新田次郎氏と斎藤佑樹くん その3
新田次郎氏の話の3回目
さて、新田次郎氏が中央気象台に勤務して、雷雨調査のために、生品神社の社務所に滞在していた同じ年の昭和14年に、ていと結婚しています。このとき新婚であったのか、このあとに結婚したのか、もう少しよく調べなければ分かりませんが、新田次郎(このときは、まだ藤原寛人)は27歳のときで公私ともに充実していた時期だったでしょう。
でも、このあと起こる出来事がなければ、彼は作家にならずに、気象学者か技師として、平凡な人生を送っていたかもしれません。
そして、人生の転機を迎えます。
昭和18年、満州国観象台へ赴任。この年に次男の藤原正彦氏が誕生。
昭和20年、満州で終戦を迎えると、新田次郎氏はソ連軍の捕虜として、拘束され、中国共産党軍によって、抑留されてしまいました。
残された家族は、命からがら逃げ、満州から引上げて帰国した。
このときの悲惨な状況を夫人のていが書いた。これが小説「流れる星は生きている」で、戦後の大ベストセラーとなり、のちに映画化、ドラマ化されるほどの評判となった。
新田次郎氏も1年間の拘束を解かれ、帰国。夫人の書いた本に触発され、作家を目指すことになる。
昭和31年に「強力伝」で直木賞を受賞。この後、順調に作品を発表していく。
新田次郎氏が偉大なのは、気象庁での勤務を続けながら、小説を書き続けたこと。彼は富士山気象レーダー建設責任者として、これを成功させた。このことはNHKの「プロジェクトⅩ」の第1話として取り上げられた。
昭和41年に気象庁を退職。
昭和49年に吉川英治文学賞を受賞。
小説「新田義貞」は昭和51年から昭和53年の2年間新聞掲載された。
そして、昭和55年2月15日、心筋梗塞で死去する。
経歴から分かるように、小説「新田義貞」は、新田次郎氏の最晩年に書かれた長編作品ということになるんです。
彼が最後に選んだ歴史上の人物が新田義貞だったということです。
さて、タイトルの新田次郎氏と斎藤佑樹くんとが、どこで結びつくかということになるでしょう。
まあ、2人とも生品神社に関係がある。
何となく、新田氏と関係がありそうな感じっていうのは分かりそうですね。
そのほかに、何が2人の共通点?
それは、
新田次郎氏、1912年6月6日生まれ。
斎藤佑樹くん1988年6月6日生まれ。
そう誕生日が一緒。
なーんだ、そんなことか、と思われる方も多いでしょう。しかし
1912年は明治45年、明治最後の年。
1988年は昭和63年、実質昭和最後の年。(昭和64年は数日しかない)
つまり、新田次郎氏は明治の最後の年に生まれた男。方や、斎藤佑樹くんは昭和の最後の年に生まれた男、なんです。
私は別に占星術を深く信じているわけではありませんが、ここに運命を感じてしまうんです。私は運命論者だから、人が誕生したとき、この世に何かしらの意味や運命を背負って生まれてくると思っています。
人は自分が思っている以上に他人から影響を受け、周りの人々に様々な感情を受けつ、与えつつ生きている。
一歩あるく度に、世の中に影響を与え、一言発するごとに、他の人に少なからずの禍福を与えている。(本人にその意思があろうとなかろうと)
それが、他人の人生を変えるかもしれないし、本来持っていた運命を気付かせるかもしれません。
それは、本人が………
すこし観念じみてきたのでここらでやめます。
要は彼ら二人の運命は何なのかいうことです。
まず新田次郎氏の人生の転機があったとすれば、満州で捕虜となり抑留されたことで、このとき殺されてもおかしくない状況だった。それを彼は切り抜けたことでしょう。
でもこの終戦の悲惨な出来事がなければ、新田次郎氏は作家にならなかっただろう。もし一歩間違えれば死んでいて、この世にいない。しかし生き残っていたら、別の人生が切り開かれていた。
そして、新田を名乗り、新田義貞の人生と運命を描いた。
新田次郎氏は逆風を順風に変える強運をもっていたということになるんです。
また、新田次郎の家族も満州からの引き上げで、一家全員が死ぬか、藤原正彦さんは残留孤児になっていた可能性が高かったという。
ここでもこの危機を乗り越えた。
この状況を夫人のていが小説化し、評判になったことにより、新田次郎氏は作家を目指している。この一連の運命の連鎖は、まるで作家が書いたような展開ですね。だれかがストーリーを描いたようです。ここに、「神の手」を感じる人もいれば、「人生の綾」を感じるという人もいる、「いやただの偶然だよ」という人だっているでしょう。
私はここに運命を感じてしまうのです。
では、斎藤佑樹くんの運命は何でしょうか。
まあ、彼はまだ若く、人生を語るほど生きているわけではありません。
でも彼は何かを持っているということだけは分かります。
それに強運を持っていることは間違いない。そうでなければ、甲子園で全国優勝することは出来ないし、大学野球のMVPに選ばれることもできないだろう。
ではその強運はどこからくるのか。
それが、「新田源氏の発祥地で生まれたことに意味がある」ということなんです。
そう結局ここに戻ってくるわけです。
「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか」
ブログ開設の最初のころから書き継いできたこの説に、賛同してくれる方も意外に多い。コメントを下さる方には、彼の持っている雰囲気がタダものではない、サムライ雰囲気を漂わせているといった内容のものも多かった。
なぜ、そう感じるのでしょうか。
彼は普通とは違うものを持っている。
ただの野球の上手い人だけではない、こいつはどこか、違う。
何かを背負っていると。
そうそれが「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか」説なんです。
この説はここまで書き継いできてやっと完結したんです。
追記……というわけで、泥沼化していた記事を一応載せました。ウィキペディアのように書きかけの内容で、随時、書き足していきます。
今読み返しても、どうにもならない論理で、いろいろ詰め込もうとして、全くまとまっていません。(じゃー今までの記事はまとまっていたのか、と言われると困りますが……)
しかし、これを載せないことには、先に進まず、次の展開ができないので載せてしまいました。ニアンスだけでも伝わればと思った次第で、新田次郎氏、斎藤佑樹くんが生品神社や新田源氏と関係があるということが分かっていただければ、それで、良かったのに、運命論を持ち出したのが失敗の原因です。
このあと新田次郎氏の息子藤原正彦さんの「国家の品格」で武士道についての話を書いたのですが、長くなったのでバッサリきりました。これはまた後で書きます。
食っているつもりでも、結局は食い殺される、ギャル曽根
人間の一生のうちで幸せの数は決まっているという。
この俗信は、広く信じられている。また、ちょっとしたこと、何気ないときにいったりする。例えば、自動販売機でジュースが当ったりしただけで、あー幸せが1つ減ったなんて言ったりする。
面白い迷信である。
では、人の不幸の数はどうだろうか。不幸となると数は決まってなくて、無限にあるように思える。
では、食べるという行為は、幸福だろうか。
食べているときの幸福感は何ものにも替え難いもので、決して不幸ではないはずだ。
というわけで、ギャル曽根である。
大食いをネタにして、テレビに出まくり、そのたびに大食いを披露する。番組に出ては食べる、中継先のレストラン、食堂で出されたものをすべて食べつくす。
もう、感心するというのを通り越して、こっちが気持悪くなるほどに食う。
そして「うーわーギャル曽根ちゃん、すごいねー」という声に「まだまだ、いけますよ」という会話が続く。この一連の流れは、もう彼女の芸風となっている。
完食することを暗に要求されているので、それに答えるようにギャル曽根は食って食って食いまくる。
笑顔を見せながら……。
では、ギャル曽根は食べるという行為によって、幸福を得ているのだろうか?
人間の幸福の中でも、食欲を満たすということは、どんな欲望にも勝るだろう。
人間は性欲にも強い欲望を感じるが、性行為をしなくても生きていける。
「食す」ということは、人間が生きていくためにとても重要なことだ。
では、彼女は、食べることで幸せを感じているのか
最近の彼女を見ていると、どこか物悲しいものを感じる。
顔は笑っているが、その瞳の奥にはフォワグラを作るがちょうのように無理やり食わされているような、悲しい鳥獣のような姿が浮かぶ。まるで道化師のようにも見える。
私には彼女がテレビというメディアに踊らされているような気がしてならない。
「食え、食え」というシュプレヒコールに、「食う」という行為で応えている。
熱せられた鉄板の上でピエロが踊らされているのを、観客である視聴者が見て喜んでいるに過ぎない。
ただ他の人よりも多く食べるという特異な体質を、見て楽しむ感覚はどこかおかしい。
視聴者はどういう感情で彼女を見ているのか?
物を食う姿が美しい人がいる。また美味しそうな料理を食べているレポーターを見て、私も食べてみたいと思う番組は多くある。
でも大食いは違う。獣のように食い物を漁るギャル曽根を見て、よし私も大食いに挑戦しようなんて人はそうはいないだろう。
では、彼女に何を求めているのか。
すべては、貪欲から来ていると思う。食欲、性欲、金欲、現代人は欲望を必要以上に求めている。
大食いファイターというものが必要以上に、食欲を貪る姿に、人は何かを求めているのだろう。
欲を貪るという社会の風潮は、朝青龍や、勝ち組・負け組の記事の時にも書いた。
現代は欲望に執着し、多く手に入れた者を英雄視しているのだ。
だが、彼女に罪はない。彼女には欲を貪っている意識はないだろう。ただ食っているだけで、他人から喜ばれると思っている。それにただ応えているだけなのだ。
それを囃し立てて喜んでいるのは、テレビやマスコミ、現代人だろう。
ある人はギャル曽根を見ていった。「あんだけ食うんだから、糞もすげーだろうな」と。
ばかみたいな意見だけど、ここに真理があるだろう。
必要以上に食い、大量の排泄をする、これを繰り返す。
食えば出る、これ自然の法則。
貪り食っても、糞となって出るだけ、いくら欲望を満たそうとして、求めても結局は消えていくのだ。そうゆう意味ではお金も同じか。
数年あとのギャル曽根はどうなっているだろうか。
いまのようにテレビやマスコミに好奇な目で持てはやされているうちはいいが、それが長く続くとは思えない。
その時になって、ギャル曽根は本当に食っていけるのだろうか。
ギャル曽根は物を食いまくっているように見えるが、結局は世の中に食われているのである。
選挙報道前後のマスコミ報道に対する、「物語を物語る」的感想。
7月30日の記事
「自民党大敗。参議院は民主党が第1党になる」今日の話題はこれに一色でした。朝からテレビワイドショーは、選挙結果を報道し、それを受けて安倍首相の進退問題に、話題が移ってきました。安部首相はいま重大な岐路に立たされたわけですね。安倍首相の選択次第で、自民党、安倍さん自身の今後の行方にかなりの影響が出るでしょう。
マスコミはいま「安倍首相やめろコール」、「民主党応援、自民党批判」にだいぶ傾いています。国民もその傾向にかなり引っ張られている、と私自身は感じています。これはかなり危険ですね。小泉首相の時とは、まるで、逆。
小泉パフォーマンスに踊らされ、自民党圧勝に導いたのは、マスコミでしょう。その結果がどうでしょうか。年金、教育、格差、これらの問題を作ったのは小泉政権の無策、強引な改悪的政策の結果が、いま噴出しているんですよ。
5年前から、諸問題の対策、対応に手をつけていれば、事態は変わっていたはずです。
マスコミは国民の声を反映しているように一見みえますが、実は国民を一方向に向かわせるという危険性を常にはらんでいるということです。
特にマスコミの何でも反対、何でも批判という旧社会党的姿勢(ここでいうのは思想のことではない)に似ている。では次はどうする、どうすればいいという建設的意見はすっぽり抜け落ちているのです。
なぜそうなるのか。それは批判する方のが楽だからです。人の行動を第三者的立場で攻撃するほど面白く、簡単で安易な方法はないからです。
しかも、もっともらしい正論で攻撃する。
正論を用いて、相手を追い込み黙らせて、勝ったような気になる。それを見ている視聴者は自分が勝ったような気になる。ここにマスコミ=視聴者(国民)という一体感が生まれるんです。
だから、マスコミ報道は国民の意志だという幻想が発生する。
だから、マスコミ報道を自分の意見だと思わないようにすることが必要だと思います。
現状必要なのは、些細な批判避難ではなく、問題解決への方策を探すことであって、マスコミ報道に惑わされない意見を持つことでしょう。
これは、政治報道に限らず、サッカーのオシム監督への報道とか、あらゆるところで見られる現象です。
映画監督ミケランジェロ・アントニオーニとイングマール・ベルイマンが同じ日に死去
仕事から帰ってきたのが、夜の10時。
なぜか牛丼食って、炭酸の抜けたコーラを飲む。
朝青龍のことも、安倍首相のことも書きたかったが、本日は断念。
ネットでニュース見ていたら、ミケランジェロ・アントニオーニもイングマール・ベルイマンが同じ日に死去したという記事。
おー懐かしい。
学生時代は映画通を気取った奴が何人かいたが、
映画監督でだれが好きかと聞かれて、彼らの名前を出すと、こいつちょっとできるなって顔される、そんな存在だったな。テレビで放映されることも少ないし、レンタルビデオも滅多にない。だから観た人も本数も少ないから、相手を煙にまくには、最適だった。
これが、ゴダールだの、キューブリックだと言うと、もう議論が始じまちゃって収拾がつかないから。
私も学生のころに「情事」とか「ファニーとアレクサンデル」とか観たが、本当に意味が分からなかった。でも分かったふりをしていたな。
やはり、彼らの映画を本当に理解するには、それなり の人生経験がないとダメですね。
だって、恋愛経験がないのに「愛の不毛」が分かるわけはない。
生も死も考えたことがないのに、「神の沈黙や人間の本質」が分かる分けがない。
やっぱり、大人になった今、観てみたいな、じっくりと。
でも、こんな偉大な映像作家でも、中々観る機会がないね。
そのうちBSで追悼放送するだろうけど、
「第七封印」「太陽はひとりぼっち」なんかが放送さればいいな
「爆笑レッドカーペット」を見た。
記事の泥沼化。ベトナム戦争、いや、イラク紛争くらいの泥沼化。
とにかくまとまらない。土台、新田次郎氏と斎藤佑樹くんを関連づけて書こうとしたのが間違いだったのか。すでに1週間経っているのに、どうにもならない状態に。
映画「スターウォーズ」のエピソード3からエピソード4へストーリーの辻褄を合せるような作業をしていて、収拾がつかなくなっているのだ。(何のことだか分らないと思いますが)
という訳で逃げの記事。
7月31日フジテレビで放送された「爆笑レッドカーペット」を見た感想。(うーわー軽い)
この番組、芸人さんが次から次へと登場し、芸を見せる。2時間番組で20、30組くらい出演したのかな。一組のネタ見せが大体1分くらい。だいたいこれ以上が時間的に限界という芸人が多いですが……。
まあ、ムーディ勝山とか、小島よしおとかジャルジャルとか、売れ始めの人が出てましたね。
「物語が物語る」的にはバカリズムのトツギーノが好きなんですが、今日は違うネタだった。
この日面白かったのは、「しずる」と「我が家」だったなー。
そして柳原可奈子は相変わらず、抜群にうまかった。
私は、いまの女子高生を知らないし、ましてや、カリスマ店員なんてもの知らない。
でも柳原可奈子を演じるネタが何故面白いと感じるのか、ここがいつも不思議なのだ。
柳原可奈子が、面白いと感じている部分を抜き出してデルフォメしているから、可笑しいのか、それとも、女子高生やカリスマ店員の存在自体が可笑しいのか。
そこが、私には答えが出ませんが……(そんなもんに答えなんかいらなねーだろう、と一人つっこみ)
まあ、私みたいなおっさんでも、可笑しいと思えるんだから、柳原可奈子の芸は凄いってことでしょう。