政治家の世襲制って。小渕優子議員出産。
小渕恵三元首相の二女、優子衆議院議員(33) が9月25日に第1子となる男児を出産した。この日に福田康夫衆議院が首相に指名された。
さて、この読売新聞群馬版には、県内の明るいニュースとして、小渕優子議員の出産が掲載されていたが、この見出しが「妙」だった。
『「5人目あるかも」 小渕議員長男誕生に喜びの声』
記事のコメントには、自民党群馬県連の笹川尭会長が答えている。「群馬はおめでた続きだ。4人の首相を出した、これで5人目もあるかもしれない」
うん、これって変じゃないか。
小渕元首相の娘が子供を産んで、その子が首相になるのか。
あまりにもサラっと答えているので、だれも疑問にも思わなかったのだろうか。
そこがおかしなことなんだけど……。
代議士は血縁者が代々受け継ぐものなのか?
首相は世襲制なのか?
それを見出しにする新聞社に何か意味があるのか。
確かに、最近の首相はみな代議士の血縁者だし、いまの国会議員の半数以上は2代目・3代目だろう。今の政治の問題点がそこにあると思うけど。
一つの選挙区に4人もの首相を出したこと自体、異様だし、それにこの記事を読んで、「政治家の世襲制」に一層疑問を感じてしまった。
「第6章 徳川埋蔵金のこと」終了。「終章 内侍と世良田氏のこと」掲載開始。
遂に、最終章に突入しました。
世良田氏とは「徳川郷(得河)」に土地を持っていたことから徳川氏とも呼ばれていた、新田一族である。
その世良田一族はどこに消えたのか?
そして、徳川を名乗る「松平家」は、どこからこの世良田氏のことを知ったのか? (家康の祖父にあたる松平清康から世良田氏を名乗っていた)
その接点に浮かぶのは、徳川幕府に仕えた僧「天海」と南北朝時代に南朝方の武将であった「児島高徳」。
時代も身分も違うこの2人が果たした役割とは?
内侍とは、新田義貞が愛した女。
義貞死後、京都の祇王寺に隠棲したと言われているが、様々な伝承があってはっきりしていない。
その内侍は、義貞の子を宿していたという伝説もある。
ではこの親子はどこへ消えたのだろうか?
その家系はどこへ?
そして、「世良田東照宮はなぜ東向きに建てられているのか?」という謎かけ。ここにすべての謎を解くカギがある。
というわけで、こんな感じで、自説を展開します。
では、今日から「終章」の掲載を始めます。
掲載はfc2ブログです。
アホ過ぎるぞ「家康、信玄親子説」
9月21日テレビ東京で「みのもんたの日本ミステリー第3弾」が放送された。
この中で「徳川家康と武田信玄は親子だった」という新説を放送していた。
アホですね。
全く根拠がない。
でたらめです。呆れて、ものも言えない。それでも少し書きだしてみます。
それは、何と、「世良田東照宮」「信玄」「家康の出自」といった言葉で、「物語を物語る」のブログに飛んでくる人がかなりいたからです。テレビ放送後に検索したのでしょう。まあ、折角、来た方のためにも少しだけ書きます。
家康の出自については謎がかなりあって、その曖昧さから、様々な説がある。この番組でも村岡素一郎の「史疑」から、家康願人坊主説を取っているが、そこから、武田信玄の親子だったという飛躍した説を結びつけること自体に無理がある。
家康が武田信玄に心酔していたことは事実であるし、軍法を武田式に変え、旧武田家臣を徳川家臣に組み入れたことは確かだ。あとは、築山殿、松平信康の事件のときの武田家との関係ぐらいだろうか。
番組を見た方は分かると思うが、家康の五男信吉に武田姓を名乗らせ、武田家再興をしたことが、家康、信玄親子説の根拠となっている。が、これはおかしいぞ。
家康の次男秀康は結城姓を名乗らせているし、八男は平岩姓だ。だが、これらに徳川家と血縁関係などない。姓を名乗らせ、その家を継いだからといって、その家と親子関係であると結びつけることが短絡的過ぎる。
それに、信吉は1603年に死んで、そのあと武田家は再び断絶している。家康はそれ以後武田家を再興しようとしていない。家康が信玄の子だから武田家の再興を願ったということではないということだ。(武田家を再興しようというアピールがそのときには必要だったということ)つまり、これを根拠としている親子説はおかしいということ。
それに、信玄は家康に天下を取らせるようとした、保険だった。というのもおかしい。この当時は織田信長の存在があり、家康などは信長グループの一員でしかない。家康が天下を取るという発想を信玄がもつはずはないのだ。それに徳川家と武田家の戦いを見ればわかる。三方ヶ原の戦いで家康は死にかけているし、武田家を滅ぼした戦いにも積極的に参加しているのだ。
あとは、顔相学の先生が2人は顔が似ているとか、筆跡鑑定で、似ているとか、まあそんなもんで、新説だなんて言うなってことです。
まだまだ突っ込みところのある説だが、このへんで止めておく。アホらしくなってきたので。
ただ、世良田東照宮が出てきたのには驚いた。
まさか私のあの説が出てくるか、と一瞬冷や冷やしたが、
「家康がなぜ新田源氏を名乗ったのか」という基本的なことが抜け落ちていたので、全く違う方向になっていた。
しかし、家康、信玄親子説、ぶちまけるならもっと論拠をしめさないと、ダメです。
大概の奇説、珍説には驚かないが、こんな程度のものが放送されること自体がばかばかしい。
あとは歴史ミステリー小説「東毛奇談」を読んでください。信玄、家康親子説よりは面白いと思うので……。(さりげなくアピール)
「中国雑技団を見て感じた、人の幸福とは」 旅行記2
前回の続き。
鬼怒川温泉のホテルに宿泊。
そこでは、ホテルの催し物があった。
「中国雑技団」によるショーだった。
ネット予約のサービスで、このショーのチケットをただで貰っていたので、(気が進まなかったが)家族サービスの一環として見ることになった。
嫌々ながらも見始めたが、結果的にかなり楽しめた。一言でいえば「凄かった」というのがいちばん的確だ。期待していなかったので余計そう感じたのかもしれない。
本場中国からやってきた一団で、芸は本格的なものだった。
サーカスの曲芸のようなものが多く、人も物も、回る回る。空中ブランコのようなものもあって、思わず「アブねー」と言ってしまうものも多かった。
また、身体が柔らかいので、ヨガのように体が曲がる曲がる。まるで映画「エクソシスト」の悪魔に乗り移られた少女のように、クモ歩きの場面ぐらい体が曲がっていた。(例えが下手ですね)
テレビで見た「へん面」もあった。おーこんなところで見られるとは、と感心しながら、夢中になって見ていた。
しかし、そのうち娘が愚図り始めた。「のどが乾いた」「眠たい」「飽きた」と連発し出した。夜8時から始まって約1時間の公演。娘にしてみたら、そろそろお眠むの時間なのだ。それでなんとか、終演までなだめすかして、大人しくさせた。
そして、ショーが終わって、観客との記念撮影。
その時気がついた。出演者がみな若いということに。
よく見たら、みんな子供だ。
そこにいた関係者の人に聞いたら、最年少は男の子で7歳だった。他の子も似たような年齢の子が数人いたし、他は10歳から17、8歳ぐらいの少女といった感じの子供たちだった。
「ちょっと複雑な気分になった」
それに、彼女らをよく見ると、手足には怪我やあざの跡がいっぱいあった。雑技団の芸はアクロバテックな芸が多いので、怪我は絶えないだろう。それに日々の練習はかなりきついはずだ。一歩間違えば、大けがになる。空中ブランコのような芸で落下したら死んでしまうかもしれない。それを毎日行うのだ。
「これは厳しい」
こんな小さな子らが中国から日本にやってきて、芸を見せるとは何とも辛い話だ。7歳の子が親や兄弟と離れ離れになって、言葉も通じない国で仕事をするのだ。しかも、人前で芸を見せて、お金を得るまでには修行を積まなければならないのだろう。
様々な背景が頭に浮かんでいろいろと想像してしまう。
兄弟が多くて、親が手放したのか。
芸を身につけるという名のもとに、売られてしまったのか。
稼いだお金は送金しているのか。
それとも、子供扱いされて、まともにお金はもらえないのか。
体が大きくなって芸が出来なくなったらこの子らはどうなるのか。
……。などと勝手にその背景を考えてしまった。
日本人の子として生まれていれば、うちの子のように、温泉に行って、お土産を買ってもらって、いらないというほどお菓子を食べ、母親と一緒に寝ることができる。お金や故郷のことは心配せずに、「プリキュア」や「しずくちゃん」のテレビの放送を気にして楽しい日々を過ごすのだ。
この差は何なのか。うちの娘とそれほど変わらない年齢なのに。
生まれた場所が違うと、こうも人の生き方は変わるのか。それは、自分自身でどうにもならないことだ。これも運命と簡単にいっていいのか分からないが……。
しかし、それは不幸なことなのか、とも考えた。
あの子らの芸を振り返ってそう思ったのだ。
私は芸を見て楽しんだ。その見事な芸に、そしてそれを演じた人びとに拍手を送ったのだ。
これは「不幸なこと」ではないのでは、と。
異国の地で、芸を見せ、喝采を浴びることなど中々できない。
一芸に秀でて身を立てるのが、その人の人生にとって幸福だということもいえるんじゃないかと。
いや、やはり、普通の一般人として平々凡々に暮らす方が幸せなのか……。
なにを持って「幸せ」なのか。それは人によって違うし、考え方によっても変わってくるだろう。どっちが幸福なのか?どうにも分からない。
さて、さて、答えの出ない深かみにはまり込んで、いろいろ考えさせられる鬼怒川の夜だった。
「サル山の猿」と「生」 旅行記1
先日、日光・鬼怒川方面へ旅行に行きました。
1泊2日の家族旅行。温泉に浸かってゆっくりと、と思ったのですが、いろいろ考えさせられる旅となりました。
行程は、「中禅寺湖でボート漕ぎ」、「華厳ノ滝を眺め」、「明智平のロープウェーに乗る」と次々に日光観光の定番を巡った。
ほんとうは、日光東照宮をじっくりと見て、天海の墓所「慈眼堂」に久々に行きたかったのです。しかし今回は、家族旅行ということで、泣く泣く素通りしました。幼稚園児の娘と神社巡りはちょっときついかなと判断したのです。(というよりは、一人でゆっくりと見たいんです、特に寺社見学は。で、今日は我慢)
そして、「せっかくここまで来たんだから、日光猿軍団を見よう」ということになった。私は見たくはなかったのですが、まあ仕方ない家族サービスというやつです。
ということで、日光猿軍団に行って、驚きの連続。料金は高い、駐車料金まで取る。おまけに猿の劇が始まるまで、待っていなければならない。他に見るところがないので、お土産屋でボーっとするしかなかった。(そういう驚きです)
しかも、劇は…… (察してください)。まあ、そういった内容です。
それでも、うちの娘(5歳)はかなり喜んでいました。
しかし、ここで、私が興味を持ったのは「サル山」でした。
まあ、何の変哲もない、動物園にあるような普通のサル山です。10匹位はいたかな。
ここが妙に気になって仕方がなかった。なぜか。理由は、ここが「日光猿軍団」だからですよ。
芸のあるサルは舞台に立ち、使い物にならないサルがここに送られるわけです。
妙に考えさせられる。そして物悲しくなる。
そう思って眺めていると、このサルたち、どこか覇気がない。みんなじーっとしているんです。本来もっていたであろう「獣らしさ」さえ失ってしまったようです。
普通の「サル山の猿」といったら、物凄い「生」を感じます。餌の奪い合い、場所の取り合い、何匹か集まって毛の身づくろい、それに欲情しているサルは……しているもんです。それこそが、「サル山」を見る楽しみでしょう。
でも、ここのサルたちは、どこか寂しげで、「生きている」というエネルギーをまったく感じない。ただ虚しく時を過ごしてだけ、といった感じだ。サルはそんなこと思っていないでしょうが、悲愴感漂う雰囲気は、私に哀れな姿を想像させる。
もー、まったく見ているこっちが悲しい気分にさせられじゃないか。そんなサル山なんかない方がいいくらいです。
楽しいはずの園内に、どこか、ぽっかりと負の空間があるようで、どうもいけない。実力のない者が送られ、死ぬまで過ごさなければならない、施設のようで、自分の将来を見ているような気さえします。
まあ、そう感じるのは、会社であまり出世しない私だけなのでしょうが……。
と嘆きつつ、次回に続きます。
次は「中国雑技団を見て感じた、人の幸福とは」です。