切られているが、その向こうの障子は開け放たれ、何十畳もある座敷全体は見渡せる状態にある。
 小さな子供が、廊下からぼんやりとこちらを見つめている。
 すぐにそれが誰だかは分かった。巧は微笑んで手を振る。
 それに応えるようにして、その子供がガラス戸を開け、足に合わない大きなサンダルをぱたぱたと鳴らしながら掛けてくる。
 「パパ、おかえり!」大声で言ってにっこり笑う。
 「ただいま、俊(しゅん)。もう遅いから、あまり大きな声を出しちゃいけない」
 「うん!」と、また元気に応えた声は、夜の住宅街に響く。
 「まあ、いいか。寒いだろう、中に入ろう」
 「ねえパパ、あのね、あのね」俊は巧に腕を引かれながらも話し始める。「今日はたしざんしたよ」
 「そうか、足し算したのか。楽しかったか」
 「えっと、楽しかったときもあったし、楽しくもなかったこともあった」
 「楽しくなかったのはどこだ?」
 「えっとね…、6と8を足すのが、楽しくない」
 「6と8」巧は玄関で考えてみる。「とにかく、家に入ろう。話は後でゆっくり聞くから」
 「うん!」頷いて俊は今度は、「パパ、手を、洗って、うがいもだよ」と言ってくすくす笑う。
 「わかった。俊は食堂で待っていなさい。他のみんなと遊んでなさい」
 俊はようやく巧の側から離れて、先に廊下を走っていった。
 巧も玄関にコートを掛け、手を洗い、うがいをしてから廊下の突き当たりにある二十畳ほどの洋風の部屋に入った。そこには俊も含めて、五、六人が白いテーブルに向かって腰掛けていた。ここが食堂である。彼らはほぼ全員、食事中のようだった。
 食事をしているテーブルとは反対側、カウンターの形になっているキッチンの方に顔を出す。
 「ただいま」
 そこでは女性が一人、料理中だった。コンロの前でフライパンを振っている。巧の存在に気が付いたが、料理が途中らしくフライパンに視線を戻し、そのまま話し始めた。「所長、おかえりなさい、早かったですね」換気扇が回っているので彼女も俊と同じく大声だ。
 「いや、まだ仕事の途中で抜けさせて貰ったんだ。また行かなきゃ」
 「そうですか。食べて行かれます、晩ご飯?」
 「そうだな、じゃあ、そうさせてもらおうかな」
料理の邪魔をしては悪いと思い、巧は子供たちが集まっているテーブル側に戻る。
 「みんなただいま」
すると口々に「おかえりなさい!」が帰ってくる。いい瞬間だ。
 「パパ、今日はね」と少し落ち着いた調子で話す女の子は、この施設では最年長の女の子、恵(めぐむ)である。「久し振りにつかさお姉ちゃんが来てるんだよ」
 巧は驚いた。「へえ…司(つかさ)が来てるのか、今はどこだ?二階にいるのか?」
 「お風呂入ってる」
 「お風呂とは、本当に珍しい話だな」
 多少、巧は心配になる。年頃の潔癖症に近い女の子だから、風呂に入る用意をわざわざしてきたということだ。自宅で風呂に入れない事情でもあったのだろうか。特に巧は経験上、こどもが何かいつも違う行動を起こすことに関して非常に敏感に反応してしまう。過敏と言っても良いかもしれない。勿論その感覚はこの施設を運営していくためには必須ではあるものの、未だに慣れない。
 「もう、出てるよ」
 突然後ろから声がした。「おかえり。パパ」
 「司……。いやあ、良く来たな。久し振りだな」
 なにかあったのか、と言いかけた言葉を飲み込み、振り返って司を見たが、彼女からは風呂上がりであるような感じは全く受けない。髪も綺麗にセットされているし、服もジーンズに厚手のカーディガンを着ている。たぶん、風呂上がりの様子を他人に見られるなんて、司には考えられないような事態なのだろう。それが、彼女の潔癖さだ。
 「今日はパパに聞きたいことがあって来たんだけど……」
 不安げな声でそう呟く。
 「そうか」この瞬間が、どんな仕事上の事案よりも一番頭を酷使する瞬間だ。「二階で話、聞こうか」
 「そだね、でもそんな大した話じゃないよ。勉強のことだから」
 「勉強?司の成績なら、全く問題ないだろう」
 深刻な悩みではなさそうだとわかり、巧の気が緩む。
 「うん……ちょっとね、パパの専門分野に近い話だから」
 「具体的には何だ?」
 「命題様相論理のTとS5の意味論が理解できない……というか、直観的に頭に入ってこない。こんなの、使い道あるのかなあって」
 「ああ……」巧は一瞬天井を見上げる。研究者の頭脳が戻ってくる。「なるほど。ちょっと説明しないといけないね」
 「パパ、二階でやろうよ」
 確かに、子供たちがいる一階では集中できる話ではないだろう。
 巧は食堂を出て、今度は廊下の途中にある階段を司の後を追いながら上った。
 「またどうして、命題様相論理なんだ?というか、この前まで生理学をやってたじゃないか」
 「うーんとね、それが話すと長くなるんだよね……階段、やっぱ寒いね」
 「何の話なのかって、ちょっと心配したじゃないか」
 「どゆこと?」階段を振り返り司はきょとんとする。「心配って?」
 「滅多に帰ってこないくせに、いきなり帰ってくるからだよ。てっきり学校で何かあったのかと思ったよ」
 「ないない!」笑いながら司は否定する。「学校、すんごく楽しいよ」
 「そうか、それならいいが……」
 「それよりさ、パパはさ、人間って、作れると思う?」
 振り向きざま、司は悪戯っぽく微笑む。
 「それは、精巧なロボットということか?」
 「ううん、違うよ」
 そこで二階の談話室に到着した。「鍵、開いてるっけ?」司はそう言いながら返事を待たずにノブを回す。
 かちゃんという音が冬の暗い廊下に響く。
 司が部屋に入り、急にその中から明かりが漏れる。彼女が照明のスイッチを付けたのだ。
 「うわあ、ここも変わってないね」
 「まだ、司が出て行ってからそんなに経ってないじゃないか」
 「そうかもしんないけど……すごく久し振りな気がする」
 それは巧も同感だった。
 「まあ、座りましょうか」司は茶色のローソファにどすんとお尻を下ろす。
 巧は部屋の扉に掛けてある緑色の「空いています」の札を裏返し、赤い側の「使っています(ノックするように!)」に切り替え、扉を閉めた。鍵は付いているが、巧はこの部屋の鍵を掛けたことは一度もない。
 「よし、じゃあ話を聞こう」
 ゆっくりと巧も司が座る反対側に腰を下ろす。
 「人間が作れるか、っていう話、ロボットのことじゃないよ」
 「それは……人間の頭脳の話?肉体?」
 「両方。肉体の方は研究も進んでるし、本当の肉体でなくても正直いいんだけど、やっぱり難しいのは頭脳の方」
 「もしかして、それで生理学と論理学なのか?」
 「さすがパパ……分かる人には分かっちゃうんだね」
 「人工知能か」
 「うーん、まあそう言っちゃうとコンピュータっぽいからイヤなんだけど、そういうことかな」
 「数学と物理学はやったのか?」
 「まあ、必要そうな部分だけは一通り……やっぱり苦手だけど」
 「細かい話を聞きたいのは山々だが、今、実は仕事を抜けて出てきてるんだ。まさかそんな長引く話だと思っていなかったから……」
 「別に長引かないよ」司は足を組み直す。「細かい理論とかは、結局、自分で勉強できるんだ。知識なんか、入れたら終わりだもん」
 「全く、司らしい言い方だな」
 「そうじゃなくて、問題は……ポリシー」その瞳に力を込めて、司は言った。
 「ほう……」
 更に、巧は驚く。
 また、この子は一歩先に進んでいる。
 若さとは、恐ろしい。
 「つまり、人間の、定義ということか」
 「そゆこと、なのです」
 大きなピースサインをして、小石川司は満面の笑みを浮かべた。

1.6.0 4D-WC

 小石川巧に促されるまま、莉子は玄関で靴を履き、マンションの廊下に出た。依然として薄暗い。
 それに続き、特殊事案調査室の長と名乗った男は、その身分に似合わぬ緩慢な動きで外に出た。施錠できるまでに何度か鍵束からを選んでは差し直すということを繰り返した。
 どうやら、この部屋に馴染みがないというのは嘘ではないらしい。
 なぜ入ったことのない部屋で話をする必要があったのだろうか。
 やはり気になるが、解決の優先順位は低い。気になることは他にも多く、また、それらの方が重要だ。
 莉子は頭の中でそれらのタスクを正しく並べ替える。
 「お待たせしました、それでは行きましょうか」

 巧はばつが悪そうな表情で莉子に先を促した。

 「これから、どこへ向かうのでしょうか」

 「本庁まで来て頂きます」

 やっと警察本部に入れるわけか、と莉子は不思議な安堵感に包まれた。

 「先程は事前審査ということですか」

 「事前審査」相手は莉子の言葉を反復する。「なるほど。そういう表現をすれば良かったですね」

 その返答は間が抜けている。

 こちらの厭味が通じなかったのだろうか。

 莉子は内心溜息をつき、仕方なくマンションのドアに踵を返し歩き始めた。

 しばらく歩き、六本木の地下鉄の駅まで戻ってきたところで小石川巧が呼びかけてきた。

 「あの、実はお願いがあるんです」またしても言いにくそうな表情をしている。「実は一度自宅に戻る必要がありまして…」

 「自宅?小石川先生の自宅ですか?」一応、先生と呼ぶことにする。

 それにしても、これから警察に行こうというところで自宅に戻るとはどういうことだろうか。

 「いえ、これは全くあなたとは関係がない、完全な私個人の事情です。他の者に既に連絡はしてありますので、どうぞ先に本庁まで行って頂ければと思います」

 子供のような表情で巧は申し訳なさそうに説明した。先程とはやはり別人だ。

 「特に構いませんが…私、本庁に行ったことがないものですから、これから道案内がないと不安なんです」

 「そうですか、それでは人を呼んでおきましょう、少し待っておいて下さい」

 そう言って今度は莉子に背を向けて走り出し、地下鉄の入り口に隣接した電話ボックスに駆け込んだ。

 少し慌てた様子で巧は電話を掛けようとしているのが遠目に見える。

 ふつふつと湧き上がる、違和感。

 何か目的があるのだろうか?私が何らかの形で(それが何なのか見当もつかないが)疑われているのだろうか?警察関係の人間なのだから、あの柔和な態度も演技かもしれないではないか。

 さっぱり要領を得ないが、ひとまずは依頼を受けて貰わないことにはどうにもならない。

 などと莉子が考えている間に巧は電話を終えたのかほっとした顔で受話器を戻し、いそいそと莉子の元に戻ってきた。

 「大変お待たせしました、すぐに迎えが来ます」

 「わざわざ申し訳ありません」礼を述べたものの、まだ頭脳は計算中だ。

 「ここの地下鉄の改札の前で待っておいて下さい。サナダという男があなたを迎えに来ます」

 「わかりました」ひとまずは頷くしかないだろう。

 「それでは、後ほどお会いしましょう。失礼致します」最後は柔らかな物腰でお辞儀をして、小石川巧はくるりと莉子に背を向け、その後は機敏に歩いていった。あっという間に見えなくなる。彼は地下鉄を使わないのだろうか、とまた疑問がよぎる。

 莉子はバッグから手帳を取り出した。この後の作戦を練る必要がある。

 腕時計は午後六時半を少し過ぎたところ。さっきのマンションでの滞在時間は、感じていたよりも長くはなかったようだった。できることならば喫茶店にでも寄りたかったが、サナダという男に見つけてもらえなければまた面倒なことになるので、地下鉄の入り口から近い場所に座る場所を見つけて腰掛けた。円形の広場になっている場所であり、夕方ということもあってか人の往来は多い。

 開いた手帳には、多くの色とりどりな付箋が貼られている。

 今回のこの依頼、つまり今畑籐吉の娘の件に割ける時間は、他の事案との時間関係、優先順位から判断して約三日。これでも精一杯、調整に努力した結果だ。やはり通常国会直前では、単純に忙しすぎる。

 他の人間に協力して貰えれば良いが、ただでさえ限られた人員の中動いている上に、事案の内容のデリケートさが災いし、結局莉子が単独行動するのが最も手間がない。

 何とも、難しい内容だった。

 と、橙色の付箋に目を落とす。「電算機センター小野原氏」とだけ殴り書きされている。

 そこで思い出す。電話する約束になっていたではないか。

 今畑籐吉衆議院議員が普段より有権者の前で重点的に訴える政策の一つに、「教育環境の充実」がある。これだけでは単なるお題目だが、これは彼自身が元々中学校の教諭として教壇に立っていたことが起因している。それ故地方も含めて教育委員会ともつながりは深く、先進的な教育現場などを探しては、「日本の教育改革」を旗印にその詳細なレポートを作成し、それを国政の場でアピールしていくということを繰り返している。

 今回のレポートの舞台は関西の私立の中堅、R大学である。キャンパスとして、都心からは少し外れた場所に広大な土地を所有している。

 来週、莉子はその大学のある教授と話をすることになっている。そこでレポートの大きな内容が決定される。

 但しこの予定は、まだ確定ではない。というのも、その教授と急に連絡がつかなくなってしまっているからだ。

 その教授が、電算機センターの所長を兼ねる、工学部理学科、小野原貞政(おのはらさだまさ)である。

 少し迷ったが。莉子は一本電話を掛けておくことにした。

 サナダという男が現れても多少の時間の猶予はあるだろう。

 立ち上がって人の流れに逆らうようにして歩く。先程、小石川巧が使っていたのと同じ電話ボックスに入る。

 手帳を開いたまま番号をプッシュ。

 呼び出し音は鳴る。

 二度、三度。

 ……出ない。またしても。

 十回ほどで莉子は諦め、手帳を閉じる。

 と、電話ボックスの扉を押し開けようとして莉子は気がついた。

 財布が忘れてある。

 さっき小石川巧がここに入ったときに見つけられなかったのだろうか、と一瞬訝しみ、そして次の可能性に思い至る。その予感を確かめるために二つ折りの財布を開きカードホルダーの部分を一枚抜く。

 最初の一枚で出た。名義の書かれたキャッシュカード。

 これは小石川巧の財布だ。

 何とも間が抜けた刑事だな、と溜息をつく。その人間にこの事案を依頼すると考えると、単純に笑ってもいられない。中身の現金は多くはない。

 とりあえず、手帳と一緒にその財布をバッグにしまう。

 それにしても、これでもう一週間だ。だいぶ前から小野原教授にはコンタクトを取ろうと連絡を続けているが、突然音信不通になってからは本当にわからない。忙しくて他の関係者にもまだ尋ねていないが、そろそろ限界だ。R大学に問い合わせる必要があるだろう。

 そして電話ボックスの扉を再度押し開けようとして、莉子は短く悲鳴を上げた。

 背の高いスーツの男がガラス越しに立っていたからだ。こちらを睨むように見つめている。電話を待っていて時間が掛かったので腹を立てているのだろうか。それとも莉子が財布を盗んだと勘違いしているのだろうか。

 後者の可能性が高い、と判断して言い訳を咄嗟に脳裏で回す。

 すると、そのスーツの男は突然微笑んだ。次に電話ボックスを開ける。

 驚く暇も与えられず、男は手を振った。

 まるで、子供が「ばいばい」をするように、手の平だけを小刻みに。

 「あ、びっくりしました?すいません、眞田です!お話は聞いてます!」

 「へ?」

 場違いな声が漏れる。

 「あれ?東川、莉子さんですよね?違います?」狭いボックスの中に更に入ってこようとする。

 「ええ…私は、東川莉子です。あなたが、サナダさんですね?」

 なぜ私が東川莉子だと分かったのだろうか。

 「すいませんすいません、お待たせしました、もう用事はお済みですよね、もうすっかり暗いですので行きましょう。さあ」

 自分が中に押し込めたくせに、「サナダ」は今度は手招きする。

 電話ボックスから出るといきなり、眞田と名乗った男はまた微笑んで、言った。

 「あ、大変申し上げにくいことなんですが、お金、貸して貰えませんか?」

 「へ?」

 「あ、お金です」

 「はあ」

1.5.0 4D-WC

 都内の一画に、広大な敷地が区切られている。上空から見下せば、ゴルフ場が造れるほどの広さの中に、建築物が点在しているのを確認できるだろう。

 敷地の北端、関係者が「母屋」と呼ぶ平屋の入口で、坂町慶太(さかまち・けいた)は背広の襟を正した。

 幾年振りかの礼儀正しい服装である。

 豊かな緑に囲まれた門構えは非常に静かだ。既に数分待っているが、一向に誰も顔を見せない。

 ふう、と吐き出した溜息が、周囲の緑に巻き込まれ薄まる。

 「……どんだけ金持ってんねん」

 数日前の記憶が、するりと巻き戻る。

 坂町の身体は数日前のその時、自然の中ではなく都会にあったし、背広ではなくTシャツを着ていたし、更に言うなら待ち人ではなく、遅刻して人を待たせていた。

 雨の高層ビル街の中を、必死で走った記憶。

 高校時代の同級生との再会の約束の日だった。約、五年ぶりである。

 当日は予想外に仕事が長引き、遅れる旨の連絡すら、ままならなかった。それでも、連絡先もお互いいつの間にか変わっていて全く音沙汰が無い相手だったので、顔を見たい一心で、できるだけ急いで東京都内に入った。

 「おお、変わってないな慶太」

 「そうか?意外と太ってんけど……」そう言っている相手は、慶太とは違って、昔と同じ体型に見えた。否、むしろ痩せただろうか。「どこ行く?」

 「あれ?予約してないのか」

 「二人で飲むのに、予約は要らんやろ」

 開口一番では言い出せなかったが、慶太は相手が大阪弁で話さないことに、まず驚いた。但しその一方で、環境の力は言葉ぐらい簡単に変えてしまうことにも気付いている。

 歳を取った、とはこういうことなんだろうか。

 山手線は新宿で降りる。慶太の方が新宿には土地勘があったからだ。

 久しぶりの再会とはいえ、気取るような相手でもない。いつも立ち寄る居酒屋に入った。

 「すっかり怪しい面構えだな」

 「そうか?そんなには変わってないと思ってんねんけど……体重以外」

 「学生のときにはヒゲが無いだろ」

 「ああ……確かに、言われてみれば」

 出会っていない空白の期間を埋めるように、それからは二人とも経緯を含め必死に喋った。二人とも酒が飲めるようになっていた。それでも、慶太には取り立てて劇的な事件があったわけではなかった。上京してきてからは、貧乏をいかに乗り越えてきたかという話だけだった。そしてそれはつまり、小さな悲しみを背負った大量の笑い話が積もっていただけなのだと、喋りながら気が付いた。

 例の話題が出たのは、小腹も満たされ店の脇のテレビの野球中継も終わったタイミングだった。

 「そういえば、まだ不動産屋の営業やってるんやっけ?」

 「ああ……いや、もうその仕事はしてない」

 「じゃあ今は?」

 「今?」

 そう答えた相手の顔を、慶太はまだ忘れることができない。大きな動揺を慣れない嘘で誤魔化そうとしている意図が見え隠れする、危うい表情だった。そして何よりも真剣なまなざしに気圧されそうにもなった。

 「うん……まあ、普通のサラリーマンなんだけど」

 「へえ」少し不審には感じながらも、まずはそのまま聞き入れた。「犯人を泳がせる」という連想が咄嗟に脳裏に現れ、すぐ消える。「場所はどこなん?都心?」

 「六本木」今度はすぐ答えた。「ま、ほとんど事務所にはいないんだけど、外出ばっかりだし」

 「そっか、営業職なんか」

 「ああ、そうそう」

 不思議と彼は話を遮り、持ってきていた黒い鞄から書類を取り出した。「これ、いい話なんだけど」

 「いい話?」慶太は相手の怪しい態度が気に掛かって素直に受け入れる体制ができていない。

 そこには、「『出会いの泉』会場を盛り上げませんか?」という文字がタイトルとして書いてあった。

 「何これ?」

 思わず聞いてしまう。 

 「アルバイト、しないか」

 相手がなぜか嬉々として説明にするにはこういうことだった。自分の会社で本来の事業とは全く異なる分野である結婚応援人材サービスを開始する。その事業の一環として定期的に開かれている『出会いの泉』という名の出会いの場が存在するが、どうも人数が足りず盛り上がりに欠ける。そこで各社員の知り合いなどを必死でかき集めて何とかパーティとしての体裁を保っており、ぜひ慶太にもそのパーティに参加してほしい、ということだった。

 「つまり、お見合いパーティのサクラ、ってことか」

 「そんなはっきり言うなよ。盛り上げ役、って言ってくれ。恐らく悪くない報酬だと思うけど」

 「まあねえ……でもそれが逆に怪しいけど。それだけでこんなに貰えるか」

 一応他の人間が聞いていることも考慮してその金額を直接口にすることは避けたが、その額は一日約三時間のパーティ参加のみで二万円。

 確かに高いが、どうも怪しい。

 しかし慶太には仕事が必要だった。多少の怪しさには目を瞑るしかない。

 「そんで、結局どこに行ったらええん?」


1.4.0 4D-WC

 「それでは、必要となるであろう事項をお聞きしていきます。よろしいでしょうか」
 巧の澱みない口調は、柔らかさという余裕を含んでいた。
 学者のステレオタイプよりは、圧倒的に警察官のそれに近い。
 莉子は二つの立場を兼任する目の前の男の印象を、そう評価した。
 警察手帳は小石川巧のスーツの内ポケットに戻され、それを合図に質問が開始された。
 「これは必ず最初にお尋ねすることなんですが、私を知ったきっかけは何でしたか?」
 莉子は若干の間を開け返答する。「特別に所長のことを調査したわけではありません。この界隈では、かなり多くの政治関係者が所長にお世話になっているのは事実です。今畑の周辺からその噂が流れてきても、何ら不思議ではありません」
  相手の視線を確かめる。ポーカーフェイスというのには相応しくない、朴訥とした表情からは、まだ何も読み取れない。
 「なるほど、わかりました。では、どういった御依頼でしょうか」唐突に小石川は本題に入った。
 「ええ…」その話題の変換スピードに着いていく時間を稼ぎながら莉子は話し始める。
 鞄の中に資料があったはず。
 そう思い出し、ゆっくりとした所作で鞄に手を伸ばしつつ、実際は頭の中に散らばるパーツを組み立てようと頭を動かす。A4の黒い手帳を取り出して、一度で目的のページを開く。
 「今畑には娘がおります。その娘を、探して頂きたいのです」
 「その娘さんは行方不明なのですか」
 「そうです」
 「なぜですか」
 「わかりません」莉子は相手を見据えたまま答えた。それは、嘘ではなかった。「その理由も併せて調べて頂きたいのです」
 「大変申し訳ないのですが、私どもは警察組織です。事件性がないといくら何でも動けません」
 「事件性はあります」
 「どういったことでしょうか、お聞きしましょう」
 「恐らく彼女は、犯罪に関わっています。それもある種の団体の一員として、です」
 「その団体の名前をお話頂くことはできませんか」
 「この依頼を受けて頂けるかどうかに関わります」
 「勘違いして頂いては困るのですが」穏やかな口調だが、発言の内容は厳しい。「我々は興信所じゃないんです。確かに特殊な事案を扱っていますが、警察組織であることに変わりはありません。あなたが依頼の意志に関わりなく、そこに事件性があると判断すれば、またその事案が優先的に捜査されるべきと判断すれば直ちに行動を開始することになるでしょう」
 「決定権は私にはない、という理解でよろしいでしょうか」
 「随分と皮肉な物言いに聞こえてしまいますが、端的に言えばそういうことです。警察に対して捜査をしてほしくない、とお願いした際と全く同じケースでは?」
 「おっしゃりたいことは勿論分かります。しかし普通の警察に頼めないからこそ、こうして小石川所長のところを訪ねようと決心したわけです」
 「その理由もしくは行動が妥当かどうか、私には正直わかりかねます」漸く、巧は片方の眉をほんの僅か引き上げることによって表情を変化させた。「但しこれだけは言える。私どもは当然ながら依頼者からとの信頼関係は大切にしている。しかしそれが直ちに依頼者の言うことを聞くと言うことにはつながりません」
 まどろっこしい話の仕方だ。学者はみんなこうなんだろうか。
 「ここの会話は、録音されていますか?」
 「さあ…」巧は首を振る。「恐らくされていないでしょう。する必要がない」
それは裏を返せば、必要な時には会話が録音されるということだ、と莉子は思う。
 「最初から警戒されては、こちらも正直なところ動きにくいんです」今度は先程とは打って変わって穏やかで紳士的な口調で巧は言った。これが「捜査モード」なのかもしれない。「人間として常識的なレベルで秘密は守ります。我々が警察であるということは、最低限、公僕として守るべき義務があるということです」
 一言一言が講釈じみるのは多少じれったいが仕方ない。
 「わかりました、素直にお話しします」
 「助かります」
 「私の仕える今畑籐吉の娘、今畑里緒奈を探して下さい。彼女がいなくなったのは先週の水曜日」
 「詳しい経緯をお願いします」
 「彼女は普段、外出するのに許可が必要です。これは父親である今畑籐吉の意思でもあります」
 「かわいい子には旅をさせよ、では?」
 「今畑にはその格言は通用しないようですね。私が彼に仕えてそれほど長くはないですが、娘である里緒奈さんはほとんど独りで外出したことがないようでした」
 「その彼女が、家出した?」
どうも人の話を聞かずに先読みをしようとする。
 「…関係者はみんなそう考えています。しかしそれにしてはあまりにも変です」
 「変とは?」
 「彼女には常時監視役がついています。その目を盗んで彼女がいなくなったとは思えない」
 「普段からストレスがたまっていたのかもしれませんよ」
 「いえ、物理的に逃げられなかったはずなのです」
 「なるほど。そんな不思議な状況があったわけですね」
 「不思議な点は他にもあります。彼女は病気でそれほど遠くまで歩けないはずなのです」
 「病気?どんな病気ですか?」
 「下半身麻痺です」
 「麻痺」さすがに予想外の返答だったようだった。
 「普段は里緒奈さんは車いすを使っています。そんな彼女が監視の目をかいくぐって逃げられたとはどうしても思えないのです」
 「他の関係者はその不可解な点に目をつぶり、単なる家出とみなしているのですね?」
 「まあ、そうです」軽くうなずく。「どちらかというと、主人である今畑の機嫌を損ねるのを恐れて何も言わないだけですが」
 「愛娘が家出したとあっては、どちらにしろ機嫌は悪いでしょう」
 「確かにそうなのですが、色々と事情は複雑なのです」
 「大きな原因はわかりました。…但し、まだ捜査を開始するには情報が足りません」
 「どうすればよいですか?」
 「ここではだめです。もう一度、移動をお願いできるでしょうか?」
やけに落ち着いた態度で、巧は立ち上がって微笑んだ。
 「ええ…かまいせんが、どこへ?」
「ひとまず、出ましょうか」巧はその質問を無視して立ち上がった。

1.3.0 4D-WC

1.3.0

 白いソーサに、丸いカップが乗っている。
 その中で、琥珀色のコーヒーが、湯気を立てながら渦を作る。
 東川莉子(ひがしかわ・りこ)は、それをぼんやりと見ていた。
 場所は、六本木の喫茶店である。
 さっきから何度も確認している腕時計を、また見てしまう。
 現在、十七時十五分。
 焦れば焦るほど、時計を見る回数が増えていく。
 だから余計に時間が進まないように感じられる。
 悪循環だ。
 待ち合わせ場所には、十八時に集合する約束だ。
 移動時間を引くと、残り十五分。この中途半端な空き時間が一番扱いづらい。 
 こんなことを考えている間に、仕事の一つでもこなせれば良いのだけど、ため息を吐く。
 今のところ、大きな仕事の軸が、主に三つある。
 一つ目は選挙対策の雑務。二つ目は、教育支援活動の調査レポート。これは数ヶ月毎に山が来て、年度末が近い今も登山の最中なのだ。
 そして三つ目こそが、現在の待ち合わせの件である。簡単に言えば、自分が仕える衆議院議員、今畑藤吉(いまはた・とうきち)の身辺に関わる調査 だ。依頼の相手は、普段は国立の研究所の所長をしている。今日の午後に一度、依頼のために直接研究所に立ち寄ったが、取り付く島もないとはこのことか、 あっさりと出直すように言われた。時間にはある程度ルーズ、という学者に対する先入観は少し揺らいだが、ある程度は想定内、ここは辛抱である。
 莉子は広げていたシステム手帳を畳んで、急ぎ足で勘定を済ませた。スーツ姿の男女が店内でひしめき合っている。
 早く着くのを承知の上で、ゆっくりと歩いて行くことにした。
 外は既に温かい。今年は通常国会も延長なしで閉会し、明確なバタバタ感もない。三月の日々はコートを邪魔にしたり、恋人にしたりと忙しい。駅までの大通りを多くの車が過ぎ去り、騒音で薄い膜のように重低音を造る。途中、擦れ違う若者の髪の色に驚く。
 実は、六本木には頻繁に顔を出すバーがあり、ちょうど通り道から近かったので、一本だけ筋を奥に入り、入り口の様子を確認した。少し変わったバーで、外から見ると単なる一軒家にしか見えず、しかも不定休なので立ち寄るには事前の確認が必要なのだ。
 小走りに入り口に近寄る。メニューの看板が出ているので、今日は一日開いている。
 帰りに寄ろうと決め、大通りに戻る。
 何となく安心して、待ち合わせ場所である営団地下鉄の改札口まで、地下へ降りていく。
 少し薄暗い改札の前、すぐに相手の姿は見つかった。
 温かそうなコートに身を包み、一番端の柱の横で立っている。大きいアタッシュケースを手から提げていた。
 「こんにちは、小石川所長」
 呼吸を整えて声を掛けると、男もこちらを発見して喜んだ表情になった。
 「やあ、お互い少し早かったですね」
 「いえ、もう五分前です。さすが、時間に厳格でいらっしゃいますね」
 若干、嫌みを込めて言ってみる。
 「ありがとうございます」素直に受け取ったのか男は笑う。「では早速ですが、行きましょう」
 男は素早く振り返り、歩き出した。そのまま連れられ、莉子は入って来たのとは反対側の出口から階段を登る。どうせなら、最初からその出口で集合すれば面倒も少ない筈だが、それをしないのは、何らかの警戒心が働いているのだろうか。
 「遠いんですか?」徐に、階段を登る背中に尋ねてみる。
 「いや、それほどではありません」
 と少し答えにくそうにして、男はそのまま莉子の前を歩いた。
 地上に出て再び車の騒音がひしめく中を歩きながら、この二人はどんな関係に見えるだろう、と莉子は想像する。彼の年齢は事前には調べていないが、黒々とした毛髪、顔の貫禄からすると四十代後半のように見えた。
 数分も歩くと、見慣れない、細い道へと入り始めた。
 周りは駅前の雑居ビルが多く、細い道ではあるが意外と人通りは多い。六本木の駅前だから不可思議ではないが、相談に相応しい場所がある、という 話からすると何処に案内されるのかは不明瞭だ。今のところ、興信所の事務所を頭に描いていたがそういう建物ではないのか。ビルのテナントを賃貸しているの だろうか。
 小石川巧の案内は、三階建てのマンションの前で終わった。
 「ここです」簡単に指を差し、こちらが軽く頷くとそのまま入り口へと進んでいく。
 雨避け用の緑色のマットを踏んで入ると管理人室らしき受付があるが、今はカーテンが閉められている。郵便受けの数から察するに、十数棟の小さなマンションだった。
 二階へ登ると、長い通路に沿ってドアが並ぶ。外が見えないほど通路の壁は高く、息が詰まりそうな雰囲気だった。しかし、後ろめたい人間には使いやすいかもしれない。どうもこの種類の空気は苦手だ。
 「お待たせしました、この部屋です」
 また簡単に言って、小石川巧は持っていたアタッシュケースを一度通路に置き、ダイヤル錠を回し、素早いが慎重な手さばきでそれを開いた。莉子は中身が気になったが、あからさまに覗く訳にもいかず、その様子を見守った。
 次に彼はその中から鍵束を取り出して、躊躇わずにその内の一本を挿して回した。
 ガッチャン、という、古い場違いな音。
 小石川はドアの軋む音に顔をしかめながら中に入り、莉子も迎え入れた。
 「ここは、所長のお部屋ですか?」後ろ手で鍵を掛けつつ莉子は尋ねた。
 「いえ、違います、実は初めてなんです」
 再び、男は言いづらそうに応える。
 「初めて、ですか?」
 「はい」
 理解できないが、ひとまず保留にする。玄関から真っ直ぐ廊下を進み、リビングに出る。他にもどうやら二つ部屋があるようで、一般的な2LDKの間取りだった。
 リビングには机と大きなソファが置いてある。テレビもある。
 埃が積もっている様子もなく、掃除は行き届いている。
 ここは何だろう、彼の知り合いの家だろうか、と莉子は考えを巡らせる。
 「荷物はソファに置いて下さい」
 「恐れ入ります」
 指示通りバッグをソファに置き、落ち着かないまま中央のダイニングテーブルに向かって腰掛けることにする。向かいには既に小石川巧が座っており、椅子はもう二つ余分に置いてある。
 「ここでなら、お話が伺えます」ぽつりと、男は言った。
 「はい」
 「恐らく、色々と、不思議に感じておられるでしょう」
 「そうですね、確かに」
 「その理由を説明するということは、つまり、私たちの組織を説明することと同じです。ご心配には及びません。但し、開示可能なのは限られた情報です。あなたの不安を払拭するための最低限の情報だけをお渡しします」
 「分かっております」
 そこで頷く。
 「では、改めまして、と言った方が良いのかも知れませんが——」
 小石川巧は、コートの胸ポケットから革のカード入れのようなものを出して、莉子の前に差し出してみせた。少し大きめである。
 莉子は刹那の後、気が付いた。
 それが、警察手帳と全く同じサイズ、色合いであると。
 目の前の男はそれを捲り、金色のマークを示す。
 「国家公安委員会直属、特殊事案調査室本部本部長、小石川巧と申します」