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週刊「新説・戦乱の日本史」 第2号・中国大返し

小学館の「戦乱の日本史」第2号・中国大返し・豊臣秀吉が発行された。



新聞広告から、「海上輸送が驚異的な進軍を可能にした?「本能寺の変」を知った秀吉は、明智光秀討伐を即断する。そして備中高松(岡山県)から山崎(京都府)まで約180キロを実質5日間で駆け抜けた。この驚異的な速度の行軍を「中国大返し」と呼ぶ。この行動を可能にしたのか「海路」を利用したからという見方がある。本号では「海路」説を紹介し、信長から秀吉へ、大きく時代を動かした「中国大返し」の真相に迫る。」とある。

本能寺の変から天王山の戦いで秀吉が勝利するあたりまでを検証している。

新説と謳っているが、それほどの説は出ていない。宣伝で言っている「海路説」もそれほど出ていない。物資の輸送のために使われたという程度であり、しかも短距離でしかなかった。もっと大胆な説かと思ったが、期待外れだった。

ただ毛利攻めから京へ引き返すまでの地図が詳細に載っているので、これは分りやすい。現代と当時の地図を重ねているので、この地図を眺めているだけでも楽しい。

さて、日本史を全体から眺めると、西から攻めのぼるときに、大きな力が働くというのが私の持論です。必ず西から京へ攻め上がって行く方が勝つという法則です。

神代の時代、足利尊氏の九州からの逆襲、豊臣秀吉の大返し、薩摩・長州の討幕軍など、時代の変革が起こるに、何故かこのとき現象が起こる。

かつて秀吉の中国大返しと尊氏の湊川合戦へのルートが同じではないかと考え、地図を重ねたり、行軍の道筋を地図に書き込んだりしたこともありました。

と、ここでいつもの自説に持ち込みたいところですが、今日は時間がないので、やめておきます。

週刊「歴史のミステリー」第3号

デアゴスティーニのビジュアルマガジン「週刊・歴史のミステリー」の第3号目が発売された。



目次

歴史検証ファイル「豊臣家は大坂夏の陣で滅亡したのか?」

         「アメリカ大陸を初めて発見したのはコロンブスだった」

疑惑の真相「川中島の戦いはフィクションだった!?」

芸術の裏側「東海道五十三次・歌川広重」

他は「アトランティス大陸の謎」「地下都市・カッパドキア」など。

まず、「豊臣家は大坂の陣で滅亡したか?」から。

この本では、「大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が薩摩に逃げ延びた」という伝説を追っています。

①秀頼・淀殿の遺体が発見されたのか?

秀頼・淀殿母子は自刃する前に、矢倉に火を放ったために発見されたときは遺体が焼け焦げていて、どれが秀頼らの遺体か特定することができなかったという。秀吉秘蔵の名刀「吉光」と一緒に出てきた黒焦げ死体を秀頼の遺体であると断定したにすぎないことから、秀頼生存説が出ている。

②真田幸村は討ち死にしたのか?

秀頼自刃説に決め手がないのは、秀頼の死体が確認されなかったという点にある。そのとき付き添ったのが真田幸村であるという。真田幸村には7人もの影武者がいたこと、幸村であるとされる首検分をした叔父の真田信尹は、その首が幸村のものであるか確認することができなかった。これらのことが第三者である、英国・東インド会社平戸商館長リチャード・コックスの日記に書かれている。

③大坂城からの脱出は可能だったのか?

大坂城の抜け穴を紹介し、秀頼脱出には織田有楽斎、加藤清正の子・忠広、福島正則らが関わったのではないか、という説を紹介しています。また上田秋成の書からの説も載せています。

④秀頼は九州に落ち延びたのか?

1925年に発表された高柳光寿の「豊臣秀頼薩摩落説」を中心に、秀頼は島津家に保護されていたという説を解説しています。

⑤淀殿は大坂城で自害したのか?

秀頼同様、遺体の確認ができなかった淀殿にも、逃げ延びたという伝説がある。その中から、上州の生存説を紹介している。

大坂城を囲んでいた秋元長朝は、そこで半狂乱となっていた女を助け、自分の居城である総社城(現・前橋市)に連れ帰った。その女こそ、淀殿であるという。そこで秋元は淀殿を我がものにしょうとしたが、それが出来なかった。そこで秋元は淀殿を殺したといわれる。または淀殿自らが、川に身を投げたて死んだというのだ。どちらにしても利根川で死んだことになっている。

「歴史のミステリー」の本では、秀頼生存説はこのあたりまででした。

私も「秀頼生存説」は本で読んだことがありましたが、かなり昔であり、今となっては記憶があやふやでした。小林久三の本で読んだことがあったと思ったのは、どうも「織田信長生存説」でこれも薩摩へ落ちて行った説だった。どうもこの説と混同してしまう。

そこで早速、図書館に行って関係本を借りてきました。

借りてきた本は「秀頼脱出」前川和彦著・国会刊行会。



この本「秀頼生存説」に関する逸話が多く載っている。

いくつか逸話を拾ってみました。

「片桐且元が、大坂の陣のあと淀君と秀頼の骨を拾い出してきて、鴫野弁天の境内に埋葬したといわれている。明治になって、そこに軍事施設が建てられることになり、2人を祀ってある神社を大融寺に移転しようとして掘り起こしたところ、淀君の墓の下からは骨壺が出たが、秀頼の方には何も埋まっていなかった。」

「天王寺の合戦で、幸村の首級がいくつもあったことや、戦功一番と思われた西尾仁左衛門に恩賞が与えられなかった」

「徳川方に加わっていた真田家でさえも「佐衛門佐君伝記」の中で幸村の薩摩落ちを書いている。そして、二百年経った文政十一年(1828)に、松代藩主・真田幸貫が平戸藩主・松浦静山にその秘密を語ったと、静山は「甲子夜話」の中に記している。それによれば、秀頼は5人の護衛とともに熊本まで辿りついたが、加藤家では後難を恐れて薩摩に送り出し、島津家では仕方なく引き受けたものの、密かに幕府に届け出て、幕府では「いまさら秀頼が生きていても、世間では死んだことになっている人物だから、天下に大勢はない。だから薩摩から外へ出してはならない」ということで、そのままにしたのだ、という」

また、秀頼の遺児である「国松の行方」がカギになりそうだ、と指摘している。

国松は大坂城から脱出したが、伏見の商家に隠れているところを発見され、京を市中引き回しの上斬首されている。しかし、斬首されたのは国松の身代わりで、付き添った者(大野治房、治胤)とともに逃げたという説が載っている。この国松生き残り説も根強くあって、各地伝説が多く残っているという。また豊臣遺金・多田銀山の埋蔵金の行方などにも触れており、この本の最後には島原の乱に秀頼(または息子)が参戦していたという説も書いてあります。

川中島の戦いはフィクションだった

これは、「甲陽軍艦」に書かれた話は、作り物だった、という話。「甲陽軍艦」が史料的価値の低い書であることから、川中島の戦いに出てくる「啄木鳥の戦法」や「武田信玄、上杉謙信の一騎撃ち」は創作ではないのか、ということが書いてある。また、武田信玄の軍師・山本勘助は実在せず、創作されたものだという内容。

山本勘助が実在したのかどうかは、江戸時代から昭和に到るまで多くの史家が疑ってきたことである。ただ、現在はこの人物が実在していたことは確認されている。信玄直筆の古文書「市川文書」の中に山本勘助の名が記された手紙が昭和44年に発見された。そして手紙の内容からいって山本勘助が重要な役目を担っていた人物であったということは分かっている。

ただ、「山本勘助」なる人物は、実在はしていたが、実際にあれほどの活躍をしたかどうかの確証はない、というのが実情であろう。

まあ、軍記物の物語としては面白いので、ある程度の創作はいいんじゃないかな。信玄と謙信の一騎討ちがないと盛り上がらないし。

歌川広重の東海道五十三次・描き込まれた六本指の人々

紹介されたのは図は、12番目の宿場図「三島 朝霧」。この中に描かれたの人物の足の指が6本ある。これを発見したのは人文地理学者の西岡秀雄氏。その後の調査で、7枚の絵の中に6本指の人物を持つ人物があり、かなりの割合で書かれているのだという。単なるミスではなく、作為的に描かれたものであるというのだ。

この謎に対して、いくつかの説を載せている。道教・神仙思想説、かくし落款説、写楽オマージュ説などがあり、どれも興味深い。記事としては短いものだが、今号で一番面白かったのはこの記事だった。

で、6本指といって思い出したのが「豊臣秀吉」。

こちらは手の指が6本あったという伝説だ。

それは、井沢元彦の「逆説の日本史・11・戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎」に詳しく書かれている。これもかなり興味深い説です。興味のある方は読んで見てください。

娘が始めた変わった趣味……「コボちゃん」

うちの娘が最近始めたコレクションは変わっている。

それは、読売新聞の4コマ漫画・植田まさしの「コボちゃん」を切り抜くこと。


だから、うちの新聞は、テレビ欄の右端は切られているので、そこだけがいつもない。(裏返すとそこが丁度コボちゃんが掲載されている部分)
そして、娘は切り抜いた漫画を、毎日せっせとスクラップブックに貼り付けている。


まったく変わった娘だ。
だって、うちの娘は幼稚園児ですよ。
ちょっと渋すぎやしませんか。
もちろん普通の子供が見るような漫画である「プリキュア5」も見れば「きらりんレボリューション」も見ます。
それがどうして、急に「コボちゃん」なのか。


不思議に思ったので、切り抜いてスクラップにしたものを読んでみた。
これが結構面白い。読み始めると止まらない。
セリフに振り仮名もあって、無駄な絵がないので、子供がパッと見て分りやすいのかなと思った。
ただオチが分らなくって、大人でも理解しずらいものがあるから、ただ絵を見て楽しんでいるのか、と思った。
それが違っていた。セリフを読んで、オチでちゃんと笑っている。


内容をしっかり理解しているのだ。しかも祖母に読み聞かせて、解説までしている。


これは一種の天才か?

ダウンタウンの松本人志が「コボちゃん」は面白いといったという。また、一時、話題になった7126回の話にもあるように、一度読んだだけでは分らないといったものも多い。そのとき「コボちゃん」を見て、分らない奴はお笑いのセンスないとまで言ったという。http://kansai0908.jugem.cc/?day=20061219 "


ということは、コボちゃんを楽しむ幼稚園児の娘は「笑いのセンス」があるということなのか?


しかも、最近は「アシエット・コレクション・ジャパン」が発行した「まんがの達人」を買ってきてとねだる。創刊号は390円。これ、かなりの本格もの。


こんなものを読んで、将来は漫画家にでもなるつもりなのか?

そうなると、ギャグマンガ家か?


おー、この娘には意外な才能が隠されているのか?


漫画家か。
いやー、いいな。
なんでも「才能」があるっていいですよね。
でも、娘が漫画家になったら、
「新田義貞」の人生でも描いて欲しいな。
自分の名前の由来となった場面を描けるなんて、人生としては最高でしょうから。(私的にですけどね)


追記…松本人志の「コボちゃん・売れる芸人判別法」は上記のURLで見て下さい。ちょっと昔に話題になったらしく、知っている人も多いみたいだけど、知らない人に試して見ると面白いです。話のネタになります。私は5回くらい見てやっと分りました。

倖田來未とキングコング西野

ラジオ番組で「35歳になるとお母さんの羊水が腐る」と発言してネット上で騒動となり、1日夜にHPで謝罪した歌手、倖田來未(25)が2日、自宅謹慎した。この日はFMラジオ番組の公開生放送に出演する予定だったが、同じ所属事務所の歌手、鈴木亜美(25)が代役出演した。倖田は、新アルバムのPR活動を自粛する見込みだ。(サンケイスポーツ)

今日のワイドショーなんかでもやってまいたね。各局のコメンテーターの発言が面白かった。慎重に言葉を選んでいる感じで。倖田來未にも中年女性にも配慮しようというのが見えて、実にテレビらしいものだった。
「スッキリ」の勝谷誠彦が「こんな失言くらいで、責めて、これはイジメだ」って言っていた。まあそうかもしれないけど、やはり「羊水が腐る」っていう表現がリアルなんだよね。ブログの炎上する他のタレント事件と同じにしていたけど、この件はちょっと違うんじゃないかな。
「ラジかるっ」の名越康文の意見は良かった。医学的根拠のないことを本人が自覚して言っていたのか、といったことを言っていた。この名越康文は結構分かりやすく、いいコメントを出す。私的に注目しています。

さてこの件、ラジオの流れからいって、軽い冗談くらいだったようで、結婚したマネージャーに早く子供を作れくらいの意味だったらしい。
しかしね。きついね、この表現。
人気歌手だから余計に目立つね。その辺の女芸人が同じことを言ったって、こんなには大騒ぎにならないだろう。
また、25歳の若い女が35歳以上のおばさんにケチをつけているように見えて、そこが怒りの対象になっているような気もする。
うちのかみさんも怒ってました。同性だから余計らしい、そんなこといったら反感買うのは当然くらい言ってました。だったら同じ品のない冗談をかますなら「ちんちん腐る」くらい言えば、よく言ったと逆に喝采されるよ、くらい言ってます。(うちのかみさんの方がきついじゃん)

あとは、これは関西人特有の言い草だ、と友人が言ってました。関西人らしい冷たさがあるということらしい。キングコングの西野が暴言を繰り返すのも、そこにある、と言ってました。
「ファンが帰りにレイプされようが俺には知ったことではない」と平気にブログに書く人は、特別でしょうが、関西人は表現がきつからって言う意見でした。(この友人は大阪出身)
まあ、すべての関西人はそんなことないでしょうが……。

ところで、このキンコンの西野どうにかならないんですか。ライブに来ていたお客を追い返した、と偉そうに書いてました。一人は酔っ払い、一人は子供連れ。もちろん他のお客の迷惑になる人を帰らすことは当然の行為でしょう。しかし、その書きっぷりが、実に「おれ様」的なんですよ。彼は自分自身を「客を帰した芸人」という芸人伝説を必死になって作ろうとしているように見えるんですよ。それにブログでキャバクラのおねーちゃんと飲んだだの、オナニーしただのいちいち書くなって。その合間に子供向け絵本(彼はガキと表現している)を書いているなんて信じられない。
しかもこんな彼のブログ「西野公論」を読んで感心している人がいるというから、実に世の中面白い。
あとは以前書いた記事をhttp://ameblo.jp/pcscd431/entry-10052066963.html

とまあ、最後はグダグダ、西野の批判で終わりました。

追記…ちなみに私は「2ちゃんねる」ユーザーではありません。一応書いておかないと。

節分。なぜ豆をまくのは、相撲取り、芸能人、子供たちなのか? (私的解釈)

2月3日節分の日。各地で豆まきの行事が行われたようです。

ニュースを拾ってみます。
「千葉県成田市の成田山新勝寺で3日、恒例の節分会が行われ、大相撲の朝青龍(27)、白鵬(22)の両横綱とNHK大河ドラマ「篤姫」出演の宮崎あおいさん(22)と瑛太さん(25)らが「福は内」の掛け声で、勢いよく豆をまいた。」
「節分の日を控えて、川越市熊野町の「ふじま幼稚園」(関根一枝園長、園児数三百六十三人)は一日、園児らが大相撲の力士と豆まきなどを行う交流会「おすもうさんと遊ぼう」を開催した。」

さて、豆まきの行事となると、必ず相撲取り、芸能人、そして子供(特に幼稚園児)がまく側となって登場します。

なぜでしょうか?

それは、邪気を払い、福を呼び込むという「節分の行事」に、彼らは適任だからです。

相撲取りが「神事を執り行うための存在である」ことは過去に書いたことなので、ここでは省略します。そこを読めば何となく伝わります。http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-category-15.html

で、次が芸能人。
テレビのワイドショーなどでは、必ずといっていいほど芸能人が豆をまく姿が放送されます。
なぜ芸能人が呼ばれるのでしょうか。話題になるから、人が集まりやすいから…、もちろんそれもあるでしょう。
しかし、それだけではないのです。それは、彼ら芸能人は「呪術者」だからです。(あくまでも私的解釈)

日本の芸能は、天照大神が天の岩戸に姿を隠した際、アマウズメノ命が神懸かりとなって躍ったのが最初であるという。そこからシャーマン的儀礼が伝わり、神楽となって、猿楽、田楽と発展していく。それが中世には能楽や狂言となった。またこれらが伝承され江戸期には歌舞伎・浄瑠璃となっていくわけだ。さて、この芸能だが、呪術的要素を多分に含み、陰陽道と芸能の民が密接に結びついていたという。

また芸能に関しては「聖徳太子が秦河勝に六十六番の物真似を、橘の内裏の紫宸殿でやらせた。すると、天下がおさまり、国土が安穏になったという。もともと舞踊は、自らが形代となって土地の霊などを鎮める呪術的所作であり、舞踏者は一種の悪魔払いである。それが転化して、神と人とが渾然となっていったのである。」とある。(学研・陰陽道の本より)
要は日本の芸能を行う者は、悪霊を鎮める呪術者であり、五穀豊穣を祈願する神事を司る者たちなのである。
そこで、現代ではその担い手として、「芸能人」が呼ばれるのです。
という点からいっても、相撲取りと芸能人は同じ役割を果たしていることになる。(かなり大雑把に書いてますが、大筋だけでも伝わればいいです)

さて、それに子供たちです。これは呪術者とは少し違って、子供たちは「神に近い存在」だということ。だから神さまに代わって、豆をまくのです。
『子供は、「7歳までは神のうち」「7つ前は神の子」などといわれるように、神から人への過渡期である子どもは、神と接することのできる特別な力を持っているとされてきました。』http://bunkashisan.ne.jp/search/ViewContent.php?from=14&ContentID=159(地域文化遺産のサイト、千葉県八千代市「悪魔を払う子どもたち」の説明から)
よって、小学生ではなく、幼稚園児が選ばれるんですね。(地域によっては小学生だったりしますが、だいたいが幼稚園児です)
かわいいだけではなく、神さまの使いとして、この役割をしているということです。

さて、平成20年2月3日、群馬県は大雪だった。
太田市の大光院(子育て呑龍)の豆まきは行われたのでしょうか?(仕事で行けず)


かつては、成田山新勝寺と並ぶくらいの人手があったらしいが、現代は相撲取りも芸能人も呼ばない寂しいものになってしまった。ただし幼稚園児が豆をまく。
ここは、活気をつける意味でも、呪術的意味においても、お相撲さんとか呼びましょうよ。
そういった意見のサイトも多数ありました。


「太田市」は、こういった文化的なこと、歴史的なこと、民俗的なことに関して、全く無関心だと思いますよ!
(と、最後はローカルな話題でした)