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恵方巻きとは何か その2    恵方巻きとは正月行事の凝縮されたものではないのか(仮説)

前回の続き。

なぜ節分の恵方巻きが、急速に広まり、定着していったのか、という問題提起をしたのが前回だった。
その理由を自分なりに考えてみたことを書きます。

まずは「恵方巻き」の概要から、
「節分の夜にその年の恵方(歳徳神の在する方位)に向かって、目を閉じて願い事を思い浮かべながら太巻きをまるかぶり(関西方言で「まるかじり」の意)するのが習わしとされる、関西が発祥とされる行事。また食べている間は、無言でなければならないとされている。
七福神に因んで、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、伊達巻、うなぎ、でんぶ等七種類の具を入れて、福を食べるという意味合いもあるらしい。「福を巻き込む」という説明もある。」

恵方巻きの重要な点は
①節分の日に食べる
②無言で食べる
③恵方の方角に向かって食べる
④縁起のものが巻いてある
と、大まかにいえば、この4点であろう。

①では、なぜ節分の日に恵方巻きを食べるのか? から。

ではまず、「節分」の定義から
『節分(せつぶん、またはせちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。特に江戸時代以降は立春の前日(毎年2月3日ごろ)のことを指す場合が多い。  節分の行事は宮中での年中行事であった。延喜式をひも解くと、宮中ではこの日、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾ったもの。もともと、この節分の鬼を払う悪霊ばらい行事は平安時代頃から行われている「追儺」(ついな)から生まれた。

追儺……宮中年中行事の一つ。大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追いまわす。大舎人長が方相氏の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・盾を執った。これを大儺といい、紺の布衣に緋の抹額を着けて大儺に従って駆けまわる童子を小儺とよぶ。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古く中国に始まり、日本には七世紀末、文武天皇の頃から伝わり、社寺・民間にも行われた。近世、民間では節分の行事となる。「おにやらい」「ならやい」ともいう。

という訳で、ここでは節分は「宮中行事、神事」であるということ、「旧暦の大晦日に行う行事」であったという事を押さえておく。
そこでタイトルにもあるように、「恵方巻きとは正月行事の凝縮されたものではないのか」という仮説に基づいて話を始めます。

そこで参考資料「こんなに面白い民俗学」(ナツメ社)から抜粋。
『正月餅の民俗的意味。「お正月にはなぜ餅を食べるのか」
正月は命の更新を行う時であり、そのための大切な食物が餅であった。
「現代人は一度命を授かったら生涯それが機能するものと思っているが、古くは、魂はたびたび補充しなければならないものであったようだ。いうなれば命の更新である。柳田國男は「食物と心臓」という著作の中で、餅は人の心臓、すなわち魂の象徴であると述べている。このように正月餅は新しい一年を生き抜くためのエネルギー、すなわち補充される魂としての意味を持っていたのである。 中略 日本人が正月に必ず餅を食べるのは、正月の神である歳神から新たな一年を無事に暮らすための魂を授かるという意味があった。~このように、正月は命の更新を行う時であり、そのための大切な食物が餅だったのである」とある。
「餅と正月と日本人」の関係は、この手の民俗学の本では必ずといっていいほど書かれているもの。
つまり何かしら特別な食物を摂取することによって、魂のエネルギーを蓄えるということは、古今東西どこにでもある話である。これが日本人の場合は「米」に関連したものであることが多い。日本人にとって米は重要な食物であり、神事的な意味もある特別なものだ。そこから作られる餅を食べるということが重要であり、邪気が現れる季節の変わり目にこれを食すことは、とても意味があるのだ。
この記事を書いているときに、テレビで映画版「デスノート」をやっていた。この例えでいえば、「デスノート」の死神がリンゴを食べるシーンが出てくる。私は、リンゴは心臓であり、魂だとした。これを欲する死神は上記の記述のようなことが行われていると見ている。そして、話ついでに「エヴァンゲリオン」の中でもエヴァ初号機が敵の使徒の内臓を食うシーンが出てくる。これも魂を取り込んでいるということではないのか。分りやすい話を例にしたが、こういったことは民話や伝承、アニメ、マンガなど探せばいくらでも出てくるはずだ。

そこで「恵方巻き」である。
正月に餅を食べるということは日本人にとってとても意味があることは分かった。よって旧暦の大晦日にあたる節分の日に「恵方巻き」を食べることは意味があるということではないのかということ。正月に餅を食べるという行為と、節分に恵方巻きを食べるという行為が同じことを行っているのではないかということである。

また米には呪力があるといった話を上記の本から引用すれば
『米の力で魂を浄化する」日本人はかつて、米は神から授けられた特別な呪力をもつ食物であると考えていたようだ。たとえば、病人の枕元で竹筒に入れた米を振ると病気が治ったという話がある。これは「振り米」とよばれる風習で、米の呪力によって、病が治ると信じられていたのである。こどもたちに飯粒を食べさせるのも、花嫁が「鼻突き飯」を食べるのも、すべて米の呪力によって不安定な魂を安定に導くという意味があったのだろう。』

つまり、「餅」「恵方巻き」ともに米を使う。
また海苔も巻く。海苔は神事でも使われる「海のもの」であるから重要となる。
そして正月に食べるおせち料理は”めでたさを重ねる”という意味で縁起をかつぎ、重箱に詰めて作られる。もともと「おせち」は、供物として、候の変わり目を祝う節日に供えられる節供の食物にその語源があるという。正月や上巳、端午、七夕、重陽など、現在でも催される節句ではそれぞれにちなんだ料理が供えられるのもその名残で、正月の「おせち料理」のおせちも「節」の字に由来するのだという。
恵方巻きの中身が、福を呼ぶものというものが入れられ、重ねるて詰めるということも、これにつながる。
また、節分に太巻きという寿司であるというのも、意味があると思う。

資料
「微生物の偉大な能力 -お酒とお酢-
「醸造」という言葉の「醸」は「醸す(かもす)」という意味です。微生物の力を利用して穀物などを発酵させ、お酒や味噌を作ることです。「かもす」の語源は「噛む(かむ、はむ)」である、ということを聞いたことがあります。古代では、人が穀物を口に含んで噛み、それを唾液とともに吐き出したものを発酵させてお酒をつくる方法がありました。穀物に唾液が混ざることによって、唾液に含まれるアミラーゼという酵素が穀物のデンプンを分解します。こうすることによって酵母が繁殖しやすくなり、酵母によってお酒ができます。
現在は、まず、蒸したお米に麹菌というカビを生やします。麹菌はアミラーゼを作ります。そして、このアミラーゼによってデンプンがブドウ糖に分解されます。つぎに酵母を入れます。酵母はカビと同じ微生物ですが、ブドウ糖をアルコールにする作用があります。カビと酵母の力でお酒ができるのです。
酵母が作ったアルコールに、酢酸菌と呼ばれるバクテリアを入れます。酢酸菌はアルコールを酢酸にする作用があります。お酢の主成分は酢酸です。
上のような微生物のおかげで、お酒とかお酢が作られているのです。
(お酒と酢の博物館から引用。http://www2s.biglobe.ne.jp/~yamabio/wv/WV.html)

つまり、「酢飯」であるということが重要なのです。お神酒やお屠蘇など、正月にお酒(米で出来ているもの)は欠かせない。酢と酒は同じ醸造である。

そうなると、「恵方巻き」の中には、正月に食するべきものが詰まっていることになるわけだ。
繰り返すが、新暦と旧暦の大晦日に同じようなことが行われていることになるのだ。
食べ物に関しての共通性は示しました。次は、神事的要素から、

②「なぜ無言で食べなければならないのか」ということです。
「恵方巻きを食べる」という行為が、正月の行事と同じことであるなら、ここに神事的な意味があるといえる。
ではここで関連することを列記していく。
 
神饌(しんせん)……日本の神社や神棚に供える供物の事である。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも言う。「神饌」とは、神様に食べていただくための飲食物のことで、神社の社殿に中にお供えされるもので、台に乗せられたお酒や鯣、季節の野菜などが供えられる。米や餅もお供えされ、米から作られるお酒も重要。ほかには、海の幸、山の幸、野の幸など、めでたいものが並ぶ。それに塩や水になども添えられ、これら 自然の恵みによって作られたものを神様にお供えする。

つまり、季節の野菜や魚介類などを巻く恵方巻きと同じように、縁起物であるということ。
直会……『祭儀の後に供えた神饌を食べる宴のことを直会(なおらい)という。直会には、神の供物を食べることで神に近づくという意味もあるが、人が食べることのできないものは供えてはいなかったという証明でもある。墓参りの際に墓前にお供えしたものを、あとで食するというのと同じ行為であり、神霊が召し上がったものを頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するのである。
お供えものは、神様へのお礼のしるしとして奉げられ、お下がりを人間が分け合って神様と同じ物を食べることに意味合いがあった。祭礼の日などに、神社の本殿前に山海の珍味や特殊な調理を施した品々が積みあげられたものが供物である。
節供に限らず、神様にお供えする食物などを「供物」と称することが一般的になった。その年の山野の収穫物を神に捧げ、行事が終わったあとにはこれを神前より下げて参列者で分け合って神に感謝しつつ食べる。いわゆる神人共食のスタイルが供物の基本形おされてよく執り行われている。』

神社の儀式の流れ……『祭りとなれば、で最初に『献饌』をし、神様にお願いや感謝の言葉を申し上げる『祝詞奏上』が行われ、『玉串奉奠』と続いて、最後に『撤饌』(文字通り神饌を撤する儀式)を行う。神饌をお供えするところは、祭りの中で 社殿の一番奥で行われる行為で、地味な儀式ですが、神道の中で 最も重要な部分の一つ。
つまり、お祭りとは、神様にお食事をお出ししてから、 その食膳を片づけるまでの、神の食事中に、お願い事や感謝の言葉を申し上げる』
恵方巻きを食べるとき無言なのは、「神事を行う際に、言葉を発してはいけない」という象徴ではないかということ。心の中で願い事を言うのも、神前で拝むのと同じことである。神前で手を合わせベチャクチャ喋る人はいないし、それは神様に失礼となる。
よって、この神様へお願い事をする際の作法が「恵方巻き」を食べる際に無言でなくてはならいというところに出てきているのではないか。となれば、「恵方巻き」は神事としてお供えされた供物であり、お願いごとをした(これが祭礼、行事)後に、直会として食べる。食べることによって神様との結びつきを強くすることになるというわけだ。すべてが短略化された儀式であるということ(あくまでも私的な仮説)
だから通常行われるべき神事的儀式が簡略化され、短縮した形が「恵方巻きを食べる」という行為なのではないのかということ。

③そして方位だ。
「恵方巻き」を食べる作法として重要となるのは方位となる。
まず、歳徳神(としとくじん、とんどさん)とは、『方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神である。年徳、歳神、正月さまなどとも言う。年神様の「トシ」は穀物、主に稲を表しているという。
歳徳神の由来には諸説あり、『簠簋』では、牛頭天王の后で、八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとしているが、これはでたらめであるとの批判もある。また、牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、その妃の櫛稲田姫であるとも言われる。』
恵方といえば、「恵方参り」でしょうか。
明治時代以降、初詣は有名寺社へ行ったりするが、かつては産土神や氏神、鎮守へ詣でるのが古い形だった。江戸時代は「恵方詣、恵方参り」といって、年の初めに恵方の方角にあたる寺社へ詣でるのが一般的だったという。正月にする恵方参り、つまり江戸時代だから旧暦、それが新暦の節分の日にあたりになるわけで、この恵方の信仰の名残が「恵方巻き」に流れているのではないのか。
また、恵方棚というものある。「年の神すなわち正月の神を迎えるために作る棚。その年の恵方に向かって吊り、注連をひきわたして、お供えをする。年棚、歳徳棚とも」
といったことからも、昔から信じられていた方位の信仰を「恵方巻き」は受け継いでいるといえる。

よって、これらすべてをまとめると「節分に恵方巻きを食べる」という風習は、すでにその下地が日本人の中にあったということでしょう。

④さて前回の長いものを食べるというものが何故受け入れられていくのか。これが不思議でならないといったことを書いた。

恵方巻きが太巻きの理由は、それが鬼の持つ金棒を表していて、これを食べることによって鬼のようなパワーを得るためだ、という記事を読んだ。確かにその説が一番いい説明だろう。
だがどうも




こういった商品が出てくる理由を説明するには、物足りないような気がする。
重要なのは「棒状のものを節分に食べる」ということ。
神事、祭礼、長いもの……。
棒……、柱……、
諏訪神社の御柱か? それとも節分の日に男根を模した棒を振り回す三峰神社(埼玉県秩父)の奇祭か?
……と連想ゲームのようになってどうにもならない、
やはり「棒」なのか。
棒が象徴しているものを紹介していた「棒が持つ意味http://homepage3.nifty.com/bokujin/tsue.htm 」というサイトの説明も良かった。
ただここまで書いてきて、
やはり行き着くところは「金精神」か「リンガ信仰」になってしまう。
これが象徴しているのは性信仰で、幅が広くなってしまう。そうなると、なかなか手に負えない。
やはり、これ以上どうにもならないので、これは来年の節分までの宿題としておきます。(たぶん大きくは外れてないと思うので)
ただ来年の予想としては「節分に長いものを食べる」という風習が更に浸透して、長い形状の商品がもっと増えて行くことでしょう。

恵方巻きとは何か?  その1 私を悩ます「節分ロールケーキ」

さて、2月3日の節分の日が近づいてきました。

私のいる店も本格的に福豆やひいらぎ、イワシなどを並べ始めました。

そして、今回書く「恵方巻き」です。いつの間にか七福神と結びついて、かなりの縁起物となっていました。

そこにこれです。



つまり「節分ロールケーキ」を「恵方巻き」に見立てているわけです。

他のロールケーキや長い菓子パンなどにも節分関連のシールが付いたものが入荷しています。

う~ん、これって考えてみれば不思議なことです。

簡単に言ってしまえば「便乗商法」でしょう。しかし、そんなに違和感を覚えないのです。一見すれば、「何だ、これ」と思いますが、何故か、「これもあり」か、と自分で納得してしまうのです。(みなさんはどうでしょうか?)

変だと思っても、これを節分の商品だと認識して、受け入れてしまう自分の心理はどこから来るのか、そこが不思議でならないのです。

つまり「ロールケーキ」と「恵方巻き」は形状が似ているから、「見立て」として成り立っているわけです。

となると、「長い」ということが重要だということになるのでしょうか?

もっと言えば、その「長いもの」を「節分の日」に「食べる」という行為自体が重要となるのか?

そして、結果的には、この行為をすることによって「鬼(邪気)を追い払い」「福を呼び込む」ってことになるわけだ。

決められた作法に則った行為をすれば、邪気を払って福を招く。これはつまり祭祀、神事だということになる。

恵方に向かって無言で食べるなどの規則で「恵方巻きを食べる」という行為の中に、祭事的意味合いがあって、それを人々はそこに神事的意味を感じ取っていたということになる。そうでなければ、この風習がこれほどまでに浸透しないだろう。

まず、「恵方巻き」については、コンビニ業者や関連業者が、節分の日に新たなイベントを掘り起こそうとして、この風習を広めたことは間違いない。(そういった経緯が詳しく知りたい方は検索して他のサイトを見て下さい。なかなか詳細に書かれています)

しかし、発信者である業界がいくら仕掛けても全く浸透せず、また定着することもなく消えて行った事例は数知れない。その中にあって「恵方巻き」は広まった。つまり、広まったということは、一般大衆がこの風習を受け入れたということに他ならない。そこには日本人の心の中にその風習を受け入れる下地があって、なにかしら、心に触れるものがあったからに違いない。

それは何故かということになる。

そこを追究していけば「恵方巻きは何故広まったのか?」という謎が解けそうです。(たいした謎ではありませんが…)

次回は「節分の日に恵方巻きを食べる、という奇妙な習慣がなぜ広まったのか」を民俗学的に見るとどうなるか、ということを私的解釈で書いてみます。(と言いつつ、どうなることやら……)

次回に続く。

「歴史のミステリー」第2刊。徳川家康影武者説について。

「歴史のミステリー」の2巻目が発売された。



目次は

歴史検証ファイル「聖徳太子は本当に存在したか?」「中世ヨーロッパを震撼させた魔女狩りの真実」

遺跡に眠る謎「兵馬俑抗、始皇帝を守る8000体の騎馬軍団」

疑惑の真相「徳川家康の晩年は影武者だった!?」

芸術の裏側「炎の画家が残した12の謎。フィンセント・ファン・ゴッホ、ひまわり」

他、「ノアの箱舟」「本田宗一郎」など。

今号のメインは「聖徳太子不在説」ですが、私的には「家康影武者説」が気になる。でもこの本では2ページほどしかありませんでした……。

家康の影武者説にもいろいろありますが、この本では晩年ということなので、大坂の陣以降の影武者説を取り上げていました

大坂夏の陣の時、家康は豊臣方の後藤又兵衛の槍に突かれて絶命し、やむなく近くの南宗寺に埋葬された。家康の死によって徳川幕府が危機にさらされることを恐れ、影武者が立てられたという説だ。その影武者として選ばれたのが家臣の小笠原秀政だという。

そして徳川幕府が安泰となった1623年、南宗寺にある墓に秀忠、家光が訪れたことや、幕末に幕臣であった山岡鉄舟が家康の墓としてこれを参拝したといった逸話もあって、この伝説に信憑性が増したという。内容としてはこんな感じでしょうか。

小笠原秀政の影武者説はそこそこ語られる話であるが、それほどメジャーな説ではないでしょう。まあ、ネット検索をすればそれなりには出てはきますが……。

ほかに、家康影武者説といえば、やはり隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」が一番有名でしょうね。高橋英樹主演でドラマ化もされ、原哲夫によってマンガ化もされていますから。(ただし、家康は関ヶ原で暗殺されたという設定)

また「家康影武者説」では他に「替え玉説」というものもあり、こちらの方が主流かな。

手元にある本は



八切止夫の「徳川家康は二人だった」



南條範夫「三百年のベール」「願人坊主家康」。

興味のある方はウィキペディアの「徳川家康の影武者説」あたりから見てみると良いでしょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85%E8%AA%AC

あとは、江戸川乱歩賞作家の小林久三にも「家康影武者説」の本があったはず。

確か「家康、夏の陣に死す」が小笠原秀政影武者説を詳しく書いていたと思う。また「仮面を脱いだ家康」あたりも家康の出自を書いていたはずです。私は図書館で借りて読んだが、古本屋で探せばあると思います。

これら影武者説に共通するは、家康と入れ替わる人の名が「世良田二郎三郎」だということでしょう。

もちろん「世良田」姓は新田氏族。

まあ、このことは散々書いているので、この辺は「東毛奇談」で。

また白土三平の「カムイ伝」や八切止夫の説によれば、家康は被差別民の出ではないか、ということが書かれています。家康、松平家は奥三河の山奥から出た一族であり、家康はその出自を隠そうとしたところがあるから、そこから結びついた説である。

これは異端の説ではある。

ただし、これも一概には否定できない面もあることはたしか。

大まかに言えば、サンカや漂泊民などの非農耕民は、南北朝時代に南朝方についた。それが、北朝方の勝利でこれらの民はどんどん押しやられていくことになる。さて、これら反足利方はどこへ行ったのか?

反体制となった新田一族はどこに消えたのか?

そこに「世良田氏」と「松平家」とが結びつくことになるのです。

ではだれが仲介者となったのか?

と、その理由は……ここで

どんなことを書いても結局は、自分のサイトの紹介となってしまいます。

アメブロのシステム障害なんとかして下さい。

1月27日の夜、アメブロでシステム障害発生。ログインも出来ず、更新も閲覧もできない状態になった。


おいおい、ちょっと多くないか、アメブロ。月いちくらいあるぞ。


ほかのところはこんな頻繁にシステム障害しないよ~。

その理由が「更新通知メール配信サーバーの負荷高騰」だなんて。


毎日更新している人とか、アフリィエイトなどビジネスとかで使っている人は大丈夫なんですかね?

自分のブログも開けないなんて、どうにもなりませんね~。


アメブロブは、ブログ自体は扱い易いし、ペタなどの機能も多いので好きなのですが、やはり、障害が多すぎですよ。


じゃー他はどうかというと、それも一長一短。

ヤフーブログは、人が集まりやすくて、アクセス数を伸ばしたい人にはいいですが、文字制限があったり、ベータ版なのでとにかく扱いずらい。

楽天ブログは、やっている人が商売気のある人ばかりで、だんだんやる気がなくなってくる。

gooブログ、ライブドアブログ、ココログは無難だけど面白みがない。


となるとやはりメインはfc2となる。


でも私は予備ブログが必要なので、アメブロは使っていきたいのです。


理由は、以前使っていたブログでデータが消失してしまって、書いていた記事がなくなってしまったことがあった。そのときサブで使っていたブログにデータがあったので助かったということがあった。特に小説とかだと、データが消えてしまうとショックなので、用心のためにわざと違うブログにまるまる同じ記事を残して置くのです。また今回のように、システム障害なんてときも、他のブログに残しておけば、見られるし、データも取り出せるので便利なのです。


ということなのでアメーバブログは使い続けます。



がんばれアメブロ。

タレントブログに力を入れる前に、まず障害がおきてシステムダウンのないようにしてくださいよ。







講談社「日本の合戦シリーズ」の中には「新田義貞の鎌倉攻め」の巻があった。

「戦乱の日本史」が小学館から発売され、創刊号190円という値段につられて買ったという記事を数日前に書いた。そのとき、全50巻の中に南北朝時代のものが1巻しかなくて、しかもそれが楠木正成だった、と嘆いた記事を書いた。

その記事を読んだ方から、メールが来て、さる情報をくれた。

同じような「講談社のビジュアル・日本の合戦」というシリーズの中に「新田義貞の鎌倉攻め」を取り上げた巻がある、という情報だった。

早速ネットで検索。



わー丸々「新田義貞」だ!。この手の本で新田義貞を取り上げるのは珍しい。しかも表紙から新田義貞なんて、なんてチャレンジャーなんだ。

偉いぞ!講談社。

あまりにも嬉しくなったので、内容紹介をそのまま転載してみました。http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=0344567   講談社book倶楽部から

内容紹介


新田義貞と鎌倉攻め

[合戦俯瞰図]
天然の要害を利用した「城郭都市」鎌倉

[南北朝武将列伝]
北条高時 北条家滅亡を見届けた最後の得宗
北条泰家 新田義貞と激戦を繰り広げた関東の勇将
脇屋義助 義貞死後も後醍醐天皇のために奮戦

目次


新田義貞の系譜 監修・丹羽基二

[名将物語]文・小和田哲男
新田義貞
天皇に忠節を尽くした悲運の名将

[合戦の背景]
北条得宗家の専制と揺らぐ鎌倉幕府

[合戦俯瞰図]考証・藤井尚夫
天然の要害を利用した「城郭都市」鎌倉

[合戦絵物語]原作・青木悦郎 画・あや秀夫
鎌倉攻め

[合戦クローズアップ]
要塞の町・鎌倉の防衛線をついに破った新田軍

[合戦サイドストーリー]
幕府を傾けさせた民衆芸能・田楽

連載[武具・甲冑・兵器図鑑]文・東郷隆
鎌倉時代末期から流行した軽便な胴丸と腹巻

南北朝武将列伝 文・水澤龍樹
北条高時北条泰家脇屋義助大館宗氏赤橋守時ほか

[戦乱のなかの女性たち]文・左方郁子
新田義貞との恋に生きた後宮の美女・勾当内侍

連載[古戦場を訪ねて]
鎌倉ほか・幕府の存亡をかけて必死の抗戦、北条氏終焉の地へ

そそられる内容です。しかも匂当内侍や弟・脇屋義助の記事もあるようだ。

それに漫画「鎌倉攻め」もある。ということは、稲村ケ崎の太刀投げの場面もあるわけだ。

そして、この次の号が「足利尊氏・湊川の戦い」ですよ。ほんと偉いよ、講談社。



しかも、このシリーズ50巻のうち、南北朝時代を3つも取り上げている。(楠木正成・赤坂、千早城の戦いもある)  やはり日本の歴史を考えて、バランス的に見れば南北朝時代は3つくらいないとおかしいですよ。

日本史の中で一番人気のない「南北朝時代」ですが、戦国時代や幕末ものに飽きたら、次は「南北朝時代」ですよ。

というわけで、ひとり興奮状態です。