3人のわが子を手にかけた母の記事を読んで
Yahoo!ニュースにこんな記事が載っていた。「自分は母親になっちゃいけない人間…」 幼い娘3人の首をコードで絞めて殺害 被告の女(29)が追い求めた“完璧な母親”追いつめられた母が幼いわが子3人に手をかけた。心が痛すぎて読むに堪えない。たしかにこの母は追いつめられていた。・ワンオペ・義母の来訪と言葉にプレッシャーといった環境上の課題。・「良い母」への囚われ・抑うつ傾向といった本人の課題。こういった要因の相互作用によって起こったとてつもない悲劇。この記事のヤフコメを読んでいると、いろんな視点があることがわかる。●この母にはもっとサポートが必要だった。●協力しなかった周りにも問題がある。●義母のサポートは逆にプレッシャーだっただろう。●うつが完治していないならそうなっても不思議ではない。どれも理路整然としてるし、確かにそうだろうなと思う。わが子に手をかけるのは許されはしないが、・もっとサポートがあったら・周りが協力的だったら・病気が治っていたらこんな悲劇は起きなかったと。確かにそう思う。でも一方でこんな事件が起こるたびに強く思うことがある。加害者でもあり被害者でもある母にばかり目が向くことが多いけど、愛するその母に命を奪われた子どもの気持ちをいったいどれだけの人がリアルに想像できているんだろう?言葉もおぼつかない、あるいは発することもできない幼い子が、自分の想いも、気持ちも、望みも、言葉にもできないまま、ある日突然、しかも最愛の母に命を奪われる無念さを。その子らの深い深い悲しみを。筆舌に尽くしがたい痛みを。それを想像するほど他人事として原因分析などやる気にもならない。母が追い詰められていたからこうなってもしょうがない?サポートしなかった周りにも問題ある?抑うつがあれば追い込まれても仕方ない?そんなこと絶対に言いたくない。もしも命を奪われた子どもたちが私たちの声を聴くことができるとしたとき、その子たちに向かって、「お母さんはひとりで頑張って大変だったんだよ」「心の病気も治ってなかったから無理だったんだよ」「周りもお母さん追いつめちゃったしね」「だからね、しょうがなかったんだよ」死んでもこんなこと言いたくない。どんなに幼い子も*「生きたい!」*「つながりたい!」といった願いを持つ掛け替えのない大切な命。だからこそ大人と同様に、いえ、大人以上に*命が守られる安全基地*人としての尊厳の尊重*絆による親密なつながりを与えられて然るべきなはず。それを大人の事情で奪っていいわけがない。亡くなった子たちはもう話すことができない。彼女たちが最期に言いたかったであろう言葉を、声を、拾い上げて、私たち大人は、親は、そこから学ばなければいけないと強く思う。その声に応えるために私たちにできること、私たちがすべきことは何だろうかと。亡くなったこの子らが声を発することができるとしたら、きっとこう言いたかったんじゃないのかな、と思うこと。それは、、、「ママ、頑張り過ぎないで」「いてくれるだけでいいよ」「いっぱい笑ってね」「それでしあわせだからね」私たち親のあるべき姿は「良い親」になることじゃなく、「共に笑って暮らせる親」になること。だからこそ「子育て頑張る!」のずっとずっと手前で、「私はこの不完全な私でいいんだ!」に辿り着こう。そもそも子どもは「理想の親」がほしいわけじゃなく、「現実の自分の親」と一緒に笑って過ごしたいだけだから。