がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ

がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ

「残念ながら進行がんです」と宣告されてから、十数年。
その時、私は39歳、子どもたちは9歳と6歳でした。
これまでの日々をブログに・・・

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先日、私の母ががん宣告されました。

遂に母にもがんが襲いかかりました。 



母の家系は、ほんとにがん家系です。

母から見ると、母の両親(私の祖父母)は2人ともがん、母の弟もがん、母の3人の子どもの内、2人ががん、そして遂に自分ががんに・・・。

恐るべし、がん家系です。 何か遺伝子に異常があるのか、生活環境に問題があるのか・・・。

ここまで一族にガンが多いと、家系的にガンになりやすい何かがあるとしか思えませんね。






実は、私は、母のことをあまり好きではありませんでした。 いいお母さんだなと思ったこともあまりありません。 母はいつも私の反面教師でした。 私は母のようにはなりたくないといつも思って育ちました。

だから、母が死んでも、そんなに悲しまないだろうといつも思っていました。



でも、今、母がガン宣告を受け、年齢的にも、死ぬかもしれないと思った時、自分でも意外でしたが、やはり悲しくなりました。今思うと、母は、母なりに、一生懸命私たちを育ててくれていました。 それは、決して私が望んだ形ではありませんでしたが、母は母なりにがんばって私たちを育ててくれたのだと今は思います。 そのことには本当に感謝しています。 そういう風に思えるようになったのは、私も子どもを育て、歳を獲ったからでしょう。



母は愛情表現の下手な人でした。 あまり褒めることをせず、テストの点数が悪いと、怒るタイプの人でした。 勉強のできるいい子が好きな人でした。 私は、途中までは母の希望通りに鳴ろうと一生懸命頑張っていましたが、途中で息切れし、母の望む道から外れました。 そこから母との葛藤が始りました。



考えてみると、私の子どもたちへの態度は、どこか母と似ていたような気がします。 

前回のブログでも書きましたが、私も子どもたちには優秀になってもらいたかったのですから、そういう点では母に似てしまっていましたね。 私が嫌だと思い続けていたことを、ついつい子どもたちに望み、押しつけてしまっていました。 自分が母からされてイヤだったことを、今度は自分が子どもに押しつけるなんて、本当に勝手なものですね。




でも、良くも悪くも、そんな母がいたからこそ、今の私があります。



私がガンになったとき母はもう半身不随で、母は、私が良くなるよう祈ることしかできませんでした。

今度は私ができることをする番ですね。

今は母がよくなり、もう少し長生きしてくれることを期待しています。

親孝行な娘ではありませんでした。 これからも親孝行な娘になる自信はありませんが、 母の為、私の出来る限りをしていこうと思っています。




と、7月にここまで書いたのですが、そのあと、思いがけないことが次々起こりました。

母は、7月25日に手術をしたのですが、まわりの臓器に転移が広がっていて、結局何も出来ずに、おなかを閉じました。 そんなに進行しているとは思わなかったので、ショックでした。


余命宣告をされました。 何もしなければ年内持たないと言われました。 出来ることは抗がん剤だけですが、年齢が高いこともあり、抗がん剤をするべきか、しないべきか姉弟で悩みました。 姉弟で意見が分かれました。 母は認知症もあり、自分の意志をちゃんと考えたり、自分で伝えることが出来ません。

母の命の長さを私たちが勝手に決めていいのか、悩んだ末、後で後悔しないためにも、できることはやってみようということになりました。 抗がん剤をやることで母が苦しむようなら、すぐやめようということではじめました。 



年齢的にも、強い副作用のある抗がん剤はたえられないだろうということで、弱い抗がん剤をつかっているせいか、幸いなことに、今のところはそれほどひどい副作用は出ていません。 ただ、あまり効き目はないようで、少しずつ弱ってきているように思います。 いつ抗がん剤をやめるか、いつ治療をやめるか、私たち姉弟は難しい選択をしなければなりません。



私ならもう、治療はしないで欲しいという状態ですが、母の意志が確かめられないので、決断するのが難しいです。 やはり、健康なうちに、自分ががんでいよいよ助からないかもという状態になったときには、どこまで治療して欲しいかを、まわりの人に告げておく必要を感じます。 母の意志を聞いていたら、ここまで悩まずに、治療をどうするべきか判断できたのにと思います。

 

私は、自分がどこまで治療して欲しいか、どうなったら、治療をやめてほしいかを自分でよく考えて、家族に伝えておこうと思います。 家族が私の治療法で悩むことがないよう、責任を感じることがないようにしたいと思っています。




ここ数ヶ月は、母のことで追われ、ブログを更新できませんでした。 

でも、また少しずつ、再開していこうと思います。








がんと闘いながら、精いっぱい頑張って子育てをしてきました。

私、がんに負けずに、こんなに頑張っているし、子どもたちはそんな私の姿をみて育つのだから、絶対優秀な子になるに決まっているとずっと信じていました。 子どもたちは、きっと頑張ってくれるって信じていました。  優秀な子になってほしかったのです。

今思えば勝手な思い込みでしたが、当時の私は真剣にそう思っていました。





ところが、高校受験、大学受験、就職・・・と、だんだん夢はしぼみ、子どもたちは本当に普通の子に育ちました。子どもたちの名誉の為に言うと、2人とも決して悪い子ではありません。 友達もいるし、成績は普通、学校にも毎日通っていたし、特別私を困らせることもありませんでした。 優秀な子とは言えませんが、よい意味でも悪い意味でも普通の子になりました。 




普通が悪いという訳ではないのですが、ガンに負けず、頑張ってきたのに…という思いが私には強くありました。必死に育ててきたのに、これか・・・と思うと、正直がっかりした時期もありましたが、それは親のエゴですね。 

考えてみれば、私だって、決して親の希望通りになったわけではありません。 最近では、そんな私の子なのだから、まあ仕方ないかと思うようになりました。 蛙の子は蛙なのに、それを忘れていたのでしょうね。 自分を顧みず高望みしすぎていたということでしょう。


親は、子どもには、少しでも幸せになってほしいと思うもの。 いい学校を出て、いい仕事について、いい生活を送って幸せになってもらいたいと思うのは、普通だと思うのですが、 私の場合は、その思いが普通のお母さんより強かったと思います。 




振り返ってみれば、私も親の期待をさんざん裏切ってきました。 まったく期待通りにはならず、さんざん親をがっかりさせてきました。 それを考えれば、私の子どもたちが、普通に育ったのは、いい方なのかもしれません。




でも、 若くしてがんになってしまった私は、こんな辛い、悲しい、苦しいことがあったのだから、せめていいこと(=子どもが優秀になること)があってもいいだろうと強く思っていました。 私の人生、それぐらいのご褒美があってもいいだろうと思っていました。   自分のことは棚に上げて、ホントに勝手な思い込みですよね。 


でも、人生はそんなに甘くはありませんでした。

子どもをそんな風にしか考えられなかったなんて、私の心は本当に狭かったのでしょう。  

今は反省しています。 子どもには子どもの人生がある。 それをまるごと無条件に受け入れる、それが親だと思っています。







現在、子どもたちは自分で選んだ道を、精いっぱい生きています。

もう、成人した子供たちに、親がしてあげられることはあまりありませんが、自分の力でしっかり生きていってほしいと思います。 これからも、いろいろ困難なこともあるでしょう。 子どもたち自身が、親の言う通りにしておけばよかったと思うこともあるでしょう。(私は大人になってから、親の言うとおりにしておけばよかったと思うことが多々ありました。)  でも、自分で選んだ道ですから、自分でなんとかするしかありません。 私にできることは、影から応援することだけ・・・。 頑張ってほしいと思います。

私は子どもたちの一番の味方でいたいと思います。




思い返せば、がんになった当時(39歳の時)は、大人になった子どもの姿を見ることが私の願いであり、夢でした。 その夢は、ありがたいことにかないました。  それだけで十分なはずなのに、ついつい、私の色々な夢、子どもの能力以上の期待をを子どもに背負わせてしまっていました。 本当に人って欲張りなものです。 



 


 













ブログをお休みしている間に、娘の誕生日がありました。

今年のお誕生日は家族で祝いました。 

娘の誕生日は、私にとって、もちろん喜ばしいものではありますが、別の意味でも、私にとっては感慨深い日であります。



娘の誕生日は、私が39歳の時に、ガンの手術を受けた日でもあるのです。 娘の誕生日であるが故に39歳のあの日は私にとって余計印象深い日になりました。




39歳のあの日、私は前日から不安と恐怖で、全く眠れませんでした。いつもの量の睡眠導入剤では全く眠れず、少し多めに薬を出してもらい、やっと眠りに着きました。 そのおかげで、何も考えることなくぐっすりと眠ることができましたが、朝起きたら現実が待っていました。


朝いつも通りの時間に起こされ、手術の準備が始まりました。 主人と弟が来てくれました。

手術の時間を待つまでの時間はとても長く感じました。 手術の時間が近づき、手術着に着替えました。

ストレッチャーに乗せられ手術室に運ばれました。 私の心は恐怖と不安でいっぱいでした。



手術室に入ると、ストレッチャーから手術台に移されました。 テレビドラマで見るような手術室の大きなライトが見えました。 周りにはいろいろな機械がありました。 手術室で忙しく準備をしている看護師さんたちが見えました。 いよいよ手術が始まるのだと思いました。 

 


どうしてこんなことになってしまったのだろうと涙が出ました。 手術の結果が悪かったらどうなるんだろうと心配しました。 どうして私がこんな目に?  こんな目に会うほど、何か私が悪いことをしたのだろうか? 私が死んだら、子どもたちはどうなるのだろうか? 今日は娘の誕生日なのに・・・と色々な思いが頭の中に浮かびました。 

もう「まな板の上の鯉」なのだから、運命に身をゆだねるしかないと頭の中ではわかっていましたが、緊張と不安と恐怖でいっぱいでした。



そんなことを色々考えているうちに、麻酔科の先生が来て、私に全身麻酔をしました。 だんだん意識が遠くなっていきました。 意識が戻ったときには、手術はすべて終わっていました。 私はICUに入れられました。 

気付いた時には、口には、酸素マスクが付けられ、体にはいろいろな管が付いていました。 痛み止めが使われていたせいか、痛みはそれほど感じませんでした。 手足は動かせましたが、起き上がったりはできませんでした。 麻酔がまだ残っていたのか、強い痛み止めのせいか、ウトウトして、寝たり起きたりしていました。



主人が、ICUに入って来て、私の意識が戻ったがわかると、少し会話をし、そのあと、娘の誕生日を祝うために家に帰って行きました。 



私が39歳の時の娘の誕生日は、こんな一日でした。 娘の7歳の誕生日でした。




今も、あの時の自分を思い出すと、悲しくなります。

毎年、娘の誕生日を迎える度に、「あーまた1年生きられた。」と思います。

「これで術後何年だ」と、毎年手術をしてからの年数を数えます。



自分が思っていたより、長く生きてこられました。 何が良かったのかは、まったくわかりません。

娘の誕生日は、娘の誕生を祝う日であるとともに、私にとっては、与えられた時間に感謝し、これからも大事に生きていかなければと、改めて、思う日でもあるのです。