がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ -15ページ目

がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ

「残念ながら進行がんです」と宣告されてから、十数年。
その時、私は39歳、子どもたちは9歳と6歳でした。
これまでの日々をブログに・・・

入院中、病室の窓からよく外を見ていました。



私の病室の窓から右を見ると小学校が見えました。

毎日、元気な子どもたちが見えました。

当時、私の子どもも小学生でしたので、元気な子どもたちを見るたび、私の子どもたちも元気に学校に行っているかなあ?と思っていました。。

窓から見える小学生のお母さんたちは,みんな健康なんだろうなと思うと、とてもうらやましかったのを覚えています。 お母さんが病気で入院していて、そばにいられない、そんな私の子どもたちは、なんてかわいそうなんだろうと、思いました・・・。




左を見ると、郵便局が見えました。

平日の昼間、することもなく、ぼんやりと外の景色を見ていると、忙しそうに郵便局に出入りするお母さんたちが見えました。 

私もこの間までは、普通に郵便局に行ったりする、普通のお母さんだったのになあと思うと本当につらかったです。


病院の窓から見えるお母さんたちは、私がなくしてしまった健康を持っていて、外で自由に暮らしているのに、私は病院の中・・・。

病院の外の世界と、病院の中の世界、大きな大きな壁を感じました。

私は病院の外の世界にいるはずの人間なのに、何で今、私はこんなところにいるのだろう、と思いました。




病院の中で、鬱鬱としていた当時の私には、外の世界がとても眩しく感じました。

病院の中で、私は心も病んでいたのでしょう。





普通に生活できるって、本当はすごいことなんですよね。

病気になると、それがよくわかります。

でも、「普通」に慣れてしまうと、「普通」では物足りなくなったりする・・・。

普通に生活できることのありがたさを忘れてしまうんですよね。


最近の私も、普通に生活できることのありがたさを忘れてしまっていたようです。

今日、このブログを書いていて、改めて、入院していた頃の気持ちを思い出しました。

病室の窓から外を見ながら、私も普通に暮らしたいなあと思った頃の気持ちを思い出しました。

これからは、もう少し普通に暮らせることに感謝しながら、生きていきたいと思います。


 









入院中の私にとって、一番心配な事は、家にいる2人の子どもたちのことでした。

自分の体のことより心配でした。 元気か、 ちゃんと食べているか、 寂しがってないか、 学校へはちゃんと行っているかなど、心配なことはたくさんありました。

でも、私にできることは、電話をしたり、手紙を出したりすることだけでした。



入院中に、子どもたち2人それぞれの誕生日がありました。 

お母さんがそばにいない誕生日でした。 

ちょうど下の子の誕生日に、私はがんの手術を受けました。

ので、 下の子の誕生日には電話をすることもできませんでした。

私にできたのは、誕生日当日に届くよう、カードを送ることだけでした。




毎日、ベッドの上で過ごすことが、ほとんどでしたので、いろいろなことを考えました。

自分の気持ちを整理するために、日記をつけたりしました。 その日記は、今も持っていますが、

その当時の私の悲痛な思いがつまっていて、読み返すとつらくなるので封印したままになっています。

あれから10数年たちますが、まだ、とても読み返すことはできません。

いつか、子どもたちに見せることもあるかもしれませんし、誰にも見せずに、捨てるかもしれません・・・。

将来あの日記をどうするかはまだ決めていませんが、今はまだ読み返すことも、捨てることもできません。






私には、入院中の私の世話をしてくれる身内はいなかったので、 入院中の自分の世話は自分でやるしかありませんでした。 まずは、洗濯です。 

入院する前、手術をしたら1週間は動けないかもと思ったので、多めにパジャマ・下着等は用意して入院しました。 

それでも洗濯はしなければならなかったので、 手術後動けるようになったあと、点滴をつるした棒を押しながら、病棟にあったコインランドリーに行って、自分の洗濯物を洗濯していました。 

最初は傷跡が痛くて、歩くのもつらかったですが、自分でやるしかなかったので、自分でやりました。




主人は会社が忙しく、子どもの面倒をみるので精いっぱいでしたし、私の母は、母自身が病気で自分のことも自分で出来ない状態でした。 私には姉妹はなく、頼りになる身内は誰もいませんでした。

本来、自分のことは自分でやるのは当たり前ですが、病気で気が弱くなっていた私には、点滴を押しながら、痛みをこらえながら、洗濯をしている自分の姿が、悲しかったことを思い出します。

私にはこういう時に頼れる人がいないのだなあと悲しく、寂しかったことを覚えています。

今思うと、39歳にもなって何を甘いことを言っているのと思いますが、当時の私にはつらいことでした・・・。




実は、私はがんになる前にも入院したことがあって、その時には、母がよく見舞いに来てくれて、私の洗濯物を家に持って帰って洗ってくれました。 

母が元気だったら、私の入院中、子どもたちのことや、私のことなど、きっといろいろ助けてくれたに違いないと思うと、よけい寂しく、悲しく思いました。 

自分が困ったとき、やはり頼りになるのは、母だったのだなとしみじみ思いました。



本当は、私が病気の母を助けなければいけない状態だったのに、何もできなくなりました。

母を病気にしたうえ、私にまでがんという試練を与えた運命を本当に恨みました。

父も大変だったことでしょう。 父にとっては自分の妻は病気で介護が必要、娘の私は、がんで入院、

さらに、孫の面倒をみなければいけないという状況に追い込まれていました。

でも、父はがんばってくれました。 今はもう亡くなってしまいましたが、父には本当に感謝しています。




私ががんになったことを話したのは、親友一人だけでした。

親友には、入院する前に「がんで入院する」ということは伝えました。

が、その他の友人には、がんになったことは話しませんでした。 話して同情されるのが、嫌でした。

私は、がんになったけれど、かわいそうではない・・・、 同情されるなんて真っ平御免と思っていました。

お見舞いにも来てほしくありませんでした。 自分の弱った姿を見られるのは嫌でした。



 



















入院する日、朝、まだ子供たちが寝ている間に、家を出ました。

出発する前、子どもたちの寝顔を見た時は、思わず涙が出ました。

子どもたちには、前日に「お母さんは、明日から入院するから、お互いにがんばろうね。」と話をしました。



病院に着いて、病室に入りました。 4人部屋でした。

みんな私より年配の方ばかりで、私は若い方なのだなと感じました。

病棟全体でも、私より若い人は少なかったように思いました。

がんとの本格的な闘いが始まりました。



病院に着いてからは、手術に向けて、いろいろな検査が始まりました。

血液検査、心電図、CT、腹部エコーなどをしたことを、覚えています。

転移があるかどうか、いろいろな検査をしました。



入院してからも、相変わらず夜は眠れず、先生に頼んで、睡眠薬を出してもらいました。

入院中、ずっと夜は睡眠薬を飲んで眠っていました。

睡眠薬を飲むと、朝までぐっすり眠ることができました。

恐怖と不安で、睡眠薬を飲まずには眠れませんでした。



手術は、全身麻酔で行われました。

眠っている間に、すべて終わっていましたので、手術については、麻酔をする前のことしか覚えていません。 気が付いた時は、手術後の集中治療室にいました。

手術後は、痛みがつらかったですが、私は、痛みには弱いので、我慢せず、痛み止めをばんばん使ってもらって何とか乗り切りました。



手術の傷跡は大きくて、最初に見た時は、ショックでした。

生きるためとはいえ、悲しかったのを覚えています。

でも今は、傷跡もだいぶ薄くなりました。 それだけ年月がたったということでしょう。




でも、手術が終わっても、死の不安はなくなりませんでした。

とりあえず元凶のがんは取り除きましたが、がん細胞が私の体のどこにとんでいるかわからなかったからです。 いつ、再発 あるいは 転移が起こるかわかりませんでした。

これからも、命の保証はないのだと思うと、暗澹たる思いがしました。

本当は、誰にも明日も生きられるなんていう保証はないのですが、まだ若かったので、がんになるまでは、死について考えたこともありませんでした。


がんが大きかったので、抗がん剤の治療を受けることになりました。

目に見えないがん細胞をたたくためです。

再発・転移を防ぐためでした。

早期発見だったら、抗がん剤の治療を受ける必要などなかったのですが・・・。



入院中、抗がん剤の治療を2回行いました。

結果的に、退院後も通院しながら、計12回、半年間にわたって抗がん剤の治療を受けました。

抗がん剤の治療についてはまた後日、お話ししたいと思います。