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「ギャル曽根」の記事再録

本日(9月21日)、TBSテレビ「中居正広のキンスマ!スペシャル」でギャル曽根の特集をするらしい。内容は今の段階では分からないが、以前彼女について書いた記事があったので再録する。

これは8月3日の記事

食っているつもりでも、結局は食い殺される、ギャル曽根

人間の一生のうちで幸運の数は決まっているという。

この俗信は、広く信じられている。また、ちょっとしたこと、何気ないときにいったりする。例えば、自動販売機でジュースが当ったりしただけで、あー幸せが1つ減ったなんて言ったりする。

面白い迷信である。

では、人の不幸の数はどうだろうか。不幸となると数は決まってなくて、無限にあるように思える。

では、食べるという行為は、幸福だろうか。

食べているときの幸福感は何ものにも替え難いもので、決して不幸ではないはずだ。

というわけで、ギャル曽根である。

大食いをネタにして、テレビに出まくり、そのたびに大食いを披露する。番組に出ては食べる、中継先のレストラン、食堂で出されたものをすべて食べつくす。

もう、感心するというのを通り越して、こっちが気持悪くなるほどに食う。

そして「うーわーギャル曽根ちゃん、すごいねー」という声に「まだまだ、いけますよ」という会話が続く。この一連の流れは、もう彼女の芸風となっている。

完食することを暗に要求されているので、それに答えるようにギャル曽根は食って食って食いまくる。

笑顔を見せながら……。

では、ギャル曽根は食べるという行為によって、幸福を得ているのだろうか?

人間の幸福の中でも、食欲を満たすということは、どんな欲望にも勝るだろう。

人間は性欲にも強い欲望を感じるが、性行為をしなくても生きていける。

「食す」ということは、人間が生きていくためにとても重要なことだ。

では、彼女は、食べることで幸せを感じているのか

最近の彼女を見ていると、どこか物悲しいものを感じる。

顔は笑っているが、その瞳の奥にはフォワグラを作るがちょうのように無理やり食わされているような、悲しい鳥獣のような姿が浮かぶ。まるで道化師のようにも見える。

私には彼女がテレビというメディアに踊らされているような気がしてならない。

「食え、食え」というシュプレヒコールに、「食う」という行為で応えている。

熱せられた鉄板の上でピエロが踊らされているのを、観客である視聴者が見て喜んでいるに過ぎない。

ただ他の人よりも多く食べるという特異な体質を、見て楽しむ感覚はどこかおかしい。

視聴者はどういう感情で彼女を見ているのか?

物を食う姿が美しい人がいる。また美味しそうな料理を食べているレポーターを見て、私も食べてみたいと思う番組は多くある。

でも大食いは違う。獣のように食い物を漁るギャル曽根を見て、よし私も大食いに挑戦しようなんて人はそうはいないだろう。

では、彼女に何を求めているのか。

すべては、貪欲から来ていると思う。食欲、性欲、金欲、現代人は欲望を必要以上に求めている。

大食いファイターというものが必要以上に、食欲を貪る姿に、人は何かを求めているのだろう。

欲を貪るという社会の風潮は、朝青龍や、勝ち組・負け組の記事の時にも書いた。

現代は欲望に執着し、多く手に入れた者を英雄視しているのだ。

だが、彼女に罪はない。彼女には欲を貪っている意識はないだろう。ただ食っているだけで、他人から喜ばれると思っている。それにただ応えているだけなのだ。

それを囃し立てて喜んでいるのは、テレビやマスコミ、現代人だろう。

ある人はギャル曽根を見ていった。「あんだけ食うんだから、糞もすげーだろうな」と。

ばかみたいな意見だけど、ここに真理があるだろう。

必要以上に食い、大量の排泄をする、これを繰り返す。

食えば出る、これ自然の法則。

貪り食っても、糞となって出るだけ、いくら欲望を満たそうとして、求めても結局は消えていくのだ。そうゆう意味ではお金も同じか。

数年あとのギャル曽根はどうなっているだろうか。

いまのようにテレビやマスコミに好奇な目で持てはやされているうちはいいが、それが長く続くとは思えない。

その時になって、ギャル曽根は本当に食っていけるのだろうか。

ギャル曽根は物を食いまくっているように見えるが、結局は世の中に食われているのである。

読書感想文を書かせる社長って、いい会社?

9月16日読売新聞「編集手帳」より

「……神奈川県内で自動車の販売会社を経営するAさん「いい人が勧める商品はいい商品だ。あとあとも安心だ」と……。この「いい人」を育てるために、Aさんが10年以上も前から行っていることがある。250人余の社員に本を無料配布することだ。繁忙期を除くほぼ毎月、自ら読んで素晴らしいと思った本を渡し、そのつど感想文を書いてもらう。最近は伊藤進著「ほめるな」や島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」、池間哲郎著「あなたの夢はなんですか?私の夢は大人になるまで生きることです」を配った。販売技術を学ぶより、人間性を高めることが大事だという。……」
このあと、紙上で、この社長を褒めまくります。
これっていい話なのでしょうか?
いい大人が「がばいばあちゃん」を読まされて、感想文を書かさせる会社って、いい会社なの?
私なら反抗しますね。
会社で松下幸之助とか本田宗一郎を読ませるなら分かる。いや守銭奴教育ならホリエモンの「稼ぐが勝ち」なんかでも、仕事と割り切って読みましょう。 (もちろん読み飛ばしますが)そして、感想文でもなんでも書きましょう。(これも生活のため)
しかし趣味の合わない本を押し付けて、感想文を書かせる社長なんて、私は信用できませんね。これって「ドラエもん」のジャイアンが行う「歌のリサイタル」と一緒。力でねじ伏せて、無理やりの感動の強要。つまり、ジャイアンの自己満足と変わらない。
これを「社員教育の鑑」と持ち上げる記者は、一体どいう感覚を持っているのか。

映画「デスノート DEATHNOTE」の私的解釈。その3

前回の続き。


① 「なぜひっとこか」

Lがひょっとこのお面を被るシーンが登場する。素顔を見られると、名前を知られ「デスノート」によって殺されてしまう。そのためにお面をかぶって素顔を晒さないようにしたという場面だ。

ここは笑わせるシーンとして使われていたらしく、実際に劇場では笑いが起こったらしい。だが私はここで唸ってしまった。「ひょっとこ」の意味を知って意図的に使ったとしたら、凄いことだからだ。

そう「ひょっとこ」は魔除けだ。

ひょっとこ・・火男のなまり。口をとがらし曲げてた滑稽な面で、火を吹き起こす顔つきをいう。東北地方では土製のひょっとこ面をかまどの上にかけて魔除けとし、竈神様と呼ぶ。

竈神・・・かまどを神聖視する信仰は全国的で、そのそばに神棚を設けて神符や幣束を納める。東北地方ではそばの柱にひょっとこの面を掛けて釜男と呼ぶ、竈の神とする。東日本ではお釜様、関西では荒神(こうじん)、中国地方では陰陽師の影響で土公神(どくうじん)、ろっくさんと呼ぶ。

火の神・・火をつかさどる神。日本神話では迦具土神(かぐつちかみ)という。また静岡県秋葉神社は防火の神として有名で、秋葉講は全国に及ぶ。京都の平野神社も竈神である。

ひょっとこは「出雲安来節」「どじょうすくい踊り」にも使われる。これらは、豊穣を祈念する一方、魔事退散を祈念するものである。

つまり、Lは「魔除け」を意識してひょっとこの面をかぶったということになる。

Lはこの事件が霊的なものが作用していると感じ取って、魔よけのアイテムを選んだのではないか。しかもそれが「ひょっとこ」という和物であるという点が私には興味深い。


②「物語上の名前や役名には、作者の意図が隠されている」という。
では、主人公の「夜神月」はどうだろうか。「夜・神・月」どれもオカルチックな文字を使っています。
しかも名前の「月」はあまりにも意味深なので、ここでは夜の神である「月神」を列挙してみましょう。

1、ギリシャ神話で月の神アルテミスは豊穣を司る地母神であると同時に疫病や死をもたらす恐ろしい側面をもっている。
2、日本神話では、月読(つくよみ)尊がこれにあたる。アマテラスの兄弟で、夜を支配する。
3、古代エジプトの月神、トート。イビス(トキに似た鳥)あるいはヒヒの頭部をもち、知識、記録、計算をつかさどり、暦法、文字、年代記の発明者、死者の裁判の記録者とされる。ギリシャ人はヘルメスと同一視した。
4、ヘリオスはギリシャ神話に登場する神で、英語名をマーキュリー。商業、旅人などの神であるが、死者を冥界まで導く役目も負っている。

このトート、ヘリオスは死者を導くなど、オカルトチックな要素が多分にあるため、占星術師、錬金術師、魔術師に信仰された。また、タロットカードは「トートの書」と言われる。

私はこのトート(=ヘリオス)のイメージが「夜神月」に合う。タロットカードには死神のカードもあって、いわゆる一般的な死神の容姿はここからきているし、映画の死神はこれに近い。
しかし、夜神月という名をどういう理由であるか、何かの引用であるかは、作者のみが知ることであって、それを語らない以上、私たちには分からない。
しかも「月」と書いて「ライト」と読むこともにも何か意味があるだろう。だがどうにも、これ以上は分からない。この辺に詳しい方、知っている方がいたら教えて欲しいですね。

③ デスノートのDVDのパッケージを改めて見てみると藤原竜也扮する「夜神月」と「真っ赤なリンゴ」が映っている。
この「りんご」は何かを訴えていますね。明らかに「リンゴ」は何かを意味してます。
この辺りが原作や解説書にどう書かれているかわからない。ネット検索でもこの意味するところに言及した記事を見つけることができなかった。
で、私なりに考えてみた。前回も書いたが、リンゴは「命」を象徴したもので「心臓」を意味していると思う。
夜神月が監視下に置かれ、「デスノート」を使えないという場面がある。これでは命が奪えない。その命が頂けない死神がこう嘆く。「あーリンゴが食えない」と。夜神月が死神にリンゴをくれるというは、命(心臓)を与えている、そういう意味があるではないか。
それに、デスノートに死因を書かないとすべてが「心臓麻痺」になるというのも、デスノートが心臓に強く作用しているというだ。やはり、心臓=リンゴ説を強く推したいですね。


というわけで、原作漫画もアニメも見ていないのに、取り留めのないことを3回にわたってグダグダと書き続けました。
そのほかに、名前を知られ、その名をデスノートに書かれると殺されるというルールがある。これが「古来日本では、名前を知られると知った人に支配されてしまう、そこでむやみに名前を明かさない」という思想に似ていて、これについても書こうと思ったが、切りがないのでこの辺でやめておきます。

追記   映画「デスノート」のスピンオフ作品「L 最期の23日間」が2008年2月9日に公開される。出演は、松山ケンイチ、佐藤めぐみ、福田麻由子 監督は「リング」の中田秀夫。

映画「デスノート DEATHNOTE」の私的解釈。その2「死神はなぜリンゴを食うのか」

前回の続き。

映画「デスノート」は「仏教的思想」が強い。

これが、この映画の感想である。

①終盤、死神が「デスノートを使った者は、天国にも地獄にも行けない。行き先は無だ」と、夜神月にいうセリフがある。

うん、「無」って。無という思想は仏教だろう。

②死神が死んで、砂になる。という場面が何度かある。死神が死ぬっていうのも変だが、消滅の仕方が「砂」になって消えて行くのだ。

この感覚も仏教的だ。チベット仏教徒が砂絵を書いて完成したらその時点で壊す、というのをテレビで見た。確か「無」の心境を得るために行う修行だという。

死んで、砂となり、風に吹かれて跡形もなくなるという「無」の思想は仏教である。この場面が仏教的であるというブログもあったので、そう感じていたのが私だけでないことが分かった。

また、これは「入滅」ではないかという記事を読んだが、少し違うと思う。入滅は釈尊や高僧が死ぬときに使う。「涅槃に入る」と同じことで、煩悩から解脱した境地なので、死神の消滅にこれは当たらないのではないか。

③この死神の存在がいかにも、日本的神なのだ。

キリスト教では1神教なので死神はいない、という。人を死に誘う役割は悪魔であるという。(ウィキペディア、死神の項目)

なるほど。となれば、1神教では、死神はいない、悪魔がその任となるわけか。

しかし「デスノート」の死神はどこか滑稽で、日本的である。冗談も言えば、皮肉も言う。じつに人間的なのだ。西洋では悪魔は絶対悪であり、寡黙なはずだ。

④映画の中では、アイドルの「弥海砂」を助ける死神がいたが、これはどういう死神なのか。(私は映画だけの情報であるが)あのイメージは死神ではない。

不思議なキャラだ。それだけに、この映画でいう「死神」の実体が分かるのではないか。

この死神はアイドルを助けるために、自分が犠牲となって消滅する。悪魔に「自己犠牲」の精神があるという話を聞いたことがない。それに義侠心を感じた白い死神が自己犠牲となった死神の精神を引き継いで、アイドルを助ける。

恩義、思い遣りのある死神、悪魔がいるという話も聞いたことがない。

つまりこういうことだ。この映画の「死神」とは、西洋的なものではなく、日本的神だということだ。実に、慈悲深いところがある日本的思想が盛り込まれているということなのです。

その反面、突如として裏切ったりするところもある。(死神の最後の裏切り)

この自由さも実に人間的なのだ。これはギリシャ神話や北欧神話の神々のようだともいえる。(となると物語上、映画の死神は「トリックスター」といえるだろうか)

日本人は、神に対して独特な感覚をもっている。善、福を与えるのも、神さまであり、災い、不幸をもたらすのも神さまなのである。つまり、日本人の「神さま」に対する考え方はじつに曖昧なのである。

そうなると、映画の彼らの言動から、これらは日本的「死神」であると推論できる。

⑤ では、この「死神」の原型はなんであろうか。

一番近いのは「閻魔大王の牽族」あたりではないのかと思う。

閻魔はインドのヴェーダ神話に登場するヤマである。人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となったヤマ。人が死んだときに、天界へ送るか、地獄へ落とすかを裁く役割を担った。このヤマが中国に伝わると、道教と結びいて閻魔となったのだ。閻魔は冥府の王、地獄の総帥、餓鬼道の王で、18人の属将と8万の獄卒()を引きいている。

「デスノート」に登場してくる死神は、閻魔の配下の鬼、またはその眷属であろう。そして、私はこの死神「デューク」は、荼枳尼天あたりではないかと思ったのだ。

荼枳尼天は六カ月前に人の死を知り、その心臓を喰う。そのため神通力があるという。

⑥「デスノート」の死神はリンゴを食う。やたらと食う。卑しく貪る。これが何かの暗喩となっていると思って間違いないだろう。

「リンゴ」が、神秘な力を秘めていることは数々の神話や逸話に登場していることで分かる。

例えば、「アダムとイヴ」の知恵の木の果実、「ギリシャ神話」の黄金のリンゴ、「北欧神話」ロキの黄金のリンゴ「ニーベルングの指輪」のリンゴ。これらは生命、若さの象徴である。

反対に、「アーサー王の死」「白雪姫」は毒りんごが登場して、「死」の象徴として、リンゴが出てくる。

すべて、リンゴを食うことで、その現象を起こしているのだ。

それに、リンゴは「死と生」の象徴だという。

またリンゴはハートであるという。まさしく、「心臓」である。あの大きさといい、赤色といい。

それを食うことで、生命の活力を得ているのだ。

ではそれを貪り食う「死神」は何者かとなる。

(確かエヴァンゲリオンでもシトの内蔵を喰うシーンがあった)

まとめ、

「死神」はリンゴ(心臓)を食い、閻魔の眷属で、死者を冥界へ送る役目を負い、

神通力(人を見ただけで名前と寿命が分かる)を持っている。

となると、

「デスノート」の死神は荼枳尼天といえるのではないか。

ちなみに荼枳尼天は、日本では神仏習合され、稲荷神となった。そう、お稲荷さまで、要はキツネである。

稲荷神社は全国各地に3万以上あるといわれる。鳥居のたくさんあるあの神社のことだ。

というわけで、いろいろ理屈をこねて、遊んでみました。これはあくまでも、私のお遊びなので、本気にしないでください。(だったら書くなって、言わないでね)

で、次回は、「Lがなぜひょっとこのお面を被るか」です。

追記  リンゴ情報。他の食物をリンゴと一緒に入れておくとまわりの食物を腐らせる成分があるという。これは昔から習慣として知られていたことであるという。またリンゴが腐って、醜くなるのも、どこか心臓を想像され、そこから死のイメージもついたのだろうか。

映画「デスノート DEATHNOTE」の私的解釈。その1 Lは何故チェスをするのか。


ブログを書こうと、ネットカフェに入った。時間のある日は、そこで映画を見ながら、記事を書くことを習慣としている。

で、映画は何を見るかと悩んで、何となく「デスノート」を観た。

最初は画面半分だったのが、いつの間にかブログは最小化して、映画が全画面になっていた。前篇、後編の一気見。計4時間強、記事を書くのをそっちのけで、見入ってしまった。

おー、なんという展開、面白い。こりゃ、ハマルわー。

そして、たぶん他の人が面白いと思うような場面では、私は別の意味で驚愕し、感動したのだった。

「デスノート」に関して全く予備知識はない。原作漫画は読んだことはないし、アニメも見たことがなかった。話題になっていたことは勿論知っていたが、周りが面白い面白いとあまりにも言うので余計に敬遠していたのだ。それに、あの「死神」の姿をCMとかで見て、これは私の苦手なジャパニーズホラー物と勝手に決めつけていたのだ。だからなおさら手を付けていなかった。

だが、この日、ネットカフェで「デスノート」を無料配信していた。もし他に見たいものがあったら、この映画は一生見なかったかもしれない。(映画にも縁というものがありますね)

それに、この物語(私は映画だけですが)は知識欲を煽られますねー。無性に、他のことまでが知りたくなる、まさにカルトの要素満載ですな。

さて、何度も言いますが、何も知らないで観て、その後ネットで検索した知識しか現時点ではない。その素材だけで私的解釈を行うので、トンチンカンなことを書くかもしれません。またファンから言わせれば間違っていることも書くかもしれません。ただ、これから書く記事は、観たときの感想と自分なりに考えついたことをダラダラと忘れずに書いておく、といった内容です。まあ今までと同じように読み飛ばしてください。(物語の核心部分に触れることもあるので、これから見る人は注意してください)

さて、前口上はこれ位にしてと。今回は「Lはなぜチェスをするのか」です。

この映画を見て一番に思ったのがイングマル・ベルイマンの映画「第七の封印」だった。1956年のスウェーデン映画。ベルイマン監督は先日死去しましたね。そのときは私も少しだけブログに書きました。

では、ストーリーを簡単に。「10年間十字軍に参戦したアントニウスは帰国の途中、死神に狙われる。騎士は死神にチェスを挑み勝負のつくまで善悪と生死の問題を考えようとする。彼は帰路で疫病や迷信、魔女の疑いで焼き殺される少女たちに会うが、神は彼の問いには答えない。彼が自分の城に帰りヨハネ黙示録の第7の封印を読んだとき、死神が迎えに来る……」

①映画では死神と騎士がチェスをする場面が超有名で、パロディーに使われるほどだ。夜神月とLがチェスをする場面がある。これは「死神とチェスをする騎士」のようでもある。

②この騎士は「誠意も信仰もいらないが知識が欲しい」と言うのだが、Lも似たような性質を持っている。

③「第七の封印」のテーマは神の不在、神の沈黙だ。

「デスノート」では、「悪がはびこる世の中に、なぜ神は沈黙するのか。正義」とは何か」がテーマとなっている。

正義が行われないことに義憤を感じた夜神月が、デスノートで正義を行う。神の沈黙=正義が行われないことで、夜神月が「神のような存在」になろうとしていくのだ。(ただこの「神」は善ではなく、人を越えた絶対者ということ)

神、善悪、生死、対話(対決)など、2つの映画に流れているテーマは、根底では近いものがある。

ただ、「第七の封印」は古いのであまり見る機会がないだろう。もし、見たとしても、難解すぎて訳が分からない。まずは「第七の封印」を検索して、見た人の感想を読むといいでしょう。噛み砕いてあるのでよく分かる。「デスノート」のストーリーを浮かべながら、解説、感想などを読むと、「デスノート」と「第七の封印」の関連性を理解することができるでしょう。

「Lが何故チェスをするのか」

「デスノート」ではLがチェスをする場面がしきりと登場する。映像としてこれだけ使われるとなると、演出者に何かの意図があると考えてよいだろう。

夜神月と初めて会うときも、Lの最後の場面でもチェスをしている。してなくても、テーブルの上には必ずチェス盤がある。監督の金子修介は「ガメラ」シリーズで有名な方。小道具に凝るという話は聞いたことがある。これが映画だけの小道具なのか、原作でも使われているのは分からないが、チェスが何かを意味していると思っていいだろう。

そこで考えていると、キャサリン・ネヴィルの小説「8(エイト)」を思い出した。

内容(アマゾン「BOOK」データベースより)宇宙を司る8の公式。その謎を秘めたチェスの駒を求め、争奪戦が繰り広げられる。時空を越えてひろがる壮大なる冒険ファンタジー
革命の嵐吹きすさぶ18世紀末のフランス。存亡の危機にたつ修道院では、宇宙を動かすほどの力を秘めているという伝説のチェス・セット「モングラン・サーヴィス」を守るため、修道女たちが駒を手に旅にでた。世界じゅうに散逸した駒を求め、時を超えた壮絶な争奪戦が繰り広げられる!壮大かつスリリングな物語

① 本の中にこういうセリフがある「数には神聖な性質があると考えている。宇宙は数で構成され、その振動数とぴったりと共振できさえすれば、人は神と一体になれると信じているんです」

その謎を解くカギがチェスの盤の数字の配列にあって、そこに宇宙の法則が隠されていると本には書いてある。

そしてそのチェス盤を手にすると、神と等しい存在になる。デスノートを手にした人間が、悪の力で人の命を支配できるように、盤を手にしたものが、神の力で世の中を支配することができるということだ。

Lの知識欲望は貪欲だ。目に見えない悪と戦うには、神の力(知識)を持って、謎を解明しようとしたのではないか。チェスにはそういう力が秘められているというのだ。

②チェスにも、デスノートにも細かいルールがあり、それに則って、ゲーム(「デスノート」はゲーム性が高い)が行われている点も見逃せない。そして、チェスも、デスノートもともに心理戦が行われるのだ。

③小説「8(エイト)」にはそういったチェスにまつわる話が山のように出てくる。死者の書や冥界への使者ヘルメスやトートの記述もあるので、デスノートで「なぜチェスなのか」を意識して読むと面白いかも。ただし、長い話で上下巻の計1000ページくらいあるので、暇な方しかおすすめしませんが。

まあ、チェスにはそういった神秘性もあって、Lが使う小道具として最適だったということか。

余談……Lが甘いものばかりを食べているが、これも何かを表しているのではないかと、考えてみたが浮かばなかった。(きっと何かを暗示していると思う)

ただ、ここで荒俣宏の話を思い出した。頭脳を使うときは甘いものを食べろ、といった内容の話だった。荒俣が作家として売れないころ、まだ会社員として過ごしていたときのこと。昼は働いて、夜は小説を書く生活だった。金もない、寝る時間もなかった。そのころは、出版社の一室か水木しげるの家とかに住み込んでいたという。そこには、羊羹やカステラ、どら焼きなどの手土産が来る。それを頂いて食事にあてていたというのだ。荒俣曰く「甘い物の栄養素である糖分は頭へまわり、頭脳を活性化させる。人間甘いものだけでも生きていける」といった。そのころに書いたのが「帝都物語」である。荒俣は知の巨人と言われる人物だから、あながち嘘でもないだろう。

Lが甘いものを食べるのは、頭脳戦に耐えうるためだったのか。(甘いものが好きだという設定で、笑いを取ろうということか)

といったことで、「デスノート」関連で以後もダラダラと書き続けます。予定は3回。

次回は、「死神はなぜリンゴを食うのか」です。