アクセス解析とコメント欠乏症。
本当に面白いですね、アクセス解析。特に検索ワード。
私のブログは「歴史もの」を中心に載せていて、fcブログでは「歴史ミステリー小説」が中心のはずです。
でも私のブログに飛んでくるのは、「朝青龍」の検索からが一番多いですね。もう半分くらいそうですよ。今一番HOTな話題ですからね。仕方ないですが……。
その次は何と「ハリポタ」「朝ズバ」ですよ。驚きです。風邪で寝込んでいて38度くらいの熱があったときに、たまたま書いた「みのもんたハリポタのネタを割る」という記事ですよ。
でも、ハリーポッターで来た人がこのブログを見たら、なんじやこりゃと思っているでしょうね。「仮名手本忠臣蔵は新田義貞鎮魂劇説」「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わり説」「食い殺されるギャル曽根」とか見たら、トンデモブログだと思うことでしょう。
それに、今だにボンジョヴィ、細木数子、ビックカメラvsヤマダ電気も多いですね。まあこれらの記事は思ったことをただ綴ったもので、記事数、力の入れようとしては家康とか義貞の方がよっぽど多いのに……。なかなかうまくいきませんね
さて、コメント欠乏症ですが、これはかなりの重症ですね。
アクセス数は上がってますが、コメント数はかなり減ってます。
分かっていますよ、そんなことを要求してはいけないことを。
でも「人間というのは無視されるのが怖い」「無反応は創作意識を減退させる」ということが身にしみて分かった。
今はエロサイトでもインフォものでもトラックバックが来ているだけでうれしくなってしまう。
「東国原知事批判」のときに来た私への非難コメントも今となっては懐かしい。私はどうやら、批判をもらった時の方が創作意欲が増すらしい。怒りは創作に向くのか。やはり、私は何かに噛みついていた方が性に合うのか。
それでも、まれに激励のコメもいただきます。これも有難く、大変感謝しております。この励ましの言葉がいまの自分を動かす原動力となっております。
どうか、読まれた方、何でもいいのでコメント下さい。「うー」でも「あー」でもいいので……。
どうやら、この暑さでおかしくなっているようです。何しろ、最高気温を記録した群馬県館林市、埼玉県熊谷市も、私の地元に近くなので、もう40℃近くなっているはず。もう溶けそうです。私の愚痴も陽気の所為にしておいてください。
新田義貞vs足利尊氏 一騎打ちの真相
さて、義貞集中講座4回目
今回は義貞が尊氏に仕掛けた一騎打ちのことを書きます。
大将同士の決闘は実現することはなかったんですが、(あったら映画みたいですね)
あわやというのが、2回もあったんです。
まず一度目は、建武三年の京都で、義貞をはじめとする宮方と足利方とのあいだで繰り広げられた戦の時のこと。
京を占領していた足利方に、義貞は大軍を率いて奪回を試みた。足利方は予想外の大軍を目の前にすると、都を捨て四方八方に逃げ去ったのである。
義貞は、この好機を逃すまいと、何と鎧を脱ぎ捨て、ただ一騎で足利軍に突進した。義貞は、尊氏を見つけ出しその命を奪おうとしたのである。目ぼしい所を駆け回り、必死で探したが、結局尊氏は見つからなかった。すでに尊氏は事態を把握して前線から遠のいていたのである。義貞は尊氏がすでにここにいないことを悟ると、やむなく本陣に帰った。このとき敵中深く侵入しながら、傷一つ負うことはなかった。
おーすごい無茶しますね。
二度目は、その半年あとのこと。京は足利方に占領されていた。そこを宮方の兵二万の軍勢で攻め入った。この合戦は、宮方の悲壮なまでの決意を秘めたもので、この直前の湊川の合戦で、楠木正成が戦死し、宮方が大敗したのである。
京を足利方に奪われた宮方は、討ち死に覚悟の底力で足利軍を押しまくった。これが功を奏して、義貞の軍は中央突破を計り、足利軍を分断させることに成功した。そして、尊氏が本陣としていた東寺まで迫ったのである。
以下、小説からの引用、長ったらしい文章なので読み飛ばしてください。
「あたりを守備していた足利方の兵までが引いてしまったため、尊氏はわずかな士卒とともに寺に取り残されてしまったのである。ここに尊氏の命を狙っていた義貞にとっては、千載一遇の機会が到来した。出陣の際、帝に、東寺へ矢の一本でも射ち込まずには帰参いたさんと誓っていたから、願ってもないことであった。
あの尊氏が目の前にいる、そう考えただけでも自然と高笑いしてしまう。さっと馬から飛び降ると、弓を杖にして、引きこもる尊氏に対して高らかに呼びかけた。
「天下の争乱は打ち続き、人々は平穏な日々を送れずになって久しい。これは天皇御両統のお争いであるとはいえ、ただ今となってはこの義貞と尊氏との争いに他ならない。一身の功名によって、多くの人々を苦しめるより、この身一つで戦いを決しようと思い、義貞自らこの軍門にまかり越した。嘘かまことか、この矢を一本受けるがよい」
こういうと、二人張りの弓に十三束二伏の矢をきっとねらいを定めて引きしぼり、弦音も高くさっと放った。矢は二重に築いた高櫓の上を越えて、尊氏が本陣とした幕の中に入り、本堂の柱に付け根深くまで刺さり、ゆらゆらと揺れていた。
「さー、尊氏出て来い」
義貞は心底から叫んだ。これはひとつの賭けであった。それに尊氏は必ず乗ってくる、そう確信していた。尊氏も我と一騎討ちがしたいはずだ。尊氏の心の内は分かっていた。同じ源氏の名門に生まれ、大将として軍を率いる孤独を知るのはこの二人しかいない。互いにどちらか倒さねば先祖からの宿望を果たされない。そしていつかは直接果たし合わなければならない宿命なのだ。
今、まさにこの時が来た。
固く閉ざされた寺を義貞の兵が固めていたが、これから開かれるであろう門をじっと見つめ誰一人声を発することなく沈黙を守っていた。だが皆の心の中では、これから起るであろう決戦に興奮していたのである。
そのとき城砦と化した寺の中では、尊氏と彼を守る家臣らが楽観的にこの様子を窺っていた。この本陣まではそう易々と攻め入ってはこないだろうと家臣らは思っていたのだった。
だが義貞が放った矢が本陣まで届いたときに、さすがに足利方に動揺が走り、兵士たちが慌て始めたのであった。義貞の言を泰然と聞いていた尊氏だが、ここまでされては黙っていられない。
「帝を倒そうなど思ってもいない。ただ義貞と会ってから怒りを晴らさんがために戦ってきたのだ。義貞と自分が一騎討ちして決するならば願ってないこと。さあ門を開けよ、討って出るぞ」と言うときりっと立ち上がり、素早く名刀の太刀を手にした。義貞の誘いに尊氏も明らかに高揚したのである。ここまで挑発されては大将としての面目も立たない。
この様子を見た家臣上杉伊豆守が尊氏ににじり寄ると「義貞の言うことに惑わされてはなりません。殿の命は殿だけのものではありませぬぞ」と諫めた。
尊氏は思わずカッとなって家臣を睨むと「なにっ、太刀打ちで義貞に負けるとでも言うのか」声を荒げた。そして憤怒の顔つきになって出て行こうとした。
そこを上杉伊豆守は両手で尊氏の腰に抱きつき「殿は大将ですぞ。軽はずみなことはなりません。これしきのことで取り乱すようでは足利家代々の宿望を果たし、天下を治めることなどできませんぞ」と訴えた。
重みのある言葉であった。
尊氏は思わず、足を止め、そのまま腰を落とすと、目を閉じてじっと動かなくなった。上杉伊豆守もその横に座り、静かに大将見据える。周りに侍っていた家臣らも事の成り行きを案じるように固唾を呑んで様子を窺った。
尊氏は熟考した。いつものように心を落ち着けようとした。焦るな、考えろ、そう自分に言い聞かせた。(待て待て、義貞の行動は追い込まれてのことだ。奴にはそれしか策はないのだ。そうそれだけこちらの方が優位なのだ。敵に囲まれて、のこのこ出て行けば、これこそ義貞の思うつぼだ。焦るな。一騎討ちなどという甘い言葉に乗るな)
尊氏も武士である以上、一騎打ちというものに対して深い憧れがある。一族の長が雌雄を決するために家臣の前で剣を交える、思う浮かべただけでも身震いするほど厳然かつ甘美な情景だろう。だがそんなものに命を掛けるほど、己の命が今となっては軽くないことに尊氏は気付いた。義貞は今この状況に陶酔している。ならば、我はそれを無視しよう、捨て置くことで、優位になるはずだ。そう思い至るといつもの尊氏らしい鷹揚さを持った表情で微かに笑みを湛えながら、静かに目を開けた。そして、もう大丈夫だといった表情を上杉伊豆守に向けた。
そうこうしている内に、足利方の土岐・石堂・吉良の軍が引き戻り、義貞軍を取り囲むと、逆に攻撃を開始した。尊氏ただ一人を斬れば足利方は霧散し、この戦も終わる。そう考えていた。
尊氏の籠もっている寺に変化がないのを見て、義貞は悟った。尊氏は出てこないと。ここに留まっている時はもう残されていなかった。今日限りの命と覚悟を決めての戦いであったが、この賭けに尊氏は乗ってこなかったのだ。このような好機は永遠にやって来まい、と思うと一人でも討ち入ろうとしたが、既に数万の敵が、義貞がここにいると知って攻め寄ってきていた。やむなく義貞は退却の命を出した。
ただ宮方の軍は敵陣深く侵入したため、包囲殲滅に会って名和長年ら名だたる武将が討ち取られてしまった。それでもどうにか義貞軍は坂本の本陣までたどり着いたのであった。こうして宮方は完全な大敗をした。
「すべて水泡に帰したか」義貞の落胆は大きかった。京都攻防戦の最後の賭けに出て、無残に敗れた。戦の勝ち負けは時の運なれど、この敗戦の意味は大きかった。
この攻撃に全てを賭けていた。尊氏を同じ舞台に引きずり出し、あわよくばその首をかき切ってやろうと思い描いていた。ことならずとも、大将に一太刀でも浴びせられれば、足利の威信に傷がつく。それは尊氏の命と自らの命と引き換えにしてもいいさえ思っていた。現状足利方は尊氏一人でどうにかまとまっている。尊氏さえいなくなれば、足利方は分裂し、宮方は一気に巻き返しを図れるだろう。大将同士の一騎討ちはそこを狙っていたのである。だが尊氏を目前にしながら結果は無残であった。
ただ尊氏も今一歩で出てこようとして、踏みとどまったという事実を義貞は知らない。尊氏の思慮深さに義貞は遂には勝てなかった。
こうして宮方は壊滅的打撃を受け、大将である義貞も追い詰められることになった。
そこに追い打ちをかけるように、あの事件は起こったのである。
後醍醐天皇と尊氏の和睦の件であった。
後醍醐天皇はこの情勢から脱却すべく、今まで頼ってきた義貞ら一族を裏切った。尊氏と密かに和議を結び、秘密裏に都へ帰ろうとしたのである、あっさりとその態度を変える変節感は、真に公家らしい行為といえるかもしれない。
後醍醐天皇は新田と足利の源氏を互いに争わせて、武家の勢力を殺ごうとしているのではないか。それとも優位な方へ擦り寄り、利用しようとしているのか、義貞のみならず、一族の者も感知していることであった。そう疑えば一々思い当たる。天皇のみではない。周りに巣食う公家どもの東戎と見下すあの言動。宮方として戦いながらも、公家衆に翻弄されていると感じると、なんともやり切れない思いになった。
天皇は、尊氏との密約が新田方に露見すると、新田一族の激高を収めるためか、皇位を恒良親王に授けて、義貞らに北国に落ち延びて再起を図るように命じたのである。新帝を付けられたとはいえ、義貞らは見捨てられたに等しかった。しかも厳冬の中を敵に追われながら進軍するのである、味方の戦力は減るであろう。それに、例え彼の地に着いたとしても、足利方の斯波高経が大軍を持ち威を張っていた。そんな中で味方となる勢力があるだろうか。考えただけでも、絶望という言葉のみが限りなく心の中を覆いつくす。
その夜、義貞は漆黒の闇を馬で駆け、比叡山にある日吉神社に行くと、一族の命運を祈願した。(注釈、この夜に願文を授けるが。これがこの小説の核となる)
寒々とした空は、いつしか白々と明けた。
その日の早暁、天皇は京へ去って行った。取り残された義貞らは、それを見送ると、数日後の内に、兵七千を引き連れ北国に落ちて行った。その行軍中に、寒雪は容赦なく責め、寒さと疲労で軍が徐々に弱体化したのであった。そこに足利軍が攻めてくる。多くの兵を失い、精神的にも肉体的にも衰弱しながらも辛うじて越前にたどり着いたときには、味方の兵は半分に減っていた。」
というわけで、義貞はなぜこれほどまでに、尊氏との一騎打ちにこだわったのか。
武勇を示すため。もちろんそれもあります。しかしそれだけで、尊氏の命を狙ったのではないはずです。ただこの行動が、義貞の評価を下げる一因でもある。それは、無鉄砲で、突飛で、大将がする行為ではないと、いったことです。そう確かに、一見すればそうかもしれません。
しかしその奥には義貞なりの論理、真意があったはずなのです。
足利方・北朝方は、足利尊氏の人格でようやくまとまっていた烏合の衆なのです。利があれば、今日は宮方・南朝方、明日は足利方という武将は実に多かった。それでもバサラと呼ばれる派手好きで荒くれ者たちはなぜか、尊氏のもとに集まった。(まあ、そんな武将たちが公家の下には従わないでしょうが)尊氏には、その清濁併せ呑む寛大な心があり、大将として必要な資質を持っていたことになる。尊氏のカリスマ性が足利方を一つにしていたんです。
「尊氏さえ、いなくなれば足利方は瓦解する」そう義貞は直感していたに違いない。だからこそ尊氏の命を狙っていたのである。そのためには、自分の命と引き換えにしてもいいとさえ思ったはずです。だがらこそ、無謀でありながらも決然とした行動をさせたのである。(これはすべて私の解釈ですが)
尊氏は足利一族の棟梁のみならず、北朝方のリーダーである。一方、義貞はどうかといえば、宮方の大将ではない。宮方のリーダーは後醍醐天皇であり、軍事面の指揮官は義貞であっても、公家の高位の者が口出しをしてくるのである。(だからこの点を考慮しないと、義貞の評価は全く違ったものになってしまうのである)
さて、武家の棟梁の資格は、源氏の名門であることが必要である。しかも、それは、清和源氏の直系であることが望ましい。直系である源頼朝は3代で途絶えた。このとき清和源氏の正統な後継者は、足利尊氏と新田義貞の2人ということになるんです。
だから義貞は「…ただ今となってはこの義貞と尊氏との争いに他ならない…」といったのだ。この真意はどこにあったのか。
尊氏の命を取って、新田一族が優位に立とうと考えたのではないか。
武家の棟梁になることは、新田一族の宿願だった。それを適えるのに、もっとも障害となるものは尊氏の存在でしょう。弟の足利直義は頭はいいが、武将の器となると、どうだろうか。生真面目過ぎて、性格的にバサラ大名と気が合わないだろう。(のちに、バサラの代表である高師直と対立する)
「尊氏のみ」義貞にとって敵は、彼一人だったのかもしれない。
追記 南北朝時代を書くのは難しい。説明をどこまですればいいのか分からない。信長なら「桶狭間の戦い」とか「安土城」とかキーワードだけで通じるが、南北朝時代だとすべてを説明しなと、話が通らないかもしれない。
まあ、「新田義貞は歴史書で言うほど、凡将ではないな」ということだけが伝わればそれだけでいいと思っています。
いまはただ、義貞ファンが一人でも多く増えることを祈って書いているおります。
というわけで、義貞記事はしばらく続きます。
男だねー、新田義貞。
義貞の逸話。
箱根竹の下の戦いで敗れた義貞軍が京都へ退却したときのこと。
追撃のために攻めのぼってきた足利軍は、増水した天竜川に真新しい浮き橋が架かっているのを見た。
足利尊氏は、「まさかあの浮橋を架けさせたのは新田義貞ではないのか?」と近くにいた農民に訊くと、その通りだと答えた。
「信じられん追撃をすこしでも遅らせようと橋を落としておくのが常識なのに、義貞はなぜそのままにして行ったのだ」と訝った。
そこで、家臣が事情を聞き回った。義貞軍は近隣の材木をかき集め3日で橋を作ると、まず軍兵を先に渡らせて、義貞自身は最後に橋を渡った。そればかりでなく、兵が橋を切り落とそうとしたところを義貞は止めた。「たとえ切り落としても勢いを増している追撃軍であれば1日で橋をかけるだろう。追撃をかわすためのわずかな時間を稼ぐために義貞が橋を切り落とし、あわてふためいて逃げてと言われては末代までの恥になる」と言った。それにこれ以上農民に労力をかけさせたくないという配慮もあったという。
この話を聞いた足利尊氏は、義貞を「疑いなき名将」と称した。
この逸話は足利方寄りの「梅松論」に書かれたものである。
戦いの常套手段となれば、当然、橋は切り落とすことになるでしょう。少しでも時間稼ぎをしたいはずです。でも義貞は目先の勝負よりも、名を取った。これをもってして戦下手と称するのは簡単でしょう。しかし、そんなことは義貞には百も承知なはずです。だからこそ、橋を切り落とさなかった意味を尊氏は感じ取ったはずなのです。尊氏は、義貞の真意を器の大きさを知ったのです。そして、お互いが源氏の棟梁でなければ分らない苦悩や孤独を抱えて戦っていることを再認識したのではないか、それが義貞への賛辞につながっていると思います。
義貞と尊氏は本当にいいライバルなんですよ。
義貞愚将説がまかり通っている今、これを打破すべく書いたのが歴史ミステリー小説「東毛奇談」第2章です。
誠に勝手ながら、今週は義貞応援強化週間であり、小説「東毛奇談」PR週間となっております。
よって、義貞の話は次回も続きます。
「仮名手本忠臣蔵」は新田義貞の鎮魂劇である。
さて、前回の続きで、新田義貞の兜がめぐる話です。今回は義貞の兜と「仮名手本忠臣蔵」の関係について書きます。
タイトルの「仮名手本忠臣蔵は新田義貞の鎮魂劇である」は、もう何度か書いた説ですが、兜ついでにさわりだけでも書いておきます。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の始まりである「大序」は、プロローグとして、状況説明として重要な場面。
新田義貞が討ち死にしたために、足利方はそれを供養しようとするが、どれが義貞の遺体であるか見分けがつかない。遺体は50体近くある。(ここも四十七士とかかっている) そこで登場するのが、兜なんです。この兜に蘭奢待が焚きこめてあり、これが決め手となって義貞の遺体が発見される、というやり取りで話が始まる。
そう、物語は、義貞の死と供養から始まることになるんです。
江戸時代の劇は、当時の人物名や場所をそのまま使うことはできなかった。しかも赤穂浪士の事件は世間を騒がせた大事件であるので、尚更でしょう。そこで舞台や人物を置き換えることになる。そこで、赤穂浪士の人物を南北朝時代の人物に当てはめ、舞台も鎌倉に設定された。
ではなぜ作者は、新田義貞の首を捜す場面からこの物語をスタートさせているのだろうか。ここは作者にとっては全くの創作となるわけである。まあここは、小説の方で書いたので、興味のある方はそちらへ。
というわけで、ここではまず「由良」に注目してみた。大石内蔵助にあたるのが、大星由良助である。(大星には別の意味が隠されている)
「由良」というのは、新田一族の氏族のひとつである。横瀬氏が下克上で新田荘を支配したときに名乗ったのも「由良氏」であった。新田一族である正統性を主張するために名乗った由良氏という名は、それほど新田一族を示すには分り易いものである。また、新田荘の由良には、新田宗家の館があって、義貞もここで生まれたのではないかという有力な説がある。それに新田次郎の小説「新田義貞」では、最初の1ページ目から、由良の館が登場して、由良の名は何度も登場する。
いろいろ書き連ねたが、要は、「由良」は新田一族を意味しているということになる。つまり大星由良助=新田一族となる。
それに、これを裏付けするような証拠があります。
それは、大石内蔵助は足利氏族である吉良上野介に仇討ちをするが、劇では、大星由良助が高師直に仇討ちを仕掛けます。そこで、劇ではどうなっているかといえば、舞台が鎌倉となっていますから、稲村ガ崎から上陸して鎌倉に侵入することになっているんですよ。
つまり、新田義貞が鎌倉攻めを行ったときと同じ経緯が繰り返されているんですよ。
劇は、新田義貞の死から始って、新田一族を暗示する由良助が、新田義貞の鎌倉攻めを行った経路を辿って、足利一族である高師直(足利尊氏、直義でもないところがミソ)に仇討ちする。
これこそ新田一族の鎮魂劇であるといえるのではないでしょうか。
そう、仮名手本忠臣蔵が上演される度に、新田一族の鎮魂も行われているということなるんです。
ではもう一つ、なぜ劇の始まりは「義貞の兜」の逸話から始まるのでしょうか。
それが、前回の話につながる訳です。
「兜の発見」これこそがすべての始まりです。
義貞の兜が見つかり、福井藩主が顕彰したのが、1660年。
「碁盤太平記」や「兼好法師物見車」など仮名手本忠臣蔵の元となったものを書いた近松門左衛門が、越前の武士の子として生まれたのが1653年。義貞戦死碑を建てたとき、近松は7歳である。
近松門左衛門はこのことを憶えていたのではないでしょうか。
だって、徳川家と同じ先祖となる新田一族の英雄、義貞。その人物が戦死したときにかぶっていた兜が農民のイモ桶として使われていたなんて話、強烈です。
後に作家になるような人物ですから、面白いエピソードは忘れないはず。しかも父は福井藩に仕えていた武士です。(鯖江藩にいたという説も) 地元は藩主を挙げての大騒ぎだったというから、記憶にあったでしょう。
おっ、ちょっと待った、「仮名手本忠臣蔵」の作者は、近松門左衛門ではない、といった声が。
そう作者は竹田出雲・三好松洛・並木宗輔の3人。
だがこの3人すべて近松門左衛門の子弟や関係者なんですよ。だから、義貞の兜の話を近松から聞いていて、これはいい逸話だと、思っていた。それを忠臣蔵の物語の中に組み込んだのではないか、と私は考えているんです。
だってあまりにも義貞の兜の発見の状況と、劇の始まりの設定が似ているからです。
さて、この仮名手本忠臣蔵の謎は歴史ミステリー小説「東毛奇談」第5章で、ちょー詳しく書きましたので、興味のある方はそちらまで。
さて義貞の話はまだまだ続きます。
新田義貞の兜の話。
8月14日は、旧暦では7月2日にあたる。
新田義貞が戦死した日は旧暦の7月2日であった。現代では残暑が厳しく、まだまだ盛夏の印象があるが、昔は夏も短く、暦上では立秋も過ぎて、秋の気配が感じられるころであっただろう。
さて、新田義貞討ち死にの場面は、歴史ミステリー小説「東毛奇談」の第2章あたりで書いたし、「7月2日は新田義貞の命日」という記事にも少し書きました。命日にちなんで何か義貞について書きたいので、今日は、新田義貞が死ぬときにしていた兜の話をしたいと思います。
新田義貞戦没伝説地は、現在の福井市新田塚で、当時は灯明寺畷といわれています。
なぜ、伝説地かというと、新田義貞の戦死場所は確定されていないんです。
たぶんこの辺りだろうということで、決まったんです。(うー名将の最期としては悲し過ぎる)
その経緯が因縁めいているんです。
それは、江戸時代の1653年のこと。この地の百姓であった嘉兵衛なる人物が、水田から古兜を見つけた。農民にとっては兜も農具に代わる。おーこれは、何か入れるものに丁度いいと芋桶として使っていた。
これを当時の福井藩軍学者の井原番右衛門がたまたま通りがかりこの兜を見つけた。その芋桶に使っている兜をちょっと見せてみろ、なんて言ったんでしょうね。で、この井原という人はなかなかの目利きだったらしく、この兜が年代物で名のある品であることを一目で見抜いた。そこでこれを貰い受けて、早速、兜を調べてみた。
四十二間の筋兜で、兜の周りには「天照大神」「熱田大明神」などが刻み込まれ、兜の裏側には元応元年・相州作の銘がある。
そして、これは新田義貞が身につけていた兜に間違いないと鑑定したのだ。
これにより、兜が発見された場所が義貞戦死の地となった。
これは当時大ニュースとなった。
1660年、その時の福井藩主・松平光通は、新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として『暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所』と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。そこで、その辺りは新田塚と呼ばれるようになった。明治時代には藤島神社が建立され、兜は奉納された。そのときの福井知事が松平茂昭。いま兜は重要文化財に指定されている。
ということで、まず、新田義貞の兜が農民によって発見され、それを芋桶に使っていたということが、逸話として面白くもありますが、どこか哀しくもありますね。
それにこの話の興味深いところは、松平家・徳川家は、自分たちが新田一族の末裔であることを、全く疑っていなかったことが分かるということです。
これは、家康が、「われらは新田源氏であり、源氏であるからこそ、将軍職を受けることができ、幕府を開き、政務を掌ることができる」という自らの出自政策が見事に成功している証拠でしょう。
徳川光圀でさえ、我らは源氏の末裔である、という詩を残しているほどですから、江戸時代では、徳川家・松平家=新田源氏であると信じられていたし、一般庶民にも浸透していたんです。
家康が1586年に里見氏に出した書状には「徳川家と里見家は同家の新田の出であるから誼を結ぼう」といった内容のものを送っている。これは家康が将軍職を受ける16年前のことである。
里見氏は新田家の分家であり、「里見八犬伝」で有名なあの里見氏である。後に里見氏は改易となり、新田源氏を名乗る大名、有力者は徳川家だけになった。(このあたりは「東毛奇談」第3章に詳しく書いてあります)
そしてもうひとつ、この兜をめぐる物語は「仮名手本忠臣蔵」につながっていくですが……。
これは次回に続く。