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がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ

「残念ながら進行がんです」と宣告されてから、十数年。
その時、私は39歳、子どもたちは9歳と6歳でした。
これまでの日々をブログに・・・

退院後つらかった事の一つは、具体的に将来の事を考えられなかったということです。



退院後、半年間は、抗がん剤治療の為に、1か月に2回病院に通わなければなりませんでした。

そのあとも、投薬治療の為に、1か月に1回、5年間通いました。

なかなか病院と縁が切れませんでした。

その間に、定期的に再発、転移の検査をいろいろ受けました。



それらの検査を1つ1つ無事クリアしなければ、先に進めませんでした。

検査結果で異常があれば、また即、入院、手術をしなければなりませんでした。



先の計画、予定をたてても、検査結果次第で実現できるかどうかわらかないと思うと、

予定をたてる気になりませんでした。 

必然的に次に病院に行く日までの予定しかたてられなくなりました。

常に、心のどこかで、そんなに長くは生きられないだろう、と思っていたので、

半年後、1年後、2年後・・・・などの先の予定を考えることはできませんでした。



将来こうしたいとか、 ああしたいとか、とても考える気にはなりませんでした。

考えたところで、実現できるとは思いませんでした。

将来については、長い間、悲観的にしか考えられませんでした。




そんな私でも、あの頃、一つだけ夢がありました。

それは、あと10年は生きたいということ、でした。

10年たてば、2人の子どもは、20歳と17歳になります。 

そうすれば、その後、私が死んでも、困らずに生きていけるだろうと思いました。 




ですから、私は年をとるのが怖くありませんでした。 

とにかく早く50歳になりたいと思っていました。

普通は30代後半や40代の女性にとって、お誕生日はもはやあまり嬉しくないもの(?)だと思いますが、私は誕生日が嬉しくてたまりませんでした。

1つ年をとるたびに、「あ~また1年生きられた」と思いました。






おかげさまで、夢はかない、 現在50歳を超えて、数年経ちます。

死の恐怖はだいぶ薄れてきましたが、 今度は老いの恐怖を感じるようになってきました。

老いの恐怖のお話は、また今度したいと思います・・・。








退院後も、私の気持ちは常に不安定でした。

何かに夢中になっている時は、忘れられるんですけれど、夜布団に入ると、頭の中を恐怖と不安が駆け巡って眠れない・・・。 それで、睡眠薬に頼る・・・。  こんなことの繰り返しでした・・・。

このままではいけない、睡眠薬に頼る生活から、抜け出さなければいけないと思っていました。



そんな不安定さが嫌で、心のよりどころを求めて、いろいろな人のがん闘病記を読んだり、 

ホスピスの情報を集めたり、死についての本を読んだりしていました。

でも、煩悩の塊の私には、なかなか心の平穏は、得られませんでした。 





一方で、もし、私が死んでも子どもたちが困らないようにしなければならないと思う冷静な私もいました。

私が死んだら寂しいのはしかたがない。でも少しでも困ることのないようにしなければならないと思いました。  つまり、家事をしっかり覚えさせ、精神的に強い子にしなければいけないと思ったのです。



少しでも早く、自分の事は自分でできる子どもにしなければならないと思いました。

そこで、10歳と7歳の子どもたちに、家事(料理・洗濯・掃除・アイロンかけなど)を教え始めました。

 


娘は、 10歳の頃には、1人でハンバーグを作り、ピザを生地から作り、チーズケーキを作ったりしていました。 とてもおいしかったです。 

リンゴの皮もまるごと剥けるようになり、小学校5年生のときの、家庭科のリンゴの皮むきの授業でほめられたと、のちに言っていました。

「他の子はできなかったんだよ~」と嬉しそうに言っていたのを思い出します。  

今の娘よりも、あの頃の娘のほうが料理がうまかったような気がします。 一生懸命、私を手伝ってくれていました。


 

息子にも同じように、料理を作らせていましたが、あまりやる気もなく、あまりうまくなりませんでした。

それでも、小学生の時は、彼なりに手伝ってはくれていましたが、思春期に入ると親はどうでもよくなった(?)みたいで、あまり手伝ってくれなくなりました。 

私がぶつぶつ文句を言ったり、怒鳴ったりすると、しかたなくやっていました。



私は、子どもの為に必死だったのに、思春期の子どもの態度は正直頭にきましたが、成長の過程だからと自分で自分を納得させました。  2人とも大きくなるにつれて、手伝ってくれなくなってきました。

私が案外長生きしているのに安心したのと、自分の勉強や、仕事や、つきあいが忙しくなってきたからなのでしょう。

「親の心子知らず」ということですね。




更に、更に、 私は、私が死んだあと、子どもたちが困るかもしれないことを、いろいろ想像し、こういうときはこうしたらいいのではないかとか、こういうことで悩んだ時は、誰々に相談しなさいとか、 いろいろなアドバイスを書いたノ-トを2人の子それぞれあてに作りました。



2人の子どもの思い出とか、病歴とかも、ノートを作って書きためました。

私が死んだら、子どもたちの赤ちゃんの頃の思い出や、子どもの頃どんな病気をしたかを話してくれる人がいなくなるから・・・と思ったからです。





今思うと、考えすぎ、やりすぎだったかなと思いますが、退院した頃の私は必死でした。

何かに打ち込んでいないと、おかしくなってしまいそうでした。





結果的に、これらのノートはどちらも活用せずに済みました。 

幸いなことに、アドバイスも、思い出も、病歴も、私の口から、子どもたちに直接伝えることができました。









ついに待ちに待った退院の日がきました。

本当に嬉しかった・・・。 子どもたちの所へ帰れると思うと本当に嬉しかったです。

28日間の、入院生活でした。

閉ざされた暗い空間から、外に出た時の気持ちは格別でした。

春の暖かい日でした。




家に着いて、子どもたちの顔を見たとき、心底ほっとしました。

あ~家に帰ってきたんだな~。 これで子どもたちに寂しい思いをさせずにすむ・・・と思いました。

子どもたちもとても喜んでくれました。

土曜日に退院したので、土日をゆっくり家族で過ごしました。

月曜日から学校でしたが、子どもたちの為に、朝起こしたり、朝食を作り、服を選び、学校に送りだす・・・

そんな普通の生活をまた始めることができました。

普通の生活を送れることに、幸せを感じました。



でも、まだ体力は完全には元に戻ってはいませんでした。

ほとんどを病院のベッドの上で過ごしていたので、家ではちょっと動いただけで、すぐ疲れました。

あまり長くは歩けないし、走ったり、重いものを持ったりするのも疲れました。

家事は休み休みこなしていました。

傷跡はもう痛みませんでした。





退院して1週間後に、入院する前から決まっていた子どもたちの学校のPTAの仕事 (校庭開放時の見守り) がありました。 4時間校庭の隅で、校庭で遊ぶ子どもたちを見守る仕事です。 

4時間も外にいるなんてできるかなと思いましたが、断る理由として、本当のこと (がんの手術を受けて退院したばかりで、抗がん剤の治療もうけている) は言いたくなかったし、うそもつきたくなかったので、がんばってやりました。


当番は私を含め3人でした。 他のお母さんとも普通に話せたので (もちろんがんのことは隠していましたが)、 このPTAの仕事は、体力的にも、精神的にも、私の社会復帰の自信になりました。



こうして表面上は、入院する前の生活をすこしずつ取り戻していきました。