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週刊「歴史のミステリー」第11号

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目次 

歴史検証ファイル   徳川8代「暴れん坊将軍」誕生の真相

            黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?

遺跡に眠る謎     大平山元遺跡

疑惑の真相      「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?

芸術の裏側      「モナ・リザ」

語り継がれる伝説   「河童伝説」

人物再発見      エリオット・ネス




「徳川8代将軍誕生の真相」

『徳川幕府中興の祖と呼ばれ、時代劇などにも登場することの多い8代将軍吉宗。ところが、徳川宗家の出ではない吉宗が将軍となったのは、本来の継承者の相次ぐ死によるものだったことはあまり知られていない。そこには、何らかの陰謀があったのだろうか。』(本文より)

ということで、徳川吉宗が将軍になるまでの経緯と、その陰で噂されるきな臭い疑惑を検証しています。

①「紀州藩主になったのは偶然だったのか?」

まず吉宗が紀州藩主になるまでの経緯。1684年、吉宗は紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた。生母は「お由利」で、身分の低い女であったという。(本文では、商家の娘や西国巡礼者の娘などと挙げているが、全く分らない。詳しいことは不明であるとしている。光貞の風呂番をしていたときに手がついたというのは有名な話らしく、他の本に必ず載る逸話のようだ) 公式には巨勢六左右衛門(利清)の娘とされている。(巨勢氏は大和朝廷時代から伝わる名族)

1697年、吉宗は越前・丹生郡3万石の大名になる。5代将軍綱吉に拝謁し、所領を得たという、これだけでも四男坊としては、幸運なことだ。

1705年、紀州3代藩主・綱教(長男)死去、4ヶ月後に4代藩主・頼職(三男)が死去して、吉宗が5代目紀州藩主となる。(二男は早世)

ここで、本文では、父・光貞と3代藩主・綱教の正室・鶴姫(5代将軍綱吉の長女)が同じ時期に死んでいることから見ても、次々と周辺の人物が謎の死を遂げていることから、何らかの陰謀があったのではないかと推理している。

歴史研究家・河合敦氏「徳川御三家の野望」の本から、吉宗が配下に置いていた御庭番などの間諜・隠密による陰謀が陰で動いていたのでは、という説を挙げている。

②「吉宗は将軍争いとは無縁だったのか?」

ここで、江戸での将軍後継争いを説明している。5代将軍綱吉の死後、家宣が6代将軍に就任するが、3年で病没、そして家継は4歳で7代目将軍となる。大奥では、6代将軍家宣の正室・天英院と7代将軍家継の生母・月光院の間で熾烈な権力争いがあったという。

そこに「江島生島事件」が起こり、月光院派は力を失い、天英院派が勢力を伸ばした。のちに天英院が8代将軍に吉宗を推挙することになるので、この事件は吉宗将軍擁立の伏線となっている、とのこと。

このあたりは映画「大奥」で描かれている。



絵島には仲間由紀恵、月光院に井川遥、天英院に高島礼子、間部詮房に及川光博、生島に西島英俊となっている。私は未見。面白いかどうかは分からないが、時代背景を知るにはいいかもしれない。

③「誰が吉宗を将軍にしょうとしたのか?」

1716年、7代将軍・家継が8歳で急逝。「徳川実記」によると、6代将軍家宣が「次期将軍には吉宗を」との遺志があったと天英院が主張し、これを盾にして、吉宗を将軍に擁立したという。

要は、天英院が「将軍選び」で主導権を握って、月光院らを抑え込む好機と考えていたという。

月光院派の新井白石の「折りたく柴の記」によれば、6代将軍家宣が次の将軍にと指名したのは、尾張藩の徳川吉通だという。だが、天英院はそういったものを抑え込み、強引に吉宗を将軍にと推挙した。

この辺りは、人物名、年代が錯綜し、実に分かりづらい。詳しく知るには、「歴史のミステリー」本文か関連本を読んでください。

④「尾張藩主の謎の死の真相」

1713年、尾張藩主の吉通が、謎の死去。まんじゅうを食べて、そのまま死んだというから毒殺に間違いないのだが、医師の手当てもなかったという。そのあとを継いだ長男の五郎太もこの2か月後に謎の死を遂げる。将軍の座に近い尾張藩主の死は余りにもタイミングがよく、すべて吉宗が将軍になるように仕組まれているようだ。

⑤「吉宗と尾張との確執は何を意味するのか?」

尾張藩は五郎太のあとに、吉通の弟・継友が藩主となるが、直系ではなくなったために、将軍就任争いから外れてしまった。この後に継いだ宗春は、吉宗の行った享保の改革に反抗するように、贅沢を奨励し何かと吉宗の政策と対立する施策を行った。これに怒った吉宗は宗春を閉門蟄居にした。

要は、御三家筆頭の尾張家は、将軍就任に一番近い存在であった。それを抑えて、紀州藩の吉宗が将軍になったのであるから、尾張家を相当に敵対視していたということだ。

⑥「将軍誕生に隠された陰謀」

吉宗が将軍に就任するまでに、多くの人物が実にタイミングよくバタバタと死んでいく。しかも将軍となってからも、新井白石ら御用人を罷免し、吉宗擁立を進めた天英院に対しても、大奥のリストラを断行して、その力を削いだ。そして、敵対していた月光院を重用して、味方に付けるなどした。これを見ても吉宗が権謀術数に長けた人物であり、その裏では、町廻り横目、芸目付ら隠密を盛んに使って諜報活動を盛んに行っていたのだ。

こういったことからも、一般的には名君と言われた吉宗も、一方では数多くの黒い噂と疑惑が秘められた将軍だったようである。

本文で使われていた文献、大石学著「吉宗と享保の改革」、神坂次郎著「勝者こそわが主君」「紀州政事草読む」、大石慎三郎著「徳川吉宗と江戸の改革」

「尾張藩」「吉宗擁立」に関しては、他の本では、作家・神坂次郎氏の記事をよく見かけました。たぶんそのあたりが基になっているのか。



黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?

『中世イタリアの旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記された黄金の国「ジパング」は、当然のように日本であると信じられてきた。ところが、近年、この常識に対する強力な異論が唱えられている。果たして、「ジパング」はどこにあったのだろうか?』(本文より)


①「東方見聞録」とはどのような書物なのか?

ということで、マルコ・ポーロの経歴と「東方見聞録」の成り立ちを説明。当初の書名は「世界の記述」といい、これが広く読まれるようになったのは、書かれてから250年後のことだったという。その間にオリジナルは散逸し、写本を合わせて作ったために改変、潤色、または新たな書き加えが行われたのではないかという。

②ジャパンの語源は「ジパング」なのか?

どうやら、「ジャパン」の語源は「ニッポン」だということ。よって「ジパング」は違う国ではないかということだ。紹介された説は、海野一隆氏著「地図による日本」、的場節子氏著「ジパングと日本」。

③日本は「黄金の国」だったのか?

日本の「金」は奈良時代から平安時代にかけてが最盛期で、それ以降「金」は枯渇していたという。日本は産銀国となっていたのだ。日本は金の輸入国で、日本は「黄金の国」ではなかったということになる。

ここでは宮崎正勝氏「黄金の国ジパング伝説」から引いていた。

週刊「世界のミステリー」では、『「ジパング」は日本ではなかった』という結論になっている。

理由1、東方見聞録に書かれていることが、日本とあまりにもかけ離れている。(島が7000以上ある。距離が合わない。胡椒が取れる。動物の頭の偶像を奉じる。人食があるなど)

理由2、黄金伝説があるのは、日本だけではない。(長谷川亮一氏著「金銀島」)

理由3、東方見聞録に「元寇」の記述があるが、日本の史実とは食い違っている。(首都を占領され降服した、と記述がある。多賀一史氏著「黄金の国ジパングの謎」)  元に攻められたのは、日本だけではなく、この記述に合うのはフィリピンとなる。(的場節子説)

4、有力視されるのは東南アジアで、他に、ジャワ島やスマトラ島説、ルソン島説がある。(木村鷹太郎氏、加瀬禎子氏)



この記事は面白いです。「ジパング」についてこんなに多くの説があるとは知らなかった。



大平山元遺跡

「縄文の起源を覆した人類初の土器発祥の地」

場所は、青森県津軽半島の北東部、東津軽郡外ヶ浜町、旧蟹田町地区周辺。この地で発見された土器を炭素測定したところ世界最古の1万6500年前のものだ、という結果が出たという。

青森には三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡や二ッ森貝塚、田小屋野貝塚など多くの縄文遺跡が残っている。

これによって、日本人のルーツを探ることができるというのだ。

通説では、日本人は南方(インドネシア)から北上していったといわれてきたが、世界最古の土器が北方で発見されたことにより、日本人は北方から南下していった、ということになる。大坂医科大学教授・松本秀雄氏の研究によると「日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その源流はシベリアのバイカル湖畔と推定できる」と書いてある。

ということは、縄文人は北方民族ということになり、弥生人が南方民族という説を裏づけていくのか。



「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?


山本勘助不在論の検証です。

まず、「甲陽軍艦」は信憑性に乏しいということから、この書物にしか登場しない山本勘助は実在しないのではないか、という説を説明しています。これは週刊「歴史のミステリー」第3号の「川中島の戦いはフィクションだった」というのと同じこと。このとき私も山本勘助不在論を少し書いていました。

昭和44年に北海道で発見された「市川文書」に山本勘助(管助)の名があったというもので、これをもって山本勘助なる人物は存在していた、ということになっている。ただ、この人物が「甲陽軍鑑」に書かれているような活躍をしたのかとなると、かなり不審だということになる。

本文ではここまでだが、「不在論」がいれば、「実在論」があるということで、これ

「山本勘助のすべて」(上野晴朗・萩原三雄編、人物往来社)

ここで、かなり熱く「山本勘助実在論」を語っています。

要点は、①「甲陽軍鑑」を批判は、江戸時代元禄期に肥前平戸藩主・松浦鎮信の「武功雑記」によって始まり、このとき山本勘助は創作、架空のものだとした。②これが明治時代になって、東京帝国大学教授の田中義成氏が「武功雑記」の内容をそのまま受けて「甲陽軍鑑」の価値を低めて、山本勘助は架空だといった論文を発表したことが、定説となり、今もこの評価を引きずっているというのだ。③本書によれば、有馬成甫氏、酒井憲二氏の研究により、「甲陽軍鑑」の評価は高いとしている。④また山本勘助は「軍師」というものではなく、「足軽隊将」であり、その真価は城作り・縄張り、築城にあったというのだ。⑤高坂弾正が「甲陽軍鑑」を記した真意は、武田家の衰退を嘆いて書いたものであって、軍記物、戦記物として書いたのではないから、その点を批判しても仕方ない、といったところか。



「モナ・リザ」と「河童伝説」は今読んで、一所懸命まとめているので、次回に続きます。