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がんと闘いながら子育てしている、お母さんたちへの応援ブログ

「残念ながら進行がんです」と宣告されてから、十数年。
その時、私は39歳、子どもたちは9歳と6歳でした。
これまでの日々をブログに・・・

私ががんになる前、私の子どもが喘息で入院したことがありました。



私の子どもが入院していた病院では、5歳以下の子どもには、親が付き添って入院する事になっていました。当時、私の子どもは3歳だったので、私も子どもと一緒の病室に泊りこんで付き添っていました。




6歳以上の子どもたちは、親でも面会時間にしか面会できません。

お父さんやお母さんでも、面会時間が終わる20時になると帰らなくてはなりませんでした。

小児病棟の入り口にはドアがあり、子どもが勝手に外に出られないようになっていました。

毎日20時になると、面会者と離れがたい入院中の子どもたちが、ドアのところで面会者の手を握り、

「帰らないで」とか、「一緒に帰る」と言っては泣いていました。

見ているこちらがかわいそうで、見ているのがつらくなるような光景でした。

病室の中にいても、20時になると、毎日、病棟のドアの方から子どもの泣き声が聞こえました。




小児病棟内には、食事・水分制限のある子どももいるので、病棟内での勝手な飲食は禁止されていました。 付き添いの親も食事をとる時は、病棟の外にある休憩室みたいなところで、食べました。

そこには、よく、一人で塗り絵をしたり、折り紙をしたりしながら、遊んでいる子がいました。

私が声をかけると、小児病棟に入院している子どもの兄弟だと言っていました。

お母さんが、兄弟の面会に行っている間、一人でここで待っていると言っていました。



小児病棟は、病気で抵抗力の少ない子が多いので、10歳以下の子どもは、どんな菌を持っているかわからないという理由で、小児病棟の中に入ることを禁止されていました。

外からの菌の持ち込みを防ぐためでした。

だから、入院している子どもの10歳以下の兄弟は、お母さんと一緒にお見舞いに来ても、病棟に入ることができず、病棟の外で待っているしかないのでした。

子どもと一緒に留守番してくれる人がいない場合、お母さんも子どもを一緒に病院に連れてくるしかなく、

かわいそうだと思っても、病棟の外で一人で待たせているしかないのでした。

1時間以上、一人で待っている子もいました。

入院している子も、入院している子の兄弟もたいへんでした。





その小児病棟には、子どものがん患者かなと思われる子が何人かいました。

抗がん剤の影響か髪が抜けていました。



そのうちの一人の病室には、真新しいランドセルがあり、小学校の先生、友達からの寄せ書きの色紙が壁に飾ってありました。

小学校一年生だそうですが、一度も小学校に行ったことがないと自分で言っていました。

早く行けるようになりたいと言っていました。



もう一人の子は小学3~4年生くらいでしょうか、 やはり髪の毛が抜けていました。

ある日の夕方看護婦さんのところに来て「気持ち悪い。」と訴えているところを見ました。 

本当に調子が悪そうでした。

看護婦さんがその子に「先生に吐き気止めもらってくるね。」と言っているのが聞こえました。 

抗がん剤治療を受けているのかなと思いながら、何とも言えない気持ちで見ていたのを覚えています。



その他にも、お母さんと一緒に、がんのため無菌室に入院していた4歳の女の子もいました。

一度、病室のドアが開いていて、無菌室の中にいる女の子が見えました。

本当に、本当に、かわいい女の子でした。



私の子どもと同じ病室には、白血病と診断されたばかりの、1歳半の男の子もいました。

お母さんも付き添っていましたが、白血病と診断されたばかりだったので、

お母さんは子どものそばで、いつも泣いていました。

何もわからない子どもは無邪気にベッドの上で遊んでいました。



どれもこれも忘れ難い光景でした。

生まれてわずか数年の、何も悪いことなどしていない小さい子どもたちが、なんでこんな理不尽な、ひどい目にあわなければならないのか・・・。

かわいそうで、かわいそうでたまりませんでした。

小児病棟には悲しいことがたくさんありました。





それから数年後、私ががんになりました。

がんの治療は大人の私でさえ、本当につらかった・・・。

そんな時、あの小児病棟で見た光景を思い出しました。

見ているのと、実際体験したのとでは、全然違いました。

大人の私でさえつらかった抗がん剤治療に子どもが、一人で耐えていたんだなと思うと、涙がでました。

小さな子どもたちが病気と闘っていた姿を思い出すと、今でも何とも言えない気持ちになります。





今でもときどき、あの時、がんと闘っていた子どもたちのことを思い出します。

病気がなおって、どこかで元気に暮らしていてくれればいいなといつも思います。







私ががんになったとき、私は 自分の病状をきちんと把握したいと思いました。

絶対嘘をつかれるのは嫌でした。



私の母方の祖父も祖母もがんで亡くなりました。

私の叔父(母の弟)も50代でがんになりました。

そして私も39歳でがんになりました。。

そのうえ、私の兄弟もおととし40代でがんに・・・。

そういう意味では私の家系は、がん家系かもしれません。




祖父や祖母ががん闘病していた時代は、今から30年~40年前になりますが、 がんは本人には隠すのが普通でした。

祖父も祖母も、自分はがんではないかと疑いながらも、医者からも家族からも「がんではない」といわれ、疑いつつ死んでいきました。

自分の病状も知らされず、治療法も自分では決めることができませんでした。

医者と家族がすべてを決めていました。

きっと、祖父や祖母も、残りの時間が少ないとわかっていたら、やりたいこともあっただろうと思います。

祖父や祖母は病院のベッドの上で、ただただ、言われるがままに闘病し、死んでいきました。




私はまだ子どもでしたが、子ども心に祖父は自分ががんであることに気づいているのではないかと

思っていました。 

祖父の最後の入院の時、祖父は家を出る前に、家の中をぐるっと感慨深げに見回していました。

まるで、この家を見るのは、もう最後だという感じでした。

おそらく、自分の死期を悟っていたのでしょう。

でも、最期まで、真実を知ることなく、亡くなりました。



祖母は「みんな良くなる、良くなる、と言っているのに、ちっとも良くならない。」と言って、怒っていました。

祖母の怒りは、家族に向けられました。

暴言を吐き、家族を傷つけました。 祖母もきっとつらかったのでしょう。

でも、結局、祖母にも、最後まで真実は伝えられず、本当のことを知らずに亡くなりました。




昔は、がんは不治の病という感じが強く、「がん宣告=死」のイメージがずっとずっと強かったのです。

だから、家族は本人に宣告しない事が多かったのです。

確かに、昔は、今より死ぬ確率も高かったのは事実ですが、今は時代が違います。

今は治療法も開発され、がんと十分闘える時代になってきました。

今は、告知されるのが普通になりつつありますよね。






でも、十数年前私ががんで入院していた時、同じ病室に大腸がんで入院していた方がいらっしゃいました。 その方は最初は、大腸がんであることを家族からも医者からも隠されていました。

ご家族の希望で隠していたそうです。

私が「がんで入院している」と話した時、「まあ大変ね~。 私はがんでなくて本当によかったわ~」なんておっしゃっていました。 

でも結局、その方も手術して体調が戻った後、ご家族から実は大腸がんであったということを知らされたそうです。 手術して、大腸がんを全部とりきれて、転移もなさそうで、ある程度回復のメドがたったので、ご家族が告知したとのことでした。

あの当時は、まだそういう方もいらっしゃいました。






私は、祖父や祖母のように、嘘をつかれるのは絶対に嫌だと思っていました。

自分の病状をしっかり把握し、自分で治療法を決めたいと思っていました。

もし、残された時間が少ないとわかったら、残りの人生をどう過ごすかは自分で決めたいと思いました。




だから、私は最初の告知の時から、絶対本当の事を教えてほしいと担当医に頼みました。

たとえ、絶望的な状況であっても、本当のことを知りたいと言いました。

自分の人生は、自分のもの、 自分の最期もできるだけ自分で決めたいと思っていました。


実際、本当のことを聞いた時は、なかなかショックでしたが、祖父や祖母のように隠されるよりはましだと思いました。

その思いは、今後も変わることはないでしょう。

 


骨シンチという検査知っていますか?

がんは最後に骨に転移するそうですが、その骨への転移を調べる検査です。

早期のがん患者の方は、やらないでしょうけれど、 私はがんが大きく、早期ではなかったので、

8年くらい毎年検査を受けていました。

私のがんが大きかったので、担当医が骨に転移する可能性があると思ったのでしょう。

長い間続けました。



朝早く、薬の名前は忘れてしまいましたが、骨のがんに反応する放射性の薬品を注射し、それが全身にいきわたるように3~4時間くらい待ってから、CTのような検査機で検査します。

この検査を1年に1回行っていました。



骨シンチ検査を受けるために、朝7時半ごろ家を出て、病院に行って、9時頃注射を受け、13時くらいから、検査します。 検査自体は30分くらいですが、会計をしたりしてすべてが終わって家に帰ると、もう16時くらいになっていました。  1日がかりの検査でした。



9時に注射を受けると、13時くらいまで、4時間、時間を潰さなければなりませんでした。 

私は、病院から家が遠かったので、その間一度家に帰るということはできませんでした。

私はいつも病院に近い池袋に行き、デパートやパルコやロフトで時間を潰していました。



よくロフトで子どもたちに送る誕生日カードを探していました。 

私が余命宣告されたら、子どもたちが成人するまでの誕生日カードをまとめて作ろうと思っていました。

私の死後、子どもたちそれぞれの誕生日に1通ずつ、主人から毎年カードを渡してもらおうと思っていました。  そのためのカードをさがしていました。  

毎年、少しずつカードを買いました。   




あとは、洋服をみたり、バックや靴を見たりして時間をつぶしました。 

でも、結局、あの頃は、いつ死ぬかわからない自分の為にあまり物を買う気にはなれませんでした。 

私にしか使えない物を買っても、私が死んだら、ただのゴミになると思いました。 

もし、買うならば、子どもたちに形見として譲れるようなものを買った方がいいと思っていました。 





昼食は、ちょっと奮発して、いつもより高いものを食べました。

がんばって闘病している、自分に対するご褒美でした。


その後検査を受けに病院に戻りました。




そんな検査を8年続けました。

8年がたったころ、担当医から、「もうそろそろ骨シンチやめてもいいかー」と言われ、その後は骨シンチ検査を受けることなく、今に至っています。