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「伝説の王者」死す。  ボビー・フィッシャー

チェスの元世界王者 ボビー・フィッシャー死去。

アイルランドからの報道によると、17日、レイキャビックの病院で死去。64歳。死因は不明。  1943年、米シカゴ生まれ。72年に強豪のボリス・スパスキー氏(ソ連)を破り、米国人として初めて世界王者となり、「冷戦の勝者」として脚光を浴びた。92年、ユーゴスラビア(当時)で、再びスパスキー氏に勝利し、300万ドルを超える賞金を得たが、同国が国連の経済制裁下にあったため、米政府は制約違反でフィッシャー氏の逮捕状を請求。同氏は米国に戻らず複数の国を転々とした。日本政府は2004年、米国旅券失効を理由に入国した同氏を拘束。同氏は05年、市民権を得たアイスランドに出国した。

(読売新聞1月19日から)

将棋とチェスはよく「盤上の戦争」にたとえられる。敵の王を倒そうと、それぞれの陣営が秘術の限りを尽くして戦うゲームは、確かに、国際政治の本質をよく表している。  先週、アイスランドの病院、チェスの元世界王者ボビー・フィッシャーさんが64歳でひっそりと亡くなった。数々の伝説と奇行を残したこの天才は、国際政治に翻弄された一人である。ニューヨーク育ちのフィッシャーさんは、冷戦時代の1972年、ソ連人の世界王者を破って、一躍、米国のヒーローになった。長く表舞台から姿を消していたが、20年ぶりに対局に現れたとき、それが国連の制裁下であったユーゴスラビアで米国政府による棄権勧告を無視したものだったため、今度帰国すれば逮捕される身となった。以来世界を転々とした。  2004年に成田空港から出国するとき、旅券失効を理由に身柄拘束されたこともある。チェスの実力でも定評のある将棋の羽生善生二冠は、当時、小泉首相に放免を嘆願した。  チェスは、将棋と違って取った相手の駒は使わないため、双方とも駒がなくなっての引き分けが多いという。だが、フィッシャーさんは、あくまでも引き分けでがなく勝ちを目指す攻撃的な戦法で、ファンを魅了した。  この天才が将棋を指すところを見てみたかった気がする。

(1月21日、読売新聞 編集手帳より)

まさに数奇な人生ですね。チェスは良くは分りませんが、ボビー・フィッシャーの名は知っていた。生きながらにして伝説となった人物です。

そしてかつて見た映画「ボビーフィッシャーを探して」のことを思い出し、早速レンタルビデオ店に行って探してみた。

おーあった。DVDもありますが、字幕のみで日本語吹き替えはありませんでした。



allcinemaの解説より  http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=21652

「かつて全米にチェス・ブームを巻き起こし、その後忽然と姿を消した天才プレイヤー、ボビー・フィッシャー。そのフィッシャーの再来を思わせる天才少年ジョシュ・ウェイツキンの成長を、父フレッド・ウェイツキンが綴った同名ノンフィクションの映画化。いわば現在進行形の伝説とでも言った題材を、「レナードの朝」「シンドラーのリスト」の若き名脚本家S・ザイリアンが脚色、自らメガホンも取り監督デビューを飾った。格闘技を思わせるようなチェス・シーン自体の面白さもさる事ながら、天才少年と彼を取り巻く家族や恩師の葛藤も丹念に描かれ、小品ながら忘れ難い魅力を放っている。主人公ジョシュに扮したM・ポメランクの澄んだ瞳も印象的で、脇を固める演技陣も充実、光の柔らかさを見事に捉えた撮影も見事。(1993年、米国)

監督スティーブン・ザイリアン  出演マックス・ポメランク、ジョー・マンテーニャ、ジョーン・アレン。

最初見たときは、良いとも悪いともない印象の映画だったが、今回見直してみて、これはなかなかの秀作だと思った。

それは、自分が父親の視線で見ているからでしょう。最初見たときは、私に子供はいなかった、それが今みると、子供を見守る親の目線となっているのだ。チェスの映画としても、家族ドラマとしてもなかなか見応えがありました。劇中にはボビー・フィッシャーの実際の映像も入っていて、それだけでも十分見る価値があります。

劇中、いいセリフがあった。

「子供に教えたいことは山ほどあるのに……、結局、彼らは自分の力で戦う」

これはチェスの試合に向かう主人公の子供たちを見て、敵方のコーチが言った言葉。確かに、子供に限らず、戦うのはその本人たちなんですね。それは、試合に限らず、人生においてもそうなのかもしれない、ということを分らせてくれる言葉でした。

さてこの映画、いろんな人が出ています。どこかで見たような俳優たちがちらちらと出てます。ウイリアム・H・メイシー、ローラ・リニー、ダン・ヘダヤとか。他にローレンス・フィッシュバーンが凄く若い。「マトリックス」でブレイクする前で、結構いい役で出てます。それに、ベン・キングズレーも主人公のコーチ役で出ています。さすがオスカー俳優、出ているだけで画面が引き締まります。

さてこれだけ数奇でドラマテックな人生を歩んだボビー・フィッシャーですから、本人を基にした映画がそのうち出来るでしょう。


「歴史のミステリー」と「歴史ミステリー小説・東毛奇談」は何の関係もありませんが……。

デアゴスティーニ・ジャパンから「歴史のミステリー」発行という新聞広告が、紙面一面使って載っていました。

「その歴史は真実か!歴史の謎に迫るビジュアルマガジン
週刊『歴史のミステリー』は、古代から現代に至るさまざまな事象について、その真偽を含めた多くの謎や疑問を掘り起こすことによって、歴史の知られざる一面に迫るビジュアルマガジンシリーズです。歴史書といわれる書物のなかには、自分たちの足跡を後世に残そうとした、時の権力者たちのメッセージとなっているものも多く、近年、歴史研究家たちによって、史実としての信憑性には多くの疑問が投げかけられています。本誌では、全100号にわたって歴史に潜む数々の謎をとりあげ、これまで通説とされてきた歴史認識を再検証していきます。」といった宣伝広告。

初回はなんと190円。

早速、本屋に行って購入。





第一回は

本能寺の変の首謀者は誰だったのか?
イエス・キリストに子供は存在したのか?

地下回廊が張りめぐらされたアンデス古代神殿、チャビン・デ・ワンタル(ペルー)

アポロ11号月面着陸は捏造だったのか!?

とかでした。

毎週火曜発売だとか。100巻も出るようで。

「歴史のミステリー」の公式ホームページhttp://www.de-club.net/rms/

ところで、「歴史ミステリー」とか「歴史のミステリー」とかでfc2ブログ「物語を物語る」の方へ来られる人が多くなっていたのは、この所為だったのか、と納得しました。

確かに「歴史ミステリー小説・東毛奇談」を載せておりますが、デアゴスティーニとは全く関係ありません。(分っているとは思いますが……)

またヤフーカテゴリーで歴史ミステリーを検索して来ている方も多い。

ヤフーカテゴリーで、歴史ミステリー小説として登録しているのは「物語を物語る」だけのようなので、その影響もあるようです。

第一回の「本能寺の変」については「物語を物語る」サイトでも書いておりますので、気の向いた方が読んでみてください。説としては朝廷関与説をとっております。

常識の尺度は人によって違う。 神田うのって

人によって常識というものの尺度は違う。

電車の中で化粧をする女性を見て、「常識のない奴」と思う人もいれば、そんなことはどうでもいいと思う人もいる。

また歩きタバコをしている人を見ると、私は「常識がない」と思うが、人によっては、「そんなのいいじゃん」という人もいる。

人は他人とは違う価値観や常識で生きている。

さて、1月17日。淡路阪神大震災が起こって13年が経ったんですね。

この震災のことを聞くと、私はある話を思い出す。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kelly_usj/view/20070712/1184218323 からの転載。

「震災から1年くらい経った頃にやってた番組の中で 「頑張る人を応援しよう」みたいなコーナーがあってね、その中に立ち直って行こうと頑張ってる商店主や開業間近(しかも1/17)の 診療所も壊滅してしまったけどやり直そうと頑張ってるお医者さんとかが出てたのね。

関西出身で実際に身内が被災してなくなったタレントも ゲストで出ていて、心境を語っていたのに急に笑い出して 「死んだ人、6000人だっけ?私、友達数人とかけていたのぉ~」 なんて言い出した。

司会者がマジで驚いて「え、なんの話ししてるの? 今は震災の話しだよ!」ってたしなめたら「だから~、震災の話しじゃん。

7000人死ぬ方にかけていたのに死ななくて、うの、負けちゃったんだよ。 診療所つぶれちゃったお医者さんよりも、うのの方が可哀相~」 みたいな事言ってた。

司会者も関西出身のタレントも無言だった。 」

この人物は神田うのである。

前はウィキペディアにも記載されていた有名な話。いまはきれに削除されているが……。

私は「常識のない人間で金満生活を送る人間」が嫌いである。例えばIT社長とか(もちろんヤッカミもある)

その中でも最もアホだと思っているのが、「神田うの」である。

なぜ彼女がいまだにチヤホヤされているのか私には分らない。

伊集院光がラジオで「消えていなくなればいいのに」と言っていたが、私も全くそう思う。

ただ勘違いしないで欲しいのは、常識のない人間と知識のない人間は違うということ。スザンヌや里田まいがトンチンカンなこと言ってもそれは知識がないことだけなのである。私は震災で犠牲になった人を賭け事にしてしまうような常識のない人物が嫌いだということ。

それに神田うのにはそもそも「常識」というものがない。

ある番組で神田うのは、テーブルマナーを知らない男の人を「常識がない」と罵倒していた。一般人が知らないような西洋のテーブルマナーであった。それも自分がさも「上流」であるかを誇示するために披露した話だった。

でも彼女は大島渚監督の「御法度」で映画出演をしたとき、自分の出ている映画が何時代のものか分らないと言っていた。(しかも堂々と)

私に言わせればこっちの方がよほど常識がない。

そもそも、結婚式に何億円を掛けたなどと、ほざく女に常識はない。

「家事はしない、仕事も遊びも楽しみたい」などと言うのなら一般常識からいって結婚などしなければいい。

それに彼女の話よく聞いてみれば、すべてが金に換算されている。この服にいくら掛ったとか、このバックどこそこで高く買ったとか。

=幸せという意識が異常に高い女なのだ。

私の常識や価値観からすれば、こんな人の結婚式で涙した人の気がしれない。

「ただもう、好きすぎて、嫌いになりそう」  チョコの話。

バレンタインディーが近づいてきて、チョコの販売も本格的になってきました。

本格派から面白系までいろいろなチョコが入荷してきました。

昨日は「ロッテ  シングルモルトウイスキーチョコレート」が入りました。シングルモルト山崎12年のウイスキーが入っているチョコです。あの高価なウイスキーが入っているチョコなんて、それだけで、そそられます。



早速試食。

「美味い。チョコとウイスキーは合う」

合わせてコニャクの入ったチョコ「バッカス」とラムレーズンと洋酒の入っている「ラミー」も食べる。



「美味い。チョコとお酒は合う」

と言いつつも、お酒の飲めないのにお酒担当の私、酒入りチョコを食べただけで、もうベロベロになってしまいました。酒はダメなのに、なぜか酒入りチョコは大好きなのであります。去年は芋焼酎入りのチョコがありました、今年は発売しないのかな。

手作りチョコのコーナーを並べていたら、「明治チョコ」の販促ボードにいい惹句が書いてあった。



「ただもう、

好きすぎて

嫌いになりそう」


「言葉にできたら

カンタンなのに。

言葉にできたら

カンタンだけど」

そしてイメージキャラクターの井上真央が手作りのチョコを作っている写真が重なる。



おーいいですね。

余りにもいい文句だと思って、紙に書き取ってしまいました。

傍から見たら、チョコのレピシを書きとっているのか、商品の検査でもしている仕事熱心な店員だと見られていたかもしれない。でも実際は、いいおっさんがこんなセリフを書きとっている。何やってんだか。

そして、家に帰って明治製菓のホームページを検索。

そこで、明治ミルクチョコのCMを見た。

そこでは

「私のことふってもいいよ。

十年後、後悔するけどね」とあった。

こういうセリフは誰が考えるでしょうか。実に、上手いっす。

一歩間違えば、あざとくもなり、狙い過ぎの臭いものになってしまう。

でもこれら明治製菓のフレーズは、そのギリギリの線上で、実に上手いことを言っているんです。

これって、かなりセンスが鋭くないとできないことです。

このフレーズを考えた人は誰なのでしょうか。コピーライターの方?それとも社内の人?

どちらにしても、

わたくし、

もう、ただ尊敬します。

「蘇民祭ポスター」に感じる「恐怖心」。

前回の「なまはげ」の記事ついでに、裸祭りのポスター騒動についても書いておきます。


まずは、妙見山黒石寺 蘇民祭の説明から

『蘇民祭信仰  「備後風土記」の中に蘇民信仰の逸文が残されている。  北海の武塔神が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。そこに将来兄弟2人が住んでいた。兄の蘇民将来は大変貧しく、弟の巨旦将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武塔神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。後に武塔神は八人の王子と帰る途中将来の所によって「かつての報いをしょう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅の輪」を腰に着けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。そして「私は須佐之男命なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を免れるであろう」と申された。

武塔神・須佐之男命・牛頭天・薬師如来は同一神仏であるという。』

こうして見るとここにも「マレビト」がある。武塔神はまさしく「災いをもたらす来訪神」のマレビトである。

また蘇民将来の話としては「()()内伝」というのもある  

『南北朝~室町時代の初期、陰陽道の天文歴数の書。5巻。「金烏玉兎集」ともいう。安倍晴明に仮託されるが祇園社(八坂神社)に関連する者の偽作らしい。中天竺の吉祥天源王舎城の牛頭天王が巨旦大王の妨害に苦しみながらも、蘇民将来の助力を得て、后をもとめるという筋を源流に、天文暦数の百科辞書的な項目をそれに関連づけている。「続群書類従」第31輯上所収。江戸時代に版を重ねた。』

武塔神は牛頭天王とも同一である。この牛頭天王は、もともとインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来の垂迹といわれる。疫病神として、京都祇園社・八坂神社などに祀られる。頭上に牛の頭を持つ忿怒相で表される。

まあ、そりゃ恐ろしい神様です。

その神様とも関連があるとなると相当荒っぽい祭りであることが分ります。


というわけで本題。

裸祭りポスター:JR東が「待った」…女性が不快感  「露出が不快感を与えると掲示を断られた黒石寺の蘇民祭ポスター」

 岩手県奥州市の黒石(こくせき)寺で繰り広げられる伝統行事、蘇民祭(そみんさい)の観光ポスターを市が駅構内に掲示しようとしたところ、JR東日本から待ったがかかった。「男性の裸に不快感を覚える客が多い」というのが理由だ。数十年作製しているポスターの掲示拒否は初めてで、市は枚数を200枚減らして1400枚とし、駅で張れない分は市内や首都圏で張るという。

 祭りは、市内水沢区黒石の寺で裸の男衆が蘇民袋の争奪戦を繰り広げる。疫病よけや五穀豊穣(ほうじょう)などを願い1000年以上続くとされる。今年は2月13日夜~14日未明を予定している。

 ポスターは写真3枚を組み合わせ、ひげ面で胸毛の男性がアップに、奥に下帯姿の男性たちを配している。

 昨年11月30日に市がJR東日本盛岡支社に許可を求めた。JR側は本社の判断を仰ぎ、12月3日に図柄を変えない限り掲示できないと通知した。市は下帯など一部修正をしたものの、版下がほぼ完成しJRが求める図柄の全面変更は困難だった。

 JR東日本盛岡支社の佐藤英喜・販売促進課副課長は「セクハラが問題になる中、公共の場でのポスター掲示の基準は厳しくなっている」と説明する。そのうえで「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」と判断したという。

 奥州市水沢総合支所の佐々木禅(ゆずる)商工観光課長は「市と業者とで図柄を決めた後(の掲示拒否)で、日程的にも変更はできなかった」としたうえで「観光客が減るかもしれないが、市内に集中的に張ったり、首都圏の観光施設に掲示をお願いしたりして祭りを盛り上げたい」と話している。【石川宏】毎日新聞 200818日より



さて、今回のこの問題のポスター、みなさんはどう思われますか。

「セクハラだ」「気持ち悪い」「不快感を覚える」という否定的意見が大半を占めるなかで、「裸のどこが悪い」「伝統行事のポスターを断るJRが悪い」といった意見もあった。


「裸だからセクハラ」っていうのが、どうも争点になっているようです。だが去年まで同じような裸が写ったポスターは許可されているし、似たような裸祭のポスターが許可されないということはないだろう。

また裸がダメなら「小島よしお」や「たむら けんじ」らの裸芸人はテレビに出られないことになるし、相撲のポスターもダメだということになる。だからこのポスターが拒否されたのは、どうも「裸だから不快感だ」というのが問題点ではないような気がする。

では、私がこの絵を見たときの第一印象はといえば、単純に「恐怖」を感じたのです。

なぜそう思ったのか。


このポスターは三枚の写真を合わさったものであるという。その三枚の組み合わせが「異様」だと感じるのです。

①まず一枚目は、ポスターの一番上にある「後ろ姿の裸の男たち」である。

彼らは一様に無表情であり、顔を見せない格好で背を向けている。

「祭り」においては顔を見せないというのは死者を意味する。

盆踊りの祭りでは、編み笠を被るのは顔を隠すことによって死者の霊を宿す存在となる。また顔を隠すことは、死者の霊が生者の身体を借りている、ということを示している。それは面を付けたり、布で顔を隠すことによって、表現される。

だから、顔を見せるとか、お面を被るとかは「祭り」にとってとても重要なことなのである。

この写真の男たちが「顔を見せない姿」で写っていることが、私には「死者を意味している」と、感じ取ってしまうのである。実際には顔を隠すことなど必要のない祭りなのに、写真では顔を見せていないものを使っていることに何らかのメタファーを感じるということなのだ。

しかも、彼らが外に向かっていくように進んでいるように写っていることが「怖い」。

構図的に読み込めば、中から外へ、これは「生から死へ」を意味しているからです。かつて読んだ本にそんなことが書いてあった。(いまその本の名が思いだせない)

つまり「生的」なものを表現するなら、内側へ人物が向いていなければならない。しかしこの人々は外、彼方へ向いている。しかも、彼らに「顔」「表情」はない。これらを合わせて「死」を感じたというわけ。

また、この行列が、私には「死へ行列」「葬列」のように見えて仕方がない。イメージとしては第二次世界大戦のナチスのアウシュビッツ強制収容所ユダヤ人たちや、ガス室へ向かうユダヤ人の行列を連想するのです。それほど、生気のないものをこの写真から感じる。


②また「恐怖心」を覚えるのは、二列目にある人物の無表情だ。不気味な印象さえ覚える。

人は無意識の内に相手の表情を読み取り、そこから感情を受け取る。しかし、相手が死者の場合、感情を受け取ることができないので、そこに恐怖を感じるというのだ。これは解剖学者の養老猛司氏が言っていたこと。

この人物の無表情は何を意味しているのか。私が見て咄嗟に思ったのは、これは「晒し首」だということ。もちろん肩もあるし、首をついている。だが目を伏せ方、無表情な点は、どこか晒し首のように連想してしまうのだ。

また、絵の中心に配置されている「この人たち」は何を行っているのでしょうか?

もちろん、祭りで行なわれている何かを表しているには違いないだろうが、見ている人にはそれが何だか全く分らない。伝えようという意志が感じられないところもとても「怖い」んですよ。

これが中央に配置された意図も全く分らない。

「意味不明」「理解できない」ものは、人にとって恐怖なのである。UFOでも幽霊でも何だか分らないという点が怖い。そこで、人はそれら恐怖の対象物に何らかの理由を付けて自分を納得させようとする。(UFOが出れば何かの見間違いだろうと思うとか、幽霊が出るのは、そこで殺人事件があった人の怨念があるからだとか、否定でも肯定でもいいから、とにかく何でも理由を付けて納得することなど)

でも、このポスターの中心にあるものは、本当に何をしているのか分らない。「あー意味不明」は怖いよ。

しかも、もっと問題なのは、その意味不明なものが、ポスターのど真ん中に配置されていることでしょう。

絵でもポスターでも中心点は重要である。そこにみな注視するからだ。

意味不明→恐怖の連想が中央にあることが、このポスターをより異様なものにしているのです。


③そして、下段の問題の毛むくじゃらの人物。

確かに手前の人物の形相は恐ろしい。なにを持ってしてこれを採用したのだろうか。(報道によれば、祭りの重要な人物らしいが)

この人個人に対してどうのこうのと言うのではない。

でも私はこの写真はとても「怖い」のです。

なぜか。

それは全体を写さないという構図に恐怖を感じるのです。

見えない部分、つまり手が見えていないということが、恐ろしさを倍増させているのです。

「見えない部分で何が行われているのだろう」「咆哮するほど感情が高まるものが、行われているのだ。この男は何をしているのか。この下に何があるのか」という想像力を喚起しているのだ。

しかも、この野卑な表情は尋常ではない。

しかも猥雑である。そう感じるのは、すべてこの構図にある。上半身裸で、下半身と手を見せないという配置がいけないのである。しかも裸、胸毛があるという「性的」な要素を強調している点が、より、猥雑さを倍加させている。

祭りを理解している人や関係者から見れば、この男が護符を見つけたことは分かっている。

しかしそのことを知らない人が見ると、その下で行われている行為が、卑猥なものや野蛮なものしていると連想させるのです。これはある意味「狂気の構図」となっているのだ。


そこに上の二枚の写真が重なるのである。

背を向けて「死」をイメージさせる男たち。

感情の分らない無表情な男と意味の分らない行為をする男たち。

そして、雄叫びを上げる野獣と化した男。しかも何が行われているのか分らない。

これらの対比が余りにも怖い。この一枚にそれが凝縮された図となっているのだ。

これはまさしく「恐怖の図」なのである。


島田雅彦氏は本の中で、フランシス・ベーコンの絵(20世紀の英国画家、グロテスクな人物像を描く)を最初に見たときに衝撃を受けてこう書いた。「得体のないものを見せつけられると、最初に恐怖が来て、防衛本能が働く。せめてもの救いは「恐怖」という言葉があることです。」

まさにこんな感じです。


また「白黒写真」であることも怖い。「白黒写真は非日常だ。」という話を聞いたことがある。つまり日常はカラーであり、白黒やセピア色などは特別な世界だというのだ。

つまり白黒写真は、非日常を意味する「祭り」を伝えるには有効となるはずだが、この写真においては、奇妙なモノが組み合わさって、変な想像力をかき立て、別の思考(恐怖心)へ導く役割をしている。

だが、祭り関係者には、何が、どこが、おかしいことなのかが全く分かっていないのだろう。「どうしていけないのか?裸がいけないのか?」ということになる。ワイドショーのコメンテーターも「いいじゃないか」「伝統行事だから批判するな」といって、一様にこのポスターを擁護し、JR側を批判している。

でも、この写真を単独で見たら、別の想像力をかき立てられ、きっと恐怖心を感じるでしょう。そういった写真なのです。

このポスターを擁護する人は、このポスターが伝統のある祭りを伝えるものであることを、既に知っている。それを知った上でこれを見れば、理解できるだろう。だが、この図柄を、何の予備知識なしに見たら、本当にこれがいい写真だと思うことが出来るだろうか。

しかし、よくよく考えてみれば、「死」をもたらす牛頭天王のからんだ祭りなのだから、「恐怖心」や「死」をイメージさせるものがあっていいということになる。

となると、私がこのポスターから感じた「恐怖心」は案外妥当なものなのかもしれない。