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「新田義貞」と「にったさん煎餅」と「生品小学校」など。

スーパーで見つけた「新田義貞せんべい」。




中身は「ごま」「しょうゆ」「みそ味」だそうです。
今度買って食べてみます。

唐突にここで、「上毛かるた」。
最近テレビのバラエティー番組の「県民性クイズ」とか「ニッポン検定」とかで、必ず「群馬といえば上毛カルタ」と紹介される。(このとき必ず井森美幸が出るが、やはり群馬には他の有名女性タレントはいないようだ。関連記事 。)
この「上毛かるた」は、群馬県の偉人、名所、名産をカルタにしたもの。
そして「れ」は、



「歴史に名高い 新田義貞」です。
その手の番組で「上毛かるた」が紹介されたら、「れ」は新田義貞ですよ、と周りの人に、こそっと自慢してください。(きっと、「この人なに言ってるんだろう」と思われるでしょうけど)

ところで、娘が幼稚園を卒園しました。



「卒園証書」をよく見ると「大中黒」なんですね。
そして、「生品小学校」に入学。
もらってきたパンフレットに載っていた校歌をみてびっくりした。
その歌詞の3番を書き写してみます。

「緑の杜の  御社
大中黒に  鏑矢に
歴史をしのび高らかに
大きな希望  歌おうよ
ああわれら  生品小学校」

と、もろ「新田義貞」色が出てるものですから驚き。(ここでの鏑矢とは、義貞が出陣前に鎌倉方面へ向け矢を放って吉凶を占った故事にちなみ、生品地区の小学生がはちまきに黒袴のいでたちで、神前で祈願の後、鎌倉方面へ向け、掛け声とともに竹製の弓で鏑矢をいっせいに放つ「鏑矢祭」のことも重ねています。ちなみに新田義貞が挙兵したといわれる5月8日に毎年行われる。)

というわけで私の娘も「生品小学校」に入学。

早稲田大学の斎藤佑樹くんが通っていた同じ小学校に通うわけです。

思えば、ブログを初めて、そろそろ1年、まず一番初めに書いたのが「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか! 」だった。そのあと何回かしつこく書きましたね。
「鏑矢祭に斎藤佑樹くんが参加していたときの写真が雑誌に載っていた」なんて情報をもらったり、「生品神社のお守りはどこで売っているの?」なんていうメールももらったりしましたけ。
そうか、もう1年か、早いものですね。
そう思って、町にあふれている「大中黒」を見ると、なかなか、感慨深いものがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の謎



デアゴスティーニの週刊「歴史のミステリー」第11号のなかの記事「芸術の裏側」で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を取り上げている。



その中で「謎」となっている部分を検証している。

①モデルは誰なのか?

1、ジョコンドモデル説。フィレンツェの富豪フランチエスコ・デル・ジョコンドの妻であるモンナ・リザ夫人(リザ・ゲラルディーニ)
2、ロレンツォ・デ・メディチの息子ジュリアーノの愛人説
3、ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナ説
4、マントヴァ公爵夫人イザベラ・デスナ説

と本文では、モデルとなっている女性をそれぞれ検証している。
ここで、いろいろな説が出されていたが、検索するとこんな記事が出ていた。

[ベルリン 14日 ロイター] 独ハイデルベルク大学図書館の研究者らは、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた名画「モナリザ」のモデルについて、数世紀に及んだ謎を解明したとしている。
 16世紀に描かれたモナ・リザのモデルはこれまで、裕福なフィレンツェの商人、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻という説が有力視されてきたが、美術史研究者らの間では、ダ・ヴィンチの愛人や母親、また自画像であるとの議論も行われてきた。
 同図書館の研究者らは、1503年10月に絵の所有者が本の隅に走り書きした日付入りのメモにより、絵のモデルがリザ・ゲラルディーニとの名前でも知られるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であることが明確に確認できたとしている。
 同大学のスポークスマンによると、メモは、写本の専門家が2年前に図書館で見つけたものだという。
(2008年1月15日 ロイターニュースより)

ということで、モデルについては、1のジョコンド説が、いまのところ最有力となっているようだ。


②自画像の信憑性

1986年、アメリカのリリアン・ジュワルツ博士によって、ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザを重ね合わせると、顔の造作がほとんど一致するという説が、発表された。
これによって、モナ・リザはダ・ヴィンチ自身であるという説が唱えられるようになった。
この説には、16世紀初頭のルネッサンス期を生きた知識人に流行していた「新プラトン主義」の影響があるいう。これは、「人間の内面には女性原理と男性原理が共に宿り、その均等な二分化をもって人間のあるべき理想とする、古代ギリシャから再生したイデア論」である。この考えに影響されたダ・ヴィンチは、「モナ・リザ」で自らを女性に見立てることによって、両性具有を具現化しようとした、というものだ。
現代、コンピューターの画像処理技術の発達で、「モナ・リザ」と「ダ・ヴィンチの自画像」とが一致していることは科学的に裏付けがなされている。しかし、ではなぜかそんなことをしたのか、という点においては、これまた様々な説が出てくることになり、謎は逆に深まることになる。


③背景に描かれた風景の謎

人物の謎のほか、背景に関する謎も多い。この世とも思えない異様な背景ともいわれ、北川健次氏によれば「画面中央に座してポーズを取った女人像と、背景に広がる大気の深奥へと連なった山々の描写は、微妙なところで不自然な融合ともいうべき混淆を見せている。その絶妙な不安感が、他に類のない不思議な雰囲気を醸し出し、この絵に独自な幽玄の相をもたらしている。」と記している。
では、この背景についての説を列挙してみる。

1、ダ・ヴィンチが一時期住んでいたアレッツォの風景説。アルノ川に掛っていたブリアーノ橋など書かれているといわれる。

2、アルプスの風景ではないか、という説。美術史家・ケネス・クラークの調査によれば、ダ・ヴィンチは二度ほどアルプスに行ったことがあり、ミラノからアルプスまでは一日で行ける距離である。ダ・ヴィンチのデッサンに、モナ・リザの背景と酷似した風景が描かれている。

3、左右の地平線の高さが異なることから、何かを暗示しているという説。向って右側が現在の風景であり、左側は水の浸食によって削られた大地を描いているという解釈によって、水の循環、浸食、浄化作用が「すべての人間に平等であり、生や死までを支配する」という宗教観を表したものであるという説。これは、ダ・ヴィンチの無神論であったということにも結びつく。(本文の説であり、この説が最も有力)

4、3の説の派生したもの。左が地球成形の光景、右が終末の光景を暗示したもの、という説。

5、左右の地平線の高さを合わせるように、中心を縦に割り左右を合わせることができる。左右結合部分説とでもいうのか。左右に分かれた人物は、左側が男性に見え、右側が女性に見えるという。詳しくは、「モナ・リザの秘密」というサイトでhttp://www.geocities.jp/da_vinci_in21c/sub1.html

④アイルワース版の真贋

「歴史のミステリー」ではここで、「アイルワースのモナ・リザ」を紹介しています。これは、2005年3月、日本テレビで放映された (「ルーヴル美術館ミステリー ビートたけし歴史的発見 名画モナ・リザはもう一枚あった!」という番組名らしい) もので、スイス・ジュネーブの地下金庫から発見されたものが、もう一枚のモナ・リザというものらしい。

本文には書かれていないが、この番組で紹介されたアイルワースのモナ・リザは偽物であるということが分っていて、東北大学院の教授が日本テレビに抗議文を送ったという話だ。

ただし、「モナ・リザ」自体が盗難に何度か遭っているため、じゃどれが本物と言われれば、何とも言えないという話もあるという。
また、ラファエロが「モナ・リザ」を見てデッサンした絵には、人物の背景には円柱が描かれており、「モナ・リザ」の背後の両端には元々円柱が描かれていたのではないか、という話もある。これによって、「モナ・リザ」には複数の絵が存在しているのではないか、という説が出てくるわけだ。

というわけで、「歴史のミステリー」で書かれていた内容とその補足は以上です。

ここで、今回私が参考にしたのは、




北川健次著「モナ・リザ」ミステリー、という本。

この本では、「モナ・リザ」のモデルは、4歳のときに生き別れた母親・カテリーナと、ダ・ヴィンチ自身を重ね合わせているという説で、説得力があって、整合性もあります。
真偽のほどは分かりませんが、この説にたどり着くまでが実にスリリングで、ミステリー小説を読むような展開で最後まで読ませます。しかも、この結論に結び付けるまでに、いろいろなものを引っ張ってきます。「神戸の14歳少年Aによる児童連続殺傷事件」「夏目漱石」「雪舟」「法然」「能面」、「脳科学」に「幾何学模様」と実に多彩。
いや~いいです、私にはこの強引さが、たまりません。

で、この本の冒頭に書かれている「モナ・リザの7つの謎」というのがある。
1、モデルは果たして誰なのか?
2、描かれた時期は何時なのか?
3、絵の注文主は実在したのか?
4、背景に書かれた現実とかけ離れたような幻想的な風景は、何かの暗喩なのか?
5、下腹部が僅かに膨らんだ妊婦とおぼしきこの女性の着衣が、なぜ黒衣の喪服であるのか?
6、口元に浮かんだ不気味ともいえる微笑の意味は何なのか?
7、そもそも画家は、この絵に何を描こうとしたのか?

と、美術史上最も有名な絵画に秘められた謎は、500年経った今も、なに一つ解明されていない、ということだ。

4人なのに、5個?

4月4日、フジテレビで放送されたテレビ番組「検定ジャポンスペシャル」の中で、「群馬県」の特集があるというので、見てみた。

群馬県出身の、俳優・中村俊介(草津市)とタレント・井森美幸(下仁田市)が、伊香保温泉と草津温泉を紹介していた。レポーターは、TIMのレッド吉田とアナウンサーの本田朋子。
そこで「おっ」と思った一場面から。
伊香保温泉にある「温泉まんじゅう発祥のお店」といわれる「勝月堂」を紹介していた場面での出来事。
まあ、番組は、ごく普通に店紹介していたんですが、そこに、お店の人から、おまんじゅうの試食が出された。中村をはじめ「4人」に、出てきたのが「5つ」のまんじゅうだった。

レッド吉田が「4人なのに、5個出てきた」といって笑っていた。(「何でや」っていうニュアンスで)
それに他の3人も「なぜ5個出てきたのか」は、不思議に思わなかったようだ。まあ、サービスだ、ぐらいに思ったのだろう。中村俊介が2つ食べる、といったことでその場面は終わった。
「だから何」って言われそうですね。

そう確かに大したことない。
だけど、「4人に5個」って不思議?
えっ、私だけ?

ふつうは人数分出す方が、今はいいのかな?
こういうこと、老舗だからするのかな。
私が思ったのは、お客さんに「4個じゃ縁起が悪いから」じゃないかな、ということ。
4は「死」につながるから、「死をあげる」というのは「お客さんに失礼だ」と、お店の人が思ったんでしょうね。(これは、私の推測です。)
これを、妻に言ったら、考え過ぎだ、といわれた。だが、たまたま一緒に見ていた親父は「心遣いのある店は、そのくらいする」といった。やはり年代によってそういった「風習の考え方」も違うようだ。

「不吉な数」というので思い出した。

丼物とかに入っている沢庵の数の話。
これって2枚って決まっているらしい。
その理由が面白かった。
1枚じゃ少ない。
3枚だと「三切れ」が「身を切る」につながるので、失礼になる。
4枚は「死」だから縁起が悪い。
でオチが、5枚じゃ多すぎて「店が儲からない」
だから2枚だという、こと。

まあ、日本人が嫌う数字は、他に「9(苦)」とか「49」とかでしょうね。縁起が悪いということで、病院とかホテルとかは欠番にしているといいますし、「車のナンバー」や「部屋の番号」でこんな数字が入っていたら、「これだけはやめてくれ」っていうでしょうね。
それに、日本に限らず不吉な数字というのはありますよね。西洋では「13」の嫌われ方はかなり凄い。(「13」にまつわる話はかなり多い) 他に「666」はキリスト教徒には、嫌な数でしょうね。ほかにイタリアでは「17」が不吉な数字らしい。
と、検索すると結構出てくる。
まあ、それぞれそれなりの理由やいわれ(または語呂あわせ)があって、そこがとても面白い。

週刊「歴史のミステリー」第11号

週刊「歴史のミステリー」第11号



目次 

歴史検証ファイル   徳川8代「暴れん坊将軍」誕生の真相

            黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?

遺跡に眠る謎     大平山元遺跡

疑惑の真相      「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?

芸術の裏側      「モナ・リザ」

語り継がれる伝説   「河童伝説」

人物再発見      エリオット・ネス




「徳川8代将軍誕生の真相」

『徳川幕府中興の祖と呼ばれ、時代劇などにも登場することの多い8代将軍吉宗。ところが、徳川宗家の出ではない吉宗が将軍となったのは、本来の継承者の相次ぐ死によるものだったことはあまり知られていない。そこには、何らかの陰謀があったのだろうか。』(本文より)

ということで、徳川吉宗が将軍になるまでの経緯と、その陰で噂されるきな臭い疑惑を検証しています。

①「紀州藩主になったのは偶然だったのか?」

まず吉宗が紀州藩主になるまでの経緯。1684年、吉宗は紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた。生母は「お由利」で、身分の低い女であったという。(本文では、商家の娘や西国巡礼者の娘などと挙げているが、全く分らない。詳しいことは不明であるとしている。光貞の風呂番をしていたときに手がついたというのは有名な話らしく、他の本に必ず載る逸話のようだ) 公式には巨勢六左右衛門(利清)の娘とされている。(巨勢氏は大和朝廷時代から伝わる名族)

1697年、吉宗は越前・丹生郡3万石の大名になる。5代将軍綱吉に拝謁し、所領を得たという、これだけでも四男坊としては、幸運なことだ。

1705年、紀州3代藩主・綱教(長男)死去、4ヶ月後に4代藩主・頼職(三男)が死去して、吉宗が5代目紀州藩主となる。(二男は早世)

ここで、本文では、父・光貞と3代藩主・綱教の正室・鶴姫(5代将軍綱吉の長女)が同じ時期に死んでいることから見ても、次々と周辺の人物が謎の死を遂げていることから、何らかの陰謀があったのではないかと推理している。

歴史研究家・河合敦氏「徳川御三家の野望」の本から、吉宗が配下に置いていた御庭番などの間諜・隠密による陰謀が陰で動いていたのでは、という説を挙げている。

②「吉宗は将軍争いとは無縁だったのか?」

ここで、江戸での将軍後継争いを説明している。5代将軍綱吉の死後、家宣が6代将軍に就任するが、3年で病没、そして家継は4歳で7代目将軍となる。大奥では、6代将軍家宣の正室・天英院と7代将軍家継の生母・月光院の間で熾烈な権力争いがあったという。

そこに「江島生島事件」が起こり、月光院派は力を失い、天英院派が勢力を伸ばした。のちに天英院が8代将軍に吉宗を推挙することになるので、この事件は吉宗将軍擁立の伏線となっている、とのこと。

このあたりは映画「大奥」で描かれている。



絵島には仲間由紀恵、月光院に井川遥、天英院に高島礼子、間部詮房に及川光博、生島に西島英俊となっている。私は未見。面白いかどうかは分からないが、時代背景を知るにはいいかもしれない。

③「誰が吉宗を将軍にしょうとしたのか?」

1716年、7代将軍・家継が8歳で急逝。「徳川実記」によると、6代将軍家宣が「次期将軍には吉宗を」との遺志があったと天英院が主張し、これを盾にして、吉宗を将軍に擁立したという。

要は、天英院が「将軍選び」で主導権を握って、月光院らを抑え込む好機と考えていたという。

月光院派の新井白石の「折りたく柴の記」によれば、6代将軍家宣が次の将軍にと指名したのは、尾張藩の徳川吉通だという。だが、天英院はそういったものを抑え込み、強引に吉宗を将軍にと推挙した。

この辺りは、人物名、年代が錯綜し、実に分かりづらい。詳しく知るには、「歴史のミステリー」本文か関連本を読んでください。

④「尾張藩主の謎の死の真相」

1713年、尾張藩主の吉通が、謎の死去。まんじゅうを食べて、そのまま死んだというから毒殺に間違いないのだが、医師の手当てもなかったという。そのあとを継いだ長男の五郎太もこの2か月後に謎の死を遂げる。将軍の座に近い尾張藩主の死は余りにもタイミングがよく、すべて吉宗が将軍になるように仕組まれているようだ。

⑤「吉宗と尾張との確執は何を意味するのか?」

尾張藩は五郎太のあとに、吉通の弟・継友が藩主となるが、直系ではなくなったために、将軍就任争いから外れてしまった。この後に継いだ宗春は、吉宗の行った享保の改革に反抗するように、贅沢を奨励し何かと吉宗の政策と対立する施策を行った。これに怒った吉宗は宗春を閉門蟄居にした。

要は、御三家筆頭の尾張家は、将軍就任に一番近い存在であった。それを抑えて、紀州藩の吉宗が将軍になったのであるから、尾張家を相当に敵対視していたということだ。

⑥「将軍誕生に隠された陰謀」

吉宗が将軍に就任するまでに、多くの人物が実にタイミングよくバタバタと死んでいく。しかも将軍となってからも、新井白石ら御用人を罷免し、吉宗擁立を進めた天英院に対しても、大奥のリストラを断行して、その力を削いだ。そして、敵対していた月光院を重用して、味方に付けるなどした。これを見ても吉宗が権謀術数に長けた人物であり、その裏では、町廻り横目、芸目付ら隠密を盛んに使って諜報活動を盛んに行っていたのだ。

こういったことからも、一般的には名君と言われた吉宗も、一方では数多くの黒い噂と疑惑が秘められた将軍だったようである。

本文で使われていた文献、大石学著「吉宗と享保の改革」、神坂次郎著「勝者こそわが主君」「紀州政事草読む」、大石慎三郎著「徳川吉宗と江戸の改革」

「尾張藩」「吉宗擁立」に関しては、他の本では、作家・神坂次郎氏の記事をよく見かけました。たぶんそのあたりが基になっているのか。



黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?

『中世イタリアの旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記された黄金の国「ジパング」は、当然のように日本であると信じられてきた。ところが、近年、この常識に対する強力な異論が唱えられている。果たして、「ジパング」はどこにあったのだろうか?』(本文より)


①「東方見聞録」とはどのような書物なのか?

ということで、マルコ・ポーロの経歴と「東方見聞録」の成り立ちを説明。当初の書名は「世界の記述」といい、これが広く読まれるようになったのは、書かれてから250年後のことだったという。その間にオリジナルは散逸し、写本を合わせて作ったために改変、潤色、または新たな書き加えが行われたのではないかという。

②ジャパンの語源は「ジパング」なのか?

どうやら、「ジャパン」の語源は「ニッポン」だということ。よって「ジパング」は違う国ではないかということだ。紹介された説は、海野一隆氏著「地図による日本」、的場節子氏著「ジパングと日本」。

③日本は「黄金の国」だったのか?

日本の「金」は奈良時代から平安時代にかけてが最盛期で、それ以降「金」は枯渇していたという。日本は産銀国となっていたのだ。日本は金の輸入国で、日本は「黄金の国」ではなかったということになる。

ここでは宮崎正勝氏「黄金の国ジパング伝説」から引いていた。

週刊「世界のミステリー」では、『「ジパング」は日本ではなかった』という結論になっている。

理由1、東方見聞録に書かれていることが、日本とあまりにもかけ離れている。(島が7000以上ある。距離が合わない。胡椒が取れる。動物の頭の偶像を奉じる。人食があるなど)

理由2、黄金伝説があるのは、日本だけではない。(長谷川亮一氏著「金銀島」)

理由3、東方見聞録に「元寇」の記述があるが、日本の史実とは食い違っている。(首都を占領され降服した、と記述がある。多賀一史氏著「黄金の国ジパングの謎」)  元に攻められたのは、日本だけではなく、この記述に合うのはフィリピンとなる。(的場節子説)

4、有力視されるのは東南アジアで、他に、ジャワ島やスマトラ島説、ルソン島説がある。(木村鷹太郎氏、加瀬禎子氏)



この記事は面白いです。「ジパング」についてこんなに多くの説があるとは知らなかった。



大平山元遺跡

「縄文の起源を覆した人類初の土器発祥の地」

場所は、青森県津軽半島の北東部、東津軽郡外ヶ浜町、旧蟹田町地区周辺。この地で発見された土器を炭素測定したところ世界最古の1万6500年前のものだ、という結果が出たという。

青森には三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡や二ッ森貝塚、田小屋野貝塚など多くの縄文遺跡が残っている。

これによって、日本人のルーツを探ることができるというのだ。

通説では、日本人は南方(インドネシア)から北上していったといわれてきたが、世界最古の土器が北方で発見されたことにより、日本人は北方から南下していった、ということになる。大坂医科大学教授・松本秀雄氏の研究によると「日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その源流はシベリアのバイカル湖畔と推定できる」と書いてある。

ということは、縄文人は北方民族ということになり、弥生人が南方民族という説を裏づけていくのか。



「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?


山本勘助不在論の検証です。

まず、「甲陽軍艦」は信憑性に乏しいということから、この書物にしか登場しない山本勘助は実在しないのではないか、という説を説明しています。これは週刊「歴史のミステリー」第3号の「川中島の戦いはフィクションだった」というのと同じこと。このとき私も山本勘助不在論を少し書いていました。

昭和44年に北海道で発見された「市川文書」に山本勘助(管助)の名があったというもので、これをもって山本勘助なる人物は存在していた、ということになっている。ただ、この人物が「甲陽軍鑑」に書かれているような活躍をしたのかとなると、かなり不審だということになる。

本文ではここまでだが、「不在論」がいれば、「実在論」があるということで、これ

「山本勘助のすべて」(上野晴朗・萩原三雄編、人物往来社)

ここで、かなり熱く「山本勘助実在論」を語っています。

要点は、①「甲陽軍鑑」を批判は、江戸時代元禄期に肥前平戸藩主・松浦鎮信の「武功雑記」によって始まり、このとき山本勘助は創作、架空のものだとした。②これが明治時代になって、東京帝国大学教授の田中義成氏が「武功雑記」の内容をそのまま受けて「甲陽軍鑑」の価値を低めて、山本勘助は架空だといった論文を発表したことが、定説となり、今もこの評価を引きずっているというのだ。③本書によれば、有馬成甫氏、酒井憲二氏の研究により、「甲陽軍鑑」の評価は高いとしている。④また山本勘助は「軍師」というものではなく、「足軽隊将」であり、その真価は城作り・縄張り、築城にあったというのだ。⑤高坂弾正が「甲陽軍鑑」を記した真意は、武田家の衰退を嘆いて書いたものであって、軍記物、戦記物として書いたのではないから、その点を批判しても仕方ない、といったところか。



「モナ・リザ」と「河童伝説」は今読んで、一所懸命まとめているので、次回に続きます。

週刊「歴史のミステリー」第10号

週刊「歴史のミステリー」第10号




目次
歴史検証ファイル   「関ヶ原の戦いは天下を二分した決戦だったのか?」
              「カエサルを殺したのはブルートゥスだったのか?」
遺跡に眠る謎      「チチェン・イッツァ」
疑惑の真相       「イエスキリストは日本で死んでいた!?」
語り継がれる伝説   「聖杯伝説」
芸術の裏側       「ピーターとウェンディ」ジェームス・M・バリー
人物再発見      徳川光圀



「関ヶ原の戦いは天下を二分した決戦だったのか?」

「1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、勝利した徳川家康は覇権を握り、一方の豊臣家は急激に衰退した。だが近年、この戦いにまつわる新説が唱えられている。果たして、関ヶ原の戦いは通説通りの天下分け目の決戦だったのか」ということを検証しています。
しかし、読んだところそれほど、新しい説も出てなく、特に目新しいものはない。ただ「関ヶ原の戦い」の前後をまとめたものである。
結論としては、「戦う前から、家康の勝利は決まっていた。それは家康の書状攻勢による勝利であった」「豊臣家を壊滅させた真の天下分け目の戦いは、大坂冬の陣、大坂夏の陣であった」ということが書かれている。
この章で取り上げられたのは、静岡大学教授・小和田哲男氏、歴史家・桑田忠親氏、「真説  関ヶ原合戦」桐野作人氏、「関ヶ原合戦」二木謙一氏、「関ヶ原合戦四百年の謎」笠谷和比古氏、となっています。


「カエサルを殺したのはブルートゥスだったのか?」


「古代ローマ帝国最大の英雄カエサルは、元老院会議の議場で、14人の反逆者の手によって刺殺された。その際にカエサルが発したとされる「ブルートゥス、お前もか」という言葉があまりにも有名だが、この暗殺劇の裏側には何があったのだろうか。」(本文より)

ガイウス・ユリウス・カエサル(前102年~前44年)   古代ローマの将軍・政治家。英語読みはシーザー。
名門の出であるが、平民派を地盤として急速に政界で地位を築いた。前60年ポンペイウス・クラックスと結び、元老院を抑えて第1回三頭政治を行った。ついでコンスルをへて前58年~前51年にはガリア遠征を行い、全土を征服してローマ化し、ブリタニカにも渡った。クラックス戦死ののち政敵のポンペイウスが元老院と結んだのを知り、「骰子(さい)は投げられた」と言ってルビコン川を渡って各地に転戦し、前48年ファルサロスの戦いで彼を倒した。前46年、元老院からインペラントを授けられ、以後、属州政治からの改革や貧困の救済、商工業の奨励、太陽暦(ユリウス歴)の採用などに尽力した。前44年に終身のディクトタトル(独裁官)となり、文武の大権を一身に集めたため、元老院で共和主義者のブルートゥスらに暗殺された。一方、彼はすぐれた文人でもあり、その著「ガリア戦記」「内乱記」は有名。またディオクレイティアヌス帝以降は、正帝をカエサルと呼ぶようになり、インペストラトルという称号とともに「皇帝」の語源となった。  (世界史辞典)

週刊「歴史のミステリー」第10号で、「カエサル暗殺」の謎を検証。項目は6項目。
「カエサルは国賊だったのか?」「元老院とカエサルはなぜ対立したのか?」「ブルートゥスはカエサルを恨んでいたのか?」「暗殺に及んだのはどのような集団だったのか?」「ブルートゥスは首謀者ではなかった」「相続人デキムス・ブルートゥス」
結論としては、カエサル暗殺首謀者はマルクス・ブルートゥスではなく、カッシウス・ロンギヌスではないか、としている。また、「ブルートゥス、お前もか」という言葉は、マルクスではなく、デキムスに向けて発せられた言葉ではないか、としている。
本文で取り上げられた参考文献。「ローマ人の物語 13」 塩野七生氏、「図解 永遠の都・カエサルのローマ」 佐藤幸三氏、「古代ローマ歴史誌」 木村凌二氏、「ローマの歴史」 モンタネッリ、「カエサル」 長谷川博隆氏。ほかにシークスピアの「ジュリアス・シーザー」、プルタルコス「英雄伝」

チチェン・イッツァ



メキシコのユカタン州にある「マヤ文明」の遺跡。「勝者が生贄となった死の競技場」と説明文がある通り、ここで多くの生贄が捧げられたという。ただこれは「16世紀に侵略したスペイン人が同地の植民地化を正当化するために「野蛮で原始的なマヤ人の生贄儀式」を誇張して喧伝し、処女の生贄伝説が広まったとも考えられる」と書かれています。
これを題材にしたのが、メル・ギブソン監督の映画「アポカリプト」。マヤ文明の生贄伝説等をアクション映画にしている。


イエス・キリストは日本で死んでいた。

青森県戸来村(現・三戸郡新郷村)に残る「キリストの墓伝説」を取り扱っています。
いわゆる「竹内文書」の検証。これは検索すると、かなりの数のものが出てきます。まずは、新郷村あたりからhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%83%B7%E6%9D%91
ここで、参考文献として挙げているのは、山根キク著「キリストは日本で死んでいる」、高坂和導著「超図解 竹内文書」、三谷芙沙夫著「奇の日本史 渡来伝説の謎を解く」
キリスト渡来伝説といえばこれでしょう。
諸星大二郎「妖怪ハンター  生命の樹」で、映画化された「奇談」。エヴァンゲリオン との関係で何度も書きましたね。





大人が存在しない「ネバーランド」の秘密

「ピーター・パンの冒険」を書いたイギリスの作家ジェームス・M・バリーの生涯と誕生秘話を載せています。ほかに、ダン・カイリー著「ピーター・パン・シンドローム」「ウエンディ・ジレンマ」を紹介。また近年出た新説「ピーター・パン殺人鬼説」なども書かれています。
映画ではジョニー・デップ主演「ネバーランド」が、ピーター・パンを書いた経緯や、バリーの生涯を描いています。



監督マーク・フォスター、出演ケイト・ウィスレット、ダスティン・ホフマンなど。
ただ実際は、映画のように、美しい話だけではなかったようだ。バリーは子供たちの思い出だけで暮らす老年であり、ピーター・パンと同じ名前をもつピーターは、物語のモデルといわれ続けるた悩みで、精神錯乱状態となり投身自殺したという。
ある意味、今号では一番面白い記事かも。


聖杯伝説

聖杯とは、イエス・キリストが最後の晩餐でワインを飲むときに使用したといわれる杯で、アリマタヤのヨゼフが十字架上のキリストの血をこれで受けた。これによりこの杯は、奇跡を呼び起こすといわれ、数多くの「聖杯伝説」が生まれた。この後、聖杯はエルサレムからブリタニアに渡り、その地のグラストンベリーという町に埋められたという。これが今のイギリス・グランストンベリーの「聖杯の丘」となる。
この聖杯はアーサー王伝説と結びつき、失われた聖杯を探し求めるという物語となって使われる。トマス・マロリ「アーサー王の死」、クレチアン=ド=トロア「聖杯物語」など。聖杯探求の旅に出た円卓の騎士の物語は、19世紀のバイエルン国王・ルードリィッヒ2世のもと、ワーグナーが「パルチヴァル」という神聖歌劇にした。
「歴史のミステリー」では、ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」「死海文書」「テンプル騎士団」などを紹介し、現在はセント・クレア礼拝堂に埋蔵されているという説を挙げている。
参考文献は「知られざる聖杯伝説―死海文書と聖杯の謎」クリストファー・ナイト、ロバート・ロマス著。



画像はニコラ・プッサンのアルカディアの牧人たち