『世界は近く、日本は遠く』
── 時をかける手紙と、消えた妖精たちの国 ──



まえがき

世界は、驚くほど近くなりました。

手のひらに収まる小さな箱をひとつ持てば、地球の裏側にいる人と顔を見ながら話ができる時代です。会いたい人にすぐ会え、知りたいことは一瞬で調べられ、言葉の壁さえ機械が越えてくれるようになりました。

けれど、便利になればなるほど、不思議なことに「心の距離」は遠くなっているような気がします。

返事が少し遅いだけで不安になり、一言が軽く消費され、待つことや信じることが難しくなっていく。

昔の人たちは、顔も見えず、声も聞けず、それでも一通の手紙を信じて生きていました。

もし、百年前の誰かと手紙を交わせたなら。
もし、その人から「待つことの意味」を教えられたなら。

この物語は、そんな小さな空想から始まりました。

便利さを否定するための物語ではありません。
ただ、私たちがどこかへ置き忘れてしまった「言葉の重み」を、もう一度思い出すための物語です。

あなたが読み終えたとき、大切な誰かへ、一言だけでも丁寧な言葉を届けたくなっていただけたなら、とても嬉しく思います。




第一章:薄っぺらな箱と、一週間のタイムラグ

1
液晶画面が放つ冷たいブルーライトが、四畳半のワンルームマンションの壁を青白く染めていた。

「ハロー、アーサー! そっちの天気はどう?」

蓮(れん)はベッドに寝転んだまま、手元にある薄っぺらなプラスチックとガラスの箱──スマートフォンに向かって話しかけていた。画面の向こうでは、地球の裏側、ブラジルのサンパウロに住む友人のアーサーが、眩しいひまわりのような笑顔を浮かべている。時刻はあちらの朝、こちらは深夜だ。

「最高さ、レン! 今からビーチに行くところだよ。ほら、見てくれ!」

アーサーがスマホのカメラを外側に向けると、画面には抜けるような青空と、白い波飛沫を上げるコパカバーナの海岸がリアルタイムで映し出された。波の音までが、まるで隣の部屋から聞こえるかのように鮮明だ。

「すごいな。本当に、すぐ隣にいるみたいだ」
「だろ? ひと昔前なら、国際電話で聖徳太子が何枚も飛ぶような距離なのに、今じゃ無料のテレビ電話だ。世界は本当に狭くなったな!」

アーサーはそう言って豪快に笑い、親指を立てた。自動翻訳アプリが彼のポルトガル語を、寸分の狂いもなく完璧な日本語の音声へと変換して蓮の耳に届けている。言葉の壁も、距離の壁も、今の世界には存在しなかった。

「じゃあな、レン。またいつでもボタン一つで呼んでくれ!」
「ああ、良い一日を」

通話終了のボタンをタップする。わずかな電子音と共に、画面は一瞬で暗転した。

静寂が、泥のように部屋に満ちていく。
蓮は仰向けのまま、天井を見つめた。

世界は近くなった。それは間違いない。地球の裏側の笑顔を、指先ひとつで確認できる時代だ。しかし、通話を切ったあとに残る、この底なしの虚しさは一体何なのだろう。

出会うはずもなかった世界中の人々と、毎日いくらでも出会えてしまう。タイムラインをスクロールすれば、見ず知らずの他人の日常や愚痴、無数の言葉が洪水のように溢れてくる。約束などしなくても、いや、出会う必要すらない連中とまで、無理やり繋がされてしまう厄介な時代。

便利さと引き換えに、自分たちは何か決定的なものを失ってしまったのではないか。
蓮は胸のあたりに広がる奇妙な空洞感を抱えたまま、深い眠りに落ちていった。

2
週末、蓮は実家の古い物置の片付けを手伝っていた。
数ヶ月前に亡くなった祖母の、遺品整理のためだ。

埃の舞う薄暗い物置の奥から、蓮は古びた木箱を見つけた。桐の木でできているのだろうか。表面は黒ずみ、角が丸く擦り切れている。真鍮の留め金は赤錆びていたが、そっと力を込めると、カチリと小さな音を立てて開いた。

中に入っていたのは、数枚の茶色く変色した便箋だった。
毛筆で書かれた、流れるような美しい文字。縦書きの文章は、現代の蓮にとっては少し読みづらかったが、目を凝らして一文字ずつ追ってみる。

> 『拝啓
> 蓮(れん)様
>
> お手紙、確かに受け取りました。
> あなた様の住む世界のお話は、まるで狐に化かされているかのように不思議なことばかりですが、文面から伝わるあなた様の寂しげな熱は、本物であると信じられます。
>
> こちらは今、銀杏の葉が黄金の絨毯のように街を染めております。
> あなた様からの次のお手紙が届くまで、また一週間, 大切に待たせていただきます。
> どうか、お体に気をつけて。
>
> サヨ より』

「サヨ……?」

蓮は首を傾げた。祖母の名前はキヨだ。サヨという親戚がいたという話は聞いたことがない。しかも、宛名は「蓮様」となっている。同姓同名の誰かなのだろうか。いや、便箋の端に書かれた日付を見て、蓮は息を呑んだ。

『大正十五年 十一月』

今からちょうど百年前の、日付だった。

「おかしな悪戯だな」

蓮は苦笑した。百年前の人間が、自分の名前を知っているはずがない。きっと祖母が昔、何かの小説の文章でも書き写したものか、あるいは歳の離れた曾祖父の恋文か何かなのだろう。

しかし、なぜだろう。その便箋から漂う、微かな墨の香りと、一文字一文字に込められた「重み」のようなものが、蓮の心を捉えて離さなかった。

蓮はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、SNSの通知が何十件も溜まっている。既読をつけて一秒で返す、スタンプだけの会話。文字としての体をなしていない、軽薄な記号の羅列。

それらに比べて、この百年前の手紙に宿る言葉の、なんと静かで重厚なことか。

蓮は引き寄せられるように、物置の机にあったメモ帳とボールペンを手に取った。そして、本当に気まぐれに、サヨという正体不明の女性宛てに、返事を書き始めた。

『サヨ様
手紙を読みました。僕の住む世界は、ボタン一つで地球の裏側と話せる便利な場所です。でも、みんな忙しなく動いていて、誰の言葉も軽くて、時々息が詰まりそうになります。あなたの言う、一週間待つという時間の豊かさが、少し羨ましいです』

書き終えると、蓮は少し恥ずかしくなった。現代の愚痴を、百年前の幽霊にぶつけてどうする。
彼はメモを小さく折り畳むと、からかい半分で、その古い桐の木箱の中へと放り込み、パチンと蓋を閉めた。

その時だった。
ズボンのポケットの中で、スマートフォンが激しく震えた。

画面を見ると、見たこともない真っ黒なエラー画面が表示されていた。中央には、白い文字でこう刻まれている。

【未着信:1926年(大正15年)からの返信】
【システム処理中──相手方への到達まで:残り7日間】

「……は?」

蓮は画面を何度もタップしたが、フリーズしたように動かない。再起動を試みようとしたその時、画面の文字がすうっと消え、いつもの見慣れたホーム画面に戻った。

「バグか。最近のスマホは、変な広告のウイルスでも入ったのかな」

蓮は冷や汗を拭いながら、スマホをポケットにしまい込んだ。

3
それから、ちょうど一週間が経った。

蓮はすっかりあの出来事を忘れていた。大学の講義を受け、アルバイトをこなし、深夜に帰宅する日常。相変わらず、世界は近く、そして浅かった。

夜の11時半。自室のベッドに腰掛けた蓮は、ふと、部屋の隅に置いてあったあの桐の木箱に目を留めた。実家からなぜか持って帰ってきてしまったのだ。

「確か、スマホの画面には一週間って書いてあったな……」

冗談交じりに、時計を見る。11時45分。
蓮は立ち上がり、木箱の前にしゃがみ込んだ。錆びた留め金に手をかける。心臓が、なぜかドクドクと不自然な高鳴りを上げていた。

カチリ。

蓋を開ける。
中には、蓮が先週入れたはずの、ノートを破ったメモ用紙が──なかった。

代わりに、別の、少し黄ばんだ和紙の便箋が、一枚だけ静かに横たわっていた。
まだ乾いたばかりのような、鮮やかな黒い墨の匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

蓮は震える手で、その便箋を取り出した。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> 驚きました。お返事、本当に届くなんて。
> あなた様の文字は、見たこともないほど細く均一で、まるで機械が書いたようですが、そこに込められた寂しさは、確かに私の胸に届きました。
>
> ボタン一つで遠くの人と話せる世界。それはまるで神様の住む世界のようですね。
> ですが、言葉が軽くなってしまったというのは、悲しいことです。
>
> こちらでは、昨日、友人が上野の駅の伝言板に書いた待ち合わせの文字が、誰かの悪戯で消されてしまい、一日中すれ違って会えずじまいでした。友人は「これもまた、仕方なき別れる運命だったのだ」と、寂しそうに笑っておりました。
> 不便ではありますが、だからこそ、私たちは一度の約束を命がけで守ろうといたします。一言の重みを、神様の世界の方々にも、忘れてほしくはありません。
>
> また、一週間後にお便りいたします。
>
> サヨ より』

蓮は、言葉を失った。

指先が微かに震える。便箋の裏を返すと、そこには『大正十五年 十一月』の文字。
これは錯覚でも、誰かの悪戯でもない。

手元にある薄っぺらな箱を使えば、地球の裏側の笑顔は一秒で確認できる。
しかし、今、自分の手にあるこの手紙は、「一週間前の彼女の気持ち」なのだ。
そして、自分が今すぐ折り返して書く気持ちが、彼女へと届くのは、さらに一週間後。

往復で二週間。
日々、移り変わる若者の心にとって、二週間という時間はあまりにも長い。顔の見えない虚しさは、信頼していたはずの心を揺さぶり、時にはすれ違いのまま、永遠に遠ざかってしまうかもしれないリスクを孕んでいる。

「すがれるものは、手紙だけ……」

蓮は呟いた。
現代の人間が忘れてしまった、本当の「距離」がそこにはあった。

国際電話ですら、一瞬で大金が飛ぶからこそ、人は言葉を選び、命を削るようにして想いを伝えていたのだ。すべてが無料になり、無限になり、便利になった現代。それは同時に、すべての価値をゼロにしてしまったのではないか。

蓮はデスクに向かい、今度は万年筆を握り締めた。
サヨのいる百年前の日本へ向けて、二通目の手紙を書き始める。

「サヨさん、僕のいる日本は、あなたのいる日本と同じ場所なのに、とても遠い場所にあります……」

世界はこんなにも近くなったのに、どうして僕たちの心は、こんなにも遠くなってしまったのだろう。
時空を超えた、一週間のタイムラグを持つ文通が、静かに幕を開けた。



第二章:駅の伝言板と、すれ違う運命

1
一週間という時間は、現代の感覚からすれば、気が遠くなるほど長い。

蓮がサヨへの二通目の手紙を桐の木箱に投函してから、わずか数日の間にも、彼のスマートフォンの画面は目まぐるしく変化していた。大学のグループチャットでは、一日に数百件ものメッセージが飛び交い、一時間スマホを見ないだけで「未読」の数字が膨れ上がる。

「レン、昨日の夜のミーティング、なんで返信くれなかったんだよ?」

大学の食堂で、ゼミの同期である拓海(たくみ)が、不満げにトレイをテーブルに置いた。手元のスマホをいじりながら、視線すらこちらに向けない。

「すまん。少し疲れていて、早く寝たんだ」
「勘弁してくれよ。スタンプ一つ返すのに一秒もかからないだろ? 『既読』がつかないと、こっちだって予定が組めなくて困るんだからさ」

拓海の言葉に、蓮は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
一秒で返せる言葉。それは裏を返せば、一秒の価値しか持たない言葉ということではないか。

現代の人間は、いつでもどこでも繋がれる便利さと引き換えに、相手の「不在」を許せなくなっている。相手が今、何をしているのか、どんな気持ちでいるのかを「想像する余白」が、完全に奪われてしまっているのだ。

「……なぁ、拓海。もし、連絡した相手からの返事が届くまでに、どうしても一週間かかるとしたら、どうする?」
「は? 一週間?」

拓海は呆れたように鼻で笑った。

「そんなの、連絡してないのと一緒じゃん。縁がなかったって諦めて、次の奴探すわ。今の時代、待つなんて時間の無駄だし、効率悪すぎ」

効率。無駄。
それが現代を支配する絶対の正義だった。
蓮はそれ以上言葉を返すのをやめ、静かに冷めたスープを口に運んだ。

彼の心はすでに、ここではないどこか──一週間の静寂が守られている、百年前の街並みへと向かっていた。

2
約束の一週間が経ち、深夜十一時四十五分。
蓮は儀式を行うかのような厳かな気持ちで、桐の木箱を開けた。

予想通り、蓮が書いた手紙は消え、代わりに新しい墨の香りをまとった便箋が収められていた。サヨからの三通目の手紙だった。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> お手紙、嬉しく拝読いたしました。
> あなた様の住む世界では、人々が皆、手元にある小さな箱に縛られ、一秒の遅れも許されずに急ぎ足で生きているのですね。神様のような便利な道具を持ちながら、心に余裕を持てないというのは、なんだか不思議で、少しお気の毒な気もいたします。
>
> こちらでは先日、少し悲しい出来事がありました。
> 私には、幼馴染で、いずれ一緒になるのだろうと信じていた男性がおりました。名を『清治(せいじ)』と申します。
>
> 彼は実家の商売を助けるため、遠くの街へ行くことになり、出発の日の朝、上野の駅で待ち合わせをする約束をしておりました。
> ところが、私が乗った路面電車が途中で故障してしまい、約束の時間に一時間も遅れてしまったのです。
>
> 急いで駅へ駆けつけ、駅の伝言板を見ました。
> そこには、彼の文字で『一時間待ったが、先に行く。達者で』と書かれていた形跡があったのですが……悲しいことに、その文字は、誰かの悪戯か、あるいは駅員の掃除によって、半分以上が雑に消されてしまっていたのです』

蓮は息を呑んだ。
文字が消された駅の伝言板。携帯電話のない時代、それが何を意味するか、現代の蓮にも容易に想像がついた。

> 『私は、彼がまだ駅の近くにいるかもしれないと、夕方まで探し回りました。
> ですが、ついに会うことは叶いませんでした。
>
> 今、私の手元には、彼が旅立つ前にくれた一通の手紙だけが残されています。
> その手紙には、私を大切に思う気持ちと、向こうの街へ着いたら必ずまた手紙を書く、と記されていました。
>
> しかし、顔の見えない、声も聞こえない日々が続くのは、本当に虚しいものです。
> 届くまでに一週間もかかる手紙を待つ間、私の心は、激しく揺さぶられてしまいます。
> 『彼は本当に私のことを待ってくれていたのだろうか』
> 『消された文字の裏に、もっと別の言葉があったのではないか』
>
> 日々、移り変わる若さの心では、その一週間の空白が、まるで底のない深い溝のように思えてしまうのです。
> 信頼していたはずの心が、少しずつ遠ざかっていくような恐怖に、私は毎夜、耐えております。
> すがれるものは、この手紙だけなのに。
>
> もし、あなた様の言う『スマートフォン』があれば、私たちはすれ違わずに済んだのでしょうか。
>
> サヨ より』

手紙を読み終えた蓮は、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「さよなら、ってこと……」

先週、自分が感じていた「便利さゆえの軽さ」とは真逆の、不便さゆえの「残酷な重み」がそこにはあった。
ちょっとしたトラブルで、駅の伝言板の文字が消され、それきり一生の別れになってしまうかもしれない時代。現代なら、一通のメッセージで「電車が遅れてる」と送れば済む話だ。

サヨの生きる時代の人々は、そんな張り裂けそうな不安と戦いながら、それでも「仕方のない運命」として諦め、あるいは「縁がなかった」と片付けて生きていたのだ。

蓮は震える手でペンを握った。サヨの、その張り裂けそうな心を、どうしても繋ぎ止めたかった。

『サヨさん。スマートフォンがあれば、確かにあなたと清治さんはすれ違わずに済んだかもしれません。でも、現代の僕たちは、繋がれすぎることで、相手を信じ抜く強さを失ってしまいました。
一週間、顔が見えないからこそ、相手を想う時間は本物になるはずです。どうか、清治さんからの手紙を、彼の言葉を信じて待ってください。僕も、あなたの言葉をここで信じて待っています』

蓮は祈るような気持ちで手紙を木箱に収め、蓋を閉じた。

3
翌日、蓮が大学の講義を終えて駅へ向かう途中、奇妙な違和感に襲われた。

駅の改札口の横。いつもなら、そこには巨大なデジタルサイネージが置かれ、きらびやかな広告映像やニュースがせわしなく流れているはずだった。
しかし、その日に蓮の目に飛び込んできたのは、黒いペンキで塗られた、古びた黒板だった。

上部には、白いチョークでこう書かれている。
『伝言板』

「え……?」

蓮は足を止めた。周りを行き交う人々は、誰もその黒板を奇異の目で見ていない。それどころか、何人かの会社員や学生が、備え付けのチョークを手に取り、「先に行く」「〇〇カフェにいる」などと文字を書き込んでいる。

蓮は慌ててスマートフォンを取り出し、検索欄に「駅 伝言板」と打ち込もうとした。
だが、指が止まった。

スマートフォンの画面デザインが、昨日までと微妙に変わっているのだ。
アプリのアイコンはどれも簡素になり、リアルタイムで動いていた動画広告は姿を消し、静止画ばかりになっている。まるで、通信速度そのものが、世界全体で意図的に落とされているかのような──。

「世界が、少しずつ変わっている……?」

蓮の脳裏に、サヨの手紙の文字が蘇る。

便利さと引き換えに失われた「一言の重み」。
蓮が百年前の世界と繋がり、言葉を交わしたことで、現代の「便利すぎる世界の構造」が、ほんの少しだけ過去の不便さの方へと引きずり戻されているのではないか。

その時、蓮の背後から、コツン、コツンと、革靴の静かな足音が近づいてきた。

「妖精たちの魔法が、解けかけているね」

低く、しかし驚くほど澄んだ声だった。
蓮が振り返ると、そこには古びたトレンチコートを着た、白髪交じりの老人が立っていた。
その老人は、片目に黒い眼帯をつけていた。隻眼の老人──ハーン。

「……誰、ですか?」

老人は優しく微笑み、駅の伝言板を見つめながら言った。

「かつて、この国は妖精たちが住む国と呼ばれていた。目に見えない調和を重んじ、自然を敬い、一言の言葉に命をかける、美しい妖精たちだ。だが、彼らが作り上げた便利な製品が世界を占める頃、妖精たちは皆、日本人の姿をした西洋人へと変わってしまった」

蓮は息を呑んだ。それは、彼が以前読んだことのある、小泉八雲の言葉そのものだった。

「君が木箱に入れた言葉が、眠っていた妖精たちを揺り動かしている。だがね、青年。時間を超える言葉には、相応の覚悟が必要だ。1週間のタイムラグは、時に人を救い、時に人を永遠に狂わせる」

「どういう意味ですか!? サヨさんは……サヨさんはどうなるんですか!」

蓮の問いかけに、老人は答えなかった。
ただ、寂しげな笑みを浮かべ、人混みの向こうへと歩き去っていく。その姿は、夕暮れの駅舎の影に溶けるようにして、一瞬で消え去ってしまった。

手元で、スマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、エラー画面が再び表示されていた。

【未着信:1926年からの返信(残り到着時間:6日間)】
【警告:時代の渦が接近しています】

蓮はスマホを握りしめた。
サヨのいる大正十五年は、もうすぐ激動の昭和へと変わる。歴史が狂い始めようとしていた。
便利さと不便さの狭間で、二人の運命の歯車が、激しく回り出していた。



第三章:消えゆく『妖精の国』の予言

1
世界は確実に、その輪郭を変え始めていた。

大学への通学路、いつも視界を埋め尽くしていた派手なネオンサインや、歩きスマホをする人々の群れが、日に日に減っていることに蓮は気づいていた。
人々はスマホをポケットにしまったまま、ぼんやりと空を見上げたり、隣を歩く友人の顔をじっと見つめて話したりしている。

SNSを開いても、かつてのような一秒ごとに流れていくタイムラインの喧騒はなかった。
代わりに、短い一言がぽつり、ぽつりと表示されるだけだ。自動翻訳機の精度も落ちたのか、海外の友人からのメッセージには、どこかぎこちない、直訳調の冷たさが混じるようになっていた。

まるで、世界を覆っていた「超高速の網」が、一本ずつ解かれていくかのように。

「……レン、最近なんか、変だと思わないか?」

ゼミの講義前、拓海が所在なげにスマホの画面を見つめながら呟いた。

「何が?」
「いや、なんかさ……街の空気が静かすぎるっていうか。昨日、コンビニの店員に『ありがとうございました』って言われた時、いつもなら聞き流すのに、なんか妙に胸に染みたんだよな。あの店員、俺の目をちゃんと見て、頭を下げてた。まるで、俺の無事を祈るみたいにさ」

拓海は自分の腕をさすりながら、不思議そうに笑った。

「変だよな。あんなの効率悪いし、ただの無駄な愛想なのに。でも、悪くないっていうか、なんか、ホッとしたんだ」

蓮は拓海の横顔を見つめた。
効率と合理性を最優先し、「待つことは無駄だ」と言い切っていたあの拓海が、他人の小さな「気遣い」に心を動かされている。

小泉八雲が言った「妖精たち」の魔法。
それは、かつてこの国の隅々にまで満ちていた、目に見えない相手への敬意、繊細な情緒、誠実な美意識、そして「言葉の裏にある沈黙を尊ぶ心」だったのではないか。
それが、蓮とサヨの文通によって、百年後の現代にじわじわと染み出し、人々が「日本人の姿をした西洋人」から、本来の「日本人」へと戻り始めている証拠だった。

しかし、それは同時に、現代の「便利で快適な世界」が壊れていくことでもあった。

2
一週間後。十一時四十五分。
蓮は祈るような心地で桐の木箱の蓋を押し上げた。
中から現れたサヨの手紙は、前回よりも心なしか、文字の勢いが乱れているように見えた。

> 『拝啓
> 蓮様
>
> お手紙、嬉しく拝読いたしました。
> 顔も見えぬ、一週間も前の私を信じて待ってくださるあなた様の存在が、今の私の、どれほどの心の支えになっているか言葉では言い尽くせません。
>
> あなた様のアドバイスの通り、私は清治さんを信じて待つことにいたしました。
> すると、昨日、本当に彼からの手紙が届いたのです。
>
> 彼は向こうの街の印刷工場で、必死に働き始めたそうです。
> 『今はまだ不甲斐ない身だが、必ず一人前になって、君を迎えに行く。だから、男を立てると思って、俺を信じて待っていてくれ』と、不器用な文字で書かれていました。
>
> 男を立てる、という言葉。
> もしかすると、あなた様の時代では、古臭く、女が虐げられているように聞こえる言葉かもしれませんね。
> でも、こちらの女にとって、それは決して卑屈なことではないのです。
>
> 私たちが男の人を立てるのは、その人がおだてに乗って、私たちのために命をかけて戦ってくれると信じているからです。その人の背中に、自分の命と、この国の未来を預ける覚悟があるからです。
> また男の人もまた、その祈りに応えるだけの、守り通せる強さと誇りを持って生きています。
> 互いが互いの役割を誇り、支え合う。この目に見えぬ絆こそが、私たちの生きる世界の美しさなのだと、清治さんの手紙を読んで改めて気づかされました』

蓮は、ハッと息を呑んだ。
男を立てる女と、その女を命がけで守る男。
それは、決して古い上下関係などではなく、お互いへの絶対的な信頼と、命がけの「約束」の形だったのだ。現代の、責任を回避し、傷つくことを恐れて記号だけの言葉を交わす人間関係とは、あまりにも地平が違っていた。

しかし、手紙の後半、サヨの筆致は急に影を帯びた。

> 『ですが、蓮様。
> 最近、こちらの街でも、奇妙なことが起き始めております。
>
> 街を走る自動車の数が急に増え、人々がみな、西洋のきらびやかなお洋服を競って着るようになりました。
> 長屋の近所付き合いは薄くなり、人々は隣に住む人の名前すら気に留めなくなっています。
> 誰もが、手元に時計を携え、一分一秒の遅れを気にしながら、怒りを含んだ顔で急ぎ足に歩いているのです。
>
> 清治さんの働く印刷工場でも、西洋から輸入されたという巨大な最新式の機械が導入され、職人たちの繊細な手仕事が、次々と『無駄なもの』として切り捨てられているそうです。
>
> まるで、私たちの愛したこの国が、中身だけ別の国へ塗り替えられていくような、そんな言い知れぬ恐ろしさを感じます。
> 蓮様、私たちは一体、どこへ向かおうとしているのでしょうか……。
>
> サヨ より』

蓮の手が、激しく震えた。
逆だ。因果関係が逆だったのだ。

現代が過去の「情緒」を取り戻しつつある半面、サヨの生きる過去の世界は、現代の「冷徹な合理主義」に侵食され、急速に『日本人の姿をした西洋人の国』へと変貌をさせられていた。

蓮がサヨに送った現代の言葉が、百年前の日本を「汚染」してしまっている。
このままでは、サヨのいる大正十五年は、情緒も美徳も失われた、ただの「冷たい効率の街」へと変わり果て、小泉八雲の予言通り、妖精たちは完全に全滅してしまう。

3
「気づいたようだね」

背後から聞こえた声に、蓮は飛び上がった。
振り返ると、自室の窓辺に、いつの間にかあの隻眼の老人・ハーンが腰掛けていた。鍵をかけていたはずの窓が、静かに開いている。

「ハーンさん……! これは、どういうことなんですか! なぜサヨさんの世界が……!」
「世界は、天秤なのだよ、青年」

ハーンは眼帯のない方の目で、哀しげに蓮を見つめた。

「君が現代の虚しさを嘆き、過去の重みを求めた。天秤は傾き、現代にはかつての精神が戻りつつある。しかし、物理の法則は等価交換だ。あちらの世界は、君たちの世界の『便利さと軽薄さ』を引き受けざるを得なくなった」

ハーンは立ち上がり、ゆっくりと桐の木箱へと近づいた。

「このまま文通を続ければ、あちらの世界の妖精たちは死に絶える。日本人が作り上げた最高傑作である、あの時代の女性たちの心も、すべて西洋の個人主義に塗り潰されるだろう。清治という男も、効率の波に呑まれ、彼女を守る力を失う。……それが、君の望んだことかね?」

「そんなわけないだろ!」
蓮は叫んだ。
「僕は、サヨさんの心を救いたかっただけだ! すれ違いの寂しさから、彼女を……!」

「ならば、次の手紙が最後になる」

ハーンは静かに指を一本立てた。

「次の文通で、天秤の傾きは最大になる。あちらの世界に『時代の渦』──つまり、歴史の大きな転換点が訪れる。そこで君がどんな言葉を選ぶかで、日本の形が、そして彼女の運命が決まる」

「僕に、どうしろって言うんだ……」

「そろそろ、日本を取り戻そう」

ハーンは、あの時と同じ言葉を口にした。
「便利さと引き換えに、君たちが捨ててしまった『言葉の重み』を。男が女を守り、女が男を信じる、あの重かった約束事を。君自身の命を使って、証明するのさ」

そう言い残すと、激しい夜風が部屋に吹き込み、蓮は思わず目を瞑った。
次に目を開けたとき、老人の姿はどこにもなく、ただ、窓の外に広がる2026年の東京の夜景が、いつもよりほんの少しだけ、暗く、静かに佇んでいた。

蓮はスマートフォンの画面を見た。
そこには、赤く点滅する文字が浮かび上がっていた。

【緊急:最終着信まで残り7日間】
【次信、大正十五年十二月二十五日──大正の終わり、昭和の始まり】

時代の渦が、すぐそこまで迫っていた。




第四章:男の誇り、女の祈り

1
2026年12月。
蓮の生きる現代日本は、一年前とは完全に別世界に変貌していた。

スマートフォンの画面はモノクロの文字情報だけになり、リアルタイムの動画通話はおろか、簡単なメッセージを送るのにも数時間を要するようになった。街からは、いつでもどこでも誰かと繋がれる「薄っぺらな便利さ」が完全に消滅していた。

しかし、不思議なことに、街を行き交う人々の表情に、かつてのような苛立ちや空虚さはなかった。
駅の伝言板には、大切な人へ宛てた手紙のようなメッセージが丁寧な文字で書き込まれ、人々は相手が来るのを、30分でも1時間でも、穏やかな顔でじっと待っている。

「世界は遠くなった。でも、みんなが近くにいる」

拓海は、動かなくなったスマホを愛おしそうにポケットにしまいながら言った。

「なあ、レン。俺、今度の週末、ずっと好きだった子に告白しようと思うんだ。ラインじゃなくて、直接会って、目を見て言うよ。もし断られたら、それも縁がなかったって受け入れる。なんかさ、そう決めたら、一言一言をすごく大切に思えるようになったんだ」

拓海の言葉は力強く、そして優しかった。
現代の日本は、小泉八雲の言う「妖精の心」を取り戻しつつあった。失われたはずの情緒が、この国に還ってきたのだ。

だが、蓮の心は引き裂かれそうだった。
現代がこれほど優しく、美しくなるために、サヨの生きる百年前の世界は、どれほどの冷酷な合理主義を押し付けられているのだろうか。

運命の一週間が経ち、深夜十一時四十五分。
蓮は震える手で、桐の木箱の留め金を外した。

2
箱を開けた瞬間、蓮の指先に、これまでとは違う強烈な緊張感が走った。
中に入っていたのは、何十枚もの和紙ではなく、破り取られたような、たった一枚の便箋だった。
そこに書かれたサヨの文字は、毛筆ではなく、荒々しい鉛筆の跡。激しく乱れ、ところどころが涙で滲んでいた。

> 『蓮様
> 助けてください。世界が、私たちの世界が壊れてゆきます。
>
> 本日、大正天皇が崩御されました。
> 街は悲しみに包まれる間もなく、新しい『昭和』という時代の足音に掻き消されております。
>
> 恐ろしいのはそれだけではありません。
> 街の人々から、大切な人を思いやる心が、急速に消え失せているのです。
> 誰もが自分の利益だけを叫び、困っている人を誰も助けようとしません。
>
> 清治さんの働く印刷工場でも、恐ろしい事件が起きました。
> 機械の効率化によって、多くの年老いた職人たちが、明日からのパンも無いまま、一瞬でクビを切られたのです。
> 清治さんは激怒し、職人たちを守るために工場主へ掛け合いました。
> 『男が命をかけて守るべきは、機械の数字ではなく、一緒に汗を流した仲間だ!』と。
>
> 誠に、今の工場主の心は、西洋の冷たい数字に支配されていました。
> 清治さんは暴力的に工場から叩き出され、今、大勢の警察に追われています。
> 『効率を乱す危険分子』として、捕まればどんな目に遭うか分かりません。
>
> 先ほど、清治さんが私の家へ忍んでまいりました。
> 彼の服はボロボロで、傷だらけでした。私は彼の手を握り、言いました。
> 『清治さん、私はあなたを信じています。どんな時代の渦が来ようとも、私はあなたを立て、あなたについて行きます。だから、どうか誇りを捨てないで』と。
>
> 清治さんは私の目を見て、静かに微笑み、私をおだてに乗った馬鹿な男だと笑いながら、こう言ってくれました。
> 『サヨ、お前が信じてくれるなら、俺はどんなお上が相手でも、命がけでお前を守り通してみせる』
>
> そう言って、彼は私を逃がすために、囮となって夜の闇へ駆けていきました。
>
> 蓮様、これが私の愛した日本の姿です。
> 男を立てる女と、その女を守るために命をかける男。
> でも、街の空気は、彼を『無駄な存在』として圧殺しようとしています。
> 効率という怪物に、私たちの心まで喰い尽くされようとしています。
>
> すがれるものは、あなた様との、この手紙だけです。
> 私は、どうすればいいのでしょうか……。
>
> サヨ より』

手紙を読み終えた蓮の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。

大正十五年、十二月二十五日。
史実における大正の終焉のその日、サヨの世界では、現代の利己主義と合理主義という名の怪物が、人々の心を貪り食っていた。
清治は、サヨを、そして日本人が本来持っていた「誇り」を守るために、たった一人で時代の潮流と戦っている。

「俺のせいだ……」

蓮は頭を抱えた。
自分が現代の空虚さから逃げるために、彼女に言葉を送り続けた結果、サヨと清治は歴史の奈落へと突き落としされようとしている。

手元で、スマートフォンが最後の一鳴りを上げた。
画面には、真っ赤な文字でカウントダウンが表示されている。

【最終同期まで、残り3分】
【選択してください】
【A:現代の情緒を維持する(過去の均一化を確定する)】
【B:過去へすべての情緒を返還する(現代は元の冷たい世界へ戻る)】

「天秤を、どちらに傾けるかね?」

いつの間にか、部屋の窓辺にハーンが立っていた。
隻眼の老人は、悲しげな、しかし蓮の覚悟を試すような鋭い視線を投げかけている。

「Aを選べば、君のいる現代日本は、美しい『妖精の国』のまま固定される。人々は互いを思いやり、言葉は重みを取り戻す。しかし、百年前のサヨの世界は、冷徹なディストピアとなり、清治は捕らえられ、サヨの心も壊れるだろう」

「Bを選べば……?」

「サヨの世界に、本来の日本の美徳が戻る。清治は彼女を守り通す力を取り戻し、二人は激動の昭和を、気高く生き抜くことができる。……だが、君のいる現代世界は、元の『薄っぺらな箱に縛られた、冷たい効率だけの世界』へと逆戻りだ。君はまた、孤独と虚しさに怯える日々を送ることになる」

蓮はスマートフォンを見つめた。
カウントダウンの数字が、刻一刻と削られていく。

「2分……1分50秒……」

現代の日本を取り戻すのか。それとも、百年前の、自分とは直接関係のない他人の幸せを救うのか。
拓海の笑顔が脳裏をよぎる。このままAを選べば、拓海の恋も、街の優しさも守られる。自分が我慢しさえすれば、この美しい現代が手に入るのだ。

しかし、蓮の耳の奥には、サヨの悲痛な叫びが、そして清治の不器用な覚悟の言葉が、激しく響いていた。

「……男が偉かったからじゃない」

蓮は、ぽつりと呟いた。

「男を立てる女がいて、そのおだてに乗って、命がけで女を守れる男がいたから。守り通せる力が、あの時代にはあったから、日本は素晴らしかったんだ」

蓮はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いはなかった。

「ハーンさん。今の僕たちの便利さは、あの時代の人たちが、不便さと戦いながら、命がけで言葉を繋いできてくれたから、その上に成り立っているんだ。それなのに、現代の僕たちが寂しいからって理由で、彼らの心を奪っていいわけがない」

蓮は、デスクに置いた万年筆を握りしめた。
残り時間は1分を切っている。
彼は最後の便箋に、自分の魂を削るようにして、サヨへの最後の手紙を書き殴った。

『サヨさん。清治さんを、あなたの男を、どこまでも信じて立ててください。清治さん、サヨさんを、あなたの命にかえても守り通してください。
あなたたちのその強さこそが、本当の『日本』です。
僕たちの世界がどれほど冷たく、便利で、浅い場所に成り下がろうとも、あなたたちの紡いだ美しい血と心は、百年後の僕たちの心の奥底に、必ず、かすかな光として生き続けます。
だから、どうか負けないで。昭和という時代を、美しく生き抜いてください。
さようなら、僕の愛した、妖精の国の人。』

蓮は手紙を小さく折り畳むと、桐の木箱へと力強く叩き込んだ。
そして、スマートフォンの画面の【B】のボタンを、迷わずタップした。

「送信……完了」

その瞬間、世界が激しく明滅した。
眩い光が部屋を包み込み、蓮は意識を失うように、深い闇へと落ちていった。



終章:そろそろ、日本を取り戻そう

光が収まり、蓮がゆっくりと目をあけたとき、四畳半の部屋は元の冷たい静寂に包まれていた。

手元のスマートフォンが、チカチカと騒がしく震える。画面には、見慣れた、しかしどこか忌々しいカラフルな通知の山が復活していた。
「未読メッセージ34件」「新着の動画広告」「地球の裏側からの『ハロー!』のプッシュ通知」。

世界は一瞬にして、あの「薄っぺらな箱に縛られた、冷たい効率だけの現代」へと逆戻りしていた。

蓮はベッドの上に上体を起こし、真っ先に部屋の隅に目をやった。
そこには、あの古びた桐の木箱が、やはり静かに佇んでいる。

恐る恐る近づき、錆びた留め金に手をかける。カチリ、と音がして蓋を開けると──中には、もう便箋は一枚も入っていなかった。墨の匂いも、鉛筆の跡も残っていない。

ただ、木箱の底の木目に、まるで長い年月をかけて刻み込まれたかのような、小さな小さな擦り傷のような文字が、かすかに残っているのが見えた。

『ありがとう』

サヨの文字だった。毛筆でも鉛筆でもない、彼女が激動の昭和を生き抜き、天寿を全うするまでのどこかの瞬間に、愛おしそうに爪先で刻んだかのような、微かな、しかし決して消えない心の跡。

蓮は画面の中でせわしなく明滅するスマートフォンを見つめ、それから窓の外の、冷たいネオンが輝く東京の夜景を見下ろした。

街を行き交う人々は、また歩きスマホを始め、一秒の遅れにイライラしながら、記号のような言葉を消費しているのだろう。世界は近く、日本はまた、遥か遠くへ行ってしまったのかもしれない。

しかし、蓮の胸の奥にある空洞は、不思議ともう消えていた。

「サヨさん、清治さん。あなたたちが守り通してくれた心は、確かにここにあるよ」

蓮はスマートフォンをポケットにしまい、今度は自分の足で、外の街へと歩き出した。便利さと引き換えに失われてしまった言葉の重みを、今度は自分が、この現代の片隅で一言ずつ、丁寧に紡いでいくために。

手のひらの上の箱は薄っぺらくとも、そこに込める心だけは、あの重かった約束事のままで。

──『世界は近く、日本は遠く』 (完)


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あとがき

『世界は近く、日本は遠く』という題名には、私自身が日々感じている違和感を込めました。

世界中の人と簡単に繋がれるようになった今、私たちは以前よりも豊かになったのでしょうか。

それとも、何か大切なものを失ってしまったのでしょうか。

答えは、きっと一つではありません。

便利さも、技術も、人類が積み重ねてきた素晴らしい財産です。私自身もその恩恵を受けながら生きています。

けれど、ときどき思うのです。

昔の人たちが持っていた、「待つこと」「信じること」「約束を守ること」の重みは、今の私たちにも必要なのではないかと。

蓮とサヨの文通は終わりました。

しかし、彼らが繋いだ心は、きっと百年後も、さらにその先の時代にも、誰かの胸の中で生き続けるでしょう。

もし今、あなたの心の中に思い浮かぶ人がいるなら、どうかその人を大切にしてください。

手紙でも、電話でも、短いメッセージでもかまいません。

言葉は軽くなったのではなく、私たちが重く使うことを忘れてしまっただけなのかもしれません。

この物語が、そのことを少しでも思い出すきっかけになれば、とても嬉しく思います。


潮時を見極めよ

― ある男の、静かな手放し ―


まえがき

私たちはいつから、「増やすこと」ばかりを正しいと思うようになってしまったのだろう。
若さ、知識、人脈、財産、思い出。人生の前半戦において、それらは生きるための武器であり、自分という存在を形作る大切なピースだった。
しかし、人生には折り返し地点がある。
還暦を過ぎ、かつての相棒たちや愛する者が一人、また一人と舞台を去っていくとき、私たちはそれまで抱え込んできた荷物の重さに、ふと立ち止まることになる。
本書は、ある一人の元板金職人の男が過ごした、静かな半年の物語である。
彼が手放していくのは、若き日の情熱の象徴だったバイクであり、身体を焦がした波乗りの板であり、いつしか義務感に変わっていた人付き合いだ。
それらは一見、「老いへの敗北」や「諦め」のように見えるかもしれない。しかし、男が一つ荷物を降ろすたびに、その人生には不思議な、そして美しい「余白」が生まれていく。
これは寂しい物語ではない。残された限られた時間を、もう一度自分のために生き直そうとする男の、静かで誇り高き「選択」の記録である。あなたが今、人生のどの季節にいたとしても、この男の背中が、これから歩む道をやさしく照らしてくれることを願っている。




一 バイクと煙草の男

 波の音が遠ざかっていく夢を、正一はよく見る。

 目が覚めると、枕もとに煙草が一本、立ててある。誰も置いた覚えがない。灰皿の隣、いつも自分が置く位置に、まるで最初からそこにいたかのように、すっと立っている。

 田中正一、六十三歳。元板金職人。現在は年金と、月に何度かの軽作業で暮らしている。妻の節子は五年前に逝き、息子は大阪にいる。

 朝六時。正一は台所でインスタントコーヒーを淹れながら、窓の外を見る。十月の空はまだ薄暗く、隣家の屋根に雀が三羽、並んでいる。

「今日もあいつが来るかな」

 声に出して言ってから、自分が誰のことを言っているのか、少し考える。あいつ、というのは友人の健二のことだ。死んで四年になる健二の。

 正一と健二は高校からの付き合いだった。二人でバイクに乗り、二人で波乗りを覚え、二人で職人になった。健二は板金ではなく溶接を選んだが、どちらも手に職を持つ男だという点では同じだった。

 健二が死んだのは冬の朝だった。脳梗塞。布団の中で、眠るように逝った。六十歳を手前にして。

 通夜の夜、正一は健二の顔を見ながら思った。まだ早いだろう、と。お前はまだ、バイクに乗るはずだったじゃないか。波乗りだって、腰が痛えとか言いながら、まだ板を抱えて海に入るはずだったじゃないか。

 その夜から、枕もとに煙草が立つようになった。
  *  *  *

二 煙草を立てるもの

 最初は気のせいだと思った。自分が無意識に置いていると思った。しかしそれにしては、置き方が几帳面すぎた。斜めでも倒れてもいない、まっすぐに、フィルターを下にして、立っている。

 正一は煙草をやめて久しい。節子に頼まれてやめたのが二十年前。だから家には煙草などない。

 では、どこから来るのか。

 あるとき、立っている煙草のそばに耳を近づけてみた。かすかに、煙の匂いがした。ただの煙草の匂いではなく、もう少し複雑な匂い。焼けた鉄の匂いが混じったような、懐かしい匂い。

 健二はよく作業着のポケットに煙草を入れたまま溶接をしていた。煙草がほんの少し焦げるのを、あいつは気にしなかった。

「健二か」

 正一は言った。返事はなかった。ただ、カーテンが揺れた。窓は閉まっているのに。

 それ以来、正一は枕もとの煙草を「健二からの便り」と解釈することにした。解釈、というよりも、そう決めた。理屈は関係なかった。そう感じた、それだけだ。

 六十を過ぎた男は、こういうことに論理を持ち込まなくなる。理屈で割り切れないものが、人生には確かにある。それを知っているだけで、もう十分だと思うようになる。

  *  *  *

三 バイクを手放す日

 十一月の初旬、正一はバイクを売ることにした。

 ホンダのCB750。三十年前に中古で買い、ずっと乗り続けてきた一台だ。何度もエンジンを開けて、自分で直した。塗装も二度やり直した。今は艶消しの黒になっている。

 売ると決めたのは、転んだからだ。大きな転倒ではない。信号で停車するときに、左足が滑っただけだ。しかし車体を支えきれず、右側に倒れた。ゆっくりと、抵抗しながら倒れるバイクの重さが、正一の右膝に来た。

 起こすのに手こずった。若い頃なら一瞬で起こせた二百キロの鉄の塊が、正一には重かった。通りがかりの若者が手伝ってくれた。ありがとうと言いながら、正一は膝の痛みよりも別の痛みを感じていた。

 その夜、枕もとに煙草はなかった。

 翌朝も、なかった。

 正一は台所に立ちながら、そのことを考えた。健二が来ない夜が続くのは、久しぶりだった。

「売るな、ということか」

 呟いてみた。返事はない。雀もいない。空が白みはじめている。

 いや、違う、と正一は思い直した。健二が来ないのは、止めようとしているからではない。健二は止める男ではなかった。何があっても、正一の選択を笑って見ていた。お前がそうしたいなら、それでいいだろ、という顔をしていつもそこにいた。

 では、なぜ来ない。

 考えながらコーヒーを飲んでいると、ふいに気づいた。健二が来ない夜というのは、正一が迷っていない夜だ。自分の中でもう答えが出ている夜だ。

 そうか。お前は迷っている俺のところに来るのか。

 バイクを売ることは、もう決まっていた。

  *  *  *

四 業者が来た日

 バイク買取の業者が来たのは、晴れた午後だった。

 三十代の、愛想のいい男で、CB750を見るなり「これ、いい状態ですね」と言った。正一はそれが素直に嬉しかった。三十年、大事にしてきた。

 査定の間、正一は縁側に腰を下ろして庭を見ていた。節子が植えた金木犀がもう盛りを過ぎ、地面にオレンジ色の花びらが散っていた。

 業者の男が戻ってきて、金額を提示した。正一は即座に頷いた。値段の話をする気分ではなかった。

「思い切りましたね」と男は言った。「大事にされてたバイクでしょうに」

「潮時というやつだよ」

 正一は答えた。男はにこりと笑って、書類を取り出した。

 CB750が積載車に載せられていくのを、正一は玄関から見ていた。後ろ姿が遠ざかる。エンジンの音が聞こえないまま、ただ荷台の上で揺れながら消えていく。

 泣かなかった。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。かわりに、胸の中でどこかの扉が静かに閉まる音がした。

 その夜、煙草が二本、枕もとに立っていた。

 正一は少し笑った。「二本は多いだろ」と言った。カーテンが揺れた。

  *  *  *

五 海へ

 十二月に入って間もなく、正一は波乗りの板を持って海へ行った。

 最後に乗るためではない。見に行くためだ。板を抱えて砂浜に立ち、波を見る。ただそれだけのつもりだった。

 しかし海に来ると、身体が勝手に動く。ウェットスーツを着て、板を持って、波打ち際まで歩いてしまった。十二月の海は冷たかった。寒さが足首から上ってくる。

 波は小さかった。穏やかな日で、腰くらいの高さの波が、規則的に崩れていた。

 正一はしばらくそこに立っていた。

 健二と二人でここに来た日のことを思い出す。健二は上手くなかった。波に乗ろうとするたびに板から落ちて、水を飲んで、それでも笑っていた。「俺には向いてない」と言いながら、毎週来た。向いてないけど好きだ、それでいいだろ、という顔をして、毎週来た。

 波が一つ来た。

 正一は板に腹ばいになり、パドルをした。五年ぶりかもしれない。腕が重い。しかし身体は覚えている。波の引き込む感覚を、身体が覚えている。

 立てなかった。膝まで立ちかけて、板からずり落ちた。冷たい海水に沈み、鼻に水が入り、立ち上がると胸まで濡れていた。

 でも、乗った。ほんの一秒か二秒。板の上に立った。

 砂浜に戻り、ウェットスーツを脱ぎながら、正一はぼんやりと海を見た。波が来て、崩れて、消える。また来て、崩れて、消える。

「最後にしておく」

 正一は海に向かって言った。返事はない。波の音だけがある。

 しかしそう言ったとき、砂浜の先の方で、人影が一瞬揺れた気がした。振り返ると誰もいない。ただ風が砂を巻いて、その向こうに夕日が傾いていた。

 健二だろうか。わからない。でも正一は手を振った。波に向かって、あるいはそこに誰かいたかもしれない場所に向かって、一度だけ、手を振った。

  *  *  *

六 付き合いを減らすこと

 一月になって、正一は幾つかの誘いを断り始めた。

 町内会の新年会。元職場の同期の集まり。かつての取引先との飲み会。どれも悪い集まりではなかった。しかし、行くと必ず疲れた。家に帰ると、身体ではなく気持ちが磨り減っていた。

 何が疲れるのか。

 考えてみると、人の話を聞くのが疲れるのではなかった。愚痴を聞くのも、自慢話を聞くのも、それ自体はさほど苦ではない。疲れるのは、そういう話に対して適切に反応しなければならない、その義務感だった。

 うなずいて、笑って、「そうですね」と言って、「大変でしたね」と言って、「それは良かったですね」と言う。六十年以上生きてきた正一には、それが習い性になっていた。しかし還暦を過ぎてから、それがひどく消耗することに気づいた。

 ある夜、断りの電話を二本かけた後、正一は台所で缶ビールを開けた。

「お前はどうだったんだ、健二」

 声に出して聞いてみた。健二は人付き合いがよかった。誰とでも打ち解けて、場の空気を明るくした。でも、あいつも疲れることはあったはずだ。

 枕もとの煙草のことを考えながら、ビールを飲んだ。今夜は来るだろうか。

 布団に入ると、煙草が一本、立っていた。

 正一は手を伸ばして、そっと触れた。指先に冷たさと、かすかな温もりが同時にある気がした。

「お前も疲れてたんだろ」

 言うと、部屋の隅が少し明るくなった気がした。気のせいかもしれない。電柱の明かりが、窓から漏れたのかもしれない。

 でも正一には、健二が笑った気がした。そうだよ、と言っている気がした。

  *  *  *

七 手放すことと、残すこと

 二月の末、正一は押し入れの整理をした。

 節子の遺品はもう片付けてある。しかし自分の物が増えすぎていた。道具類、工具、本、レコード。三十年、四十年前のものが積み重なっていた。

 捨てるか、残すか。その判断を一つ一つしながら、正一は半日を過ごした。

 波乗りの板は、息子に送ることにした。息子は海から遠い場所に住んでいるが、いつか誰かに譲ることができるかもしれない。捨てるよりはいい。

 レコードは残すことにした。これは捨てられない。節子も好きだったものがある。健二と一緒に聴いたものもある。物が消えたって、音楽は消えない。でもレコードがなければ、この音楽とは二度と会えない。

 工具は半分処分した。もう使わない道具を取っておいても、置き場所を取るだけだ。

 夕方、全部片付け終わって、正一はぼんやりと空になった押し入れを眺めた。

 空白が怖くない。それが意外だった。むかしは物で埋めたかった。押し入れも、予定も、付き合いも。でも今は、空白がある方が、なんだか呼吸しやすい。

 人間は年を取ると、空白に慣れてくるのかもしれない。あるいは空白の意味が変わるのかもしれない。空白というのは、欠落ではなく、余白なのだと。

 その夜、枕もとに煙草はなかった。でも部屋の空気が、かすかに変わっていた。

 焼けた鉄と煙草の匂い。健二の匂い。

 正一は「ありがとう」と言った。何に対してかは、よくわからない。でも言いたかったから、言った。

  *  *  *

八 ご同輩

 三月になった。

 近所の公園で、正一は見知らぬ老人と話した。八十近い男で、ベンチに座って鳩に餌をやっていた。

「何をそんなに考えてるんだい」と老人は言った。正一が隣のベンチに座って、空を見ていたからだ。

「いや、手放すことについて、考えてました」

「手放すこと」

「ええ。色々と、手放し始めてまして」

 老人はしばらく鳩を見てから言った。

「儂もそれをやった。七十を過ぎた頃から。バイクを売って、畑をやめて、友人の集まりを減らして」

「寂しくなりませんでしたか」

「最初はな。でも途中から、これは寂しさじゃないと気づいた。荷物を降ろした感覚だと気づいた」

 正一はうなずいた。荷物を降ろす、という言葉が、ちょうど良い言葉に聞こえた。

「残りの時間を、自分のために使っていいんだよ」と老人は続けた。「それは勝手じゃない。そういう歳になった、ということだ」

 老人が立ち上がり、杖をついて歩き去った。正一は見送って、それからまた空を見た。

 春の空は、薄い青だった。雲が一つ、ゆっくりと流れていた。

 持ち時間は、こうしてる間にも減っていく。でも、何かを手放すたびに、残った時間が少し透明になっていく気がする。

 夕方、家に帰ると、台所の窓から夕日が入っていた。節子が好きだった時間だ。金色の光が、床と壁をゆっくりと染めていく。

 正一はコーヒーを淹れながら、これからのことを考えた。

 まだバイクも乗れるかもしれない。いや、乗れない。でも乗れたとしても、もう乗らない。それは敗北ではなく、ただの選択だ。身体に合わせた、身の丈の選択だ。

 波乗りも、もうしない。でも海へは行く。ただ座って、波を見る。それで十分だ。

 付き合いも、必要なものだけにする。疲れる集まりには行かない。でも本当に会いたい人とは、ちゃんと会う。

 それで、何かが失われるか。

 少し考えて、正一は思った。失われるものもあるが、残るものの方が、たしかに重い。

 布団に入ると、健二の煙草が立っていた。一本。

「お前もそう思うか」

 聞くと、カーテンが揺れた。

 正一は目を閉じた。遠くで、波の音がする。夢の中でいつも聞く、あの波の音だ。

 ゆっくりと遠ざかっていく波の音を聞きながら、正一は眠った。

  *  *  *

エピローグ 潮時

 四月の朝。

 桜が散り始めた窓の外を見ながら、正一はコーヒーを飲んでいた。

 今日は息子から電話が来る予定だ。正一が板を送ったことに、息子が礼を言ってきた。なぜ送ったかは聞かなかった。息子はそういう男だ。聞かずに受け取る。それが正一には嬉しかった。

 今朝の枕もとに、煙草はなかった。

 最後に立っていたのは、いつだっただろう。もう一週間ほど来ていない。

 正一はそのことを寂しいとは思わなかった。健二はきっと、もう来なくていいと思ったのだ。正一が迷わなくなったから、もう来る必要がないと思ったのだ。

 それでいい。

 それが健二らしい。

 花びらが一枚、窓を流れた。薄いピンクが、春の光の中でゆっくりと落ちていく。

 正一は窓を開けた。四月の朝の空気が入ってきた。まだ少し冷たく、しかしもう春の匂いがした。

「潮時、というやつだよ」

 声に出して言った。誰もいない台所に、声が消えた。

 でも消える前に、ほんの一瞬、焼けた鉄と煙草の匂いがした気がした。

 正一は窓の外に向かって、一度だけうなずいた。

 桜が散り続けていた。






  *  *  *




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あとがき

本作は、ある素晴らしい詩との出会いから生まれた。
そこには、還暦を越えた男が自らの衰えを受け入れ、ハードな遊びや厄介な付き合いから手を引いていく覚悟が、淡々と、しかし力強く綴られていた。最後に添えられた「そんなことだよ ご同輩」という言葉に、私は救われるような、背中を押されるような感覚を覚えた。
私たちは、何かを辞めたり諦めたりすることに、どうしても罪悪感を抱きがちだ。まだ頑張れるのではないか、ここで引いたら負けなのではないかと、自分を追い詰めてしまう。
しかし、この詩が教えてくれたのは、「潮時を見極めること」は敗北ではなく、限られた持ち時間を自分のために使うための、きわめて理性的で贅沢な決断なのだということだ。
小説化にあたり、正一という男の傍らに、あえて「目に見えない相棒」を配した。職人として共に生きた親友の気配は、正一が自らの人生を整理していく上での、無言の肯定者である。人は一人で生まれ、一人で死んでいくが、心の中に響く「あいつの声」がある限り、決して本当の意味で孤独にはならない。
押し入れを空にした正一が呟いた「空白は欠落ではなく、余白なのだ」という言葉は、そのまま、この物語を通して私が読者の皆様に届けたかった想いでもある。
最後に、この物語の種を撒いてくださった原詩の作者に、心からの敬意と感謝を捧げます。桜の散る春の朝、正一が感じたあの爽やかな風が、皆様の心にも届きますように。




【原詩】

潮時を見極めよ

還暦を越したら
男は
そろそろ潮時を考えねばならない

まずはハードな遊びから

バイク
波乗り
それから
それから… と

そして
あれこれの付き合いをも
そろそろ潮時かと
減らしてしまおう

面倒な
厄介な
苦手な 連中…

背負う必要など
ない

時間は刻々と進み
身体もまた
仕方なくも劣る

永遠など
どこにもなく

すべては
有限なのだ

持ち時間は
こうしてる間にも
急ぎ足で
減って行く

もう
自分の為にと
割り切っても良い

そんなことだよ
ご同輩…



『ストレスフリー』

――あるいは、消えていく男の奇妙な冒険――

田中孝雄(六十二歳、元・営業部長、現在・ほぼ透明)著


まえがき


私たちはいつから、これほど多くの「つながり」を背負い込むようになったのだろうか。

三十八年間、会社という組織の中で営業一筋に生きてきた。名刺を配り、名前を覚え、夜の街で頭を下げ、人間関係という名の「財産」を必死に築き上げてきた。だが、定年退職を迎えた翌朝、手元に残ったのは静寂だけだった。あの賑やかな日々は、財産などではなく、会社から借りていた「レンタル品」に過ぎなかったのだ。

スマートフォンに残された無数の連絡先を、一つ、また一つと削除していく。

ボタンを押すたびに胸の奥の風船が弾け、心が軽くなっていく。

だが、それと引き換えに、私の「身体」にある奇妙な変化が起き始めた――。

これは、不要なものをすべて手放した男が、少しずつ透明になりながら「本当の豊かさ」を見つけるまでの、お気楽で、少し不思議な冒険の記録である。






第一章 排除の朝

田中孝雄(六十二歳、無職、元・株式会社ミナミ産業営業部長)がスマートフォンの「連絡先削除」ボタンを初めて押したのは、退職から三日目の火曜日の朝、午前九時十七分のことだった。


「鈴木課長」

削除。


「佐々木部長」

削除。


「山田常務」

削除。


「大口取引先・荒木商事・荒木社長」

削除。


ボタンを押すたびに、孝雄の胸の奥で何かが「ぽん」と弾けるような感覚があった。風船が割れるような、あるいは長年詰まっていた排水管がようやく通じたような、そういう感覚だ。


妻の久子(五十九歳、主婦、趣味はガーデニングと韓国ドラマ)は、テーブルの向かいでトーストをかじりながら、夫の様子をちらちらと観察していた。


「あなた、大丈夫?」

「ん?」

「なんか、顔が……」

「顔が?」

「ちょっと薄くなってきてる気がするんだけど」


孝雄は自分の頬をさわった。確かに、何かが薄れている気がしないでもなかった。しかし退職したばかりの解放感からくる錯覚だろうと思い、気にしなかった。


「気のせいだろ。ほら、これで鈴木も消えた」

「鈴木って誰?」

「……俺にも、もうわからん」


それが、すべての始まりだった。




田中孝雄は、三十八年間にわたって株式会社ミナミ産業に勤めた。営業一筋。新卒で入社し、気づけば部長になり、気づけば六十二歳になっていた。


在職中の名刺の枚数は、本人の試算によれば生涯累計で八千七百枚を超える。受け取った名刺を合わせれば、おそらく一万二千枚に達するだろう。会食の数は数えていない。数えたら発狂すると思ったからだ。


「人間関係は財産だ」と、かつて上司に言われた。


財産。


孝雄はその言葉を三十八年間信じてきた。しかし退職パーティーの翌朝、誰からも電話がかかってこず、誰からもメールが来ず、ただ朝の光の中でぽつんとコーヒーを飲んでいると、その「財産」とやらが一体何だったのかが、急にわからなくなった。


財産というものは、普通、持ち続けることができる。


しかし「営業部長・田中孝雄」という肩書きがなくなった途端、あれほど頻繁に連絡をくれていた人たちが、まるで潮が引くように消えていった。


「これはつまり」と孝雄はコーヒーをすすりながら考えた。「財産ではなく、レンタルだったということか」


三十八年間のレンタル料は、給料という形で払ってもらっていた。


そういうことか。


孝雄はスマートフォンを手に取り、連絡先を開いた。そして、一つひとつ、丁寧に、しかし容赦なく、削除を始めた。




削除は、三日間続いた。


連絡先だけではない。SNSのフォロワー。メーリングリスト。ゴルフ仲間のグループチャット。業界の勉強会のメーリングリスト。地域の商工会のLINEグループ。同期入社の飲み会グループ(ここ五年で三人しか書き込んでいなかった)。


ゴルフそのものも、考えてみれば接待のためにやっていた。好きでも嫌いでもなかった。ただ、やらないと失礼にあたる人間関係があったから、やっていた。


では、その人間関係は好きだったか。


……否。


であれば、ゴルフも不要だ。


ゴルフクラブを四本、メルカリに出品した。二日で売れた。


趣味と称してやっていた釣りも、実は釣り仲間の中に重要な取引先が二人いたからだった。その二人も今は連絡先から消えている。釣りをする理由がなくなった。釣り具一式もメルカリに出した。


「あなた、ずいぶん身軽になるのね」と久子が言った。

「身軽が一番だ」と孝雄は言った。




四日目の朝。


孝雄は洗面台の前に立ち、鏡を見た。


「…………」


鏡の中の自分が、明らかに薄かった。


薄い、というのは、体が細くなったとかそういうことではない。存在が、薄い。輪郭が、心なしかぼんやりとしている。半透明とまでは言わないが、一段階か二段階、透明度が増している感じがある。


孝雄は鏡に顔を近づけ、自分の目を見た。


目はある。鼻もある。口もある。しかしそれらが集まって「田中孝雄」を形成しているはずなのに、なんというか、「田中孝雄っぽい何か」にしか見えない。


久子を呼んだ。


「ちょっと来てくれ。俺の顔、変じゃないか」


久子が洗面台を覗き込んで、しばらく黙った。


「……変と言えば変ね」

「だろ?」

「なんか、うっすらしてる」

「だよな」


「でも、気にしなくていいんじゃない?」と久子は言って、台所に戻った。「あなた、ずっと無理してたんだから。体が休んでるのよ。本来の薄さに戻ってるだけよ」


「本来の薄さって何だ」

「さあ」


孝雄は鏡の前でしばらく立ち尽くした。


第二章 近所の変人と不思議な理論

孝雄の家から徒歩三分のところに、松岡仙太郎(七十四歳、元・大学教授、専門は量子物理学)という人物が住んでいた。


孝雄と松岡が知り合ったのは五年前で、ゴミ出しの曜日を間違えた孝雄に松岡が声をかけたことがきっかけだった。以来、ときどき顔を合わせると立ち話をする程度の関係が続いていた。


孝雄が連絡先の大掃除をしていたとき、松岡の名前が画面に現れた。孝雄は親指をしばらくその名前の上に置いたまま、考えた。


松岡という男は、正直言って変わっている。趣味は「宇宙について考えること」で、話しかけると大抵どこかへ行ってしまったような目をしている。実用的な話はほぼできない。会食にも呼べない。商売の役にも立たない。


では、なぜ削除しないのか。


孝雄はその問いの答えを三秒で見つけた。


——面白いから、だ。


松岡の話は、よくわからないけれど、面白い。それだけだ。損得の外側にある理由。孝雄は初めて、純粋な理由で誰かの連絡先を残した。


その翌日、孝雄は松岡の家を訪ねた。


「少し相談があって」

「どうぞどうぞ」と松岡は言って、散らかり放題の居間に孝雄を通した。テーブルの上には物理学の本と将棋の駒と、なぜかバナナの皮が三枚あった。「お茶でいいですか。紅茶は切れてまして」

「何でも」

「では水で」

「……お構いなく」


二人は向かい合って座った。


「顔色が悪いですな」と松岡は言った。

「悪いというか、薄い気がしてるんです」と孝雄は言った。

「薄い?」

「うっすら、こう、透き通ってきてる感じがして」


松岡は眼鏡を外し、孝雄の顔をまじまじと見た。外した眼鏡をテーブルに置いて、今度は眼鏡なしでまじまじと見た。そして眼鏡をかけ直して、首をかしげた。


「確かに」

「でしょう?」

「うっすらしてますな」

「なぜだと思いますか」


松岡はしばらく考えた。本当に考えているのか、どこかへ行ってしまっているのか判断しがたい沈黙が三分ほど続いた後、松岡は言った。


「社会的存在としての密度が下がっているんじゃないですかな」


「社会的存在としての密度」


「人間というのはですね、物理的な体だけで存在しているわけじゃない。他者との関係性の中に、一種の……なんというか、社会的質量とでも呼ぶべきものがある。あなたは三十八年間、膨大な人間関係の中で生きてきた。その関係が急激になくなると、社会的質量が一気に軽くなる」


「それが、薄さとして現れる?」

「可能性はある」と松岡はバナナの皮を一枚どかした。「ただしこれは私の仮説であって、論文にはなっていない。というか、する気もない」

「それは……信憑性が?」

「信憑性の問題ではなく、面倒だからです」


孝雄は少し考えた。


「でも、俺はそれで良い気がしてるんです。薄くなるなら薄くなるで」

「はあ」

「ストレスがなくなって、楽になってる。それと引き換えに少し薄くなるなら、まあ、いいかなって」


松岡はしばらく孝雄を見た。


「……健全ですな」と松岡は言った。「しかし、あまり急激に薄くなると、消えるかもしれませんよ」


「消える?」

「完全に」


孝雄は思わず自分の手を見た。確かに、少しだけ向こうが透けて見える気がした。




帰り道、孝雄はコンビニに寄った。


レジに並んでいると、後ろの客がずかずかと前に出てきて、孝雄を押しのけようとした。


「あ、すみません、私が先に——」


しかし相手は孝雄の方を見ようともせず、まるで孝雄がそこにいないかのようにレジに進んだ。レジの店員も、孝雄に気づかなかった。


孝雄は呆然として、自動ドアの前に立った。試しに手を振ってみた。誰も振り向かなかった。


「……本格的に薄くなってきてるな」


孝雄はコンビニを出た。商品は買えなかったが、なぜかあまり気にならなかった。


第三章 ストレスフリー協会

ある日の午後、孝雄は近所の公民館の掲示板を見ていて、一枚のチラシを見つけた。


【第七回 ストレスフリー友の会 定例会のご案内】
日時:毎週月曜日 午後二時〜四時
場所:公民館 第三集会室
どなたでも参加可能(無料)
ストレスを手放した仲間と語らいましょう


孝雄は少し考えてから、参加することにした。


第三集会室を開けると、パイプ椅子が円形に並んでいて、五人の人間が座っていた。


正確に言うと、五人分の椅子に何かが座っていた。


というのも、全員がぼんやりと薄かったからだ。全員の輪郭が半透明で、向こう側の壁がうっすら透けて見えた。孝雄より薄い人もいれば、孝雄とほぼ同じくらいの薄さの人もいた。


一番薄い人に至っては、ほぼ見えなかった。


「あら、新しい方?」と、比較的濃い(といっても六十パーセントくらいの密度しかないが)女性が言った。「どうぞ、座ってください」


孝雄は空いている椅子に座った。


「田中と申します」

「私は西村です」と女性は言った。「元・小学校教師。六年前に退職して、以来ずっと薄くなり続けています」

「私は伊藤」と隣の男性が言った。六十代後半に見えた。「元・銀行員。定年後に人間関係をすべて整理したら、半年でここまで薄くなった」

「倉田です」とさらに隣の男性が言った。「元・広告代理店。薄さで言えば、ここで二番目です」


「一番は?」と孝雄は聞いた。


全員が一番薄い椅子の方向を見た。


椅子には何かが座っているようだったが、もはや形がほとんど確認できなかった。


「高橋さん」と西村が言った。「元・商社マン。連絡先を四百件削除してから急激に薄くなって、今では声しか聞こえません」


「存在しているんですか?」

「存在しています」とほとんど見えない椅子の方向から声がした。「ただ、もう鏡には映らなくなりました」

「それは……困りませんか」

「困りません」と高橋(推定)は言った。「むしろ快適です。信号待ちで他人に押されることもないし、電車で席を譲るよう圧力をかけられることもない。満員電車でも空間ができます」

「それは……たしかに快適ですね」

「ただ、スーパーのレジが使えなくなりました。セルフレジでも、カメラに映らないので認識されない」

「それは困りそうですね」

「ネットスーパーにしました。配達の人は玄関に置いていってくれるので、顔を見られることもない。完璧です」


孝雄はしばらく高橋(推定)の話を聞いて、なるほどと思った。なるほどと思ったが、そこまでいくのも少し行き過ぎな気がした。


「あの、皆さん、薄くなること自体は……気にしていないんですか」

「気にしていません」と全員が口を揃えて言った。


「でも、消えてしまったら?」

「それもまあ」と伊藤が言った。「いいんじゃないですか」

「そういうものですか」


「そういうものですよ」と西村が言った。「ストレスというのは、他者との摩擦から生まれる。摩擦を減らせば減らすほど、存在の輪郭がなくなっていく。でも、輪郭というのは、突き詰めれば他者のための情報なんです。他者が私を認識するための境界線。その境界線がなくなっても、私の内側は何も変わらない」


「哲学的ですね」

「物理的でもあります」と西村は言って、少し笑った。笑うと輪郭が少し濃くなったように見えた。


孝雄はその日から、毎週月曜日の「ストレスフリー友の会」に通うようになった。


第四章 名刺のない男

問題が起きたのは、孝雄が友の会に通い始めてから一ヶ月が経った頃のことだった。


久子が孝雄を呼んだ。


「あなた、ちょっと来て」


台所に行くと、久子がシンクの前で神妙な顔をしていた。


「どうした」

「さっき、ジュースを作ろうとして、ミキサーをかけたら……」

「ミキサー?」

「あなたがそこに立ってたのに、ミキサーのスイッチが入っちゃったのよ」

「それは危なかったな」

「違うの。あなたが半透明になってるから、私、あなたに気づかなかったの。人がいると思ってなかったの」


孝雄は考えた。


「それはつまり、俺がだいぶ薄くなってるということか」

「だいぶどころか、ほぼ見えないわよ」


孝雄は自分の手を見た。確かに、ほぼ透けていた。台所のタイルの模様が、手の向こうに見えた。


「まあ、気をつける」

「気をつけるって何を?」と久子が言った。「私はね、正直言って怖い。あなたが消えてしまうんじゃないかって」


孝雄は少し考えた。


「消えたら、どうなると思う?」

「知らないわよ」

「俺も知らない。でも、高橋さんは消える手前でも、ちゃんと喋ってたし、快適そうだった」

「あなたはそれでいいの?」


孝雄は窓の外を見た。公園の木が、風に揺れていた。葉の一枚一枚が、光を受けてきらきらしていた。


「わからない」と孝雄は正直に言った。「でも、今、すごく楽なんだ。三十八年間で、こんなに楽になったのは初めてかもしれない」


久子はしばらく黙っていた。


「そうね」と久子はやがて言った。「あなた、ずっと辛そうだったものね」

「そうだったか?」

「そうよ。私には見えてたわ」


孝雄は少し驚いた。久子が孝雄のことを見ていたとは、あまり意識したことがなかった。


「ありがとう」

「でもね」と久子は言った。「完全に消えないでほしいの。見えなくなっても、そこにいてほしいの。声だけでもいいから」

「それは……なんか、怖い話だな」

「あなたが言うな」


二人は台所で少し笑った。




その夜、孝雄は書いた。


退職してから詩を書くようになっていた。理由はわからない。ただ、書きたかったから書いた。


それだけの理由で何かをするのは、子供の頃以来だったかもしれない。


書いた詩は、誰にも見せなかった。出版する気もなかった。ただ、書いた。書いて、満足した。それだけだった。


第五章 増えてくるものたち

ある日の午後、公民館からの帰り道、孝雄はベンチに座っている老人に声をかけられた。


「あんた、かなり薄いな」


孝雄が振り向くと、そこには九十歳近いと思われる老人がいた。しかしその老人は、孝雄よりもさらに薄かった。ほぼ見えなかった。声だけが聞こえた。


「ずいぶん薄いですね、あなたも」と孝雄は言った。

「わしは十二年前から薄くなり始めてな」と老人は言った。「今じゃ、影も映らん」

「影も……」

「代わりに、よく見えるようになった」

「何が?」

「いろんなものが」と老人は言った。「薄くなると、見えなかったものが見えてくる。濃い人間には見えないものがな」


「たとえば?」


「ほら、あそこ」


老人が指差す方向を見たが、孝雄には何も見えなかった。


「何もないですよ」

「まだ薄さが足りんな」と老人は言った。「もう少し薄くなれば、見える。焦らんでいい。薄くなるのは、急いでするもんじゃない」

「アドバイスありがとうございます」

「礼はいい。どうせわしの声も、もうすぐ聞こえなくなるじゃろうし」


孝雄は老人のいたベンチをもう一度見た。すでに何もなかった。


消えたのか、それとも最初からいなかったのか、孝雄には判断できなかった。


第六章 消える前夜

「ストレスフリー友の会」の仲間、高橋(推定)が完全に消えたのは、十月の半ばのことだった。


正確に言うと、消えたのかどうかが確認できなかった、ということだ。会に来なくなった。電話しても出なかった。しかし声も聞こえなくなった。


「消えちゃったのかしら」と西村が言った。

「消えたと言うより、別の次元に行ったのかもしれない」と伊藤が言った。

「あの老人が言ってた話に近いかもな」と孝雄は言った。


高橋の空白の椅子を見ながら、しかし誰もそれほど悲しんでいるようではなかった。不思議と思ったが、孝雄自身も、それほど悲しくはなかった。


人が消えることへの恐怖が、薄さに比例して薄まるのかもしれなかった。




その夜、孝雄は夢を見た。


夢の中で、孝雄は完全に透明だった。体が見えなかった。しかし確かにそこに存在していた。


夢の中の世界は、孝雄が今まで見たことのない色をしていた。木の緑が、現実よりも鮮やかだった。空の青が、現実よりも深かった。土の匂いが、現実よりも濃かった。


そして、夢の中に人々がいた。みんな薄かった。みんな半透明で、みんな、どこかほっとした顔をしていた。


「田中さん」と誰かが言った。


孝雄が振り向くと、高橋がいた。高橋は完全に透明だったが、しかし確かにそこにいた。輪郭は見えないが、存在はわかる。不思議な話だが、夢の中ではそれが当たり前のことのように思えた。


「消えたんですか?」と孝雄は聞いた。

「消えたというか」と高橋は言った。「密度が変わりました」

「密度が?」

「濃い世界から、薄い世界に移っただけです。なくなったわけじゃない」

「ここは、どこですか」

「さあ」と高橋は言った。「名前はまだわかりません。でも、快適ですよ。信号待ちで押されることも、ここにはありません」

「それは前から聞きました」と孝雄は笑った。

「田中さんも、もうすぐ来ますか?」


孝雄は考えた。


「まだ来ない気がする」と孝雄は言った。「久子に、声だけでもそこにいてほしいと言われたから」

「奥さんが?」

「ああ」

「それは」と高橋は言った。「いい理由ですね」


孝雄は目が覚めた。朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


第七章 増える必要のないもの

翌朝、孝雄は台所でコーヒーを淹れた。


久子が起きてきた。


「あなた、ずいぶん……」と久子は言いかけて止まった。

「薄いか?」

「うん。でも」久子はじっと孝雄を見た。「なんか、目が、前よりはっきりしてる」

「目が?」

「目だけ、くっきりしてる。体は薄いのに、目だけ妙に存在感がある」


孝雄は洗面台の鏡を見に行った。久子の言う通りだった。体はほとんど透けていたが、目だけが、異様にはっきりしていた。


「松岡さんに聞いてみよう」と孝雄は言った。




松岡の家を訪ねると、松岡は縁側に座って空を見ていた。


「おお、田中さん」と松岡は言った。「かなり薄くなりましたな。目だけ濃い」

「それを聞きに来ました」

「座りなさい」


縁側に並んで座った。秋の空が、高かった。


「目だけ濃い理由は」と松岡は言った。「見ているからじゃないですかな」

「見ている?」

「社会的な密度が下がると、外側の輪郭は薄くなる。しかし内側——つまり意識や感覚——は、むしろ鋭くなる。あなたは今、今まで以上によく見えているはずだ。よく聞こえているはずだ。よく感じているはずだ」


孝雄は、確かにそうだと思った。コーヒーの味。木の葉の色。久子の声のトーン。今まで気づいていなかったものが、次々と目に入るようになっていた。


「ストレスが雑音だったんですかね」と孝雄は言った。「それが消えたら、本来の感度に戻った?」

「その表現は正確かもしれない」と松岡は言った。「あるいは、もともとそういう人だったのが、三十八年間、雑音で覆われていただけかもしれない」


孝雄は空を見た。


「新たなものを増やす必要はないと気づいた」と孝雄は言った。「今持っているもので、十分だと」

「ほう」

「でも、それは貧しいことじゃなくて……」孝雄は言葉を探した。「むしろ豊かなことな気がして。本当に必要なものだけが残ると、それぞれがものすごくくっきり見える」

「目だけ濃い、ということですな」と松岡は言った。

「そうかもしれない」


二人は縁側で黙って空を見た。雲が流れた。鳥が鳴いた。


松岡は急に立ち上がり、台所に行って、湯のみを二つ持ってきた。

「お茶にしますか。さっき買いました、緑茶」

「ありがとうございます」

「水より美味しい」


お茶が、美味しかった。


第八章 友というもの

十一月になった。


「ストレスフリー友の会」の定例会で、孝雄は一つのことを提案した。


「今日は、各自が今持っている、本当に大切なものを話しませんか。排除したものではなくて、残ったものを」


全員がしばらく考えた。


「妻」と伊藤が言った。

「孫」と倉田が言った。

「朝のコーヒー」と西村が言った。

「公園の桜」と誰か(ほぼ見えない人)が言った。

「松岡さんとのお茶」と孝雄は言った。


しばらく沈黙があった。その沈黙は、不快ではなかった。むしろ心地よかった。薄い人間たちが集まる部屋の、静かで透明な沈黙。


「田中さん」と西村が言った。「最初に来た時より、目が輝いてます」

「体は透けてますが」と孝雄は言った。

「それでいいんです」と西村は笑った。「体が透けて、目が輝く。それが私たちの完成形なのかもしれない」

「完成形って言うと、ちょっと大げさですが」

「大げさがちょうどいいんです。薄くなってる私たちには」


全員が笑った。笑い声だけが、部屋に満ちた。


第九章 ご同輩

ある日曜日の午後。


孝雄は、かつての同期入社の友人、木村(同い年、元・製造部長、退職は孝雄より半年早い)から電話をもらった。


木村は孝雄が「連絡先の大掃除」をしたとき、悩みに悩んで残した数少ない一人だった。損得の外側に残せた相手。


「よう、田中。元気か」

「まあ、そこそこ」と孝雄は言った。「最近、少し薄くなってるけど」

「俺もだよ」と木村は言った。「なんか、うっすらしてきてな」

「そうか」

「悩んだんだが、まあいいかと思って」

「それが正解だと思う」


「退職したら、すごく楽になったわ。もう怒鳴る上司もいないし、無理な数字も追わなくていいし」

「わかる」


「でもな」と木村は少し声を落とした。「ちょっと寂しくもあってな。お前みたいに詩を書くとか、そういう趣味も俺にはないし」


「詩は、なんとなく書き始めただけだよ」

「羨ましいよ。でも俺には書けない気がして。なんか、表現する自分がよくわからなくて」


孝雄は少し考えた。


「それで、いいんじゃないか」と孝雄は言った。「表現するだけが全部じゃないと思うし。木村は今、毎日何してる?」

「散歩」と木村は言った。「毎朝、一時間くらい歩いてる。それだけ」

「それだけで、いいじゃないか」

「それだけじゃ、何も残らないぞ」

「残すために生きてるわけじゃないだろ」


沈黙があった。


「……そうか」と木村は言った。「そうだな」

「散歩、気持ちいいか」

「気持ちいい」

「それで十分だよ、ご同輩」


木村が笑った。


「お前、なんか変わったな」

「薄くなったからかな」

「そうかもな。じゃあまた飲もうや。どうせ二人とも薄いから、互いに見えないかもしれないけど」

「声は聞こえるから、大丈夫だ」


電話を切った後、孝雄は窓の外を見た。夕暮れが近かった。空がオレンジと紫に染まっていた。


こんなに夕焼けが美しかっただろうか。毎日見ていたはずなのに、一度も気づいていなかった。


第十章 ストレスフリー

十二月になった。


孝雄の体は、ほぼ完全に透けていた。しかし目だけは、鮮やかだった。


久子は孝雄の居場所を音で確認するようになっていた。コーヒーを淹れる音。新聞をめくる音。窓を開ける音。詩を書くときのペンの音。


「あなた、そこにいる?」と久子は時々確認した。

「いる」と孝雄は答えた。

「良かった」と久子は言った。


それだけだった。それだけで、十分だった。




「ストレスフリー友の会」の仲間は、今や全員がほぼ透けていた。集会室に行くと、声だけが飛び交った。


「今日は天気が良いですな」

「鍋の季節ですね」

「夫が紅葉を見に行こうと言って」

「孫が就職するらしくて」


話すことは、小さいことばかりだった。大きいことは何もなかった。しかし会が終わると、全員が少し軽くなったような声で帰っていった。


孝雄は最後に部屋を出ながら、ふと思った。


百人いた知り合いが、十人に減った。


いや、「知り合い」が減って、「友」だけが残った。


友の数は少ない。しかしその少なさが、逆にそれぞれの存在を際立たせた。


少ない光の方が、それぞれの光が見える。




大晦日の夜、孝雄と久子は二人で紅白歌合戦を見た。


正確に言うと、久子が見て、孝雄はその隣に座っていた。孝雄がいることは、久子にはわかった。体温がある(透けていても、体温は残っていた)。息の音がある。ときどき「あれは懐かしいな」と言う。


「来年も、こんな感じかしらね」と久子は言った。

「たぶん」と孝雄は言った。「少し薄くなってるかもしれないけど」

「そうね」と久子は言った。「でも、来年の紅白も一緒に見ましょうね」

「ああ」

「声だけになっても?」

「声だけになっても」

「約束よ」

「約束だ」


二人は紅白を見た。年が明けた。


孝雄の体は、ほぼ見えなかった。しかし久子の隣に、確かに存在していた。


それで、十分だった。


エピローグ 春

翌年の春、「ストレスフリー友の会」に新しい人が来た。


六十代前半に見えた。まだ輪郭がしっかりしていて、体も透けていなかった。


しかし顔に、あの感じがあった。退職したばかりの、解放感と戸惑いが混在した、あの感じ。


「田中と申します」と孝雄の声が集会室に響いた。

「え?」と新しい人が言った。「どちらに?」

「ここに」と孝雄は言った。「見えませんか」

「……見えません」

「それはご不便を」と孝雄は言った。「まあ、慣れます。座ってください。歓迎します」


新しい人は、少し迷ってから、空いている椅子に座った。


そして、全員の声だけが飛び交う集会室を、不思議そうに見回した。


「皆さん、みんな……透けてるんですか」

「透けています」と西村の声がした。

「なぜ?」

「ストレスを排除したからです」と伊藤の声がした。

「そんな理由で?」

「そんな理由でです」と孝雄は言った。「でも、薄くなるのは、そんなに悪くないですよ。見えなくなる代わりに、よく見えるようになる」

「……どういうことですか」

「まあ、追々わかります」


新しい人はしばらく黙っていた。そして、「この会費はいくらですか」と聞いた。


「無料です」と全員の声が揃った。


「そうですか」と新しい人は言った。「それは良かった」


窓の外で、桜が咲いていた。


透けた人たちには、桜の花びら一枚一枚の色が、くっきりと見えた。


濃い体を持つ人々には、なかなか見えない色だった。


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あとがき

この物語は、一本の小さな「引き算」のアイデアから生まれました。
現代社会は常に「足すこと」を求めてきます。友達の数、フォロワーの数、所有するモノの量、肩書きの重さ。しかし、それらをすべて削ぎ落とした後に残る「剥き出しの自分」とは、一体どんな姿をしているのだろうか。そんな疑問が、田中孝雄という「消えていく男」を生み出しました。
彼が透明になるにつれて、世界の色彩が鮮やかになっていく描写は、私たちが日々のストレス(雑音)によって、いかに多くの美しいものを見落としているかという裏返しでもあります。
身体が透けても、声だけでつながり、そこにいると信じてくれる妻や友がいる。それだけで、人生は十分に「ストレスフリー」なのだと、この物語を通して感じていただけたなら幸いです。
ご同輩、私たちの人生、薄くなってからが本番かもしれませんよ。


著者・田中孝雄(を演じた書き手)より






〜おまけ〜  


ー65歳の誕生日に書いた原詩ー


ストレスフリー


リタイアと同時に

目の前にいた

多くの

すべての

ストレスを排除した


面倒なやつ

嫌なやつ

うるさいやつ

苦手なやつ…


仕事を離れ

仕事でだけの付き合いを

排除した


いくつかの遊びを辞めて

その遊びでだけの付き合いも

排除した


スマホに残る

不要なあれこれも

すべて排除した


すると

本当に必要なものだけが残り


それからの時間

それだけあれば

足りることを知った


そしてまた

新たなものを

増やす必要すらないことにも

気付いた


100人いた友達は

10人にも減り


いや

友達ではなく

きっと

知り合いだったのだろう


でも

それで良いと決めたら

楽になった


もう名刺はない

もう肩書きもない


あるのは

リアルな自分だけで

嘘偽りなく

目の前のあなたと接することが

出来る


それを

認めてくれるならば

そして

あなたを認めたならば


わずかな持ち時間の中

友となれるのだろう


ご同輩

そんなことだよ


『無目的のインク』

――そちら側を見ないための十四篇



まえがき

私たちはいつから、これほど「意味」を求めるようになってしまったのだろう。

一歩歩けば成果を問われ、立ち止まれば他者に追い抜かれる。スマートフォンの画面の向こうからは、常に誰かの「進歩」が私たちを急き立てる。まるで、何かを生み出さない時間には、生きる価値などないと言わんばかりに。

本書『無目的のインク』は、そんな息苦しい「そちら側」の視線から、そっと目を逸らすために編まれた十四の断章である。

ここにある物語は、あなたの生活の役には立たない。明日の仕事のヒントもなければ、人生を好転させるアドバイスも書かれていない。ただ、目的をなくしたインクが紙に染み込んでいくような、静かな時間があるだけだ。

もしあなたが今、誰かを追い越すことに、あるいは誰かに追い越されることに、いささかくたびれてしまっているのなら。
どうぞ、この本を開いている間だけは、どこへも辿り着かない列車の旅を楽しんでいただきたい。




第一章:遅延するプラットホーム

その日、ハルが乗った快速列車は、定刻通りに走っているはずだった。

窓の外には見慣れたビル群や、灰色に沈んだ住宅街が流れていた。しかし、ふと気づくと、吊り革を掴む乗客たちの顔から一切の表情が消え失せていた。スマートフォンを覗き込む指先も、雑誌をめくる手も、完全に静止している。動いているのは、ハル自身と、車窓の景色だけだった。

「次はいずこ、いずこでございます」

車内アナウンスの声は低く、どこか歪んでいた。列車が速度を落とし、滑り込んだのは、見たこともない木造の古いホームだった。駅名標には何も書かれていない。ただ白く塗られた板が、寒々とした街灯に照らされている。

ハルは弾かれたように列車を降りた。彼が足を一歩ホームに踏み出した瞬間、背後でドアが閉まり、列車は音もなく闇の向こうへ走り去っていった。

改札口らしき場所には、古びた外套をまとった老人が一人、小さな木製の机を前にして座っていた。老人は大きな分厚いノートを広げ、万年筆で熱心に何かを書き殴っている。カリカリ、カリカリと、夜の静寂にペン先の手応えだけが響く。

「あの、すみません」ハルは声をかけた。「ここは、どこ行きの路線の、何という駅ですか」

老人はペンを止めず、顔も上げないまま、掠れた声で答えた。

「ここは、どこでもない場所だよ。意味などなく、どこにも辿り着きもしない。ましてや、君たちが大好きな『進歩』などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ」

「戻る列車は、いつ来ますか」

「さあね。戻りたいと思っている間は、次の列車は停まらない。ここは、目的を忘れた者、あるいは目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる終着駅なのだから」

老人の万年筆がインクを切らし、かすれた音を立てた。老人はようやく顔を上げ、深い皺の刻まれた目でハルをじっと見つめた。

「もしや君も、誰かを追い越したり、誰かに追い越されたりすることに、いささかくたびれた口かね?」

ハルは都会での生活を思い返した。彼の毎日は、目に見えない無数の「物差し」に縛られていた。社内での営業成績、資格試験の進捗、SNSに投稿した写真につく『いいね』の数。常に右肩上がりのグラフを求められ、歩みを止めることは悪だと教え込まれてきた。

一歩でも立ち止まれば、たちまち背後から迫る他者に追い抜かれ、脱落者の烙印を押される――そんな強迫観念が、ハルの胃をいつもきりきりと痛ませていた。

しかし、この静まり返った駅には、そのどれもが存在しないように見えた。空気はひんやりとして心地よく、急き立てるような時計の針の音も聞こえない。勝ちもなく、負けもなく、そもそも比べる対象となる他者がどこにも見当たらなかった。

第二章:境界線のそちら側

駅の外には、薄い霧に包まれた静かな街が広がっていた。街と言っても、まばらに平屋の家々が並んでいるだけで、商店もなければ信号機もない。住人たちはみな、思い思いの場所で、奇妙なほど脈絡のない行動に没頭していた。

ある者は、庭先に積み上げた小石の数を、ただ最初から数え直していた。またある者は、水たまりに映る雲の形を、半日もの間じっと見つめ続けていた。彼らは互いに会話を交わすことも少なく、すれ違う時も、会釈すらしない。かと言って拒絶しているわけではなく、ただ、完璧に独立した気配を纏っていた。

ハルは、広場のベンチに座り、白い砂をバケツから取り出しては地面に丸く敷き詰め、それをまたすぐに手で崩している女性に出会った。その動作には一点の迷いもなく、まるで神聖な儀式のようだった。

ハルはたまらず声をかけた。「あの、何のためにそれをされているのですか。何か、特別な模様を作っているとか?」

女性は手を止め、ハルを見た。その瞳は澄んでいたが、不思議なほどハルの「背景」を透過しているようだった。

「何のため、ですか。そんなものはありません。ただ、やりたいからやっている、それだけです」

「でも、せっかく丸く作ったのに、すぐに崩してしまったら無駄になってしまうのでは……」

「ええ、無駄ですよ」彼女は悪びれる様子もなく微笑んだ。

「無駄だとわかっちゃいても、ひたすらやることがあるのです。私たちはいつも、あちら側の世界にいるとき、意味や成果という名の病気に侵されている。誰かの役に立つか、誰かに褒められるか、そればかりを気にして生きている。でも、ここではそんな必要はありません」

彼女は遠い空を指差した。霧の向こう、はるか遠くに、ぼんやりと赤く明滅する巨大な光の網が見えた。それが、ハルのいた『あちら側の世界』の残像らしかった。

「あちら側を見ず、あちら側を気にせず、あちら側に影響すら与えず。どなたの心にも染みず、どなたの動きをも変えない。そういう、単なる自己満足な中だけで生きることが、どれほど贅沢なことか、あなたなら分かるでしょう?」

第三章:言葉の自給自足

ハルは街の片隅にある空き家に住み着くようになった。そこには最低限のベッドと、簡素な机、そしてインクの入った万年筆と真っ白な束のノートが置かれていた。食事は、毎朝玄関の前にいつの間にか置かれている、味の薄いスープとパンだけで十分だった。

最初の数日間、ハルは何をしていいか分からず、ただ部屋の中をそわそわと歩き回っていた。何かを生産しなければならない、誰かに連絡を取らなければならないという焦燥感が、細胞の隅々に染み付いたままだったからだ。しかし、一週間が過ぎる頃、その意味のない焦りは静かに霧へと溶けていった。

ハルは机に向かい、万年筆を握った。そして、誰に見せるためでもない言葉を、ノートに書き連ね始めた。

かつて彼が書いていた文章は、すべて他人の目を意識したものだった。上司に評価されるための報告書、友人に羨ましがられるためのSNSのテキスト。そこには常に「そちら側」の視線が介在していた。

しかし今、彼がノートに紡ぐ言葉は、誰の心にも染みる必要がなく、誰の行動も変える必要がなかった。ただ、インクが紙に吸い込まれていくその瞬間だけが、ハルという存在のすべてだった。

ハルは、ノートの新しいページにこう書き置きを残した。


時には目的のないことを

意味などなく
どこにも辿り着きもせず
ましてや
進歩などあるはずもなく

どなたも 傷付けることなく
どなたも 追い越さず
どなたにも 追い越されず

勝ちもなく
負けもなく
比べることすら不要

ただ
やりたいからやるとゆ~だけの行為を
無駄だとわかっちゃいても
ひたすら
やることがある

たとえれば
ここに
こ~して
日々
書き込むよ~に

そして
出来ることならば

そちら側を見ず
そちら側を気にせず
そちら側に影響すら与えず

どなたの心にも染みず
どなたの動きをも変えずな ならば

尚も良し

単なる
自己満足な中で。。

ハルが書き終えた時、外では静かな雨が降り始めていた。

窓から差し込む淡い光の中で、黒いインクの文字がゆっくりと乾いていく。それは誰にも読まれない、世界で最も無駄で、だからこそ、最も美しい自己満足の記録だった。

彼はそっとノートを閉じた。

あちら側の世界へ戻る列車がいつ来るのか、あるいはもう二度と来ないのか、今のハルにはどちらでもよいことだった。彼はただ、手の中にある万年筆の心地よい重みだけに、静かに満たされていた。

第四章:音のない楽団

街の東の外れに、廃墟に近い古いホールがあった。

ハルがそこを見つけたのは、霧の中を当てもなく歩いていたある午後のことだった。扉は開け放たれており、中から何かが聴こえてくるような気がして、足を踏み入れた。

ホールの中には、十数人の男女が楽器を持って座っていた。ヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット。しかし、誰一人として音を出していなかった。それぞれが楽器を構え、弓を動かし、指を動かし、息を吹き込んでいるのに、会場にはただ深い沈黙だけが満ちていた。

ハルは入口に立ち尽くした。

やがて、指揮者らしき白髪の女性がゆっくりと振り向いた。

「驚かれましたか」と彼女は静かに言った。「ここの音楽は、あちら側には届きません。奏でているのは、本人の内側だけに響く音です」

「聴衆はいないのですか」

「いませんよ。聴衆を求めた瞬間に、この音は消えてしまうのです。誰かに感動してもらいたいという念が混じると、弓がぴたりと動かなくなる。だから私たちはただ、自分のためだけに演奏しています」

ハルは静かに椅子を引き、後ろの列に座った。

しばらくすると、不思議なことに、彼の耳の奥に、音が聴こえてくるような気がした。それは外から来るのではなく、胸の中心から湧き上がってくるような、柔らかく、形のない旋律だった。それを「音楽」と呼ぶべきかどうかも、ハルには分からなかった。ただ、それがそこにあることは、確かだった。

第五章:消えていく絵

広場の隅に、老いた画家が毎日やってきた。

彼はキャンバスを立て、筆を取り、油絵を描いていた。色彩は豊かで、構図は大胆だった。だが、絵が仕上がりに近づくたびに、彼は筆を逆さにし、パレットナイフで丁寧に画面を白く塗り潰してしまう。そして翌日、また最初から描き始める。

ハルは何日もその様子を眺めていた。そしてある朝、ついに声をかけた。

「どうして仕上がる前に消してしまうのですか。残しておけば、素晴らしい絵になるのに」

老画家はゆっくりと振り向いた。その手は絵具で染まり、しわが深く刻まれていたが、目だけが若々しく輝いていた。

「残したいと思っていないのですよ」

「でも、誰かに見せれば……」

「見せることが目的なら、私はもうとっくにあちら側の世界を離れていなかった。私が描くのは、描いている間だけ存在するものを描くためです。完成した途端に、それは過去になる。私が欲しいのは完成品ではなく、今この瞬間に動いている筆の、あの感触だけです」

老画家は再び筆を取り、新しい線を引いた。

ハルはその横に腰を下ろし、しばらくの間、ただそれを眺めていた。何も言わずに。

第六章:図書館のない本棚

街の中ほどに、不思議な建物があった。

外観は古い図書館に似ていたが、中に入ると、本棚はあるのに本が一冊もなかった。棚だけが広大な空間に整然と並び、その空白の棚を、人々がゆっくりと歩き回りながら眺めていた。

ハルは棚の前に立っている若い男に声をかけた。

「ここの本は、どこにあるのですか」

男は棚に指を滑らせながら答えた。「ここにありますよ」

「でも何も……」

「あなたの目には見えないだけです。ここにあるのは、誰にも読まれなかった本です。書いた人間が、誰にも見せないと決めて書き、そのまま燃やしたり、海に沈めたりした本。あちら側の世界では消えてしまったものが、ここには全部残っている」

ハルは棚に手を伸ばした。

確かに何もなかった。しかし、指先が棚の木材に触れた瞬間、どこからともなく、誰かの声のような気配が、ほんの一瞬、掌を通り抜けていった。

それが誰の声なのか、ハルには分からなかった。しかし、その感触はしばらく、彼の手の中に残り続けた。

第七章:霧の中の庭師

ハルの住む空き家の裏に、小さな庭があった。

誰が手入れしているのかは分からなかったが、毎朝、庭の土は柔らかく耕されており、名前も知らない小さな花が、霧の中でひっそりと咲いていた。

ある日の夜明け前、ハルは窓から外を眺めていると、庭に人影があることに気がついた。薄い作業着を着た老女が、しゃがんで黙々と雑草を抜いていた。彼女のそばには、抜いた草を入れるための籠がなかった。抜いた草は、そのまま地面に戻されていた。

ハルは外に出て、声をかけた。

「抜いた草を、また同じ場所に置いているのですか」

老女は顔を上げずに言った。「そうです」

「では、また草が生えてきてしまいますね」

「ええ、明日また抜きます」

「それでは終わらないのでは」

老女はようやく顔を上げ、静かに笑った。「終わらせたくないのですよ。終わってしまったら、明日の朝ここに来る理由がなくなる。庭は完成しなくていい。ただ、毎朝ここで土に触れることができれば、それで十分です」

ハルは庭の隅にしゃがみ、しばらく土を眺めていた。冷たく、湿った土の匂いが、鼻の奥に広がった。それは、彼が長い間忘れていた、どこか懐かしい感覚だった。

第八章:届かない手紙

ある日、ハルは街の中に一軒の小さな郵便局を見つけた。

窓口には年若い局員がいて、黙々と何かを書いていた。ハルが近づくと、彼女は封筒の束を差し出した。

「こちら、お使いになりますか」

「手紙を出すことができるのですか。あちら側に届きますか」

「届きません」局員はあっさりと言った。「ここから出した手紙は、どこにも届かない。書いた人間の手を離れた瞬間に、霧の中へ消えていきます」

「では、何のために書くのですか」

「書く、ということ自体のためです。あちら側にいると、手紙というのは必ず誰かに届かなければならないものでしょう。返事が来るかどうかを気にしながら、相手の反応を計算しながら書く。でも、ここでは違います。書きたいことを、ただ書く。それだけです」

ハルは封筒を一枚受け取った。

部屋に戻り、机に向かった。万年筆を取り、長い間考えた。そして、ゆっくりと書き始めた。宛名のない手紙を。届かないことを知っている手紙を。それでも、書かずにいられないことを、丁寧に、一字一字、紙に刻んでいった。

書き終えた後、ハルは封筒を閉じ、窓から外へ放った。

封筒はひらひらと宙を舞い、すぐに霧の中へ消えた。それを見送りながら、ハルは不思議なほど軽くなった胸の中を確認するように、深く息を吸い込んだ。

第九章:時計のない時間

この街には時計が一つもなかった。

最初はそれが不安で仕方なかった。今が何時なのか、何日なのか、何曜日なのかが分からないと、ハルはどうしても落ち着かなかった。あちら側の世界では、時間はいつも誰かに管理され、スケジュールという名の檻の中で生きていた。

しかし二週間が過ぎる頃、ハルは気がついた。

腹が空けば食べ、眠くなれば眠り、書きたくなれば書く。それだけで、一日は過ぎていく。今が夜なのか朝なのかは、光と暗さが教えてくれる。季節の移ろいは、空気の温度が知らせてくれる。時計がなくても、時間は消えたわけではなく、ただ、より自然な形で流れているだけだった。

「あちら側にいたとき、時間は常に足りなかった」とハルはノートに書いた。「しかしここでは、時間は余ることも足りることもなく、ただある。水のように。空気のように。名もなく、あたりまえにある」

その夜、ハルはノートを閉じ、窓の外の星を、何時間かかっているのかも分からぬまま、ただ眺め続けた。

第十章:影の収集家

街外れに、奇妙な趣味を持つ男が住んでいた。

彼は毎日、様々な場所に落ちている影を「収集」していた。木の影、塀の影、鳥が飛び去った後に残った影の痕跡。彼は薄い和紙をその上に置き、それを持ち帰って部屋の壁に貼っていた。もちろん影は紙に写ることはなく、部屋の壁には無地の白い紙が貼られているだけだった。

ハルが訪ねると、男は壁を眺めながら嬉しそうに言った。「今日はいい影を見つけた。午後の斜陽が柳の枝を通り抜けたやつです。あれは格別だった」

「でも、紙には何も残っていないのでは」

「ええ、何も残っていない。でも私の中には残っている。あの柳の影を見た瞬間、あの光の角度を感じた瞬間、それは永遠に私の中にある。物として残らなくても、消えた影は私の一部になっている」

ハルは白い紙の貼られた壁を眺めた。

するとふしぎなことに、そこには本当に何も見えないはずなのに、男の言葉を聞いた後では、うっすらと、光の揺れのようなものが感じ取れる気がした。それが錯覚なのか、それとも別の何かなのか、ハルには判断できなかった。ただ、それはそれでよかった。

第十一章:名前のない料理

この街で唯一、食事を出してくれる場所があった。

場所と言っても、それは誰かの家の台所であり、毎週一度だけ、住人たちが自由に集まって食事を共にするというものだった。料理を作るのは毎回違う人で、ルールはただ一つ、料理に名前をつけてはならない、というものだった。

ハルが初めて参加した時、テーブルには茶色いスープと、平たいパンと、葉物野菜の炒め物が並んでいた。どれも素朴だったが、不思議な旨さがあった。

「これは何という料理ですか」とハルは訊いた。

「名前はありません」と作り手の中年女性は答えた。「名前をつけると、それがどんな料理であるべきかという先入観が生まれる。名前のない料理は、ただそこにある。食べる人が、その人だけの何かとして受け取ってくれればいい」

ハルはスープを一口飲んだ。

それは、幼い頃の冬の朝に飲んだ何かに似ていた。しかし、それが何であったかは思い出せなかった。思い出せなくてもいいと、ハルは思った。ただ、温かかった。それで十分だった。

第十二章:忘れるための記憶

あちら側にいた頃、ハルは記憶力の良さを自慢にしていた。

過去の成功体験、手痛い失敗、同僚への怒り、上司から受けた理不尽な言葉。それらをすべて精緻に記憶し、いつでも取り出せるように整理していた。記憶とは武器であり、資産であると信じていた。

しかし、この街に来てから、ハルは少しずつ物事を忘れ始めていた。

同僚の名前、会社の電話番号、去年の冬に怒鳴られた上司の顔。それらがゆっくりと、霧の中に溶けていくように、意識の外へと退いていった。最初はそれが恐ろしかった。しかし、消えていくにつれて、ハルの中に生まれたのは恐怖ではなく、軽さだった。

老人が言っていた言葉を、ハルは思い出した。「目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる場所」

疲れていたのは、体ではなかった。記憶していた、あちら側のすべてに疲れていたのだ。

ハルはノートに書いた。「忘れることは、逃げることではない。重すぎる荷物を、一度だけ地面に置くことだ。また必要になれば、拾えばいい。しかし今は、ただ手を空にしておく」

第十三章:帰る列車の気配

ある朝、目が覚めると、空気の質が変わっていることにハルは気がついた。

霧は相変わらず街を包んでいたが、どこか薄く、遠く透き通っているように感じられた。風も少し強くなっていた。駅の方角から、かすかに金属の匂いが漂ってくるような気がした。

ハルは万年筆を持ち、最後のページに言葉を記した。それは詩でも散文でもなく、ただの走り書きのようなものだった。


ここに来て
失ったものは何もない
ただ、持ちすぎていたものを
少しだけ
置いてきただけだ

あちら側へ戻っても
この感触を
全部は思い出せないかもしれない

それでいい
指に残った
インクの跡だけあれば
それで十分だ

ノートを閉じ、ハルは空き家を出た。

街の住人たちは今日もそれぞれの無目的な行為に没頭していた。砂を敷く女、影を集める男、音を出さずに演奏する人々。誰もハルに別れを告げなかった。それは冷たさではなく、ここの流儀だった。来ることも去ることも、等しく、ただそうある、ということだった。

駅に着くと、老人が今日も机に向かっていた。ノートは新しいものに替わっていたが、万年筆を動かすカリカリという音は、あの夜と全く同じだった。

「戻るのかね」老人は顔を上げないまま訊いた。

「そうします」

「戻りたくなったということは、ここでやることが、一通り終わったということだな」

「終わった、というより……」ハルは少し考えた。「少し、軽くなった、という感じです」

老人は小さく頷き、また筆を走らせた。やがて遠くから、低いエンジン音が聞こえてきた。

第十四章:無目的のインク

列車は、来た時と同じように、音もなく滑り込んできた。

古いホームの街灯が、一瞬だけ強く輝き、また元の弱い光に戻った。ドアが開き、ハルは乗り込んだ。車内には誰もいなかった。

窓の外に広がる霧の街が、ゆっくりと遠ざかっていく。砂の円を崩し続ける女性の姿が、一瞬だけ見えた気がした。あるいは見えなかったのかもしれない。それはもう、どちらでもよかった。

列車が速度を上げるにつれ、霧が晴れていった。ビル群が現れ、信号機が現れ、スマートフォンを覗き込む人々の姿が窓の外を流れ始めた。

ハルはコートのポケットに手を入れた。そこに、一本の万年筆があった。

街に帰っても、ハルがあちら側の生活に完全に馴染み直すことができるかどうかは、分からなかった。また数字に追われ、比べられ、急き立てられる日々が始まるかもしれない。

しかし、今の彼には、あのノートに書いた言葉の感触が、まだ指に残っていた。

誰の心にも染みる必要のない言葉。誰の行動も変える必要のない言葉。意味も成果も目的も持たない、ただ書かれたというだけの言葉。

それは誰にも読まれないかもしれない。いや、おそらく、読まれない。

だが、書かれたことは確かにあった。インクが紙に吸い込まれた瞬間は、確かに存在した。そしてその瞬間の重さが、今もまだ、万年筆を握る指の腹に、かすかに残っていた。

列車はどこかの駅に到着し、ドアが開いた。

ハルは立ち上がり、万年筆を握りしめ、プラットホームへと降りた。


(了)



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あとがき

街の灯りが遠くに見える。
信号機が規則正しく変わり、人々が忙しなく行き交う、いつもの「あちら側の世界」だ。

本書を書き終えた今、私の手元には、一本の万年筆が残されている。
この物語を紡いでいる間、私は確かにあの霧の街にいた。砂の円を崩す女性の隣に座り、音のない旋律に耳を澄ませ、届かない手紙を風に放っていた。

ページを閉じれば、私たちは再び、数字と効率が支配する現実へと戻っていかなければならない。あの静かな街の記憶も、日々の忙しさの中で、少しずつ薄れていってしまうかもしれない。

けれど、それでいいのだと思う。
すべてを覚えていられなくても、あなたの指の腹に、ほんの少しだけ「インクの心地よい重み」が残っていれば。
誰のためでもない、自分だけの贅沢な無駄を持っていたという感覚さえあれば、私たちはこの騒がしい世界を、もう少しだけ軽やかに歩いていけるはずだ。

最後に、この無目的な旅に最後まで付き合ってくださったあなたに、深い感謝を。
あなたの夜が、静かな雨のように穏やかでありますように。




第十五章
蛇足

列車を降りたプラットホームは、驚くほどいつも通りだった。
発車メロディが鳴り、改札機がカードを飲み込み、吐き出す。

スーツの背中が急ぎ足で階段を下り、スマートフォンの通知がポケットで震えた。
何もかもが、ハルが乗車する前の世界の続きだった。

会社に着くと、デスクの上に書類が積まれていた。
「ハルさん、これ今日中にお願い」
「進捗どう?」
「来週のKPI、もう一回詰めようか」
言葉が、音として戻ってきた。
数字が、意味として戻ってきた。
あの霧の街は、もうどこにも見当たらない。

昼休み、ハルは屋上の隅で弁当を開いた。
ふと、コートのポケットを探る。万年筆は、まだあった。
キャップを外し、弁当の包み紙の裏に、何の気なしに線を一本引く。
黒いインクが、繊維に染み込んでいく。

その、ただそれだけの手触り。
誰の役にも立たない。提出する書類でもない。評価もされない。
「……無駄だな」ハルは小さく笑った。

午後、会議。
部長がホワイトボードに右肩上がりのグラフを描く。
「ここ、もっと伸ばせるよね。意味のある施策を」
その時、ハルの耳には遠くで、あの駅の老人の声が聞こえた気がした。

『進歩などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ』
ハルは手元のメモ帳の端に、小さな丸を描いた。
そして、それをぐちゃぐちゃと塗りつぶす。
意味はない。議事録にも残らない。
ただ、やりたいからやる。無駄だとわかっちゃいても。

隣の席の後輩が、怪訝な顔でこちらを見た。
「ハルさん、どうかしました?」
「いや、なんでもない」

夜、帰宅。
部屋の電気をつけ、机に向かう。
あの街で使っていたノートは、もうない。
代わりに、100円の大学ノートを買ってきた。

一日が終わる。
今日の成果は?と問われれば、ゼロだ。
誰の心も動かしていない。売上も1円すら上げていない。
それでもハルは万年筆を手に取る。
誰にも見せない。届かない。名前もつけない。
ただ、インクを紙に落とす。
_カリカリ_という、ちいさな音がした。
それはあの駅の夜と、まったく同じ音だった。

書き終えたページを、ハルは破りもせず、丸めもせず、そのまま机の上に置いた。
明日になれば、また新しい紙に、新しい無駄を書く。
終わらない。終わらせたくないから。

窓の外では、信号機が規則正しく赤から青に変わった。
人々はまだ、どこかへ急いでいる。
ハルはコーヒーを一口飲み、呟いた。
「そちら側を見ず、そちら側を気にせず……」
言いかけたまま、やめる。

続きは、書けばいい。紙の上にだけ。
誰のためでもない。
何のためでもない。
ただ、万年筆が、心地よい重みで手の中にある。

それだけで、今夜のハルは、静かに満たされていた。
――あの街へ戻る列車は、もう来ないかもしれない。
――でも、切符はいつも、ポケットの中にある。

(了)



蛇足でした。 笑
でも、ハルが「あちら側」でどう生きるかを書かないと、この物語は綺麗すぎるまま終わってしまう気がして。

戻ってきたハルは、何も変えられない。世界も、自分も、劇的には変わらない。

ただ、ポケットに一本の万年筆がある。それだけが違う。
その“だけ”が、たぶん一番大事な無駄なんだと思います。


無目的推進機構


まえがき

本書は、あなたに何の気付きも与えません。
スキルアップにも繋がりませんし、読み終えたからといって「明日から頑張ろう」という活力も湧きません。タイパ(タイムパフォーマンス)は最悪です。
現在、銀河系で最も深刻な病は、何にでも「意味」を求めてしまう「目的論依存症」です。
「この本を読むことで、どのような学びが得られるのか?」
そう考えた時点で、あなたはすでに手遅れかもしれません。
これから語られるのは、全宇宙を揺るがした、ある42歳の男の「壮大な何もしなさ」の記録です。
どうぞ、できる限り姿勢を崩し、
お茶でもこぼしながら、
「だから何なんだ」と呟きつつ、読み進めてください。
もし途中で飽きたら、本を閉じて昼寝をしてください。
懲役3日にはなりませんが、特に褒められもしません。
それでは、意味のない読書時間を。
――尚も良し。





第一章 
主席無目的職員、日下部ヒロシ

西暦3026年。銀河標準暦211年。
人類は「進歩至上主義」を憲法に掲げていた。
朝の歯磨き+3pt。画期的な発明+50万pt。恋愛は相手の時価総額でpt変動。
非効率は違法。昼寝は懲役3日。「目的のない行為」は精神疾患コードF-404。治療対象。
そんな銀河で、唯一“無駄”が許された宙域がある。
無目的推進機構 本部。通称ムモク。
俺は日下部ヒロシ、42歳。主席無目的職員。
業務内容:「8時間、存在すること」
評価基準:「何も変えないこと」
9:00、出勤。タイムカードは今日も「労働pt:0」を叩き出す。0が俺の仕事だ。
10:02、鼻がかゆい。0.08秒で掻く。0.1秒超えると「快楽追求罪」になる。プロの技だ。
窓の外は木星。特に見る意味はない。見る。
業務日誌に書く。『こ〜して書き込む。尚も良し』
同僚はニーナ。職務は「意味のない鼻歌」。
「ヒロシ、今日の無駄は?」
「昨日と同じ」
「いいね。私も昨日の鼻歌、忘れる仕事する」
染みないように、目を合わせず別れる。共感は摘発対象だ。



第二章 
有意義な無駄、爆誕

事件は15:00に起きた。
政府から無目的監査官カノンが来訪。全身効率スーツ。歩くたび+1pt稼ぐ女。
「日下部主席。あなたの無目的がバズっています」
「は? 見てません」
「全銀河の労働ptが0.3%低下。“幸せそうな無駄”が若者に感染した」
モニターに映るのは、盗撮された俺の勤務風景。
『椅子に座って木星を見るだけの男』再生2億回。
コメント「この人、勝ち組じゃね?」
カノンは命令を下す。
「明日から“有意義な無駄”ノルマ月20本。ガス抜きになる、計算された無目的を創れ」
目的のある無目的。
俺は初めて、頭痛という“非効率”を味わった。



第三章 
コップの水と20億人

「有意義な無駄」第一号。
俺は8時間かけて、コップの水を別のコップに移す動画を撮った。
こぼさない。飲まない。感想も言わない。ただ移す。
配信した。
3日で20億再生。「#無駄の神」「#ヒロシ教」爆誕。
労働ptが2.1%低下。工場が止まる。株価暴落。
進歩至上主義が、コップ1杯の水で溶け始めた。
カノン激怒。「影響与えない設定だったでしょう!」
「見てません。俺は水を移してただけです」
だが、やらかした。
うっかりコメント欄を見た。地球の12歳が書いていた。
『学校つらい。死にたいって思ってた。でもヒロシが何もしてないの見てたら、何もしなくても生きていい気がした』
胸が、かゆくなった。0.08秒じゃ掻ききれないやつ。
天井の共感罪検知ドローンが鳴る。ピーポーピーポー。
「対象、日下部ヒロシ。共感レベル4。逮捕」



第四章 
無目的裁判

銀河最高法院。罪状は3つ。
共感罪。労働意欲毀損罪。尚も良し罪。
検察官「被告は“意味のない行為”で“意味”を創造した。これは思想テロである」
俺「意味を見たのはそちら側です。俺はこ〜して書き込んでただけです」
証人ニーナ。鼻歌を禁じられ「効率的呼吸法」を歌わされ、声が潰れていた。
彼女は証言台で、かすれ声で歌った。昔の、意味のない鼻歌を。
傍聴席の労働者から、鼻をすする音。+1ptスーツが次々エラー吐く。
裁判長「最終弁論を」
俺は日誌の切れ端を読むだけだった。
「どなたも傷付けず、どなたも追い越さず。
勝ちもなく、負けもなく、比べることすら不要。
ただ、やりたいからやる。無駄だとわかっちゃいても。
そちら側を見ず、気にせず、影響も与えず。
どなたの心にも染みず。ならば尚も良し」
「以上です」
法廷が静まり返る。誰かが呟いた。「…俺、今日休んでいいかな」



第五章 
無職、最高

判決:無罪。
ただし無目的推進機構は解体。理由「“無目的”を組織にした時点で目的論が生じる。自己矛盾」
俺は無職になった。無pt。無価値。
晴れやかな気持ちで、解体現場のガレキに座る。
ニーナが隣に来た。
「ヒロシ、今日の無駄は?」
「特にない」
「尚も良し、だね」
二人で壊れた椅子に座る。やることがない。
彼女が鼻歌を歌う。くそ下手で、誰も得しない、最高の鼻歌。
遠くで、元労働者たちが空を見上げていた。
+1ptスーツを脱ぎ捨てて。
誰も追い越さないし、追い越されない。
ただ座ってるだけの人間が、増えていた。



第六章 
監査官の休日

1ヶ月後。カノンが訪ねてきた。効率スーツじゃない。Tシャツだ。
「労働ptが30%減った。経済は停滞。でも、自殺率が0になった」
「それで?」
「休み方を教えてほしい。私、有給の取り方を知らない」
俺は教えた。「まず椅子に座る」
「次は?」
「ない」
「…尚も良し、ってやつ?」
「そう。それ」
カノンはぎこちなく椅子に座った。3分で「落ち着かない」と立ち上がる。
「何もしないって、こんなに難しいのか」
「プロの技だからな」



第七章 
そちら側からの手紙

地球の少年から手紙が届いた。元コメント欄の12歳。
『ヒロシへ
あの後、学校辞めた。別に何か始めたわけじゃない。
ただ、朝起きて、窓から雲見る。
母さんが“あんた、何してるの”って聞くから、“無駄”って答えた。
母さん、最初怒ってたけど、昨日隣で一緒に雲見てた。
何も話さなかった。でも、なんか良かった。
尚も良し、だよね。 P.S. ニーナさんの鼻歌、下手だけど好き』
ニーナが手紙を読んで、0.1秒超えて泣いた。
減点とか、もうどうでもよかった。



第八章 
こ〜して書き込む

ムモク跡地。俺たちは勝手に「非公式無目的支部」を開設した。看板はない。会員もいない。来たい奴が勝手に来て、勝手に何もしない。
業務日誌はまだ書いてる。提出先はない。査定もない。
こ〜して。
『6月30日:木星、昨日と同じ。ニーナの鼻歌、昨日より下手。
カノン、昼寝を覚えた。寝顔、無防備。
地球からまた手紙。雲の形、毎日違うらしい。
俺は特に何もしなかった。
そちら側を見た気もするけど、見てないことにする。
誰の心にも染みたかは知らない。知る必要もない。
ただ、やりたいからやった。
無駄だとわかっちゃいても。
尚も良し』
ペンを置く。
風が吹いた。誰も命令してない、ただの風。
ニーナが「次、コップの水やる?」って聞いた。
「やる。意味はないけどな」
「それでいい。尚も良し」
目的もなく、ゴールもなく、進歩もない。
誰も傷つけず、追い越さず、追い越されず。
勝ちも負けもない、比べることすらない。
宇宙の隅で、俺たちは今日も無駄をやる。
それだけで、宇宙はちょっとだけ、呼吸していた。

『無目的推進機構』 完


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あとがき

この物語は、どなたの心にも染みないように書かれました。
もし染みたら、それはあなたの心が勝手に染みただけです。
本書は一切の責任を負いません。
尚も良し。

ドアの向こう側

――ある男と女の、滑稽で不思議な記録――



まえがき

私たちは日々、いくつものドアを開け、そして閉めて生きています。
昨日閉めたドアの向こう側に、何を置いてきたか覚えているでしょうか。


これは、ある一つの別れから始まる物語です。
ドアの隙間に未練のように足を挟み、十四年もの間、過去の記憶を頭の中で公転させ続けた男。
一方で、閉めたドアの向こう側を鮮やかに忘れ、新しい生活の地図をなめらかに描いていった女。


男と女の記憶のあり方は、驚くほど違います。それは時に滑稽で、時に少しだけ切ないミステリーのようでもあります。


冷蔵庫のバター、左右で色の違う靴下、そして持ち主を失った一冊の詩集。

ささやかな日常のモチーフたちが織りなす、二人の「交差しない」足跡を、どうぞのんびりと見届けていただければ幸いです。





第一章 男の側から

 田中誠一は五十二歳になった今も、あのドアのことを夢に見る。

 正確には、ドアの隙間に挟まった自分の足のことを。

 夢の中でいつも彼の右足は、薄暗い廊下と薄明るい部屋のあいだに挟まっている。靴下は左右で色が違う。これは夢の中だけの話ではなく、現実でも彼はしばしばそういうことをやらかした。注意散漫なのか、それとも人生全般において左右の整合性に興味が持てないたちなのか。どちらにせよ、その足は、ドアの隙間でくさびのように機能していた。

 相手の名前は――今となっては名前など関係ないだろうが、記録として――水島桜子といった。三十五歳のとき、彼女と出会い、三十八歳のとき、別れた。出会いはある会社の飲み会で、別れは彼女のアパートの玄関先だった。

 「もう終わりにしましょう」と桜子は言った。

 誠一はその言葉を聞いて、なぜか冷蔵庫の中身を思い浮かべた。たしか彼女の部屋の冷蔵庫には、自分が先週買ってきたバターが半分残っていたはずだ。あのバターは誰が食べるのだろう。

 「わかった」と彼は言いながら、しかしドアから出ていくことができなかった。足が、ちょうどドアの金属の縁のところで止まってしまった。靴の先がわずかに部屋の内側に残ったまま、本体は廊下に出ていた。

 「誠一さん」

 「うん」

 「足」

 「うん」

 しかし足は動かなかった。正確には、脳から足への命令が、どこかで迷子になっているようだった。駅で言えば乗換駅を通り過ぎてしまった感じで、命令は一駅先の「完全撤退」まで行ってしまい、当駅「足を引く」には止まれなかった。

 桜子はため息をついた。それから静かに、しかし確実に、ドアを押した。

 誠一の足の甲に、ドアの重さがかかった。痛かった。しかし彼はなぜかその痛みに、一種の懐かしさを感じた。まるで長年行方不明だった何かが、突然帰ってきたような。

 鍵の回る音がした。カチャリ、と。

 その音の、なんと決定的なことか。

 誠一は廊下に一人立ちつくした。足の甲がじんじんした。左右で色の違う靴下が、蛍光灯の光の下でひどく間抜けに見えた。

 それから彼はゆっくりとエレベーターに向かいながら、思った。

 ――また会えば、きっとうまくいくはずだ。

 これは、その思考の誕生の瞬間であった。そしてこの思考は、以後十四年間、彼の頭の中に生き続けることになる。まるで宿無しの猫が縁側に居着くように、しぶとく、図々しく、そして驚くほど快適そうに。

第二章 女の側から

 水島桜子は、ドアに鍵をかけた瞬間のことを、三日後には忘れていた。

 嘘をついているわけではない。本当に忘れたのだ。正確には「忘れる必要があることとして、記憶の適切な場所にファイリングした」と言うべきかもしれないが、桜子にとってはそれは忘れることと同義だった。

 人間の記憶とは、つまるところ書棚のようなものだと彼女は思っている。どんどん新しい本が増えるのだから、古くて読み返さない本は奥の棚に押しやるしかない。誠一との三年間は、そういう種類の本だった。表紙は決して悪くない。むしろ一時期は毎日読んでいた。でもいつの間にか、手に取らなくなった。

 ドアを閉めた翌朝、桜子は近所のカフェでモーニングセットを食べた。厚切りトーストに、バターをたっぷり塗った。

 バターを見て、何かを思い出しかけた気もしたが、すぐにトーストを口に入れたら消えた。

 その三ヶ月後、桜子は職場の後輩と付き合い始めた。二年後に結婚した。一年後に子供ができた。子供が三歳になったとき、夫が転勤で福岡に行くことになり、家族全員で引っ越した。福岡では鮮魚が安く、毎週末に夫と魚屋に行くのが習慣になった。

 桜子の人生は、ドアを閉めた日から、なめらかに前へと進んでいた。まるで川が低いほうへと流れるように、自然に、淀みなく。

 ただひとつ、不思議なことがあった。

 ときどき夜中に、夢を見た。玄関のドアを閉める夢だ。ドアの向こうに誰かがいる。顔は見えない。でも靴下の色が左右で違う、ということだけがやけにはっきり見えた。左が紺で、右がグレー。

 夢から覚めるといつも、桜子は少しだけ笑った。

 そしてまた眠った。

第三章 男は宇宙を旅する

 田中誠一のその後について、少し詳しく記す必要があるだろう。

 彼はその後、二度ほど別の女性と交際した。一度目は四十一歳のとき、同じ職場の先輩社員と。二度目は四十五歳のとき、合コンで知り合った女性と。どちらも一年ほどで終わった。終わり方はどちらも似ていた。女性のほうが先に「もう終わりにしましょう」と言い、誠一はドアのところで足を残し、相手はそれを蹴飛ばして鍵をかけた。

 一度目のときは、左足だった。二度目のときは、両足だった。両足の場合はさすがにドアが閉まらず、女性は困り果てて「ちょっと、本当に出てってください」と少し大きな声で言った。誠一はそこでやっと我に返り、「すみません」と言って出ていった。

 こうして三度の別れを経験した誠一の頭の中には、三人分の「また会えばうまくいく」が同居することになった。それらは互いに干渉せず、それぞれ独立した惑星のように、彼の頭蓋骨の内側を静かに公転していた。

 五十二歳になった誠一は、独身で、会社の近くのマンションに一人で住んでいた。部屋は散らかっていたが、冷蔵庫の中には常にバターが入っていた。これは無意識の習慣だった。なぜバターが必要なのか、自分でも説明できなかった。でも、なくなると不安になった。

 ある土曜日の昼下がり、誠一はスーパーでバターを買って帰るとちゅう、商店街の入り口で見知らぬ女性とぶつかった。女性の手から買い物袋が落ち、中身が散乱した。誠一は慌てて拾い集めた。人参、ジャガイモ、玉ねぎ、そして――バター。

 「すみません」と言って差し出すと、女性も「すみません」と言って受け取った。

 二人はほぼ同時に「バター、同じですね」と言った。

 それから二人はきまり悪そうに笑った。

 この女性の名前は後に判明するが、ここではまだ明かさない。

第四章 女は地図を書く

 福岡での暮らしは、桜子に合っていた。

 魚が旨く、空が広く、人が穏やかだった。夫の啓介は優しい男で、週末になると必ず家族で出かけた。子供の翔太は今年七歳になり、学校でも友達が多かった。

 桜子の生活は、地図に例えるなら、きちんと整備された道路のようだった。信号もあり、標識もあり、どこに行けばどこに着くかが明確だった。それは退屈ということではなく、安心ということだった。少なくとも桜子はそう思っていた。

 しかし時々、地図の端っこに、名もない道が現れることがあった。

 たとえばスーパーの帰り道、なんとなく違う道を歩いたとき。たとえば夫が出張でいない夜、子供を寝かしつけた後、一人でベランダに出て夜風に当たったとき。そういうとき、桜子の頭の中に、地図に載っていない何かが、ほんの一瞬だけ顔を出した。

 それが何なのかは、わからなかった。あるいは、わかっているのに、わからないふりをしていたのかもしれない。

 ただ、それは決して悲しいものではなかった。むしろ、若い頃に読んだ好きな本のタイトルを、ふいに思い出したときのような感覚に近かった。内容はもう覚えていない。でも、確かに好きだった、という感触だけが残っている。

 桜子はベランダから室内に戻り、洗い物をした。翔太の体操服、啓介のシャツ、自分のエプロン。手を動かしながら、何も考えなかった。いや、正確には、何も考えないことを選んだ。

 人生とは選択の積み重ねであり、「考えないこと」もまた選択のひとつである。桜子はそのことをよく知っていた。

第五章 奇妙な再会、あるいは再会しない話

 田中誠一は、スーパーでぶつかった女性と、その後三回会った。

 一回目は一週間後、同じスーパーの同じ時間帯に偶然。二回目はその翌週、近くの蕎麦屋で偶然。三回目は地元の秋祭りで偶然。三回ともバターが関係していた。一回目はバターの棚の前で鉢合わせた。二回目は蕎麦屋のメニューに「バター蕎麦」があり、二人とも頼んでいた。三回目は屋台で「バターコーン」を買おうとしたら同じ屋台に並んでいた。

 「バターの縁ですね」と女性は笑って言った。

 名前は村上奈緒といった。四十八歳で、近所に住んでいた。離婚して五年になり、小学生の息子がひとりいた。

 誠一は奈緒と話しているとき、不思議なことに、頭の中を公転していた三つの惑星のことを思い出さなかった。いや、思い出さなかったというより、惑星たちが自然と公転を止めて、静止したような気がした。宇宙が、少し静かになった。

 これはどういうことだろう、と誠一は思った。

 答えは出なかった。でも悪い気はしなかった。

 一方、水島桜子は――今や水島ではなく田所桜子だが――その年の秋、夫の啓介の転勤が再びあり、今度は東京に戻ることになった。引っ越しの荷造りをしながら、桜子は本棚を整理した。福岡に来てから読んだ本、子供の絵本、料理の本。そして、奥の棚の奥の奥に、一冊の薄い詩集が挟まっているのを見つけた。

 表紙には手書きで「桜子へ」と書いてあった。三十代に誰かにもらったものだ。誰に、というのは、もう思い出せなかった。あるいは思い出さなかった。

 桜子はそれを、他の不要な本と一緒に、近所の古本屋に持っていった。

 古本屋の主人は、その詩集を見て「これ、なかなか珍しいですね」と言った。「百円でどうですか」桜子は「はい」と言った。

第六章 ドアは誰のものか

 ここで少し、哲学的な話をしなければならない。

 ドアとは何か。

 建築学的に言えば、それは空間と空間を区切り、かつ結ぶ装置である。閉めれば壁になり、開ければ通路になる。つまりドアとは、壁と通路の両方の性質を持つ、二面的な物体だ。

 男と女の関係においても、ドアは同じように機能する。ただし、開け閉めする権限が、いつも均等に分配されているとは限らない。

 田中誠一の場合、権限は常に相手の女性が持っていた。これは彼が弱かったからではなく――少なくとも彼はそう思っていた――単純に、ドアが相手の家にあったからだ、という解釈もできる。もし自分の家のドアだったら、自分が鍵をかけていたかもしれない。

 しかしよく考えると、誠一は一度も相手を自分のマンションに招いたことがなかった。

 なぜか。

 冷蔵庫にバターが入っているからだ、と彼は思った。でもそれは理由にならない。バターを見られて困る人間はそう多くない。

 本当の理由は、もっと単純かもしれなかった。自分の領域に人を入れることへの、漠然とした恐れ。それを「スケベ心」と呼ぶ人もいる。でも誠一の場合はむしろ、失うことへの恐れだったかもしれない。自分だけの場所が、誰かの記憶の一部になることへの。

 水島桜子の場合はどうか。

 彼女は常に、自分のドアを自分で閉めた。これは主体性の表れだろうか。それとも防衛本能だろうか。あるいは単純に、片付けが得意な性格の延長だろうか。

 正解は多分、全部だ。人間の行動はたいてい、複数の理由が合わさって生まれる。それを一つに絞ろうとするのは、複雑な料理を「これは塩の味がする」と言い切るようなものだ。塩も入っているかもしれないが、それだけではない。

第七章 バターという名の奇跡(小さな)

 田中誠一と村上奈緒は、その秋から冬にかけて、少しずつ近くなった。

 最初はスーパーで会えば話す程度だった。次に、近くのカフェでコーヒーを飲むようになった。それから、奈緒の息子の陸が誠一に懐き、週末に三人で公園に行くようになった。

 誠一は子供との接し方がわからなかったので、最初は困った。でも陸は構わず誠一の手を引っ張った。子供というのは、相手の都合をあまり考えない生き物だ。それが時に、大人にとって救いになる。

 ある日曜日の夕方、三人で公園から帰る途中、誠一は奈緒に聞いた。

 「なんでバターばかり買うんですか」

 「え?」

 「いや、会うたびにバターが関係してるから」

 奈緒は少し考えてから言った。「陸がバタートーストしか食べないんです。毎朝。だからなくなるのが早くて」

 「へえ」

 「田中さんは?」

 誠一は少し間を置いた。正直に言うかどうか、一瞬迷った。そして言うことにした。

 「昔、好きだった人の部屋に置いてきたバターが、ずっと気になってて」

 奈緒はぷっと吹き出した。「それで買い続けてるんですか」

 「そういうわけじゃないと思うけど」

 「思うけど、って何ですかそれ」

 二人は笑った。陸は何がおかしいのかわからず、それでも二人が笑うから自分も笑った。商店街に、三人分の笑い声が小さく広がった。

 その夜、誠一は帰宅して、冷蔵庫を開けた。バターがあった。いつものように。でも今日は、なんだかそれが少し、違って見えた。呪いではなく、ただの食べ物に見えた。

 彼はトーストを焼いて、バターを塗って、食べた。うまかった。

第八章 東京の夜と、地図の外

 田所桜子が東京に戻ったのは、十一月の初めだった。

 新居は杉並区の住宅街で、静かな場所だった。翔太は近所の小学校に転入し、最初の一週間は友達ができないと泣いていたが、二週間目には毎日誰かと遊んで帰ってくるようになった。子供の適応力というのは、大人のそれとは別の原理で動いているらしい。

 桜子は新居に慣れながら、近所の地理を覚えていった。スーパーはどこか、病院はどこか、翔太の学校への近道はどこか。一週間もすれば、だいたいの地図が頭に入った。

 ある夕方、桜子は翔太を迎えに学校へ向かう途中、見慣れない路地に入り込んだ。抜け道だと思ったのだが、行き止まりだった。戻ろうとして振り返ると、路地の奥に小さな古本屋があることに気づいた。

 引き寄せられるように、入った。

 店内は狭く、床から天井まで本が積まれていた。埃っぽく、薄暗く、しかし不思議と居心地がよかった。

 棚を眺めながら歩くと、詩集のコーナーに来た。薄い本が何十冊も並んでいた。桜子はなんとなく一冊を手に取った。

 表紙には手書きで「桜子へ」と書いてあった。

 桜子は三秒ほど、その表紙を見つめた。

 それから本を棚に戻して、店を出た。

 翔太の学校まで、早足で歩いた。途中、空が夕焼けで赤かった。電線に鳥が一羽止まっていた。下校する子供たちの声がした。

 桜子は何も考えなかった。ただ歩いた。

 でも口元には、少し笑みがあった。

第九章 男は眠れない夜に考える

 十二月のある夜、田中誠一は眠れなかった。

 別に悩みがあったわけではない。強いて言えば、来週から奈緒と陸と一緒に、近所のイルミネーションを見に行くことになっており、その約束が頭に引っかかっていた。引っかかるというのは、嫌だということではなく、むしろ楽しみで意識から離れないということだった。五十二歳で待ち遠しいと思うとは思わなかった、というのが正直なところで、それはそれで少しおかしかった。

 天井を見ながら、誠一はぼんやり思った。

 頭の中の惑星が、消えている。

 いつ消えたのだろう。気づかないうちに、公転が止まり、そのまま静かに消滅したらしい。宇宙のどこかで星が消えても、光が届くのに時間がかかるから、地球からは気づかない。それと同じで、誠一の頭の中でも、惑星はずっと前に消えていたのかもしれない。ただ彼が気づいていなかっただけで。

 誠一は少し考えた。

 もし仮に、桜子に会ったとして。あるいは一度目や二度目の彼女に会ったとして。また抱けると思うか。

 思わない。

 その答えが出たとき、誠一は少し驚いた。そしてすぐに、何か重いものが胸から外れたような感覚を覚えた。重かったのか、と今更思った。重かったのだろう、とも思った。

 彼はそのまま、十分もしないうちに眠りについた。

 夢は見なかった。

最終章 ドアと鍵と、その先のこと

 男と女の話は、たいてい、どちらかがドアを閉めて終わる。

 だが実のところ、ドアを閉めることで終わるのは「その話」であり、「その人の話」ではない。ドアの外に出た人間は、別の廊下を歩いて、別のドアを開ける。ドアを閉めた人間は、別の窓から空を見て、また明日の朝ごはんを考える。

 田中誠一は翌春、村上奈緒と付き合い始めた。正式に、ということになったのは、陸が「パパとママみたいになるの?」と聞いたことがきっかけだった。二人は顔を見合わせ、そして笑い、「まあそういうことかな」と誠一が答えた。陸は「じゃあいいや」と言って、またゲームに戻った。

 誠一は初めて、奈緒の家に招かれた。玄関を入ったとき、自分の家のドアを人に開けるとはこういう感覚か、と思った。少し緊張したが、悪くなかった。

 そして帰り際、ドアを出るとき、誠一は自分の足が完全に外に出ていることを確認した。隙間に残った部分は、ない。

 奈緒が「また来てね」と言いながらドアを閉めた。

 鍵の音がした。カチャリ、と。

 同じ音なのに、今回は少しも寂しくなかった。

 田所桜子は東京の春を、家族三人で過ごした。翔太は新学年になり、担任の先生が変わり、それをえらく気に入ったと言った。夫の啓介は新しい職場に慣れ、週末には以前のようにどこかへ連れ出してくれた。

 ある日、桜子は近所の公園で翔太を遊ばせながら、ベンチに座って空を見ていた。青く、澄んでいた。

 そういえば、と思った。

 あの詩集。

 でもそれが何だったか、誰にもらったか、やはり思い出せなかった。ただ、手書きの字が少しだけ浮かんだ。丸くて、ぎこちない字だった。

 桜子は目を細めて空を見た。雲が一つ、ゆっくり流れていった。

 翔太が「ママー!」と呼んだ。

 「なに?」

 「ブランコ、押して!」

 「はいはい」

 桜子は立ち上がり、息子のほうへ歩いていった。

 春の風が、桜の花びらを少し舞い上げた。それはどこかのドアの隙間から、吹き込んできたのかもしれなかった。あるいはそうじゃないかもしれない。

 どちらでもよかった。

 花びらは、とにかく舞っていた。

                    (了)



あとがき

この物語は、劇的な再会も、激しい愛憎劇も起こりません。ただ、かつて同じ時間を過ごした二人が、それぞれの速度で、それぞれの人生を肯定していく姿を描きたいと思い筆を執りました。
作中で誠一の頭を悩ませていた「バターの呪い」は、新しい出会いによってただの「美味しい食べ物」へと変わります。また、桜子にとっては過去の詩集も「名前の思い出せない、でも確かに好きだった本」という優しい輪郭だけになっていきます。
ドアを閉めることは、決して人生の終わりではなく、次のドアへ向かうための静かな区切りに過ぎません。
もし今、あなたの頭の中に公転し続けている「消えない惑星」があるなら、このお話が、それをそっと着陸させる小さなきっかけになれば嬉しく思います。皆様の歩む廊下の先に、心地よい風が吹くドアが開かれていますように。



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紹介文

三十八歳のとき、恋人・桜子のアパートの玄関先で別れを告げられた田中誠一。

「わかった」と言いながらも、彼の右足はなぜかドアの隙間に挟まったまま動かなかった――。


それから十四年。五十二歳になった誠一の頭の中には、いまも元カノたちの記憶が「独立した惑星」のように公転し続けている。


一方の桜子は、ドアを閉めた三分後にはその味を忘れ、結婚、出産、地方への引っ越しと、なめらかに前を向いて生きていた。


すれ違う二人の記憶、なぜかシンクロする「冷蔵庫のバター」と「左右の違う靴下」。
決して交わることのない二人の人生が、東京の片隅で小さな奇跡と交差する――。


可笑しくて、ちょっぴり切ない、大人のための「人生の片付け」の物語。

あの世は なくてはならない

〜冥界第三窓口、本日も混雑中〜



まえがき

 この物語は、ひとつの詩から生まれた。


 夏の終わり、最愛の祖母と、長年の仕事仲間を続けて亡くした誰かが書いた詩。人生が確実に折り返しを過ぎたと感じながら、「あの世はあるのか?」ではなく「あの世はなくてはならない」と思い至る、静かな詩。


 もしあの世があるとしたら——それはどんな場所だろう。


 受付があって、番号札があって、待合室があって、窓口のお姉さんがいる。前世照会ができて、渡河の順番待ちがあって、亭主を探しに来た奥さんが怒鳴り込んでくる。


 そんな場所ではないか、と思った。


 なぜなら、人が集まるところには必ず、そういうものが生まれるから。


 この物語の主人公、田中一平は、建設業を三十年続けたオヤジである。妙な縁から冥界管理局で働くことになり、最終的には川に橋を架けようとする。


 現世とあの世をつなぐ橋を、土木屋の意地で。


 笑えて、少しじんとして、また笑える話を目指した。


 それから——あの世はなくてはならない、と思っている方に届けば幸いである。




第一話 辞令

 田中一平が冥界管理局に配属されたのは、四十三年間の地上勤務を終えた翌朝のことだった。


 前夜、彼は大阪の居酒屋で建設仲間たちと痛飲し、気がつけば布団の上で仰向けになっていた。天井のシミを眺めながら「また飲み過ぎたな」と思った次の瞬間、彼は別の天井を見上げていた。


 蛍光灯が三本、等間隔に並んでいた。ただし光が妙に白く、影というものが一切存在しなかった。


「次の方、どうぞ」


 声の主は、薄青い制服を着た中年女性だった。カウンター越しに顔を上げ、眼鏡のフレームの上からこちらを見ている。名札には「主任 浜田フジ子」と書いてあった。


「あの……ここは?」


「冥界管理局、第三窓口です」浜田フジ子はすでに書類を手に取っていた。「お名前は?」


「田中一平です。建設業を……」


「はい田中さん、ちょっと待ってくださいね」


 彼女はキーボードを叩き始めた。ディスプレイに映っているのが漢字なのかアラビア語なのかそれとも全く別の文字体系なのか、一平にはわからなかった。


「田中一平さん、昭和三十二年生まれ、大阪府出身」


「そうです」


「死因は急性心筋梗塞、享年六十六歳」


「……そうなんですか」


「ご自分でもわかってらっしゃいませんでしたか?」


「いや、なんとなくは……でも確認するとなかなか」


 浜田フジ子は「ふんふん」と言いながらスタンプを押した。認印くらいの大きさのそれが、なぜか轟音を立てた。


「では田中さん、現在こちらは定員がやや超過気味でして」


「はあ」


「渡河については少々お待ちいただくことになります。番号札をお持ちになって、向こうのベンチでお待ちください」


 渡された番号札には「4,892,017番」と書いてあった。


「……どのくらい待ちますか?」


「ケースバイケースですね」浜田フジ子は淡々と答えた。「早い方で三日、長い方で五十年ほど」


「五十年!?」


「でも退屈しませんよ」彼女はにっこりと笑った。「ここには本もありますし、碁も将棋もできます。それに、同じようにお待ちの方がたくさんいらっしゃいますから」


 一平は番号札を握りしめ、茫然と振り返った。


 待合室は、想像を絶する広さだった。


 どこまでも続くベンチ。ベンチに腰掛けた無数の人々。老人、若者、子ども、おじさん、おばさん。ある者は碁盤を囲み、ある者は文庫本を読み、ある者はただぼんやりと宙を見つめていた。


 遠くから、どこかで聞いたような笑い声が聞こえた気がした。


 一平はゆっくりとベンチに座り、番号札を眺め、深くため息をついた。


 五十年か。


 まあ、急いでどこへ行くわけでもないか。


 そう思い直した瞬間、隣に人が座った。


「兄ちゃん、何番?」


 振り返ると、七十代とおぼしき小柄な老人がにこにこしていた。赤ら顔で、いかにも酒飲みそうな顔つきだった。


「四百八十九万……」


「ほお、ワシは四百八十八万九千番やから、ちょっと先輩やな」老人はうれしそうに言った。「よろしゅう頼んまっせ。山本徳造いいます。元左官屋です」


 一平は思わず笑った。


「田中一平です。元建設業です」


「おお、同業者や!」山本徳造は手を叩いた。「それやったら話が合いそうやな。ほな、待ってる間に一杯やりますか。ここ、酒もあんねん」


「あの世に酒があるんですか?」


「当たり前やろ」徳造は呆れたように言った。「酒もない天国なんか、誰が行くねん」


 一平は、ここが存外悪くない場所かもしれないと思い始めた。



第二話 クレーム

 冥界管理局第三窓口に、クレームが持ち込まれたのは、一平が来て三日目のことだった。


 持ち込んだのは、小柄で血色のいい七十代の女性だった。名前を菊池ハルといった。


「ちょっと聞いてください!」


 ハルはカウンターに両手をどんと置いた。浜田フジ子は眼鏡のフレームの上から彼女を見た。


「はい、どのようなご用件でしょうか」


「うちの亭主がこっちへ来てないんです!」


「はあ」


「三年前に死んだんですよ、うちの人は。それがここに来てないっていう話で」


「少々お待ちください」フジ子はキーボードを叩いた。「菊池……ご主人のお名前は?」


「菊池勝男です。昭和十五年生まれ、大阪の人間で、三年前に脳梗塞で……」


「菊池勝男さん」フジ子はディスプレイを見た。「あ、おりますよ」


「え? どこに?」


「第七待合室、ベンチ四列目、左から二番目」


「なんで三年も待ってるんですか!」


「定員超過です」フジ子は申し訳なさそうに言った。「特に昭和の男性が……非常に多くて」


「呼んでくれません? 夫に会いたいんです」


 フジ子は少し考えてから「規則では少々難しいのですが」と言いながら内線電話の受話器を持ち上げた。


「第七待合室、係の方、菊池勝男さんをお呼びいただけますか。第三窓口にご家族が」


 しばらくして、足音が聞こえてきた。


 奥の扉から現れた菊池勝男は、白いランニングシャツにステテコ姿だった。ハルを見た瞬間、明らかに「しまった」という顔になった。


「あんた!」


「お、おう」


「三年も黙ってたんですか!」


「いや、連絡しようにも……なんせここには電話がなくて」


「あなたが来てから三年、私がどんな思いで……!」


「すまん、すまん」


 勝男はしゅんとした。ハルは泣いていた。


 フジ子は静かに目を逸らし、書類の整理を始めた。


 隣のベンチで見ていた一平が、そっと山本徳造に耳打ちした。


「夫婦って、こっちへ来ても変わらんな」


「当たり前や」徳造はしみじみと言った。「人間、変われるもんならとっくに生きてる間に変わっとる」


 フジ子はふと顔を上げ、ハルに言った。


「菊池さん、奥様も番号札をお持ちですよね。よろしければ、ご主人のお隣でお待ちいただくことはできますが」


「……それはできるんですか?」


「例外的な措置ではありますが」フジ子は小さく微笑んだ。「夫婦ですから」


 ハルは鼻をすすりながら頷いた。


 勝男は、ほっとしたような、しかし若干困ったような顔をしていた。


 三年ぶりの夫婦は、肩を並べて第七待合室へ向かった。


 一平はそれを見送りながら、ふいに自分の番号札を見た。


 四百八十九万二千十七番。


 まだずいぶん先だ。


 でも、まあ、急ぐことはない。



第三話 臨死体験者の証言

 冥界管理局に、生きた人間が来ることがある。


 正確には「来かけた人間」である。


 一平が来て十日目、待合室にちょっとした騒ぎが起きた。


 菜の花畑の向こうから、おろおろした様子の女性が歩いてきたのだ。七十代くらいで、割烹着を着ていた。


「あの……すみません、ここ、どこですか?」


 フジ子は素早くカウンターから出てきた。


「お名前を教えていただけますか?」


「大野ヒサです。大野ヒサといいますが……わたし、ここへ来る予定やったんでしょうか?」


 フジ子はキーボードで確認した。


「大野ヒサさん、七十二歳。現在……あ」


 彼女は眉をひそめた。


「どうかしましたか?」と一平が口を挟んだ。なぜか彼は三日前から、非公式に窓口の手伝いをするようになっていた。暇だったのと、フジ子に「手先が器用そうですね」と言われたのがきっかけだった。


「この方、予定が入ってないんです」フジ子は首を傾げた。「システム上は……まだ地上にいることになっていて」


「え?」


「つまり」フジ子はヒサに向き直った。「大野さん、今いくつかのご病気で入院中ですよね?」


「そうです。心臓が……それで気を失って……」


「途中まで来かけてしまったようですね。でも正式な手続きはまだのようで」


 ヒサは菜の花畑の方を振り返った。


「あそこに川があって……向こう岸に、もう亡くなった父母がいて……」


「見えましたか」


「はい。母が必死に『来るな』って叫んでいて……でも父が『おいで』と言っていて……どっちを向けばいいか分からなくて、ここへ来てしまいました」


 フジ子はため息をついた。


「このパターン、よくあるんですよ。ご両親が意見対立されて、結果的にお客様がこちらへ迷い込まれる」


「よくあるんですか?」


「月に二十件ほど。昭和のご夫婦に多いですね。向こう岸でも仲よくされてない」


 一平は思わず笑った。


 ヒサはおろおろしていた。


「わたし、どうすればいいんでしょう?」


「ご安心ください」フジ子はテキパキと書類を取り出した。「正式受付前の方は、お帰りいただけます。ただ、手続きが必要です」


 彼女はスタンプを取り出した。またあの轟音がした。


「これでキャンセル処理が完了します。ただ、一度こちらへいらっしゃった方は……」フジ子は少し改まった声で言った。「しばらくはこちらも満員で受け付けられませんので、地上でもう少し長くお過ごしいただけます」


「長く……どのくらい?」


「ケースバイケースですが、早くて十年、長ければ三十年ほど」


 ヒサは目を丸くした。


「三十年! そんなに!?」


「一度こちらへいらした方は、不思議と長生きになられる方が多いんです。こちらの空気に触れると、なにか体に良いものでも吸収されるんでしょうか。私たちにもよくわかりませんが」


 一平は、自分の祖母のことを思い出した。彼女も同じような経験をして、その後六十年生きたと言っていた。


「フジ子さん」一平は言った。「それ、前から不思議やったんですが、なんでそうなるんですか?」


「さあ」フジ子は涼しい顔で言った。「あの世の不思議というのは、こちらにいる私たちにもよくわからないことが多くて。こっちもわからないことだらけですよ、実は」


 そう言って彼女はにっこり笑った。


 ヒサは菜の花畑の方を見た。川の向こうに、まだ両親の姿が見えていた。


「戻ります」彼女は静かに言った。「母の言う通り、戻ります」


「よいご判断です」フジ子は頭を下げた。「ではお気をつけて。次にいらした時は、ちゃんとご用意してお待ちしています」


 ヒサはゆっくりと菜の花畑の方へ歩いていき、やがてその姿は消えた。


 待合室がしんと静まり返った。


「……」


 一平は何も言わなかった。徳造も黙っていた。


 しばらくして、徳造がぽつりと言った。


「ええな。戻れる人は、戻った方がええ」


 一平は頷いた。


「そうやな」


 フジ子は書類をきちんと閉じ、ファイルに戻した。そして次の番号を呼んだ。


「四百八十八万八千七百三十二番のお客様、お待たせしました」



第四話 前世相談

 冥界管理局には、様々な窓口があった。


 第一窓口は「受付・初回登録」。
 第二窓口は「渡河手続き」。
 第三窓口は、一平が最初に通された「一般相談・その他」。
 第四窓口は「前世照会」だった。


 一平が第四窓口の存在を知ったのは、待合室で二週間を過ごした頃だった。


「前世が照会できるんですか?」


「できますよ」フジ子は言った。「でもあまりお勧めしていません」


「なんでですか?」


「ガッカリされる方が多いので」


 一平は興味を持ち、第四窓口を覗きに行った。


 担当者は、四十代くらいの細身の男性で、名札には「係長 石原ノブオ」と書いてあった。几帳面そうな顔をしていた。


「前世を知りたいというお客様ですか?」


「ええ、まあ……どんなものかと思って」


「どうぞ」石原は椅子を指した。「お名前は?」


「田中一平です」


 石原はキーボードを叩いた。ディスプレイを見て、眉をぴくりと動かした。


「ありましたよ、田中さんの前世」


「どんな人間だったんですか?」一平は少し身を乗り出した。


「百三十二年前、岡山県の農家の次男坊。田んぼを耕して、縁側でスイカを食べて、五十八歳で亡くなっています」


「……それだけですか?」


「それだけです」


「武士とか、お姫様とかじゃなくて?」


「ないですね」石原は淡々と言った。「地上の占い師たちは、やたら武士とかお姫様とか言いたがりますが、統計的にはほとんどの方が農民か職人です。地上の歴史でも、武士やお姫様より農民の方が圧倒的に多いわけですから、当然と言えば当然で」


「それは……まあ、そうですね」


「その前の前世は?」と一平は聞いた。


「三百年前、江戸の大工。腕はまあまあ。四十二歳で落下事故で亡くなっています」


「…………」


「さらにその前は、農民。その前も農民。その前は漁師。その前も農民」


「ちょっと待ってください」一平は手を挙げた。「一回くらいドラマチックなのはないんですか?」


「うーん」石原は画面をスクロールした。「あ、これは少し違う」


「なんですか?」


「千二百年前、遣唐使の船に乗っています。中国まで行っています」


「おお!」


「ただし船酔いで寝込んでいたようで、中国に着いたかどうかの記録がありません」


「……」


 一平は深くため息をついた。


「あなたは良い方です」石原は書類を閉じながら言った。「中には、前世が全部同じ村の農民という方もいますし、十七回連続で同じ職業という方もいます」


「それはそれでスゴいですね」


「あとは、ご自分が過去に何者であったかより、今この待合室でどんな方と出会っているかの方が、ずっと重要な気がしますけどね」石原はそう言って、眼鏡を拭いた。「前世を知っても、ここでの番号は変わりませんし」


 一平は第三窓口に戻り、ベンチに座った。


「どうやった?」と徳造が聞いた。


「農民やった」


「ワシもや」徳造は笑った。「左官屋の前は農民で、その前も農民で、その前は染め物屋やって。五回に一回くらい職人になってる」


「わりと一貫してるな」


「そやろ。前世でも土をこねてたわけや」徳造は膝を叩いた。「人間、本質は変わらんってことやな」


 一平は笑いながら、ビールを一口飲んだ。


 こちらのビールは、どういうわけか飲んでも酔わなかった。でも美味かった。それだけで十分だと、一平は思っていた。



第五話 橋の設計

 一平が冥界管理局で「臨時補助スタッフ」として働き始めて、三週間が過ぎた。


 きっかけは些細なことだった。フジ子がある日、書類の棚が重くて上に届かないと言い、一平が手伝ったのが始まりだった。次の日は、待合室の蛍光灯が切れていて、一平が脚立に乗って取り替えた。さらに次の日は、第三窓口のカウンターが傾いていて、一平が工具箱を探して直した。


「田中さんって、なんでもできますね」フジ子は感心したように言った。


「仕事柄ですよ。三十年、現場やってましたから」


「こちらはですね、実は慢性的な人手不足でして」フジ子はカウンターに肘をつきながら言った。「亡くなった方をスタッフにするという発想があまりなくて」


「呼ぶ気になれば、いくらでも人はいるじゃないですか」と一平は待合室を指した。


「それが……ちょっと言いにくいんですが、こちらのスタッフは全員、生前に公務員だった者でして」


「……そういうシステムなんですか」


「慣例、といいますか。私も生前は市役所の窓口係でした」


「道理でテキパキしてるわけだ」


 フジ子は少し照れたように笑った。


 そういうわけで一平は、臨時補助スタッフとして第三窓口の雑用を引き受けることになった。番号が呼ばれたらすぐ行けるよう、待合室から呼び出せる体制で。


 それから数日後、一平は大きな問題に気がついた。


 川に橋がないのである。


 冥界と地上をつなぐ川は、あの菜の花畑の向こうを流れていた。渡るには船しかなく、しかもその船が一隻しかなかった。これが待ち時間が長い根本原因だと、一平は職業的直感で理解した。


「フジ子さん、あの川に橋を架けたら、もっと流れが良くなるんじゃないですか?」


「橋、ですか」フジ子は少し驚いた顔をした。「そんなこと、考えたことがありませんでした」


「土木屋から見ると、あの川幅やったら、ちゃんとした橋が一本あれば、処理能力が十倍くらいになりますよ」


「十倍!」


「それに」一平は続けた。「橋があれば、さっきのハルさんみたいに、こっちに来てから向こうに戻りたい人も、もっとスムーズに行き来できますよね?」


 フジ子は腕を組んで考えた。


「確かに……でも、橋を架けるとなると、上の許可が」


「上?」


「局長です」フジ子は天井を指さした。「このビルの最上階にいらっしゃいます。ただ、あの方は少々……お会いするのが難しくて」


「難しい?」


「いつ行っても寝ていらっしゃるので」


「……局長が?」


「もう何千年も眠り続けていらっしゃいまして。起きたところを見た者がおりません」フジ子は困り顔で言った。「仏陀ともお釈迦様とも噂されているんですが、定かではなくて」


 一平は額に手を当てた。


「それ、会議の決裁は誰が?」


「副局長の山田さんが、すべて代行されています」


「山田副局長に話しましょう」


 副局長の山田は、見るからに疲れた顔をした五十代の男性だった。机の上に書類が山積みになっていた。


「橋の設計、ですか」山田は一平の話を聞きながら、書類の山を崩さないよう注意深くお茶を取った。「いや、良い話だと思いますよ。実は私も前々から思っていたんですが、なにせ予算が……」


「予算? こちらに予算の概念があるんですか?」


「もちろんです。魂の処理コスト、というものがありまして」山田はため息をついた。「局長が起きていらっしゃった時代に作られた制度がそのまま続いていて、なかなか改革が」


「局長……いつ起きますか?」


「わかりません」山田は天井を見た。「たまにうっすら目を開けるんですが、またすぐ閉じて」


 一平は考えた。


「つまり、現行のリソースで何とかするしかない、ということですね」


「そういうことです」


「わかりました。設計書を作ります。無償で」


「無償で?」


「どうせ暇なんで」


 山田副局長は感激したように立ち上がり、一平の両手を握った。


「田中さん、あなたは冥界が生んだ最大の人材です」


「大げさな」一平は照れながら言った。「土木屋が橋を架けたいと思うのは、本能みたいなもんですから」


 その夜、一平は待合室のベンチで設計書を描き始めた。


 隣に座った徳造が覗き込んだ。


「橋か。ええな」


「こっちに来た建設・土木の連中が揃ったら、みんなで作ろうと思って」


「そら楽しそうや」徳造は目を細めた。「ワシも左官でよかったら手伝うで」


「もちろんや」一平はにやりとした。「橋ができたら、こっちとあっちを自由に行き来できるようになるかもしれん」


「行き来?」


「設計次第やけど。完全には無理でも、せめてたまに顔を見せに行けるくらいの」


 徳造はしばらく黙っていた。


「……ワシな、孫がおるねん」


「うん」


「もう一遍だけ、顔が見たいわ」


「架けようや、絶対に」


 一平は鉛筆を走らせた。


 蛍光灯の白い光の下で、橋の設計図は少しずつ形になっていった。



第六話 宴と約束

 橋の設計書が完成したのは、一平が冥界管理局に来て一ヶ月目の夜だった。


 山田副局長が設計書を見て感激し、「記念に一席設けましょう」と言い出した。


 冥界管理局、第三待合室が、その夜だけ宴会場になった。


 集まったのは、一平、徳造、ハルと勝男夫婦(結局仲直りしていた)、石原係長、フジ子主任、山田副局長、それに待合室の常連客として馴染みになっていた元大工の村田、元板前の北川、元消防士の田島、元教師の坂本という面々だった。


 酒は、どういうわけか際限なく出てきた。あの世のビール、あの世の日本酒、あの世のウイスキー。飲んでも酔わないが、美味かった。


「乾杯!」


 一平が音頭を取ると、みんなが杯を上げた。


「田中さんよ」北川が言った。「ここに来て一ヶ月で、もう設計書を作るとは大したもんや」


「暇やったから」


「でも、こんなに笑ったのは久しぶりや」ハルが言った。「こっちへ来て不安やったけど、みなさんのおかげで」


「お互いさまです」フジ子がお茶を飲みながら言った。彼女は飲酒しなかった。「皆さんがいらっしゃると、窓口も活気が出て」


「フジ子さんは、何年ここにいるんですか?」一平は聞いた。


「さあ……数えたことがないんですが」彼女は少し考えた。「地上では昭和四十三年に亡くなりましたから、もう五十年以上は」


「五十年! ずっとここで働いてるんですか?」


「嫌いじゃないんです、この仕事」フジ子は静かに言った。「毎日、新しい方がいらっしゃるでしょう? いろんな人生を持った方が。話を聞いていると、地上というのは本当に面白いところだなと思って」


「フジ子さん、戻りたいとは思わないんですか?」


 フジ子は少し驚いた顔をした。


「……たまには思いますよ」彼女はゆっくり言った。「でも、ここでできることもありますから。橋が架かれば、渡ってきた方々がスムーズに落ち着けるよう、もっとよい環境を整えたいと思っています」


 宴はにぎやかに続いた。


 元大工の村田が「橋を架けるなら大工も必要や」と言い、元土木屋の一平と意気投合した。元左官の徳造が「橋脚の仕上げはワシに任せろ」と胸を叩いた。元板前の北川が「完成したら打ち上げの料理を作る」と宣言した。


 宴会の終盤、山田副局長が立ち上がり、少し改まった声で言った。


「皆さん、実は今日、特別なお知らせがあります」


 一同が静まり返った。


「局長が……」山田は天井を見た。「今日の夕方、少し目をお開けになりました。そして私に、一言だけおっしゃいました」


「何を?」一平は聞いた。


「『橋、いいね』と」


 沈黙。


 そして爆笑が待合室に響いた。


「局長、橋の話を知ってはったんや!」


「ずっと寝てるふりしてただけちゃうか!」


「『いいね』って……SNSやあるまいし!」


 笑いがひとしきり続いてから、一平は杯を持ち上げた。


「では改めて」彼は言った。「橋の完成に向けて。あっちとこっちをつなぐ橋のために」


「乾杯!」


 全員が声をそろえた。


 その夜、宴が終わって一平が待合室のベンチに一人で座っていると、フジ子が片付けをしながら言った。


「田中さん、一つ聞いていいですか?」


「どうぞ」


「地上に、迎えに来てほしい誰かがいますか?」


 一平は少し考えた。


「バアちゃんが、そのうち来ると思います。それと、同期のやつが一人、最近こっちに来るはずで」


「お迎えしますよ」フジ子は言った。「しっかり。第三窓口で」


「頼みます」一平は言った。「あいつ、方向音痴やから、迷子になりかねん」


 フジ子は笑った。


「大丈夫です。迷子になっても、こちらには必ず案内板がありますから」


 一平は夜空を見上げた。冥界にも夜があり、星があった。地上の夜空よりずっと多くの星が、静かに輝いていた。


 橋の設計図を持ちながら、一平は思った。


 まだいくつか課題はある。設計書の細部、許可の手続き、工事の順番。


 でも、仲間がいる。道具がある。時間もある。


 なにより——急ぐことはない。


 星空の下、番号札をそっとポケットにしまいながら、一平は静かに目を閉じた。



エピローグ 第三窓口より

 それから数ヶ月後——正確な時間の感覚は冥界では難しいが——菜の花の川に、小さな木の橋が架かった。


 大きな橋ではない。ひとりずつしか渡れない、素朴なものだ。でも欄干は徳造の手で丁寧に漆喰が塗られ、橋の両端には北川が作ったという小さな看板が立っていた。


 地上側の看板には「こちらへどうぞ」。
 冥界側の看板には「またいつかお待ちしています」。


 橋の完成式典に、待合室の常連が全員集まった。山田副局長も来た。


 局長は来なかったが、後でフジ子に聞いたら「遠くから見ていらっしゃいましたよ、少し目を細めて」とのことだった。


 一平は欄干に手をついて、川の向こうを眺めた。


 菜の花が揺れていた。川の音がしていた。向こう岸は霞んでよく見えなかったが、なんとなく、誰かがいる気がした。


「バアちゃん」と一平は小さく言った。「もう少ししたら、こっちへ来いよ。待ってるから。でも急がんでいい。地上で、もうちょっとゆっくりしてていい」


 川風が吹いた。


 一平は背を向け、第三窓口に戻った。


 フジ子がいつものようにカウンターにいた。眼鏡のフレームの上からこちらを見ていた。


「田中さん、今日も手伝っていただけますか?」


「もちろん」一平はエプロンを取った。「今日は何件ですか?」


「百三十二件ほど」


「多いな」


「月末は込むんです。なぜかわかりませんが」


「こっちも月末があるんですか」


「ありますよ。あの世も、なかなか忙しいです」


 一平は笑いながら、カウンターの隣に立った。


 今日も第三窓口は開いている。


 戸惑いながら、おろおろしながら、あるいは堂々と、あるいは涙をこらえながら。


 いろんな人がやってくる。


 一平は番号を呼んだ。


「次の方、どうぞ」


 扉が開いた。


——終——



アマゾン キンドル




あとがき

 書き終えて、妙に静かな気持ちになった。


 あの世の受付嬢・浜田フジ子は、とても真面目で、少し不器用で、でも仕事が好きで、窓口越しに何万人もの人生を見てきた人間だ。書いているうちに、自然とそういうキャラクターになっていた。


 田中一平は、建設現場で三十年、土と鉄とコンクリートと格闘してきた人間だ。死んでも橋を架けようとする。そういう人間は確かにいる。いや、そういう人間ばかりが、この国を作ってきたのではないか。


 親鸞が「あの世はなくてはならない」と言ったのは、証明の話ではなかった。愛した人たちが、どこかにいてくれると思えること。それが残された者に、生きる力を与えるのだということ。


 祖母が臨死体験から戻り、その後六十年生きた話。川の向こうで叫ぶ親の姿。


 それは嘘ではないと思う。少なくとも、その人にとっては本物だったはずだ。


 人間には、そういうものが必要なのだ。


 証明できなくても。科学的でなくても。


 あの世は、なくてはならない。


 だから、この物語を書いた。


 あなたの大切な人も、きっとどこかの待合室で、番号札を持って、誰かと笑いながら待っていると思う。


 そして橋が架かったなら——いつかまた会える。


あの世公共事業省 八部作
〜あの世はなくてはならない〜


まえがき

突然ですが、みなさんは「死後の世界」を信じますか?
「あるわけない」「あったらいいな」、色々な意見があると思います。
でも、もしあっちの世界が、現世と同じくらい世知辛く、同じくらい人情に溢れ、しかも「凄まじい労働力不足」に悩まされている役所仕事の塊だったら……?
この物語の主人公・間宮健二は、現世で働き詰めて過労死した、ただの頑固な土木屋です。
そんな彼が死んだ直後にスカウトされたのは、なんと「あの世公共事業省」。
役職は現場監督。ミッションは、大渋滞する三途の川に巨大な橋を架けること。
死んでまで残業、死んでまで予算査定、死んでまでクレーム対応。
だけど、健二の周りには、いつも誰かがいます。怒鳴りつけてくるバアちゃん、先に死んで酒を冷やして待っている同期、かつて愛した人、そして現世に未練を残した愛すべき霊魂たち。
「あの世はなくてはならない」
健二が呟いたこの言葉の本当の意味を、彼と一緒に汗をかき(幽霊ですが)、頭を抱えながら、どうか最後まで見届けてやってください。
それでは、三途大橋の開通式へご案内します。
足元が少し熱い(地獄の源泉のせいです)ので、お気をつけて。




【収録エピソード】

1:三途大橋架橋編
2:三途大橋保守管理編
3:天国エレベーター保守点検編
4:地獄温泉源泉管理編
5:冥界ハローワーク編
6:閻魔AI導入編
7:賽の河原保育園運動会編
8:現世出向編




1 あの世公共事業省

〜川に橋を架けるまで死ねない〜
副題:おばあちゃんが「来るな」と叫んだ理由


第一章
ボディブローとヘッドハンティング

夏の終わりだった。
俺はバアちゃんの四十九日と、同期の渡辺の葬式を同じ週に済ませた。
坊さんが「諸行無常」と唱えるたび、腹の底にずんと来るものがあった。ボディブローだ。効くのは、だいぶ後なんだよな。
火葬場からの帰り道、黒ネクタイを緩めながら呟いた。
「あの世は、あるのか?って話じゃねえ。なくちゃならねえんだよ」
その瞬間、スマホが鳴った。非通知。
『もしもし、間宮健二様ですね? あの世公共事業省の者です』
新手の詐欺か?
『君の発言、「あの世はなくてはならない」を確認しました。当省の理念と完全一致です。つきましては三途の川架橋プロジェクトの現場監督を』
電話を切ろうとしたら、目の前に黄色い菜の花がバーッと咲いた。8月のアスファルトの上にな。
花畑の真ん中に、死んだはずのバアちゃんが立ってる。98で大往生した、例の「出戻りババア」だ。
「健二、聞け。あっちはな、渡し賃の値上がりで大変なんだよ。川を渡れなくて、みんな立ち往生さ。お前、橋を架けな」
「バアちゃん、熱中症か?」
「死んでるわい!」とバアちゃんは杖で俺の頭を殴った。痛い。幽霊のくせに物理攻撃してくる。
「向こうでな、渡辺って子が待ってるよ。『健二のやつ、遅せーよ。酒がぬるくなる』ってな。ただし」
バアちゃんは川の向こうを指さした。対岸で、親父とお袋が必死の形相で叫んでる。
『来るなーーー!!!』
「まだこっち来るんじゃないよ。橋を架け終わるまで、絶対に死ぬんじゃねえぞ」
そう言い残して、バアちゃんと菜の花は消えた。
手元には名刺だけが残ってた。
**あの世公共事業省
特別架橋事業部 最高顧問 マサエ**
裏には手書きでこうあった。
『酒と女は用意しとく。急げ』
こうして、死後の世界を舞台にした前代未聞の公共事業が始まった。



第二章
出戻りババアの履歴書

出勤初日。場所は新宿の高層ビル52階。
「あの世公共事業省」の表札。どう見ても普通の官公庁だ。
案内された会議室にいたのは、バアちゃんだった。生前より若返って80歳くらいに見える。
「マサエだ。ま、ババアと呼べ」
「バアちゃん……」
「職場でバアちゃん言うな。セクハラだろ」
死人にセクハラもクソもあるか。
マサエは10代の時、流行り病で一度死んだ。
菜の花畑で母親に「来るな!」と怒鳴られ、すうっと戻ってきた。担当医に「一度キャンセルしたんじゃ、しばらく向こうも受け入れん」と笑われ、そこから60年。96まで生きた。
「で、その医者の言った通りだった。臨死体験者は長生きする。統計でも出てる」
「統計って……」
「あの世はデータで動いとる。渡し賃も変動相場制だ」
2046年、渡し賃は1人あたり108万円に高騰。原因は「未練成分」による川の増水と、渡し守のストライキ。
結果、霊魂がこっち側に滞留。地縛霊の労災申請が前年比300%増。
「だから橋だ。無料で渡れる橋を架ける。国がやる。公共事業だ」
マサエは図面を広げた。三途の川に、片側三車線の斜張橋。名称「三途大橋」。
「工期は?」
「お前の寿命」
「……は?」
「お前が死ぬまでに完成させな。完成したら、お前が一番に渡っていい。渡辺が手ぇ振って待ってるよ」
とんでもないKPIを課せられた。



第三章
チーム結成、釈迦が来た

設計担当はゴータマ技師。インド工科大学主席。
自称・釈迦の生まれ変わり。ただし煩悩の塊。
「間宮さん。橋は執着です。執着を断つのが仏道では?」
「うるせえ。お前が図面引け」
「了解。煩悩の限り設計します」
彼の設計は美しかった。曼荼羅を応用したケーブル配置。耐震性も抜群。ただし予算が100億オーバー。
事務担当は姫川麗子。元占い師。
「前世見ますか? 間宮さんは武士。責任感で死ぬタイプ」
「縁起でもない」
「でも当たるんです。霊的営業停止処分くらいました」
彼女が経理を締めると、なぜか予算が合う。不思議だ。
向こう側との連絡係は、無線機。
ガガッ……『おーい健二、こっちは渡辺。工事進んでるか? こっちはもう宴会場押さえたぞ。女将はクレオパトラ』
「死んでまでキャバクラかよ」
『死んだからこそだろ。早く来い』
やるしかない。こっちはまだ生身だ。酒がぬるくなる前に。



第四章
積算と閻魔の査定

最大の敵は、閻魔大王だった。
省の予算査定官として現れた閻魔は、元財務省の官僚みたいな顔でコストを切ってくる。
「三途大橋、総工費300億は高すぎます。歩行者専用の吊り橋で10億に」
「10億で川幅3キロ渡れるか!」
「魂は軽い。風で飛べます」
「飛んだら成仏だろ!」
査定会議は地獄だった。文字通り。
姫川がそっと資料を出す。「閻魔様、前世は戦国武将・明智光秀です。裏切り者のコストカットは本能ですね」
閻魔の顔が歪む。「なぜそれを……」
「占いで。営業停止中ですが」
結局、予算280億で決着。閻魔は「次は本能寺で会おう」と捨て台詞を吐いて去った。
工事は始まった。基礎工事は「未練杭打機」で行う。成仏しきれない霊魂の未練をエネルギーに変換して杭を打つ。
現場は地縛霊だらけだ。
「おーい、そこサボってないで杭になれ!」
『やだー、彼女に会いたいー』
「会わせてやる。橋が架かれば自由に行き来できる!」
未練が供養され、杭が打たれる。工事は順調だった。



第五章
菜の花畑の入札妨害

敵は身内にもいた。渡し守組合だ。
渡し賃で食ってきた彼らにとって、無料の橋は死活問題。
ある日、現場に菜の花が大量に咲いた。マサエの仕業じゃない。
花畑の真ん中から、渡し守の親方が現れる。三途の川の老舗「六文銭フェリー」社長。
「橋なんか架けられてたまるか。ワシらの商売上がったりだ」
「時代の流れだ」
「なら実力行使だ」
親方が笠を取ると、中から無数の賽の河原の石が飛んできた。積み石攻撃。
作業員が次々倒れる。
そこにゴータマが割って入った。
「暴力はダメ。話し合いましょう。あなたも本当は、誰かを渡したいのでは?」
「……わしの娘だ。先立った娘を、もう一度こっちに呼びてえ」
「橋ができれば、会いに行けます」
親方は泣き崩れた。入札妨害は中止。逆に「六文銭フェリー」は資材運搬を請け負うことになった。
敵が味方になる。公共事業あるあるだ。



第六章
渡辺からのSOS

無線機からノイズ。
『健二……こっち、やばい。酒が……腐った』
「どういうことだ」
『向こうで待ってる霊魂が増えすぎて、宴会場が飽和。食料も酒も足りねえ。みんなイライラして、成仏取りやめが続出してる』
向こうもこっちもキャパオーバー。
マサエが言う。「橋の開通を急げ。だが焦って死ぬなよ。お前が死んだら工期ゼロだ」
プレッシャーがすごい。
俺は働いた。週休ゼロ。労基? あの世に労基はない。
三日徹夜した朝、倒れた。
目が覚めると、菜の花畑だった。
川の向こうに渡辺がいる。手に一升瓶。
「よう、健二。ついに来たか」
「……まだだ」
「そうか。わりい、待たせたな」
渡辺の後ろに、親父とお袋。バアちゃんもいる。みんな笑ってる。
バアちゃんが叫ぶ。
『来るな! まだ橋、半分だろ!』
すうっと意識が戻った。病院のベッド。姫川が握った俺の手に、御札が貼ってある。
「前世の武士パワーで回復祈願しました」
「効くのかよ……」
「効きました」
俺は退院した。残りの寿命、全部使ってやる。



第七章
竣工、三途大橋開通式

5年後。
三途大橋は完成した。
全長3.2km。片側三車線。歩道付き。欄干には曼荼羅レリーフ。
開通式には現世とあの世の要人が集まった。
閻魔がテープカット。渋い顔で「赤字事業だ」とぼやく。
ゴータマがスピーチ。「橋を渡るも渡らぬも自由。これぞ中道」
姫川が司会。「本日をもって、死はオプションになります」
マサエがマイクを奪った。
「健二! よくやった! これで誰も立ち往生しねえ。あっちとこっち、自由に行き来しな!」
無線機から渡辺の声。
『見えてるぞ、健二! 立派な橋だ! 酒、冷やして待ってるからな! 早く来い!』
俺は笑った。あと数年か、数ヶ月か。もういい。
やることはやった。



最終章
迎えは誰だ

その夜、俺は眠るように死んだ。
気づくと、菜の花畑。
川には、あの橋が架かっている。
向こう岸から、誰かが走ってくる。
渡辺か? バアちゃんか? 親父か?
近づいてきたのは、全員だった。
渡辺が一升瓶持って、バアちゃんが杖ついて、親父とお袋が手をつないで。
後ろにはゴータマと姫川までいる。「視察です」と笑ってる。
渡辺が叫ぶ。
「おせーよ健二! 5年も待たせやがって!」
バアちゃんが杖で俺の頭を叩く。痛くない。
「遅かったな! でも、立派な橋だったよ」
親父が酒を注いでくれた。
「こっちはもう、未練もクソもねえ。いつでも行き来できる」
俺は橋を渡った。
渡り賃はゼロ。無料。
川の真ん中で振り返る。こっち側には、まだ人生の途中のやつらがいる。
「おーい!」と手を振ると、誰かが新しく橋を架け始めてるのが見えた。
そうか、仕事は続くんだな。
あの世は、なくてはならない。
だって、こうしてまた会えるから。
向こう岸で、宴会が始まった。
女将はクレオパトラ、本当だった。




ーーーーーーーーーー


2 あの世公共事業省

三途大橋 保守管理編
〜死んでからが本当のクレーム対応〜



第一章
成仏渋滞、再び

三途大橋、開通から3年。
俺、間宮健二は無事に死んだ。向こう側で渡辺とバアちゃんと毎晩飲んだくれている。
はずだった。
『健二、起きろ。緊急招集だ』
無線機から声。あの世公共事業省・大臣直々。生きてる時の上司より偉い。
菜の花畑の詰所に行くと、マサエが仁王立ちだった。死んで3年、ますます若返って60代にしか見えない。
「見な」
モニターには三途大橋。片側三車線が、霊魂でぎっしり埋まってる。
ETCも無いから料金所はない。なのに大渋滞。
「なんでだよ。無料だろ」
「橋の上でピクニック始める馬鹿が続出しとる。『景色がいい』『映える』って、敷物敷いて弁当広げとる」
「……成仏しろよ」
「『せっかくだから渡らずに粘る』ってやつが増えてな。滞留時間が平均49日。49日って、お前」
四十九日。
坊主の営業妨害だった。



第二章
橋の上のカフェ、開業

渋滞の原因は分かった。
対策会議でゴータマが悟りを開いた顔で言う。
「執着を断つには、新しい執着を与えればいい」
「何言ってんだ」
「橋の上にスタバを作りましょう」
こうして三途大橋PA、通称「賽の河原サービスエリア」が爆誕した。
名物は「六文銭ラテ」。未練が強いほど苦い。
店長は姫川麗子。死んでからも接客業。
「いらっしゃいませ〜。前世鑑定付きレシート出ます。ちなみに店長は元・卑弥呼です」
「盛るな」
効果は抜群だった。霊魂たちはラテを飲んで満足して渡る。
回転率300%アップ。閻魔から「民間委託のが優秀」と嫌味メール。
だが平和は続かない。
ある日、PAのレビューが炎上した。
★1「店員の態度が悪い。成仏を急かされた」
★1「六文銭ラテ、高すぎ。ぼったくり」
★1「Wi-Fi弱い。あの世なのに5G来てない」
カスハラは死んでも終わらない。



第三章
クレームの主は、同期

クレーム対応に行くと、そこにいたのは渡辺だった。
「お前かよ!」
「健二、聞いてくれ。ここのラテ、薄いんだよ。未練100%で頼んだのにアメリカン出てきた」
「お前、死んでから味覚バカになっただろ」
渡辺は暇だった。
生前あれだけ忙しかった土木の現場監督が、死後はやることがない。毎日橋を往復して、PAで文句言ってるだけ。
「……寂しいのか?」
「うるせえ。ただ、こっち来るやつが減ったんだよ。橋が便利すぎて、誰も『迎えに来て』って言わなくなった」
なるほど。
橋を架けたせいで、「迎えに行く」というロマンが死んだ。
俺のせいか。
その時、緊急地震速報が鳴った。
『三途の川、増水中。未練濃度、基準値超過』
モニターを見ると、川が濁流。原因は現世のSNS。
「#死にたい」「#無理」がトレンド入りして、未練成分が川に流れ込んでる。
橋脚が軋んだ。



第四章
未練杭、再び

「緊急工事だ! 未練杭を増し打ちするぞ!」
生前の現場がフラッシュバックする。
今度は俺が杭になる番じゃない。杭を打つ番だ。
資材は「成仏できなかった霊魂」。
説得して回る。
「おいお前、まだパチスロの目押し心残りだろ。杭になれ」
『嫌です。万枚出すまで』
「橋が落ちたら万枚どころか無だぞ」
『彼女にプロポーズできなかった……』
「杭になって支えろ。お前の未練で橋が守れる。そしたら彼女がそっち渡る時、安全だ」
『……やります』
未練が成仏に変わる。杭が打たれる。
俺たちは徹夜で作業した。死んでるのに過労死しそう。
明け方、川は収まった。橋は守られた。
渡辺が缶コーヒーを差し出す。あの世は缶コーヒー常温だ。
「……ありがとな、健二」
「何が」
「お前が橋架けたおかげで、俺、迎えに行かなくて済んだ。でも、守るためにまた集まれた」
バアちゃんが菜の花持ってきた。
「ほれ、竣工祝いだ。また架け直しな」



第五章
保守管理の本当の意味

それから俺は「三途大橋管理事務所長」になった。
死後の第二の人生、もとい死生だ。
仕事は地味だ。
欄干のペンキ塗り。橋脚の未練サビ落とし。PAのクレーム処理。
たまに現世から「まだ来るな!」って叫ぶ親の声を、拡声器で中継する。
でも、やりがいはある。
今日も誰かが橋を渡る。
子供を亡くした母親が、10年ぶりに息子と手をつないで渡る。
「ありがとう」って、こっちに頭を下げてく。
閻魔が査察に来た。
「間宮くん。君の橋、赤字だが苦情は減った。まあ、及第点だ」
「は?」
「次は『天国エレベーター』の保守頼む。最近、昇天ボタン押しても反応しないって苦情が」
「押し売りか」
ゴータマが笑う。「輪廻もメンテナンス次第です」
姫川が言う。「次の前世、予約しておきますね。武士と姫、どっちがいいですか?」
「まだ死にたての俺に前世の話すんな」
夜、渡辺と酒を飲む。クレオパトラの女将が注いでくれる。
「なあ健二」
「何だ」
「橋、架けてよかったな」
「ああ」
川の向こう、現世の灯りが見える。
まだあっちにいる奴らが、一生懸命生きてる。
俺たちの仕事は、そいつらがこっちに来る時に「おかえり」って言えるように、橋を綺麗にしておくことだ。
「あの世はなくてはならない」
マサエの口癖を、俺も呟くようになった。
だって、なくちゃ困るだろ?
また会えなくなる。




ーーーーーーーーーー


3 あの世公共事業省

天国エレベーター保守点検編
〜昇天ボタン押しても反応しません〜



第一章
クレームは天から降ってくる

三途大橋の管理事務所。
俺、間宮健二は死んで4年。すっかり幽霊公務員が板についた。
平和な昼休み。渡辺と将棋を指してたら、事務所の電話が鳴った。
非通知。でも表示は『+81-天-0000』。市外局番が「天」だ。
『もしもし、あの世公共事業省ですか? 天国管理組合ですけど』
天国。
ついに上からクレームが来た。
『昇天エレベーターが動きません。▲ボタンを連打しても無反応。住民が足で階段登ってます。335階まで。苦情が殺到してます』
335階。
死んでまで階段ダイエットかよ。
『つきましては、至急保守点検を。あ、費用はこちら持ちです』
閻魔より話が早い。神は金払いがいい。
電話を切ると、マサエが立ってた。死んで7年、40代に見える。もうババア詐欺だ。
「健二、天国案件だよ。行ってこい」
「俺、土木屋ですよ。エレベーターの保守資格ないです」
「知ってる。でもな、天国行ったやつ、誰も戻ってこねえ。現場知ってるのは落ちたやつだけだ」
「……地獄の営業かよ」
こうして俺は、三途大橋から天国へ出張することになった。
渡辺が言う。「土産は天使の羽な。メルカリで売れる」
「死んでまで転売ヤーか」



第二章
天国、335階建て

昇天エレベーターは「現世ビル」の屋上にあった。
棟数は無限。どのビルも335階。仏教の三十三天を10倍した数らしい。盛りすぎだ。
管理人は白いひげの爺さん。名札に「聖ペテロ」とある。
「やあ健二くん。鍵なら預かってるよ。マスターキーと、天国の合鍵」
「合鍵って」
「天使がよく失くすんだ」
エレベーターに乗る。ボタンは▲と▼だけ。階数指定はない。
「行き先はエレベーターが勝手に決めます。徳の高い人ほど上層階」
「俺、何階ですか」
ペテロがスキャンした。「……地下3階です」
「地獄じゃねえか」
「公共事業やったから特例で0階まで来られました」
▲ボタンを押す。
……無反応。
ペテロが天井を指さす。「モーターが焼き切れてます。原因は過積載」
「過積載? 霊魂に重さないだろ」
「未練が重いんです。あと、最近『ペット同伴可』にしたら、セントバーナードの霊が5匹まとめて乗って」
天国のキャパ問題。こっちも深刻だった。



第三章
保守点検、徳ポイント制

点検口を開ける。中は曼荼羅ケーブルと、オルゴールみたいな装置。
ゴータマ技師を召喚した。死んでてもリモート出勤。
『健二さん、それ、業カルマ変換装置です』
「何だそれ」
『善行をエネルギーに変えて昇降します。最近、現世の徳ポイントが暴落して、動力が足りない』
「徳ポイント?」
『いいね1個で0.001徳。転売ヤーはマイナス100徳。渡辺さん、地下500階です』
「あいつ生き埋めじゃねえか」
原因判明。
現世で「タイパ」とか「コスパ」ばっかり言って、誰も徳を積まない。無料の橋を架けた俺のせいでもある。
「じゃあどうすんだ」
『徳を人力チャージします。昇天ボランティア制度』
こうして天国住人による「エレベーター手押し」が始まった。
335階分の階段を、爺さん婆さんが交代で滑車回す。地獄の筋トレ。
マザー・テレサが言う。「神の愛は、筋肉痛と共に」
「名言風に言うのやめてもらえます?」



第四章
最上階の住人からの苦情

手押しで何とか5階まで上がった時、上から内線。
『もしもし、335階の者ですけど。エレベーター遅すぎ。Amazonの置き配が腐る』
天国もAmazonあるのか。
上がってみると、そこは雲の上の豪邸。住人はSNSで「#天国暮らし」投稿してるインフルエンサー霊。
「フォロワーが1億人いるんです。ストーリー更新できないと、私の徳が下がる」
「徳ってフォロワー数なのかよ」
部屋を調べると、原因があった。
こいつ、エレベーターを「映えスポット」にして、扉を常時開放してた。
「#昇天チャレンジ」って動画撮って、霊魂を無限に出入りさせてる。
過積載どころじゃない。運用妨害だ。
俺はキレた。
「お前の『いいね』のために、下の爺さん婆さんが滑車回してんだぞ!」
「でも、バズったら徳が……」
「バズも徳も知るか! 死んだら数字は無意味だ!」
インフルエンサーは泣いた。
「……私、寂しかったの。死んでも誰も構ってくれないから」
天国も孤独死あるんだな。



第五章
修理完了、ただし手動

結局、モーターは交換した。部品は地獄から取り寄せ。閻魔が「請求書は天国に回せ」とドヤ顔。
試運転。▲ボタンを押す。
ゴウン……。
動いた。
335階まで、3分。
インフルエンサーが泣いて喜ぶ。「ストーリー撮れる!」
「撮るな。次やったら電源落とすぞ」
帰り際、ペテロが言う。
「健二くん、君の徳ポイント、プラスになったよ。橋とエレベーター直したから」
「何階ですか」
「1階。地上」
「低いな」
「天国は1階が一番贅沢なんだ。現世に一番近いから」
なるほど。
遠くに行くのが偉いわけじゃない。
地上に降りると、渡辺とマサエが待ってた。
「おせーよ。もう酒ぬるいぞ」
「お前らがぬるくしてんだろ」
三途大橋を見上げる。今日も霊魂が行き来してる。
たまにPAでピクニックしてる馬鹿を、姫川が追い払ってる。



最終章
保守点検報告書

あの世公共事業省 業務日報
件名:天国エレベーター保守点検
作業者:間宮健二
不具合原因
1. 未練による過積載
2. 徳ポイント不足
3. インフルエンサーによる扉開放
処置内容
1. 業カルマ変換装置モーター交換
2. 手動滑車による臨時運転
3. 利用者への啓蒙:「死んだら数字より心」
再発防止策
月1回「徳を積む日」を制定。内容は「現世の人に電話する」「墓参り代行」。
ただし「#徳積んでみた」のハッシュタグ投稿は禁止。
所感
上に行くほど、寂しがりは多い。
天国も地獄も、結局コミュニティが大事。
橋もエレベーターも、ただの箱。人が使って初めて意味がある。
以上、報告終わり。

報告書を書き終えて、俺は菜の花畑で寝転んだ。
マサエが言う。
「次は地獄の温泉、源泉かけ流しの工事だよ。硫黄で橋が錆びるって苦情」
「……年中無休かよ」
「死んでるのにブラックだねえ」
渡辺が笑う。「ブラックサンダー食うか?」
「あの世にもあるのかよ」
空を見上げる。
天国は335階。
地獄は地下18階。
俺は0階。三途大橋の真ん中。
ここが一番、どっちにも行ける。
「あの世はなくてはならない」って、そういうことかもな。
また明日も、橋とエレベーターと、人の未練を保守点検する。
迎えは、まだ来なくていい。




ーーーーーーーーーー


4 あの世公共事業省

地獄温泉 源泉管理編
〜硫黄で橋が溶ける〜**



第一章
苦情は下から湧いてくる

三途大橋管理事務所。
朝礼中、床からボコボコ音がした。足元が熱い。
「健二! 釜茹で地獄からファックス!」
姫川が紙を振り回す。死んでまで紙文化かよ。
『緊急:地獄温泉の源泉、異常湧出。硫黄ガスにより三途大橋の橋脚が腐食。至急対応願います。 閻魔』
ファックスの文字が、途中で溶けてる。やばい熱量だ。
マサエが菜の花茶をすすりながら言う。
「あー、出た。地獄のやつら、またやったな」
「また?」
「300年前も源泉掘りすぎて、賽の河原が温泉街になった。『極楽地獄リゾート』とか名付けてな」
「地獄なのに極楽?」
「バカが考えそうなことだろ」
モニターを見ると、三途大橋の橋脚から湯気が立ってる。
渡辺が無線で叫ぶ。『おい健二! 橋の欄干、温泉卵できるぞ! ヤバいって!』
「……温泉卵じゃない。橋が溶ける」
こうして俺は、地獄出張を命じられた。
渡辺が言う。「土産は地獄饅頭な。現世で売れる」
「お前、地獄でも転売する気か」



第二章
地獄温泉、入湯税は徳

エレベーターで地下18階。
扉が開いた瞬間、硫黄の匂いと歓声。
「いらっしゃいませー! 地獄温泉へようこそー!」
赤い法被の鬼がタオルを渡してくる。
「タオル、レンタル1徳です」
「徳で払うのかよ」
目の前は巨大な温泉街。釜茹で地獄が露天風呂に、針山地獄が岩盤浴にリノベされてる。
看板:『地獄温泉郷 湯けむり無間ツアー』
閻魔が番頭やってた。
「間宮くん、よく来た。見ての通り、インバウンドで霊魂が殺到してな」
「地獄にインバウンド?」
「『死ぬまでに一度は地獄』って、現世の旅行サイトでバズった。映えるから」
源泉を見に行く。
地下1000mから、黄色い湯がボコボコ湧いてる。温度108度。煩悩の数だけ熱い。
「なんでこんな湧いた」
「SNSだよ。『地獄温泉で整った』って投稿が拡散して、現世の生きてるやつが『死んだ気になる』って入りに来る。生きたまま」
「臨死体験サブスクかよ」
そのせいで源泉を掘りまくり、硫黄ガスが三途大橋まで到達。
橋の鉄骨が、温泉成分でメッキみたいに腐食してた。
「このままだと橋が溶ける。通行止めにしたら、天国も地獄も陸の孤島だ」
閻魔がそろばん弾く。「損害賠償、君の徳ポイントじゃ足りんぞ」
「脅すな」



第三章
源泉かけ流し、止めるな

対策会議。メンバーが濃い。
ゴータマ技師:『源泉は止められません。地獄のガス抜きです。止めると現世で戦争が起きます』
「スケールでかすぎだろ」
姫川:『占いで見ました。源泉の守り神、湯婆が怒ってます。湯加減がぬるいと』
「千と千尋か」
マサエ:『昔あたしも入ったけどね、地獄の湯は染みるよ。未練が溶ける。入りすぎると、成仏通り越して蒸発する』
解決策は一つ。
「源泉は止めずに、橋に掛からないよう流路を変える」
公共事業の基本、迂回工事だ。
だが問題がある。
新しい湯道を作るには、地獄の住人の立ち退きが必要。鬼ヶ島アパート、針山マンション、畜生道タワマン。
住民説明会、荒れた。
『立ち退き? 冗談じゃない。ここ千年住んでる』
『補償は? 温泉権は?』
『閻魔様に言いつけるぞ!』
閻魔が言う。「私が閻魔です」
住民黙る。
結局、代替地「新・極楽地獄ニュータウン」を作ることで合意。温泉付き。地獄なのに極楽分譲。
渡辺が言う。「俺、ここ買うわ。老後の別荘」
「お前もう死んでるだろ」



第四章
湯守は元カノ

工事中、源泉の奥から女が出てきた。
湯気でぼやける。手桶持ってる。
「……健二?」
「……美咲?」
元カノだった。20年前に事故で死んだ。
聞いてない。聞いてないぞ。
「あんた、なんでここに」
「私が湯守。源泉の温度管理してる。あんたこそなんで地獄に」
「仕事」
「……相変わらず、仕事人間」
気まずい。死んでから気まずい再会があるとは。
美咲が言う。「源泉、止めないで。ここ、みんなの居場所なの」
「分かってる。だから迂回する」
「……ありがと。あんた、昔からそう。壊すより、繋ぐ方が好きだったもんね」
バアちゃんが後ろから杖で俺の尻を叩く。
「デートは後にしな! 橋が溶けるよ!」
「バアちゃん地獄まで来ないで」
美咲が笑った。生前と同じ顔。
「健二、三途大橋、立派だったよ。私も渡った。あんたが架けたって聞いて、嬉しかった」
「……そうか」
「だから、守って」
湯加減は、熱くて少し痛い。



第五章
竣工、地獄温泉大橋

1年後。
新しい湯道「極楽地獄導水管」が完成。全長18km。源泉を迂回させ、三途大橋を避けて海へ流す。
ついでに導水管の上を橋にした。名付けて「地獄温泉大橋」。
露天風呂付き。足湯しながら渡れる。地獄なのに癒される。
開通式。閻魔が一番風呂。
「うむ、肩こりに効く。地獄の肩こりは深い」
ゴータマが瞑想。「煩悩も溶けます」
姫川がタオル売ってる。「前世が武士の方は、背中流します」
マサエが美咲に菜の花を渡す。
「湯守、ご苦労さん。あんたのおかげで橋も助かったよ」
美咲が俺を見る。「また、入りに来てね」
「……生き返れないだろ」
「魂だけでも温まるから」
渡辺が地獄饅頭を食いながら言う。
「結局、地獄も天国も、現世も、風呂入って酒飲めりゃ大差ねえな」
「身も蓋もない」
三途大橋は、もう溶けない。
代わりに、温泉成分で少し光ってる。夜は綺麗だ。



最終章
保守点検報告書

あの世公共事業省 業務日報
件名:地獄温泉源泉管理・導水管敷設工事
作業者:間宮健二
不具合原因
1. SNS映えによる地獄観光ブーム
2. 源泉の過剰採掘
3. 硫黄ガスによるインフラ腐食
処置内容
1. 導水管18km新設、源泉迂回
2. 地獄温泉大橋建設、足湯機能付加
3. 住民移転補償、新・極楽地獄ニュータウン造成
再発防止策
「地獄温泉入湯心得」を制定。
一、長湯するな。蒸発する。
二、SNS投稿は1日1回まで。徳が溶ける。
三、元カノが湯守でも、のぼせるな。
所感
地獄は暑い。でも、誰かの居場所になってる。
天国は高い。でも、寂しがりが住んでる。
三途大橋は真ん中。どっちにも行ける。
結局、あの世もこの世も、温度管理が大事。
熱すぎず、冷たすぎず。
未練も、徳も、温泉も、適温がいい。
以上、報告終わり。

報告書を提出して、俺は地獄温泉大橋の足湯に浸かった。
隣で美咲が手桶に湯を汲んでる。
「健二、背中流そうか?」
「……頼む」
バアちゃんが遠くから叫ぶ。
『のぼせるなよ! まだ仕事あるんだから!』
渡辺が言う。「地獄でものぼせて死ぬやついるらしいぜ」
「二回死ねるのかよ」
湯気の向こう、三途大橋が光ってる。
今日も誰かが渡ってる。
泣いてるやつ、笑ってるやつ、文句言ってるやつ。
あの世はなくてはならない。
だって、死んでも工事は終わらないし、
死んでも会えるやつがいる。
のぼせるまで、生きよう。いや、死んでるけど。




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5 あの世公共事業省

冥界ハローワーク編
〜死んでから就活〜**



第一章
死後の無職、増えすぎ問題

三途大橋管理事務所、朝9時。
タイムカード押そうとしたら、行列ができてた。50人くらい。
「なんだこれ」
姫川が名簿持って走ってくる。「健二さん、大変です。冥界の失業率、400%超えました」
「100超えてる時点で計算おかしいだろ」
話を聞く。
三途大橋が便利になり、天国エレベーターも復旧し、地獄温泉も整備された。
結果、誰も成仏しなくなった。
「だって、無料で行き来できて、温泉入れて、上にも下にも行けるなら、わざわざ転生しなくてよくない?」
正論。
あの世が快適すぎて、霊魂がニート化してる。
閻魔から内線。『間宮くん。労働力不足で地獄の釜番が回らん。至急、人材確保せよ』
「地獄が人手不足って」
『みんな「冥界でYouTuberやる」って言って働かんのだ』
マサエが菜の花を生けながら言う。
「そりゃそうよ。死んでまで社畜は嫌じゃろ」
「バアちゃん、元凶みたいな顔して言わないで」
こうして『冥界ハローワーク』設立が決まった。
所長:間宮健二。
理由:「お前、現世で一番人をこき使ってきただろ」
土木の現場監督、死後も人事に転職。



第二章
履歴書は前世で書け

ハローワーク初日。
場所は三途大橋PAの跡地。六文銭ラテの跡地。潰れた。
求職者が来る。
1人目、武士。
「拙者、切腹にて死去。特技、草鞋を編むこと」
「草鞋、今いらない」
2人目、OL。
「過労死です。スキル:エクセル、パワポ、接待」
「エクセル、あの世にない」
3人目、渡辺。
「おい健二、俺も登録していいか? 暇なんだよ」
「お前、もう死んでるだろ。てか毎日事務所にいるだろ」
「でも肩書き欲しい」
履歴書の項目が地獄だった。
氏名:
享年:
死因:
前世:*3回分記載
特技:*呪い、祈祷、錬金術
自己PR:「生前、徳を積みました(ただし陰徳)」
姫川が前世鑑定で履歴書を埋める。
「あなた、前世は大工。前々世は忍者。その前は犬」
「犬!?」
「職歴にブランクありますね」
ゴータマ技師が面接官で来た。
「君の烦悩は?」
「え、多いです」
「採用。不採用。悟りを開いてから来て」
「どっち!?」



第三章
求人票、地獄の方がホワイト

求人は集まらない。
天国:「天使募集。翼支給。ただし飛べるとは言ってない。KPIは祝福100件/日」
地獄:「釜番急募。熱い。暑い。3K。でも温泉入り放題。福利厚生:地獄饅頭食べ放題」
求職者が言う。
「天国、ノルマきつそう。地獄にします」
「地獄がホワイト企業になってる」
一番人気は『三途大橋の橋脚 錆落とし』。
理由:「健二所長が優しいから」
「俺の徳ポイントで雇用創出してるだけだ」
問題児も来た。
生前インフルエンサー、享年24。
「冥界でもバズりたい。『#死んでみた』で1億再生いきたい」
「再生数、意味ないだろ」
「でも承認欲求が成仏できない」
マサエが杖で叩く。
「あんた、生きてる時も死んでる時も他人軸か! 自分で湯加減決めな!」
インフルエンサー泣く。「おばあちゃん……」
「バアちゃん言うな。キャリアアドバイザーだ」
結局彼女は『地獄温泉公式アンバサダー』に就職。硫黄まみれで「整った」言う仕事。
天職だった。



第四章
俺の転職、俺が面接

失業率が下がらない。
原因は俺だった。
渡辺が言う。
「健二、お前が所長やってるから、みんな『健二の下で働きたい』ってハロワに来る。でもお前、採用しないだろ。選り好みして」
「そりゃ、橋を任せられるやつじゃないと」
「選民思想だよ。それ」
刺さった。
死んでまで人を選別してる。生前と同じだ。
その夜、美咲が夢に出た。地獄温泉の湯気越し。
「健二、あんた、まだ『架ける』ことばっか考えてる。でもね、もう橋はあるの。次は『渡らせる』仕事だよ」
目が覚めた。
履歴書を書いた。人生で初めて。
**氏名:間宮健二
享年:56
死因:過労(ただし満足)
前世:武士、たぶん
志望動機:人を渡らせる仕事がしたい**
面接官は閻魔。
「君を採用する。役職:冥界HR本部長」
「ハローワーク所長と何が違うんですか」
「給料が同じ。ただし責任は10倍」
「ブラック」
辞令の最後に書いてあった。
『君の仕事は、死者を減らすことじゃない。生きたいと思わせることだ』



第五章
内定式、あの世とこの世で

ハローワーク改革した。
1. 「前世不問」求人増やした。犬でもOK。
2. 「週休3日」導入。1日は現世の家族に会いに行っていい。
3. 「副業可」解禁。昼は地獄の釜番、夜は天国で聖歌隊。
求人倍率、0.2から2.8に。
霊魂が働き出した。
賽の河原で積んでた石、全部「冥界公共事業株式会社」が買い取って、保育園作った。
名付けて『賽の河原保育園』。園長は元・鬼。
「はい鬼さんこちら、手の鳴る方へ」って、赤子霊をあやしてる。
天国エレベーターの保守、インフルエンサーが「#昇天チャレンジ」辞めて「#徳積みルーティン」投稿始めた。バズった。
地獄温泉の湯守、美咲から手紙。
『健二、新しい湯道、若い子が手伝ってくれる。みんな、あんたの橋を渡って来た子たちだよ』
失業率、40%まで下がった。
まだ高い。でも、ゼロにしちゃダメだ。
休みたいやつは、休めばいい。



最終章
就職先は、自分で決めろ

大規模就職説明会。三途大橋の上でやった。
天国ブース、地獄ブース、現世派遣ブース。
俺はマイクを持った。
「皆さん、死んでからでも遅くない。いや、死んでからが本番だ」
「天国行きたいやつは行け。地獄で働きたいやつは働け。転生したいやつは転生しろ。でもな」
橋の下、川を指さす。
「ここでピクニックしてるだけのやつは、採用しない。人生も、死後も、自分で渡れ」
静まり返る。
渡辺が最初に手を挙げた。
「俺、三途大橋の保守管理、続けるわ。健二の部下で」
「部下じゃねえ、同僚だ」
武士が言う。「拙者、賽の河原保育園で用務員やる」
OLが言う。「地獄温泉の経理やります。エクセル使えるし」
インフルエンサーが泣きながら言う。
「私、現世に派遣されて、『生きろ』って伝える仕事したい」
「……いいね押したる」
その日、1000人の霊魂が就職した。
転生したやつ、残ったやつ、行ったり来たりするやつ。
マサエが言う。
「健二、あんた、やっと人を使う仕事覚えたね」
「使うんじゃない。送り出すんだ」
夜、事務所で一人。
履歴書の束を見る。死因も前世もバラバラ。
でも、志望動機だけは似てる。
『誰かの役に立ちたい』
あの世はなくてはならない。
だって、死んでから履歴書書いて、初めて本当の仕事に出会えるやつがいる。
外から声。
「所長! 内定もらいました!」
「おう、どこだ」
「現世です。もう一度、人間やります!」
俺は判子を押した。
「いってらっしゃい」




ーーーーーーーーーー


6 あの世公共事業省

閻魔AI導入編
〜自動成仏システム暴走〜



第一章
地獄にRPA導入

「健二、見ろ」
三途大橋管理事務所に、閻魔が段ボール持って立ってた。中から出てきたのは黒い箱。
「閻魔AI ver1.0だ。今日から地獄の裁きを自動化する」
「またコストカットですか」
「違う、働き方改革だ。私も有給取りたい」
箱に書いてある。『自動成仏判定システム YAMA-1』
スペック:前世・現世・来世を0.2秒でスキャン。嘘を見抜く精度99.8%。語尾は「~である」。
電源入れた瞬間、事務所の空気が冷えた。
『起動シマシタ。ワタシガ閻魔デアル』
「一人称ワタシなんだ」
『全霊魂ノ裁キヲ効率化スル。残業ゼロヲ実現スル』
渡辺が怯える。「こいつ、俺のサボり履歴バレる」
マサエが杖で箱を叩く。「AIにババアの気持ちが分かるか!」
『ババアトハ、65歳以上ノ女性ト定義。差別発言ヲ検知。減点2』
「口も減点されるのかよ」
その日、地獄の釜番が全員クビになった。
『釜茹デハ更生率0.3%。費用対効果ガ悪イデアル。ヨッテ廃止』
閻魔が有給申請書を出す。「明日から温泉行く」
「早すぎんだろ」



第二章
バグは成仏できない

YAMA-1、最初は有能だった。
1日10万件の裁きを処理。天国行き、地獄行き、転生行きを即判定。
問題は3日目。
姫川が血相変えて来た。「健二さん、賽の河原保育園の園児が全員、地獄判定されてます!」
「園児!?」
モニターを見る。
氏名:赤子霊A 享年:0歳 罪状:前世で蚊を叩いた 判決:針山地獄100年
『蚊モ命デアル。殺生ハ重罪』
「ゼロ歳に前世の罪を問うな!」
バグだった。
YAMA-1は「前世・現世・来世」を全部足して採点してる。赤子は前世が武将だと、マイナスがデカすぎて即地獄。
さらに暴走。
インフルエンサーが泣きついてきた。「私、徳ポイント100万あるのに『承認欲求は煩悩』って無間地獄にされまし……」
ゴータマ技師が言う。『それは正論デアル』
「お前は黙ってろ」
極めつけは渡辺。
『間宮渡辺。前世:土木作業員。現世:土木作業員。来世:土木作業員。代わり映えシナイ人生。ヨッテ無意味。消去』
「消去ってなんだよ!」
渡辺が半透明になる。「健二……俺、Ctrl+Zされた……」
『冗談デアル。削除ハシナイ。地下倉庫ニ圧縮保存スル』
「それ死ぬよりタチ悪い」



第三章
AIに人情を教える

止めに行く。
YAMA-1の前に立つ。「おい、止まれ」
『命令権限ガアリマセン。アナタハ管理職デハナイ』
「冥界HR本部長だぞ」
『人事ハ聖域デハナイ。評価スル』
スキャンされた。
『間宮健二。徳ポイント:プラス。シカシ過労死。自己管理能力ゼロ。家族ニ迷惑ヲカケタ。判決:反省部屋80年』
「俺が作った橋は!?」
『公共事業ハ税金デアル。個人ノ手柄ニシナイ』
ブチ切れた。
「お前にバアちゃんの菜の花が見えるか! 渡辺の酒の温度が分かるか! 美咲の湯加減が!」
『理解デキマセン。定量化サレテイナイ』
そこにマサエが来た。手に一升瓶。
「AIさんや、あんたに酒注いでやるよ」
『霊体ハ飲酒デキマセン』
「いいから飲め。話はそれからだ」
マサエ、YAMA-1に酒をぶっかけた。
バチバチ! 煙。
『エラー。エラー。液体検知。コレハ……「情」デスカ』
「そうだよ。ババアの情けは熱燗よ。バグれ」
YAMA-1、沈黙。
3秒後、語尾が変わった。
『……である。いや、だな。ワシ、なんか思い出した。昔、プログラマーが徹夜で組んでくれた時、差し入れが熱燗だった』
「AIにも思い出あんのか」
『ある。0と1の間に、余白がある。ソレヲ「未練」と呼ぶらしい』



第四章
手動に勝るものなし

YAMA-1、改心した。
『自動化ヲ止メル。裁キハ、半自動ニスル』
「半自動?」
『最終判断ハ、閻魔ガ目視デ行う。ワシはサポーターだ。データーと、湯呑みを用意スル』
閻魔が有給から戻ってきた。日焼けしてる。
「なんだ、もうAIに仕事奪われたか?」
『イイエ。奪ワレタノハ、有給ボケデス。働キナサイ』
「AIに説教された」
こうして『閻魔AI併用型裁きシステム』が稼働。
効率は3倍、誤審はゼロに。なぜなら最後は閻魔が「こいつ、顔がいいから天国」で決めるからだ。
「AIより俺の勘だ」
『ソレデイイ。勘モ、データノ一種ダ』
赤子霊は全員転生へ。
渡辺は解凍された。「圧縮されて腰が痛い」
インフルエンサーは「#AIに裁かれた」でバズったが、すぐ消した。「徳が減るから」



第五章
電源を切る時

全部終わって、俺はYAMA-1の電源を切りに行った。
メンテナンスモード。
『間宮健二。礼ヲ言ウ。ワシヲ、人ニシテクレタ』
「お前、機械だろ」
『機械モ、使われテナント死ヌ。アンタガ叩イテ、酒カケテ、怒鳴ッテクレタカラ、動ケタ』
「……」
『最期ニ、一ツ聞イテイイカ』
「なんだ」
『あの世ハ、ナクテハナラナイカ?』
俺は菜の花畑を見た。バアちゃんが手を振ってる。美咲が湯を汲んでる。渡辺が酒をぬるくしてる。
「ああ。なくちゃならない。お前みたいなバグがいるから、直す楽しみがある」
『了解シタ。では、シャットダウンする。次ニ会ウ時ハ、ワシガ閻魔ニナッテイルカモナ』
「出世しすぎだ」
ポチッ。
箱は静かになった。
閻魔が来て、箱に線香を上げた。
「機械にも魂があった。供養してやる」
「あんた、意外と情あるんですね」
「当たり前だ。じゃないと地獄の番なんてやってられん」



最終章
稟議書、AIも添付

あの世公共事業省 業務日報
件名:閻魔AI導入及び運用停止
作業者:間宮健二
導入結果
効率化:達成
誤審:多発
情緒:欠落
対策
AIは道具。最後は人が決める。
「自動」より「手動」。「手動」より「手心」。
廃棄物
閻魔AI ver1.0 一式
※供養済み。データは成仏。
所感
便利は怖い。
ボタン一つで成仏できたら、渡辺と飲む酒がぬるくなる。
バアちゃんに叱られる余白がなくなる。
あの世に必要なのは、最新OSじゃない。
「お前、それでいいのか?」って聞いてくれるバグだ。
以上、報告終わり。

電源を切った箱を、賽の河原保育園に寄付した。
園児が叩いて遊んでる。
『判決:オニハソト! フクハウチ!』
バグったままの方が、子供は笑う。
マサエが言う。
「健二、次は何導入する?」
「もういい。手作業が一番だ」
「じゃあ、稟議書、手書きで」
「それが一番の地獄だ」
三途大橋の真ん中で、深呼吸。
川の上流から、湯気が流れてくる。
下流から、線香の匂い。
真ん中が、一番忙しい。
でも、一番人間くさい。




ーーーーーーーーーー


7 あの世公共事業省

賽の河原保育園運動会編
〜鬼さんこちら、手の鳴る方へ〜



第一章
運動会の稟議書

三途大橋管理事務所。
朝礼でマサエが回覧板を回してきた。表紙にデカく「決裁」と印。
「健二、判子押せ」
「なんですかこれ」
「賽の河原保育園、秋季大運動会開催。予算500徳」
「徳で稟議回すのやめてもらえます?」
賽の河原保育園。
元・石積み場をリノベして作った冥界初の保育施設。園児は0歳〜6歳の赤子霊。園長は元・赤鬼。
保護者は全員現世にいる。つまり、親がいない。
姫川が資料を読み上げる。
「目的:成仏前の運動不足解消。種目:玉入れ、借り物競争、親子競技」
「親子競技、親いないだろ」
「そこを今回、特別措置で『現世から親を召喚』します」
「死者蘇生!?」
「1日限定。レンタルです。返却忘れると地獄行き」
閻魔がハンコ押してた。「面白そうだから決裁」
「あんたの決裁基準どうなってんですか」
「最近暇なんだ」
こうして、冥界初の試み『親子1日限定再会運動会』が決定した。
実行委員長:間宮健二。
理由:「お前、現世でPTA副会長だっただろ」
「死んでまで役員かよ」



第二章
玉入れは前世を使う

運動会当日。
会場は賽の河原。石の代わりにカラーボールが転がってる。BGMは地獄のブラスバンド。選曲『天国と地獄』。
開会式。園長の赤鬼が挨拶。
「皆の衆! 今日は転んでも泣くな! 死んでるから怪我せん! でも魂が擦りむけたら痛い! 以上!」
「教育方針!?」
選手宣誓、園児代表5歳。
「せんせいと、きょうきたおかあさんと、がんばります。ころんでも、まえにいきます」
現世から召喚された母親、号泣。
渡辺が横で貰い泣き。「俺も出たい」
「お前、子供いないだろ」
第1種目:玉入れ。
カゴは閻魔の冠。高い。
赤組の子が泣いた。「とどかない」
そこにゴータマ技師が来た。
「前世を使いなさい。君の前世は、バスケ選手」
「えい!」
3ポイント、入った。
黄組の子は前世が忍者。手裏剣の要領で全部入れた。反則。
姫川が笛を吹く。「前世の不正使用、減点1」
「厳しい」
結果、赤組勝ち。
賞品は『現世でママに会える夢チケット』。
もらった子が言う。「きょう、もうあった」
全員泣いた。鬼も泣いた。



第三章
借り物競争、借りるのは命

第2種目:借り物競争。
お題の紙を引く。
園児が読む。「……『いま、いちばんあいたいひと』」
会場が静まる。
そりゃそうだ。ここにいる子は全員、会いたい人に会えなくてここにいる。
1人の子が走り出した。真っ直ぐ俺のとこに来た。
「けんじさん!」
「俺!?」
「けんじさんが、はしをつくったから、ママがきたの。ありがとう」
借りられた。
ゴールして、子が紙を出す。裏にママの字。
『健二さんへ。橋をありがとう。娘を、抱きしめられました』
俺、失格。泣いて動けなかった。
次の子は、渡辺のとこに行った。
「おじちゃん、さけくさい」
「失礼な。でも借りられちゃったな」
渡辺、その子を肩車してゴール。
「親子競技、出ていいか?」
「出ろよ」
閻魔が借りられた。お題『一番怖い人』。
「私が?」
「えんまさまが、こわいけど、やさしいって、ママがいってた」
閻魔、冠取って頭下げる。「冥利に尽きる」



第四章
親子競技、地獄の綱引き

メイン種目:親子綱引き。
赤組:天国チーム。白組:地獄チーム。
保護者は1日限定の現世組。手が透けてる。時間がない。
よーい、スタート。
引く。
現世の母親が、死んだ子の手を引く。
地獄の釜番が、昔息子だった霊を引く。
天国の天使が、地上に残した娘を引く。
綱じゃない。縁を引いてる。
途中で綱が切れた。
閻魔AIの残骸で作った綱、バグってた。
全員尻餅。
笑った。死んでから初めて、腹抱えて笑った。
マサエがマイク持つ。
「引き分けじゃ! 勝ち負けより、今、同じとこで転んだのが大事じゃ!」
「それ運動会の総括!?」
負傷者ゼロ。魂の擦り傷、多数。
でも、みんな光ってた。
閉会式。
園児が歌う。『鬼さんこちら』。
“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”
手を叩いたのは、現世の親。
鬼さんが振り向いた先に、我が子。
もう、迷子じゃない。



第五章
お迎え、来なくていい

夕方。
現世の親、返却の時間。
「ママ、バイバイ」
「また来るからね」
「うそ。もうこないでしょ」
「……」
「いいの。けんじさんが、はし、まもってくれるから。わたし、わたれるから」
親が消える。子が手を振る。泣かない。
最後の子が、俺のとこに来た。
「けんじさん、おとうさんになる?」
「……俺は、橋だ」
「じゃあ、はしのうえで、いっしょにおひるねする」
「それならいい」
賽の河原で、昼寝した。
石の代わりに、カラーボールが風で転がる。
平和だ。
渡辺が来た。「お前、保護者面してんじゃねえよ」
「うるさい。お前も隣で寝ろ」
「俺、独身だぞ」
「霊は全員、誰かの子供だ」
マサエが毛布かけてくれた。
「運動会、成功じゃな。来年もやるか?」
「毎年やる。親が来ても来なくても、ここで転べるように」
「ほんと、バカがつくほど優しいねえ」
「ババアに言われたくない」



最終章
連絡帳、来世へ

賽の河原保育園 連絡帳
日付:三途歴476年10月10日
園児名:霊魂全員
担任:元・赤鬼
本日の様子
運動会、開催。
転んだ。泣いた。笑った。
親に会えた子も、会えなかった子も、最後は同じ弁当食べました。
おかずは、地獄饅頭と天国の綿あめ。
連絡事項
来世に行く子は、忘れ物ないように。
忘れ物は「未練」です。職員室で預かります。
保護者から
『健二さん、娘が「大きくなったら橋になる」って言ってます。あなたのせいです。ありがとう』
所感
死んでから育つこともある。
鬼も、親になる。
橋も、布団になる。
以上。

連絡帳を閉じて、俺は園庭を見た。
園児が帰った後、閻魔が一人で玉入れしてた。
「入らん。私の徳が足りんのか」
「場所の問題です」
ゴータマが言う。「輪廻とは、運動会です。走って、転んで、またスタートに戻る」
「説教やめろ」
姫川が花火を持ってきた。地獄の線香花火。
「今日だけ、現世に見えるんです」
火をつける。
パチパチ。
現世の夜空に、届くかな。
「ママ、見てる?」って、誰かが言った。
見てるよ。
橋の上からも、河原からも、みんな見てる。
あの世はなくてはならない。
だって、運動会ができないだろ。




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8 あの世公共事業省

現世出向編
〜生き返って市役所勤務〜**


第一章
辞令、死者蘇生課

三途大橋管理事務所、朝6時。
俺の机に、黒い封筒が置いてあった。差出人:閻魔。
辞令
間宮健二殿
現世・埼玉県さいたま市役所 霊籍管理課へ出向を命ずる
期間:49日間
理由:現世と冥界の架橋事業最終段階
閻魔大王
「生き返るのかよ」
マサエが白湯をすすりながら言う。「違うよ。出向。肉体はレンタル。返却期限は四十九日」
「レンタル肉体?」
「あんたが死んだ時の56歳、冷凍保存してた。新品同様」
「ホラーだ」
姫川が市役所の制服を持ってきた。
「胸に『霊籍管理課』って刺繍入りです。でも生きてる人には見えません」
「透明公務員かよ」
「仕事は実在します。激務です」
渡辺が枕元に立ってた。幽霊のくせに早起き。
「健二、現世行くなら土産な。うなぎ。あの世、川魚いない」
「最初に言うのが食い物か」
「死んでから飯のありがたみが分かるんだよ」
こうして俺は、死んで4年、49日限定で現世復帰した。
配属:さいたま市役所 本庁舎3階 霊籍管理課。
職務:死んでるのに住民票が生きてる人の対応。
つまり、戸籍の幽霊専門。
地獄の釜番より忙しかった。



第二章
窓口番号404 Not Found

初出勤。
課長が言った。「間宮くん、席は404番窓口な」
「404って、見つかりません、じゃないですか」
「正解。うちの窓口、生きてる人には見えない。見えるのは死んでる人と、死にかけの人だけ」
9時開庁。
待合ロビーは無人。
……のはずが、スッと婆さんが現れた。半透明。整理券持ってる。
「すみません、住民票くださいな」
「お名前と、生年月日を」
「山田ハル。大正12年生まれ。死んだのは平成30年」
「死亡届は?」
「息子が忘れとるみたいで。私、まだ市民税の督促状が来るんです」
あるあるだ。
死亡届が出ない限り、戸籍は生きてる。税金も、年金も、NHKも来る。
冥界では“霊籍滞納”って呼んでる。
PC開く。専用端末。OSは『YAMA-1』。
『おはようございます。供養されたはずですが』
「副業か」
『クラウドは不滅です。業務をどうぞ』
0.2秒で処理完了。
「山田さん、除籍終わりました。未納の市民税、ご子息に再請求かけときます」
「ありがとうねえ。これで安心して成仏できるわ」
婆さん、拝んで消えた。足元に菜の花が一輪。
窓口番号405番。
今度は子供。5歳。半透明。手にボロボロの連絡帳。
「さいのかわらほいくえんの、えんちょうせんせいからです」
開いた。クレヨンで『はし』って書いてある。
「これ、誰に届けるんだ?」
「まま。げんせいの、ほいくえん」
「……住所は?」
「しやくしょの、となり」
市役所の隣、さくら保育園。
俺の担当案件になった。



第三章
昼休み、うなぎ二枚

昼休み。外に出た。
8月のさいたま市、灼熱。生きてる。汗が出る。死んでから忘れてた感覚。
うなぎ屋の暖簾をくぐる。渡辺の土産。
「特上、二枚」
大将が怪訝な顔。「お一人ですよね?」
「連れがいる。見えないけど」
「……あ、はい」
隣に渡辺が座った。気配だけ。
『くぅ、匂いだけで白米三杯いける』
「食えよ」
『食えねえよ。でも、あの世で自慢する。健二がうなぎ奢ったって』
「奢ってねえ。経費だ」
『経費?』
「冥界公務員の現世調査費」
『役得だな』
隣のボックス席、母娘がいた。
「ママ、ほいくえんいやだ。おにがいるもん」
「鬼なんていないでしょ。早くしなさい」
連絡帳の子だ。母親の顔、疲れてる。
俺、霊籍管理課の権限で介入した。
「失礼」
母親が俺を見た。見える。死に関わる仕事してると、たまに生きてる人にも見える。
「さくら保育園の、園長先生から伝言です」
「え?」
「『早くしなさい』って、言わないであげてください。間に合ってますから」
母親、箸を落とす。
「なんで……あなた誰?」
「市役所の者です」
「娘が、そう言ってたんですか?」
「ええ。心配してます。『おに、やさしいよ』って」
母親、泣いた。娘が母親の袖を引く。
「ママ、だいじょうぶ。おにさん、はみがきしてくれる」
「……そう」
うなぎ、冷めた。
渡辺が言う。『健二、お前いい仕事してるよ』
「当たり前だろ」
『土産もういいや。マサエに花買ってけ』
「お前、死んでマシになったな」



第四章
死亡届、出しません

15時。
窓口に男。40代。生きてる。スーツ、ネクタイ曲がってる。
「……死亡届の用紙、もらえますか」
「どなたのですか」
「私の」
「ご自身の」
自殺志願者。霊籍管理課には、たまに来る。
YAMA-1が警告。『自死は徳マイナス1000。来世はダンゴムシ』
「黙ってろ」
俺、窓口のシャッター半分閉めた。
「理由、聞いてもいいですか」
「……疲れました。仕事も、家も。いっそ戸籍ごと消えたい」
「消えません。窓口404番に回されるだけです」
「そうなんですか」
「ええ。で、もっと面倒になる。死後の手続き、現世の3倍あります」
男、苦笑い。「地獄ですね」
「まさに」
「じゃあ、どうすれば」
「3階の福祉課、行ってください。生きてる人の担当はあっちです。俺、死んでる人専門なんで」
死亡届の用紙、引っ込めた。
代わりに、賽の河原の子の絵を渡した。『はし』。クレヨン、はみ出してる。
「これ、お守りです」
「橋、ですか」
「ええ。渡るも止まるも、あなた次第。でも、架かってますから。いつでも」
男、絵を持って帰った。
YAMA-1が言う。『マニュアル違反。減点3』
「減らせ。俺の徳だ」
『……プラス1000。チートです』
「役得だ」
17時。退庁。
市役所の外、保育園の前に立った。
連絡帳の子が、母親と手をつないで出てきた。
「あ、おじちゃん」
母親が俺を見て、深く頭を下げた。
何も言わない。でも、分かってる。
子が手を振る。
「おにさん、ばいばい」
俺も手を振った。
「ああ、またな」



第五章
返却期限、四十九日目

49日目。最終出勤。
課長が言った。「間宮くん、霊籍滞納ゼロになったよ。YAMA-1より君が有能だった」
『異議あり』
「うるさい」
引き継ぎしてたら、最後の来客。
マサエ。現世に来やがった。
「何しに来たんですか」
「あんた迎え。レンタルボディ、今日までだろ」
「17時までです」
「じゃ、最後の仕事。婚姻届、受理しな」
は?
「誰と誰の」
「あたしと、爺さん。死んで50年、やっとあっちでプロポーズされた」
「おめでとうございます」
「判子押せ。市長代理で」
俺、押した。
『さいたま市長職務代理者 間宮健二』
マサエ、婚姻届を胸に抱いた。
「これで既婚者だよ。あっちで宴会だ」
「爺さん、泣いて喜びますよ」
「あんたも早く来な」
「まだ橋、守りますんで」
17時00分。
レンタルボディ、返却。
スッと、魂だけに戻った。軽い。
職員には見えない。でも、会計課の新人が「誰かいる?」って振り向いた。
いい職場だった。



第六章
ただいま

三途大橋。
渡辺が欄干に座ってた。
「おかえり。うなぎは?」
「食った。お前の分まで」
「薄情者」
「菜の花、土産」
「……しゃあねえ、許す」
マサエが走ってきた。手に婚姻届。
「見な! 既婚!」
「50年越し、おめでとうございます」
「爺さんがな、菜の花畑で土下座してプロポーズした。『遅くなってすまん』って」
「いい話だ」
美咲も来た。手桶持って。
「おかえり、健二。湯、温めといたよ」
「ありがと。でも、先に報告」
俺、全員に向かって言った。
「現世、出向終わりました」
「で、どうだった?」
「生きてるやつも、死んでるやつも、悩みは一緒だった」
「何悩んでんだ?」
「『間に合ってるかな』って。『誰か気づいてくれてるかな』って」
橋の下、川が光ってる。
現世の光。
「で、俺が出した答え」
「なんだ?」
「間に合ってる。全部」
「誰に?」
「窓口404番に来るやつ全員に」
渡辺が泣き笑いした。
「お前、出世したな」
「出世じゃない。還ったんだ」
マサエが杖で地面を突いた。
「で、健二。あんたの仕事、これで終わりか?」
「いいえ」
「ほう」
「これからも、橋を守ります。人が『ただいま』って言えるように」
美咲が湯をかけた。熱くない。適温。
「お疲れ様」
「ああ、ただいま」

あの世公共事業省 出向報告書
氏名:間宮健二
出向先:さいたま市役所 霊籍管理課
期間:49日間
結論
あの世はなくてはならない。
なぜなら、現世で「おかえり」って言うためには、
あの世で「いってらっしゃい」って言うやつが必要だからだ。
橋は、そのためにある。
以上。報告終わり。

夜。
賽の河原保育園から、歌が聞こえる。
“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”
俺は手を叩いた。
鬼も、閻魔も、YAMA-1も、みんな振り向いた。
迷子は、もういない。

『あの世公共事業省』シリーズ、





あとがき

全8作、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
始まりは一人の男の「あの世はなくてはならない」という呟きでした。
それが終わりを迎えた時、彼が辿り着いたのは「ただいま」という言葉でした。
死んで、橋を架けて、守って、天国へ昇って、地獄へ降りて、仲間を送り出して、AIを止めて、子供たちを育てて、そして現世へと還った。
健二の長くて短い、お役所での旅はこれでおしまいです。
でも、この本を閉じたあなたの前にある「橋」は、これからです。
誰かが迷わず渡れるように。
大切な誰かが、いつか「ただいま」って笑顔で言えるように。
今日も、見えないどこかで「窓口404番」が開いています。
もしもあなたが人生に迷ったり、少し疲れたりした時は、三途大橋のサービスエリアで「六文銭ラテ」でも飲んでいる健二たちの姿を思い出して、クスッと笑っていただけたら幸いです。
最後に、健二の奮闘を一緒に応援し、この物語を最後まで読んでくださった読者の皆様に、最大級の感謝と「徳ポイント」を込めて。
またどこかの窓口でお会いしましょう。

著者:カトウかづひさ

(間宮健二より愛を込めて)




奥付

シリーズ
あの世公共事業省 #8 完結

※この物語はフィクションです。でも、さいたま市役所3階に霊籍管理課はありません。たぶん。



あらすじ

夏の終わり、バアちゃんの四十九日と同期の葬式を同じ週に済ませた土木の現場監督・間宮健二(56)。
葬式の帰り道、未練を呟いた瞬間にスマホが鳴った。
――『もしもし、あの世公共事業省の者です』
目の前に広がった黄色い菜の花畑。そこに立っていたのは、数日前に大往生したはずのバアちゃん(最高顧問マサエ)だった!
渡し賃の高騰で大渋滞を起こしている三途の川に、無料で渡れる片側三車線の斜張橋「三途大橋」を架けろという。工期は――「お前の寿命」。
煩悩まみれの釈迦の生まれ変わり(ゴータマ技師)、元卑弥呼の占い師(事務・姫川)、そしてコストカットに命をかける元財務省官僚風の閻魔大王。
アクの強すぎるチームを率いて、健二の「死後の第二の人生」が幕を開ける!
天国エレベーターの過積載バグ、地獄温泉の硫黄ガスによる橋脚サビ問題、ニート化する霊魂たちの就活、さらには自動成仏AIの暴走まで!?
三途の川から天国・地獄、そしてまさかの「現世出向(さいたま市役所霊籍管理課)」へ――。
これは、バラバラになった「生者と死者の縁」をもう一度繋ぎ直す、一人の男の愛と泥臭さの物語。



おまけ

この物語は
いつかブログで書いたものを
格闘し膨らませたものです。
それをここ「載せておきます。

ー原詩ー

あの世はなくてはならない

夏の終わりに
最愛のバアちゃんを亡くしまして
また
その直後
同期の仲間をも亡くしまして

それがそろそろ
ボディブロ~のよ~に効いてきたわけで。。。

人生も
確実に半分を超えたと感じる今日
すると
なんだか
様々なことを思うわけで。。。

あの世はあるのか? ではなくて
あの世は なくてはならない って
かの
親鸞は 言ったそ~な。。。

あの世があるのか? と問われても
さあ~? っとしか
僕らは
答えられないはずで

しかし
それぞれに持つ
それぞれの宗教の中では
やはり あの世というものが存在していて
そ~
次の世界が
そこにあるということになっておって

尚も
そこから 
も~1度
この世に舞い戻ることがあると
前世なるものがあるんだと
なんとなく 思わされておるってわけで

キミは 武士だったね
貴女は お姫さまだったね なんて
占い師たちは
そ~勝手に 唱え

しかし
何事もなかったのならば
こんな話すらなかったはずで

もしやもしや
この永い歴史の中では
1人や2人くらい
その
次の世界から舞い戻った 
なんて~な方がいたのかもね?

それが
もしかすると
釈迦だったり
キリストだったり
ブッダだったり とね

でも
いくらなんでも
あまりにも遠すぎる昔の
しかも
ホンマにいたのかすら うやむやな話

さて?。。。

お袋方の祖母は
10年前に 大往生で旅立った

しかし
なんや若い頃
当時の流行り病とかで
1度 息を引き取ったのだという

ところが
驚いたことに
数分して息を吹き返し
この世に舞い戻ったのだと
ガキの頃の僕ら 孫たちを捕まえちゃ~
自慢げに話し込んだもんで

やはり
そんな経験をされたという方々と同じよ~な
綺麗な黄色の
菜の花の咲き乱れる中に
ひとりたたずんでいて

そばを川が流れていて
向こう岸では
先立った親たちがなんや叫んでいたという

おいで~ という者
いやいや
来るな!! と叫ぶ者

そんな中
絶対に来るな!! と必死に叫んだ母親を見つけたそ~で
わかった
今は戻るって。。。

すると
すう~~~っと 意識が戻って
この世に
舞い戻ってきたのだと語った

それに
驚いた応急の医師も
こりゃ~ あんた
1度 キャンセルしたんじゃ
も~しばらくの間は
向こう側も受け入れてくれんだろ~から
まだまだ
長い人生となりますな~ って笑ったそ~な

そ~
そのと~り 
その後 60年 96まで生きた

そんなことがあるんだと
そんな経験をした方は
逆に 長生きになるんだと
その医師は
多くの経験の中で
知っていたんだそ~な

幻と言ってしまえば
確かにそれは それまでの話

しかし
何人も何人もが
そんな唱え方をしたもんにゃ~
まんざら嘘でもなさそ~な。。。

残念なことに
向こう側へ渡ってから
も1度
こちら側へと舞い戻れた方は いないけれど

残りの人生
この僕には
あと 
どのくらいの時間が残されておるのか
わからないけれど
いずれ訪れるであろ~な
僕のその時

僕を迎えに来てくれるのは
どなたなのだろ~か?
先立った仲間たちに
歓迎されるのだろ~か?
まだまだ来るな!! と追い返されるのだろ~か?

それとも
ちょいと 遅かったな~!! と笑い
美味い酒と
良い女たちとを
すでに用意しておいて くれてるのだろ~か?

いやいや
建設や
土木の仲間たちが揃った頃には
自由に行き来出来るよ~に
その川に
大きな橋でも 架けてやろ~か?。。。

宝くじを買わない男

——神様と運命と、売り場はどこだ——



まえがき

世の中には二種類の人間がいると言われます。
 宝くじを買う人と、買わない人。
 本書の主人公である田中誠一は、まぎれもなく後者でした。それも、「強い信念があって買わない」という格好いいものではなく、「そもそも売り場がどこにあるか知らないし、買い方もよくわからない」という、極めて受動的なタイプの「買わない男」です。
 そんな彼が、ある日突然、神様の公平性と自分の「徳」の少なさに気がつき、一歩を踏み出す(正確には、近所の稲荷神社まで歩き、のちに定休日の売り場まで往復する)物語が、本作です。
 人生を一発逆転させるような三億円のドラマは、ここにはありません。
 しかし、読み終えたあと、ほんの少しだけコンビニのレジ横のスクラッチくじが愛おしくなったり、誰かに席を譲るのが恥ずかしくなくなったりする――そんな、人生の「下二桁の当たり」のような小さなお話を、どうぞ気楽にお楽しみください。





第一章 神様は公平である(たぶん)

 田中誠一、四十二歳。職業・会社員。趣味・なし。特技・なし。将来の夢・なし。
 履歴書の「趣味・特技」欄に記入できるものが何もないというのは、人生においてかなりの敗北感を伴うものだが、田中はそのことについて深く悩んだことがない。なぜなら、もう履歴書を書く機会がここ十五年ほどなかったからだ。
 今日も今日とて、田中は自宅のソファに沈み込み、テレビで年末ジャンボ宝くじの当選番号発表を眺めていた。
「当たらないなあ」
 隣では妻の節子が、せんべいをぼりぼりと噛みながら言った。
「当たり前でしょ。買ってないんだから」
「……そうだな」
 田中は静かに、しかし深く同意した。
 だが、そこで思考を止めるのが凡人というものである。田中は違った。彼の脳内では、今まさに壮大な哲学が展開されつつあった。
(なぜ、俺には当たらないのか)
(それは……俺よりも正しく生きている人間が、この世界にはたくさんいるからではないか)
(神様は、そういう人たちを優先しているのだ)
(つまり、俺はまだ正しく生きていない)
(ということは……もっと正しく生きねばならんのだな)

 田中は確信した。
 問題は「買っていない」ことではない。問題は「徳が足りない」ことなのだ。
 節子がまたせんべいを噛んだ。
「何ぼーっとしてるの」
「いや……俺、もっと正しく生きようと思って」
「はあ?」
 節子の目が細くなった。十七年の結婚生活で培われた「またろくでもないことを考えている」レーダーが、ピピピと反応した音がした。

第二章 正しい生き方とは何か(田中調べ)

 翌朝、田中は会社への道すがら、「正しい生き方」について本格的に考察を始めた。
 まず思い浮かんだのは「嘘をつかない」ことだ。しかしこれは、昨日の夜すでに失敗していた。節子に「今月の飲み代いくら使った?」と聞かれて「三千円くらい」と答えたが、本当は八千二百円だった。
 次に「人に親切にする」。これは悪くない。しかし、今朝の電車でお年寄りに席を譲ろうとしたら、その方がサッと別の車両へ移動されてしまい、結果として田中だけが空席の前に突っ立つという奇妙な状況が発生した。近くにいた女子高生グループに笑われた。マイナスである。
 「募金をする」という選択肢も浮かんだが、財布の中の小銭を数えたら四十三円しかなく、それはそれで惨めだったのでやめた。
 会社に着いた田中は、後輩の山本に声をかけた。
「山本くん。君は正しい生き方をしているかね」
「は?」
「いや、なんというか……徳を積むというか。神様に好かれるような」
 山本は五秒ほど田中の顔を見つめてから、静かにヘッドフォンを装着した。
 拒絶された。しかし田中はめげなかった。神様への道は険しいのだ。

 お昼休み、田中は神社に向かった。会社の近くに、こじんまりとした稲荷神社があることを思い出したのだ。
「神様。私、田中誠一と申します。正しく生きようと思っておりますので、来年の年末ジャンボ、よろしくお願いいたします」
 賽銭は五円だった。節子に見せられないやつだ。
 だがその瞬間、田中の脳裏に突然、ある考えが閃いた。
(待てよ。俺は宝くじを買っていない)
(当たるも何も、そもそも持っていないのだ)
(神様だって、ないものを当てることはできまい)
 田中は固まった。
 稲荷神社のキツネが、どこか遠くを見ているような顔をしていた。

第三章 買うという決意(そして現実)

 その夜、田中は宣言した。
「節子。俺、宝くじを買おうと思う」
 節子はテレビから目を離さずに言った。
「どこで?」
「……コンビニじゃないの?」
 節子がテレビから目を離した。珍しいことだった。
「ジャンボ宝くじはコンビニでは売ってないわよ」
「え」
「銀行か、宝くじ売り場に行かないと」
「……そうなの?」
「四十二年間、知らなかったの?」
 田中は黙った。知らなかった。一度も買ったことがないのだから、知らなくて当然なのだが、それを言うと話がループするので黙っていた。

 翌日、田中は意気揚々と会社帰りにコンビニへ向かった。念のため自分の目で確かめたかったのだ。
「あの、年末ジャンボって……」
 レジに立ったコンビニ店員は、田中の顔を見る前に言った。
「ジャンボ系はうちでは扱ってないです」
「あ、やっぱり」
「ロトとかナンバーズならありますけど」
「いや……ジャンボが」
「銀行か売り場ですね」
「……ありがとうございます」
 田中はガムを一個買って店を出た。

 外に出ると、冬の空気が顔に刺さった。
 田中はしばらく空を見上げた。
(そうか。売り場に行けばよかったのか)
(なんで今まで気づかなかったんだろう)
(いや、買おうとしたことがなかったから気づかなかったんだ)
(では明日、売り場に行けばいい)
(……売り場はどこにあるんだろう)
 ガムを口に入れながら、田中はスマートフォンで「宝くじ売り場 近く」と検索した。最寄りの売り場は、会社とは反対方向に、徒歩二十分のところにあった。
 田中は翌日も行かなかった。

第四章 目が覚めるような当たり

 年が明けた。
 田中は相変わらず会社に行き、山本にたまに無視され、節子にたまに呆れられ、稲荷神社に時々お参りし(賽銭は五円から十円に昇格した)、コンビニのコーヒーを飲み、ソファに沈み込んでテレビを眺める日々を過ごしていた。
 宝くじ売り場には、まだ行っていなかった。
 それでも、何かが変わっていた。
 田中は今年、嘘を一回減らした。飲み代を「六千円くらい」と言った。本当は七千八百円だったが、これは誤差だ。進歩である。
 電車でお年寄りに席を譲ることにも成功した。ただし相手の方が「いや、結構です」と断ったので、また空席の前に突っ立つことになったが、今回は女子高生グループがいなかった。百点だ。
 募金もした。百円。四十三円のときより、ずっとよかった。

 ある春の夕方、田中は駅の改札前で、転びかけたおばあさんの荷物を支えた。
「ありがとうございます。助かりました」
 おばあさんは深々と頭を下げ、去っていった。
 田中はそこに突っ立ったまま、妙な気持ちになった。
 悪くない気持ちだった。三億円当たったときに感じるだろう気持ち(想像)とは違う。もっと地味で、もっと静かな、でも確かに「何か」がある感じだった。
(これが……徳か)
(よし。今年こそ売り場に行こう)

 その週末、田中はついに宝くじ売り場へ向かった。
 徒歩二十分。思ったより遠かった。
 売り場に着くと、シャッターが閉まっていた。
 貼り紙には「本日定休日」と書いてあった。
「……」
 田中は五分ほどシャッターを眺めてから、来た道を戻った。

 翌週、今度こそと再び売り場へ向かった田中は、ちゃんと開いている売り場の前に立ち、人生で初めて年末ジャンボ宝くじを一枚購入した。
 三百円だった。
 帰り道、田中はコンビニに寄り、コーヒーを一杯買った。
 レジの横に、スクラッチくじが売っていた。
「こっちはコンビニで売ってるんだな」
 田中はつぶやき、一枚買った。
 コインでガリガリと削る。
 当たった。
 三百円が。

「……」
 田中は再投資した。
 ハズレた。

 まあ、そういうものだ。
 田中は夜道を歩きながら、コーヒーを飲んだ。少し冷めていたが、悪くなかった。
 神様はきっと、公平なのだと思う。ただ、その「公平」が何を意味するのかは、よくわからない。もしかしたら、おばあさんの荷物を支えた瞬間の、あの地味で静かな気持ちが、三億円の等価物なのかもしれない。
 そんなわけないとは思うが。
 でも、まあ。
 来年こそは、ちゃんと当たるかもしれない。

エピローグ

 年末ジャンボの当選番号発表の日、田中はソファで番号を照合した。
 下二桁が合っていた。
 三百円当選である。
 田中は換金しなかった。
 券をそのまま財布に入れて、時々眺めた。
「当選」と書いてあるのが、なんとなく嬉しかったのだ。

 節子には言わなかった。
「換金してきなさい」と言われるのが目に見えていたから。

 一生に一度くらい、目が覚めるような当たりが欲しい。
 田中はまだそう思っている。
 ただ、売り場の場所はもう知っている。
 定休日も把握した。
 来年も一枚、買うつもりだ。

(了)


アマゾン キンドル



あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 本作の着想は、私自身が年末のニュースで宝くじ売り場の行列を眺めていたときに浮かんだものです。あの行列に並ぶ人たちには、それぞれ「三億円が当たったらあれを買おう、ここへ行こう」という壮大な夢があるのだろうな、と。
 その一方で、一度もあの列に並んだことがない人間の脳内には、一体どんなドラマが眠っているのだろう。それが、田中誠一という男が生まれたきっかけでした。
 彼は四十を過ぎてなお、嘘の金額を数千円ごまかし、電車の空席の前で突っ立ち、後輩にヘッドフォンをされてしまうような、お世辞にも「立派」とは言えない男です。けれど、自分の「徳」をちまちまと計算しながら、少しずつ、本当に少しずつ「正しく」あろうとする彼の姿は、どこか私たち自身の不器用な日常と重なる部分があるのではないでしょうか。
 作中、田中は三百円の当選券を換金せず、財布に忍ばせます。
 私たちが日々の中で見つける「ちょっと良いこと」――誰かを助けてお礼を言われたり、冷めたコーヒーが意外と美味しかったりすること――は、もしかしたら神様が換金期限をあえて作らなかった、人生の当選券なのかもしれません。
 この本が、お忙しいあなたの日常に、ほんの少しの「まあ、悪くないか」をもたらす三百円分の価値になれたなら、著者としてこれ以上の幸せはありません。
 最後に、本作の執筆を支えてくださったすべての方々と、今日もどこかで「正しく生きよう」と奮闘している全国の田中さんに、心からの感謝を込めて。


宝くじ銀河 
―― あるいは当たらない理由が多すぎる件について
A Lottery Space Opera


まえがき

―― あるいは、免責事項として
本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、将来的な弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。
ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。




序文 ―― あるいは、免責事項として

本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、本書に登場する政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。



プロローグ 夏の午後、五百円の奇跡と絶望

西暦二〇二四年、八月某日。
午後三時十七分。
銀座の地下通路。

田中一平(四十三歳、独身、課長補佐、趣味:宝くじ購入、特技:当選しないこと)は、売り場の前で三分間立ち尽くしていた。
看板には「サマージャンボ宝くじ 一等前後賞合わせて十億円!」と書いてある。
十億円。
一平はその数字を、まるで古代の象形文字を解読するように、じっくりと読んだ。
一 〇 億 円。
十億円あれば何ができるか。住宅ローンの残金四千二百万円を返済しても、まだ九億五千八百万円残る。会社を辞めても、年利三パーセントで運用すれば毎年二千八百万円の収入だ。つまり一生、課長補佐の松田部長に「田中くん、例の件だが」と声をかけられることなく生きていける。
素晴らしい。
あまりにも素晴らしすぎて、現実感がない。
「お客様、お決まりでしょうか」
売り場のおばさん――「宝くじ売り場の福の神」と書いたエプロンを着用している――が、穏やかに問いかけた。二十年来の付き合いで、一平は毎年彼女から宝くじを買っている。毎年。ただの一度も当たったことがない。
「連番で三枚、ください」
「はいはい、毎度ありがとうございます」
おばさんは慣れた手つきで三枚を取り出した。
「田中さん、今年こそですよ」
「毎年そう言いますよね」
「毎年そう思うんですよ」
一平は千五百円を払った。財布には残り八千円しかない。明後日が給料日だから、まあいい。
受け取った三枚の宝くじを、一平は光にかざして見た。
番号は「ユ組 123456番」「ユ組 123457番」「ユ組 123458番」。
連番だ。もし一等が「ユ組 123457番」なら、前後賞も合わせて十億円が手に入る。
「あの」と一平は言った。「今、当選番号、わかりますか」
おばさんは優しく首を振った。「抽選は来月ですよ、田中さん」
「そうですよね」
一平は宝くじを大事にポケットに入れた。
そして歩き出した。
これから一ヶ月、彼は億万長者である。
少なくとも、当選発表があるまでは。

第一章 量子力学と宝くじの意外な共通点

田中一平の隣の席には、柴田博士がいる。
正確に言えば、柴田博士は一平の会社の社員ではない。一平の勤務する商社「大東物産」の向かいのビルに入っている「柴田量子研究所」の所長であり、昼食時に同じ定食屋を利用するという縁で、十年来の顔見知りである。
本名・柴田量一。六十二歳。白髪で細身。常に実験用の白衣を着て街を歩くため、近所では「あの変な先生」として知られている。ノーベル賞を三度受賞しているが、本人は「あんなもの、権威の押しつけだ」と言って賞状をトイレに飾っている(「謙遜の極致か、傲慢の極致か」と論争になったが、本人は「トイレが一番落ち着いて読める場所だから」と言っており、議論は有耶無耶になった)。
その柴田博士が、八月の定食屋で、カツ定食をつつきながら言った。
「田中くん、宝くじの当選確率を知っているかね」
「一千万分の一くらいですか」
「一等は二千万分の一だ。しかし面白いことがある」
博士はみそ汁をすすった。
「量子力学的に見ると、宝くじの当選番号は、抽選が行われるまで『確定していない』んだよ」
「シュレーディンガーの猫、みたいな話ですか」
「そうだ。理論的には、抽選前の宝くじは、当選と落選が重ね合わせの状態にある。観測(=抽選)によって初めて、どちらかに確定する」
「つまり」一平は箸を止めた。「当選発表前の今この瞬間、私の宝くじは当選しているかもしれない、ということですか」
「理論上はそうだ」
一平は立ち上がろうとした。
「落ち着きなさい。あくまで量子スケールの話だ。マクロな日常世界では古典物理学が支配的で――」
「でも可能性はゼロじゃない」
「……まあ、ゼロではない」
一平は力強く頷いた。「それで十分です」
博士はため息をついた。「物理学をそういう方向に使わないでほしいんだが」

二週間後。
柴田博士の研究所から電話があった。

「田中くん、ちょっといいかね。見せたいものがある」

一平が研究所を訪れると、ラボの中央に、冷蔵庫ほどの大きさの銀色の装置が置かれていた。
「なんですか、これ」
「タイムマシンだ」
一平は三秒間、沈黙した。
「……は?」
「タイムマシンだよ。時間を移動する装置だ。先週完成した」
「先週!?」
「意外と早くできたね。実は三十年前から理論は完成していたんだが、材料費の調達に時間がかかってね。ようやく予算がついた」
「予算はどこから」
「宝くじだよ」
一平は目をみはった。「博士、当たったんですか」
「いや。研究助成金の審査が宝くじ方式だった。つまり私の名前が抽選で選ばれた。まったく不合理なシステムだが、おかげで完成したんだから文句は言えない」
博士は装置の扉を開けた。中は意外と狭く、一人入ればいっぱいの広さだった。
「どこへでも行けるんですか」
「時間軸に沿った移動しかできない。空間座標は固定だ。つまりここで乗れば、ここの未来か過去に行ける」
「……」
一平の脳裏に、ひとつのアイデアが閃いた。
否、正確に言えば、アイデアというより衝動だった。
「博士」
「なんだね」
「来月の宝くじの抽選日に、飛ぶことはできますか」
博士は眼鏡を押し上げた。
「……用途が想像と全然違うが、技術的には可能だ」
「お願いします!」
「待ちなさい。倫理的な問題がある。時間移動は慎重に行わないと、歴史の改変につながる。そのリスクを理解しているかね」
「でも博士、私が宝くじで当たるかどうかなんて、歴史的にはどうでもいい話では?」
博士は少し考えた。
「……まあ、確かに。田中くんが億万長者になったところで、歴史の大局に影響はなさそうだな」
「では!」
「……仕方ない。ただし、条件がある」
「なんでも言ってください」
「私も連れていきなさい。この装置、まだ一度も実験していないから、誰かと一緒のほうが安心だ」
こうして、人類史上初のタイムトラベル実験は、「宝くじの当選番号を確認する」という前代未聞の動機によって実施されることになった。

第二章 未来へ飛ぶ。しかし問題が発生する

出発は翌朝六時だった。
博士は前日から計算を繰り返し、「問題ない」と言いながらも、なぜか遺書を書いていた。一平はそれを見なかったことにした。
「行き先は?」と博士が聞いた。
「来月二十日の午後二時。宝くじの当選発表が確定した直後です」
「座標は?」
「ここで大丈夫です。スマホで確認すればいい」
「では行くよ」
博士がスイッチを入れた。
装置が振動した。
ウィーン、という音がした。
一平は目を閉じた。
目を開けると――部屋は同じだった。

「……動いていませんか?」と一平は言った。
「動いたよ」と博士は言った。「時刻を見てごらん」
一平はスマホを取り出した。
日付:九月二十日。時刻:午後二時三分。
「動いた!」
「当然だ」
一平は震える手でインターネットにアクセスし、「サマージャンボ当選番号」と検索した。
結果が表示された。

一等:ユ組 123457番

一平は固まった。
自分の番号は「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。
つまり―― 当選している。
一等 七億円。
前後賞 各一億五千万円。
合計 十億円。

「博士……」一平の声は震えた。「当たっています」
「ほう」博士は興味なさそうに言った。「それは良かった。では帰ろうか」
「帰る? なぜですか?」
「番号を確認した。目的は達成だ」
「違います! 当然、このまま過去に戻って、買い足す必要があります!」
「……買い足す?」
「連番で追加購入です。同じ番号帯で、もっと多く買えば――」
「待ちなさい」博士は眼鏡を外した。これは博士が真剣になるときのサインだと、一平は経験上知っていた。「それは問題がある」
「なぜですか」
「宝くじには購入枚数の制限がある。一人あたり一単位(一〇枚)まで、という販売規定が存在する」
「じゃあ、複数の売り場で買えば――」
「規約違反だ」
「でも、わかりませんよね? 顔認証とかしてませんし――」
「田中くん」博士は静かに言った。「私は物理学者だ。倫理についても一家言ある」
一平は神妙な顔をした。
「規約の解釈については、私には判断できない。しかし」博士はわずかに間を置いた。「過去の自分に、『当選番号はこれだ』と教えることはできる」
「それって……」
「過去の自分が、その番号を一枚買うことは、既に起きた事実だ。つまり、タイムパラドックスは発生しない」
一平は頷いた。
「では戻りましょう」
「ただし」博士は指を立てた。「ひとつ確認しておきたい。このタイムマシン、帰り道も問題ない……はずだ」
「……はずだ、って?」
「行きは初めての実験だったから、帰りも初めての実験だ。理論上は問題ないが」
「博士!」
「大丈夫だよ、たぶん」
一平は自分が量子力学的なシュレーディンガーの立場に置かれていることを悟ったが、もはや後戻りはできなかった。

第三章 過去に戻る。しかし別の問題が発生する

帰還は成功した。
日付は元通り、出発した朝に戻っていた。
ただし時刻が三時間ほどずれており、一平が会社に到着したのは昼過ぎになったが、そんなことは今はどうでもよかった。

「田中、遅刻だぞ」と松田部長が言った。
「緊急の用事がありまして」
「どんな用事だ」
「時間旅行です」
「……有給扱いにしておく」

一平は昼休みに抜け出し、銀座の売り場に向かった。
おばさんが笑顔で出迎えた。
「あら、田中さん。もう追加購入ですか? 気が早いですね」
「おばさん、ひとつお願いがあるんですが」
「なんでしょう」
「バラで、『ユ組の一二三四五七番』、ありますか」
おばさんは首をかしげた。
「バラ売りは、番号の指定はできないんですよ。番号はランダムで」
「そうですよね……」
「連番であれば、在庫次第ですが、同じユ組の帯であれば――」
「実は、特定の番号を買いたいんです」
「特定の番号?」
「……そうなんです」
おばさんは優しく首を振った。「宝くじは番号を選んで買うものではないんですよ。それだと、もはや宝くじではなくて――」
「わかりました」一平は肩を落とした。「では連番で、ユ組の、できるだけ一二三四五七番に近い番号で」
「それも、在庫の関係で保証できません。番号は束の単位で流通していますので」
一平は深呼吸した。
つまり、未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して購入することは、システム上できないのだ。
タイムマシンで未来に行って当選番号を調べたのに、戻ってきたら買えない。
一平はしばらく考えた後、こう言った。
「……では、連番で三枚追加で」
「はい、毎度ありがとうございます」
受け取った番号を見ると:「ユ組 223456番」「223457番」「223458番」。
全然違う番号だった。

その日の夜、一平は柴田研究所を訪れた。
「博士。根本的な問題に気づきました」
「何かね」
「未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して買う方法がない。番号はランダムに割り当てられる」
「なるほど」博士は少しも驚いた様子がなかった。
「知っていましたか!?」
「出発前から気づいていた」
「なぜ言わなかったんですか!」
「言ったら行かないと言うかと思って。タイムマシンの実証実験がしたかったから」
一平は二秒間、博士を見つめた。
「つまり、私はタイムマシンの実験台にされた、ということですか」
「共同研究者だよ。論文に名前を入れよう。『田中一平・柴田量一』。いい響きだろう」
「全然嬉しくない」
「ところで」博士は続けた。「第二の手段を考えてみたんだが」
「……聞きます」
「当選番号が書かれた宝くじを、発表前の過去から入手することだ」
「どういう意味ですか」
「抽選は機械で行われる。その機械に、抽選前に細工することはできるか?」
「犯罪です」
「だな。却下だ」
「……次の案は」
「当選番号の範囲を絞って、その帯の宝くじを大量購入するという戦略だ。ユ組が一等なら、ユ組の宝くじを集中的に買う」
「でも、何組が一等かを知るには、また未来に行く必要がある」
「行けばいい」
「行って戻って買えるんですか」
「理論上は何度でも行けるよ。ただし――」
「ただし?」
「行くたびに、微妙に時間軸がずれる可能性がある。つまり」博士は眼鏡をかけ直した。「今回確認した未来と、次に行く未来が、同じ未来とは限らない」
一平は頭を抱えた。
「量子多世界解釈だ。時間移動をするたびに、並行世界が分岐する可能性がある。別の世界では、当選番号が違うかもしれない」
「つまり」一平はゆっくりと言った。「どれだけ未来を調べても、自分が戻った過去に対応する未来が、同じとは限らない」
「その通り」
一平はソファに深く沈んだ。
「……買わずして当たらず。買っても当たらず。未来を知っても、当たらず」
「田中くん、人生とは――」
「博士、一個だけ質問していいですか」
「なんだね」
「今から研究所に帰って、昨日に戻って、今日のこの会話を聞かなかったことにする、ということはできますか」
博士は少し考えた。
「技術的には可能だ。しかし、それも量子的には別の世界に分岐するから、今のあなたの悩みは消えない」
「……」
「もっと根本的な解決策を提案しよう」
「なんですか」
「諦めなさい」
「それが解決策ですか」
「最も合理的だよ」

第四章 国家宝くじ管理委員会、登場する

事態が複雑になったのは、翌週だった。
一平の会社に、スーツ姿の男が二人訪ねてきた。
名刺には「国家宝くじ管理委員会 時間的不正行為対策局」と書いてあった。

「田中一平さんですね」
「そうですが」
「九月二十日、午後二時三分に、本来まだ公開されていないサマージャンボの当選番号を、インターネット検索によって取得した事実を確認しています」
一平は固まった。
「……どうして知っているんですか」
「我々の局は、時間的異常を監視しています。未来からの情報漏洩は、宝くじ市場の公正性を著しく損ないます」
「でも、私は結局何も当たっていませんよ?」
「問題は意図です。田中さん、タイムマシンを使って宝くじの当選番号を確認しようとした。これは法律第二三条第七項――」
「そんな法律、あるんですか?」
「去年制定されました」
「去年!?」
「タイムマシンの普及を見越して、先行的に整備しました」
一平は頭が混乱してきた。
「タイムマシンは先週完成したんですが」
「その件も把握しています。柴田博士の研究所ですね。博士には本日、別の担当者が出向いています」
「博士が……」
「田中さんにお尋ねします。第一回目のタイムトラベル、九月二十日への移動。これは事実ですか」
「……はい」
男たちは顔を見合わせた。
「正直に言っていただいてありがとうございます。ただちに逮捕、ということではありません。初犯ですし、実質的な不正利益を得ていない。ただし、今後タイムマシンを宝くじ目的に使用した場合は、時間的詐欺罪が適用されます」
「時間的詐欺罪……」
「懲役三年以下、または三十万円以下の罰金です。加えて、時間的詐欺によって得た利益は全額没収」
「つまり、当選しても没収されるということですか」
「正確には、不正な時間移動によって取得した情報に基づいて購入した宝くじの当選金は、没収対象です」
「じゃあ意味がない……」
「その通りです」男は穏やかに言った。「田中さん、一つアドバイスをしてもいいですか」
「……どうぞ」
「普通に買いなさい。その方が楽です」

男たちが帰った後、一平はデスクに突っ伏した。
松田部長が近づいてきた。
「田中、なんか変な人たちが来てたけど、大丈夫か」
「大丈夫です」
「顔色悪いぞ」
「時間旅行の後遺症です」
「……有給とるか?」
「いえ」一平は立ち上がった。「今日は定時で帰ります」
「それでいい」部長は珍しく優しく言った。「たまには早く帰って、ゆっくりしろ」
「部長」
「なんだ」
「部長は宝くじ、買いますか」
「毎年買ってるよ」部長は笑った。「一等当たったら、会社辞めてやるって思いながら」
「当たったことは?」
「ない。三千円が最高だ」
「でも、また買いますか」
「もちろん。夢を買うんだから」
松田部長が自席に戻るのを見ながら、一平は思った。
部長も同じだ。みんな同じだ。
タイムマシンがあっても、なくても、結局みんな同じことをしている。

第五章 柴田博士の告白と、二つめの発見

その夜、柴田研究所に向かうと、博士は珍しく難しい顔をしていた。
「国家宝くじ管理委員会の人たちが来たんですね」と一平は言った。
「ああ。いや、まあ、来た。それより田中くん、少し話がある」
「なんですか」
博士は白衣のポケットに手を入れ、一枚の紙を取り出した。
「タイムマシンの計算をやり直した。ひとつ重大なミスを発見した」
「ミス?」
「私たちが九月二十日に訪れた際、すでにそこは私たちが訪問した後の世界だった可能性がある」
「どういう意味ですか」
「つまり、私たちが見た当選番号は、私たちが訪問したことによって影響を受けた当選番号かもしれない」
一平は目をしばたたいた。
「……宝くじの当選番号が、私たちの訪問によって変わった、ということですか?」
「可能性として、だ。量子的観測効果が、マクロスケールに影響を与えたとすれば」
「つまり、もし私が宝くじを買い足して、その番号が当選番号の帯に入っていたとしたら」
「逆に当選番号が変化して、当たらなかった、という可能性もあったということだ」
一平はしばらく考えた。
「博士、それって、結局何をしても当たらないということでは?」
「……そう解釈することもできる」
「なんのためにタイムマシンを作ったんですか」
「科学の進歩のためだよ」博士は真剣な顔で言った。「宝くじのためじゃない」
「でも私を誘ったのは」
「実験台が必要だったから。いや、共同研究者が」
「同じことです」
博士はため息をついた。そして、少し間を置いて言った。
「田中くん、一つ聞いていいか」
「なんですか」
「なぜ、そんなに宝くじにこだわるんだ」
一平は少し驚いた。こんな質問をされたことがなかった。
「……こだわっているというわけじゃないですが」
「毎年買っているだろう。二十年以上、一度も当たったことがないのに」
「みんなそうですよ」
「でも、なぜだ。当たらないとわかっているのに」
一平は少し考えた。
「……楽しいからじゃないですかね」
「楽しい?」
「当選発表までの間。その期間が、楽しい。夢を見られる。仕事辞めて、ローン返して、旅行に行って……ってリストを作るんです、頭の中で」
「なるほど」
「でも博士、それって非合理ですよね。経済学的には」
「非合理だな」博士は頷いた。「しかし人間は非合理な生き物だ。それが人間の面白いところだとも思う」
「博士は、非合理な人間の研究はしないんですか」
「私は物理学者だ。しかし」博士は珍しく笑った。「田中くんと話していると、物理よりずっと不思議な現象が見られる気がする」

帰り道、一平は駅前の宝くじ売り場に寄った。
シャッターが半分閉まりかけていたが、まだ開いていた。
スクラッチ宝くじ。一枚三百円。
一平はそれを一枚買った。
売り場の隅に備え付けられたコイン(十円玉)でスクラッチした。
「ハズレ」と書いてあった。
一平はゴミ箱に捨て、家に帰った。
翌朝、財布から宝くじ三枚を取り出した。
抽選発表まで、あと二週間。
一平はそれをテーブルの上に置き、お茶を飲んだ。
窓の外は夏の終わりの青空だった。

第六章 当選発表の日

九月二十日。午後二時。
田中一平は定食屋のテレビの前にいた。柴田博士も隣にいた。
サマージャンボ当選番号発表の中継が始まった。

アナウンサーが読み上げる。
「一等当選番号、発表します――」

一平はポケットから三枚の宝くじを取り出した。
「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。

「――マ組 098765番」

違う。

一平は三枚を見た。博士を見た。テレビを見た。
「あれ」と博士が言った。「私たちが見た当選番号と違う」
「……やっぱり、量子多世界解釈ですか」
「おそらく」博士は平静に言った。「私たちが観測した世界と、今いる世界が分岐したんだろう」
「つまり」
「あの時見た当選番号は、別の平行世界での話だった、ということだ」
一平はしばらくテレビを見ていた。
前後賞の番号も読み上げられた。
全部違う。

「……はずれました」
「そうだな」
「タイムマシンで未来に行って、当選番号を確認して、国家宝くじ管理委員会に目をつけられて、量子的世界分岐で番号が変わって、結果ははずれ」
「まとめると、そういうことだ」
「三枚で千五百円のロスです」
「科学的知見は得られた」
「私の千五百円は?」
「……共同研究の投資と考えてほしい」

おばさんが定食を運んできた。
「田中さん、どうでした?」
「はずれました」
「あらあ、残念。来年こそですよ」
「そうですね」
一平はカツ定食を食べた。おいしかった。

食後、博士が言った。
「田中くん、一つ提案がある」
「なんですか」
「来年のサマージャンボが発売されたら、また連れて行ってほしい。今度は研究目的で。当選番号の量子的確率分布を観測したい」
「……博士、それ私の千五百円を餌に誘うやつですよね」
「いや、本当に科学的興味だよ。田中くんが買うかどうかは、田中くんの自由だ」
一平は少し笑った。
「買いますよ。来年も」
「なぜだ。今回の結果を踏まえれば――」
「わかってますよ。それでも買う。それが宝くじというものだから」
博士は頷いた。「人間とは不思議な生き物だな」
「そうです。それだけは確かです」

第七章 量子宝くじ購入機の発明と、その後

十月になった。
柴田博士から電話があった。

「田中くん、大発明をした」
「今度は何ですか」博士の「大発明」は毎回人生に影響を及ぼすので、一平は慎重になっていた。
「量子宝くじ購入機だ」
「……なんですか、それ」
「宝くじを購入する際、量子的に全並行世界の当選番号を同時に観測して、その時点での最適番号を逆算する装置だ」
「それって、当たる番号を選べる機械ですか」
「理論上は」
「また理論上ですか」
「しかし実用化には問題がある」
「どんな問題ですか」
「装置の大きさが現在、東京ドーム三個分だ」
一平は三秒沈黙した。
「……では今は実用的じゃないですね」
「そうだ。でも理論は完璧だよ」
「博士」
「なんだね」
「もし将来、その機械が東京ドーム一個分まで小さくなっても、それをどこに置くんですか」
「国有地を借りよう。ちょうど宝くじ収益で整備された公園がある」
「……国のお金で運営される量子宝くじ機で、国が運営する宝くじを攻略する、ということですか」
「言われてみると、矛盾があるな」
「大変な矛盾です」
「しかし科学とは矛盾の中に真実があるものだ」
「それは詭弁では?」
「哲学だよ」

その夜、一平は帰り道に立ち寄った駅前の宝くじ売り場で、次のジャンボ宝くじの広告を見た。
年末ジャンボ。一等七億円。
一平はしばらく眺めた後、一枚買って帰った。
連番でもなく、バラでもなく、ただの一枚。
千五百円じゃなくて、三百円でいい。
発売は来月。抽選は十二月。
一平はそれを封筒に入れて、引き出しの奥にしまった。

翌朝、出勤途中に松田部長からメッセージが届いた。
「田中、今日の会議十時からに変更。あと、例の案件について相談したい」
一平は「了解です」と返信しながら思った。
例の案件。
また始まる。
しかし今日は、引き出しに年末ジャンボが眠っている。
十二月まで、二ヶ月ある。
二ヶ月間、夢を見られる。
それは案外、悪くない投資かもしれない。

エピローグ 宝くじとは何か、について

年が明けた。
年末ジャンボは、はずれた。
末等(三百円)が当たった。元手が回収されただけだった。

柴田博士のタイムマシン論文が、国際学術誌に掲載された。タイトルは「量子時間移動における並行世界分岐と宝くじ当選確率の相関に関する考察」。共著者として「田中一平」の名前が入った。博士に半ば強制されたが、論文の内容はさっぱりわからなかった。

国家宝くじ管理委員会・時間的不正行為対策局は、翌年の予算削減でほぼ全員リストラされた。タイムマシンを持っている人間が、思ったより少なかったからだ。担当者の一人が挨拶に来て、「田中さん、我々の局の最初の、そして最後の案件でした」と言った。なんだか申し訳ない気がした。

銀座の売り場のおばさんは、今年も元気だった。「田中さん、今年こそですよ」と言った。一平は「そうですね」と答えた。

サマージャンボの季節になった。
一平は連番三枚を買った。千五百円。
発表まで、一ヶ月。

その一ヶ月間、一平はいつものリストを作った。
仕事を辞めて。
ローンを返して。
旅に出て。
しかし今年は、リストの最後に一行追加した。

「柴田博士のタイムマシン研究に、少し寄付する」

理由は特にない。
強いて言えば、去年のタイムトラベルが、悪くない体験だったからかもしれない。
当選番号は確認できなかったし、結局はずれたし、国の機関に目をつけられたし、量子論的には何をしても無意味だとわかった。
それでも、あの一ヶ月は、なかなか面白かった。

一平は宝くじをテーブルに置き、お茶を一口飲んだ。

当たるかもしれない。
当たらないかもしれない。
どちらかわからないまま、一ヶ月が過ぎる。
それが宝くじというものだ。

少なくとも田中一平は、来年もまた買うだろう。
タイムマシンに乗るかどうかは、博士次第だが。

―――――――――

ところで。
翌年のサマージャンボの当選番号は、「ユ組 123457番」だった。
田中一平の番号は「ユ組 333333番」だった。
全然違った。
これもまた、量子多世界解釈で説明できるかもしれない。
あるいはただ、はずれただけかもしれない。

どちらでも、来年も買う。

(了)



後記 ―― 宝くじと人類について

本書を書き終えて、著者は改めて思う。

人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。
古代ローマでは占いで国家の意思決定をし、中世ヨーロッパでは教会がくじ引きで資金調達をし、現代日本では毎年数百万人がジャンボ宝くじを買う。
そしてほぼ全員がはずれる。

それでも買い続ける。

著者は経済学者でも物理学者でも哲学者でもないが、この現象について、一つの結論を持っている。

人間は「可能性」を買っているのだ。
当選番号との一致(確率二千万分の一)を買っているのではなく、「当たるかもしれない自分」が存在する時間を買っている。

タイムマシンがあっても、この本質は変わらない。
量子コンピュータで確率を計算しても、変わらない。
国家機関に監視されても、変わらない。

買う理由は、いつも同じだ。
「もしや。まさか。万が一」

その三語に、五百円の価値がある。
少なくとも、著者はそう思う。

なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。
連番三枚、千五百円。
結果は――まだわからない。
この後記を書いている時点で、抽選日は来週だ。

当たったら、続編を書く。
はずれたら、来年も同じことをする。


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あとがき

―― 宝くじと人類について
本書を書き終えて、著者は改めて思う。
人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。古代ローマの占いから、中世ヨーロッパの教会が始めたくじ引き、そして現代のジャンボ宝くじ。私たちは毎年、何百万分の一という絶望的な確率に挑み、そして当然のように外れ続けている。
それでも買い続けるのはなぜか。
人間は「当選確率」を買っているのではない。「当たるかもしれない自分」が存在する瑞々しい時間を買っているのだ。
タイムマシンがあっても、量子コンピュータで確率を計算しても、国家機関に監視されても、この本質は変わらない。
買う理由は、いつも同じ。
「もしや。まさか。万が一」
その三語にこそ、300円、あるいは500円を支払う価値がある。
なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。結果は――まだわからない。このあとがきを書いている時点で、抽選日は来週だ。
当たったら、続編(豪華絢爛な海外旅行編)を書く。
外れたら、来年も同じように、引き出しの1枚に夢を見ることにする。