エヴァ雑記 3 エヴァンゲリオンと諸星大二郎
「エヴァと諸星大二郎」のことを書こう書こうと思っているうちに、沢尻エリカの騒動が起こって、そっちに気が取られて書けなくなってしまった。
しかも、そこでかなりの時間と労力を使ってしまった。(沢尻エリカのインタビュー番組をユーチューブで何回見たことか)
まあ面白かったからいいんですけど……。
で、今さら「エヴァ」の解説をしようたって大したこともできないし、昔のように深みにはまりそうでちと恐い。それにマニアやファンの方の研究、解析もかなり進んでいるので、それらを参考にしつつ、ここでは両者の関連性をさらりとまとめるだけにしておきます。
さて、いろいろエヴァ関連のサイトを見ているうちに、簡素で、しかも分かり易い解説があったので、リンクしておきます。ヤフー知恵袋
これは以下の解説を理解していただくたくのに役立ちます。
「諸星大二郎とエヴァ」の関連性は「追憶の20号線
」というサイトがよくまとまっていたので参考にしました。
といってもこれもマニア、ネット上では「両者の類似性や関連性」は指摘され、有名な話でもあります。
では、まず絵の方から
①「碇シンジ」は諸星大二郎が好んで描く少年の顔に似ている。
「エヴァ」碇シンジ
「ぼくとフリオと校庭で」の表紙より
ということは、映画「ファンタステック・プラネット」の主人公に似ているということになるか。関連記事
②「エヴァンゲリオン」の原型は諸星大二郎の「影の街」に登場する謎の生物(?)に似ている。
これはかなり有名な話で、BSNHK放送「マンガ夜話」の諸星大二郎の回のときに、岡田斗司夫がエヴァの「原型はこれだ」と何気なく示唆している。
そこで、この話が広まり、エヴァの元ネタが「影の街」であると勘違いした人が多く出た。そして「影の街」を読んで「どこが似ているのか分からない」といった内容の記事も多くあった。だが、これは、「エヴァ」の姿・形が似ているのであって、話の元ネタとなっているわけではない。
「ぼくとフリオと校庭で」の「影の街」より
次は内容について。
①「生物都市」 もうほとんど「人類補完計画」である。ゼーレや碇ゲンドウが行おうとしていたことは、「これか」というのが分かる。
②「妖怪ハンター 生命の木」 聖書には、アダムの食べた知恵の木の実のほかに、生命の木の実の存在が記されている。生命の木の実を食べた、アダムとイブ以外の、人類の祖先と子孫に関する謎と奇蹟を描くミステリーだ。(ヤフー映画レビューより)
ここから「使徒」「アダム」「エヴァ」などが分かる。まず上記のリンクしてあるサイトを読んでから「生命の木」を読むとよく理解できる。
③「妖怪ハンター 黒の探究者、死人かえり」 ヒルコが使徒であることが分かる。
つまり、人類以外の生物が、人の世界を取って替わろうと狙っている。これが「エヴァ」でいう使徒ではないのか。
④「暗黒神話」 ラストの世界観が、「エヴァ」のサードインパクト後に似ている。
また「暗黒神話」の仏教的思想が「エヴァ」の思想感と似通った点がある。
ということを踏まえて「諸星大二郎」を読み返してみると、「なるほど、エヴァが良く分かる」という感じになる。理解の不足していた部分を補完(?)してくれる。
妖怪ハンター「生命の木」を映画化した「奇談」を見た。(やっと見つけた)関連記事
内容は、熱狂的なファンを持つコミック作家、諸星大二郎の最高傑作「生命の木」を映画化した聖書異伝ミステリー。子供のころの失われた記憶を求め「隠れキリシタンの村」を訪ねた大学院生が、考古学者とともに遭遇した想像を絶する奇蹟を描く。深遠なテーマと壮大なスケールを持つ原作の映像化に挑んだのは、『ワイルド・フラワーズ』の小松隆志。出演には、NHK朝のテレビ小説でヒロインを務めた藤澤恵麻、阿部寛、柳ユーレイら多彩な面々がそろっている。 (ヤフー映画解説より)
この作品『奇談』に出てくる原作コミックのタイトルでもある“生命の木(樹)”は、旧約聖書の創世記でエデンの園の中央に植えられた木として描かれている。一般的に誰にでも知られているのは、アダムとイヴが禁止命令を無視して“知恵の木”の実を食べ、知恵をつけた人間が“生命の木”の実も食べるのではないか、と神のヤハヴェが恐れ、アダムとエヴァをエデンの園から追放した、ということである。本作では“知恵の木”の実を食べた“あだん(アダム)”と“生命の木”の実を食べた“じゅすへる”という人物が登場する。“生命の木”の実は、永遠の命を手に入れるものであり、“知恵の木”の実と“生命の木”の実との両方を食べた者は神と同じ存在になってしまうため、“あだん”は追放、“じゅすへる”には呪いをかけたとされている。(映画情報ムービーネットより)
映画の感想。
30ページほどの短編漫画を1時間半の映画にしているので、間延びした感じがする。 神隠しの話は取って付けたように変だし、主人公の女性のトラウマもまったく物語とかみ合っていない、などストーリー的にアラが多い。
また、稗田と里美が一緒の部屋に一夜を過ごして何もないのか? だいたいこんなシーンいらない。村の長老の娘はこの物語に必要なの? 映画に「妖しさ」を出すために登場人物を増やしただけではなのか、などと突っ込みどころ満載の映画となっている。
だが、上記のことを踏まえて「エヴァ」との関連性と見るとかなり面白いことになる。ここでもエヴァとの関連性があるからだ。
ただし、まず原作を読んでから見ることをお勧めする。そうでないと、意味が分からないと思う。説明のシーンがかなり多いので、予備知識が必要な映画でしょう。
マニアには有名な「ぱらいそさ、いくだ」のクライマックスのシーンもしっかりとありました。
CGばっちしで、まあそれなりに迫力はありました。
光となって十字架になるシーンは「エヴァ」のセカンドインパクトを思い浮かべるし、阿部寛は碇ゲンドウの雰囲気を漂わせていました。(テレビブロスアンケート
)
「エヴァ」では「手」の描写は重要になっているが、「奇談」でも手がアップになるシーンがかなりあった。(長老がマリア像を握りしめる。里美が少年を抱きしめるところ、など)
これらは、制作者が意識している作っているのではないかと思わせる。
やはり、諸星大二郎が「エヴァ」にかなりの影響を与えているといえる。
しかしエヴァファンが「諸星の本」に殺到したなんて話を聞かないところをみると、マニアだけ、諸星ファンだけが騒いでいることなのか。
ただ、エヴァにはまった人は、諸星大二郎の本を読んでみては。その世界感が楽しめるのではないかな。ただしかなり独特な世界ですが……。
まあ、「エヴァ」の庵野秀明監督も諸星大二郎が大好きで、影響を受けたと自ずから語っているんですけどね。
沢尻エリカ「心の葛藤」
前回の後追い記事。
沢尻エリカを「エヴァンゲリオン」に引っ掛けていろいろ書いたが、これがなかなかの反響があり、アクセス数も(ヤフーブログ)かなりあった。またコメント等に応えるという意味でも、いまの時点で少し書こうと思います。
沢尻エリカは、自身の公式ブログで謝罪し、10月4日に、騒動後初めて姿を現した。
テレビ朝日の「スーパーモーニング」にVTR出演し、「あの日の行動ですべてをぶち壊してしまった」と涙ながらに語った。(号泣、人によっては演技だという方も多い)
このテレビインタビューの中で、周囲の評価と自己評価とのギャップに悩む内面を吐露し、「あまりに(周囲の環境の変化の)スピードが速かった。いま、評価されている点で嬉しいとは思わない」と答えた。
これは、彼女のいまの心境をよく表していると思う。変化の対応がうまくできずに内面的に追い詰められているという本音が出たのだろう。
この内面的追い込みを他人事としてはいけない。この騒動が人ごとには思えないからだ。
人は追い込まれると突拍子もない行動を取ることがある。
「えっ、あの人があんなことを」という話はよくあることだ。
突然の自殺、、知り合いが起こす事件、隣人の家庭内事件などなど、「なぜだ」みたいなことが突如として起こる。ただその行為を起こすまでの心理的プロセスは、他人には見えない。本人が語らない限り、他人には決して分からない。
だが、いきなり起こったことでも、事を起こす本人とっては行動を起こす過程で、様々な「心の葛藤」があり、「内面的世界で闘い」があるのだ。
たとえば、阿倍総理の突然の辞任、朝青龍の行動など。
他人には理解できない突飛な行動は騒動を巻き起こす。もちろんこれら一般的規範から逸脱した行為、世間からはみ出した行動には批難してよいだろう。
しかし彼女が起こした騒動の原因は、彼女の内面にある。(もちろん舞台挨拶で行った行為は、劇場に来た人々、関係者に謝罪はすべきだろう)
では、何が彼女を追い詰め、あのような言動をするのか。
「腕組み」「足を組む」「無愛想」「化粧」「奇抜な衣装」それは防御であり、本当の自分を隠すための道具である。「女優」「アーチスト」「沢尻会」は自分が逃げ込む事のできるため便宜、方便である。
だから、彼女の弱点とか、素顔・私生活のこと、内面的なことを質問されると、過剰に反応し、拒否反応を起こす。
傷つけられたくつけられたくないという思いや犯されたくない自分の心を守るために、結果的に、攻撃的態度となっていく。これらは、彼女の持つ弱い心が起因してるのだろう。
沢尻エリカは自分が認識している欠点や繊細な心を攻撃されることを極端に嫌う。これはインタビューの質問の応対でよく分かる。「プロ意識」「映画」「音楽」など自分の「身の置き所のあること」には答えるが、「私生活」「内面的こと」など自分をさらけ出されるようなことに触れるとたちまち不機嫌になるのだ。
これは、強がっているように見せても、非常に精神的に弱いということなのではないかと思う。
これがエリカ=アスカにつながるわけだ。このあたりが前回書いたこと、決して、奇をてらってエヴァと沢尻エリカを結びつけたわけではない。
たぶん彼女の心はガラスのようにもろいだろう。だが一方では、そこが魅力でもあるわけだ。
同性に人気があったというのはそのあたりに、「自分の心」を重ねていくことができたからだろうか。
沢尻エリカとインタビューをして泣く女子アナが多いこともその辺にありそうだ。
決して「恐い」とかだけではない。それだけでは説明のしょうがないものもある。
なにか、神々しいものに触れて随喜の涙を浮かべるといった、インタビューアーもいた。
ユーチューブで沢尻エリカのインタビュー番組を見たが、かなりの確立で女子インタビュアーが涙目になっている。(事実ですよ。うそだと思ったら確認してみてください)
しかも号泣きしている女子アナも多い、これは何を意味しているのか。
私はこれを沢尻エリカと自分と同化させているのではないかと考えたが、たぶん違うだろう。
というわけで、いろいろ思うところの多い騒動ですね。今や、人間観察として「沢尻エリカ」は貴重な存在となりました。昨今、物議をかもし出す若い女優っていませんからね。
「A.T.フィールドを張る沢尻エリカ」は「惣流・アスカ・ラングレー」だ。 エヴァンゲリオンの話
「エヴァンゲリオンと諸星大二郎」のことを書く予定でしたが、沢尻エリカがあまりにも面白いことになっているので、先に書きます。
最近、映画「クローズノート」の宣伝で沢尻エリカのテレビ露出が増えていた。
そのときあまりにも化粧が濃いので、これは「武装化」だ、と思った。
「化粧とは女性だけに許された、軍備であり最強の装備である」(ロシアの哲学者、アンドリアノフ)という。
本来、化粧をすることは、儀式的要素が強い。神事を行う際には化粧を施すし、魔除けなどの呪術的要素もある。また、部族間の戦の前に、念入りに化粧をすることもある。
つまり沢尻エリカの化粧には「武装化」という面がある。あれは、外界に対する自分の防御だ。あの化粧には仮面(ペルソナ)の意味もあるだろう。
「あれはペルソナだ」と、沢尻エリカをテレビで見て、友人がつぶやいた。「戦いのときにかぶる仮面だ」ともいった。 沢尻エリカは何かと闘っているという意味で言ったらしい。
で、その「ペルソナ」とは、元来古典劇において役者が用いた仮面のこと。ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。心理学的には「自己の外的側面」である。
ペルソナはあくまでも自我の一側面ですが、それが強大になりすぎるとさまざまな障害が起こります。特定のペルソナに自我を支配されている人が、そのペルソナにかかわる部分で失敗やつまずきを起こすと、それが端からは小さなしくじりであっても、一挙に自信を喪失し、自己を全面的に否定して躁鬱(そううつ)病や神経症を引き起こしてしまうこともあります。
強すぎるペルソナの崩壊は精神の崩壊につながることもある、ということです。
ペルソナは、云うなれば人間が社会に順応して生活するための手段、自己の防衛手段でもあり、身に付けていると生きやすくなるもので、それゆえ人間が生きていくためには必要不可欠な知恵とも云えるでしょう。(http://homepage3.nifty.com/dream-emerald/personafile1.html
)から引用。
周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合もある。
内面の繊細さを隠すために、外見を武装化するのである。
と、ここまでの内容で「沢尻エリカ武装化論」を書こうと思っていた。そんなときにあの舞台挨拶の事件(?)が起こった。
で、考えた。
二十歳そこそこの小娘がなぜあんな態度を取ったのか?
ある意味不機嫌なときの自分を見ているようで、悲しくもなった。
エリカ様(?)の無愛想な態度を責めるのは簡単なことだが、ここでは、「この娘の内面で何が起こっていたのか」を考えてみた。
そして、考えたのが「沢尻エリカはA.T.フィールドを張っている」「沢尻エリカ=アスカ論」だ。
まず沢尻エリカは腕組みをする。舞台挨拶でも監督や先輩女優・竹内結子に映画の看板を持たせて、自分は腕組みをしていた。
なぜか。
「腕組み」というのは心理学的には自己防御の表れであり、他者から自分を守ろうという心理が、そのしぐさとなって表れるものである。沢尻エリカの「腕組み」は、外と内を分ける心の鎧「A.T.フィールド」であるといえる。
つまり沢尻エリカは何かから必死に自分を守りたかったのである。
その原因が何であるかは、本人のみが知っているだろうが……。
さて、「エリカ=アスカ論」であるが、まず資料から。
「テレビブロス」9月15日号に「エヴァ特集」があった。その中に、「実写版で映像化したときにイメージされるキャスト」をアキバ街頭でアンケートしたという、その結果が載っていた。その記事が面白かった。
碇シンジ・・・神木隆之介
綾波レイ・・・堀北真希
葛城ミサト・・松嶋奈々子
赤城リツコ・・西川史子
加持リョウジ・・福山雅治
碇ゲンドウ・・・阿部寛
渚カヲル・・・ウエンツ瑛士
そして、惣流・アスカ・ラングレーが沢尻エリカだ。
この記事では「もう少し若ければ完璧、という条件付きの人もいたけど、ハーフで高飛車なところが激似、との意見が多数。みんなエリカ姫に「気持ち悪い」って言われたいのかな」と書いてあった。
これは、半月ほど前の記事で、「エリカ=アスカ」結構合うなー、「なるほど」と思ったものである。
そこに今回の騒動(?)が起こった。
世間の印象からも、沢尻エリカはアスカと似た性格、性質ではないか、と思ったのである。そこで「アスカ」の性格を調べてみた。
以下は「エヴァンゲリオン完全解体新書 再起動計画」(青春文庫)から拾ってみたものです。
『アスカはシンジとは逆に過剰なまでの自己主張をもった存在だが、結局は表裏一体ということでシンジ自身とは何も違わない。心の中では同一の意味をもっているアスカの過剰な自信、自意識、感情的な反応というのは、感情を十分に発達させて、他者や社会と適切な対応ができていないということで、やはりシンジと同じ意味の存在なのだ」
「アスカは、他人に自分の欠点を絶対に見せてはいけない、常に人の上に立ちリーダーシップをとらなくてはいけない、という信念の持ち主だからだ。」(沢尻会なるものを作って、リーダーになろうとしている)
「内に籠ることのできるシンジよりも、他人の言うことや外の世界に振り回され「過剰適応」しているアスカの方が傷つくことのみを深めて悲惨となり、破綻する」
「外の世界に対して心を「開き過ぎて」いるので、簡単に外界からの刺激で自分が潰されそうになる。そのためにシンジのように引きこもったり、アスカのように、「誰にも後ろ指を刺されない優秀さ」という身を守る鎧を「結果的」にA.T.フィールドを張ることになる。」
「アスカは一見プライドのかたまりの天才少女というところだが、アスカの能力とプライドは、幼少時に傷ついた心を閉じ込めるための武装である」
沢尻エリカが、プライド意識の高い人物で、プロ意識が異常に高いといわれている。
アスカは「エヴァ」に乗ることで、自分の存在意味を自身で確認している。
エリカは「女優」を演じることで、自分の存在意義を示している。
これは「エヴァ」「女優」という自己を守る殻に閉じこもって、自分を守るために外界と戦い、繊細な心を隠すために高飛車な態度を取るのだ。二人は同じ性質の少女なのである。(大人の対応を取れない沢尻エリカは子供だ)
また、「投影的同一視」という説明もあった。「例えば、自分の中の体験のはぜが、自分の中に不快を生じたら、それは他人から攻撃された兆候だと感じてしまうことを示す。自分ではなくて、人のせいにしてしまうわけである。自分の感情が外の世界の他者というスクリーンに、そのまま映ってしまうのである」
これは、沢尻エリカが舞台挨拶でみせた、司会者への攻撃的「にらみ」に現れている。
さて、「エヴァ」ではレイがアスカに忠告する。
「心を開かなければ、エヴァは動かないわ」と。
しかし、心を開かないアスカは、弐号機が動かなくなり、自分自身の存在理由がなくなった、廃人のようになってしまう。
しかし、アスカは「劇場版」で立ち直った。(母の)愛を知ったアスカは、他人からどんな「攻撃」を受けようと、私は自分に自信をもって生きていける、と悟った。それまでのように背伸びをして、無理をしなくても、アスカは使徒と戦えたのである。
いま、沢尻エリカに必要なのは、「自分の殻を破って、自我を確立し、現実とぶつかって自分をコントロールすることを学ぶこと」ではないのか。
ということで、沢尻エリカをアスカに見立てて「エヴァ」を見るといろいろな意味で楽しめます。
次回こそ諸星大二郎とエヴァの関係を書きます。
追記 たまたま見た「ラジカル」で沢尻エリカが出ていた。このときの態度も凄くって話題になっていた。(ユーチューブにある) このとき一緒に出ていたタカアンドトシが、すぐに沢尻エリカをネタにしていた。腕組みして質問に答えないタカに、「沢尻エリカかっ」って突っ込むトシ。さすが、タカ・トシ、彼らは笑いの天才です。(へんなところに感心してしまった)
「エヴァンゲリオン」雑記その1。 エヴァ再起動。
もう「エヴァ」は見ることはないだろうと思っていた。
それが、あーそれなのに……。
ヤフー動画が悪い。「新世紀エヴァンゲリオン」テレビ版の1話から5話までを無料配信していたのが悪い。そのとき見たい映画がなかったのが悪い……。
これも運命なのか。マウスは何かに導かれるように滑り、そして「視聴する」をクリックする……。
やがて流れる懐かしい曲、そう「残酷な天使のテーゼ」。10年以上経っても覚えているものだ。いつの間にか歌詞を口ずさんでる。一気に「あの時」にまで引き戻された。
そうなったらもうダメだ。見始めたたら、止まらない。
5話まであっという間に終わり、後はネットで探して、次から次へと見続ける。結局、テレビ版26話と、劇場版2本を、一気見してしまった。
「エヴァ」は全く色褪せていなかった。そして違う楽しみ方を知った。「人間ドラマ」として見ると結構泣けるということが分かった。(たぶん自分だけだけど)
当時は「謎とき」ばかりに気を取られていて、気づかなかった。やっかいな謎ときの部分を引きぬいても十分「大人の物語」であることが、再見して分かった。
これに気付くまでには、10年という冷却期間が私には必要だったのかもしれない。
10年前のこと。「新世紀エヴァンゲリオン」劇場版「Air/まごころを、君に」を観終わり、劇場を出たときから、私は「エヴァ」とは決別したはずだった。
思えば、あれほど大きな失望感を味わった映画は、それまでなかった。あの時点で私の「エヴァ」は終わった。(ちと大げさな表現だけど、これが一番近い感じ)
「違和感」これがこの映画の感想だった。
冒頭で、碇シンジが自慰をする。ここからすでに「何かが違う」と感じ、その感情を引きずったまま物語は進んだ。小出しに出される「謎」の回答を理解しょうと努めるが、グロテスクな死体(エヴァ弐号機)、飛び散る内臓に嫌悪感を抱き、巨大化したレイの顔が裂ける場面など、グロ描写の強烈さに神経がいって、全く頭が回らなくなった。この物語と私とのシンクロ率は低下していくばかりだった。
そして、実写の場面が挿入されて(私はこの場面が嫌い。たぶんアニメ世界と現実の世界の境界線を取り払おうとした試みなのだろうが、私は物語の世界に浸かりたいので、こういう表現方法を取られると、一気に興ざめしてしまう) 内的世界が展開されはじめて「またそっちかよ」と叫びたくなった。内的世界を語るのは良いが、「エヴァ」はここが「くどい」。しかも「あざとい」。これが始まると、物語が停滞するから、ヤキモキするのだ。まあここが好きだというファンもいるので、それも好き好きだが……。
ただ、当時私が見たかったのは「明確な答え」だった。だから、中途半端な答えしか得られずに、当時の私は「エヴァ」を否定したのだった。
10年前でも私はすでに大人だったので、(幸か不幸か)キャラ萌えすることなかった。ただ「エヴァ」の謎の部分に大きく魅せられたのだった。
「人類補完計画」「アダム」「リリス」「A.T.フィールド」「セカンドインパクト」「ロンギヌスの槍」、次々と提示される謎の数々。それらすべてが謎だらけで、ここに魅せられた私は、瞬く間に、この物語の虜になったのである。
解説書を読み漁り、当時はネットも発達していなかったので、情報を集めは雑誌の切り抜きとかしかなかった。しかし、それでも謎を解こうと躍起になった。
オープニングに秘密が隠されていると聞けば、コマ送りで確認し、サブミナル的に押し込まれた映像や文字を読み取ろうとしたものだった。当時はビデオだ。巻き戻し・再生を何度も繰り返しリモコン片手に苦労したものだ。
だがこれらは楽しい知的作業だったのである。
そして、それらの答えが明らかになるはずだった「劇場版」である。しかし……。
結果として、膨らまし過ぎた物語は、収束せずに、「観念を描いて煙に巻かれた」感じだった。広げすぎた風呂敷は畳まれることなく、新たな謎を残して終わったのだ。私は物語の終着を見たかったのだ。
「難解な映画」はこれまでにも数多くある。謎を残したまま終わる映画も数えきれないくらいあるだろう。しかしそんな中でも傑作、秀作は多く存在する。
「2001年宇宙の旅」は難解な映画だが、数多くの謎はラストに向かって収束していき、その謎はモノリスの中に凝縮されていく。しかし、「エヴァ」は物語の終盤に向かえば向かうほど、話は拡散し、多くの謎が提示されていって収拾のつかない状態になった。
またデビット・リンチの映画は難解だと言われる。しかし、見る側には、これが主人公(要は監督自身)の頭の中の世界だと最初から認識している。だからその世界を楽しむものだと最初から了解しているのだ。だがエヴァはすでに碇シンジの内的世界の物語だけではない。アスカやレイなど登場人物の内的世界も展開されて、物語の交通整理も行われていないのだ(たぶんわざとだろう)。複雑な謎が混乱を招いているのか、混乱しているから、謎が深まっているのかも分からない状態となった。
この錯綜した物語をどう理解すればよいのか大いに悩んだ。劇場をトボトボと歩きながら考えた。
そして、私はこの物語を放棄した。
シンジは「逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせていたが、私は「エヴァ」から逃げることで、この問題を解決することにしたのだ。
そして10年が経って、「エヴァ」を再び観た。
昔、私を魅了し、理解することを放棄させた「エヴァ」を再見したのだ。
感想は「面白い」。単純にそれだけだった。
全部見ても「謎」は解かれないことを知っているので、逆に安心して見ていられた。
不思議なもので、流れに沿って「人間ドラマ」として見たときに、これ結構よく出来ているな、とも思ったのである。
そうなると、「もっと知りたい」という意識が芽生えてきた。私にとっては「家康がなぜ新田源氏を名乗るのか」「本能寺の変はどうして起こったのか」「徳川埋蔵金はどこにあるのか」「デスノートのLは何故ひょっとこをかぶるのか」「東国原知事はなぜバラエティ番組に出まくるのか」といった謎はすべて同等である。だから、「エバァはなぜ面白いのか」ということも追究したいのだ。
そして、過去に何冊かあったはずのエヴァ解説書はどこかになくなっていたので(たぶん捨てた)、書店に走って「エヴァンゲリオン完全解体全書 再起動計画」を買い、一気に読んだ。またネットで「エヴァ」を解説しているサイトを検索し、むさぼり読んだ。
「げっー、進化している。10年前より、解析が進んでいる」「凄い」「そうだったのか」と納得の連続だ。
おー、こうやって深みにハマっていくのだろう。
というわけで、次回に続く。
しばらく「エヴァ」についてあと3回ほど書きます。
次回の予告。「エヴァ」と「諸星大二郎」です。
「ブログの殿堂」歴史部門1位になりました。
fc2ブログの「物語を物語る」が「ブログの殿堂」歴史部門で1位になっていました。
みなさまのおかげです。
これからも歴史ミステリー小説を掲載していきますので、よろしくおねがいいたします。
ただ、アクセス解析で調べると、この小説を目的に飛んできていないことが分かりました。ちと残念……。
多いのは、「福田康夫首相」関係です。(大したこと書いてませんが)
それに相変わらず、「木村拓哉と群馬国際アカデミー」関連、「朝青龍」関係も関心が高いですね。
「24」「ギャル曽根」「京極夏彦」あたりも最近の傾向で多くなっています。
意外に「デスノート」は少なかった。藤原竜也や松山ケンイチの方が多いくらいだった。
で、ここ2,3日でダントツに多いのが「家康、信玄親子説」ですね。
あまりのもトンデモ説なので、少し書いただけなのですが。これも、記事としては大したことを書いてませんが……。
思った以上に歴史ものに人気があったんですね。
あとは、過去の記事を見て思ったのは、「東国原知事批判」は気合いが入っていますね。自分で読み返して思わず笑ってしまいました。
でも、また書こうかな。「東国原知事」相変わらずバラエティ番組出まくってますから。みなさんもそろそろ気づいてますよね。
でも次回は「エヴァ」です。